複雑・ファジー小説
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- きっとこれは、再開の物語
- 日時: 2018/04/26 10:43
- 名前: 蓮宮雨天 (ID: EnyMsQhk)
俺はこれから、全く知りもしない高校の生徒会長として過ごしていく。どういった状況なんだろうなと、鏡に映った自分へと問いかけた。君は、何を想って生徒会長に立候補なんてしたんだい。問いかけても、答えてくれない自分の写し絵。曖昧な笑顔を浮かべるだけで考えようともしてくれなかった。腹立たしいなと思えども、何も答えられないのも、微妙な苦笑を浮かべているのも、全て自分自身だ。
机の上に広がった大学ノートに、丁寧な字で記された、楓 秀也の三文字。見覚えなんて全く無いのに、どこか懐かしい言葉の響き。俺の名前、らしかった。ズキズキと、抜糸したばかりの頭の怪我が痛んだ。もう傷跡すらほとんど残っていないというのに、古傷が疼く。俺の知らない言葉に、思い出に、声に、旧懐を感じる度に襲い来る痛み。まったく嫌になるなと、眉をひそめた。早いところ着替えてしまおう。
歯も洗い終えたので、洗面所を後にした。朝食の珈琲の余韻などすっかり消え失せて、歯磨き粉のミントの匂いだけが口の中に。息を吸って、吐く度に、鼻腔を涼やかな風が突き抜けた。けれどもそれとは裏腹に、俺の脳裏は曇るばかりだ。透明感なんて、何一つありやしない。
着替えようと自室へ向かう。なぜだか俺の足は階段の上へと向かおうとしていた。自室は一階にあると言うのに。同時に、ズキリと悲鳴を上げる傷跡。なるほどどうやら、記憶を失う前は俺の部屋は二階にあったらしい。着替えるという行為に、段を登るという動作が密接に結びついていたのだろう。
先月、三月の十四日に俺は事故で記憶を失った。学校の階段から転落して、全身と、そして頭とを強く打ち付けた。理由は俺自身覚えていない、それも当然だ。足を踏み外したとしても、それは頭を打ち付けるよりも前の記憶なのだから。全てを忘れた後に目が覚めた俺が、初めて目にした日付は、2014年の三月十七日だった。全身ところどころに打撲、擦り傷があれども、それ以外に目立った外傷は頭しか無かったらしい。その頭頂部の傷こそが何よりも問題だったとはいえ、一命をとりとめた以上、骨折などの重篤な、遠い先まで後遺症が残るような傷を負わなかったのは救いと言うべきだろうか。
もう一つ救いがあるとしたら、すぐに応急手当をして通報してくれた生徒がいたらしいことだ。彼女は階下にいたせいで、どうして俺が落ちたのかなど知りはしないようだった。どうしてだかそれを口にするとき、彼女の目が泳いでいた。だから、知らないと言う言葉も嘘なのかもしれない。けれども、助けてくれた恩人を疑うような真似はできなかった。
もしかしたら誰かが故意に突き飛ばしたのかもしれないと、警察まで動いたらしい。どういった捜査をしていたのか、病院にずっと閉じ込められていた俺には分からないが、まさに俺が階段を鞭打ちになったであろう時刻にその周囲に居合わせたのは、例の女生徒一人だけと言う話だ。
その時期と言えば、紅葉谷学園は、すなわち俺が通っている高校は春休みで、部活動でも無ければそうそう学校には来ない。教室が立ち並ぶ棟の周囲に誰もいないのは、当然と言えば当然だった。何せ文科系の部活動は芸術の授業を行うための別棟で行われているし、部室棟はその別棟のさらに向こう側。つまるところ、俺が事故を起こしたところ、本棟というのは長期休暇中に生徒が立ち寄らない場所なのだ。教員も、一階の職員室にしか用がない。それゆえ、上の階の出来事など誰も知りはしなかった。
