複雑・ファジー小説
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- 冷たい手
- 日時: 2018/07/08 13:59
- 名前: 朝倉疾風 (ID: l1OKFeFD)
リハビリの創作。
- Re: 冷たい手 ( No.1 )
- 日時: 2018/07/21 10:02
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jX/c7tjl)
1
温かいココアを飲みながら、わたしは部屋の隅で丸くなって眠っている充希を眺めた。新聞紙を広げた、3枚分。そこが充希の行動範囲が許された場所。この家で、たったひとつの充希の居場所だった。充希は動かない。死んでいるのかしらと思ったけど、時折、肩がすうすうと上下しているので息をしているのが確認できた。伸びた髪が鬱陶しそうなのだけど、散髪をすることを許されていない。だれも彼に触れることはできない。
薄い膜を舌でいじる。甘ったるい味と、この鬱々とした現実が曖昧になって滲んでいく。
知らんふりをすることは、無視をするということは、神経を使うのだ。集中して、相手の存在を消していく。気力がいる行為をこの家では毎日行わなければならない。心が休まるひとときがない。ココアを飲んでいるときですら。
「あるく、なにを見ているの」
わたしの向かい側に座っているお母さんが、不思議そうな顔でこっちを見ている。
どうしてだろう。
どうして、こんなに自然に違和感を相殺して生活できるのだろう、この人は。
「……今日もいい天気だなと思って」
「そうね。お散歩行きましょうか。せっかくのお休みだし」
お母さんが嬉しそうに笑う。
わたしも微笑む。
どうしてだか、激しく泣きたくなった。わたしは臆病だから、こういうときですら涙がでてこない。泣きたいと思っているのに、悲しいのに。
「あるく」
お母さんがわたしを見ている。
充希のことは、いっさい見ない。
「ココアのおかわりは?」
近所の大きな公園に行って、芝生にシートを広げてサンドイッチを食べた。
噴水があって、子どもたちが撥ねる水しぶきに手をあてて喜んでいる。ウォーキングをしている男の人と、ベンチに座って仲良さそうに話をする恋人、新聞を読む外国人。お母さんがぱぱっと作ったサンドイッチは、ハムの塩気と玉子の甘味がして美味しかった。外にいるときはなるべく充希のことを考えないようにしている。お母さんは優しいお母さんで、わたしのためにサンドイッチを作ってくれるのだ。だれが見ても、この人は完璧なのだ。
「桜はもう散っているけど、ツツジがきれいね。あるく、残りのサンドイッチ、食べていいよ」
「ありがとう」
本当はもうお腹いっぱいだったけど、胃のなかに詰め込んだ。水筒のなかはジャスミン茶で、すうっとした香りが心地いい。
「夕ご飯、なににしようか。帰りに、スーパーに寄ってもいい?」
「いいよ」
「ミートスパゲティがいいかな。……ハンバーグかな」
お料理のことを考えるお母さんはとても楽しそうだ。わたしはどちらでもよかった。どうでもよかった。食事のとき、わたしの座る椅子から充希の姿が見える。お母さんの笑顔も、よく見える。歪んだ食卓にいる自分を想像して、サンドイッチを吐きそうになった。いけない、いけない。お母さんの前で弱みを見せてはいけない。わたしだけはまともでいなくちゃいけない。
「あるくはどっちがいい?」
「ハンバーグかな」
「そう!だったら、ハンバーグにしましょう」
充希はなにをしているのだろう。
そんな思いで胸が痛くなった。
2
「歩」とかいて「あるく」と読む私の名前を、高瀬は気に入ってくれた。
「そのまま読むところがいい」
