複雑・ファジー小説
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- アメ、ハレナシ
- 日時: 2017/05/25 20:31
- 名前: 村田そよ (ID: PCp3bZQ1)
天谷さつきが中学校に行かなくなってから、三日が過ぎた。
畳の部屋。木の匂い。敷布団の上で胎児のように丸まって、ぴくりとも動かない。死んでいるのかしら、と思われるかもしれない。でもそれは、天谷さつきがこの三日間、呼吸と一日のうちの数回の排泄でしか起動しないからだ。生身の人間なのに、電池の切れたオモチャのように微動だにしない。尿意を感じたときだけ、閉じられた目蓋を持ち上げ、ゆっくりと起き上がり、物音たてずにトイレに向かう。そして戻ってくると、また再び丸くなる。そして眠る。
実際には眠っていないのかもしれない。
眠りにつこうとするけれど、ただ目を閉じているだけなのか。それとも浅い眠りについているのか。天谷さつき自身にもよくわからなかった。
初めは、学校に行くことを強要していた母親も、なにも言わなくなっていた。いじめだの暴力だの騒ぎ立てていたが、天谷さつきはどれにも答えず、母親と目すら合わせなかった。
だれとも会わず、だれとも話していない。
必要ないので声を捨てた。
運ばれてくる食事にも手をつけなかったので、体重がすとんと落ちた。体重計に乗ってはいないが、水すらまともに体に入れていないので、それは当然のことだった。
このまま畳に染みていくんだ。天谷さつきの願いは、畳の染みになることだった。肉が腐り、体液が滲み、骨だけになる。そうなる日を待ち望んでいた。肉体ですらいらないのだ。もう、こんな肉体など早く捨ててしまいたい。思考を停止させていたはずが、そういう考えを巡らせていくうちに、だんだん失ったはずの人間味が取り戻された。無機質で虚ろな瞳に一瞬光が走る。そうだ、自分は、まだここにいる。
けれど。
天谷さつきにとって、考えを巡らせることは絶望することに等しかった。
部分的な記憶が蘇り、全身に鳥肌がたち、震えが走る。声にならない声が口から漏れ、目玉から塩辛い水が流れた。
やめて
やめて
やめて
やめて
「やめてよ」
その声が自分のものなのか、他のだれのものなのか、もうわからなかった。
- Re: アメ、ハレナシ ( No.1 )
- 日時: 2017/05/28 16:17
- 名前: 村田そよ (ID: PCp3bZQ1)
01 高瀬春斗
薄汚れた居酒屋の厨房はこの時期やたらとゴキブリが出る。バイトの女の子が悲鳴をあげるたびに、高瀬春斗の名前が呼ばれる。焼いている串を皿に盛りつけ、カウンターの客に出してから、のっそりと奥に行く。バイトの園宮イツカが、現れた春斗の服の袖を遠慮なく引っ張ってくる。
「た、たかせ、早く……早く!」
春斗より8歳年下だが、イツカは春斗を呼び捨てで呼ぶ。それに関して春斗はまるで気にも留めていない。周りの方が「あいつらデキてんじゃね」と勝手に噂をするぐらいだ。普段は男勝りなのに、虫(特にゴキブリとセミ)が嫌いなイツカは、このときだけ可愛い反応をする。ただ引っ張る力はものすごく強い。
皿が陳列している棚のすぐ下にそいつはいた。よく太っている。春斗もべつにゴキブリが得意なわけではない。実を言うと潔癖なところがある春斗は、この居酒屋で働くのも最初は戸惑っていた。店長に大きな借りがあるので、口が裂けても言えないが、正直、汚い。油の匂い、焦げた鍋のべたつき、客の吸う煙草で変色した壁……。来る客も決して素行の良さそうな者たちではない。最悪なときは床に嘔吐物をぶちまけてそのまま帰る人もいる。明らか嫌な顔をする店の者だが、春斗は表情があまり変わらない。淡々としているとよく言われるけど、その通りである。
