複雑・ファジー小説

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青い蝶よ、いつからか。
日時: 2018/06/09 12:54
名前: 縁−yosuga− (ID: 9uo1fVuE)


────特別なことはなにもなかった。


ただなんでもない、日常の一コマを切り取りたかった。




それだけ。

Re: 青い蝶よ、いつからか。 ( No.1 )
日時: 2018/06/10 12:33
名前: よすがさん (ID: 57S6xAsa)


【青い蝶よ、いつからか。】


 特別なにもない、いつも通りのそんな朝。

頬を撫でる生暖かい風に紛れて、虫の鳴き声と水の滴る音が、聞こえてくるのがわかった。
誘われるように目を開くと、部屋が薄暗い。自然光が遮断されているのか、朝か夜か判別もつかない。視界がぼやけたまま、ぼふぼふと、手探りで頭上あたりの時計を探す。指に硬いものがあたり、あまりの痛さに悶絶した。絶対今爪剥がれたぞ。声にもならない叫び声を、ベッドにぶつける。その硬いものが時計だということは察していたので、痛みが引いた頃、元凶を手に取った。針は、6時半過ぎを指していた。

「……雨、か」

重い頭をもたげ、ため息をつく。しとしとと、音が近くで聞こえてくる。窓が開いているようだった。
関東もすでに梅雨入りで、室内の湿気は寝起きの体にまとわりついていた。冷たい感触といい、なのに張り付くような気持ちの悪さといい、……先ほどの怪我といい、低血圧も相まってか苛立ちを覚える。

 「……煩わしいな」

昨日はいつ寝たのだろうか。上体を起こした僕は薄い毛布を畳み、ふと思った。一人で使うスペースとしては、少し広い部屋を見渡す。机に散らばっている書類、ベッドの横に無造作に置かれている本、部屋の隅に布の掛かったイーゼルとキャンバス、乱雑に積まれた衣類の山、中身が外に出た鞄、そして、少し開いている窓。
 
 「──……」

何か胸に引っかかるものを拭えぬまま、畳んだ毛布をクローゼットに仕舞い込む。できるだけそれを視界には入れないように窓を閉めると、僕は逃げるようにキッチンへと向かった。







 「……お前、それ、どうにかなんないの」

珈琲を淹れる最中での、一言である。
尋ねられた僕は、振り返って、声の主を視界に入れた。
少し見上げるくらいの背丈の、茶髪の男。同じ大学に通う、水野閏みずのじゅんだった。経緯は面倒くさいので省くが、一ヶ月前に僕の家に転がり込んで来たのだ。いわば、シェアメイトである。スラリとした体を覆う白いシャツに黒いパンツ、生地の上からでも、裾から出てる部位からでも見て取れる、無駄のない筋肉。しかし覇気のない目がどこか頼りなさを感じる。まるで大型犬のようだった。

 「……」

何を問われているのかがよく分からず、珈琲を淹れ終えた僕は、彼に返事もせず、ダイニングへと移動した。
それほど広くもないダイニングキッチンだが、男二人で使うにはちょうどいい広さだった。反射する床と、綺麗に配置されたインテリア。四隅に置かれた観葉植物や、掃除の行き届いた部屋は、すべて水野の腕によるものだ。
マグカップを備え付けの透明なテーブルに置いたところで、茶髪の男はため息をついてキッチンへと移動した。

 「だからさ、ズボン。なんで履いてないんだよ、毎朝さ」

指摘されて、ああ、なるほどと、僕は納得した。あまりにも過ごしやすくて忘れかけていた。
ワイシャツの下から覗くのは、布地ではなく、自分の両足だ。しかも、黒のボクサーパンツが丸見えの状態である。自分の家だからといって格好がラフすぎると、この男は言いたいのだろう。

 「脱ぐのは癖だ、気にしないでくれ」

そう淡々と言って、何事もなかったかのように僕はソファへと深く腰を下ろした。
これも、いつも通りのやりとりだった。何度繰り返したかわからないが、いい加減に慣れてほしい。まるで、こうした会話を始めないと、世界が動き出さないと言わんばかりだ。
それよりも、珈琲である。

 「せめて、ハーフパンツくらい履いてくれ」
 「断る」

水野はため息をつきながら後頭部を掻きむしった。
それ以上言うのは諦めたのか、慣れた手つきでフライパンやら冷蔵庫から食材やらを取り出している。もうどこに何があるのか、こいつは僕より知っているのかもしれない。ふと、主夫の二文字が頭をかすめた。昔から世話を焼くのが水野だったから、自ずと家事全般は彼が引き受けていた。
家庭的な男というのは、きっと女性にモテるんだろうなと、くだらないことを考えてみる。水野を見ているとつくづく思うが、しかし、そういった手の話は本人の口からも聞かない。もしかして、童貞だったりするのだろうか。
そんな下世話なことまで考えて、マグカップを持つ手を止めた。先ほど起き掛けに痛めた指先が、取手に触れ、痛み出した。「どうした、指、大丈夫か」キッチンにいた水野が、慌てた様子で駆け寄って来た。大丈夫だと口を開くのが早いか、彼は僕の手からマグカップを奪うと、怪我をした右手をじっと見つめる。そして、少し動かしたかと思うと、ほっと息をついた。

