複雑・ファジー小説
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- 切り裂けど飛べず
- 日時: 2018/04/17 14:30
- 名前: うに (ID: xZ7jEDGP)
人は皆、生まれた時には翼を持っているのよ。そう、名画にある天使のように美しい翼がね。
今はないわね。そうね。
あなたの翼はママが切り取ってしまったの。ああ、怒らないで。そうしたのはあなたが大切だからなの。
翼が残っている子はね、みんな神さまに連れていかれてしまうのよ。
だから私はあなたの翼を奪ったの。
- Re: さよなら天使 ( No.1 )
- 日時: 2018/04/17 10:51
- 名前: うに (ID: qVM51sIh)
唐突だが、僕は翼を落としてもらえなかったタイプの人間だ。父を知らず、母には嫌われていた。母は、僕を神様に攫われたっていいと思っていたのかもしれないし、そんなことはどうでも良くて、翼を落とす時間すらも惜しいくらいに僕をさっさと捨ててしまいたかったのかもしれない。とにかく、僕は誰の頭にだって浮かぶような天使のなりをしながら生きてきた。色欲に塗れて、古いくせに鮮やかな色ばかりを重ねたこの街で、ずっと、ひとりで。
言わなくたってわかると思うが、この翼はおそろしく邪魔くさいのだ。行為の中では天使だとか美しいだとかあれこれ言われるものだけれど、街を歩けば後ろ指を指される。耳を澄ますまでもなくきこえてくるのは嘲笑といらぬ同情の声だ。どこのどいつだってそうだ。僕は不幸なんじゃない。そいつらが、僕を不幸なものにしている。
もちろん感謝もできるだろう。翼をもったままのまだ幼さの残る体は高く売ることができた。ハイトクテキだとかなんとか。馬鹿らしいけれど、そうやって生きてきた僕はそれに媚びへつらって腰を揺らした。
でも、この翼がなかったら? これ以上悪くなることなんてなかったんだ。父がいなくたって、母に嫌われていたって。捨てられていたって、なんだって。
落としたい。役に立たないこれを。
美しくても、そうでなくても、こんなもの捨ててしまいたかった。僕の「不幸」はすべてこの翼に宿っていると信じている。
鉈を買った。重たくて鋭い鉈を。でも自分じゃあ切れない。だから客に頼んだ。女性の細腕じゃ、しっかりと骨の通った重たい翼を落とすことはできないだろうから、男に体を売るようになった。
それでも、それでもだ。
彼らは、美しいのだからもったいないだなんて眉を下げて笑うのだ。
翼がないくせになにがわかる。最初の一回は激怒して真新しい鉈で彼の首を落としたのだが、それから何度も繰り返すうちに、諦めの勝るような気持ちで体を売るようになった。
そうして今日も、薄汚れた街の片隅に立っている。
「ね、ね。君のそれってさ、もしかしなくても本物?」
煉瓦の壁に不器用にもたれかかり俯く姿に声がかかる。顔を上げれば、そこには真っ黒な男が立っていた。
黒いロングコートに黒い髪、こちらをじっと見つめる瞳も黒い。肌は真っ白で、彼のいるそこだけが切り取られてモノクロームに落とし込まれたような様だった。
そうだ、と小さく頷けば彼はぐっと近寄ってきた。
「やっぱりそう!」
うんうん、と彼は嬉しそうに頷いて僕の手を無遠慮に握り込む。
「会ってみたかったんだ、みんなが言う天使ってやつに。いくら?」
彼のもたらす快楽は凄まじいもので、鞄に忍ばせていた鉈の存在すらしばらく忘れてしまっていた。
ひととおりの行為が終わってから、彼は小さく尋ねた。翼に触れていいか、と。体には触らなかった場所などないというくらいに触れてきたくせに。きっと天使の名に魅せられているのだ。幻滅した。期待なんてしてたわけじゃなかったけれど、それでも。
「これさ、邪魔だろ?」
終わりだ終わりだと言うようにベッドから起き上がろうとした僕の翼をとんとんと人差し指で叩いて言う。僕は少しだけ固まって、それから小さく頷いた。
「要らないだろ?」
「......なんで、わかる?」
「翼がなけりゃそんな腐った目はしてないさ」