顔色を変えずに処理をする春斗を見て「こいつはできる」とイツカを含め、他の従業員も思ったのだろう。いやな仕事がやたらと回ってくるようになった。
新聞紙を丸め、狙いを一点に定めて、恐怖心を捨て去る。無心になるのが肝心なのだ。そのまま振り下ろす。「ひいっ」というイツカの乾いた声が背後から聞こえた。新聞をちぎって、腹を見せて転がっているゴキブリの死骸をくるみ、ゴミ箱に捨てる。そして小さく息をついた。
「そんなところに捨てないでよ」
「わざわざ外に捨てに行かないでしょ」
「店の中にゴキがいるってだけで、鳥肌がたつんだけど」
「それ店長に言って」
平日の晩は客が少ない。空いている席の方が多い。仕事帰りのサラリーマン3人組(常連でよく顔を見る)と、カウンターの奥でちびちび日本酒を飲む老父、そして大学生ぐらいの女子4人のグループ。
春斗はその女子たちの座るテーブルをちらっと見た。すでに料理は運ばれており、ケラケラと楽しそうに笑う彼女たち。店に来て30分は経過している。
彼女たちが入ってきたときから、春斗はそのなかの一人の女に見惚れてしまった。
華奢できれいな女だった。青い血管が透けるほど白い肌は傷ひとつなく、まるで蝶々の薄羽のようであった。ほとんど化粧をしていないように見えるが、厚くて小さい唇はほんのり赤く、色気がある。鎖骨までの髪は黒く艶やかで、手触りもいいことが伺える。周囲をぼんやりと眺めて、会話の輪に混ざろうともしない様子は、賑やかな彼女たちのなかでは浮いていた。だが本人は気にしていないのか、心ここにあらずといった感じで、甘い酒を舐める程度に飲んでいた。酒に弱いのかもしれない。正直、酒が飲めるほどの年齢にも見えない。下手をすれば高校生ぐらいの風貌だ。
隣に座る女たちを見る。派手な化粧。露出の高い服。吸いかけの煙草を指で挟み、灰皿に灰を落とす。本当に連れなのか疑わしいが、華奢な女にときどき話しかけ、女も少し笑って返事をするのだから、友人なのだろう。
派手な女たちはそれぞれが頼んだ料理を真ん中に置き、小皿に分け合いながら食べていた。華奢な女以外はビールを飲んでいた。
「なんか雰囲気の違う子だよね」
背後から声をかけられ、肩が震える。春斗の顔を見上げ、イツカがにやりと笑った。
「ずっと目で追っている。わかりやすいんだから」
「いやいや……。その察しがいいの、どうにかならんのか」
「高瀬はポーカーフェイスだからね」
イツカはよく人間を見ている。観察しているのだと、本人も公言している。まだ20歳だが、人間のちょっとした仕草や表情の変化、目の動きや言動の矛盾に気づき、隙あらば相手の内側を読み取ろうとしてくる。厄介な女だ。今となっては春斗も諦めているが、最初は自分の気持ちが容易くイツカにわかってしまう、あるいは、自分の心に穴があいて、見えない煙のように宙を漂い、イツカに漏れてしまっていることに少し息苦しさを感じていた。今まで感じたことのない息苦しさだった。もちろん、イツカはそれも見抜いていたが。
- Re: アメ、ハレナシ ( No.2 )
- 日時: 2017/06/10 10:14
- 名前: 村田そよ (ID: PCp3bZQ1)
カウンターに座る老父が会計を済ませて帰っていく。時刻は21時を過ぎていた。そのほかにも客は数組やってきたが、ちびちびと酒を飲んだり、簡単な夕飯を食べたりして、特に長居するでもなく店を後にした。
やがて22時近くになり、サラリーマンの男たちもほろ酔いで帰っていった。
残ったのは、大学生女子4人組。化粧の濃い女3人と、清潔感と憂いを漂わせる女1人。春斗は休憩中、厨房の奥で煙草を吸いながら、じっと女たちの会話を聞いていた。
「なんか良い出会いとかないのかな。マジでこのままだったらやばいよ、アタシら」
「ほんっとうよ、それ」
