複雑・ファジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 悲しい空席
- 日時: 2018/03/29 16:15
- 名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)
バスの空席は、左側の席の後ろから2番目にあたる通路側、私の隣だけのようだった。
バスの発車まで、あと3分。車内はピアスをあけた若者、かわいらしい少女と母親の親子連れに、新聞を広げる老人まで、幅広い年齢層で埋まっている。私はその中の一人で、車窓の景色を見ることができる窓側に座っていた。窓側に二人並んで座ったときは出辛いけれど、今のところ隣はいない上、私の向かう図書館は終点なので特に問題無い。しかし、だからといって人には来て欲しくない。人とは関わりたくない。……考えたくもない親のことが頭に浮かび始め、それを必死で振り払っていると、一人の乗客がやってきた。若い女だった。外の強風にはためく、中袖の白いワンピースに、薄い水色のカーディガンを羽織っていて、見惚れてしまうほど美しい、見事な髪は長い。背が高そうだ。空席を探している。
観念しよう。別に話さなければいいだけだし、向こうから話しかけてくることなんてないだろうし。話しかけてきたところで、適当に話していれば引いていくだろう。女がやってきたところで、ぎょっとする。怯える、といった方が近いかもしれない。
白い顔の右頬のあたりに、真っ青な痣が広がっていたからだ。痣の色は濃く、ほぼ毒々しい紫色に近い青紫だった。消える傷でないことは容易に窺える。まるで特殊メイクを施した幽霊かゾンビのように、見える。すっと通る鼻筋、切れ長の涼やかな眸、顔が整っていて、その分余計に残念に感じた。女はその恐ろしい顔を優しく歪めて、私に言った。
「隣、いいですか」
>>1-5 第一部『黒鞄』
>>1「日曜日とバス」 >>2「飛沫」 >>3「向寒」 >>4「萎れ華」 >>5「白桃」
>>6—未定『回想』
- Re: 悲しい空席 ( No.5 )
- 日時: 2018/03/29 17:40
- 名前: 錐森 有子 (ID: voMTFyIk)
「白桃」
この世界には色が多すぎると時々、思うことがある。
くっきりとした赤、ぼやけた甘く優しい桃色、温かみのある橙色、発溂とした山吹色、混じりっ気のない白色、黒、紫、緑……私にはどれもいらない。
自己主張の激しい赤や黄色も鬱陶しいし、橙色や桃色の呆けた温かさや甘さなんていらない。ただ純粋な黒でいたい。すべての色を混ぜると黒になるなんて言うけれど、そんなものは黒じゃないのだから。全ての色をない混ぜにした黒など、ただの虚無だ。はっきりとした色を温かさや甘さで打ち消し、優しさを激しさで相殺し……そんな黒にどれだけの価値もない。
幸運の象徴である虹をきれいだなどと思ったことがない私は、矢張り、どこか稔くれているのだろうか。沢山の人たちが笑顔で見上げた空の虹から目をそらし、己の内面の暗黒に逃げ込む人生。そんな人生を子どもの頃の私は、生きたいと思っただろうか? きっとそんなことは思わないに違いない。
その代わり、虹だ虹だとはしゃいでいられたあの頃に戻りたいとも思わない。今の私と子どもの頃の私は、どこか根本的なところが変わってしまったのだから。出逢ったところですれ違うだろう。だから私は子供が嫌いなのかもしれない。
「坂元さん時間、店仕舞いだよ。お疲れ様」
「あ……はい」
