複雑・ファジー小説
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- Lion Heart In White
- 日時: 2018/09/20 17:51
- 名前: 玲央 (ID: EnyMsQhk)
※能力ものです
※高校生物知ってた方が良いです
※No.3以降出てくる教授が時折差別的発言をしますが、作者の意見ではございません。
獅子心の寵児 >>1 >>2
適応力の寵児 >>3 >>4
向日葵の寵児 >>5
×××の捨子 >>6
- Re: Lion Heart In White ( No.2 )
- 日時: 2018/06/04 12:25
- 名前: 玲央 (ID: 8hur85re)
お茶室での談笑から、二時間後。仕掛けていた反応が一段落したことをTLC、薄層クロマトグラフィーにより確認した後に、溶媒を飛ばし濃縮を行っていた。この後は脂溶性の試薬と分離するために、一度目的の化合物をイオン化させて分液に入る。
エバポレーター、すなわち減圧下での蒸留装置が安定しているのを確認し、その正面に立ちスマートフォンを操っていたところに、もう一人部屋に入ってきた。また会ったなと、彼女の平坦な声。そのまま彼女は、別段抑揚も無い声で並び立つ彼に問いかけた。
「心。そんな名前をしている臓器があると、君は本当に思うか」
「いつもいつも、お前の問いは藪から棒だ」
「さっきの延長だよ。当然私が今議題として掲げたのは、心室と心房を持つ、血流を巡回させるポンプのことを指してはいない」
「素直に心臓じゃないと言え。ハートの方だろ?」
「心臓とて英語ではハートだ。ついには英語まで不得手になったか」
「ほっとけ。ずっと論文くらいしか読んでないから心臓と言えばcardioなんだよ」
君でも論文を読むことがちゃんとあるんだなと相好を崩す。関心関心と、誉めているのか煽っているのか分からない口ぶりに、お前は俺の保護者かと凸レンズ越しに赤い瞳を注視する。心底楽しんでいる様子の彼女と目があった。
「まあ良い。どうせ溶媒飛ばしてるあと五分程度は暇だから答えてやるよ」
「優しいな、君は。ありがとう」
白金の髪をかきあげて耳にかける。くたびれた白衣は試薬でところどころ染みが付いていた。どうせ俺が邪険に扱えないだなんて知っているだろうに。口には出さずに彼は、恨みがましい想いを眼光に乗せた。
彼には邪険に扱えない。その期待は彼女の、寵児としての能力と言うよりもむしろ、これまでの両者の交流から来るものであった。
「俺は無いと思ってる」
「意外だな。君は割りとそういった事にロマンを感じると思っていたが」
「確かにあるような気はする。でも無い。それが冷静に考える俺の出した答えだ」
「ふむ、ありそうで無いか。とすると他の臓器がその機能を代行していると考えているのかな?」
「エスパーかよ」
「エスパーではあるな。尤も今のは関係ない、ただの推測だ」
ウインクをし、開いた側の目を人差し指で示す。光っていないだろうとその顔を少し近づけた。と言っても身長差があるためそれほど近寄れない。見下ろした先の虹彩が瞳より強い朱色の円を描いているのが皆既月食のようだった。
「ったく、鋭いったらありゃしない。お前の恋人は浮気できないな」
「問題ない。私の恋人は研究だからな。時折すげない態度を取ってくるが」
「それでもその冷たい態度に惹かれてしまう、ってか」
「いや、そんな時はぶん殴ってやりたくなる」
「器具は壊すなよ」
「……以後、善処しよう」
「もう割ってんのかよ」
「冗談だ」
真に受けるなと咎めるような彼女の白い目。お前が言うと冗談に聞こえないと男の方はたじたじである。実験器具は高いのだから意図的に割る訳が無いだろうと、至って一般論のように彼女は口にするが、安ければ割るのかと彼は身震いした。
「では、代替器官は何処かね」
「脳だな。人間に限らず、生物はその脳でものを考えてる」
「間違いないな。思考、学習、想像、忘却。全ては脳が遂行している。必要な情報のダウンロードに、それを我が物として利用するイマジネーション、最後には不要な代物を棄却する」
「そんな格式張った堅苦しい言い方しなくてもいいだろ……」
「何にせよ感情も、思考回路の一部に組み込まれている故に脳が支配していると考えているのだな」
首肯する彼に、得心がいったかいっていないか曖昧な様子でなるほどと呟くアルビノの女。マネキンみたいな乳白色の肌が、マネキンでないと主張するように揺れた。顎に手を添え、物思いに耽る。添えた指をリズムよく小刻みに動かすのが、彼女が思考する際のルーティーンだ。
「そんな考え込むことか?」
「いや、最も普通な考えを初めに言われてしまったものだからな。ただ適当に答えるような人でないと理解している以上、正論にどう対抗したものかと考えているのだよ」
「普通で悪かったな」
「むくれないでくれ。貶してる訳じゃないんだ。真っ直ぐ考えてくれた上で脳だと言い切られた際に、私は私の論をどう伝えたものか悩ましくてな」
この問いに対する答えは、脳だというものがマジョリティであり、また、説得力も強い。マイノリティに代表があるとすれば、心とは心臓に属しているというものだ。緊張に激昂、心が高ぶった時にその鼓動は強く、激しくなる。脳が己の怒りを自覚するより先に、心臓が強く跳ねることも。安堵し、リラックスすれば拍動までゆったりと落ち着くものであるし、そのために落ち着いた体から、ようやく心身が弛緩したと知ることも多い。
「ふーん。白の意見はどうなんだ?」
彼女の名は、その雪のように白い肌から付けられた。当時はまだ寵児は一般的に認知されておらず、血の色が透けてしまいそうなほど色素の薄い彼女の姿は、神々しいと言えた。
彼女の持つ寵愛《チカラ》、それはその能力も由来ではあるが、彼女の名字も併せてその呼称が与えられた。それはまさに、百獣の王たる特異能力。獅子心の寵児はある程度意見がまとまったのか、顎に当てていた手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
獅道 白《シドウ マシラ》、彼女は前述二件のどちらの意見でも無く、それ以前の二択で分岐したその先に主張があった。その答えを耳にした彼はというと、咄嗟に我が聴覚を疑った。あるいは神経の伝達を疑った。どこかでシナプスを越える際、誤報を伝達したかと不安になる。
しかし、彼女がそう述べたのは決して嘘ではなかった。私は心という臓器が存在していると思うのだよ、ただ誰にも見えないだけで。そう告げ、目の前で黙りこくってしまった男をじっと見つめる。異性間特有の、わたあめみたいな柔らかさも甘ったるさも無く、路傍の蝶をじっと観察するような視線。
そしてふと、思い出したように一言。
「私を除いて、の話だがな」
と言い添えた。
「ある……ってのが、お前の、意見」
じっと降り注がれる視線、射抜かれ続けた彼は、せっつかれたようにようやく応答した。受け入れ難い事実を、咀嚼して無理矢理嚥下するように、体は対照的に、一息一息単語を吐き出した。
「ああ。その気になれば心が見え、聞こえる。そんな私だからこそ信じられる意見。それこそが五臓六腑を越えた先、第十二の器官として『心』は実在するというもの。それは目で触れることもメスを入れることもできないが、間違いなくここにある」
ここ、そう発音する際にトントンと胸元の辺りを叩いた。雪の精みたいな、艶かしく細い指がさらさらと風になびいたようであった。
「頭脳にも体にも支配されずむしろ、感情という曖昧模糊な判断基準バイアスをかけることで、平時のその人とはまた異なる行動決定をさせかねない、言うなれば心身を掌握する臓器。そして胃が消化、腸が吸収、腎臓が濾過など、その臓器特有の能力を持つだけあって、心にも重要な役割がある」
「重要な、役割……? 他者を思いやるため、集団生活を円滑に進めるため?」
「いや、それは所詮副次品に過ぎない。何せ世の中全員が協調性のある善人ではないからな」
「じゃあ、心の役割って?」
「個性の確立さ。己を己たらしめるもの、それが十二番目の臓器だ。そしてそれは、個性というそれぞれ違った多様性を産み出す代物にして、思考と行動を円滑に繋ぎ止める代物」
理解するより早く体が動くことがある。頭では正しいと思っていても、怒りに溺れて掴みかかってしまうことも。それだけではない、泣いちゃ駄目だと食いしばっても涙を堪えるなんて叶わないこともある。
人体は脳が支配している。確かにそうではあるが、時としてそれは理性で制御しきれない。理性は、思考は、すなわち脳は感情により支配される。感覚器官からの報告をまとめ、筋肉と臓腑に命令を下す最高司令。そのように認識されている。