そんな時期に、そんな本棟に、どうして俺と第一発見者の女生徒がいたかと言うのには訳があるようだった。本棟の二階、その一番奥に生徒会室がある。生徒会長である俺と、副会長を名乗った彼女が雑務をしていたらしい。わざわざ夕方に仕事をしていたのは、おそらく俺が所属する陸上部がその日、一時から三時まで練習をしていたからだろう。その後、来るべき新入生を迎える日の準備に、俺と副会長とは陽が沈む中黙々と作業をしていたそうだ。
それで、帰ろうとして生徒会室の鍵を返しに、彼女だけが一階に降りていたらしい。その後「おい」と叫ぶ俺の声がこだまして、肉を床に何度も叩きつける大きな音。教員室から駆け付ければ、頭から血を流し、意識を失った俺が倒れていた、とのことだ。
それにしても、過保護だよなと照れくささを隠すように呟いて、新しくなった自室へと戻った。俺が推理するに、階段から転げ落ちた俺のことを考えて、両親は元々二階にあったであろう俺の部屋を一階へと引っ越させたのだろう。急いで家具を移動させたのか、床板はところどころ、日焼けしていない部分が見えていた。おそらくつい先日まで、この部屋の間取りは今とは全く異なっていたはずだ。カーペットも元々敷かれていないような書斎でもあったのだろう。何となく、紙の古びた匂いがした。そのような思い出があるということは、きっと俺も家族も、読書を好む家系なのだろう。
記憶を失ってしまった。けれども両親はそんな俺が不自由しないようにと、そんな事にまで気を配ってくれていた。だからこそ、二人の事を想うと申し訳なさがこみ上げる。今現在の俺にとって、彼と彼女とは父と母を自称する、人のいい大人達にしか見えないからだ。強いて挙げるならば、彼らから注がれる愛情だけが、自分が二人の息子であるという証明のように思えた。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。このままでは薄暗いなと、俺はザっと音を立ててレールを走らせつつ、目いっぱいに陽の光を浴びた。差し込んだ日差しに、急に部屋が明るくなる。
クローゼットを開けて、ピシッと布の張った学ランと、カッターシャツとを取り出した。金色に煌くボタンと、襟につける校章とには、この学園のシンボルである紅葉が彫られている。それと同時に、襟には二本線の入ったもう一つのバッジ。これは、自分が第二学年であることを指すらしい。
白いシャツに袖を通して、今度はズボンを探す。すぐに見つかったので今度はそちらを履き、最後に真っ黒な学ランを着込んだ。今日は新年度初日で、本来ならば俺の学年は行かなくても構わない。けれども俺は生徒会長らしく、入学式に顔を出せるならば新入生へと挨拶をさせてもらえるらしい。
最初、もう既に決まっていたらしい、今年の担任が見舞いにきた際、生徒会長を今の副会長に引き継ぐかと尋ねられた。しかし俺はその申し出を断った。なぜなのかは、当時の自分に聞かなければ分からないが、彼にも何か理由があって生徒会長を志したのかもしれない。かつての俺自身を裏切りたくない、その一念で俺は、今までの記憶を失ったままでもその役目を全うすると決めた。
特に今日必要な荷物は存在しない。とりあえず俺は、エナメルの鞄にクリアファイルと筆記用具、それとランニングシューズとを入れた。入学式が終わった後に、陸上部の部活動がある。おおよそ、三週間ぶりの部活動になるだろうか。今日の日付は四月三日、大体間違いではない。スカスカの鞄を持ち上げ、肩にかける。中身は全然詰まっていないのに、どうしてだかその鞄は、地蔵でも持ち上げたのかと感じるほどに、俺の身にずしりと圧し掛かってきた。
記憶の重みとでも言えばいいかな。息を大きく吸って、ゆっくりと吐き出した。やけにかしこまった膝を殴り、一歩目を踏み出した。ドアの方へと歩み寄る。錆び付いたのかと勘違いするほどに、そのドアノブが堅く感じられてならなかった。自室に入る際にはあんなに簡単に開いた扉があまりに固い。