そう言っては、夏の川のせせらぎのような澄んだ声で私の名前を呼んだ。それが心地よくて、私はたまに聴こえないふりをすることもあった。多く私の名前を呼んでほしいがために。子どもみたいだね、と言われてもかまわない。
アパートで一人暮らしをしている私の家に、高瀬はよく遊びに来る。
高瀬は写真家で、共通の友人を通して知り合った。細身で、色が白くて、手が冷たい。それらは、私が彼を好意的に思う理由はじゅうぶんだった。彼が私の名を気に入ってくれたように。部屋で細々とイラストを描いて仕事をしている私にとって、彼は外界からの刺激そのものだった。
休日は私の部屋で、ギターを弾いたり歌ったり、インスタントラーメンの食べ比べをしたり、漫画をじっと読んだりしている。たまに撮影所での面白エピソードを話してくれる。お互いが同じ空間にいても、ちっとも気にならないし、むしろ楽だった。そんな相手が現れることなど、幼いころの私はちっとも思っていなかったし、そこに絶望すらしていたのだから。共感できる人物がいないというのは、寂しいものである。
冷蔵庫から冷たい麦茶をだして、コップに注ぐ。高瀬はジャスミン茶が苦手だと言った。勢いよく、ごくごくとそれを飲み干して、高瀬は「ぷはあっ」と息を吐く。
「最近暑いよなぁ。異常気象だ」
「クーラーはまだ早いからね」
「クーラーは俺も嫌いだ」
わしゃわしゃと大きな手で頭を撫でられる。高瀬は部屋の奥でギターを弾き始めた。ああ、これ、私の好きな曲だ。そう思って目を閉じる。彼は、私がこの曲を好きだということを知らない。
夜は焼き肉にしよう。
近所の焼き肉屋に行って、たらふく肉を食べた。ふたりとも肉が好きで、野菜をおろそかにしがちなのだ。私は太りやすい体質なのでセーブしているけど、高瀬は細い。どんなに食べても太らない。そして酒に強い。美味しそうに目を細めて冷たいジョッキを空にしていく。からんっという氷の音が聞き逃すことのないように、賑やかな店内でも耳を澄ませた。
からんっ。
高瀬はすぐに二杯目を注文する。
分厚いタンを頬張り、唇の端についた肉汁が垂れないようにおしぼりで口を拭った。そこについた口紅の赤が、なぜだか私をみっともない女だと罵っているような気がして、彼に見えないようにおしぼりを折る。
「あるくは、肉をきれいに並べて焼くなぁ」
「高瀬は食べる専門だからね」
「嬉しいよ。食べても食べても、焼いた肉がでてくる」
食べたあと、二人で歩いて帰った。手はつながない。
大きなげっぷをしてから、深い春の夜を歩く。
その日、すぐにシャワーを浴びて、私たちは眠ることにした。
高瀬がうちに泊まるかどうかは、その日の彼の気分と、翌日の予定によって決められる。次の日の仕事は、お互いに休みだった。もっとも私はイラストの進行具合によって、休めるかどうかが決まるのだけど。
私たちはお互いの仕事に深く興味を持っていて、尊敬しあっている。一緒にいてプラスになることしかない相手と巡り合えている。この現状に不満な点はない。美しいモデルたちと仕事でよく一緒になる高瀬が、どうして私のような平凡な顔立ちの女といるのか、そこはよくわからないけれど。
「平凡なんかじゃないよ、あるく」
「むしろ、俺のほうが普通だ」
「きみは特別だ」
甘い言葉をかけてくれるけれど、私はそれには答えずにじっと、子どものように彼の腕におさまっている。特別。私は、特別。お母さんも、そう言っていた。
「また私の昔の話をしてもいい?」
眠れない夜に、幾度も話したことだ。
高瀬の腕の力が少し強まった気がする。
「いいよ」
私は回想する。すべて終わった出来事たち。もう戻ってこない人たちのことを。
- Re: 冷たい手 ( No.2 )
- 日時: 2018/08/09 20:08
- 名前: 朝倉疾風 (ID: ecbw2xWt)
3
県外の高校に通い始めたころ、叔母さん夫婦と一緒に住んでいた。