「誰もが己の頭で考えて、意思決定し、行動する。そう思っていることだろう。しかし頭脳は常にさらに上の調節組織により影響を受けている」
「それこそが、心だって? どうやって指令飛ばすんだよ。ホルモンでも分泌するか?」
シナプス伝達ならカルシウムイオン、交感神経ならノルアドレナリン、副交感であればアセチルコリン、その他様々な放出ホルモンに、さらには放出ホルモンを分泌するよう刺激するホルモン。そういった分子を必要に応じて用いることで体内のスイッチを切り替える。
では、心という臓器が目に見えないのならば、触れられないのならば、どのようにして脳細胞に刺激伝達をするのだろうか。そのための情報伝達物質に何を用いているのだろうか。白の眼光が怪しく瞬いた。彼の抱えたその疑問を読み取ったのか、「分からないか」と少しだけ湿っぽい笑みを浮かべた。
「私はな、そのホルモンやイオン、JAKにSTAT、IRFの代わりこそがすなわち、感情であると考えている」
「ごめん、ジャック以降分からん」
「知らなくて構わない。ホルモンとて、分泌して数秒後に効果が出る訳でもないし、JAKなんかは薬剤でその下流経路を阻害できる。感情による行動制御が上手くいく時といかない時があるのも、それと同じだと思えば生体の一部と考えられる」
「感情によって人体は制御されてる? でもそんな刺激どうやって出すんだよ?」
「それは未知の世界だな。何か観測不能のパルスでも飛ばしているんじゃないか? 私にしか見れないけれど」
「そんなファンタジーみたいな事言うような柄じゃないだろ?」
「ふふ、だから私は一番初めに伝えていたじゃないか」
思い出してごらんよと白は男をせっついた。一番初め、心は実在するかという問いなのかと確認すれば、そうではないと否定する。首を左右に、同時に揺れる白金の髪の束。ふわりと、洗髪剤の芳香が漂った。主張しすぎない爽やかな甘さに、人外に思えることのある彼女も、女性ではあるのだなと男は改めて見直した。
「私は科学に触れていると、オカルトを感じる時があるんだ」
「あぁ、それか」
まさかそこまで遡るとは。そう言い訳しようとしたが、直前に控える。何せ彼女はこの部屋に踏み入った際、さっきの延長だとことわっていた。それならば一番初めの言葉とは、その言葉であってしかるべきだろう。
「人間を人間たらしめる、感情などというスピリチュアルな調節因子。それらは確かに存在するのだというのが私の持論なんだ。我々のフィジカルなパーツは全て、心によって制御されている。魂とも呼ぶべき操縦主により、私と君とに差異が生まれるんだ。まあ肉体を見たところで生殖器官は正反対ではあるが」
「その、人を人とも思わない無機質な性表現はほんとにお前らしいよ……」
「何を言ってるんだ、私だってちゃんと人をヒトだと感じているさ」
「お前絶対、今の言葉のどっちかを片仮名で言ってただろ」
「ばれたか」
それでは脳はどうなるのかと、彼は白に訪ねた。今の口ぶりでは、脳みそさえフィジカルに入ってしまう。しかし人々本来の認識であれば、脳もスピリチュアルに入れるべき代物だ。彼女の論を受け入れたとて、心と肉体を繋ぎ止める架け橋となっているはずだ。一概に、全て肉体的、物質的な器官だと言い切るのは憚られるように彼には思えた。
「いや、肉体的で間違いない」
「その根拠は?」
「そもそも脳が思考をするのは、本来の用途とは異なる副産物なのさ」
「そりゃまたどうして」
「まったく……君は質問ばかりだ」
「お前の話が難解だし、哲学混じりの科学なんだから俺は門外漢なんだ」
「はぁ……。脳とはな、そもそもの目的は体をコントロールすることだ」
大脳で思考をしているが、これは以前に自分が述べた通りに、リスクと欲求とのシーソーゲームの先に、平衡がとれた着地点を見つけているだけだろうなと彼女は言い切った。そのシーソーゲームの支点をどこに置くかを定めているのが心だ。その他の脳の仕事と言えば、ホルモン分泌に自律神経の統括、それに伴う消化と吸収の管理、さらに呼吸に拍動、眼球運動の管理。そして何より、小脳による筋肉の運動制御だ。
「脳の一番の存在理由は筋肉の制御だ。内臓とて、筋肉の塊に近いからな」
「そのままだと、タンパク質の挙動を決定しているに過ぎない、って事か」
「その通りだ。理解し始めると早いな君は」
「そりゃどうも」
「その肉体の動作に意味を持たせる。その人らしさを与える。誰かと差別化する。そのために第十二の臓器は生まれたんだよ」
その者の本質が現れる透明で不在の型紙。しかしヒトは、その型に当てはまるように生きてしまう。敷かれたレールは分岐していようとも、そのレールを外れることは決してできない。心あるが故に人間は、生命は、その個体であるという事実からは逃れることができないのだ。
「だからね、私は傲慢ながらもこう思ってしまうこともある。私の受けた恩寵、獅子心は『他者の本質を見抜く能力』であると」
話を聞いている彼には、その言葉が傲慢だとは到底思えなかった。隠そうとしている本心さえ見抜いてしまう彼女の力を知っていれば、その自己解釈は何一つ間違っていやしない。
「そして私はね、寵愛と呼ばれるこの能力というのも、実は新たなる内臓と呼んで差し支えないと考えているんだ」
「となると十三番目の臓器か。不吉な数字だなぁ」
「寵児なんて悪魔のようなものさ。悪魔が住むという数字に相応しい」
十二支や時計など、十二進法を用いるものが世の中には存在している。というのも、十二というのは比較的、約数の多い便利で整った数字だからだ。その十二を破り、一つ先に進んだ十三という数字は、調和を乱すとされている。何故なら13は素数であり、不便な数字に他ならない。
他人と異なる体色だけなら別段奇怪でも無いが、寵児は人間が持たない特別な力を持っている。それらを併せて見てしまうと、神々しさを得てしまう。しかしそれならばまだ気に病むことはない。しかしだ、神々しいとはそれ即ち人間離れしているとも言え、言い換えるならば悪魔に近似できる。
禁忌の子。生まれる時代が違えばきっと、そんな風に言われたことだろう。もしかすると魔女狩りの際には、そういった者を初めに処分していたのかもしれない。
「それに能力が生体組織の一部分だとすると、やはり私の違和感も通るだろうしな」
科学を学ぶ内に超科学的な代物を感じるという、認識の齟齬。その不一致がどうにも歯痒くて仕方ない。理解と納得との間を断絶するかのように走る溝を埋めるには、そんな理屈も捏ねねばなるまい。
「心や感情というのは存在するし、我々の意識というのは絶対に、電気信号と化学物質に左右されてしまう代物ではない。それが私の下した結論だ。この根拠は、ひどく頭が悪いように見えて、何よりも端的にそれを証明していると我ながら思う。これはな、証明された定理などでなく、そもそもの大前提、定義なのだよ」
世界が作られ、生命が生まれて、意識が生まれて発展していき、最後に心が必要に応じて生まれたのではない。ある時心が生まれて、それ以降劇的に生命体の在り方が変わった、心あるが故に世界が回っているのだ。
「ファンタジーと呼ばれても仕方ない。夢物語だし幻想に近い。それでも私が、私にしか見えない世界を眺めて、不安と恐怖とに揉まれて悩み抜いた結論はそれだったよ」
「……そっか」
「理解してるか、ほんとに」
「そんなに」
「だと思った」
「話が訳わかんねーんだよー。まだ学生なんだからそんなもんに答えられる訳ないじゃーん」
「茶化すな」
「言い訳だ」
「なおさらカッコ悪いな。ところで」
それは大丈夫なのかと、話に熱中するがあまり空っぽになってしまったナスフラスコを指差した。いつの間にか溶媒どころか、目的の物質まで飛んでしまっている。温度の設定を間違えたらしく、必要以上に水浴が温まっていた。
「やらかしたぁ……てか気づいてたんなら教えてくれよ」
「すまない、今気が付いた。私に聞こえるのは所詮生き物の声くらいのものだからな」
「まぁ、エバポかけ直すだけで済むから良いんだけどさぁ……」
「じゃあまた十分ほど頑張りたまえ」
そう言い残して、後から来たはずの彼女はフラスコを取ってドラフトの方へと戻っていった。順調なようで羨ましい限りである。
しかし彼女のかかえるその悩みは、決して自分では抱えたくもないものであった。
だからこそ、強く感じる。寵児は別に天よりの寵愛など何一つ受けていない。むしろ自分のように、人並みの悩みしか持たずに過ごしている方がよほど世界から愛されている。酢酸エチルの甘い匂いを嗅ぐ彼には、そうとしか思えなかった。
- Re: Lion Heart In White ( No.3 )
- 日時: 2018/06/07 18:26
