複雑・ファジー小説
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- Fade away
- 日時: 2017/10/29 22:11
- 名前: TAKE (ID: v/i8ZIg5)
もしも、ある日突然脳が異常をきたし、記憶力が著しく低下してゆくとしたら。
それも自分だけでなく、その症状が人から人へ拡大してゆくとしたら。
その時人々は何を考え、どう行動するのか。
社会はどのように変容してゆくのか。
近年の医学において、実際に起こってもおかしくないとされる仮説を元に、徹底的にリアルを追及したSF作品です。
- Fade away ( No.1 )
- 日時: 2017/11/18 00:27
- 名前: TAKE (ID: 6FfG2jNs)
プロローグ
2013年1月、ロンドン大学病院。
ガラス張りの近代的なビルの中で、ニック・ウォルターは87歳の誕生日を迎えたが、同時にそれが彼の命日となった。
脳科学の権威として知られていたウォルターは、自身の研究分野でもあったアルツハイマー病を2年ほど前から患っていた。死後その肉体を提供し、更なる研究に役立てることを望んでいた彼の遺体は、遺言にならい、生前の勤務先であったマンチェスター大学の研究チームに送られた。
「複雑な気分だよ」
研究員のブルーノ・ファインズは語る。「生前の彼をよく知っているからね。分からないことを尋ねると、記憶の図書館から分厚い資料を引っ張り出して、一瞬で答えを引き当てるんだ」
浅黒い肌に際立つ碧い瞳が揺れる。彼が博士課程を大学史上最速で修了し、24歳という若さでチーフスタッフの座に就いたという功績は、ウォルターの力無くしては得られないものだった。「この手で彼の頭蓋骨を開いたんだ。責任は重いよ」
彼の言葉をボイスレコーダーに収めている記者のクレア・マッケンジー自身も、過去に二度ほど、ウォルターへ取材を行ったことがあった。
「お気持ち察するわ」取材を終えると、彼女はブルーノの手を取った。「良い研究結果を聞かせてくれる事を期待してる」
「もちろんだ」彼は頷いた。「あのウォルター博士でもアルツハイマーにかかる事が、僕にとってはショックだった。必ず解明に繋がる発見をしてみせるよ」
2年後、ブルーノ率いる研究チームは、ウォルターの遺体の解剖結果から、アルツハイマー病に対する新たな説を見出した。
これまでアルツハイマー病は、脳内での老廃物の蓄積による神経細胞死によるものだとされていた。原因となるのは主にβ蛋白質、他にもアセチルコリン、グルタミン、酸化ストレス等、様々な老廃物による細胞死説が提唱されてきたが、ブルーノが見出したのは新たな視点からのアプローチだった。
微生物による、感染症を原因とした発症だ。
「蛋白質やグルタミンが、それも蓄積されてるといえどごく微量の影響で、脳細胞が死滅するとは考えられない」ブルーノはそう名言した。
これまで原因とされてきたアミロイドβ蛋白等の老廃物は、脳が微生物と格闘した末に残った空薬莢だ。そう考えればつじつまが合う。
今までにも、ヘルペスウイルスを原因とした発症説が唱えられたことはあったが、明確なメカニズムの発見には至らなかった。
ウォルターの遺体の他にも10人のアルツハイマー病患者の検体、そして更に10人の非発症者の検体からそれぞれ抽出したサンプルを調べた結果、アルツハイマー病患者の脳内には100%の確率で、非発症者には無い真菌の感染が確認された。
「ウォルター博士には申し訳ないが、この説が間違いである事を祈りたい」
国際研究チームに論文を発表した際、ブルーノはそう言い添えた。「もちろんこれが正しいとすれば、今までに類を見ないほど効果的な治療法が確立されることになる。しかし同時に、この説が意味するのは、アルツハイマー病のパンデミックが起こりうる可能性があるという事だ。あくまでも極論だが、物忘れという名の感染症が拡大すれば、社会の機能は停止し、文明の崩壊に繋がる事も考えられる。そんな危険をはらんだ仮説だ」
この説をもとに、世界人口を対象とした2013〜2050年までに予測される認知症患者の増加推移を調査した結果わかったのは、導き出されたグラフが世界の感染症増加推移と酷似しているという事だった。
3か月後、国際研究チームは、アルツハイマー病が特定の微生物によって発症することを定義づけた〝声明〟を発表した。
- Re: Fade away ( No.2 )
- 日時: 2017/11/01 20:40
- 名前: TAKE (ID: /jbXLzGv)
1.
