複雑・ファジー小説
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- 宝石の海を探して
- 日時: 2018/09/10 16:39
- 名前: 氷雨 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
※氷雨です。ひさめと呼びます。そういうことにして下さい。
序文 >>1
SCENE1 強酸の沼を越えて >>2-(まとめ読み用)
>>2
- Re: 宝石の海を探して ( No.1 )
- 日時: 2018/09/10 16:19
- 名前: 氷雨 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
『元は宝石だった』海があると言う。どこにあるか、知る者はいないとされている。しかしその海は必ず在ると言う。矛盾する言葉ではある、しかし宝石の海が存在することは確かだ。
それは、炎と瘴気とが阻む祠の奥。世界で最も過酷な大地に眠ると言われる、これ以上ない絶景。アメジストが溶けた紫はまるで踊り子の装束のようで、カイヤナイトの涙した雫は夜空が雨粒となって降って来たようだ。サファイアとエメラルドは南国の浜辺よりもずっと煌いており、波飛沫に舞うトパーズの雫は金の花吹雪のよう。時折目に飛び込むアンバーのオレンジは、陽の光と同じように優しく包み込んでくれた。
そして、燃え盛る炎のような、情熱的なルビーの赤が、視線を捕えて離さない。苛烈な愛と同じ色、血の刺激よりも尚強く、見る者の目を惹き付ける。
「ねえ、お師匠様」
額縁に飾られた一枚絵を見上げ、幼い少女は問いかけた。ローブの裾の方を小さな手が弱く引っ張る。豊かな顎髭を指先で弄びながら、陽気な声で年老いた男は応じた。
「どうかしたかい、メリル」
暖炉の中では、ぱちぱち音を立てて薪が爆ぜていた。柔らかな暖色の光が、レンガ造りの壁を照らしていた。よい子はもう寝る時間、お師匠様に呼びかけた女の子も、半目で目元を擦っていたくらいだ。とうとう欠伸までしてしまうくらい、夜はもう更けている。
しかし、瞼も重くなってきているというのに、壁にかかった一枚の油絵から目が離せない。一面に広がる、七色の顔料の塊。虹をバラバラに千切って、モザイク画のように散りばめたみたいだ。それぞれの顔料は、混ざり合うことなく独立していた。赤は赤、青は青、黄色は黄色。混ざって茶色くなることも無く、それぞれが矜持を失わず共存している。
毎日見ているというのに、よく飽きないものだ。嬉しいやら、気恥ずかしいやら、筆を執った老人は枯れ枝のような指で頬を掻いた。痩せこけ、落ちくぼんだ頬を指先がなぞる。手元の落ち着かないお師匠様とは違い、瞬きと呼吸以外全て忘れたせいか、像のように固まってしまったメリルは壁を見上げていた。
その視界の中心には、底なしの黒が座していた。色とりどりの絵の具の海の中に、異物が一匹紛れ込んでいた。虹の池に沈んだ中、尻尾から胴体、そして頭まで使い、地面の上に円を描いていた。
この絵を真に産み出したのは、思えばこの生き物なのだろう。しかし、幻想的な世界の中において、その作者というのは付属品に過ぎなかった。口から吐くのは万物を焦がす灼熱の息吹。身体を覆うはあらゆる金属より頑強な鱗の鎧。尻尾を薙げば、万象を蝕む瘴気が漂う。まさしく、地上において最強の生物と呼ぶに相応しい。一度羽ばたけば、それだけで小さな村は消し飛んでしまうと言う、神と崇めるに等しい存在。
しかし、それも生きていればの話。それは確かに龍『だった』。生きとし生ける者全てに等しく、恐怖と絶望、死と破滅をもたらすと謳われた、邪なる龍『だった』。しかし彼の者はと言えば、もうとうの昔に絶命していた。あまりにも穏やかで、寝息さえも聞こえてきそうな死に顔を、今でもありありと思い出せる。