- 名前: 玲央 (ID: EnyMsQhk)
問い一、どうして鳥は空を飛んだままなのか。
問い二、どうして一部の鳥は飛行能力を放棄した、あるいは獲得していないのか。
二つの問いかけ、その両者の答えは全く同一であると教授は口にしていた。酸素の減った肺の空気を吐き出して、新鮮な森の空気をめいっぱい取り込む。疲労で錆び付きつつある思考回路が、また輝き出す。それでも、簡単に答えは出てくれやしなかった。
「悩みどころだなぁ」
手入れもせず、ぼさぼさのままだらしなく伸び切った薄い金髪。顎の下まである横髪を指先で弄びながら、傾斜した大地を一歩、また一歩と進んでいく。出題者でもある教授のナップザック、ファスナーの引き手のところに糸でぶら下がるキーホルダーが揺れていた。
前者のみの質問であればいくらでも理由をこじつけられたであろう。空を飛んでいる方がメリットは多いから、地上には危険が多いが、空の天敵は同じ鳥類しか存在しないから。
ただ、あくまでもこじつけられるというだけ。それが正しいという訳では無い。何せ出題者は厳密な問題集でも何でもなく、一人の教授だ。彼が満足する答えを用意できねばそれは不正解になる。
「今のはむしろ、鳥が空を飛ぶようになったきっかけで答えるに相応しいものだ。地上には危険が多いから空に逃げようとした。空に逃げればその敵はほぼ存在しなくなる。それゆえ翼を持つ個体へと進化しようとしたとは説明できる。けれどもきっと、僕に出された問いの答えとしては不適切だ。既に獲得した飛行能力を持ち続けている意味。言うなればそれはきっと、飛ぶことのできる鳥が絶滅していない理由を述べろという事。だとすれば僕が考えるべきはもっと別の言葉」
目と鼻の先を歩く、初老の男にすら聞こえない程度の、口元でこもる呟き。まだ青年は若いと言うのに、老いてくたびれた獅子の鬣(たてがみ)を想起するような、無頓着でよれよれに波打った髪の毛が、歩調に合わせてまたふらふらと。
「そしてさらに考えるべきことは、『この問いの答えは問い二と同じである』という事。第二の問い、それは初めのものとは対極を成すような一文。鶏にペンギン、ダチョウ。世の中には飛べない鳥が数多く存在する。そういった種がどうして飛行能力を獲得しようとしてこなかったのか。それはおそらくだが、彼らはそんな事をせずとも生きていけるため。鶏は空を飛べない。しかし鶏は長距離を移動することも無ければ、エサを探してあちらこちら飛ぶ必要も無い。そこらを走って地面をつつき、ミミズでも啄んでいればそれでいい」
ペンギンにしたってそうだ。彼らは代わりに海中を泳ぐ能力を獲得している。鴨のように水面を這うボートのようにではない。もっと素早く、鋭く、水中を駆け抜ける。それはさながら魚雷のよう。ペンギンが長い距離を移動するには海中を進めばいい。それならば他の鳥類と同じような羽毛は抵抗が大きくなるばかりでむしろ邪魔になるのではないか。
そろそろ纏まってきそうだな。そう判断した青年は口を噤み、足を動かすことの他には思考に専念した。もうすぐ己なりの答えが出てくる。もう、喉の辺りまで来ていると言うのに、上手く唇から言葉として漏れ出てくれそうにない。歯がゆいなと感じるけれども、その残り十数センチの前進を為し遂げるには、最大限の集中力を必要とする。いつだって、大切なのは初めの一歩と最後の詰めだ。
都会の雑踏に紛れる人と同じように立ち並ぶ木々の隙間を縫い、上へと足を進め続ける二人。息はもう切れているし、足だって持ち上げるのは億劫だ。そろそろ答えを出せやしないものだろうか。そうなればディスカッションという名の一時の休息を得る事ができるのだが。
その時、彼の脳裏に天啓来る。
「空を飛び続けるというのはすなわち、地上生活を行っていない裏返しなんじゃないのかな」
今までぼそぼそ呟いていた独り言とは違い、その発想は目の前に教授の耳にまで届いた。先ほどから内容までは聞き取れなかったが、彼が一人でもごもごと独り言を繰り返していたのは教授の彼も気が付いていた。考え事を始めると、この学生はいつもこのようにその思考を声にして漏らしがちだ。そして最後に、他者にも聞き取れるほど明瞭な声を一つ発した時こそが、彼の考えがまとまった合図だという事も、よく理解していた。
立ち止まり、ここらで一休みしようと彼は振り返った。立ち並ぶ木々の一つにもたれかかり、腰を下ろす。教授の座った正面の木、相対するように彼も同じように根と根の隙間に入り込んだ。胡坐をかき、脚の上に鞄を乗せる。
「それで瀬白木【せじろぎ】くん、意見はまとまったかね」
「はい。僕からの回答はまとまりました。それの正誤は不明ですけど」
「構わないよ。私の側でちゃんと解答は用意しておいたから」
顎からほんのちょっと顔を出した髭を親指と人差し指の腹で顔の両側から撫で上げる。黒いゴマが顔に張り付いたような無精髭を撫でる教授の仕草を見て、自分も同じように顎に手を添わせた。しかしそこに凹凸は無く、髭特有のざらりとしたやすりのような手触りも無い。もし僕に髭が生えたら、それは金色になるのだろうか、などと少年は考えた。
「では、聞こうかな」
「よろしいでしょうか。なら、ディスカッションを始めますね」
瀬白木青年は、咳払いを一つ。次の瞬間には、深い隈の上に乗っかった淡青色の虹彩、その中心に座す、ほんのり紅い瞳孔から発された眼光が、一般人に過ぎない教授の茶色い瞳を射抜いていた。
「鳥が空を飛び続ける理由。僕の考えた結論は、『それを止める必要が無いから』です」
「わざわざ中断する必要が無い……か」
「はい。実際に我々人類が自力で空を飛ぶことは不可能ですが……」
「君は飛べるんじゃないか、その気になれば」
「……寵児を除き、我々人類が自力で空を飛ぶことは不可能ですが、そこにはおそらくメリットのみならずデメリットも存在していると思います」
知らず知らずのうちに、寵児を人類という枠組みから蚊帳の外に追い出していた自分に瀬白木は顔を顰めた。今までずっと化け物として扱ってこられたため、仕方の無い事ではあるが、何となく自分はヒトでは無いかもしれないと言う底知れぬ不安は毎日のように抱えている。
それと同時に、胸の内には安堵が一つ。こうして自分でない、そして寵児でもない大人に人類の一員であると認めてもらえた事実。自分の心構えの失態に対する羞恥、それに優るだけの柔らかな安心が訪れた。とは言っても、そんな感傷にはすぐに慣れ切って、また冷たい心に戻ってしまった訳だが。
「鳥類は、他の動物種と比べて体が軽くなくては飛べませんし、翼を打つために異常なまでに胸筋が発達した体をしています。おそらくこれは四つ足の哺乳類と比べてみると歪な姿でしょう」
「その歪んだ肉体構造にシルエットを改造してまで空を飛び続けるだけのメリットが空にあると」
「単純に、空を飛んでいる場合は天敵に怯えずに済みます。雀が猫に襲われるのも、蛇が鳥の卵を襲いに巣を訪れるのも、全て陸伝いです」
「なるほど。猛禽類を挙げてしまうと天敵はゼロにならないが、それでも宙にいる間は地上の俗物共から身を守ることができる、と」
「地上の俗物だなんて……。その言い方、まるで神になったみたいな口ぶりですね」
「往々にして天界の住人は、翼を持つものだろう?」
人々が天使を書く際、白鳥のような純白の羽は付き物だ。彼らを統べる神々にも、時としてその背に翼を授けたがる。そんな事を主張する教授に、「この人は鳥から見た地上の民を俗物と表現したのか」と彼は納得した。
「神様の話はさておき、食物連鎖が存在している以上、その頂点に君臨する者以外にとっては、どこにいようと危険なことに変わり有りません。もしも飛行能力を持ち続けることに、生活圏を宙に置く事に不利益が生じると言うのであれば、きっと鳥類は全て地上に降り立ち、その姿を変えていたことでしょう」
「要するに、降りたくなったら勝手に降りてくるものだということか」
「はい、その時がまだ来ていないだけです。問い二の答えも同一です。わざわざ飛ばなくても生き延びる事が出来る。地上に危険が多いと言っても、地に足が付く生活の方が常に翼を打っているのと比べて消費するエネルギーも少なく済みます」
「いつか飛び立とうと思った時には、飛べるように進化する。すなわち君の意見は」
「まだ、それに相応しい時期が来ていない、というものです」
現状、鶏にとっては地上で十二分に生活が成り立つし、ペンギンならばむしろ飛ぶよりも泳いでいたい。渡り鳥のように陸も海も越えて長距離を移動したいのであれば、空中でのロングランを可能にする今の肉体がベストであろう。