「アルツハイマー対策として、大豆食品、乳酸菌の摂取を……。これ、逆効果だった気がするんだが、確かか?」
Nature誌ニュース部門の明るく開放的なオフィスでは、ひっきりなしに社員が出入りしている。
校欄担当のスタン・ハワードは眼鏡をずり上げ、サンプル記事を提出してきたジョシュ・マードックの顔を見上げて眉をひそめた。
「時代と共に化学も変わるもんだよ」ジョシュは彼のデスクに置かれている塩基モデルの模型をいじりながら言った。「以前は脳を萎縮させる作用があるといわれていたが、最近になって真菌感染予防としての効果が注目されてきてる」
「真菌感染?」スタンは早速、プリントアウトした記事にマーカーを引き始めた。「そういえば、認知症研究についてそんな発表があったな」
「たしか、前にクレアが担当した研究員の発見が始まりだ」ジョシュはスマートフォンを取り出し、声明発表の記事を検索した。「ウォルター博士が亡くなった時に、取材した関係者の一人だ」
検索した画像には、脳科学の国際研究員と共にブルーノの姿があった。白髪の混じる中年男性に囲まれた彼は、親戚の家に招かれた子供のような佇まいだった。
「彼女、博士のファンだったもんな。たしかクレアの母親もアルツハイマーを患っていたとかで、いろいろと助言をもらっていたらしい」スタンはマーカーを引き終えると、パソコンの画面に向かい、修正を始めた。「事故の件は残念だった」
クレアの母親が自動車事故でこの世を去ったのは、去年の暮れの事だった。真夜中に自宅から抜け出し、裸足で徘徊していた彼女は、赤信号の交差点をフラフラと彷徨っているところを自動車に追突された。即死だったという。
「今回はたまたま他の案件が重なっていたから俺が取材したが、続報が出ればクレアに引き継ごうと思う」ジョシュは言った。「彼女もそれを望むはずだ」
「誰の噂?」後ろから声をかけてきたのは、件の人物だった。
「やあ、クレア」スタンは彼女の手元にある書類に目を止めた。「人工幹細胞の記事、出来たんだな。今はジョシュのをやってるから、そこに置いといてくれ。それか、多分マックスが手空きのはずだから、そっちに投げてくれてもいい」
「あなたに頼むわ」クレアは書類をデスクに置いた。「彼、二日酔いみたいだし」
もう一人の校欄担当のデスクには、サングラスと気付け薬がこれ見よがしに置いてあった。
「引き継ぎの件、お願いね」彼女はジョシュの肩に手を置いた。「今回みたいに指名が入らない限りは、必ず書くわ」
「約束する」彼はクレアの顔の前で、右手の人差し指と中指を交差させた。
「信心深いのね」
「理系人間だって、科学以外のものも信じるさ」
幼少の頃、毎週日曜に教会の集会へ連れて行かれることが苦にならなかった彼は、聖書の章節を言えばその場で暗唱出来る。
「深いって程でもないがね。婚前交渉は大歓迎だ」
わざとらしく厭味な表情を作ったジョシュの額を、クレアは指で弾いた。
「いてっ」
「誰もそんなこと聞いてないわよ」
「手厳しいね」
TTF・インダストリーズでは、次世代のAI産業開拓に向けた準備を進めていた。
「人々は皆、思い出の保存を外部記憶に頼るものだ」
自社ビルの多目的ホールに集まったおよそ500人の観衆の目線は、一人の男に向けられていた。
黒のポロシャツにデニムというシンプルな服装で、株主総会の舞台に立つCEOのサム・ギャリーは、そこで開発中の技術について触れた。
「誰もが写真や映像を撮り、または音のみを録音し、それらをパソコンやスマートフォンに保存し、SNSへアップロードして共有したりもする。だがそれらの思い出は、その瞬間に手持ちの機器を用いてマニュアル的な動作を以て収めなければならない。本当に大切なこと程、その時に聞いた言葉を自身の内部記憶の片隅に置いているだけで、知らず知らずの内に忘れてしまう。その結果、言った言わないのいざこざが起きる」