あれは地獄だった。地獄を抜けた先にあった。幾多の艱難辛苦を乗り越えてようやく辿り着いた。辿り着いた場所は天国よりも美しかった。
あんなに真黒で、善より悪と呼ぶ方が余程相応しいように思える龍は、あまりに神々しかった。人智が彼の者に追いつく日など、到底来ないような気がしてならない程、雄大にして荘厳、眩い威光を放っているかのよう。死してなお龍は世界を変える。古代から脈々と伝えられてきた言葉の意味を、真に理解できたのはあの時だ。
「また今日も、お話をお願いしてもいいですか?」
物思いに耽っていたが、思い出したように口を開いた弟子の声に、我を取り戻す。気づけばいつしか、彼女の視線も絵画からお師匠様の髭面へ向き直っていた。
「いいとも」
ぱちぱちと爆ぜ続ける炉の炎が、聴衆の居ない家屋において男に喝采を送っていた。まばらに、時に激しく、時折手を止め、その影を右へ左へ揺らし続ける。少し前に投げ込んだ薪も、半分近くが白い灰となって崩れ落ちていた。霊木でもある香木が、部屋の中に今日も蠱惑的な香りを充満させる。春に近い日に取れる木の皮は、蜂蜜によく似た匂いがした。
暖炉にくべた枝もそろそろ燃え尽きるだろう。メリルを寝付けた頃には、丁度よく火も静まっている頃だ。その後赤熱したままの燃え滓を始末して、今日という日にさよならを告げよう。
それが良い。机の上に置いていた、顔の大きさほどの長さの細枝を手に、短い呪文を唱えた。指揮棒のようにひょいと先端を動かすと、彼専用の揺り椅子が動いた。ぐらりと傾いたかと思えばそのままひょこひょことひとりでに歩き出す。前に後ろにと揺れる反動で、少しずつ前に踏み出す様子はやけに可愛らしい。
奥の部屋にあるピンク色の、ふかふかのベッドの枕元に辿り着くと、その場でぴたりと動きを止めた。その部屋に灯りは無かったが、窓から差し込む月明かりのおかげで足元もよく見える。十字の木組みの向こう側、窓ガラス越しに上弦の月が浮かんでいた。夜空に青く燃ゆる月は、不死の龍が永遠に空を駆けているとも、単なる岩石が空に浮いているだけとも語られていた。
眠たさも頂点に達した少女は、ぱたぱたと可愛い足音を立てて、最後にぴょんと寝台へ飛び乗った。柔らかな羽毛がクッションとなり、音も無く彼女の身体はベッドに沈みこむ。反動で上下に揺られながら、掛け布団をめくってその下に潜り込んだ。その日一日の疲れさえも、寝具の中に吸い込まれてしまい、今にも明朝へと旅立とうとしている。
椅子とメリルとを見送って、その後を追いかけるようにお師匠様も入室した。予め運んでいた揺り椅子に腰かけ、水分の少ない皺だらけの掌で、枕に乗ったメリルの頭を優しく撫でてやった。
「さて、昨日はどこまで話したかいの」
「冬がやってこない常盤の国。とこしえの夏の夢が覚めない、太陽王国の話なのですよ」
「ああ。南大陸の空中錐墓の話だね」
砂から特別に鋳造したレンガを用いて建設された、四角錐の形をした空に浮かぶ王墓。例え陽が沈もうと、満月が夜いっぱいを使って空を横切ろうと、唯一沈まない王国の象徴。光こそ放たないものの、国の象徴たる王の威光は、地に伏すことなく天空に佇み続ける。例え太陽の神、ソラリスが寝てしまおうとも、王の威光は沈まない。ただ民草の頭上において、その影を王国に伸ばすだけだ。
「ならば今日は、絶対零度の楽園の話をしよう」
日差しが強く差し込み、太陽の情熱を浴びて生きる大地とは違う。僅かばかりの日照に、仄かな希望を見出す永久凍土の大陸。吹雪の向こうに佇む青白い月光は、まるで月と死の女神が次なる供物を品定めする冷酷な眼光。