しっかりしろ。自分を叱咤した。向こうでは母親を待たせてしまっている。通う高校は自宅から自転車で十分程度のところにあるが、その道のりを忘れてしまったが故に今日だけは母親と二人で歩いていくことになっていた。
彼女やその夫との思い出を失っただけでも親不孝者だというのに、これ以上迷惑をかけてなるものか。震える指先に力を込めた。何とかドアノブが回る。開くとそこには、ただの廊下が広がっていた。向こうから来る人と、こちらから行く人、それらが辛うじてすれ違う程度しかない幅。
だというのに、そこすら未知の世界だからか、俺の目には恐ろしく広く見えた。この部屋の敷居が、赤茶色の地面に浮かんだ、白線のように思えた。四月だと言うのに、じりじりと照り付ける夏の日差しに焼かれているような錯覚。それと同時にまた、俺を苛ませる鋭い頭痛。
なるほど今の景色は、錯覚は、陸上に関するものなのだろう。とすればこの敷居こそが、生まれ変わった楓 秀也の、スタートラインという訳か。二度目の人生。きっとこれは、再開の物語。
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- Re: きっとこれは、再開の物語 ( No.2 )
- 日時: 2018/04/26 12:26
- 名前: 蓮宮雨天 (ID: EnyMsQhk)
部屋から一歩外に踏み出せば、急に現実に戻ったような心地だった。広々と感じられたフローリングの廊下が、急に狭苦しくなる。とは言っても、一人で歩く分には決して窮屈では無いのだが。リビングに向かうために、玄関の前を通り過ぎる。父親の革靴がもう無い。起きた時には出勤してしまっていたからだ。
大体父親は七時ごろに家を出る。それは、普段の俺が学校へ向かう時間と同じだったらしい。母親は、毎日のように二人の背中をまとめて見送っていたのだとか。対して今日は、入学式が十時から行われる。俺は九時半に着けばいいとのことだったので、八時ごろまでゆっくりと寝過ごしていた。起きて、ダラダラとご飯を食べて、歯を磨いて着替えて、そして今。
時計は九時ぴったりを指していた。今から出れば、徒歩でも二十分ごろには着くことができるだろう。何となく、遅れてはならないとうずうずしてしまう。十分前行動が染みついているのだな、俺には。それを察してか、リビングの方から母親の姿。そろそろ見慣れてきた、彼女の容姿は、年齢を感じさせないほどに若々しかった。
楓 麗子、二十三で入籍し、二十四で俺を生んだらしい。確かに俺の目元の雰囲気は彼女と見比べる限り、よく似ていた。今年の誕生日さえ迎えれば、四十一になるというに、染みもなく手入れの行き届いた肌は、テレビで見る三十代前半の女性タレント達と相違なかった。絶世の美女という程でもないが、薄く化粧をしただけで彼女は、充分に綺麗な女性だと言えるように思う。若い頃の写真はもっと端麗な容姿であって、そちらは人目を引きそうな程の佳人であったため、やはり寄る年波の影響はあったのだろう。
準備も万端な俺の様子を見て、やはり貴方は変わらないねと、嬉しそうに相好を崩す。何だか、ギリギリまで待つのが違和感があって。などと取り繕って本心を隠した。どの口で言えたものだろうか、やはりと言われても、変わらないと告げられても、彼女を真に喜ばせているのは俺ではない別の誰かだなんて。貴女の望むその子は俺ではないだなんて。
小さな手提げかばんと、先生たちに贈るであろう菓子折りの入った少し大きな紙袋を提げた、彼女と共に玄関の方へと戻る。部屋を出るのがあれだけ億劫であったのに、家から出ようとする足は驚くほどに軽かった。彼女と一緒だからだろうか。共にいるだけで、気の休まるこの関係が、家族だというのだろうか。