お母さんのお姉さんで、小春さんという。
介護士をしていて、少し太っていて、笑顔の可愛らしい人だった。
あんな事件のあとだったから、私のような存在を引き取ってもらえるのか不安でしょうがなかったけど、小春さんはあっさりと私を養子にした。「子どもがいなかったから、寂しかったの」と言って。彼女は強い人なのだ。いつもお日様のような匂いがして、笑顔が絶えない。仕事で疲れている日も、そんな素振りを見せない。同じ職の叔父さんも、物腰柔らかくて私を受け入れてくれた。
小春さんは洗濯物を干すとき、必ず鼻歌を歌う。
なんの曲かはわからなかったけど、とても上手で、私はよく目を閉じて聞き入ったものだった。
「また聞いているでしょう」
小春さんはケラケラと笑う。
「目、閉じちゃっているもの」
休日は、三人で映画を観に行った。私たちは映画が大好きなのだ。
終わったあと、近くの中華料理店に行って、映画の感想を言い合った。誰と誰が結ばれるべきだったとか、あの俳優の演技はだめだとか、前の人の薄頭が気になったわとか。
私は悪い意味でちょっとした有名人だったので、高校で知らない人に時々“言葉”という悪意のある矛先を向けられる。彼らはそれを使って私を攻撃しようとしたし、あるいは、疎外したりした。
でも、大半の生徒たちは、私に関わろうとすらしなかった。私という存在に触れないことは、事件に触れないということでもあったので。
覚悟はしていたけれど、県が違っていても噂は充満するものだ。
高校生活は楽しいものではなく、ただやりすごすものであった。
バスケットボールがゴールにぶつかる音。誰かの携帯が授業中に鳴ったこと。みんなに嫌われていた先生。小さいお弁当箱たち。こっそり折られたスカート丈。
「いったい、どうして彼らは小さな反抗をするんだろう」
小春さんにこう質問したことがある。
暑い夏の日。私たちは素麺を食べていた。
小春さんは首を傾げる。
「やりすごしていればいいのに。怒られるようなことをせず、従順に、刺激を求めず漂っていればいいのよ。そうしたら、あっというまに三年間が終わっているから。どうしてみんな、楽しいことを見つけるの。恋をしてわざわざ傷ついたり、校則違反をして怒られたりするの。それがまるで、すごいことのように語り合うの」
まるでばかみたい。
「あるくは毎日が退屈だとは感じないの?」
「私は、ほっとしているの。退屈なのが一番よ」
言葉の裏に、ぬかるんだ黒いものが含まれていることを察した小春さんは、「難しいけれど」と前置きする。
「みんなはあるくのような経験をしていないから、非日常に憧れのようなものを抱いているのよ。当人がどういう苦しみや辛さを経験しているのか、二の次にしてね。あることないこと言って、口では関わりたくないことを主張しながら、内心はドキドキしているのよ。自分の身近に非日常が存在しているって」
「ふうん」
「誰もしたことのない経験をしてみたい。そして早く大人になりたい。そんな焦る気持ちでいっぱいなんでしょう。実際、大人なんてそんな大したことはないのに」
「私のような経験は、必要だった?」
「いいえ」
小春さんは真っすぐに私を見る。
「あるくが経験したことは、本来ならば、絶対にあってはならないことなのよ」
少し早く教室について、中間テストの勉強をする。
今日は数学と英語と古典で、どれも私の苦手な教科だ。ノートにまとめたことを、チャイムが鳴るまでひたすら凝視する。数学は昨夜、問題をひたすら解いたからなんとかなるだろう。英単語がどうしても覚えられないので、私の集中力は二限目の英語に注がれている。
「あるく、なんで英語のノートを広げているの」
声をかけられたので、顔をあげる。
吉澤さんだった。彼女も私と同じで、ひとりでいることが多い。
「英語のほうが不安だから」
「ハーフっぽいのに、英語が苦手なのね」