身体が変われば生活様式も変化する。裏を返せば、生活様式を変えたければ形質を転換、一息に表現するならば進化の必要性が出てくる。何もそれが前向きな発展である必要は無いだろう。それを進歩と言えるかどうかはすぐには分からないのだから。強いて言うべきだとすれば、それは変化であり、変異に過ぎぬという事だ。
やはり別人の論というものは面白い。口角を持ち上げて男は、目の前にいる生徒、瀬白木 ヴァイスを眺めた。そうこの理屈は、適応力の寵児である、彼の提言したものだからこそ面白い。
「実に君らしくない、そう『君らしくない』意見だよ、瀬白木くん」
強調を目的としたからか、ねっとりと、二回も君らしくないと教授は彼と、その答えとを評した。その言い草には、別段鋭い者でなくとも違和感を覚えるほどの含みがあった。瀬白木らしくない、そう言わしめるとはどういった根拠があっての事なのだろうか。いつになっても彼は、この教授に慣れることができなかった。もう出会ってから半年は経とうと言うのに、日々その好奇心に付き合わされていると言うのに。それでもなお、どんな灼熱の大地よりも、極寒の空気よりも、この男の性質に慣れ切ることは難しい。
「僕らしくないとは、果たしてどういう……」
「簡単な話さ。君は一体、何の寵児と言われている?」
「適応力……適応力【ダーウィン】の寵児ですが」
寵児、人知を超えた異能と呼ばれる特異な形質を発現した新人類。新人類というのは一部の学者が提唱しているだけで、実際のところ亜種や突然変異体と言った方が正しいと主張する者も学会には存在する。過激な狂信者の中には、人類という種の中に蔓延る癌細胞だと言う者も。
「そうだね、一世代の中で何度も形質の変化を繰り返す。それがまるで何度も何度も進化しているように見えるため、進化論の中でも世間的に高名なダーウィンの名を貰った訳だ」
「世代を跨がないと進化ではなく変態でしか無いと言うのに、誰がつけたんでしょうね」
「確か君の場合マスコミだったろう? 要するに文系の馬鹿どもだ」
「文系批判はやめた方が良いかと」
「言葉は正確に汲んでくれ給えよ。文系が馬鹿と言ったんじゃない。文系の中でも学の無い馬鹿な連中という意味で口にしたんだ」
よく出来た文系の人間は大体官僚や法曹界に向かうものだ。そう言われ、学内の者たちを思い返す。確かに司法の世界を目標に据えている法学部の面々はいつも気難しそうに厚い本とにらめっこしていただろうか。他にも証券会社や銀行などを就職先に見据えている者もそう言った面々の周囲には多い。
世の中探せばまっとうなジャーナリストも存在はしているだろうが、確かに他に就く仕事も無いから入った人間もいるのだろうなと勝手に推論した。
「というより文理の区別など関係ないんだよ。言葉や情報を発信する連中が、よく調べもせずにそんなことを口走ったのが馬鹿だと言うんだ」
「あの頃はアニメの影響で、進化という言葉が横行しましたからね。勘違いした人が増えても仕方ないんじゃないですかね」
「ああ、ゲームボーイの」
「僕も昔はよく見ていたものです」
「自分ではやらなかったのかい?」
「だって僕は寵児でしたし」
下手に買ったところでいじめの延長で壊されるのが目に見えていた。そのため、買ってほしいだなどと親に頼み込むのが憚られた。それのせいで余計な出費や心労を重ねたくなかった。
「それは踏み入ったことを聞いてしまったな。それにしても、同じ進化学の学者を用いるのであれば、もっと相応しい称号があったと言うのに」
そうすれば先ほどの君の言葉は『君らしい』ものになったろうと教授は愚痴をこぼす。なるほど確かに、先ほどの意見は自然選択説というよりもむしろ、要不要説であったかと自分らしからぬ回答だとのコメントに漸く合点がいった。
「ラマルクの寵児。僕ならそうつけるね」
「確かにそうですね。……とするともしや、先ほどの僕の答えは違っていたみたいですね」
「そうだね。僕たちの研究室は……いや、私達に限った話ではないがあくまで、ラマルクの意見よりかは自然選択説を尊重しているからね」
高校球児みたいな坊主頭を上下させ、瀬白木の言葉を肯定する。顔に皺が目立つものの、フィールドワークが多い事から肌は小麦色で不要な肉も無く、むしろ引き締まった筋肉が浮いている。大学の教授と言われてこの姿を思い起こす者はかなり少ないのではないだろうか。
「と、いうことは正しい答えは……」
「正しくは無いのだよ。答え合わせなんて誰にもできないのだから。いつも言っている通りこれは」
「先生の用意した、貴方が満足するための意見」
「その通りだ。ちょびっと僕にも適応してきたようだね、君も」
「そういう寵児ですから」
「ほら見てみなよ、謙遜すらしなくなったよ」
昔は、いえいえそれほどでも、だなんてかしこまって首を横に振っていたと言うのに。小生意気に成長してしまった瀬白木に、つまらなさそうに唇を尖らせた教授は、周囲に聳える高い木々の枝葉を見上げた。
「というより元来君は些事に無頓着すぎるんだろうね。初めは礼儀故か尊敬故か、僕にちゃんと敬意を払っていたと言うのに、最近じゃご機嫌取りなんてどうでもいいと思っている」
「すみません、最初から思っていました」
「ほらほら、そういうところだよ。髪の毛は伸ばし放題だし」
「たまに切ってますよ、裁ちバサミで」
「床屋に行きたまえ。それに、毎日毎日徹夜してるし」
「寵愛のおかげか睡眠いらないんですよね」
「隈が絶えないのがほんとに不気味なんだよ。顔立ちは整ってるくせに」
「ドイツ人とのハーフですから。後、寵児なんでアルビノですから見栄えだけはいいですね」
「そういうの自分から言っちゃうんだ」
「客観的な事実を述べただけです」
「やっぱり君は変わってるよ」
人からどう見られるかなんてさらさら気にしていない。ざっくばらん、それが誰よりも似合っている。環境に適応する様な力を持っているというのに、傍若無人に歩いていくその様はまるで、環境の側に「僕に適応しろ」と命令しているようである。
「先生がそれを言いますか?」
笑みも浮かべずに、淡々と語尾を上げる口調に、それが純粋な問いだと知る。からかっている訳でも皮肉でもなく、当然不快にさせたい訳でもない純粋な質問。それは言うなれば、先生の方こそ変わり者だと彼は信じているという訳だ。確かにそれは否定できない訳だが、もう少し言葉にも選び方があるだろうと叱り飛ばしたい。叱ったところでどうせ、顔色なんて変わってはくれないだろうが。
「まあ良い、本題に入ろう。僕が用意していた解答というのはね、『そこに不利益がないから』、さらに言うなれば『わざわざ絶滅する理由が無かったから』というものだよ」
何も好き好んで飛ぶと言う選択をしているのではなく、生まれながら『飛ぶことを運命としている生命体』が生き延びている、だけ。何かそこに不都合があれば自然淘汰されてしまっただろうが、幸いにもそんな事は起こらなかった。
「結局のところ鳥の先祖なんざ、恐竜の鱗に交じって羽毛みたいなものが生えたり、奇特な個体が腕をバタバタと上下させていた程度のものだ」
そんな塵のような突然変異が世代を重ねるごとに積み重なり、別の種が生まれた。飛行能力を獲得した個体、得ていない個体、それら二つ共に絶滅する理由は存在しえなかったため、分岐した道はそれぞれ独自の進化と、また別の分岐を迎えることとなる。
「生き残った個体が環境に適応していたのではなくて、環境が拒まなかった個体が生き残った、ただそれだけの話なのさ」
大きな講堂で講義をしているのと同じような口ぶりで教授は、瀬白木 ヴァイスにそう教え諭したのである。
- Re: Lion Heart In White ( No.4 )
- 日時: 2018/06/28 00:44
- 名前: 玲央 (ID: hgzyUMgo)
因果の順序を履き違えてはならない。そのように教授はいつも口にしている。いつだって、原因ありきの結果だけが自然界には蔓延している。実験室での実験は得られる結果を推測したうえで系を組み立てることもあるが、自然界は違う。結果を見たが故に原因を推測できようとも、結局は今目にしている景色よりも、過去に起こった出来事が先行しているのだ。
先ほどのラマルクの要不要説というのはキリンを例にすると、高いところにある木の葉を食べるためにキリンの先祖は首を長くするよう進化したのだと主張する。他種との食糧争いを避けるために、高い位置の葉を食べることができるようにと体を変容させていったという論理。
当然こんな論理、今の時代では受け入れられていない。世の中そんなに都合よく事が運ばないのだ。ならばなぜキリンの先祖はその首を長くするよう進化してきたのか、それはその方が有利だったからであり、さらに付け加えるならば元の姿が不利だったからだ。
