複雑・ファジー小説

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裂才
日時: 2018/07/28 21:44
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: MHTXF2/b)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19504

れっさいと読みます


中〜短編集です
Twitter @delayed___


1 マイちゃん、全部夢 >>1
2 5000円の恋人 >>2
3  墜落、ハイライト、婚約指輪 >>3
4 自殺 >>4
5 目も眩む空色 >>5
6 一瞬の夢 >>6
7 慰霊 >>7
8 夢の跡地(10代への遺書) >>8

(2、4〜7は、浅葱游さま、ヨモツカミさま主催の小説練習企画、『添へて』に寄稿したものです。)

Re: 裂才 ( No.1 )
日時: 2018/03/01 19:05
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: EM5V5iBd)

【遺書】

 この度私が、命を絶つに至った経緯を説明します。今私の目の前には缶ビールと、睡眠薬のマイスリーと、タバコの吸殻が転がっています。最期の言葉を綴るにはあまりに不似合いな場所ですが、私という人間が生きた、不器用な人生をそのまま写しているようで、私には、とても心地が良いのです。ですから、ここでお別れの言葉を書かせていただきます。
 いつからか私は病気になっておりました。それが三歳の頃なのか、小学生に上がってからなのか、中学に通うようになってからなのか、私にはわかりませんが、とにかく知らぬうちにそれは私を蝕んでいきました。希死念慮は知らぬうちに大きくなっていきました。私は父にも母にもあまり迷惑をかけない、静かな子供であったと記憶しております。学校でも何か悪さをしたことはありません。ただ自分の意見を言うのが苦手だったため、快活で、なんにでも興味を示し、飛びついていくような同級生の子達と比べ、後回しにされることが多かった気がします。教師も両親も、その他の大人も人間ですから、自分を慕ってくれる子供が、素直に可愛いのです。私は教室の隅で、たくさんの生徒に囲まれる先生を見ていました。そこに憧れや嫉妬などはなく、嗚呼、私はこれとは違うのだなあ、とただ思っていました。
 人付き合いが苦手でした。中学、高校と私は通わせていただきました。勉強は、よく出来るというわけでもありませんでしたが、だめというわけでもなく、その点でも私は両親を困らせることはありませんでした。ただ、私には学友がひとりも居なかったのです。年頃の娘が、休日おしゃれをして出かけるような真似を全くしないことについて、父や母は、今まで薄々感じていた、娘の周りとは少しずれた性質を、はっきりと感じるようになったかと思います。ふたりとも、口出しはしませんでしたし、何よりも娘が「普通」でいることを望んでいたので、異常と診断されるのを恐れ、カウンセリングなどにも行きませんでした。一人で登校し、授業を受け、一人で昼ご飯を食べ、一人で帰っていたあの日々は、灰色の思い出です。
 高校でも周りとの断絶を感じながら暮らしていました。ただ、私の日々を大きく変えたことがありました。思春期に入った周りの生徒達が盛り上がる話題は、おおかた恋愛のことでした。私には縁のない話だと思っていましたが、偶然、夜、駅前でぼうっとしていたら、父より少し年下くらいの男性に声をかけられたのです。君、すごくかわいいね、と。