肩を竦めて笑った彼は、僕と同じような年頃の顔立ちのわりに、どこか全てを知っていそうな感じがした。
「......落としてくれないか、これ」
「えええ、痛いよきっと」
「それでも」
頼みの綱が逃げていかないように縋った。もう片方の手では、ベッドの下の鞄から鉈を取り出している。彼はそれを笑って見ていた。
「ならいいよ。貸してごらん。背中をこっちに向けて」
痛くたっていい。血が通い、骨が通り、筋肉もついて動かすことができるそれを切り取るには相当な苦痛が強いられるのもわかっている。
しかし、この背中に巣食う苦しみそのものがなくなるのなら、どんな痛みが待っていようと喜べる気がした。
「それじゃあ、ね」
彼は僕の翼をぐっと引き下げて、それから鉈を振りおろした。
ばすんというその音は、僕の背中で鳴ったとは思えないくらいに遠く感じて、でも走る衝撃は体をがくがくと揺らしていて、それからやってきた激痛は僕の体すべてを塗りつぶして消してしまおうとしているように強く、激しかった。
「う、あ」
「痛いって言ったろ? さ、あともう一回だ」
そう言って黒い彼は、落ちた翼を僕の目の前に置いてみせた。綺麗な切り口と、翼と同じくらいに白い骨。それを解放された喜びを語るように汚していく血液の色。
それをこぼれ落ちそうに見開いた目で捉えた時、僕は悲鳴を上げて、彼の下から逃げ出していたのだった。
- Re: 切り裂けど飛べず ( No.2 )
- 日時: 2018/04/19 18:53
- 名前: うに (ID: pH/JvMbe)
裸で飛び出してきた僕を道行く人々はぎょっとした顔で眺めて、そして背中の惨状を見つけては目を逸らしていた。その視線も態度も、これまでずっと僕が嫌っていたものそのものだった。いいや、今でも憎い。でも今は、それ以上に助けの手を差し伸べて欲しかった。
こんなに痛いだなんて思わなかった。痛いというのはわかっていたが、到底想像して覚悟できるような痛みではなかったのだ。傷口は自分こそが心臓なのだと言わんばかりにどくどく脈打って血液を吐き出し続けている。寒い。それは単に裸だからなのかもしれないし、血が失われすぎているからなのかもしれないし、僕が死の足音を感じて怯えているからなのかもしれない。なんにせよ、こんなのにはもう耐えられない。助けて欲しい。
けれどやはり人は、目を逸らして行ってしまうのだ。
馬鹿だ。馬鹿だ。白く鈍る思考に織り込まれるようにしてところどころに浮かんでいる罵倒の声は誰に宛てたものかも知らない。
僕はひたすら力の入らない脚で歩くしかなかった。絶望と後悔をともにして、僕を捨て僕がすがったこの汚い街から出て行くしかなかった。そうすることしかできないことはわかっていた。それから、外に行ったとしても何も変わらないことも。けれど僕は外を目指した。望みもしなかった外の世界は、僕を歓迎も拒みもしないだろう。それならば良い。僕の価値がもうないなんてことは、何回も言われなくたってわかっているのだから。
ああ、なんて痛いのだ。
そう、やはり何も変わらないのである。僕はちいさく笑いながら路地の暗がりに倒れ込んだ。こうして死んでいくことなんて少しも考えちゃいなかった。あんなやっかいなものが最後の最後にこんな苦しみをもたらすなんて思いもしなかった。あぁ、後悔ばかり。しかし、母の後悔の中で生まれた命ならば、こうなってしまうのも致し方ないと思えた。
さようならだ。全部、さようなら。小さく言葉に出して、惜しむものでもないなと思って目を閉じた。
「大丈夫、さよならじゃないわ」
悪い夢を見ていたみたいだ。日に干した良い匂いのする枕に、軽いのに暖かな毛布。こんな場所で見る夢ならきっと良い夢だっただろうに、変な感じだ。
死にそうになる夢だなんて。
「う・・・・・・ッ!?」
右肩に走る強烈な痛みに、僕は全てが夢ではなかったということを思い出した。うつ伏せのまま、枕を湿らすくらいに何度も何度も呼吸を繰り返した。脂汗が吹き出す。シーツの海に溶けてしまったように曖昧な感覚の体はずっと震えていた。
「大丈夫?・・・・・・痛いわよね」
僕の激しい呼吸音に掻き消されそうなほどに小さくて細い声がした。首を動かせる限りひねって声の主を見る。