TEDのスピーチさながらのパワーポイントが、バックのビジョンに映し出される。
「ではどうすれば、それを防げるのか? フリオ、次の画像を頼む」
ビジョンには、人間の脳が映し出された。
「解決方法は、いたってシンプルだ。脳の表層に直径約15ミクロンのICチップをインプラントし、目で見た映像、耳で聞いた音を保存する。脳自体をメモリーとする為、容量は無制限。何かを思い出そうとすると、チップが検索を行い、海馬に適切な刺激を与えて対象の記憶を呼び覚ます。更に研究が進めば、外部端末によって記憶を映像化した出力も可能になる。現在プロトタイプの実験をマウスによって進めているが、副作用は出ていない。ナノテクノロジーが不可能を可能にした」
その言葉とともに、ビジョンには家族やカップル、老夫婦の映像がスライドショーで映し出された。
「大切な記憶を文字通り逃さず保管するこの技術は、これからのメディアや医療シーンに革新をもたらす事が期待出来る。今こそ未来に触れる時(Touch The Future)だ」
観衆の株主からは、大きな拍手が巻き起こった。
インプラントメモリーの実用化に至るまでの壁は高い。
株主総会を終え、社内の個室デスクで一息ついたサムは、スピーチ原稿を消去した。
実用化を成し遂げるには、技術の進歩はもちろん、法的な問題もカバーできなければならない。
記憶することを機械に任せるということは、学業において優劣を付けることが出来なくなるということだ。その為この技術が普及するには、未成年の就学者に対しての施術を禁ずる旨の法整備が必要となる。
また未成年に限らず、社会に出た後の就労環境にも変化が生まれる。労働者の能力が全体的に向上すると、インプラントを行っていない者に対する差別が生まれるという懸念もある。
常識を覆すという行為は、並大抵の苦労ではない。
ジョブスがパーソナルコンピューターを開発したアナログ時代とはわけが違うのだ。世界中でインフラが整備され、技術革新と銘打ったマイナーチェンジが繰り返される時代に、真に新しいモノを生み出す。それが出来れば、新たな時代の生みの親となれる。今の経営者にとって必要なのは、人々に流されないフロンティア精神であり、それを保持する源となるのは「孤独」であると、サムは考えている。何物にも同意を示さず、反旗を翻し、人に嫌われる事を恐れない性格が、彼にとっての誇りだった。
「フリオ、この後のスケジュールはどうなってる?」
誰もいない個室で、彼はそう呼びかけた。サムが唯一信頼している秘書AIは、24時間衛星と通信している。彼が所有するパソコン、タブレット、リストバンドにクラウドで同期しており、音声に反応して日々の体調管理から経理作業までを一括してサポートする。
『午後にはマイクロソフトのエージェント、ドナルド・カーター氏とランチが入っており、15時からはNatureのインタビューが入っています』
「ランチ? そんな予定いつ入れたんだ」
そう口について出たところで、先週開催されたレセプションの時に口約束した事を思い出した。
『キャンセルしますか?』フリオは気を利かせて問いかけた。
「ああ、頼む。時間の無駄だ」買収話を持ちかけようという魂胆は目に見えている。なぜそんな見え透いた「流れ」に乗ってしまったのかと、彼は自分に腹を立てた。
『取材の方は?』
「そっちは構わない。質問を想定した原稿を作っといてくれ。インプラントメモリーの話は抜きでだ」最新技術は、完成するまで公表出来ない。
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