私は考え事ばかりで仕事も何もしていなかったが、店長はそんなことにちっとも気付かない様子で笑いかけてくる。店長はいいひとだ、少し思慮足らずなところもあるけれど。私に髪を染めるようアドバイスしてくれたのも店長だし、親も気付かないくらい軽く染めた髪を褒めてくれたのも彼女だった。近所のスーパーのレジ打ちのアルバイト。そんなに弱小というわけではなくて、私の県ではそれなりに数の多いチェーン店だった。店員の人数は丁度10人、時間帯ごとに分ければもっといるだろう。鮮魚コーナーでアルバイトをする人も4〜5人はいる。見れば皆息を吐いて、各々エプロンを外したり背伸びをしたりしていた。シフトはほぼ毎日の6時から9時までで、大体8時には暇な閑職となる。立ちっ放しで足が痺れ出すのもそれと同時だ。
セルフレジというのも流行り始めたことだし、それが導入されればこの仕事の需要はほぼ無くなる。会計を機械で行うものもあれば、商品のバーコードの読み取りから会計まですべて客が行うものもある。
アルバイトといえばスーパーのレジ打ちのイメージがあったが、これからはそれも薄れていくことだろう。
誰でもお使いを任されて、店員に顔を赤らめながら応対されたことがあっただろうに。これからはあの、無慈悲な冷たい機械に釣り銭を渡されることになるのだろうか。領収書を渡されるのは、店員の温かい手からだったはずなのに。店長はあくせく働く最中で、陳列に商品を置いているところだった。ここのスーパーのロゴが入った緑色のエプロンをするりと外す。一段落したところで、エプロンを正方形に畳みながら尋ねた。
「店長。近々ここもセルフレジとか使わないんですか? 話題になってますけど」
彼女は手を止めて、赤ら顔をにっこりと崩した。こちらに向き直っている。何気ないお喋りのつもりだったのに、店員全員が店長を見ていた。
「セルフレジって……ああ、あの全自動でできるやつだね。うん。そのつもりはないかな」
「でも……他の店だと結構入れてる所多いですよ」
たまりかねた他の同僚が言った。
「いずれにしても、君達を手放すつもりはないよ」店長は一言告げて、再び作業を再開した。
「さっちゃん」後ろから声をかけられる。尚美だった。私と同じ年齢、通っている大学は違うけれど、同じ大学生だ。優しく明るくいい子だけれど、私はその呼称だけは気に入らなかった。「その呼び方やめてよ」という言葉をどう解釈したらそうなるのか、何度言っても笑いながらそう言ってくる。尚美のその気分の盛り上がりにはついていけなかった。
「さっちゃん、よくああいうこと店長に聞けるよね。その何て言うか……肝が据わってるっていうのかな。でも皮肉じゃなくって、凄いと思ってるんだけど」
「さぁ? 無神経なだけだよ。よく言われるんだ。私は別にいいけど、セルフレジ入れたからってまさか辞めさせられはしないでしょ」
人に褒められるのが苦手な私は、適当にぶっきらぼうな返事をする。淡白だと思われるかもしれないけれど、私はこういう人間だった。尚美もよく分かっていると思うのだけれど。
「でもさ、店長私たちを手放すつもりはないって言ってた。聞けてよかったよね、私ずっとびくびくしてたもん。ここって結構時給いいじゃない? ここと同じくらいの時給だと他に重労働しか無くてさ。店長もいい人だし、ヘンな客も来ないし、あたしこのバイトできてよかったと思ってるんだよ。それになにより、さっちゃんと一緒に仕事できるんだもん」
「……私は別にここのバイトじゃなくてもいいんだけどね。尚美がいたからよかったけど、尚美がいないんだったらスーパーも重労働も同じ」
「……そっかな」
捨てられた子犬のような目をする尚美を置いて、時計を見て焦るふりして立ち去った。本当は彼女のことなんかちっとも好きじゃない私のつくウソなんか、尚美はとっくに見抜いてるはずだ。いや、そんなことはない。私にこんな間柄の友だちなんかいなかった。私は彼女のことが好きなのに、誤解されてしまったらどうしよう……。
