複雑・ファジー小説
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- 題名
- 日時: 2019/07/13 17:11
- 名前: 城流 (ID: flKtWf/Q)
駆けよ黎明、
その先に此の国の未来は在る。
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城流と書いてしろながすと申します。
拙い文章ですが見守ってくだされば幸いです。
‐目次
‐妖の住む街 >>1-3
- Re: 妖の住む街 ( No.1 )
- 日時: 2018/12/21 22:29
- 名前: 城流 (ID: vGUBlT6.)
泥濘を踏み、草の芽を踏み、砂利を踏み、湧き立つ緑の中を一心に駆け抜けて。
一体、何れ程の時が経ったのだろうか。
喉の奥は枯れ果てた荒野と化し、足指の爪も疾うに剥がれ、身体中血に塗れ、土に塗れ、此処まで歩んで__否、走って来たのだ。
ぐわんぐわんと脳髄の中で何かが反響する。此処に至るまでに、自身を見守り続けた筈の美しい新緑にすら意識が届かない。棒の様な脚を奮い立たせ進むと、喉笛からひゅう、ひゅう、と奇妙な音が鳴り続けた。
目の前には、何処までも変わらない、緑色の狭い視界。
__そこに急に飛び込んで来たのは、苔生した石垣であった。
図らずも立ち止まり、鼠色をした其れの目と鼻の先で両膝を付く。軟らかい泥が、ぐちゃりと音を立て跳ねた。
ぐわんぐわんという音が次第に小さくなって行く。何時の間にか、呼吸は緩やかに収まりつつある。切れた唇に当たる自らの息吹は熱い。目前に聳える壁への絶望は、露程も有りはしなかった。
全身が震えながら告げていた。
『これで最後だ』と。
気が付けば、石の凹凸に勢い良く爪を立てていた。
痛い程首を天へと傾け、次は足。次は腕。残された力の総てを以て、一心不乱に上へ上へと攀じ登る。身体の節々が熱くなるのを感じた。しかし、苦しくは無い。少しづつ、少しづつ、石垣の縁と晴れ渡る空の境目が近付く。
足を持ち上げると、これ迄に無い程心臓が大きく脈打ち、思わず吐息が漏れた。歯を食い縛り、動悸の波を潜り抜ける。後ほんの少し。ほんの少しで、此の長過ぎた旅は終わるのだ。
最後の縁を掴み、自らの身体を引き上げた瞬間、視界が真っ青に染まった____
「__此処が」
ひび割れた唇から零れたのは、ざらざらした、味気ない、しかしたっぷりと感嘆で潤った一言だった。涙に濡れた瞳を一杯に見開き、視界に飛び込んで来た壁の向こうの景色を見渡す。
想像していたより、巨大な都市だった。
右にも左にも、勿論奥にも果てが見えない。見たことの無い建造物、色とりどりの路地を行き交う馬車、人力車、そして群衆。ガス燈の立つ弁柄色の入り組んだ街並み。人々なぞ米粒の様に遠く、小さく見える中、ひっきりなしに飛び交う彼等の声。
其の全てを覆い、何処までも広がる大空には、数羽の鳥がゆったりと羽を伸ばしていた。
__この国の何もかもを変えた、あの大事変から、一体幾年経っただろうか。
あれから日本には数多の妖怪__妖《あやかし》が蔓延り、近年では最早人との境界線すら曖昧になっている。
人と妖が手を取り、創り上げた此の都市。極東の理想郷。
武蔵も、江戸も、東京も、此処には無い。
震える脚の間を、緑の風がすり抜けた。
「__此処が、大都」
「……聞いて下され、轟《とどろき》の旦那。彼奴、遂に賭博にまで手を出しやがりましてなぁ。全く以ていけ好かん奴でさ」
「はぁ、確かにそうですな」
その部屋は薄暗かった。
硝子窓から差し込む淡い光と、遠く響く往来の喧騒が外界の面影を残している。棚の端から端までぎちりと詰まった本と、厳めしい書斎机が壁際にあり、その正面には山藍摺のソファアが一対。そこに、二つの人影が向かい合っていた。
ひゅんっ、と何かが空気を切り裂く音。
「おっと、いけんいけん。悪いなぁ、轟の旦那」
「はは、何、気にせんで下され」
首を傾けたまま、片手を軽く挙げた男。どうやら彼が轟、らしい。爽かに笑んだ頬には、鋭く紅い切り傷が走っていた。其れをつっとなぞりながら頷く轟の向いに座るのは、眉を下げて溜め息を吐くもう一人の人物。
__否、人物とは言えないかもしれない。
「最近、意識せんでも『鎌』が出ちまってな。儂ももう、歳かねぇ……」
「いや、私からすれば、未だ未だ若々しい御姿で羨ましい限りで」
見てみれば確かに、後ろに流された轟の髪は綺麗な錫色をしており、僅かにしか生気の感じられない頬にも皺が目立ち始めている。如何にも初老、という様な外見ではあったが、不思議と彼には老いて居る、といった言葉は相応しくない様に思われた。何故か?