「あなた、死んでしまいそうだったから・・・・・・」
眉を下げて、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめる少女。その背後には、煌めくほどに白くてそして大きな一対の翼が見えた。
メディイカと名乗った彼女は、ぼんやりとした僕にずっと声を掛け続けていた。僕が何度眠りに就いても、目を覚ませばベッドのそばに座っていた。空しか見えない窓が黒く染まっても、それから白っぽい青に染まってもだ。
痛みは少しずつ消えているのか、それとも僕が慣れてきただけなのかは知らないが、動くこともできないなんていう状況からは抜け出すことができた。苦痛が減ったことや、彼女の表情が次第に明るくなっていくことに、僕の気分も明るくなった。久方ぶりに垂直に体を起こした僕が放ったのは、ただひとつ、彼女に対するありがとうという言葉だった。
メディイカは、ずっとこの高い場所にある部屋にいなくちゃいけないらしい。この部屋がある屋敷は酒を卸している彼女の父親のものだというから、つまりはお金持ちらしい。翼が生えたままなのは、父親がそうさせたからだ。そして彼女は、大切に愛され過ぎたが故に、このおとぎ話のような閉ざされた生活を送らざるを得なかった。
「けれど、今にも死にそうなあなたが歩いているのがみえたから」
窓をこじ開けて飛び出したのだという。天使そのもののような顔立ちのわりに性格はじゃじゃ馬だったらしい。そして驚いたことに、彼女は飛び方を心得ているらしい。僕を抱えて羽ばたいて部屋に戻ると、血相を変えた父母と使用人に叱られたという。
僕が笑うとメディイカは頬を膨らませた。
「翼が残っているひと、私以外ちゃんといるんだって安心したの。だからあなたを助けたかった」
「うん、ありがとう」
メディイカはその小さな両手で僕の右手を包み込み、恥ずかしそうに笑った。僕は本当の天使を見ているのだと思った。穢れのない純白の翼。無垢な表情。彼女は全てが美しく、愛おしいのだ。それはただ、僕が彼女に救われて、彼女だけを信じていたいと思っているからそう見えるのかもしれない。それでも良かった。僕は出会ったばかりの彼女と、ずっと一緒に話していたいと思った。
「あなた、名前はなんて言うの?」
「ゼラドゼラ」
「ゼラドゼラね。ゼラと呼んでも?」
「もちろん」
彼女は微笑んだ。ずっと見ていたいのに、目を逸らしてしまうくらいに綺麗だった。
「ねぇゼラ。この話は知ってる?」
「うん?」
「翼のある人たちが寄り集まって生活している、小さな村のこと」
メディイカは少し力を強めて、僕の片手を握った。縋るようなその強さに、あぁ捕まったなと、どうしてか暢気に僕は考えていた。
- Re: 切り裂けど飛べず ( No.3 )
- 日時: 2018/04/20 12:27
- 名前: うに (ID: EcJgmmbj)
僕を助けたのももしかしたら彼女の計画のうちだったのかな。そんなことも思ったけれど、尋ねるわけがなかった。彼女が優しいことは本当のことだし、不自由をして可哀想なのも本当だ。それならば彼女を疑う必要なんてなかった。
僕の傷は、メディイカの父が嫌そうな顔をしながら呼んだ医者が驚くくらいに急速に癒えていった。彼女の部屋を自由に歩き回れるようになった今は、こそこそと彼女の荷造りを手伝っている。
「その村に一緒に行きましょう。そこでなら、自由に安心して暮らせるわ」
ただ外の世界に憧れるだけの可哀想な少女を誰が無謀だと笑えようか。おとぎ話のように閉ざされた世界で育ったお姫様は、それまたおとぎ話のような夢を語るのだった。ただ僕はそれを頷きながら聞いていた。
僕はきっとメディイカを好きになってしまったのだと思う。孵化したばかりの雛のように、あの世界から出てきたばかりの僕は、ずっと彼女の姿を追っている。
「上手くいきそうになかったら、僕を放り出したっていいんだからね」
この部屋から抜け出す計画はいたって単純で、メディイカが荷物を持った僕を抱えてあの窓から飛んでいくだけだ。メディイカが飛べるということは彼女が僕を助けた際にみんなに知られてしまったのだから、警戒されていたっておかしくないのだが。