胸をどくどくと駆け昇る血流が、いつもよりずっと近くに聞こえる。この感情は落ち着かない。
- Re: 悲しい空席 ( No.6 )
- 日時: 2018/04/05 19:41
- 名前: 錐森 有子 (ID: voMTFyIk)
少女は布団を頭まで被って寝ていた。男の持つ冷たい缶麦酒の水滴が、少女の髪に落ちる。男はそんなことなど気付きもせず、ぼんやりと月明かりを見つめていた。今夜は一際月が美しく見えるそうだが、男には、暖色のほの暗い街灯との違いもわからなかった。彼もまだ若かった十数年前のあの夜、自分が騙した美しかった彼女は今ではとっくに家を出ていて居なかった。月灯りは二人きりで過ごした、あのホテルの一室で彼女を照らしていたカクテルライトをも連想させる。そういえばカクテルライトの光を嫌がった彼女も、このようにベッドの掛け布団に顔を隠していたか。恥ずかしがるそんな仕種も暗闇の中でも窺える長い睫毛も、閉じた瞼と皮膚との滑らかな境界線も、すっと通った鼻筋も、当然というべきか彼女と少女はよく似ていた。記憶違いを起こしたように、思い出が甦ってくる。不安そうに自分を見つめる彼女の眸には、少し茶色が雑ざっていたこと、初めて人前で曝した素肌が美しく清冽だったこと、いつも結っていた髪が思っていたよりずっと長かったこと、近い距離で聞いた彼女の甘い息遣い、彼女が我を忘れたように喘いでいてもしっかりと絡み合っていた指同士、全てが終わって身を委ねてきた彼女の身体の柔らかさ、疲れて眠ってしまった彼女の無防備で愛おしい寝顔、純情で世間知らずな娘を騙していたつもりが、次第に本気の愛情が芽生えてきたこと……。二、三回弄んで終わりにするつもりだったのに、気付けば結婚を申し込んでいた。名家の一人娘だった彼女は、よりによってそんな男とと猛反対する親を押し切り家まで捨てて、入籍してくれた。それなのに彼女は、自分に愛想をつかして出ていった……。舌打ちをし、夜中であることを忘れ、「くそ」と叫び、缶麦酒をあおる。零れた酒が幾筋も頬をつたい、袖の中やシャツの中にまで入り込む。彼女に対する感情が、どんなものなのかわからない。愛おしい? 懐かしい? 後悔してる? 申し訳ない? 憤慨してる? あと一度でいいから会いたい? 二度と会いたくない? もし彼女と元に戻れたなら、もう離さない? 自分の感情なのに、わからない……それともこの感情は、実体のないものなのだろうか。男は苛立つ。彼女が残した娘____涼子は子供らしい愛嬌などかけらもない顔で眠っている。そんな顔が気に入らなくて、その上よく見ればそれは出ていった時の彼女____麗子と酷似していて、思わず首に手をかけそうになった。遊びに連れてって、このお人形買って、子供らしい要求ひとつしない涼子にも腹が立ってきて、飲み干した缶を、涼子、眠るふりをしている涼子に投げつけると暗がりのなか部屋を出ていった。水滴が飛び散った布団の中で、それを確認し密かに起き上がった涼子の目からは、ほんの僅か涙が伝っていた。この狸寝入りに、彼は気づいていただろうか。
男は月など見ずにパチンコ店に閉店まで入り浸り、散々すった後に終電の駅のホームで立っていた。軽く酔って、同じホームにいた女性をぼんやりと見つめる。髪やすらりとした体型が美しい。女性は男に一瞥をくれ、視線を振り払うようにして階段を上がっていく。ハイヒールの階段を打つ小気味よい音に、男の酔いも醒める。
- Re: 悲しい空席 ( No.7 )
- 日時: 2018/04/04 18:19
