複雑・ファジー小説

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苺の月で眠る
日時: 2018/11/12 22:21
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: w32H.V4h)

三森電池です。みんなで映画を撮る話です。よろしくお願いします。
Twitter @denchi_3

*もくじ
>>1-
 
*登場人物
マイ(21) 二十歳までに新人賞をとるという夢に敗れた元小説家。女子大生。
糸瀬(17) マイの家に監禁されている男子高校生。
折原(21) プロのミュージシャン。かつてバンド市場を沸かせた天才。
落合(22) フリーの写真家。大学在学中。
リカコ(23) セクシー女優。201X年、新人女優賞を受賞。
七河(22) 美大在学中のホスト。画家を目指している。

Re: 苺の月で眠る ( No.1 )
日時: 2018/08/18 03:11
名前: 三森電池 (ID: 9AGFDH0G)

 二十一回目の夏が来た。
 飲み屋街を覚束ない足取りで歩く。ぶら下がる提灯と、解放的な居酒屋から聞こえる馬鹿騒ぎ、揚げ物の香り、少し遠くを見れば安宿から覗くひかり。私たちのすぐ上を絶え間なく走る山手線。新橋駅を眼の前に私は、自分とそう背丈の変わらない落合という男に支えられながら歩いている。
 女がこうやって潰れてるとさ、見栄え最悪なんだよね、ちょっとはまともなフリしてよ、と隣で悪態を吐かれ、私はそうですか、ごめんなさい、ごめんなさいと、ヘラヘラしながら返す。右足と左足が縺れて上手く歩けなくなり、転びそうになるところで、腕を引かれる。嫌そうにしながらも毎回介抱してくれるのだ。たまに私でなく落合が沈む日もあり、そういった日はかなり面倒なことになるのだけれど、彼はだいたいいつもこれを味わっているので、ご近所同士、もう迷惑をかけあうのは仕方のないことだと思っている。一緒に参加した飲み会で、住んでいる場所が近いということからこうして飲むようになった間柄だが、家で一人缶ビールを空けてばかりの私が、唯一外で飲むのも悪くないなと思わされるのが、落合とのサシの飲みで、私たちは友達で、そこから一線を出たりまた中に入ったりを繰り返していた。

 「見栄えとかさあ、別にいいじゃん、誰も見てないって。誰も見てないんだから、どうなってもいいじゃん」

 落合は写真家で、まあ正式に言えばまだ大学生なのだけれども、プロのカメラマンに弟子入りしている。
 私はとっくに芸術方面の夢は捨てて、八王子にある真面目な大学で真面目に法律を勉強している。落合から貸してもらったジャケットを羽織っても肌寒さを感じるくらいに、この夏は、冷たい。かと思えば昼間はぐっと気温が上がり、都心のビル群を蒸し暑く太陽が焼き殺し、最高気温が、というニュースを毎日のように耳にする。なんだか不思議な夏だ。落合は写真をとる人だからか、例えば今みたいに見栄えとか、とにかく美しいものを追求したりとか、なんでもかんでも適当でいい私とは全然違う人間で、私たち、ぜったいに結婚しちゃあいけないね、と言うと、こっちからもお断りだよ、と返される。私は呆けたように笑いながら、この関係性の名前の事を考える。セックスをする友達、これはあまりにも生々しいか、寂しさをちょうどよく埋め合う友達。お互い、ほんとうに好きな人には指一本触れることもできないから、こうして妥協しあってるのだ。落合もその辺は適当である。
 名前のついた関係は、いつか終わってしまう。だから、私たちはこの夏のように不確かで曖昧でいいのだ。少しの距離を挟んで話す。人との付き合いがもともと苦手な私は、落合の淡々とした合理的な人間関係の広げ方が心地よくて、ここから這い出る気もないように思っている。向こうはどうだか分からないけれど、ある日突然終わりにしようと言われるのだろうか、とたまに考えたりもする。私だけ立ち止まっていて、周りの人間が軽々と追い越して行く、そんな人生を送ってきたから、どうしてもそんな終末を考えてしまう。