「置いて行くだなんて、そんなこと絶対にしないわ。きっとお父様、ゼラが私にとんでもないことを吹き込んだと思って何をするかわからないもの」
「・・・・・・なんか恥ずかしいな」
メディイカは飛べるけれど僕は飛べない。多少じゃじゃ馬だったって彼女はやっぱり女の子だ。そんな彼女に、だっこして貰って逃げるだなんて! 不満そうな僕にメディイカは微笑んだ。
「あなたは私の希望よ? 大切にするわ」
「大げさだ」
メディイカは自分でもそう思ったのか、恥ずかしそうに笑った。二人で照れながら笑っていた。まるで恋人がするみたいに、長く長く、光の落ちていく窓辺で、ずっと。
その夜、僕たちは飛び立った。
僕もメディイカも互いの腕に必死でしがみついていた。あまり目立たないように屋根の上すれすれを飛んでいく。彼女の部屋はもうはるか後方に見えるだけだ。
月の大きな夜に出発したのは間違いだったかもしれないとメディイカは言ったが、僕はそうは思わなかった。冴えた月光は彼女の純白の翼を美しく煌めかせる。彼女が羽ばたくたびに夜闇は形をなくして光り輝くようだった。僕はそれを、吊りおもちゃを見上げる赤ん坊のような表情で見ていた。
「疲れてない?」
「・・・・・・少し」
「ごめんね、重たかったろ。もう追いつけないさ、そろそろ歩こう?」
メディイカは小さく頷いて、しばらく先に見える空き地を目指した。ぐんぐん近づいてくる地面が怖かったが、覚悟を決めてメディイカの手を離した。僕の身長もうひとつぶんくらいの高さから飛び降りて雑草の中に転がる。みっともないなぁと苦笑いした視線の先では、きちんと足で着地できたメディイカが勢いを殺しきれずに走っていた。
バレエなんて見たことないけれど、こんなに美しいことはないだろうと思った。砂糖菓子みたいな体にアンバランスな大きな翼も、なびく金色の髪も、草に傷つく白く華奢な脚も。そして、くるりと振り向いた彼女の無邪気な笑顔も。
「大成功ね!」
喜びのあまり僕たちは互いに抱き合った。子どもの遊びのようにくるくると回った。ずっとこうしていたっていいと思ったが、そうは行かなかった。
「さ、行きましょ!」
「元気だなぁ」
「ゼラ、疲れているの?」
「何もしていないくせに、とか言うなよ」
メディイカはまた笑った。良く笑う子だと思っていたけれど、あの部屋にいたときよりずっといきいきしているみたいだった。
二人は手を取り合って歩き始めた。
目立たないように路地裏を選んで歩いていく。僕は宿からそのまま飛び出してきたし、メディイカは部屋を出ちゃいけなかったから靴なんてない。裸足でじめじめした路地裏を歩くのは気持ち悪くて二人してつま先立ちで不器用に歩いていた。道ばたに捨てられたように落ちていたへろへろの靴をメディイカに勧めたが、誰かが置いているのよと言って彼女は履こうとはしなかった。
「明後日くらいには着くかしら?」
「メディイカが長く飛んでくれたから、もう少し早く着くかも」
ふふんとメディイカは胸を反らした。自慢げな顔をしているのだろうと、下ばかり見ていた顔を上げたが、こんなに月の良い夜なのに、暗くてよく見えなかった。
月も高く上がって、この道もしっかりと照らしていてくれたのに、今はあたりが真っ暗だ。雲が月を隠したのだろうか。
そう思って夜空を見上げた視界に入ったのは、大きくて白い「何か」だった。
- Re: 切り裂けど飛べず ( No.4 )
- 日時: 2018/06/02 23:51
- 名前: うに (ID: pH/JvMbe)
「……ゼラ?」
空を見上げたまま凍り付いてしまったかのように動きを止めた僕を怪訝そうにメディイカが見つめる。彼女はまだ気が付いていないようだった。
「・・・・・・メディイカ」
それはまっすぐに降りてくる。真っ白なそれ、巨大な手は。
「メディイカ・・・・・・ッ!」
——神さま。
メディイカに伸ばされた手は二つ。僕のもの、そして神さまのもの。スピードは僕のほうが勝っていた。目を丸くしたまま固まっているメディイカを引き寄せると、のろのろと煙のようにゆったりとした動きの手を睨みつける。