- 名前: 錐森 有子 (ID: voMTFyIk)
『S・Sの回想』
私には父と兄と姉がいます。私は今大学生、大学四年生なのですが、兄とは八歳、姉とは五歳離れていて……
ええ、母、母は私が十一歳の時に亡くなったんです。ええ、交通事故で。母? 母……母がパートから帰ってくる際、事故に捲き込まれたみたいで。母が病院に運ばれた時は小学五年生だった私と高校生の姉と大学生の兄も帰ってきてて。母の携帯から呼ばれて、本当に私たち三人は慌てるばっかりで……私は状況が把握できなくて、いつもはしっかりしてる二人が慌ててるから慌ててたんですが……ねえ、父にも連絡がいってて家で拾ってもらって、そこからは大急ぎで病院に行きました。私たちが病室に入った時にはもう既に母は亡くなっていました。というよりは救急車の中で出血多量で亡くなっていたらしいんですけどね。
母の遺体は血が綺麗に拭われていたし、特に顔に損傷はなかったから、いつも通り眠っているだけのように見えました。兄が頭を抱えて呻き声を上げて、姉が泣き崩れて、父さんが目の辺りを擦って顔を背けて病室を出ていったから、小学生の私にも母が亡くなったんだと解りました。解ったけど、理解できませんでした。私たちきょうだいの最年長の兄も落ち着きがなく部屋をうろうろしていて、本来年下の私に落ち着くよう言わなければならないはずの姉も泣き止まなくて(あの時私はちっとも動揺していなかったのですが)、私だけは状況が判断できなくてしばらくぼんやりとしていました。
普通、母を亡くした妹というのは、一番泣きじゃくってお母さんお母さんと繰り返すものですが、あの場では私が一番落ち着いていました。おかしなものですよね、何があったの? とでも聞きそうなくらいでした。聞かなくてよかった、最悪ですよね、そんなタイミングでそんなこと言ったら。なんでみんな泣いてるんだろうって思っていたら、姉が突然、母さんが死んだ! なんて叫んだんです。兄がそんな姉を叱り飛ばして。兄も現実なんか見たくなかったんでしょうね、大学生なんて言ってもまだ所詮、子供だもの。私は当時の兄より歳上になりましたけれど、今の私に母が亡くなって平然としていられるかって、そんなこと無理でしょうからね。だってそうでしょう? 肉親を亡くして動揺しないなんて……普通無理ですよね。
それなのにあの程度しか動揺しなかったなんて、私の兄はすごかったと思いますよ。むしろもう少し動揺して欲しいくらいでした。兄はそういう人でしたから、母が死んだときさえ兄の役目を担わなければならないなんて、悲しすぎますよね。人に頼れない……っていうんですか? 兄はそんな人なんです。いつも我慢して、自分を身代わりにする人なんです。みんなが嫌がる汚れ仕事なんかも率先して引き受けてしまって。兄はいつも大変でした。姉にもそういうところはありました。それなのにあのときの私はまだ呆けていて、母さんが死んだなんてって驚いて悲しむべきなのに、母さん……母が死んだなんてそんな馬鹿なことがあるわけない、なんて思ったんですね。
死体に触ったんです。よりによって手に、手ですよ? 当然力は入ってないし握り返してもくれないし、なんだかよくわからないけど柔らかくなってたし、よく見れば青白いし。
冷たかったんですね。結局。死って、冷たくなるってことですから。初めてやっと、やっとですね、そこで私にも解ったんです。お姉ちゃんお兄ちゃん、お母さんはどうなったのって、聞いたんです。兄さんに、死んだんだよ、って怒鳴られて。兄さんもさすがにここでは動揺して、さっき姉さんが言って叱ってたことを、言ったんです。馬鹿な私はそこで言い返しました。