 「私のこと、好き?」
 「酔っ払ってる時は嫌い」

 昔、新人賞をとってやろうと本気で思ったことがある。
 空想ばかりしている子供だった。周りに馴染めず、いつも頭の中で架空の友達と、架空の私をつくり、ひとりぼっちの世界に逃げ込んでいた。最初はいちめんが真っ白な小部屋の隅っこにいるようであったが、年をとり、様々な物に触れていくにつれて、私は空や海、転がったビー玉、ブランコ、いじめられた経験、それらを世界に組み込んでいった。人生における革命が起こるごとに、世界は色を変えた。小学生の頃には筆を持っていた。自分の宇宙を他人に表現する手段として、私は文字を選んだ。絵も描けず、歌も歌えなかった私が、逃避して駆け込んだのが文学で、ひとりで作った私の世界と価値観を周りに伝えるため、そしてある種の自己肯定感を得るため、文章を書き続けた。それでも、自分の手数の少なさ、持ちうる言葉の貧弱さ、既存創作物への嫉妬などで、かなりのあいだ悩んだ。いつしか私はうつくしい物を素直に愛でる言葉も忘れ、自由帳に迷路を描く同級生を心の中で見下しているような、捻くれた人間に成長していた。何度も賞に応募したが、私の作品はどれにも掠らなかった。そして二十歳になり、幼い頃からぼんやり思い描いていた「小説家になりたい」という夢を捨て、自分の世界の枠外にはじめて目を向けた。
 しかし最後に応募した作品、「苺の月」にだけは、今だに未練を感じている。ある審査員の目に留まって、ほんの一瞬だけ、受賞の光が見えたからだ。
 大学二年生、そろそろ将来を考え始める。考えれば考えるほど、自分が文学界で成功してやりたかったと思ってしまう。むろん、今からでも作家は目指せるし、社会生活をしながら執筆している人もいる。だけど私は、十代の若々しい感性でしか書けない文学を、ボロボロではあるが青春という名のナイフを、評価されたかったと思うのだ。真面目に就職サイトを巡り、社会の中で生きる、つまらない大人になることで、私はとうとう文学の世界からも逃げてしまった。もう小説は書いていない。

 「私は、落合のこといい友達だと思ってるよ」

 呂律がうまく回らない。だけど漏れ出る言葉は本心だ。一歩自分の世界から踏み出しただけで、こんなに酔っても見捨てず一緒に歩いてくれる友達ができた。
 落合がなにかを言いかけた、その薄い唇に私はキスをする。ここは酔っ払いだらけの街だから、これもただの一風景となって過去になり、またひとつ腕時計の針が進む。言うはずだった言葉はしばらくの沈黙に変わる。
 こんな関係の友達が、良いわけないだろう。言いたい事はわかっている。最初にホテルに誘ったのも私の方だった。こうして歩いていて、不意に目に入る、ガラスに反射して映る私たちは、こんなにも近い距離なのになぜだか恋人らしくない。不似合いなのだ。深い関係になればなるほど、落合の中の芸術性に私が組み込まれていくのではないかと、それが私の芸術人生への餞ではないかと思っての提案だったのだが、今のところ、ただの寂しさを紛らわせるだけの友達で止まっている。人間関係というものは、最初から辿り着く末が決まっていて、私と落合は、きっと必然的にここに落ち着いた。私が踏み出した外の世界は、天の向こうの神様が支配している。創作のように、うまく絡みあう訳ではない。

Re: 苺の月で眠る ( No.2 )
日時: 2018/08/20 03:50
名前: 三森電池 (ID: e.VqsKX6)