 私にとっては革命でした。その人が唯一私を無条件で認めてくれたのです。嫌悪感などはありませんでした。手を握られ、ホテルが沢山ある方へ向かいました。ネオンはキラキラと輝いていました。綺麗だね、こんな子とできるなんて、と隣で男性が言葉をこぼす度に、私は嬉しくなりました。私って、この人にとっては、すごく大きな価値があるんだと知りました。初体験に特別な感想はありません。ただ、私をこんなにも欲してくれる人がいるという事実で、すべて満たされておりました。しかし行為が終わるとその人はとたんに冷たくなり、少しのお金を置いて、私がシャワーを浴びている間に出ていってしまいました。
 それからは、夜の街に繰り出し、男性に声をかけられることに、夢中になりました。少し話をして、ホテルに行き、行為を終えるまで、私はその人に本当に必要とされ、愛されています。友達のいない私は、些細な会話さえうまくできませんでした。相手を困らせることも沢山ありました。しかし、体を差し出しさえすれば、相手は私を嫌いになったりしません。むしろ、求められてさえいるのです。全てが終わって別れる時、私は一番寂しさを感じました。お金なんていらないから、一緒にいてほしいと心の中で願いました。少し遅く家に帰るようになった私を見て、両親はやっと友達ができたのか、と安堵していたようですが、私は両親の望む普通になれなかったどころか、地の底まで堕ちていたのです。この生活は、お金だけが増え続けていきます。あまり高価な買い物をすると不審に思われるので、毎日CD店に通い、片っ端からレンタルをしました。学校ではいつもイヤホンを片耳にさしていたので、聴ける音楽が増えていくことは、単純に嬉しいことでした。
 大学は両親に決めてもらったところに行きました。興味本位で参加した新入生歓迎会で、私は酒を覚えました。今まで押し黙って、隅に座っていた私が、酒が入ると、少し、少しだけですが、人と笑いながら話せるようになりました。それは私にとっての第二の救いでした。結局私はどの団体にも属すことはありませんでしたが、酒は、私という生き物を変えていきました。
 家で一人で缶ビールを飲んでいる時が幸せでした。その頃も変わらず援助交際は続けていたので、少し高い酒を買ってみたりもしましたが、結局は手頃に酔えるものが好きでした。ふわふわして、記憶がなくなって、私が私じゃなくなる。根暗でつまらない人間の私が、変われる。とても気持ちのいいものでした。気付いたら朝になっていて、二日酔いの重い頭で大学に通いました。通っていましたが、途中で行かなくなりました。大学とは逆の方向へ向かう電車に乗り、昼間、公園のベンチに座り、コンビニで買った酒を飲んでいました。こんな時に友達でもいれば、お前は何をやっているんだと叱ってくれるのかも知れませんが、生憎、ここまできても、ついにできませんでした。当たり前のことでした。
 そのせいで今は進級すらできません。部屋でひとり、寝転がっていると、なんのために生きているのかわからなくなります。とうとう押さえ込んできた恐ろしい病気が頭角を現し始めました。不眠症から始まって、朝から晩まで絶え間なくやってくる希死念慮、アルコール依存なんかのせいで行けなくなってしまった大学、気付けばすごく汚れてしまった体の私。すべて自業自得です。すべてなるようにしてなった結果です。
 もう私は、生きていてもしょうがありません。
 私より追い詰められた人などこの広い世には沢山いるでしょうが、けれども私は、明日が来ることが怖くて、今日も布団の中で震えているのです。この悲しみに耐えられないのです。この泣き言を甘えと言うならば、甘えでもいいから、ここから逃げさせてください。それほどまでに苦しいのです。未来は何も見えません。過去にも何もありません。ただ真っ暗の生活がこれからも続くことが、死ぬことよりもずっと怖いのです。
 不出来な娘でごめんなさい。どうか許してください。私は、もう、一刻も早く、楽になりたいのです。死ぬことが私にとっての最大の幸せです。どうかお元気で。棺桶には、私が昔好きだったクッキーを入れてください。