「身長の高い人や低い人、様々な人がいるだろう? 同様に、足の長い人、肥満体系の人、バストの豊満な人、様々な個性がこの世には存在している」
「それと同様に、動物にも個性がある。オスの三毛猫が居れば、脚が一本足りない状態で生まれてくる獣に、牙や角が同種の他個体と比較して取り分け長い山の動物たち」
「そしてキリンの先祖には、背が高い個体と背が低い個体がいた。まあ、正確には首が長いものと短いものだけどね。大柄な哺乳動物だ。草食というのは獲物と戦う危険を伴いにくい代わりに、それだけ多くの食事を必要とする」
「そうすると、生存競争が起こる……不便な体ですね」
「その気になれば光合成できる君と同列に扱う訳にはいかないさ」
大きく口を開けて教授は笑って見せる。それは、瀬白木の何気ない発現を気に入ったことを示していた。寵児というのは実に興味深い、瀬白木 ヴァイスという男は、飢餓に晒されるとたちまち全身が緑色に染まる。その成分を解析してみたこともあったが、正体は光合成色素であるクロロフィルだった。暗所で腹を空かせれば、今度は化学合成細菌の中に見られるような酵素が翻訳されていた。
「その生存競争のおかげで進化が起きるのさ。背の低い個体、口が高いところまで届かない個体は生存競争に敗れた。その環境に適応することも出来ず、世界から愛されることも無かった」
「そして勝ち残った個体だけが交配を重ねた結果、長身の個体だけが残り、積み重なった遺伝的な形質が、恒常的に脚や首が長い個体だけを生むように遺伝子は定着していった……新しい、種が生まれた」
「その通りだよ」
有利か不利かは実際にその時が来るまでは誰にも分からない。そう言った男は、また微笑みと同時に皺を顔に浮かべて上方を指さして見せた。天に向かって真っすぐ伸びてこそいるが、鬱蒼と茂った森の中、木の葉の天蓋に遮られたせいで、青空なんてほとんど見えない。
「気づいているかね?」
「何にですか?」
あどけなく瀬白木は首を傾げる。問いかけの意図など、唐突過ぎて察することもできない。
「先ほどまで歩いていたところと比べてここらには背の高い木が多い。分布が厳密に決まってしまっているんだね。それがどうしてだか分かるかい?」
なるほど、上を指したその手は、空でなくて木々の頭部を示していたのかと理解する。実際、三十分ほど前に二人が歩いていた辺りに生えていた木々とは種が違うとは、落ち葉の形から察せられた。
「それは……分からないですね」
「確かに、これは事前にいくつか前提を知っていないと答えられないね。では問いを変えよう、さっきまで頻繁に見ていたそれほど背の高くない木々は、どうしてこの辺りに生えていないと思う?」
「それは流石に簡単ですよ。こんな薄暗い、陽もろくに差さない場所で、植物なんて育つはずありません。呼吸量が光合成量を追い抜いてしまう」
「その通りさ、だからここらよりも北側には、ずっと同じ木々が生え揃った林が続いている。しかし逆に、ここよりも南の方には今までずっと見かけていた低木が立ち並ぶという訳さ」
「……とすると二種の木々はそれぞれ古来は全く別のテリトリーを持っていたということか。おそらくは二つの林はそれぞれ独立していた。だが、生物として当然であるべきこととして、互いにその領域を拡大しようとした。己の種を保存しよう、地上の覇権を握ろうと」
瀬白木の考え事のスイッチがオンになる。こうなると自分でさえも意識の蚊帳の外に追い出されると理解しているため、余計なことはしないようひたすらその様子を見守ることに決めた。
「そして南へと進む高い木々と、北上しようとする低い木々との進路が重なったんだ。そしてそこで、二種の間で生存競争が起きた……植物同士の生存競争において大切なのは日光を浴びられるかどうかだ。水は同じ土壌で育つだけあって差が出ない。しかし、背が高い植物の方がその光を独占できる。……ならばなぜ、ここ以南では低木が茂っていた。段々そのテリトリーを拡大する高木に駆逐、淘汰されても可笑しくないというのに。ここに至る道程においては、背の高い木など一つとして存在していなかった」
「一応ヒントとして教えてあげるけれど、この高木の林は北以外の三方を低木に囲われている。西と東の辺りは、地層を調べたところ、昔は木々が生えておらず、背の高い木と低い木、双方の若木の死骸が地面の中から見つかっているそうだ」
果たして耳に入っているのだろうか。それは瀬白木にしか分からない。ただ、この度は幸運なことに聞き入れてもらえたようである。
「つまりよーいどんで生育を始めれば勝つのは低木の方だと言うこと。両者で何が異なるのか……。待てよ、今僕は教授に言われるまで、木々の種が変わったことに気が付いていなかった。違いに気を取られちゃ駄目だ、普遍性にも目を向けた方が良い」
目的地に辿り着かないなら、その経路に間違いが無いのかもう一度見直してみた方がよい。見落としている点は無いか、もう一度考え直す。そしてその見落としは思っているよりもずっと近くにあった。
その答えは、とっくに自分が口にしていたと言うのに。
「そうか。最終的にどちらが高くなるかどうかと、その過程とは必ずしも一致しない。同時に生育を始めれば、さっきまで見ていた比較的背の低い木の方が成長が早いんだ。だから先に上空を覆いつくしてしまうから、本来高いところまで成長するはずの種が十分に高くなる前に栄養不足で枯れてしまう。だから、予め成長しきった木々同士ではこちらの方が強いけれど、一緒に種を蒔いたとするとあちらの方が強くなるんだ」
しかし、これではまだ足りない。教授の出す問いが単なる時間つぶしであったことは多くない。とすると、この問いにはまだ何か先があるはずだ。それはきっと、彼が間違えてしまった一問目と、どこかで繋がっている。
それは一体、どこにある。きっと、大事なことは、もうとっくに教授が口にしているはずだ。
環境と、適応。それ以外の道しるべは、考えられなかった。
「そろそろ答え合わせをしても構わないかい? 時間も限られているのでね」
「ええ、構いません」
「一応まとまったみたいだね、考えは。それじゃ聞かせてもらおうかな」
「ここらの地域では初めからこの種の木々が栄えていました。それゆえ、他の木々はもう成長できなかったのでしょう、何せこれだけ暗いのですから」
「ああ、そうだね。正しいよ」
「そして、互いにそのテリトリーを拡大しようとした結果、南で見ていた……かつ、東西においても見られると言う背丈の低い木々と生息領域が重なる空間が出来上がりました」
「そうだね、そこにおいては共に苗木、あるいは落ちたばかりの種だった」
「そして成長を始めます。結果だけ見れば確かに、ここらで見かける木々の方が太陽の光を独占するように見えます。しかし、生き残ったのはこちらではない方の木々だと言います。とすると成長の過程においてはあちらの方が強かった。すなわち、こちらの木々が成長するよりも別種の木の方が成長が速いため、これらの木々、その苗木よりも背が高い成樹の姿になってしまった。それゆえ、最終的には強くなるはずの木々も、文字通り生存競争に勝てなかったのです」
「……短期成熟型の種が、大器晩成型を打ち負かした、と」
「そんな答えじゃ教授は満足しませんよね?」
隈の上の瞳が、無感情に教授の瞳を見ていた。感動的な気配も無ければ、得意げな光も感じられない。ただ、事務的に確認していると言わんがばかりの瞳だ。
「……何が言いたいのかな?」
「いえ、教授のことですから。『早熟の木々が、遅咲きの彼らにとって、不利な環境を作り出した』と言い換えて漸く、正解なのではないかと思っただけです」
「全く可愛げの無い生徒だ。その通り、それが僕の望んでいた回答だ」
立ち上がり、尻についた砂を払う。正答したのが予想外だったのだろうか、少々詰まらなさそうな顔をしていた。
いや、むしろその顔色は嫌悪と呼ぶべきものだろうか。瀬白木はその胸中を察してしまう。検体としては申し分ない寵児でも、生徒としては薄気味悪くて仕方が無いのだろうと。日進月歩で彼の背中に追いつこうとする真っ白な学生が、気味悪くて仕方ないのだろう。寵児の分際で、そんな声すら聞こえてきそうである。
だからだろうか、教授がそれ以上主張しようとしないのは。きっと彼は、低木を人間、高木を寵児に例えていたはずだ。我々が先に蔓延っているから、悪魔の申し子たる能力者に居場所など無いのだと。
しかし、植物と人間とは本質が大きく異なる。我々人間は自分が適応する環境を探しに行ける。そして、自分にとって住みよい環境を積極的に生み出すこともできる。駆逐されるのがどちらか、など決めつけられる由も無い。
「先へ進もう。陽が落ちる前に帰りたいしね」
「そうですね。目的の崖は、すぐそこですかね」
「さあ。何せ僕は言った事ないからね」