そうだ。誰にも邪魔されなくたって、神さまに邪魔される。誰だって知っている言い伝えのようなもの。僕が誰にも愛されなかったことを証明するあの忌まわしき物語はそれまた事実であるとわかり、しかし僕は失望も納得もしなかった。
「神さま・・・・・・」
腕の中でメディイカは震えている。僕が僕のことを考えていられないのはこの子がいるからなのかもしれない。彼女を守らなくてはいけない。愛されすぎている彼女をこの世界から奪われるわけにはいけないのだ。
しかし為す術は見当たらない。どう考えたって大きすぎるのだ。手も神さまも。
僕はメディイカの肩を抱いたまま走り出す。今までとは逆に、人通りのある道を目指して。
伸ばした手の先に翼の少女がいないことに気づいた神さまは、きっとこちらをじろりと見たのだ。大きな手しか見えないけれど視線を感じた。そして走る僕は、それが今までとは違って怒り狂うように俊敏に僕たちを追いかけてきていることにも気がついた。
「・・・・・・メディイカ、先に逃げてほしい」
街灯の明かりと喧噪が近づく。僕はそっとメディイカにささやきかけた。
「それは」
「ふたり一緒に捕まるよりましだ」
「なら私でもいいはずだわ」
「それなら僕でもいいだろ?」
もう少しだ。もう少しで大通りにたどり着く。僕の言葉に反抗するように僕の袖口にしがみついたメディイカを、心の中で小さく謝りながら思い切り突き飛ばした。軽い彼女は路地を飛び出して大通りの路上に転がった。
僕の背後には腐臭のする純白の冷たさが迫ってきている。そしてそれはすぐに僕を包んだ。死の心地ではない。しかし生きた心地もしない。ただただ生ぬるく、不快なばかりである。
「ゼラ!!」
哀れな少女の悲鳴が聞こえる。僕は、あのままだったら僕自身が背負わなくちゃいけなかった悲しみを彼女に押しつけてしまったのかもしれない。それはひどく申し訳なくてうれしいことだった。彼女にとって僕は、あんな風に叫ぶ価値のあるものだったのだとわかったから。
白い手は僕の胴をなかなかに強い力で締め上げて、上へ上へと連れて行く。メディイカのゆがめられた表情が見えなくなるまでそう時間はかからなかった。耳元で風がなっている。視界のかたすみでぷらぷらと揺れる足はまるで人形のもののようだった。お人形あそびはもう終わりなのだ。
ちっぽけだ。なんてちっぽけなのだ。吹きすさぶ風の中、僕は僕自身を鼻で笑って、それから眠ってしまおうと目を閉じようとした。
「ゼラ!! 待って!!」
彼女の声が聞こえる。不思議なことに。
目を見開き、眼下を見渡す。夜闇の中に白い点が見える。メディイカだ。彼女は羽ばたいて追いかけてきている。
「メディイカ! 来ちゃだめだ!!」
僕を握りしめている手とは別の手が現れていることに気がついた。のこのこと僕を追いかけてきたメディイカを捕まえるための手だ。
「ゼラ!!」
「来るな!!」
僕は手から抜け出そうともがいた。彼女をここから遠ざけなければいけない。逃げなくてはならない。しかしその手の力は少しも揺るがない。
メディイカはこちらへ向かい、手はメディイカに向かう。おそろしい速さで互いに接近していくふたつを引き裂きたくて僕は叫ぶ。
「うぅぁああああああああああああああああやめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
あつい。
ざくりと音がした。ざくりざくりざくりと音がした。
あつい。いたい。右肩があつい。あの傷口がいたい。
右肩で何かが蠢いている。
そしてそれは、白い手をざくりざくりと切り刻んでいった。
僕は空中に放り出された。切り裂くような風が見えそうなくらいの速度で落ちていく視界に、僕の右翼がうつりこむ。
大きな大きな翼だ。左翼とは比べものにならない。そしてそれは月光をぎらぎらと跳ね返して鋭く光っている。
あぁ、こいつが神さまを切りつけたのか。
僕はいうことをきかない体に鞭打って上空を見上げる。僕が遠ざかっていっているせいかもしれないが、彼らは空に帰っていこうとしているように見えた。
そしてメディイカは。メディイカは? どこだ?