轟の瞳は海松色だった。本来ならばくすんだ、目立たぬ色。しかし彼の眼には底知れない光が漂っていて、其れは全てを透かされている様な、思わず視線を逸らしたくなる様な光であった。他人より少し勘の良い者なら、一目で分る筈であった。
瞳だけが何十歳も若い。そう形容しても可笑しくは無い。言い様によっては『不気味』とも取れる彼を相手に、其の向いの人型は、全く臆す素振りを見せずに言葉を続ける。
「旦那には解るめぇ。この所鼻も鈍って来やがるし、目も昔の半分も見えやしねえし、兎に角がたが酷いのよ。特に__」
其れは再び溜め息を吐いた。
「__『毛並み』何ぞ、人と同様に一番の悩みだがなぁ」
そう呟きながら、目の前の湯呑に手を伸ばす。紺碧の、煤けた着流しの裾からはみ出した其の腕は、焦茶色の柔らかな獣毛に被われていた。湯呑を口に近付ける手にも、鋭い爪が光っている。ずずっ、と小気味良い音を立てて茶を啜る口にも、まさしく。きらりと小さな牙の様な歯が見え隠れしていた。
着流しを身に纏い、茶を嗜み、人と会話もする。しかし、彼の外見は何処からどう見ても『獣』そのものである。
「解ります、芳《よし》さん。これ程歳を重ねて良い事と言えば、思い出が増える、其れ位で。本当に敵いませんよ」
芳、と呼ばれた彼は軽く笑った。
- Re: 妖の住む街 ( No.2 )
- 日時: 2018/12/21 07:33
- 名前: 城流 (ID: GqvoTCxQ)
「全く、旦那は相変わらずで」
何処か噛み締める様に彼は呟く。桃色の小さな鼻から飛び出た髭が、きらきらとした光の粒をくっ付けていた。ちらりと牙を覗かせて笑う芳を見遣り、轟も顔に皺を作って笑む。深い色の瞳に、一瞬だけ、何かがちらりと掠めた。しかし其れは次の瞬間にはもう無くなっていて、既に轟は硝子窓の外に目を向けている。
芳がさも有り難そうに両手を合わせ、卓に置かれた、木皿の上の饅頭を手に取る。彼が茶菓子を頬張っている間、轟は唯目を細めて外の通りを眺めていた。真昼間、徐々に増えて来る行き交う人々。其れを明るく呼び止める、色取り取りの小袖を纏った若い娘の声。乗客と談笑しつつ走る人力車と車夫。晴れやかな笑顔は人間そのものだが、轟の視線に気付き、千切れる位に大きく振られた彼の両腕は、艶やかな鼠色の羽毛に包まれていた。少し目を凝らすと、通りの者は全て。散切り頭に何かしら動物の耳が生えていたり、女学生だろうか、海老茶袴の裾から、蜥蜴の様なごつごつした足が覗いていたり。他にも、狐や猫等が其の姿のまま二本脚で立ち、素知らぬ顔で新聞を配っていたりする。
轟の目の前を通る者達は皆、人間とは何処か、或いは全くと言っていい程違っていた。
口許に残った餡を器用に拭い取り、芳は再び両手を合わせた。煤の色が目立つ着流しとは対照的に、汚れ一つ無い肉球が二つ重ねられる。
「いや、美味いなぁこの饅頭。一体何処のなんだい旦那?」
「『かねもり』ですよ。芳さんの御自宅からも近いとは思いますが」
『かねもり』、とは菓子店の名である。この大都でも一二を争う程に繁盛しており、其の名は遥か西にも轟き、幅を利かせているらしい。