Re: 裂才 ( No.2 )
日時: 2018/06/27 01:22
名前: 三森電池 (ID: 9AGFDH0G)

 彼女はいつもと変わらない、甘い匂いをまとっていた。
 なあ、どうしてこんな仕事をしているんだい、とは聞けなかった。傷んだ茶髪と安っぽいワンピース、ベッドの脇に放り出されたボロボロのブランドバッグが全てを物語っているような気がしたからだ。ドアを開けて入ってきた彼女は、ぼくの顔を見て驚いたように大きな瞳を見開いたが、すぐに笑顔に戻って、ぼくの知らない名を名乗り、隣に座ってきた。百二十分でよろしいですね、と、昔よりも随分化粧の濃くなった顔でぼくを見上げる。その引き攣った笑顔に、胸が痛む。
 甘い香水の匂いだけが昔のままだった。ぼくと彼女は、とても衝動的に別れたので、その後の動向などはまったく掴めていなかったが、二年の間にいったい何があったのか。ただ無気力な大学生だったぼくとは違い、彼女は芸術の大学に通い、将来やりたいこともはっきりと決まっていた。それは決して雲をつかむような夢ではなく、実力も才能もある上に努力を惜しまない性格であった彼女なら、ほぼ確実に成し得たであろうものだった。
 あの大学は辞めてしまったのか。そういえば、とことん馬の合わない教授がいて、よくぼくに愚痴をこぼしていたっけな。今もあいつは、生徒の作品に尽く理不尽な文句を吐いて回っているんだろうな。
 違う、こんなことを言いたいんじゃない。ぼくは、こんなことを言うために縁もなかった風俗店を予約して、昔付き合っていた彼女を指名したわけではない。
 居心地の悪い沈黙の中、ラブホテルのBGMだけが控えめに流れている。
 彼女の方も、とっくにぼくの正体に気づいている。それでも健気に、シャワーを浴びましょうと擦り寄ってくる。それが仕事だからだ。このホテルを出ない限りぼくは、昔付き合っていた恋人ではなく、客でしかない。
 彼女の腕を掴んだ。二年前より随分と痩せ細っていた。

 「どうして、こんなところで働いてるんだよ」

 彼女はやはり困ったような顔をした。ぼくだって困っている。どうして救ってあげられなかったのだろうと思っている。付き合っていた頃、ぼくと彼女の間に肉体関係はなかった。それはお互いがはじめての交際相手だったこともあるが、彼女は結婚するまで綺麗な体でいたいと言っていたので、ぼくはそれを尊重した。就職活動を頑張って良い会社に入ってたくさん稼ぐから、早く結婚しようとぼくが言うと彼女は嬉しがって笑っていた。そんな記憶ばかりが蘇ってくる。
 彼女は、すぐに作り物の笑顔に戻り、ぼくに言った。

 「留学しようと思って」
 「うそだ。そんなこと言ってなかっただろ」
 「二年も経てば人の気持ちなんて変わるものだよ」

 甘い香水の香りは昔のままで、それだけが二年前の名残だった。そしてぼくは、未だ二年前の彼女を追い求めている。変わってしまった彼女が、悲しげにぼくを見ている。
 それは本当かともう一度聞いた。本当だと彼女は言った。なんのための留学だろう。伸びた爪とネイルアートを見る限り、前のように芸術に真剣に取り組んでいるとは思えなかった。

 「そんな顔しないでよ。私をわざわざ見つけて、指名したのはきみでしょ」

 ぼくは、大学を卒業して普通のサラリーマンになった。就職活動は同期の中でも比較的上手くいった方で、稼ぎこそそれほど良くないものの、安定した生活を送っている。このまま行けば、あと数年後には家庭も持てるだろう。その時隣にいるのは彼女ではない。じゃあ彼女は、どうなるんだ。
 余計なお世話であることは、指名した時から自覚していた。ただ一言、やり直せと言いたかった。まだぼくらは二十代の前半だ。修正なんていくらでもきく。

 「・・・・・・無責任なこと、言うんだね。きみと別れて私は、自暴自棄になって体を売って、芸術の才能もないって言われて大学も辞めたのに」
 「・・・・・・」
 「きみは立派な社会人になれて、よかったね。私はこんなんだから、もうまともに働けないし結婚もできないよ。三十になるまでたくさん稼いで、世界一周旅行でもして、そのまま、死ぬつもり」

 あぁそうだ、留学なんて話は聞かなかったが、世界一周旅行がしたいというのはたまに聞いていたな。
 ぼくは彼女から目を逸らした。救ってやれなかったのはぼくだ。当時はお互いに足りないところがあって突発的に交際を解消するに至ったが、こんなになってしまうなら、せめて、その後気にかけてやればよかった。死ぬつもり、と至極明るく言った彼女は、もう人生を諦めていて、彼女が死んでもぼくは気付きもせず生きていくんだ。ぼくらが一緒に過ごした時間など、そんなものだったのだろう。彼女からは甘い香りがする。ぼくらはこのホテルを出たら、別々の道を進んでいく。無意識のまま、ごめんと口に出していた。