「ハーフじゃないし。顔だけでそんなことを言われても」
自分では平凡な顔だと思っているのだが、周囲からはハーフと言われることが多い。どうしてだろう。うちの家系に外国人はいないのだが。
チャイムが鳴って、教師が大量のプリントを持って入ってくる。少しだけ緊張感に包まれた教室内で、私たちは問題と向き合う。
どうしても25分ほど時間が余ってしまう。解けない問題は解けないし、英語の勉強もできない。眠る生徒、ぼんやりと外を眺める生徒、最後まで問題とにらめっこする生徒。こういう空白の時間ほど、過去を思い出してしまうので、私は必死でほかに意識を移す。脳内で英単語を思い浮かべる。……よっつほど自信のない単語がある。
テストが終わって帰ろうとすると、吉澤さんが「帰ろう」と声をかけてきた。
テスト期間中、部活がないので私たちは一緒に帰っている。私は美術部、吉澤さんは陸上部だ。黒くてストレートの長い髪をひとつに結んで、校庭を走る吉澤さんは、密かに男子から人気があるらしい。これは本人から聞いた話なのだ。吉澤さんは味気なく、なんの感情も含ませずに、自分の価値を客観的に語る。
「サッカー部からよく声がかかるの。笑ってよ、とか、付き合わないか、とか。そういうの、嬉しく思うけどなんか違うなぁって思うの」
以前、帰っているときにこんなことを言っていた。
まだどの部活に入部するか決めていないとき。先輩のサッカー部員から、吉澤さんはよく声をかけられていた。
「どう違うの?」
「彼らの思っていることって、ぜんぶ、すぐに終わってしまうものだから。永遠じゃないから」
「……高校生での付き合いは、そう長くは続かないってこと?」
「少なくとも、私はね」
高校生はみんな焦っている。大人になりたくて。
小春さんの言っていることは、吉澤さんに当てはまるだろうか。
大人びている横顔。静かな佇まい。
焦っているようには見えないけれど、なにか、深入りしてはいけない雰囲気を醸し出している。
「彼らは軽く考えすぎなのよ。愛は、一生、ずっと、ひとりの人に注がれるべきでしょう」
「そうなのかな。私は、そう思ったことがないからわからないけれど。吉澤さんはそうなの?」
「私の愛ってやつは、すでに誰に注がれるべきか決められているの」
「それは吉澤さんが決めたの?」
「ええ」
だれに?
吉澤さんは静かに私を見る。きれいだった。ぞっとするほど。しかしどこか、お母さんに似ていた。
「私の、兄に」
- Re: 冷たい手 ( No.3 )
- 日時: 2018/08/09 20:15
- 名前: 朝倉疾風 (ID: ecbw2xWt)
4
誰かに愛情を注ぎ続けることは、それを受け止める側も、注ぐ側も、ひどく疲れることなのではないかと思う。かつて、私とお母さんがそうだったように。
だから私は、私の愛情をいろいろな方面へ注ぐことにしている。
例えば、仕事だったり、数少ない友人だったり、音楽だったり。
優しい時間も愛せるし、ひとりの孤独すら私には愛おしい。寂しさを感じることもあるけれど、耐えていける。子どものころに味わった絶望も、今なら抱きしめられるかもしれない。
頼まれていた文庫本の表紙を描き上げ、担当に渡した後、近くのカフェでお茶をすることにした。コーヒーとアップルパイを頼んで、煙草に火をつける。二本吸った後、手帳を広げてスケッチを始めた。道行く人を目で追って、鉛筆でざっざっと描く。こうしている時間が好きだ。
運ばれたアップルパイの、すっきりとした甘みと酸味。サクサクとしたパイ生地を噛み締めながら、甘いコーヒーを飲んでいると、ふと誰かの視線を感じた。
どこか懐かしい、そして、二度と味わいたくない視線。
今まで無視をし続け、そこにいないものとして過ごしてきたものの存在。
「……どうも」
「あ、どうも」