空にたなびくオーロラは、さながらその女神の纏う七色の羽衣だ。悪戯っぽく、不意に現れてはまた、予兆も無く消えていく。余韻は残さない。自分の存在が夢幻に過ぎないと人間に錯覚させるためであろうか。
その国では、やはり月を恐れている。人々が家を出るのは、短い昼の間だけ。夜空が赤く染まる時、血眼で神様は生贄を探している。夜になればオーロラが現れて、その隙間に人間を隠して連れ帰ってしまうからだ。
集落はたった一つのみ。氷雪龍の神殿を中心とし、氷の天蓋に覆われたドーム状の村があるだけだ。
今にも吹雪に巻き上げられ、吹き飛んでしまいそうな寂れた集落だが、ある鉱石のおかげで生計が成り立っている。その土地でのみ取れる石、集落の者のみが加工技術を持つ宝石。集落の名は、レーゼルハイト。宝石の名も、そこから貰っているらしい。
「うーん、でも宝石に興味は無いのですよ……」
「確かにメリルはそうじゃったな」
ほほっと笑い声をあげ、女の子らしくない感想に走った彼女に、お師匠様も顔を綻ばせた。確かに彼女は、宝石よりもずっと、冒険奇譚の方が胸躍るらしい。
「ならば、胸躍る昔話をしようじゃないか」
また、窓枠の向こうの月を見上げる。在りし日のことを、老翁は思い返していた。今宵の月と目が合った。レーゼルハイトにおいて、自分を見下ろす月の光は、あんなにも恐ろしかったと言うのに。不思議な事に、大きさも光の強さも色合いも、何一つ変わっていないのに、今こうして自分たちを見下ろしている月の蒼光は、あまりにも穏やかにほほ笑んでいた。
「氷雪龍の神殿はな、そこら中の岩石から、レーゼライトが飛び出していたものじゃ。そのおかげか、まるで洞窟全体がオーロラの塗装をされているようでの。だからこそ、その地の人々は好んで入ろうとはしないんじゃが……」
今日もまた、夜が更けていく。目を閉じて、お師匠様の言葉に従い、その世界を瞼の裏に思い浮かべる。眠りに落ちる直前の、ふわふわと宙を漂う浮遊感。身体の感覚は次第に無くなって、聴覚と想像力だけが研ぎ澄まされていく。いつしか彼女の意識は、見たことも無い夢の中の土地に落ちていた。それが真に、お師匠様の見た大地なのか彼女には分からない。
ただ一つ望みがあるとしたら、いつかそこに行ってみたいという強い願望。この目で見なくてはならない、この肌で感じなければならない。その場の空気を大きく吸い込んで、味も匂いも余すことなく確かめねばならない。
行こう、いつか。まだお師匠様の腰ほども背丈の無い彼女だが、いつか大きくなった時には旅に出ようと決めた。若い時の彼のように。一人だとちょっと寂しいから、『あの子』も連れて行こうかなどと考えたり。
だから彼女は今日も夢を見る。大きくなった自分が、世界をまたにかけて冒険する夢を。間欠泉のごとく溶岩の噴き出る大地を越えて、結晶が阻む洞窟を抜けて、吹き付ける雪にも負けずに、雷が絶えず天地を繋ぐ荒野にもめげず、全大陸を踏破する。
その目的はただ一つ。それは、初めて昔話を聞かせてもらった時からずっと変わらない。初めてあの絵に目を奪われた瞬間から、変わりようも無いのだ。
事実彼女は、十六歳となったあかつきに、生まれ育ったこの島を出ることとなる。
それは見聞を広げるため、尊敬する師匠の足跡を辿るため。そして何より、彼女自身の恋焦がれた絶景を訪れるため。
例えそれがどれほど過酷な旅路になろうとも、足を止めるつもりは無かった。
その海は、かつて魔物の王が生きた大地にあるという。いつしか滅ぼされた魔物の大陸、その最奥に至るは修羅の道。太陽よりも熱い大地に、空気さえも凍てつく平原、足を絡めとられれば二度と抜け出せない底なしの沼に、浴びれば骨まで泡となる酸の湖。
竜巻の阻む断崖絶壁のそのまた奥、魔獣の犇めく大地を抜けた先、それほど広くない祠がある。それこそが、彼女の歩む意味だ。