靴ベラを使ってスニーカーを履く。足がピタリと収まり、履き慣れた靴であると実感した。つま先の辺りが少し削れて、靴紐の先の方がほつれている。いっそそろそろ買い替え時ではなかろうかとも思うが、白い部分が思ったほど汚れておらず、靴底もまだ残っていることから問題ないかと考え直した。何となく靴ベラを使ってみたけれど、実際にこの靴には踵を履き潰した様子など無い。実際にこれが、僕の普段の靴の履き方で合っていたようだ。確証こそ、無いけれど。
扉の先には黒い門があった。門の両脇には、茎をすくすくと伸ばしている途中の草花が花壇に根を生やしている。園芸が両親の、週末の細やかな趣味らしかった。この前埋めたばかりなのに、すくすく伸びて可愛らしいと、母親は笑っていたっけな。
その言葉をいつ聞いたものかと思い返す。記憶喪失を患ってからのこの短い期間に、そんな軽口を叩くような機会があっただろうか。自覚すると共に、脳を抉るような激痛が、また。なるほどこれは、かつての俺の記憶だったようだ。痛みに呻けども、かつての自分に近づけたような気がして、少しだけ嬉しかった。
四月の朝、冷たい空気が頬を撫でた。数歩踏み出して日向へ。温かく、柔らかな印象の日差しに当てられるとより一層に冷たい風を実感する。春一番が吹くと言うだけあって、この時期は少し風が強い、そんな感慨を胸にして。光に匂いなんてついている訳が無いのに、どうしてだか俺は春の匂いをその陽光に感じてしまった。
「ね、秀也」
一足先に外へと出た俺が振り返れば、スマートフォンを構えた母の姿。
「時間、取らせないから。ちょっと門の外に出たら立ってみて」
二年生となって、初登校。その記念に写真を残したいのだろう。だから俺は、いいよと短く答えて、顔を綻ばせる。そんな事で喜んでくれるなら、十枚でも二十枚でも、好きにとってくれて構わない。
街並みに咲き誇る花びらと同じ、桜色のスマートフォンを手にして、彼女は俺の前に立つ。自宅を背にして俺は、心ばかりのピースサインを顔の横に並べて、シャッターの切られる音を二、三度その耳に。撮った写真を確認し、ぶれていないかを確認したら彼女は、良しと言ってスマートフォンを手提げかばんの中に入れた。
「じゃ、行こう」
「そうね。先輩なんだから、秀也が遅れちゃ駄目よね」
学校へと向けて、歩き出す。十六年という歳月をかけて暮らしてきた、家の周りの景色さえ今の俺には新鮮だ。近くのコンビニやスーパーまでの経路はもう覚えたが、それでも俺には引っ越してきたばかりの土地に思える。引っ越しなどした試しはないけど、どうせこのようなものだろう。
とは言っても、この辺りは少し栄えた住宅地になっている程度だ。東京や横浜とは訳が違う。K県柊木市、高級住宅街として有名な土地で、この辺りにある中学校からは、毎年多くの紅葉谷生を輩出しているのだとか。
歩く道すがらも俺は、これから俺が通う紅葉谷学園について母親に色々と尋ねてみる。彼女は、こうやって説明するのも何だか懐かしいわねと、上品な笑みを漏らした。別に、お金があるからだと偏見を持つつもりはないが、彼女のその声に、この人も育ちがよさそうだ、などと考えたりして。
「紅葉谷はね、県で一番の進学校よ。公立の高校で、生徒は一学年三百二十人。普通科だけで成り立っているわ」
よくそんな所に入学できたものだなと、俺は中学校時代の自分の努力に感心した。きっと当時の楓 秀也その人は、さぞかし努力したに違いない。誰のために頑張っていたのだろうな。親のためかな、それとも、自分のためか。偏差値の高い高校へと進んだ彼は、一体何になることを目標に生きていたのだろうか。
「学校の掲げる校風は主に二つ、『文武両道』と『生徒の自主性』ね」