視線を交わしたのは、いったいいつぶりのことだろう。
家のなかでは彼と、話すことすら許されなかった。
みつきだ。
成長した充希が立っていた。
あちらも今このカフェの喫煙席に入ってきたようで、後ろに女の子を連れている。「だれ?」と女の子が充希に聞いた。
「俺の姉さんだよ」
彼はそう言い、私にお辞儀をすると奥のテーブルに座った。
心臓がバクバクと鳴っていることに気づいて、私はすぐに席を立つ。お会計をして、外に出る。ああ、ああ、ついにやってきてしまったか。恐れていた偶然だった。決して無いとは言い切れない偶然が、17年ぶりに訪れてしまった。ぱっと消えてしまえばいいのに。いろいろな悪いこと、ぜんぶ。
「俺の姉さんだよ」
すらすらと台本でも読んでいるかのように、充希は答えた。
17年ぶりの再会だった。
もう家族なんて壊れたと思っていたのに。
私の家に充希が弟として住むことが決定したとき、お母さんは激しくお父さんを罵倒した。恥知らずだの悪魔だの散々喚き、今まで自分が築き上げてきた理想の「家族」が一気に崩落することに怒りと苦しみを感じていた。
お父さんが一回りも若い女性を愛人として囲い、その間に子どもが産まれて認知までしていたことを、私とお母さんだけが知らなかったのだ。お父さんの経済力でなら、不可能なことではなかった。
相手の女性はひどく遊び人で、子どもの世話をまるっきりしなかったのだと言う。ネグレクトを受けていた充希を見かねたお父さんは、自分の家でその子を引き取ったのだ。
浮気され、さらに子どもまでいたという事実は、お母さんの心のバランスを崩すのに十分だった。
「離婚はしません」
お母さんは笑いながらお父さんに言っていた。
「私の家族は、あるくと、あなたよ。私は私の家族を守るだけだから」
確かに表情は笑っていたのだけど、目からは涙を流していた。
私を連れてお父さんの前に立たせ、彼がいかに私たちを裏切ったのかを永遠と聞かせた。お父さんはその間、目を閉じて、「何を言われてもかまわない」といった顔でその時間を耐えていた。いや、やり過ごしていた。お母さんはそんな彼の態度にますますヒステリックになるのだった。
大人(と言われる年齢)になった今でも、あのとき誰が悪いのかなんてわからない。浮気をしたお父さんに原因があるにしろ、彼にだって色々な事情や複雑な経緯があったかもしれないし。だけど、そうなると私のこの行く場所のない気持ちは、ずっと浮遊したままだ。どこにもぶつけられることもなく。
「今日はどうしたの」
高瀬と愛し合っている最中、不覚にも涙が溢れてしまった。それが恋人同士の抱き合いの果ての感動ではないことに、高瀬は気づいた。私が泣き止むまで背中を大きな手で撫でる。私はしゃっくりをあげながら、昼間に充希と偶然再会したことを話した。
高瀬は何も言わず、じっと私の話を聞いていた。
「狭い世界だから、会うこともあるだろうさ」
静かに、慎重に、彼は言う。
そういうこともありふれた世界なのだと。
「それが悪いことなのか、良いことなのか、俺にはわからないな」
「私にもわからないの」
「そうか。だけど、涙が出てしまうんだね」
「悲しいのかしら」
どうだろうね。
高瀬が微笑む。
私の仄暗い過去が呼び水となって溢れているのだとしたら、あの時捨てたはずの感情が大人になった今になって、冷静さの邪魔をしている。もうなくしてしまったと思っていた、彼への思い。目を背けていた罰なのかもしれない。
「私を罰しに来たのよ」
「あるくは、何か悪いことをした?」
「私が行動を起こすべきだったのよ」
「当時、まだきみは子どもだった。良し悪しの判断ができる年齢ではなかった」
「いいえ」
高瀬と視線を合わせる。彼なら、私の秘密を受け入れてくれるかもしれない。墓場まで持っていこうと決めた、私の罪。
「いいえ……私は、悪人なのよ」