 「ねえ、そうやって同情するなら一緒に死んでよ、ここで」

 そう言うと彼女は、薄いカーディガンのポケットからライターを取り出した。
 ぼくにはそれを止められなかった。目の焦点すら合っていない彼女が、もう殺してくれと懇願しているように思えた。彼女が持つピンク色のライターに、ぽっと小さな火が灯る。彼女を止める権利などぼくに無いように感じた。
 でも、ぼくはまだ生きたかった。
 殺される。そう確信して、ベッドの横にあった自分の鞄を手に取った。人間、窮地に追い込まれると恐怖で何も出来なくなるものだと思っていたが、火事場の馬鹿力とでもいうものなのか、案外簡単に彼女から距離をとることができた。ソファーの上に一人残って、傷だらけになってしまった手首にライターの火を当てる彼女は、ぼくを見て、さいごに、嘘つき、と言葉をこぼした。泣いているように見えたが、ぼくにはそれをちゃんと確認する余裕はなかった。
 逃げるように部屋を出た。律儀なことに、部屋に入る時渡された鍵がきちんと手に握られていた。

 「きみは、真面目だからねぇ」

 記憶の中の彼女がそう言って笑う。こんなの今更思い出してなんになるんだ。もう彼女はぼくのものじゃない、いつも甘い香りをまとっていた、素敵な彼女じゃない、消えろ。
 ラブホテルの狭い廊下をしばらく無心で歩いて立ち止まり、改めて一連の流れを思い出すと、体がぞくりとした。死んでしまうかもしれない。しかし不思議なことに罪悪感はあまりなくて、それはぼくもぼくでおかしな人間で、恐る恐る振り返ってみても部屋のドアは開かないし、煙が出ているとか異臭がするとかでもない。どうか死なないでくれと願った。まともに生きているぼくに、あらぬ被害が及ぶのはごめんだ。気付けば彼女の事ではなく、自分の保身ばかり考えている。もう彼女は、ぼくには救えないことを痛いほど知る。ぼくがあの部屋で何をすればよかったかがわからない。そもそも興味本位で元彼女の情報を探り、風俗店で働いていることを知り、指名してみたのが間違いだった。何かが変わると思っていたのはぼくだけだった。
 エレベーターのドアが、ゆっくりと閉まる。下へ向かって動き出す。
 無愛想な受付に鍵を返してホテル代を払った。この辺は安い風俗店が多く、ひとりで部屋に入る男性客もたくさんいるので、特に怪奇の目では見られなかった。自動ドアの前で一組のカップルとすれ違い、互いに見ないふりをして歩き去る。外に出ると、冬の冷たい風が体を包みこむ。そういえば、コートを部屋に忘れてしまった。
 街は喧騒に満ちている。馬鹿騒ぎをする若者達が、ぼくのすぐ前を通り過ぎていく。念のため、もう一度振り返って部屋の方を見てみたが、発煙してはいなかった。彼女が生きているのなら、その安っぽいワンピースだけで夜道を歩くのは寒いだろうから、ぼくが忘れてしまったコートを着て帰ってほしいと思った。そして、寒さを少しでも凌いで家に辿り着けたら、すぐに捨ててほしい。かつて付き合っていた冬の日、薄着でデートに来た彼女にぼくの気に入っていたマフラーを巻いてやったら、あったかいねと笑顔を浮かべていた。彼女はあの時も、甘い匂いをまとっていた。

Re: 裂才 ( No.3 )
日時: 2018/06/27 16:25
名前: 三森電池 (ID: 9AGFDH0G)