 「送らないけど」
 「へえ、今日は気分じゃないんだ」
 「じゃあね」
 「また今度」

 二番線からの電車に乗って帰った。終電近い時間になってもまだまだ騒がしい、新橋駅は出来上がった酔っ払いだらけで、喧騒の中を歩きながら、私たちは時折立ち止まっては、いつのまにか消えていなくなってしまいそうなお互いの存在を確認した。この関係に名前はないのに、この人間には名前がある。この人の下の名前はなんだっけ。私はなぜ自宅まで送り届けてくれない落合に、少しの寂しさと冷たさを感じているんだっけ。都合のいい関係なら気が済むまで利用し尽くせばいいのに。多分きっと、ほんとうは都合なんてめちゃめちゃに悪くて、不満とか不安とか口に直接出してはいけないものを溜め込んでいるのだろうな、と、駅前で暴れているスーツ姿のサラリーマンを見ながら思った。同僚らしき人たちが取り押さえているが、その人たちの表情もまた、疲弊したものだった。発券機前では女性が潰れている。「ねえ、そういえば今日は金曜日だね」と言う。落合は曜日などなんにも気にしていないふうに歩いていた。倒れている女性を、暴れている男性を、目に入れるにも値しないとに見下しているようにも見えた。確かにこの光景は映えないだろう。私はこの人たちも各に人生があって、ドラマがあって、と考えてしまうのだけれど、こんな何千人といる人の中で、美しいものだけ拾い集める落合と、汚いものまで知りたい私とは、歩くスピードが違って、それでも私たちはなぜかこうやって飲んで、適当に集まっては、火遊びをしている。この程度の付き合いで相手の中身を知った気でいるのは多分きっと、私たちは芸術家だから、なんだかそれなりに奥までわかってるフリをしているだけであって、それさえ自慰的ななにかを感じるものであって、まあ別に、落合にはなんの期待もしていないのだけれど、だからこそ居心地も良いし、落合も同じ風に思っている。地下鉄はがたごと、風の音がうるさくて、隣の声を拾うのにも近付かなきゃいけない。だけど、ぽつぽつ座っている空いた車両で、わざと人ひとり分のスペースを開けて座る。今日はもう何も話す事はない。また用事を思い出した時に、どちらかが新橋に呼びつけるだろう。

 私は一人暮らしをしている。大学入学と共に上京し、両親が手早に契約してしまった安アパートに住んでいる。
 落合と別れて、カーディガンを借りたままだったことに気付く。メールしよう、とポケットからスマホを取り出した。落合と飲んでいる間に、私に送られてきた何件かの連絡を見て頭が痛くなる。案外ひとりになれば酔いは覚めてくるもので、外の肌寒い風と一緒に、現実がやってくる。もう少し飲めばよかった。それか落合を酔わせて家までついて行けばよかった。都合よく利用されてばかりいるのは私ばっかりだ。家までの道のりが遠い。足取りが重い。夢みたいな時間はもう終わりだ、新橋で酔いつぶれていた女性も、もう誰かにホテルに連れ込まれているんだろう。
 住宅街。所狭しとアパートが建っている。東京は、無理やり人を詰め込んでいるみたいだ。ひとり、歌を歌いながらのんびりと散歩をすることもできない。すれ違う人たちはみんな知らない顔をしている。満員電車に乗っている時、こうして深夜に人を見る時、東京は人間を抱え込みすぎだと思う。私だって夢とか希望とか抱いてやってきた東京だけれど、星がない。水が美味しくない。お酒は美味しい。こんな人生で良かったのか、と自分に問う。良いんじゃないかな、私らしくて、適当でさ。私の世界の中にいる、もう一人の私は返す。そうだ、これで良いんだ。このまま、苺の月の夢は捨て去り、両親を安心させてやる大人になれば良い。
 黒い野良猫が不思議そうにこっちを見つめている。私が立ち止まったら、すたすたと逃げていった。対照、クリーム色で塗装された古いアパートの階段を登っていく。私の部屋には、まだ明かりがついているようだった。日付はとっくに変わっている。面白いお土産も、それに代わるような話も無い。それなのに、あの子は今日も家には帰らず、私が帰宅するのをじっと待っていた。
 私の部屋には、高校生の男の子が住んでいる。誰にも話した事はない。私の世界に唯一惚れ込んだ、まだ十七歳の子だ。全ての自由を私に捧げ、いつもきらきらした目で、私の書いた文章を読んでくれる。学校が終われば私のアパートにやってきて、家事をして、私の世界を見るために生きているとまで言う。
 私は自由の身でありながら、犯罪すれすれ、いや、もう両足を突っ込んでいる。何度も帰そうと試みたが、私は、私を心から肯定してくれる存在を、手離せなくなっている。両親を安心させてやるとか、まともな大人になるとか、どの口が言っているんだろう。自分の作った世界に引きずりこんでしまった、たった一人の生身の人間の温もりを、芸術人生を捨てた今も、「なければならないもの」として手元に置いてある。彼は私の文学に心酔し、未来など少しも見えていない。精神薬のように優しくて、お酒のように急に覚めたりしない。私の世界でたったひとつ、キラキラと輝いている。これは恋でもなく愛でもなく、洗脳に近いものだと思っている。私は自分の文学性にそこまでの力があったことを、今まで生きてきたことの、全ての出来事の中でいちばんに嬉しく感じている。
 スマホが震え、画面を見ると、落合から「次会うときにカーディガンを返せ」といった内容のメールがきていた。
 鍵穴に、錆びついた銀色の鍵を突っ込んだ。あした、全部あした考えよう。今日はもう、諦めよう。テレビの音が聞こえる。帰宅とともに酔いが一気に回ってきたのか、私は荷物を床に置いたまま、玄関に倒れこんだ。意識が朦朧としだして数秒後、ぱたぱたと軽快なスリッパの音が、こっちに向かってやってくる。でろでろに甘やかされているのはいつものことだ。見るからに酒臭い私を見て、彼はすぐ察し、白くて綺麗な手を差し伸べた。