「そんなこと」
高瀬の腕が再び私を抱きしめた。すりすりと頬を摺り寄せる。
口を開こうとしたけれど、それ以上は何も言わなかった。
私のことを語るには、この人を失いたくないという気持ちが大きすぎる。
「臆病すぎるよ、あるく」
何を恐れているのだろう。
自分でもよくわからない。
ねっとりとした暑さが鬱陶しく、家までの道のりを早歩きで帰っていた。
ビニール袋にはビールと玉子が入っていて、その重さで腕に食い込んで痛む。帰ったらさっそく一杯飲もうと思い、気力を振り絞る。
「姉さん」
顔を上げる。
充希は私のアパートの前に座り込んでいた。
煙草を吸いながら、気怠い表情でこちらを見ている。ティーシャツに迷彩柄のだぶっとしたズボンを履いていた。当時、リビングに敷かれた新聞紙3枚分に収まっていた体は、成長して今ではがっしりしている。子どものころから思っていたことだけれど、色素が全体的に薄い。瞳の色も、きれいだった。
「叔母さんから無理に聞いたんだ。ここに住んでいるって」
「──そう」
小春さんが充希と連絡を密かに取り合っていることは、なんとなく知っていた。家族を失った私たちを繋ぎとめる役目を、小春さんが引き受けてくれていた。
だから、このような日が訪れることを、覚悟していたのだ。
充希が私に会いに来る日を。
「あがって、お茶でもどう」
「ありがとう」
大人になった充希と一緒にいる。それは不思議なことだった。私にとって彼は、いつまでも子どもの姿のまま、脳裏に焼き付いていたのだから。小さくて、守られるべき対象だったもの。
部屋にあがってもらい、コーヒーを出す。
ビールは冷蔵庫の奥にしまった。
向かいに座り、彼の言葉を待つ。会いに来たのだから、何か言いたいことがあるはずだ。私は彼にとって、ひどいことをしたのだから。彼にとって悪い人なのだから。
けれど、充希の表情は穏やかであった。
昔のことなど、なかったかのように。
「姉さんはどういうふうに生きてきたの」
質問の意味がわからず、首を傾げる。
「それは……私のキャリア的なことを訊いているの?」
「すべてだよ。俺は姉さんがどういうふうに、今ここにいるのかとか、そこに至るまで何があったのか……それが聞きたいんだ」
「面白くもないわ」
心から笑ったことも、愛する人がいることも、ぜんぶ彼を前にするといけないことのように思える。
「俺のことを思い出すことはあった?」
「忘れられるはずがないわ」
強く言った。
忘れられるはずはない。
忘れてはいけない。
だって、二人で一緒に暮らしていたのだ。あの狂気の家で。お互いに関わることは本当に少なかったけれど、あの家の闇を目の当たりにしていた。
「このまま会うべきではないと思っていたの」
「俺もだよ。でも、あの日、姉さんに再会して、やっぱり会わなきゃって思ったんだ」
「どうしてよ」
「だって、俺たち、もっと話さなきゃいけないことがいっぱいあるだろう」
話さなきゃならないこと。
私にとってそれは無意味なことでしかないように思える。
起こってしまったことは、取り戻せないのだ。今さら話すべきことなんて、何もない。
「やめてちょうだい」
できるだけ優しく聞こえるように、冷たい言葉を投げかけた。
「姉さんって、呼ばないで……」
泣いてはだめだ。
憎まれて当然のことをしている。
「姉さん。俺はだれのことも恨んでいないんだよ」
「やめて……」
「本当に。ただ、俺は」
「やめてったら」
いっそのこと、憎んでくれてもよかった。罵詈雑言を浴びせられるほうが、まだマシだった。
充希の手が伸びてきて、私の頬に触れる。
「大人になっても、俺のことを拒むんだな」
それは高瀬のものより、ずっとずっと冷たかった。
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