「・・・・・・メディイカ?」
体がすっと冷えていく。最後にもう一度彼女を見たかった。鉄の翼じゃ飛べない。僕はきっとこのまま地面にたたきつけられておしまいだ。
ほんとう、ばかみたいだ。
僕はさっきしようとしていたみたいに目を閉じる。怖くないわけじゃない。むしろ恐ろしく怖い。でも落ち着いていられた。これ以上怖いことはないんだと思うと、それはもう安心した。
しかし、そのときは訪れない。
だまされたような気持ちになっておそるおそる目を開ける。
「・・・・・・ゼラ? 無事よね?」
「メディイカ・・・・・・」
泣きそうな顔をしたメディイカが見える。彼女の翼が羽ばたいているのがわかる。背中に回された彼女の細腕を感じる。僕は彼女に抱き留められたのだ。
彼女の顔を間近でみるのが恥ずかしくて身じろぎしたとき、彼女がうめいた。
血の気が引いた。
僕の鉄の翼が彼女の腕を傷つけているのだ。
「降ろして! 降ろしてくれ!」
「落ち着いて、ゼラ。大丈夫だから」
彼女は僕を抱く力を強める。僕は動くわけにはいかなかった。胸がひどく痛い。でもきっと、メディイカの腕のほうが痛い。
そしてふたりはあの路地裏に降り立つ。僕はすぐにメディイカから離れた。そっと伺った彼女の腕はずたずたで、ひどく赤い血が垂れ流しになっている。
「なんで、なんで僕なんか」
「落ち着いてよ。私は大丈夫」
微笑む彼女が信じられない。彼女を傷つけて生き延びた自分が許せない。息ができない。息をしたくない。
あつい。いたい。
傷口がじくじくとまた蠢き出す。ぎゃりぎゃりと金属同士が擦れる不快な音をたてながら右翼が伸びていく。そして鋭い金属片のような羽根が宙を舞い始め、切り裂く力を持った嵐のように右往左往しはじめる。
「なんで、なんで」
こんなんじゃもっと彼女を傷つけてしまう。どうしていうことをきいてくれないんだ。
「やめてくれ」
右肩に寄生した僕じゃない凶暴ななにかだ。右肩で目覚めた僕でしかない僕だ。
「いやだ。なんで」
「ゼラ」
「来るな!」
翼もメディイカもいうことをきいてくれない。彼女の頬や二の腕を金属片が掠って傷を増やしていく。
「来るなっていってるだろ!!」
「ゼラ」
割れた声で叫んだ僕を、また彼女が抱きしめた。
「わたし、希望を捨てないって言ったじゃない」
- Re: 切り裂けど飛べず ( No.5 )
- 日時: 2018/06/04 16:46
- 名前: うに (ID: C9n6E2JV)
メディイカの大荷物に助けられた。路地裏に誰にも盗まれることなく転がっていた彼女の鞄には救急箱がまるごと入っていて、僕は笑いながら彼女の腕の裂傷の手当てをした。
彼女に抱きしめられたとき、棘まみれになっていた僕の心はどろどろに溶けてしまって、それを示すかのようにあの鋼鉄の翼はふっと姿を消した。彼女がいなければ僕は空の上に行ってしまっていただろうし、僕がいなければ彼女もそうだっただろう。そのことは彼女と僕の出会いが明らかに正しいと言っている。それならば僕は彼女と旅を続けなくてはいけない。いや、そんな難しいことを考えているわけじゃない。僕は彼女とともにもっと長い時間を過ごしたかったのだ。
「……時間食っちゃったね」
「でもすごいことがわかったじゃない! ゼラはとっても強いんだわ。安心した」
わりとせっかちなのだろう。手当てが終わるとすぐにメディイカは歩き出した。正直なところ僕はへとへとだったが、やはり彼女の楽しそうな顔を見ていると歩かなきゃいけないと思った。