 今日は少し雪が降っている。凍えた指先に吐息を吹きかけても、氷のように動かない。
 昔はこれ以上寒くても、平気だったのに。ふいに蘇ったのは高校のときの思い出。指が触れるか触れないかくらいの距離感で隣を歩く、大好きだった彼女が、あの頃は体温も、頭の中の温度も上げてくれていた。好きなバンドの話をしながら、歩いて、通学路の途中で、いじらしく指を絡めてきた彼女は、きっと世界一可愛かったし、今でもその頃の僕は世界一幸せだったと思っている。
 地面が凍っている。危うく滑りそうになって、かっこ悪くて舌打ちをした。この夜のせいか、落ちた視力のせいか、足元もろくに見えないんだな。金曜の夜の街は眩しくてうるさくて、泥酔した女性が道に膝をついて何か叫んでいるのを、周りの人もまったく気にしない。邪魔だな、と思った。地面に散らばった、花束だったものが悲しさを漂わせていた。
 キャバクラとピンクのホテル、危ない建物。この街は彼女が好きだった。「お金が貰えるからだよ」と肩をすくめて笑った。高校生のくせに、彼女の財布には、驚くほどお金が入っていた。
 懐かしいな。今日はタバコでも買って帰ろうか。昔と違って、もう彼女も夢もないんだ。たまには昔の栄華に浸りたい。そうでもしないと、明日が来るのが怖くてうまく眠れない。
 酔っぱらいが上手く歩けなくなっているのを支えている、若いスーツ姿のお兄さんは、たぶん僕と同じくらいの年だ。困ったような顔で上司を引きずっている彼は、それでも少しだけ嬉しそうだった。彼も酔っているのだ。後ろで女性社員がふたり、人目も気にせず彼氏の話をしている。立ち止まって、それをしばらく眺めていると、やけに顔が整っている、ショートヘアーの女性が泣き出した。もうひとりの、特にコメントのつけようがない女性が肩を抱いて一緒に泣く。どこにでもある風景だった。
 定職がある人間は、こうして安心して遊び歩けていいな。数秒の間、劣等感で頭が痛くなった。彼らは僕を笑っている。
 今日は少し雪が降っている。ライターの炎であったまろうと思って、路地裏へ足を運ぶ。うるさい場所は嫌いだ。
 この街の路地裏は、明らかに危険そうな薬の空き袋が捨ててあったり、割れたビンから緑色の液体が垂れていたりする。一週間くらい前にパチンコで十五万負けたとき、駅のトイレまで間に合わなくてとうとう吐瀉物をぶちまけたのもここだった。明るい街では拒まれる行為が、ここではすべて許される。さすがの彼女も、この路地裏には立ち寄らなかっただろう。ていうか、あんなに綺麗な彼女が、ここに来ること自体、考えたくもない。
 「禁煙」と汚い字で書かれた、薄汚れた茶色い壁に寄りかかって、僕はパーカーのポケットからライターとタバコの箱を出した。金なんて無い。もう小銭も、逆立ちしたって出てこない。でもプライドが邪魔して安いタバコは買えない。ここまでくると明るい光もほとんどないから、ライターの火だけを頼りにタバコを一本、取り出した。
 白くて細い棒。チョークみたいだな、と思った。高校生の頃、確か一年の頃。先生に当てられた問題を、簡単そうに解いてみせた彼女。細い指でなぞる黒板に並んでいく模範解答、先生に褒められると嬉しそうにはにかんで、遠慮がちに自分の席に戻る。そして隣の席の僕に、こっそり誰にも見せない、少し得意げな顔を向ける。僕が素直に褒めればとっても嬉しそうにするんだ。
 チョークのようにタバコを持ってみる自分がおかしくて、乾いた笑いが出そうになった。鉛筆を最後に握ったのはいつだったかな。大学を辞めてからというものの、紙に何かを書くという事が無くなってしまった。その時、僕がぎりぎり過ごせていた、まともだった毎日は終わった。
 今日は少し雪が降っている。ちらちら降る雪に目を奪われて、やってきた彼女に気がつかなかった。ついに幻覚を見たかと、我が目を疑った。
 久しぶりだね、と笑っている。腰を抜かしそうになったけど、汚い地面に座り込むのは嫌で、なんとか壁に手をつく。驚かせちゃったかなぁ。ごめんねと、昔とまったく変わらない声だった。
 変わらず黒髪だった。背中まで伸ばしたきれいな髪は、くるんと巻かれている。フリルのついたブラウスに、柔らかそうなスカートで、僕の身長を越してしまいそうな高さのヒールを鳴らす彼女は、昔とちっとも変わらない笑顔を見せた。少女のようにも見える。高校時代の面影を残したままの彼女は、触れば壊れてしまうほど綺麗だった。なんでここにいるんだ。大学を卒業したあと帰ってきたのは知っていたけれど、僕に職がないのを馬鹿にされるのが嫌で、彼女も友達も連絡先を全部消したので、それから会うことなんかないと思ってたのに。