____ウソだ。母さんが死んでるわけがないじゃん。
____車にはねられて生きてるわけないだろ。いくら母さんでも……
語尾が震える兄さんの声を掻き消すように、姉が叫びました。頭を押さえたまま。
____母さんは死んだんだよ! あんた本当にバカ、まだわからないの!? だから父さんも出てったんだよ、言われないとそんなこともわからない? なんで私が泣いてるかわかってる?
姉とはそこまで仲が悪かったわけではなく、もちろん姉妹喧嘩もしたけれど、一緒にお菓子を作ったりして遊んだこともありました。だからそんな大声を出されたことはありませんでした。驚いたけれど、怖かったです。「怖い」よりも「驚き」の方が強かったように思います。私は一瞬言葉に詰まり、怯みましたが、負けじと言い返しました。母さんは死んでない、という確かな確信が、心の中にあったからです。当時の私には、「交通事故で死んだ人は突然死ぬ」という概念がなかったので、そうとは思えなかったのです。
____だって母さんはどこも病気なんてしてなかった。そんな急に死ぬわけがないじゃん。
____うるさい!
姉がたまりかねたように、母の横たわる寝台を叩きました。私の頭を遠慮なく、思いっきり殴って。兄も同じ気持ちだったんでしょうね、それを咎めることもなくじっと見つめていました。まあ、当たり前でしょうね。兄さんがそんなになるなんて、もう疑うこともできなくなって。
「もう母さんは帰ってこないの」確認するように言うと、姉が頷いて、私は殴られた頭が痛くて悲しくて、寝台に突っ伏して泣きました。母はもう帰ってこない、母にまだ一言も言わないまま……その泣き声に苛ついた姉が私を、また殴りました。
今度は背中だったり肩だったり、とにかく無茶苦茶でした。感情の波動が、何かにふれて急速に爆発したように。それまで黙っていた、私たちに母の死亡を伝えた医者が、姉を止めに入りました。動揺するのはわかるけれど、それは妹さんも同じだから、と。これまた当然です、姉はそんな言葉では落ち着かず、医者も突き飛ばしてしまいました。医者がナースコールを押して、看護師たちと四人がかりで姉を抑えつけました。暴れる姉は手足を縛り付けられ、別室に連れていかれてしまいました。
姉も退出したのに気付くと、母の死んだ悲しみも薄れて、姉を迎えに行きました。呆然と立つ兄は残したまま。
抑えつけられた姉は、少し落ち着いたようでした。やっと離されると、黙って母の病室へ戻りました。私はやっといつもの自分に戻ってくれた姉の後ろを、ついていきました。兄も落ち着いていて、父も戻ってきて。
父は母の頬を撫で、姉と兄と私は母の手を握り、最後の別れの言葉を告げて、まだ愛しい死体を残して帰りました。残された私たちで手をしっかりと繋いで。火葬はしたはずですが、その時の記憶はあまりありません。おかしいですよね。病室でのことはこんなに細かく憶えていたのに……。母が焼けていく間、私たちは四人で手を繋いで、部屋で座っていました。私と姉とが真ん中、兄と父が両隣でした。その時は私たちは既にふっきれていたので、私は姉と兄と、手を強く握りあって、力較べをして遊んでいました。当時の私は握力ではまったく敵いませんでした。多分、兄にはもちろん、姉にも今でも敵わないのではないかと思います。
ただ一つ、焼き場で姉たちと一緒に、私が知る母とは違う遺骨を箸で、静かに拾った、その記憶だけは残っています。
私たちに絶望だけを与えてすべてを奪い去った、まだ身体を預けてじっとしていたいような、エプロンをつけて野菜でも切っていてほしいような、最後の頼みの綱である母の亡骸は最早骨だけのはずなのに、なぜだかいい匂いがしました。
- Re: 悲しい空席 ( No.8 )
- 日時: 2018/04/05 19:44
- 名前: 錐森 有子 (ID: voMTFyIk)
視点『R』