 「マイさん、おかえり」

Re: 苺の月で眠る ( No.3 )
日時: 2018/09/07 20:58
名前: 三森電池 (ID: w4lZuq26)

 「糸瀬、くん」

 糸瀬くん。酔っ払って呂律が回らず、舌が絡むようで気持ちが悪い。けれど、目の前に立っている彼は、恐ろしく綺麗だ。
 私は糸瀬くんの手を引いて立ち上がり、その一度も染めたことのない、自然な亜麻色の髪に触れる。繊細で、柔らかくて、まるで猫のようだ。大学生にもなると、私も含めて周りはみんな背伸びをして髪の色を抜き、きしきしに痛んではそれをまたヘアアイロンで引き伸ばしたりするのだけれど、彼のなんにも汚れていない髪は、高校という規則で縛られた場所で生活をしていることの象徴のようで、私はこんな男の子を家に閉じ込めている妙な背徳感に、毎夜溺れているのだ。
 身長は百七十五と少し。色白で線が細く、休日の昼間など日なたに座っていると、そのまま光にまみれて居なくなってしまいそうな雰囲気を持つ少年だ。顔立ちも西洋人形みたいで、前に一度だけ、君には外国の血が入っているのかと聞いたことがある。糸瀬くんは家族の話をあまりしたがらないので、よくわからない、といったニュアンスで誤魔化された。
 家に帰らないのか、と聞いたことだってある。
 大学入学とともに上京してきた私でも名を知っているような、名門の私立高校に彼は通っている。聞けば、中等部からの編入らしい。田舎には、第三中学校だとか、北高校だとか、そんなつまらない名前の学校しか存在しないので、「中等部」という響きに私は馴染みがなく、また聞けば塾に通ってお受験をしたらしく、彼のご両親は教育熱心で、かつお金にもかなりの余裕があることを伺える。
 そんな彼が、西荻窪の安アパートに泊り込むようになってから、二ヶ月が過ぎようとしている。小説家になりたいと語る彼は、偶然、文学馬鹿しか読まないようなマニアックな雑誌に掲載された私の小説「苺の月」を読んで、感銘を受けたと、うちに転がり込んできたのだ。
 酔っ払っている。こんな漫画のような出来事が、まさか自分の身に起きるとは。今でもたまにこの目を疑う。でも、私は、すでにそんな夢を諦めたにもかかわらず、自分の書いた文章が、こんなにも人を狂わせたことを、際限なく嬉しく思っている。
 「苺の月」はかなりの自信作で、これが何にも引っかからなかったら、それは文学界が間違っていると、飲みの席で落合に豪語したことがある。当然のごとく落選した。二十歳までに新人賞をとれなかったら、もう小説を書くのを辞めようと思っていたため、私は潔く諦めて大学と家を往復する生活を送ることにした。だけど、「苺の月」は、糸瀬くんにだけは引っかかった。

 「僕、マイさんみたいな小説書きたいって思って、マイさんと同じ世界を見たいって、思ったんです」

 部屋の明かりを、糸瀬くんが消した。私が化粧も落とさず寝落ちすることを、もう彼はわかっているようだ。シングルベッドにしがみ付くように倒れ、横に糸瀬くんが座る。洗濯も皿洗いもやっておいたので、マイさんは寝てください、と自慢げに言う。
 まるで夢でも見ているんじゃないか。糸瀬くんは私に微笑みかける。さっきまで地下鉄に揺られ、ネオン街の下、汚れた人間の中を、喧騒で溢れかえる街の中にいた、あれが現実、田舎から東京に出てきた時、うちのめされるまで感じた現実だ。私や落合なんて、所詮俗世で芸術家を気取っているだけで、本当に美しいものは、こんなに安い部屋に閉じ込められている。夢であったなら、これほど素敵なことはない。部屋に私を慕う美しい少年が住んでいる。だけど、私は芸術家なんて諦めた、私は今まさに自分自身を苦しめている法律の勉強を一生懸命やって、一般職に就いて、っていう人生を、選ばなければいけないのに。
 私に毛布をかけて、糸瀬くんは「おやすみなさい」と言った。私は、なにかを言葉にしようと思ったのだけれども、自分の頭を撫でる温かい手の感触に、ありがとう、と返すのがいっぱいいっぱいだった。