勉学に優れていることなど、わざわざ自慢するような事ではない。できて当然なのだから、授業さえきちんと受ければ優秀で当たり前なのだから。高校で学ぶべきは学問の知識だけではない、クラスという共同体と、そして部活動と言う場、それらの中で他者との関わり方を学ぶべきだという理念がまず、文武両道に現れている。これは運動部に入れと言う訳ではなく、吹奏楽部やオーケストラ部と言った文化的な活動に力を注ぐ生徒も多いのだとか。
生徒の自主性は、学校行事の際に色濃く出るらしい。というのも紅葉谷は、さまざまな学校行事を、教師と手を取り合って生徒会が運営するらしい。これはきちんと覚えておかないとなと、頭の中のメモ帳にきちんと書き込んでおく。何せ自分の仕事なのだから。
「直近で言うと、ゴールデンウィーク明けの球技大会ね」
二、三年生にとっては新クラス、一年生にとっては全てが新しい環境における、最初の一大イベント。それが球技大会なのだと彼女は言う。クラス対抗で、男子はバスケットボール、女子はバレーボールで競い合い、優勝したクラスには小さなトロフィーが贈られる。団体競技であるため連携を取る中で話すきっかけになることもあるし、同じクラスの者を応援して、されて、仲良くなることもある。
「漫画とかなら何人かふけちゃいそうな行事だ」
「あら、そんなことは無いわよ」
「どうして?」
球技大会だなんて疲れるもの、やってられるかと投げ出すような生徒が数人いてもおかしくないだろうに。そんなこと無いと告げる母の瞳に、嘘偽りの色は見られなかった。
「だってそんな子は、紅葉谷に受からないもの」
生まれつき頭のいい子が、品行方正に努力してようやっと入るのが紅葉谷だと彼女は言う。進学実績が高いに関わらず、授業のカリキュラムが良心的で、部活動まで自由にさせてくれる紅葉谷は、勉強に励む中学生から見ると憧れのようだ。
他の進学校は多くの場合、時間割が十講目まで刻まれる様なものであったりするらしい。楽しい事として部活に時間を捧げつつ、恥じ入るところなどどこにも無いほど有名大学への生徒輩出数を誇るのは、この近辺において紅葉谷をおいて他にはない。それゆえ、誰しも努力するし、折角入ったのだからとあらゆる行事は満喫する。
「よく言うじゃない。進学校ほど校則は緩いし、教師も束縛しないって。秀也達が真面目だからよ」
そんなものかと、何だか言いくるめられたような気になる。何せ俺は、他の生徒の人柄を何一つ知らない。知っているのは、見舞いに訪れた副会長くらいのものであった。記憶喪失だから、かつての友人が来ても互いに困惑するだけだと、両親が面会を断ってくれていたらしい。実際のところ、彼らは自分たちが俺とできるだけ接していたいという側面もあったのだろう。しかしその配慮は、やはり俺にとって喜ばしいものだった。君は誰だと尋ねて悲しむ顔は、両親を名乗る二人のそれだけで、充分に胸が痛かった。
そんな俺の頭を、母が撫でる。上からくしゃりと力を受けて、視界に前髪が入り込んだ。陽の光を受けているせいか、はちみつ色に輝いているように見える。
「だからこそ、貴方のこれだって受け入れられているのよ」
生まれつき俺は、黒い色素を産生しにくい体質らしい。両親はそのようなことが特に無かったようだが、もう死んでしまった祖父が同じような体質だったとか。それゆえ俺は瞳の色も、髪の色も、何ならすね毛だってそうなのだけれど、明るい茶の色をしていた。それが理由で小学校の頃は疎外されたこともあるようだが、全く記憶に無い。
ただ、髪を染めていても何も咎められない校風だからこそ、俺のこの髪はわざわざ黒く染めずとも許されている、らしい。
「だから、皆に楽しんでもらえるように、これから頑張らなきゃね」
頑張れ生徒会長。彼女は頭を撫でるのを止めて、そのまま今度は俺の背中を叩いた。乾いた音が大きく響いたと言うに、痛くなんて無かった。むしろ優しく背中を押して貰えたように思う。