スマートフォンに送られたメールを見返すと、少し悲しくなった。さっきの男、名も知らないあの男からのメール。九月の夜は風が冷たくて、まるで私のことを嫌っているみたいだった。私は身体を縮める。さっきまで私は、男に抱かれていたのに。私はさっきまでの抱かれていた自分が、うらやましくてしょうがない。急にひとり冷たい街に放り出されて、まるでさっきまで私を柔らかく包み込んでいた優しさが、いきなり私に背を向けたかのよう。背を向け、牙を剥き、反旗を翻し、突き放し、踵を返して去っていくよう。目の前には、若い男女が二人で身を寄せ合っている。二人とも茶髪で、少し派手すぎる服装をしている。どうしてこの人間たちは、こうも幸せそうなのだろう。私がうらやましいのは、茶髪だからじゃない。そんなものが、うらやましいもんか。私がこんな生き方で生きていけるのは、私のイメージがあるから。バレッタで留めた長い黒髪、インフォーマルな服装、気品のある顔。そんな女を、男たちが欲しがるから。男たちがそんな女を、壊したいから。だけど彼らが抱くのは、清純の仮面を被った淫蕩に耽る女だ。だけど私は、男に抱かれて安心するために、仮面を被る。それはとても苦しいことだから、私は男に抱かれているときも安心なんかできやしない。それなのに彼らは若者言葉をしゃべって、こんな公共の場で大騒ぎして、ちっとも苦労なんかしてこずに生きてきたような人間だった。それなのに幸せそう。少しも賢そうじゃないのに。……いや、むしろこんな生き方の方が楽なのかもしれない。抱かれた後のさみしさも、何も。一度も挫折せずに楽に生きて、何も知らないで死んでいく、そんな生き方が、一番幸せなんじゃないか。私がうらやましいのは、茶髪でも、幸せそうだからでもなくて、目の前の彼らが馬鹿だからだ。しかし馬鹿がうらやましいのだからどちらにせよ、私も似たようなものだ。少なくとも今の私は。男に身体を売り、束の間の安堵を得て、ボールのへこみに空気を注入するがごとく再生する不安を抱え、生きている。でも違う、私がこんな人生を送っているのはあの男に騙されたせいだ。あの男に。名家に生まれ育って、少なくとも今よりは幸福な人生を歩むはずだった私の運命を、あの男がぶち壊したから。今ではこんなに嫌っているのに、一番最初にあの男に抱かれて喘いだのかと思うと、この命すらも断ちたくなる。駅のホームに寄り掛かる。私が初めて知る快楽は、おそらく彼から得るべきものではなかった。今彼はどうしてるだろう? 天罰でも下って、どこかで死んでるだろうか? それともまたのうのうと、酒と女に溺れてるだろうか? きっと彼は、今でも何も変わってないだろう。変わるわけがない。あんな人間が、改心するなんてことが、あるわけがないのだから。だから、彼がまだ生きているのなら、できることならもう一度、彼に抱かれたい。それを人生最後の日に実行することができるなら、私はいつ死んでもいい。どうせとっくに終わっている人生なんだから、あとどれだけめちゃくちゃに引っ掻き回されようと関係ない。まだ生まれて三十年やそこらしか経っていないのに、とうの昔にぼろぼろになっている人生なのだから。私にとって、この世で一番最低な男に抱かれて、そのまま死にたい。私は彼のことが、好きだったから。愛してたから。それはもう枯れた感情だったけれど、あったことに変わりはないのだから。私たちが離婚しても、離婚した事実も、私たちの愛の証拠も生命となってくっきりと残っている。それとも、彼のもとに残した彼女ももう死んでるのだろうか。たった数年一緒にいただけの私が逃げ出したのだから、彼女は死ぬ道を選んだかもしれない。それなら、私は彼に逢って一度だけ抱かれて、そのまま死にたい。私を私だと知っている彼に抱かれて、死にたい。彼はどんな顔をするだろうか。笑っている? 戸惑っている? 抱かれた後は? ごめんね迷惑かけたよなんて言って抱きしめてくれるだろうか? 最後の最後まで邪魔なんだよあんな重荷を置いていきやがってと顔をしかめるだろうか? たぶんそうだろうけれど、私は嫌な顔をされたい。そんなに簡単に反省などする男に、私の人生をめちゃくちゃにする資格はないのだから。そして、僅かな罪悪感に顔を背けて、顔にできた外国人のような高い鼻の影が見たい。あのとき私が怖かった、嫌そうな表情が見たい。どこか野性的で獰猛な顔が見たい、私の手を握ってくれた、私が何かすると途端に凶器に変貌した大きな手にもう一度頬を張られたい、今じゃ懐かしい大声に怒鳴られて殴られて死にたい、あの痛みをもう一度思い出させて。それになによりむず痒い。こんなに不幸な人生が、そんな優しさで終わるなんて。希望の見えなかった私の人生も、こうすれば華々しく終えることができるだろう。これが私の結末に相応しい最後だ。けして叶わないけれど。