特に当たり障りの無い単語であったが、其れを聞いた瞬間、芳の可愛らしい鼻に大きく皺が寄った。ぴくりと髭が硬直し、人懐こい彼の印象が一変する。一時は可愛らしさすらあった牙が残忍に剥き出されると、突如として、何処からか空を切り裂く音が鳴り、芳のはっとした様な瞬きが終わる前に、轟の濡羽色の背広には鋭利な跡が出来ていた。
轟は彼の様子に、斬撃を食らった肩口を軽く押さえながら、やや大仰過ぎる位に眉を上げてみせた。どうやら本人に疵は無いらしい、唐突に飛んで来た脅威にも相変わらず、彼の瞳の奥底は湖水の様に静かなままである。傍目には随分と滑稽だが、或る意味では恐ろしい程に冷ややかな顔面だった。
「おや、申し訳御座いません。何か、お気に障ってしまった様で……」
「旦那は何も悪かねぇ。悪いと言や、『かねもり』の奴らでさ」
芳が忌々しく吐き捨てると、轟は「ははあ」と頷いた。光の加減だろうか。揺らぎもしない湖水が一瞬だけ煌めいた様に見える。芳が気付かない位に口角を上げ、轟は問い掛ける。
「もしや、今回の御依頼も『かねもり』に絡んでいらっしゃるのでは?」
芳の円な瞳が更に丸く大きくなった。険しかった顔が少し柔らかくなり、荒々しい溜め息と共に彼は頭を掻く。
「まぁ儂の様子を見りゃあ判るわな。すまねぇ旦那、背広、着れなくしちまって」
「いや、構わんで下さい。丁度新調せねばと考えていた所ですので」
轟は大分余裕のある様子で笑う。都合の良い嘘では無いように見えるが、はたまた真実でも無いように見える。芳はそのどちらを受け止めたのか分からないが、唯「そうか」とぽつり呟いた。
一瞬の沈黙が流れ、何処か黴臭い周囲の薄暗さが際立つ。まるで別世界の様な晴れ渡る窓の外を、忙しない配達員が駆け抜けると、轟が口を開いた。
「まあ、世間話もこの位に致しましょう。此処は喫茶店でもありませんので」
「嗚呼、其の方が有難い」
轟は微笑んだ。
「それでは、今回の御依頼は、どの様な?」
芳は再び、顔を激しく顰める。
彼はぶつぶつと一文字、一文字、また一文字に有りったけの念を込める様にして続きを語った。
「儂の妹は『かねもり』で店番をしていた。しかしつい最近、気付いちまった。どうやっても金勘定が合わん、と」
芳の黒々とした目には、光が無かった。
「……其れを儂に話した翌日から、妹が帰って来ねえ」
轟の笑みは消え、神妙な表情に変わっていた。話に耳を傾けながら、俯いた芳の顔を、じっと見つめている。途切れ途切れの芳の声の間、表通りの終わりの無いざわめきが、妙に遠のいて彼には聞こえた。瞬きと共に、芳の語りにふっと意識を戻す。
「勿論、儂は『かねもり』を問い詰めた。店頭でだけだがなぁ。そして当たり前だがのらりくらり躱されちまった」
そう言うと、芳は小さな手で頭を抱えた。表情は見えなくても、歯を食いしばっているのは分かる。妹の代わりに店頭で笑う店番を思い出したのだろうか。或いは妹の最後の言葉か。容赦の無い斜光に晒され、艷めく滑らかな耳が不恰好に、小刻みに震えていた。轟は芳に気付かれない様に小さく身構えたが、もう、あの見えない刃が飛んで来る事は無かった。
暫くして芳は顔を上げた。厚い焦げ茶の毛に被われていながらも、強ばった表情から滲み出る感情は隠し切れていない。今にも崩れそうな、ぴんと張った糸の様な瞳。ささやかな慰めよりも轟は、無言を選んだ。芳の抑えた呼吸音だけが伽藍とした部屋に谺する。