「いやいや、あんたたちまだ若いじゃん。二十代突入した私の気持ちも考えてよ」
「でもふたつか、ひとつでしょう」
洗い物をしていたイツカが奥にやってきた。ものすごい形相で春斗を睨みつける。女子グループの会話を耳にしたのか、周りに見えないように指でテーブルのほうを指し示した。
「明らかに未成年じゃん。年齢確認してよ」
「俺は嫌だわ〜。うざいじゃん。そんな店」
「ダメ大人!」
春斗自身、高校生のころから飲酒と喫煙をしていたので、いちいち年齢確認をする店を疎ましく思っていた。会話から察するに、彼女たちは若く、全員恋人がいない。派手な容姿なので寄ってくる男はいると思うのだが、どうにも理想が高そうだ。なにも言おうとしない春斗にため息をつく。苛立ちを隠そうともしないイツカは、これまでも何度か客と揉めたことがある。芯が通っていて、通り過ぎていて、曲げられないのだ。ポキリと折れることもない。その真っすぐさゆえに、相手は自分が負けなければ終わらないという気持ちにさせられる。
春斗はそうはなりたくない。
負けとか勝ちとか以前に、イツカのような人間と真正面からぶつかるのは面倒だ。プライドや意地をあっさりと捨てて、ダメな大人だと言われても、流している。どれだけ客と揉めても、最後には「姉ちゃん、肝が据わってるなぁ!」と相手に気に入られるのも、イツカの美徳だろう。本気でぶつかった相手は、心を開いてくれるという、熱血な思いを持っている。熱すぎる。そして、眩しすぎる。
これはそろそろ彼女たちに一喝するのでは…………と、先を思いやっているときだった。
「お会計、お願いしまーす」
レジに彼女たちがいた。さほど酔ってもなさそうだった。イツカがレジに行くのを手で制し、文句を言うため口が開かれる前に、静かに春斗が向かう。
先頭に立つ若い女がまとめて支払った。口臭ケアのために無料で置いてある飴を、あとの3人に配る。春斗は「どうも」と軽く言い、ちらっと一番後ろの女を見た。
頬がほんのり赤くなっている。相変わらずぼーっとしているけど、その目がどこか焦点があっていないことに気づいた。ああ、やばいなと春斗が勘づいたとき、その細い足が一歩を踏み外し、いとも簡単に崩れ落ちる。
「さつき!」
周りにいた2人が慌てて腕を支える。その腕も折れてしまいそうだった。
「ちょっと飲みすぎたんじゃない?」
「表情変わらないから、ぜんぜんわからなかった」
「歩ける?ねぇ、大丈夫?」
イツカも奥からビニール袋と、水の入ったグラスを持って出てきた。
とりあえず近くの椅子に座らせる。力なく頭が揺れた。
春斗はイツカからグラスを受け取り、遠慮なく女の下あごを手で挟む。強制的に開かれた口に、水を注ぎこんだ。ごくりと飲み込む。そして、素早く春斗がビニール袋を口元へ持っていき、そこに大量に嘔吐した。
女たちが数歩下がる。イツカは吐いている女の背中をさすりながら、「タクシー呼ぶ?」と春斗に尋ねた。連れの女たちはこういう場面にあまり慣れていないのか、ただ狼狽えているだけだった。
一通り吐いたあと、女は力なく椅子にもたれる。
春斗は振り返り、「この子、家近いの?」と尋ねた。
「ああ、はい……。えっと、タクシーで10分ぐらいのところだったかな……」
「でも、あたしたち、さつきの家知らなくて」
「私も詳しくは知らないわ。アパートで一人暮らしだったよね」
「ああ、うん。……でも場所わからないし」
「だああああ、もう!」
イツカが大きい声をあげ、彼女たちが眉間にシワを寄せる。
「連れの家も知らんのかい!いいよ、わかった!あんたたちはもう帰りな。私と高瀬でなんとかするから。私の家に連れて帰ってもいいし」
男前すぎる。
春斗は深くため息をついた。
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