Re: 苺の月で眠る ( No.4 )
日時: 2018/09/11 03:23
名前: 三森電池 (ID: KZRMSYLd)

 次に私が目を覚ましたのは、午前五時ごろだった。
 糸瀬くんが閉めてくれたカーテンの隙間から、明け方の澄みきった光が白いテーブルに差し込んでいる。早朝というものが、私は嫌いではない。昇ったばかりの青い太陽を、いちばん最初に浴びているような感じがする。東京はどの時間帯も人だらけで歩きにくいが、こんな早朝にふらっと散歩して出会うような人たちと、私は少し似ている。だから、酔い潰れて、気持ちの悪さから逃げるように眠って、ふと目を開けてしまった日に私はよく、コンビニに行ったり、少し足を伸ばして二十四時間営業のファストフード店に出向いたりするのだが、糸瀬くんが住み着くようになってから、そういうわけにもいかなくなった。
 私の枕を抱きしめて、薄いTシャツ姿の糸瀬くんは隣で眠っている。
 彼を起こさないように、私はううん、と伸びをする。糸瀬くんは寝顔ですら綺麗で、すうすうと安らかな寝息を立てている。私はそれに、奇妙な感覚を覚える。どうしてこんなにも、糸瀬くんは、なにもかもが整いすぎているのだろう。あざとさを感じている。まるで、私のつまらない人生に、小説で言うなら、決められたストーリーの枠組みに、無理矢理組み込まれたキャラクターのように思ってしまう時があるのだ。私は実験の道具で、実は上の方で、糸瀬くんを通してなにか、捜査されているのではないか。もしそうだとしたら、私は今この瞬間でさえ、誰かに見られているのではないか。
 頭痛もなく、体のだるさもほとんどない。二日酔いには至らなかったらしい。落合との付き合いは長いので、私に飲ませていい量と言うものを、ある程度わかってくれているのだろう。たまにそれを利用されて、都合の良い日には私を完全に潰すまで飲ませて、自宅に連れ込んで、セックスをする。落合に限らず、人間との付き合いは主にこんな感じだ。どんな優しさにも裏がある。言葉ではいくらでも取り繕えるが、完全に損得感情で動かない人なんているはずがない。
 糸瀬くんは、私にとってのみ得で、自分自身にとっては損である行動しか取らないから、怖さを感じる。
 ご都合主義というか、なんというか。純文学を愛し、近頃売れ行きを伸ばすライトノベルを散々見下しているような、捻くれた私は、糸瀬くんの存在が時に不確かになる。そんな時にも彼は私の手を握り、マイさんの小説が、この世の何よりも好きだから、と薄く微笑む。そうして傷を舐められているとき、私は幸せなのだが、ひとり、ふと考える。こんな漫画のような展開が、自分の人生に用意されてしまったことへの不信感と、糸瀬くんの人生を私がだめにしている罪悪感。人の感情全てを独占してしまった私と、一向に幻から醒めてしまわない糸瀬くん。

 「……あ、マイさん、起きたんですか、おはようございます」

 糸瀬くんは、眠りが浅い。私が細心の注意を払わないと、すぐに起きてしまう。
 ごしごしと目を擦り、ベッドの上にだらんと座っている私を、横になったまま見て、幸せそうな表情をする。意識が浮上して数秒で起き上がることができるのは、相当急いでいる朝だけだ。部屋に落ちる青い光を目にして、彼もまだ日が昇りきっていない早朝であることを理解したのか、マイさん、まだ寝てても良いんですよ、と、寝起きのふにゃふにゃした口調で言う。

 「あ、でも、化粧は落としたほうがいいかも。マイさん、ひどい顔してる」
 「……ごめん、昨日私、けっこう酔っ払ってたよね、ごめんね」
 「いや、僕はぜんぜん、そんなこと気にしないけど、肌荒れとかしちゃったら困るだろうし」