「大げさだな。たかが突き指だ。さっき時計を殴った因果だ」
「お前の利き手は命の次に大事なものだろ。大げさにもなるさ。他は? 痛むところはあるか」
「ないよ」

というより、火を掛けっぱなしじゃないのか。そう付け加えると、水野はまた慌ててキッチンへと戻った。
ほのかに味噌の匂いが立ち込めていて、これは味噌汁の他に、鯖の味噌煮だなと献立を予想できる。鯖の味噌煮は大好きだ。それを水野は嫌という程知っているので、これで鯖ではなく鰯とかだったなら、利き手で制裁をしなければならない。「鯖だろうな」「鯖だ」ならよし。

「……右手、ほんとに大丈夫か」
「しつこい男は嫌われるぞ。すぐに良くなる」
「そうじゃない。あれから筆、握ったのか」


無意識に、肩に力が入るのがわかった。


Re: 青い蝶よ、いつからか。 ( No.2 )
日時: 2018/06/10 21:13
名前: よすが (ID: 57S6xAsa)
参照: 青い蝶よ、いつからか。


白い紙を前にすると、厭でも思い出すことがある。



それはまだ自分に自信があって、夢を見ていた頃だった。
当時はまだ高校生で、廃れていた美術部に入部した新入生は自分だけ。顧問は相当喜んでいたけど、残っていた美術部員は当時先輩にあたる、水野だけだった。
その頃の水野は眼鏡を掛けていて、その大きな背を丸くして座っているもんだから、どこか陰気な雰囲気が漂っていた。僕が自己紹介をしても、頷くだけで会話もなく。これじゃあ後輩も寄り付かない、廃部になっても仕方ないのではと危機感を覚えたのは、今でも鮮明に思い出せる。

優鷹ゆたかは将来とか決まっているのか』

水野が珍しく声を掛けてきたのは、夏休みが間近に迫っていて、作品を一つ仕上げなければいけないと自分を鼓舞していたときだった。静かな部室には、鉛筆やパステルをキャンバスの上で擦っている音だけが響いていた。

『……将来、ですか。美術関係でしょうか、やっぱり』

向かい合って座る中、窓から差す夕陽が足元に影を落としている。まだ一年生であまり深く考えたこともなかったけれど、美術監督や、背景画家、とにかく多種多様に対応できるように芸大に進むのだ。水野はどうなのかと続けて訊いたような気がする。水野の手が、止まるのが分かった。反射的に彼の方に視線を上げると、こちらを見ていた。

『夢で、終わらないといいな』

そう言った水野の表情は、夕陽が落とす影でよく見えなかった。
どうしてあのとき言わなかったのだろう。夢で終わらせませんよ、と。どうして僕はそれで会話を終えたのだろう。二年生は進路調査があり、もしかしたら彼は燻っていたのかもしれないのに。いつかこっそり見た、彼の絵。どこまでも空だった。青い空。曇り空。茜の空。雷だったり、雪だったり、虹が架かっていた。彼の絵には一つも、人物がいなかった。もしかしたら、どこかで、美術だけではやっていけないと、思っていたのかもしれない。
プライドが高かった当時の僕は、どこか馬鹿にされたような気分になった。その実、中学とは違って誰も褒めてはくれなかったことも起因していたからだ。つまりは、ただの八つ当たりなのだが、それすらも認めたくはなかった。

それからだった。僕が、水野を先輩だと思わなくなったのは。






僕が一瞬、返事に窮したのを、水野は見逃さなかった。

「描いてないんだな」

皿に料理を盛り付ける水野が、ため息混じりにそう零す。僕は誤魔化すように、珈琲に口をつけた。
結局、僕は芸大へ行くのをやめた。高校を卒業してから一度もキャンバスと向き合っていない。水野と同じ大学に希望したとき、彼はひどくショックを受けていたように思う。あまり思い出したくもないことだ。

「命の次に大事なものは、もう利き手じゃないんだ。キャンバスでも、筆でもない」

昔の自分は幸せな夢を見ていた。上には上がいるなど芸術には関係なかったのに、誰かを踏み台にしてまで他人の評価に依存していた。自分の中に無限の可能性を見出していたのに、結局は評価が無ければ崩れる脆いものだったと知るのは、そう遅くもなかった。

「それでも、最後に描いた絵は、今でも大切に置いてあるんだろ」

出来上がった料理が、僕の目の前に綺麗に並べられていく。艶がありふっくらと仕上がった白ご飯。大きな豆腐とオクラが入った味噌汁。大根やほうれん草と一緒に煮込まれた、鯖のごま味噌煮。水野がよく作る、一番美味しい献立。

「……ああ、そうだよ」

覚えているのか。もう三年も経つことを。
頭の中に浮かんだのは、部屋の奥に置き去りにされたイーゼル。あれは最初で最後の水野との共作だった。厳密に言うなら、水野の作品だ。彼がそれでも空を描くから、勝手に僕が青い蝶を描き足した。窓を上から塗って、大空へと羽ばたくように。海のように深い蝶は、透き通る空に、折り重なって、飛んでいくように。