そうして僕たちはだいたい1日歩きとおして、メディイカが噂にきいたというその村の入り口にたどり着いた。針葉樹林に囲まれたその村は、満月に照らされている。鳥が鳴く声もどこか不気味に聴こえた。できれば昼間に出直したいものだったが、針葉樹林を長々と歩いてきたことを考えると、村に入ってしまったほうがましなのかもしれない。
「静かな村なのね……」
「翼をもった人たちが差別を嫌って逃げてきてるんだろ? あんまり大騒ぎはできないのかも」
「なるほど、それもそうね」
メディイカはそういった不気味さなどはあまり感じていないようで、頼もしいというか不用心で心配になるというかといった感じだ。
ぼろぼろの立て看板の横を通り過ぎて僕たちは村に入っていく。鳥の声や木々のざわめき以外に響くのはふたりの足音ばかりだ。メディイカは家の外に出たことがないし、僕は夜にこそ賑やかになる街にばかりいたものだから、森の中の村のことなんか少しもわからないけれど、これはなにか、どこかおかしい気がした。
「……やっぱり、なにか変だ」
「静かすぎるってことよね?」
「うん」
僕は道のわきにぽつぽつと建っている家屋がどれひとつとして明かりを灯していないのを見て寒気を感じた。眠るには早すぎる、夕飯の時間帯だ。
「少し、お邪魔してみる?」
「そうだね」
メディイカは家屋の窓を外側から覗こうとするが、中が暗すぎるせいでまともに見えないことにしびれをきらして玄関口に立ち、ドアをノックした。返事はない。もう一度ノックする。
「……いないみたいだわ」
メディイカが首を振りながら数段の階段を下りようとしたとき、足を滑らせた。小さな悲鳴をあげて転がった彼女の手を引いて立ち上がらせようとしたとき、僕は気づいた。
「メディイカ、それは……」
「へ?」
「ワンピース」
彼女が着ている白いワンピース。それがべっとりと赤く汚れていた。
「えっ、なにこれ、血……?」
ワンピースをつまんだ彼女の手も赤く汚れている。混乱した彼女はどんどんワンピースを汚していくが、それを止めることができるくらい冷静なやつはここにはいなかった。
目を凝らせば、玄関はバケツの水をぶちまけてしまったときのように血みどろで、その中にはおびただしい数の羽根が落ちていた。そしてその血痕は刷毛で雑に伸ばしたように家の外、僕らが歩いていこうとしていた道のほうへ伸びている。
嫌な光景が頭の中でぐるぐると回る。翼が。翼がない僕。手元にはない鉈。迸る血と、焼けるような痛み。
「翼を、毟られたんだ……」
「ゼラ……」
事情を知っているメディイカが心配そうに僕を見上げる。
そのとき、木々のざわめきすら遠く感じていたふたりの鼓膜を声が揺らす。
冷たい布でなぞられたような風に乗せられてきたのは、猫の声のようにも思えたが、繰り返して聴くうちに赤ん坊の声だと気が付いた。
「赤ちゃんよ! どこかに赤ちゃんがいるんだわ」
そう言ってメディイカはまた走り出した。ひどく嫌な予感がしている僕を置いて、相変わらずの純粋な行動をしめす彼女を放っておくわけにもいかなかった。
赤ん坊は絶えず泣きわめいている。先ほど僕たちが通ってきた村の入り口とは逆方向に進めばその声は次第に大きくなる。広がる景色はまた針葉樹林に移り変わり、満月の光すら届かない黒の世界でメディイカの翼と白いワンピースが揺れている。僕はそれを必死に追いかけた。
そして、突如として視界はひらけた。
針葉樹林のそこだけを丸く刳り貫いたような裸の空き地。突き立てられた不格好な十字架。盛り上げられた土。それとは逆に掘り下げられた土。そして、佇む黒い影。
「……やぁ、こんばんは」
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