大きな三角帽子を被り、箒に跨った少女は、肩に小さな龍を乗せて、今日もまた空を行くのだろう。
宝石の海を探して。
- Re: 宝石の海を探して ( No.2 )
- 日時: 2018/09/10 16:36
- 名前: 氷雨 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
SCENE1 強酸の沼を越えて
人の腕ほどもある枝が、強い衝撃を受けたせいで易々とへし折れた。嵐の夜に聞いたことがある、強靭な枝が捥げる悲鳴は、まるで実際に人間の骨が折れてしまったかのようだった。枝をへし折り、尚も落ち続ける「それ」の勢いが弱まることは無い。ただただ地面に引っ張られ、一直線に手繰り寄せられる。
今でこそ新たな木の葉が青々と樹上に芽吹いていたが、以前の秋に落ちた枯葉は、春の間に腐ってふかふかの土となっていた。風を切る音があまりに五月蠅く、流星のように空を駆ける彼女の決死の叫喚はかき消されてしまっていた。
彼女は黒のローブを身に纏っていた。夜に走る流れ星は、宵の闇を裂くように白く燃ゆるものだ。それゆえ、対照的な真昼の青い空を断つかのような、やはり白とは正反対の黒い矢は、炎天下の流星と呼んで差し支えないように思えた。
纏ったローブで何とか全身を覆う。薄い生地に身を包んだところで、誰もが気休めに過ぎないと笑う事だろう。あるいは、数秒後には地面と正面衝突してぺしゃんこになってしまう命運を悼むだろうか。
瞬間、地面が揺れた。ずんっと腹に響く鈍い音がしたかと思えば、茶色い土が飛び散った。空より墜ちた一つの影が、龍の爪のように大地を抉る。黒い布にくるまった少女は、そのままぴくりとも動こうとしなかった。彼女のすぐ傍では、一本の箒が斜めに突き刺さっている。
その様子を見届けた後に、ずっと上から様子を見守っていた一つの獣が、ぱたぱたと小さな羽音と共に降り立った。流れ星が貫いた林冠の穴からは日差しが差し込んでいた。そこを入り口としてゆっくりと森の中に足を踏み入れた、翼持つ小柄な蜥蜴は、今度は滑空するようにして一気に空を滑り降りた。
体高は六寸ばかりの、鳥とも蜥蜴とも異なるシルエットの獣が、墜落した少女のすぐ脇に着陸した。勢いよく地面にぶつかるように落っこちた彼女とは違い、自在に空飛べるが故に静かに。
不思議なことに、高所から一気に墜ちたというのに、その身体は人の姿を保ったままであった。あの勢いで地面にぶつかれば、ひしゃげて飛び散り、ただの肉塊になってもおかしくないと言うのに、である。
「ピーイ、ピィ」
まるで鳥と同じような鳴き声を上げて、寄り添った獣は少女に呼びかけた。死んでしまった哀悼を捧げているようにはとても思えない。むしろ失態を糾弾するような刺々しい声であった。
それは、蜥蜴と同じように全身を鱗で覆っていた。まるで貨幣と見紛うかのような、美しい白銀に身を包んでいる。それこそ、古くなって剥がれ落ちた鱗が、そのまま銀として使えそうなほどだ。その口は、それこそ嘴と呼んで相違ないものであるが、鳥とは違い、開けば鰐と同じように鋭い歯がずらりと規則正しく並んでいた。翼には羽毛が無く、凧のような骨格に膜が張られた、蝙蝠に程近い代物。鞭のように細長い、体高ほどもあろう尻尾を、手足のように器用に扱っていた。
飼い主を前にした犬のように、ひょこひょことその長い尾を左右に揺らし、微動だにしない彼女の様子を眺めている。時に、上嘴にある鼻のような穴を近づけて匂いを嗅いでみたり、全身を眺めてみたり。
尻尾を振っているのはまさしく犬のように見える。それは確かなのだが、その理由は大きく異なっていることだろう。彼らのように主を前にはしゃいでいるのではない。むしろ、貧乏ゆすりをする人間に近い。手持ち無沙汰故に頬を掻いてしまうようなものだ。