『──見ろよ、センパイ。これを、僕の最後の作品にしてやった。知事賞だってさ』
『……すごいな、優鷹。こんなに綺麗な絵は、見たことないよ……』
『……あ? なに言ってんだよ。この絵はな、あんたの空を使ってんだ。あんたの目に映る空だろ。怒るとか、軽蔑するとか、』
『ああ、ここまで惹き込まれる空は見たことがない。お前の目には、こんな風に空が映っているんだな』

やっぱりお前はすごいよ、優鷹─────。





「……あんたが僕のことだけは覚えているから、あのときすぐには気づかなかった」
「…………」

水野がなぜ空だけをキャンバスに写していたのか。あれはすべて、そのとき彼の目に映った空なのだ。彼の絵を描く理由が記憶補完だと知ったとき、まだ幼かった僕は、想像以上のショックを受けた。いつだって上だけを見ていた僕には、水野はなによりのライバルだった。それなのに、彼は僕のことすら、透かして見ていたのだ。

「記憶は、自分じゃどうにもできないこともある。忘れていくものは忘れていくし、覚えているものは覚えている。俺の場合は、覚えていることが、人よりも少ないだけなんだよ」

向かい側のソファに腰をかけた水野が、穏やかに言う。見れば、自分の用意したご飯を、口元に運んでいる。僕も流されるままに鯖の身を箸でほぐした。

「将来を諦めたのは、どうしてなんだ」
「それも覚えていないのか」

責めるつもりはなかったが、水野は申し訳なさそうに肩をすくめた。

「……あんたの絵を使ってまで評価をもらった僕を、あんたが『すごい』って褒めたからだよ。こんなことでしかあんたを見返せないのかって。羞しくなったんだ」

理由は、他にもあったけれど、面倒くさくて省いた。結局「共作」として学校内で発表した自分の臆病さが見ていられず、今でも部屋の奥で、布と埃を被って置いてある。筆はもう握ることができない。キャンバスを前にすると、そのあまりにも強烈な白の暴力が、頭の中を塗り潰していくのだ。どこまでも堕ちてしまう。

「俺は優鷹の絵、好きだよ」

不意の一言に、摘んでいたほうれん草が皿に落ちた。

「ど素人が描いた空を、あそこまで惹き込んでくる絵に変えたのは、他でもない優鷹の才能だろ。見せられたとき、あのキャンバスが俺のだって最初から分かっていたさ。ただ、味気なくて物足りなかった。同じ色ばかりで、感動がなかった。だけど、優鷹の描き足した蝶は、俺の作り出せない色だ。きっと誰にも作り出せない色だ。俺の空がなくったって、お前の絵は知事賞どころか、それこそ文部科学大臣賞だって間違いなかっただろうな」
「……いや、さすがにそれは夢を見過ぎだろ」

自然と、笑顔になっていた。
あのとき青い蝶を選んだのは、いつか読んだ本で齧った、「神の使い」という意味が強く現れている。青が幸運を呼ぶとされるのは有名な話だが、蝶にも意味があり、その中でもユリシスという蝶は「幸福のシンボル」として有名だった。
天に昇る青い蝶の群集は、水野の描いた空に、不思議なほどに馴染んだ。

きっと、あの青い蝶が幸せを運んできたのかもしれない。


「お前が嫌じゃなかったら、あの絵、『その青よ、』をさ、このダイニングに飾ってくれないか」
「別に、あんたがそれを望むなら。なんかもう、こだわるのも馬鹿らしくなってきてるし」

僕がそう言えば、水野は嬉しそうに立ち上がり、イーゼルのある部屋へと向かった。
あんなに向き合うことを避けていたのに、なぜだろうか。水野がいつものように笑って、あんなことを言うから、調子が狂ったのかもしれない。

水野の手によって置かれた『その青よ、』。雨で暗く沈んだ部屋を、淡く照らすようだった。
久しぶりに見たけれど、以前より抵抗は少なかった。むしろこの絵を再び水野と見られていることに、嬉しさを感じている。それがなにより大きかった。

「幸せが訪れてきそうだな」
「……そんなこと、本気で信じてるのか」

自分を棚に上げてなじる。羞ずかしいことをさらりと簡単に言ってのける、それが水野という男だ。



「また、絵を描いてくれるか」
「それはないな」
「それこそないだろ、優鷹」
「大の大人が泣き真似をするな」
「ちっ、面白くない大人に育っちまいやがって、そんな子に育てた覚えはないぞ」
「在り来たりなテンプレートは語彙力を悲しいほどに現してしまうんだな」
「そんな目で俺を見るのやめて」
「ははっ」


空は相変わらずどんよりと分厚い雲が垂れ込んでいて、蝶は天への道を見失うかもしれない。
それでも、いつか、僕が絵に込めた願いを、神へと届けてほしい。

そしたら、いつからか、彼のもとに、幸せが訪れるだろうから。



Fin.


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