「でも場所は知ってるんですね」
「有名だからね、自殺の名所として」
しばらく歩くと、ようやく目的の場所へと到着した。鬱蒼と茂っていた木々が、その空間だけ立ち入り禁止だと言わんがばかりに立ち入っていなかった。そこはまるで、鋭い刃物で斬り落としたようにそびえる直角の崖だった。
覗き込むと下には、同じような林が広がっている。ここから落ちたらどれくらいで地面に着くのかな、などと瀬白木は一人考えた。
「ここから飛び降りるのが今日の課題でしたっけ」
「ああ、そうさ。そうした場合に君がどのように適応するのかと思ってね」
「考えられるとしたら三択ですね。飛ぶか、浮き上がるか、落ちても問題無いような外殻を手に入れるか」
「君には真っ白な羽がよく似合うと思うよ」
「アルビノだからですかね」
そんな軽口を叩きながら、鞄をその場に落とした。自分が助かるのは適応力の寵児であるがゆえに必然的に明らかだが、手荷物が真っ逆さまに落ちてしまえば堪ったものでは無い。財布を落とせばしばらく生活できないうえ、携帯を無くすと誰とも連絡が取れなくなる。
まあ、財布がなくなったところで食事の必要のない自分にはあまり関係のない話かと瀬白木は開き直る。
「鍵がポケットに入れっぱなしだったりしないかい?」
「忘れてました。ありがとうございます」
「落とさなければ問題ないとはいえるがね」
「どうせ運が悪いから落としてましたよ」
「それではこれから飛ぶわけだが、覚悟のほどは」
「問題ありません」
「背中を押してやろうかい?」
「教授が望むならして下さって構いませんが、別段必要ありません」
「ほんっとうに君は生意気だよ」
「自分の生に無頓着なだけですよ」
「そうやって冷静に自己分析してる辺りも子供っぽくないね」
「二十歳にもなって子供っぽいのも考え物ですし」
「ああ言えばこう言う。女性から嫌われるよ」
「そもそも寵児ですので愛されたことなんて」
「ああもう五月蠅い! 面倒だから早く行きたまえ」
「……分かりました」
気だるげな三白眼で、切り立った絶壁の直下の様子を眺めた。なるほど、一件遠いように見えるが、実のところ地面まで数秒とかからずに落ちるのだろうなと理解する。たかだか数十メートル、さすれば一瞬の出来事にも思えるだろう。
別段、迷いも躊躇も必要なかった。ただ、教授がちゃんと見ているかだけを確認する。彼のあずかり知らぬところで勝手に飛び降りれば、文句を言われてリトライさせられることだろう。
それが特別面倒だとは思わないが、やり直しからの帰宅の遅れはさらなる文句を生む。そうなってはずっと面倒なままだから教授の起源は損ねないに越したことは無い。
肝心な確認は済んだが故に彼は、待つのも面倒になったがためにそのまま、虚空へと足を踏み出した。当然彼の能力は空中で立つようなものではないため、そのまま真っ逆さまに落ちていく。
「さあてどうなる?」
その足取りをなぞる様に崖の縁へと駆け寄り、眼下を見下ろした。だがそこに、瀬白木の姿は無かった。どういう事かと驚愕する男。だが次の瞬間、真上へと駆けのぼる一陣の旋風。前髪が上昇するのを感じ取り、上空を見上げる。太陽を背にするその姿は、それ自身が影となっているようでよく見えないが、その正体など考えるまでもない。
そのシルエットはかつて学生の頃、国語の教科書で目にしたイカロスの姿によく似ていた。白い羽毛が神々しくも舞い落ちる。その様子が、まるで人間を超越し、神の地平へと足を踏み入れたようで苦々しい。まるで自分こそが世を統べるものだと寵児が主張しているかのごとし、だ。
舞い散る綿のような羽はまるで大粒の雪のようで。蒸し返るような炎天下、二人しか存在しえないその場は、季節外れの光景が広がっていた。
- Re: Lion Heart In White ( No.5 )
- 日時: 2018/07/09 21:45
- 名前: 玲央 (ID: hgzyUMgo)
「そう言えば、このセリフってどうなの?」
野球部の掛け声が、こちらの部室にまで届く。甲子園も目前に差し迫ったからだろうか、最近の彼らの声にはより一層の気迫がこもっていた。けれども、その部屋でパソコンと睨めっこする彼女ら二人には関係がない。この高校が野球の名門だろうが、この夏兵庫で戦うことが決まっていようが。
「うーんと、どこ?」
「えっとねー、ここ。サブキャラの梨花って子の言葉」
「どのセリフかな……。『宗助以外、好きになる価値のある人なんていないよ』ってやつ?」
「そうそれ」
「えー、どうして? 梨花がその男の子が誰より好きだって認めるところなんだよ?」
指摘をした彼女の目の前で、不満げな声を漏らす。「私の考えた決め台詞がそんなに嫌いか」と、意見を求めてきた割には喧嘩腰の姿勢だ。これを伝えることは本当に正しかったのだろうかと、指摘した女生徒は目を泳がせた。けれども、目の前の友人は本気で怒っているというのに、まだ自分の周りには甘い芳香が漂っている。
ならばきっと、これが正しいはずだ。
「うーんとね、何て言うか……否定的な言葉なんだよね、このセリフ」
「そうだよ。今までずっと意志が弱くて流されるまま過ごしてきた梨花が、初めて自分の好きな人が誰かちゃんと自覚するんだよ。今まで弱かった分、強い言葉を使ってるの」
「強い言葉……そう、強い言葉なんだけど、意志の強さよりも棘ばかり目立ってるんだよね。優しい女子ってイメージが損なわれるっていうか。……そもそもこの子、ちょっと前まで別の子と付き合ってたよね?」
「うん、そう。ちょっとチャラい感じの男の子と、流されるままに」
「にも関わらず、別れた後に好きな人がすぐにできて、そんな事を言う様な子、好きになりにくいよ、読者は。作者の茜は自創作の子だから、それでも好きになれるけれど、読者から見たら急に性格が悪くなったようにしか思えない」
別に展開を否定している訳では無い。むしろここまで丁寧に話を運んで来ていた。どうしたら茜に理解してもらえるだろうかと鮮やかな桃色の唇に真っ白な指を添わせた。白桜 葵【シロサクラ アオイ】は思案する。ただ、未だに身に纏う空気は、暖かく、とても穏やかだった。これは別に、夏が始まったからだというだけではないだろう。
向日葵【ハピネス】の寵愛は、自分が正しいと教えてくれている。機嫌悪く怒りを露わにする茜も、煌びやかに瞬く光で包まれている。なら大丈夫だと、意を決し、拳にこめる力を強めた。
「梨花は、その昔の彼氏にも感謝してるんだよね?」
「うん、まあそうだね。強く意志を示そうとする姿勢や、時には我儘も大事だって、その人から教わるから」
「だったら尚更、その人の事を悪く言うのは駄目でしょ」
色素の薄いブルーの瞳で、真っ直ぐに睨んでくる茜の眼光を受け止める。ほんとにこれでいいと思うか、目を合わせたまま無言の空気を貫くことで尋ねてみた。次第に、その眼光の苛立ちは和らいでいく。
「分かるよ。一人だけ特別扱いして、他を全部切り捨てれば、一番強い強調になるだろうって。でもね、それで納得できるかは別の話」
「そう……だよなあ。私も今、自分の好きな漫画のキャラでこのセリフ想像してみたけど、そしたらイメージ駄々下がりになっちゃったなあ」
「うん……。やっぱりね、言葉っていうのは言い方でいくらでも表情が変わっちゃうものだから」
黄金の絹糸のような前髪を弄びながら、葵は具体的な一例を挙げる。同じ恋愛作品におけるセリフで考えた方が、茜も考えやすいだろうと。
葵が提示したシチュエーションは、『自分の彼氏が一番かっこいいと女の子が主張するシーン』だった。
「同じことを言うにしても、その言い方で読者の印象は大きく変わっちゃうと思うんだ。「私の彼氏以外、一人残らず醜い」ってセリフと、「私の彼氏以上に、かっこいい人なんてどこを探してもいない」って二つを比べてみて。二つ目の方は、発言者が如何に彼氏に惹かれているか、彼を好いているか分かるじゃん。他の誰よりも彼氏が好きなんだって」
「でもあれだよね、さっき言われた私のセリフだったり、葵の言った「私の彼氏以外ダメダメだ」ってセリフだと、他の人を罵倒する言葉になるんだよね。自分の彼氏以外を軽く見て、嫌な事口にする女に。確かに……それは駄目だよね」
「部誌に乗せるってことは誰かに読ませる前提があるんだよね?」
「うん。九月の文化祭で配布するんだ」
「だよね。だったら、色んな人に好いてもらえるような書き方にしてみよう?」
うぅー、と唸り声を漏らして机に突っ伏する。そんな茜の様子を見る限り、納得してもらえたようだった。良かった良かったと、平たい胸を撫でおろす。
暑苦しいからと開いた窓から、穏やかな風が差し込む。花なんてどこにも咲いていないのに、時期も見当違いだろうに、金木犀の強い花の香が押し寄せる。葵にしか分からない、芳しい風が撫でる。