耳元で呼びかけようとも返事をしない。そんな様子の彼女に呆れて、とうとうその翼持つ蜥蜴は顔色を変えて躊躇するようなことも無く、甘噛みする程度にその頬を啄んだ。
「あ痛たたたたた。何するのさ、ラグナ」
頬の鋭い刺激に、たちまち顔を歪めて少女は飛び起きた。墜落事故が起きたばかりというのに、傷一つなく溌溂とした様子である。顔に痣が出来たらどうするのさと、涙目で不意の凶行を訴えた。横になったまま動こうともしない自分が悪いのだろう。そう言いたげに、そっぽを向いた銀色の横顔は素知らぬふりをしていた。
先ほどから少女の周りに座しているその生物は、小さいながらも龍であった。翼の大きく発達した、胴体の細長い姿はドラゴンと呼ぶよりワイバーン、すなわち飛竜と呼んでやる方が良いようにも思われる。尤も、細かな分類などあまり意味を為さず、この世界において龍とはドラゴンであるし、龍種で括ってしまっていいものだった。
すらりと伸びた胴体に、流線型の端正な顔立ち。人間という異種である少女にも、この相棒である龍が美しい個体であることは明らかだった。龍の名はラグナと言い、幼い日に少女自ら、拾い子の龍に名付けたものだ。
拾った時には、小指ほどの大きさだった龍だが、十年経った今では掌に辛うじて乗り切らない程度の大きさに育っていた。とはいえまだまだ小柄なのだが、寿命が百年を優に超える龍種にとって、成長が遅いのは仕方のない事なのだろう。千年でようやく成人に達する龍もいると言われるほどだ。ラグナがどんな龍種なのかは未だ明らかになっていないが、将来的に大型に分類されることは間違いない。
「でもさ、仕方ないじゃん。傷は無いけど落っこちた時の衝撃は凄かったんだから」
流石はお師匠様手製の加護だと、彼女は全身をくまなく観察する。ローブの布を引っ張り、背中の方まで確認するも、破れている様子は無い。少し土で汚れてしまっているが、乾いてから手で叩けば綺麗に落ちてくれるだろう。
世界中を旅してみたいと彼女がその師匠に正式に宣言したのは、三年前の事であった。彼女と師匠、二人しか住んでいなかった島にはそんなもの無かったが、一般的な国に属する人間は、十三歳となった年に初等学院を卒業し、高等学院に通い始めるらしい。そのため、初等学院を卒業する、子供にとってある意味節目を迎える冬の日に、いつかお師匠様のように旅をしたいと彼女は意志を告げた。
予知の魔法を使った訳でもないのに、いつかそう言うと思っとったわいと、いつものように口ひげを弄びながら彼は笑っていた。しかし、旅をするにはいくつか心得ておかねばならない事がある。そう言って、後三年はそのための修行をするようにと、お師匠様は彼女に指示したのだった。
そしてその期間というのは、お師匠様が彼女に持たせてやる道具作りのために、必要な準備期間でもあった。その内の一つが、このローブである。土地全てが業火に覆われどろどろの溶岩が足場を埋め尽くす大地。其処に棲む灼蚕の紡ぐ絹糸に、精霊術と呼ばれる術式による加護を付与しながら織られた特別な布。それを素材に作られたこのローブは、あらゆる厄災、凶事から逃れられる。その効果は、まさに今示された通りだ。
「それにしても、初渡航が墜落に終わるだなんて、出鼻を挫かれたものなのですよ」
飛び起きた拍子にころりと落ちてしまった三角帽子を拾い上げ、土を手で払った後にまた頭に被る。やや青みがかった紺色の髪の毛が、ローブと同じ色をした帽子の中に隠れてしまった。
「うーん、それで私達は一体……」
ぐるりと見回したところで、目に見える物と言えば木々ぐらいのものだ。もう少し注意深く見れば分かることは多いだろうが、ここにへたりこんだままでは何も分からない。
「どこに着いたものなのでしょうか」