その背を押してくれる手の温もりが、ずっと見守ってくれそうな眼差しが、何だかこそばゆくて。周囲の様子を窺うようにして俺は、目を背けてしまった。
「頑張らなきゃな」
なんて一人、復唱してみたりなんかした。
- Re: きっとこれは、再開の物語 ( No.3 )
- 日時: 2018/05/11 23:39
- 名前: 蓮宮雨天 (ID: hgzyUMgo)
生まれ変わった楓 秀也、要するに今の自分が通学路を歩むのは初めてだった。だから目に映る景色がとても新鮮で、簡素なものでも関心が惹かれる。あそこには桜の並木道があるのかと知ったり、あそこには眼科があるのかと把握したり。
一度だけ、退院した次の日に学校へ……というより教員室へ訪問している。心配している先生方もいるだろうからと、両親に言われて。父の運転する車に乗せられて、気付けば着いていたためその道のりはあまり確認していなかった。
柊木の街並みは大体こんな感じの落ち着いた住宅街ねと、母は言う。一軒一軒の敷地は広いようで、綺麗な塗装の二階建て、時に三階建ての一軒家に庭が添えられているような家が多い。庭にはその住人により様々な木々が植わっており、梅の花が落ちる家もあれば、一本だけ細い桜の枝が伸び、丁度今花が咲き誇っているような家も。
我が家は木ではなく花壇のようだが、同じような家も多かった。名前も知らない紫の花やオレンジの花びらが目についたり、食べれるかもわからない真っ赤な果実を実らせた所もある。
総じて言えることと言えば、こうやって自宅でも草花を楽しめるような、優雅な趣味を持つ裕福な家が多いのだという事だ。
敷地の大きさもさることながら、多くの家はその外装だけでも充分に凝った代物だと分かった。一つとして同じ印象を覚えるようなものはなく、一軒ごとにその家主の趣味が窺えた。
ここは確か部活のお友達の家だったかな。ここはクラスメイトのお家よ。そんな母の声は聞こえてはいるけれどそうすぐには覚えられない。さっき伝え忘れたらしいけれど、自宅の斜向かいの家は陸上部の先輩の家らしい。
この辺りから紅葉谷に進学する人が多いと言われたのを、それらの言葉により実感した。少し歩くだけでまた、俺の知り合いだった誰かの家。けれども、そこに住む友の顔を、俺は思い出すことができなかった。
進めば進むほど、また違った花の香り。甘ったるい匂いがしたかと思うと、次に香ったのはもっと爽やかで控えめなもの。空気が歩くたびに顔色を変えるようで面白いな、などと考えながら歩いていると、鎖が鳴る音がした。耳の端をこっそり駆けるような小さな音。何かと思えば、そんな呑気な俺を驚かせようと犬の吠える大きな声が響き渡った。大型犬の低く唸るような声に気圧されて、大袈裟なリアクションをとってしまった。
「あら、随分かわいらしく驚くわね」
小学校の頃に戻ったみたいよと微笑む母親。なるほど、今度からこの家の前は避けるような通学路を確保しよう。
柊木を抜けると、紅葉谷学園のある椿姫つばき町へ。その様相ががらりと変わった。市の境目を隔ててきっぱりと別の町になっているようだった。
西行きの一方通行の大通りと、東行きの一方通行の大通り、それらによって柊木市と椿姫町とは分かたれている。椿姫町は紅葉谷学園を中心として、学生が喜ぶような店が数多く展開されている。それゆえ住宅の立ち並ぶさっきまでの町並みとは一風変わった景色を見せつけていた。
ゲームセンターにファーストフード店、コンビニにカラオケなど、遊びたくなるような場所や部活帰りに寄りたい飲食店など様々だ。その向こう、ほんの少し坂を登ったところに、高いフェンス、そしてネットに区切られた広い土地が見えた。奥には、大きな時計が側面に掲げられた、ちょっと古ぼけた校舎。歴史は遡ること約130年。全国的にも一番を争うほど昔に設立された学校。移転により、校舎自体は還暦を迎えるか迎えないか、といったところではあるが。