暗い夜の電車のホームには、自動販売機で買ったみたいな缶の飲み物を飲み干す長身の男と私二人だけだった。いっそこの男に抱かれたい、とまで思う。不思議そうに見つめてくる男は、私がそんなこと思ってるなんて知らない。罪悪感に耐えられなくて、すぐに出ていく。九月の夜は半袖じゃ寒い。彼が欲しい。
- Re: 悲しい空席 ( No.9 )
- 日時: 2018/05/13 16:02
- 名前: 錐森 有子 (ID: voMTFyIk)
「雨はコンクリートを融かして」
「……こんにちは。また会ったね」
茶化すかのようにそう言って、然り気なく彼女の隣に腰を下ろした。彼女はまたこの前と同じ席、窓側という点まで同じだった。どうせなら前の席にいてくれた方が見つけやすいのに。……今日はいつもより乗客が少ない。
「あぁ……こんにちは、」
何がまた会ったねだお前が言ったから来たんだろうこの野郎と怒るでもなく、こちらを向いて満面の笑みで再会を喜ぶでもない、さらりとした反応。すべすべしたシルクサテンの毛布に顔を埋めているような喋り方の彼女で、語尾のあがった言葉のさきの続きを待ってみたけれど特に何もなかった。私は返事に備えて開けぎみにしていた口を気まずく閉じたけれど、空気は悪くならない。シルクサテンの素材は冷たいけれど、肌触りがよく気持ちよくて好きだ。夏も終わる頃の一人の夜に被って眠ると、私を切ない気持ちにさせたりもするけれど。そうするとなんとなく目を閉じられなくなって、うつ伏せになって長い睫毛を布団に擦らせてまばたきをし、だんだん体温が布団に移っていくのを身体で感じてみたりする。飼育に疲れた鳥を、もういい自由にしろと空に放つように、適当に広げた髪が邪魔になってくると眠れる頃だ。いつもの気持ちが思い出される。最後にそんなことをしたのはいつだっただろう、去年の母の命日に、久し振りに母を偲んだときだろうか。そんなことを考えていると今の自分まで寂しくなってきて、母に会いたいと何年か越しに思ってしまった。そういえば母もこの子に似た口調の人だった、あんたいい人はいないの、いるわけないよ人生で一度も付き合ったことないのに、そんなことしてると一生独身になっちゃうわよ、いいよそんなことまだ若いんだから、そんなことないわよお母さんだってお父さんと出会ったときはね……そんな下らない話をもっとしたかった。台所で一緒に料理でもしながら話をしたかったけれど、今ごろ母は四方を石に囲まれた壺の更になかだ。
きっと彼女もいつもそんなことを思っているんだろう。そっと彼女の顔を盗み見ると少し難しげな表情をしていて、一人で感傷的になっていた自分が急に恥ずかしくなった。バスの中で、感傷に浸る女。馬鹿みたいだ。それよりせっかく約束をして来てくれたのだから、何か話すのが礼儀だろうか。
「あの、今日もやっぱり図書館に行くでしょう? それはいつもなの?」
「……ときどき、この時間帯に来るけど」
「そっか。そうだよね……趣味は」
「読書」
「ふうん……あぁ。図書館に行くのは教養としても、趣味としても並行してってことかな。私も似た感じだよ」
「……へえ。成程ね……」
会話は続かず、簡単に壊れてしまいそうな空気にどう触れていいのかもわからず、つい及び腰になってしまう。その上空まで曇りで、とても意気揚々と話す気分にはなれなかった。私も、彼女も。
結局今日は、また来週の約束だけしてさよならだった。彼女と別れた瞬間に降りだした雨は、コンクリートの灰色を映していた。
Page:1 2