「涼しいね」
と、茜は言う。梅雨も明けて、夏が始まろうとしていた。葵を除くクラスメイト達が夏服に衣替えしたのも、もう懐かしく感じられる。あれは確か、五月だったろうから。期末テストも終わって、二週間もすれば夏休みが始まろうとしている。
けれども葵にとってはその風は暖かかった。喧嘩に繋がるようなことも無く、無事に彼女と打ち合わせを終えられた。茜は文芸部のみ、葵はそれと演劇部に掛け持ちで所属していた。それゆえ茜の書いた作品を共に推敲することがあるのだが、今日はテスト明け初めての打ち合わせであった。
「ところで……さ」
「どうしたの、茜」
少し緊張した様子で、茜が話を切り出した。私達ももう、来年には受験生だねと。
何となく、レモンみたいな酸っぱい臭いが漂い始めた。
「あー、それは聞きたくない聞きたくない。私は茜と違って成績悪いしなあ」
「それでも一応、今年の内からオープンキャンパスとか、行かない?」
「いや行くよ。行くんだけどさあ……どうしようかなぁ、って」
行きたい大学や志望する学部が無いわけではない。しかし、その選択肢は大きく分けて二つあった。少し遠い町だが、葵でも堅実に合格できる大学。あるいは、たゆまぬ努力を途方もないほどにこれから積み重ねてようやく入れるような、近場の大学。
彼女が進みたいと思っているのは文学部だった。どこの大学にもあるような、至ってありふれた学部。しかし、彼女に与えられた選択肢は少なかった。窓から入る風が優しく彼女の髪を揺らす。「諦めなさい」と、頭を撫でて諭すように、優しく。
厭味ったらしく、なびいた横髪が鼻をくすぐる。下に向けた双眸が、その金糸を捉えた。分かってるよ、などという独り言は胸の奥にしまい込んだ。
「あのさ、私と同じ大学とか、行かない?」
その問いかけは、本来とても嬉しいものだ。『こんな自分』でも受け入れて、同じところに進学したいと願ってくれる友人。こんな友人が出来ただけでも、喜ばしいと言うのに。
それなのに不幸ものの自分は、その申し出を断らねばならない。罪悪感が、ナイフの形を成して、深く深く葵の心を抉っていた。
さっきまで、暖かかったはずの空気は、今度こそ夏らしく業火のように葵の肌を焼いていた。
「やめときなよ、茜。ジロジロ見られるよ……」
「でも、葵だったら大丈夫だよ!」
「うん、知ってる。クラスの友達も、演劇部の人たちも、「葵なら」って許してくれる。でもね、駄目なんだ」
茜が行きたいと願う大学がどこなのか、葵は既に知っていた。聖陵寺大学。MARCHと称される大学より一段ほど見劣りするが、それでも十分に胸を張れる大学。歴史のある大学であり、著名な先輩も多く輩出している。
しかし、その大学はとても簡単な二元論で葵の入学を、否、受験からして既に拒んでいた。
「聖陵寺ってね……寵児の受験を、認めてくれてないんだ」
歴史ある大学が故に、異端児を拒んでいた。しかも寵児は、人間だとは認められていても、危険な因子の枠を超えることができない。本人の性格に意志、全てを無視して寵児であると言うだけで悪魔のレッテルを貼られてしまう。
「あっ……そう、だったね」
「ごめんね」
そのごめんが、何に対して謝っているのか葵にも分からなかった。同じ所に進めなくてごめんなのか、要らぬ心労をかけさせてごめんなのか。それとも、こんな私で申し訳ない、という意志なのか。
「まあ、私の第一志望って聖陵寺から電車で三駅のところだからさ、大学入っても仲良くしてね」
「あっ……うん!」
何か言わなくちゃな。そう思って急いで取り繕う。先ほど考えていた、自分には少し難易度の高い大学。そちらに進学すれば聖陵寺に進む茜とは高校を出た後も交遊を続けられるだろう。そのためには、これから呆れるほど受験勉強に勤しまねばなるまいが。
しかしそれでも、豆鉄砲を喰らった後に再び笑顔が明るくなった茜の様子に、葵も心底ほっとした。肌を刺すような“熱さ”も、気づけば汗をかきそうな程度の“暑さ”に変わっている。風そよぐ放課後の空気が、また葵の頭を撫でた。今度は、よくできましたと褒めているようであった。
「それにしても葵の髪の毛ほんとに羨ましいなー。伸ばさないの? 金髪のロングって綺麗そうじゃない?」
「あっはは。小学校の頃伸ばしてたんだけどね。手入れ面倒だからもうやんないかな」
「しかも肌真っ白だしさー。ほんと、寵児って可愛いしかっこいいよね、皆」
「ありがと」
その声は、いくらかしぼんでいた。正直なところ寵児であることが羨ましいと言われるのは、心が痛む。それは、人が持っていないものを自分が持っている罪悪感などではなく、むしろその逆の感情。自分にとっては皆の方が羨ましくてならない。そんな、無いものねだり。
寵児は全員がアルビノ。アルビノが全員寵児とは限らないが。メラニンを合成する経路の途中に存在する何らかの酵素の遺伝子変異などが原因で起こる、全身が白く、あるいは色が薄くなってしまう先天的症状。髪の毛などがいい例なのだが、真っ白になると言うよりかは金色や白金色になる。虹彩は血管の色が透けて赤くなるケースもあれば、銀色や青色になるケースもある。瞳も、同様。
それゆえ、純粋な日本人だと言うのに葵もその他の例にそぐわず、金髪碧眼というステータスを手に入れているのである。
確かに、真っ白な肌に自然な金髪、蒼い瞳というのは夢見る乙女にとって羨ましい代物なのだろう。しかし、それがいつもいい方向に働くとは限らない。葵一人だけが、涼し気な半袖を着ているクラスメイト達に紛れて暑苦しそうな長袖をこんな時期まで用いているのも、その一つだ。メラニンは人体への紫外線の影響を防いでくれている。そのため、メラニンが不足しているアルビノは、紫外線の影響をもろに受けてしまう。
日焼けしてしまいやすいだけならまだしも、皮膚がんのリスクが高まってしまう。それゆえ、夏であろうと長袖長ズボンが望ましい。それゆえ、運動部に入りたいというのに、紫外線対策のために自分から身を引いたほどだ。
その上、アルビノ全体の特徴として弱視が挙げられる。かくいう葵もコンタクトレンズは手放せない。眼鏡はあまり好きでは無くて、高校に入ったのを機にコンタクトに変えていた。
茜が、自分のことを慰めるために羨ましいだなんて言ってくれているのは理解していた。それゆえ余計に、強い言葉で反駁する訳にも行かなかった。黙っていれば、肌に触れる空気は心地いい。しかし、ひとたび口を開こうとすれば、ピリピリと痺れるような緊張感が肌を襲うのだ。
「ま、ほんとは大したことない顔立ちなのに美少女ぶっていられるのは得かなー?」
「いやいや、素の顔立ちも悪くないって」
何とか強がってみる。しかし、向日葵の寵愛が葵に、その応対が正しいと告げているのとは裏腹に、彼女の心は棘だらけだ。彼女自身が棘を生やしているのではなくて、突き立った刃が無数に輝いている。
愚痴を飲み込む。伝えても、何の解決にもならないだろうから。むしろ、この場の雰囲気が凍てつくだけだ。この話題が長引けば自分が傷つくだけ、そう判断した葵は、何かを思い出す演技をして演劇部の方に行かなくてはとの旨を述べる。
「一緒に帰ろうかと思ったけど、仕方ないか」
「うん、ごめんごめん。月曜は一緒に帰ろう」
演劇部の集まりは、今日の所は自由参加だった。嘘では無かったが、行く必要は無い。それでも行こうと思ったのは、今日の心模様で茜と話し続けるのは危険だと判断したためだ。
葵の寵愛、ハピネスという言葉に向日葵の名が与えられているのは両親の洒落っ気が由来だった。葵の能力は常に適用されている。葵や身の回りの人間、あるいは周囲の環境の一挙手一投足に対し、見えない誰かが採点している。その点数が、匂いや肌への質感、音楽になったり視覚的な要素になったりして葵に伝えられる。よりよい未来への選択肢ほど、甘く芳しく香り、暖かく肌を撫で、穏やかな音となり、煌いて見える。
まるで日の当たる地に向かって葵が歩いていくようだから。それゆえ、幸福論【ハピネス】となるべき名が、向日葵【ハピネス】の寵児と呼ばれるようになった。
ただそれは、あくまで未来の自分にとっての幸福。今の自分にとってそれが最も嬉しい選択しではないことも、しばしば。将来的にそれが最もいい未来になると理解していても、目の前の吉事を見逃さねばならぬことは多い。あるいは、ズタズタになる自分の心を庇うこともできずに、ただ傷だけ負い続けなければならないことも。
そして、そう言ったシチュエーションにおいて、大概は目の前の相手は、悪気なく自分に接しているのだ。彼女らにとって、その言葉は率直な言葉であったり、あるいは葵を労わるものであるはずなのに、言われた葵にしてみると、ナイフのように思えることもある。