坂の下から校舎を見つめても別段頭痛はしなかった。だが、大通りを渡り椿姫の道に踏み入れ、その匂いを嗅いだ途端に懐かしさがやってきた。パン屋の正面に漂う焼き立てのパンの芳香。精肉店がコロッケを揚げている小気味良い音と香ばしさ。それらはきっと、部活帰りの俺がかつて口にしていたもの達だろう。
またしても、傷口が疼くような感覚。俺はここで、誰と笑い合いながら道草食ってたんだろうか。それは、今日のクラブ活動の後に誰かに教えてもらえばいいか。押し寄せる鈍痛などには屈しない。向かいたい場所があるのだから。
坂と言ってもずっとなだらかで、特別登るのはしんどくなかった。それは当然、母親こそ息は上がっていたものの、怪我をする前は毎日のように走っていたらしい俺にとっては息が乱れることもない。
ふうふう息をもらす彼女に歩幅を合わせる。まだ、着くべき時間までは十分ほどある。学園自体は目と鼻の先だし、遅刻は無さそうだ。この辺りに差し掛かると、同じ制服を着た生徒が多数見受けられた。サイズの合わない服の袖に手が隠れている。埃も皺もついてないその様子と、初々しさと緊張の溢れる表情から彼らが新入生かと理解した。校章は錆で色褪せてないし、並ぶ学年証も一本線。
何処と無く全員誇らしげなのは、ここの高校に受かったと言うだけの自負があるのだろうか。
「去年の秀也達もこんな風だったのかしらね」
多目的ホールで行われるため、スペースの都合で保護者抜きで入学式は行われるのだとか。何せ入学式は一時間と少々ですぐ終わり、そのまま一年生達はそれぞれのクラスでのホームルームに長いこと時間を取られる。そこまで大袈裟な式にする訳にもいかず、保護者を招くほどのものではない。それに親御さんがこぞって生徒達の写真でも撮ろうものなら時間を奪われて仕方ない。
俺が彼らの前で話すのは式の中頃の事だとか。原稿は予め先生方が書いてくれているのだとか。用意周到で有難い。例年は会長が自ら作っているらしいのだが、今年はそれどころでは無かったから仕方ない。
入学式くらい代役を立てるかと以前副会長を推されたが、最初から人に任せっぱなしで業務など達成できはしない。ちゃんとやり遂げると決めた以上、俺の中に最初から投げ出すと言う選択肢は無かった。
そんな俺を見透かしてか、はたまたただの偶然か、後ろから一つの風がやって来た。緩い坂を上りながら肩で空気を切るように、自転車に跨った彼女は俺たちを追い抜いた。
「あら」
なんて声がして、こちらに気が付いた彼女は漕ぐ足を止めた。ブレーキをかけ、ハンドルごと振り返る。ショートカットの黒髪、美しい切れ長の瞳は、本人にそのつもりは無いのだが、冷たく鋭く、睨んでいるようだった。それなのに、とても綺麗だった。肌が白い事からも、雪女ではないかと思ってしまう程に。制服の袖と、手袋の間、少しだけ覗いた手首は艶めかしい白磁のようだった。
スカートの丈は膝より十ずっと上でかなり短い部類だが、その代わりに黒いストッキングで足全体を覆っている。細い足の輪郭が浮かぶ。これでバスケ部だと言うのが信じられない。華奢な体つきだが、うちの次期エース、なのだとか。
才学非凡、文武両道、雲中白鶴だが今一人望が足りない。彼女は自分でそう言っていた。自分で言ってはいたが、最初にそう書かれたのは新聞部の発行する学内新聞だったそうだ。そこの言葉をそのまま借りただけ。
記憶を失ったばかりの俺が唯一会った事のある同じ高校の同級生、副会長だ。
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