 化粧落とし、今持ってきますね、と、糸瀬くんは起き上がろうとする。
 私は、とっさにその腕を掴んだ。細いし、白い。本当に血が通っているのか不思議なくらいである。

 「いいんだよ、私なんかのためにそこまでしなくても。糸瀬くんこそ、まだ寝てていいんだから」

 自分のことくらい、自分でできる。年下の男の子に、そこまではさせられない。それに、糸瀬くんが完璧ではなくなる時をこの目で見て、この子にもこんな面があるんだ、と安心したい。糸瀬くんは私のためになんでもしてくれる。糸瀬くんの好意が、ストーリーに組み込まれたものなんかじゃなくて、確かなものだと気付きたい。じわじわと私を追い詰める不信と、美しい男の子を自分の部屋に閉じ込めていることへの罪を、いい加減に私は理解しなければいけない。

Re: 苺の月で眠る ( No.5 )
日時: 2018/11/12 22:38
名前: 三森電池 (ID: w32H.V4h)

 だらだらと散歩をしていた。今日の講義は終わったが、家に帰りたくはない。
 東京の田舎に敷地を置く私立大学はそりゃあまあ規模が大きくて、探索がてら歩くのは楽しい。最近は日も長くなってきて、五限後うろついていても警備員に不審な目で見られることもないし、暗闇でいちゃいちゃするカップルを見かけることもない。
 昨日新橋を歩いた記憶を思い浮かべる。外野から見てれば、マイとおっちも同じようなもんだよ、と、あの男ならけらけらと笑うだろう。昔、少しだけ芸能関係の仕事をさせてもらった事がある。そこで出会った、私も落合も手放しで認めるしかないアーティスト。芸術を騙り浮世離れしたふりをしている、捻くれ者の私たちとは違う、プロの名を持つ音楽家。折原のことだった。
 ああまあ、もう、私の周りは男だらけである。必然的に女を避けて生きてきたので仕方がない。何を考えているかわからない生き物は心底怖いし、大多数の女も私を「よく分からない人間」だと認識している。常に複数の仲間と居ることを好み、徹底的と言えるまでに他人の個性を排除してくる。昔から輪に入るのは苦手だった。芸術家とは孤高であるべきだと、落合とも話をした。
 しかし、その例のスーパーアーティスト、折原という男は、常にみんなの真ん中にいた。二十歳にして自身がギターボーカルをつとめるバンドをメジャーデビューまで持っていき、ベースの結婚を機に華々しく解散して、ソロのミュージシャンとして活動するようになってからも、明るい話題は尽きない。業界人は揃って彼の才能と人柄を褒め称える。間違いない、天才だ。なんの賞にも引っかからなかった私なんかとは比べるまでもない。
 喫煙所のベンチに座り、缶コーヒーの蓋を開ける。家には糸瀬くんが居るから、換気扇を回していたとしても気軽には吸えない。セブンスターを一本引き抜いて、ライターで火を灯した。
 田舎から東京に出てくると、まず最初に自分の小ささを知る。そして次に、ここにはこんなに凄い人間が、ごろごろ転がっているんだ、と頭を抱える。欲深いカルチャーハンターであればあるほどこの街は広い。何も成せずに死んでいく人間の一人として私が居る。天才と向き合うようにして陰で、身内同士で寂しさの舐めあいをするアーティスト崩れ達。現に私はプロを諦めた。諦めきったつもりだった、糸瀬くんが、あんな目を向けてくるまでは。
 たばこの煙が、空へ飛んでいく。煙を吸って脳がクラクラするたびに、アーティストとしての人生が一分一秒、削れていくような感じがする。
 天才は、こんなところには居ないんだ。さっきまで隣で吸っていた教授が、疲れた顔で喫煙所を離れて行く。それが私の未来のようにも思えた。ばか、大学教授なんて勝ち組中の勝ち組じゃないか。私なんか、ちょっとでもしくじったらお縄行きなんだぞ。
 頭が痛い。単なる吸いすぎではない、私は、私は、こんなはずじゃあなかったのに。地味なスカートの裾をガリガリと引っ掻く。こんなはずじゃない。もっとうまく、やれたはずなのに。私は小説家になりたかった。なのに現実、自分に耽溺している歳下の男の子にほだされて、受賞の夢にも敗れて、負けた、芸術に負けた。煙を吸う。アーティストがまた、死んでいく。

 天才は、時に人を振り回す事がある。普段はあまり鳴らないスマホに、突然光が灯った。
 今日もまだ、彼の待つ家に帰りたくはない。


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