違うんだよ。言えない、そんな事。何が分かるのさ、言っちゃいけない。だって、そんな事言ったら折角できた友人が離れて行ってしまうから。一人ぼっちに、なっちゃうから。
そんなの寒くて、怖くて、寂しいじゃないか。だからこそ葵は、寵愛の標に従って、今の自分の悲痛な声を噛み殺してでも明るい方へと歩いていくのだ。
卑怯者だなと、卑屈な考えが、また。ふとした時、ネガティブになると思い浮かぶ、消極的な考え。生きていく上で、ずるをしている。他の誰かじゃない、自分の冷静な、理性と呼ぶべき分身が後ろ指を指している。
私は正解を選んでいる、そのつもりだ。けれども本当はこの能力は、『誤りを避けるだけ』の能力ではないか。そんな疑念も、しょっちゅう浮かぶ。
後ろ向きになるなと、誰もいない廊下で首を左右に振った。寵児だからこそ知っている、世の中の理不尽。疎外に迫害、差別に仲間外れ。欺瞞、敵対心、羨望。薄汚い負の感情は、痛いくらいに浴びてきた。一番向けられて悲しい感情は、恐怖だとももう知っている。
「でも、一番可哀想な人は、私なんかじゃないんだよね、きっと」
世の中には、寵児ではないただのアルビノもいる。そう言った人たちは今の世の中において、最も弱いと言えるだろう。私達寵児は、せめてもの情けで神様から愛された。寵愛を、貰った。けれども彼らはそうではない、寵愛も与えられず、見た目だけ寵児と同じだから、悪魔だと遠ざけられる。
「そんな可哀想な人、本当にいるのかなあ」
分からない。しかし、きっと存在しているのだろう。するとやはり、彼らが一番不幸の星のもとに生まれたと言って相違ない。
今の世の中で、『能力を隠す寵児』と『ただのアルビノ』を区別する方法なんてないのだから。
- Re: Lion Heart In White ( No.6 )
- 日時: 2018/09/20 17:50
- 名前: 玲央 (ID: EnyMsQhk)
憎い。ああ、そうともさ。気が付いたらゲロでも溢してしまいそうなくらいに、大嫌いで仕方が無いんだ。一度目にしてしまえばそれだけでえづいてしまう。喉奥を指でかき回されたような不快感、嫌悪感が俺を苦しめて止まない。
何がそんなに気に食わないって? 白さ、白に決まってる。神に愛されただなんて倒錯した、彫刻みたいに真っ白な肌と芸術的な容姿を持って生まれてきた悪魔どもだ。世の中腐る程白がありふれてやがる。空を見てみろ、調子づいた雲が徒党を組んでやがる。本棚を覗いてみろ。紙なんてことごとく白いだろうが。
そして街を見てみろ。のうのうと天使の皮を被った人でなし共が、嗤いながら俺たちを見てるぞ。何? 時代を作っているのはどのみち俺たち『人間』の側だろうがって? 馬鹿言うな。それは今の話でしかない。これまでの話でしかねえよ。明日の昼には俺たち全員死んでるかもしれないだろうが。それだけの力が、あの憎らしい汚物共は有してるじゃねえかよ。
何だって、そんなに寵児が憎いかって。そりゃ憎いに決まってんだろ。ただそれ以上に俺は怯えてるんだよ。あの亜人連中が近い将来人類を淘汰する危険性に、恐れ戦いてんだよこちとら。世間がただ疎外の目を向けている中、俺一人が代わりに警戒してやってるんだよ。
そうだそうだ、もう一つ嫌いなものがあったな。目だ。俺を見る目だ。どいつもこいつも好奇に羨望、期待に落胆、そして溢れるほどの畏怖に畏怖に恐怖に戦慄に怯えに畏怖に警戒に畏怖に恐怖に畏怖に畏怖に畏怖。そんな目で見てんじゃねえよ。俺はただのアルビノだってのに。寵愛なんて持って生まれてねえ。ただ体の色素が薄いだけだ、寵児の身体メカニズムとは、遺伝子からして何もかもが異なっている。
なのにあいつらの貼るレッテルはどうだ。俺に見られないように後ろから指さしやがって。俺に聞こえないようにひそひそ口元隠して囁きやがって。見てねえと思ったか、聞かれてねえと思ったか。判ってるんだよ、全部な。手前らの胸の内まで事細かく解ってんだよこちとらな。
寵愛とかいう犬の糞以下のごみなんざ要らないに決まってるだろ。察するんだよ、臭うんだよ。本能ってやつさ。きな臭ぇ気配がぷんぷんしやがる。振り返れば慌てて目を逸らし、周りが静かになると途端に口を噤む。馬鹿ばっかだ、隠し通した気で居やがる。必死こいて掃除してたら、そもそもそいつが汚した事実ぐらい丸分かりだろうが。
勝手にビビった奴らが、身を隠しながら石を投げてきやがる。こっちはただの非力な人間だってのに。身を護る盾も、お前たちを傷つける剣も無いってのにな。あぁ知ってる、知っているともさ、怖いよなぁ。寵児がどんな力を持ってるかなんて分かんねえもんなあ。
俺は白い、白いともさ。お前たちが俺に向ける瞳の色と同じだ。視線が真っ白で嫌んなるぜ。誰も暖かい眼光なんて向けやがらない。そりゃそうさ、お前らが忌み嫌う寵児と俺は、全く同じ顔してやがるからな。
そうともさ、俺という人間の、人間としての人間らしい人生ってやつは、根こそぎ奪われた。全部灰になった。生まれる前から磨り潰されて、最初から無かったみたいにまっさらだ。振り返れば赤ばっかだ、振り返っても血まみれだ。ある時は額から、またある時は唇から、燃えるような生命の雫を垂れ流しながら睨むのさ。その虹彩はやはり紅だ。血の色が透けて復讐を語っている。
だから決めた。この腸(はらわた)の奥底で沸騰し続けている激情を、全て世界に叩きつけると。我が身を燃やすこの怒りを以て、寵児の未来をも焼却する。俺の幸福を奪い取った悪魔どもに、笑顔の溢れる結末などくれてやるものか。
だから俺は結成した。寵児の集う結社、白心門道【はくしんもんとう】を。今は一時の憩いをくれてやる。約束しきれない栄光を目の前にちらつかせてやる。足元も見ずに斜め上ばっか見てとびこみやがれ。いつしか真下には無間の奈落が広がっているだろうよ。
絶滅させてやるよ、繁栄する間もなくな。
手に取るは、マイク付きのヘッドセット。マイクの中には変声機が内蔵されている。俺の声を、『意志ある一文を』、単なる『機械的な一音の羅列』に、機械音声へと転換する。抑揚も強弱もない音の集合体が、どこの誰とも知らない誰かに届く訳だ。
その誰かには、ただのコードネームのようなもののみが与えられている。俺を含め、四人いる。素性は誰も知らない。互いに詮索しない。共有している理念は、たった一つ。寵児は危険であり、人類のために絶滅させるべきという意志のみだ。
全員がチャットにログインしたことを確認し、俺は口を開く。部屋の扉は閉ざされており、ノックをする者は居ない。分厚いカーテンで遮光した暗がりの中、コンピュータから漏れる光のみが、フードを被った俺の姿を浮き彫りにしていた。
「こちらオスカー。応答を求む」
「こちらはネロ、聞こえている」
「ウルシ、回線に問題は無い」
「ブラックで合ってたっけ、私。大丈夫です」
短い問いかけに、短い応答が重なる。全員が黒を基調とした標識を持っている。彼らの本名に、実際に黒が刻まれているのかは俺の知るところではない。
本名どころか、歳も知らない。性別も不明ならば職も謎。深入りすれば情が湧く、だからこそ誰も踏み込まない。俺たちは、この憎悪さえ持っていればそれだけで繋がっていられるから、それ以上は求めなくていい。
親しくなどなってしまえば、もう元には戻れない。ユングもそう言っている。人間関係とは化学反応のようなものだ。二つの異なる化学物質が接触した時のように、一度変化してしまえば、もう元に戻ることはできない。
尤もそれは、人間関係のみに留まらない。世の趨勢とて同じ事だ。巻き戻しボタンは、録画した映像以外には存在しない。人生にセーブポイントなどありはしない。欲しい才能を得るまで、リセットしてやり直すようなこともできはしない。
そう、世界とは所詮超巨大なフラスコに過ぎない。
実験を操作している主も、その目的も掴めない。しかしそれでも、この宇宙という枠組みは、試薬を次々と入れたナスフラスコに似ていた。
もしかしたらその主は、人という哺乳動物が爬虫類から天下を奪い取ったように、今度は寵児たちに派遣を握らせたいのかもしれない。
だが、往々にして、実験に失敗は付き物だろう。
その目元はフードに隠れて見えないが、口角は僅かに持ち上がっていた。
寵児はヒトから憎まれた。されど世界から愛された。
しかしこの男は違った。彼は人から敬遠された。さらに世界から見放された。
寵愛を受けた、○○の寵児ではない。愛されなかった孤独な子供、否定とダメ出しばかり賜った、万人に見捨てられた××の捨子。
彼が望んでいるのは、徹底的なまでの寵児への弾圧のみだった。
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