 「偶然見かけたんだけど、なんか似てるなって思って。やっぱりキミだったんだね。懐かしいなぁ」

 キミ、同窓会にも成人式にも来なかったじゃない。私頑張って探したんだよ。そう微笑んで、僕のとなりにきて、壁にもたれた。そんな事したら、その皺一つ無いブラウスが汚れてしまう。慌てて止めても、彼女は笑ったままだった。キミと一緒がいいのなんて言われると、嫌でも昔を思い出してしまう。僕に恋愛感情はないくせに、彼女はこんなことを平気で言う。

 「ここ、昔よく来てたな。何してたんだっけ。懐かしい」
 「……」

 彼女は凍えた指にはーっと息を吹きかけて、高そうな鞄からピンクのライターと、見たことがないデザインの長タバコを取り出した。僕が持っていたライターは、さっき驚いた衝撃で落としてしまったようだ。拾おうとしたけど、何が落ちているかわからないこの地面に腕は伸ばしたくない。暗さもあいまって、得体の知れない何かが怖くて気持ち悪くなる。
 ライターの炎が恋しくて、彼女を見る。本当は、恋しかったのはライターだけではないのだ。彼女はその笑顔を崩さず、僕に言う。

 「ああ、これ? モアっていうの。輸入品」

 ポッキーみたいな長さのそれは、僕の持つチョークとはかけ離れていた。美味しいのだろうか。一概に女物と呼ばれるのは、興味本位で吸ってみたことがあるが、どうも無理だった。「美味しいの、それ」と聞くと、私はこれが一番好きなのと笑って言われた。
 ライターを貸してほしいという趣旨が伝わったのか、彼女はしまいかけたライターを再び持ち直して、ゆらゆらと、オレンジの火を灯してみせた。女性、しかも好きだった人にタバコの火をつけてもらうということは、後にも先にもこれが最後かもしれない。明日には死んでいる可能性だってある僕だ、噛み締めなきゃいけない。

 「……ありがと」
 「……キミのくせにハイライトかぁ」

 僕がハイライトを吸って何が悪いんだよ。そんな事を言って、二人で昔みたいに笑い合う。でも、昔はタバコの話はしなかった。テスト、文化祭、教師の悪口、クラスの噂、どれもありがちだけど、希望に満ちていた、前向きな話だった。少し嫌なことがあっても、美味しいものを食べればすぐ元に戻って、笑顔で夜の、満天の星の下を歩く。
 しばらくお互い無言だった。少なくともこの社会においては、常日頃から不適合者として肩身の狭い思いをしている僕だ、今更居心地に対して良いとか悪いとか言えない。冬の夜風に吹かれて煙が飛んでくる。彼女は、随分甘ったるいのを吸ってるんだな。昔は僕のほうが甘党だったんだけどな。
 彼女はふーっと煙を吹いて、僕に言う。今は何してるの? と。この質問は、1年前から大嫌いだった。嫌な質問は、誤魔化すに限る。察しのいい彼女はそんな僕を見て、ふふ、と笑った。
 「やっぱりなぁ。そう思ってた。私、でも、そんなのも悪くないと思うよ」
 私はねえ、と、自分が最近司法試験に合格したことを、笑顔で語りだす。僕とは真逆の世界にいる彼女には、やっぱり、どう頑張ったって届かなかった。きっと僕の何倍も稼いでて、僕の何倍も幸せになるんだろうな。
 落ちてくる雪が、こんな汚い路地裏なのにどこか幻想的なような、気がした。