まずは立ち上がらねば如何しようもあるまい。そろそろ不時着の余韻も消え失せ、身体の勘も取り戻せてきている。ならば、動けるうちに現状を確認しておくべきだ。
仄暗い木陰がどこまでも続くように思える、鬱蒼と高木の生い茂る迷いの森。四方を見比べても代わり映えのしない景色の続く、方向感覚も分からなくなりそうな樹海。風にそよぐ木の枝が、遭難へと手招きするかのような底意地の悪い自然の迷路、その踏破こそが彼女の、魔法使いメリルの、初めての冒険であった。
- Re: 宝石の海を探して ( No.3 )
- 日時: 2018/09/13 18:28
- 名前: 氷雨 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
地面を踏みしめてみれば、ふかふかとした柔らかい反発。お師匠様からの講義で聞いたような記憶がある。あれは確か、昆虫学の話の延長だったろうか。どういった虫が棲息しているか知ることが出来れば、時としてどの地方か、少なくともその地域性を把握することができる。植物や魔獣でも同じような判断はできるのだが、その基準は多いに越したことがない。
これは確か、カブトムシの幼虫などが住んでいると言われる、腐った葉が土となったものだ。名前もそのまま、腐葉土だったろうか。とすると、落葉落枝を腐らせるだけの活発性を土中の小さな生き物は発揮している。
お師匠様は、あの島から真西に進めばライズライヒの大陸に着くと言っていたような。出がけに教えられた言葉を思い返す。コンパスに従うまま、西へ西へと一目散に進み続けた。レーゼルハイト有する北方の大陸だったならば南北に広くないため少し方向がずれるだけで海の上をひたすら飛び続けることとなっただろう。しかし、ライズライヒは南北に長い大陸だ。東西のいずれかから向かう場合、些細な誤差はさしたる問題にならない。
つまりここはライズライヒで間違いない。確か、三日もあれば着くだろう距離だった。少し急ぎ足で飛び続けていたため、二日目の今日に到達しても何ら不思議ではない。
空から見ていたが、ただの離島とは思えないほどに広大な土地だった。その事から、関係の無い島を目的の大陸と勘違いしているようなこともあるまい。
だがここで、一つの違和感が立ちはだかる。旅に出る前にせっせと蓄えた知識と、今いる状況が矛盾しているのである。ライズライヒは、全部で五つある大陸の中で最も小さなものだ。中央の大地から見て東にある大地。メリルの出身地である島からは西にあたる地ではあるが、世間的な常識では極東とも呼ばれる、らしい。そしてその特徴とは、小さな大陸ながらも栄えた都市ばかりだというものだ。
他の大地においては石造りの宮殿ばかりだと言うのに、この地の王城は特殊な素材を使っているのだとか。そのため、石より薄い城壁ながらも堅牢な守りを固められる。それほど栄えた文明が全土に広がっていると教えられてきたのに、ド田舎もド田舎、人っ子一人いない見渡す限り木ばかりの森林に、一人投げ捨てられるだなんて思ってもみなかった訳だ。
せっかく三年も待たされたのに、ちっとも役に立たないじゃないですか。いつか旅立つためにと、眠たいのも我慢して聞き続けた退屈な話。それに集中していたのが損ではないかとむくれっ面をした。
風船のように膨らんだ頬を割ろうと思ってか、虻だか蜂だか分からないような黄色い虫が近寄って来た。刺されては面倒だなと、お師匠様特性の黒いローブに身を包む。ふとその時、昆虫学の知識を思い出した。
彼女の虫への嗜好は、男の子らしいものを持っていた。カブトムシやクワガタムシと言った、固い鎧に身を包んだ戦士のような虫を好んだ。世界中の様々な甲虫類を知りながら、この種の角が格好いい、この鋏は豪快だなどと、龍に憧れる男の子のような瞳で図鑑を見つめていた。