 「こうして会うと思うんだけど」
 「うん」
 「私たち、付き合わなくて良かったよね。別れてたら、気まずくなっちゃってさ。こんなふうに会うことも、無かったんじゃないかな」
 「そうかな。高校生の頃は、付き合いたくて仕方なかったけどな」

 え、そうなの? と、彼女は笑う。昔の面影そのままだと思っていたのは、ただ僕が昔にすがりついているだけだった。昔よりずっと、美人になっていた。その間にいろいろ経験したんだろう、僕が知らない5年の間に。高校生の頃から、彼女にだけはかなわないと思っていたけれど、それは今も健在だったようで、苦しかった。対する僕は彼女に話せるほどの人生を歩んでいない。普通に頭の悪い大学へ進み、ギャンブルに溺れて中退して、今もそんな生活を続けているだけだ。食べ物や住居には困らないけれど、このまま一生こうして過ごすのなら、三十、いや二十五前には見切りをつけて、首でも吊らなきゃいけない。
 消えたはずの恋心も再燃してしまうほどの笑顔は、近いようで遠くて触れられそうにもない。

 「……付き合いたかった?」
 「うん、当時は。ていうか、今もだよ。今だから言えるけど、あのころは毎日毎日、君の事で悩んだり笑ったり泣いたりしてさ。僕の青春は、君のものだったんだなって」

 できるだけ淡々とした口調で言ったつもりだったけど、最後のほうは感情的になってたかもしれない。踵で踏み潰したタバコの火。ついに一寸の光もなくなった。彼女の表情も、僕の表情も見えないから、こんなアホみたいなことが言えるんだろう。
 また、無言が続く。恥ずかしい事を言ってしまった。後悔が押し寄せる。無職のくせに何言ってるんだろう。無職のくせに。今のなし、では誤魔化しきれない。逃げたくなって引いた足が、ぐしゃ、と音を立てる。ここは一体何が落ちているんだろう。
 すすり泣きが聞こえてきた。となりの彼女が、肩を震わせて泣いていた。僕は、間抜けな声をだすことしか、できなかった。
 難しい試験に合格して、人生すべてうまくいっているはずの彼女が、こんな僕の隣で泣いている。ここに光なんてなかったけれど、雪に紛れるように、透明な雫が落ちるのを見る。宝石みたいで、この地面に落としてはいけないと思ってしまうくらい、綺麗で儚い。

 「……なんで、もっと早く言ってくれなかったの」

 震えている声が、耳に届く。冷えた指に風が吹く。
 その時やっと気付いた。それは、この夜の中でも一際、きらりと輝いていた。

 「私、結婚しちゃうんだよ」

 涙を拭う左手の薬指には、指輪が光っていた。

 「ああ、ごめんね。付き合わなくてよかったとか言っといて、こんなのってずるだよね。でも、できることなら私、キミと一緒にいたかったんだ。今の人も、前に交際した人も、みんな私のお金が欲しいだけな気がしちゃって。そんなのと違ってキミは、私が何もしてあげられなくても、ほんとうに幸せそうにしてくれて。私、いつもいつも、全部終わってから気付くんだ。本当は、キミが好きだったって。そんなのもう、今更過ぎるのに……」

 かたかたと、腕が震え始めるのは、寒さのせいではない。
 泣きながらそんな事を言う彼女を、冷えた両手で抱きしめたかったけれど、彼女は僕のものではないのだ。僕だって同じことを思ってる。こんなこと言ってくれるのは、彼女しかいない。お金も将来もない無職にこんなことを本気で言うような優しさが、今も昔も好きだった。でも、言葉通り、それは今更過ぎるのだ。
 ひらひらと降る雪が、僕らの体温を下げていく。
 それからは、ほとんど無言で別れた。連絡先も聞けなかった。聞いてはいけないと思った。
 今日は少し雪が降っていて、冷えた指がひりひりと痛む。
 やけにうるさい金曜の街の真ん中を、一人歩く。下だけ向いて、僕は正真正銘の負け組です、と思いながら。幸せそうに酔った奴らが通り過ぎていく。


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