その中で知った、とりわけ特別な品種。確かあれは東の大地に棲息するとされていなかっただろうか。宝石によく似た、紫色に煌く外甲。その背中に背負った鎧が、まるで本物の石のように固いせいで、天敵から狙われることはない。彼らはむしろその派手な背甲を用いて、捕食すれば歯が欠けるぞと伝えている。
天敵さえも凌駕した、進化の産物。そのロマンが、たちまち幼いメリルを虜にしたのは言うまでもない。女の子らしからず、宝石に興味を示さない彼女だというのに、森の紫水晶との二つ名を冠するこの虫だけは、目を奪われずにはいられない。
そしてこのクワガタの名前には、棲息地の名が刻まれている。アルカンダアメジクワガタ。アルカンダ周囲に生育する、アメジストのような体持つ甲虫種。
「そうだ、アルカンダなのですよ。森の祝福を受けた土地、ライズライヒでも珍しい、森の民が支配する日陰の集落」
ライズライヒ大陸は、その大部分を絡繰り士の国が治めている。しかし南西部に広がる森林地帯は、人間でない者たちが支配していた。それこそが、森の民。亜人、またの名をエルフと呼ばれる耳の長い一族。森の加護を受け、その生涯を森への感謝に捧げると言う、閉鎖的な一族だ。人間とは種として全くの別物ではあるが、同じようにこの世界の文明と文化を発展させてきた重要な人々だ。
古い言葉、つまりは『龍の声』。創世の時代の言語において、アルとは祝福、カンダとは木々。名前として、森の祝福を賜った大地。それゆえここにおいては、守るべき規則はエルフが定めている。人間の約定の介入する余地は無い。
アルカンダに根を下ろす木々は神樹である。その頭頂部を僅かとは言え毟ってしまったとなると、一体如何なる罰を問われる事だろうか。箒を拾い上げ、メリルは頭を抱えた。こうなればもう、平謝りするしかないだろう。
エルフに限らず、大地の声を聞く亜人種は数多く存在する。そしてエルフは林の中において、侵入者を逃しはしない。逃げる方が一層、自分の非を認めた上で受け入れられていないことを強く示す。そうなると厳罰は免れない上、何より不誠実だ。自分のしでかした事ぐらい、素直に受け止めて頭を下げる。良好な関係を築くにはそれが必須だとお師匠様は常日頃言っていたではないか。
ざわざわと、森が揺れていた。もしかすれば、そろそろ尖兵が弓でもかついでやって来るのだろうか。ふとその時、折れた枝が目に留まった。折れたというより、自分で追ってしまったと言った方がいいだろうか。
枝につく葉は、木の葉の中でも特に肉厚なようであった。ぺらぺらの、少し指先に力を入れたら破れるような代物ではない。もっと厚みがあり、丈夫で、固いという印象を受けるようなものだった。
ゴムの木が確か、こういった葉を持っていたはずだ。そこまで思い至れば、記憶の引き出しを開けるのは容易だった。そうか、退屈だと思っていた三年間には、それだけの重要性がこもっていたのですねと理解する。知識は、独りの旅を支えてくれる、何よりも強い武器で、何より頼もしい友だ。その教えが、叱られた時に軽く頭を杖で小突かれた感触と共に蘇った。
そして彼女の蓄えた知識が、異常であると警鐘を鳴らす。この森は少し変だ。地面に落っこちた枝葉に駆け寄り、一枚葉を千切ってみる。手に取った葉をさらに真ん中で千切ると、歯に蓄えられた粘性の液体が白い糸となって現れた。
これはゴムの一種で間違いない。そう断じて後に口に含む。二、三度咀嚼した後に、眉根を寄せて地面に吐き出した。その様子を見ながら、背後ではまたラグナがピイピイと小鳥のごとく鳴いている。
何をしているんだと尋ねられているように思えて、メリルはそのままラグナに語るように口を開いた。
「やっぱり……この森、少し可笑しいのですよ」
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