芳だけを映す轟の目をちらりとも見ず、芳は苦しげに声を絞り出す。
「……たかが居なくなった位で、旦那にそう思われるのも仕方ねぇ……だがな、儂にとってはたった一人の肉親だ、彼奴は」
芳が息を小さく吸い込み、続けようとするのを轟は左手を上げて止めた。芳の見開かれた瞳を正面から見据え、ゆっくりと、安心させる様に点頭し、「分かりました」と、先ずはそれだけ答えた。
「其れ程大切な妹御ならば、私も御依頼を受けない理由は有りませんね」
呆けた様に固まっている芳に轟は笑いかける。口角の辺りに現れた年相応な皺が、これまでに無く優しげな印象を醸し出していた。
- Re: 大都奇譚 ( No.3 )
- 日時: 2019/04/07 22:00
- 名前: 城流 (ID: UVjUraNP)
午後一時頃であった。
少し前まで雨が降っていたのであろう、周囲には湿った地面の匂いがむっと立ち上り、水溜まりもぽつぽつある。しかし、空はそんな素振りも見せずに、きんきんと澄んでいる。
さて、所は、大都の中でも特に賑う大通り。茜色や鼠色、象牙色のハイカラな建物が、西洋風の窓を携えて、たっぷりとした幅の路の両脇に建ち並ぶ。カフェエや呉服屋、雑貨店等、殆どが何かしらの店舗のようで、通りの両端は顧客で溢れ返っていた。彼等をかき分ける様に中央を走る深緑の路面電車。大勢の色取り取り、形も取り取りな者達が作り出す雑踏から、時々飛び抜けて響く警笛。
そんな中、線路の隣をてくてくと歩むブウツが一足。向かって来るのは、空っぽの人力車をのんべんだらりと引く車夫。車輪が濡れた地面と擦れ、彼が少しずつ進む度、ぎゅっぎゅっと音がする。如何にも手持ち無沙汰、といった男は、相手の顔を見て徐に足を止めた。車輪の音も同時にぴたりと止む。周囲の喧騒に揉まれつつ、彼は若干声を張り上げた。
「やあ椿《つばき》ちゃん! 暫くだねえ」
「あら! 随分ご無沙汰しておりました」
所々塗装の剥げた人力車を止め、はきはきとした声を投げ掛けたのは、精悍な顔つきをし、随分日に焼けた大男であった。背丈は六尺半程もあり、車夫が着る濃紺の法被がはち切れそうな位に逞しい。しかし、見た目は極々普通のひとである。大柄な癖にいかめしさを感じさせない、屈託の無い表情が印象的な人間だ。
対して、声を受け止めた方の椿、というのは少女であった。矢絣柄の小袖に行燈袴を纏い、いかにもしゃんとした身なり、といった感じだ。輪に括った三つ編みを揺らして男の方を向き、ぱっと微笑む。花が咲いた様、というのは些か陳腐だが、そうとしか言い様のない笑顔。しかし、無邪気な表情にあまり似つかわしく無く、彼女の背筋は矢鱈ぴんと伸びていた。見かけの歳にそぐわないと言ってもいい位に、何処か、品の様な物がそこかしこに滲み出ている不思議な少女であった。
「此処らで見掛けるなんて、珍しいなぁ。何処に行くんだい? まさか椿ちゃん、まぁた轟に使いっ走りにされてるんじゃあるまいな?」
「使い走りなんて、そんな! 私はこれでも、望んで御仕事を頂いていますので」
「そうかいそうかい。流石助手さん、だ」
へらへらと口角を上げて頷いた大男に、椿はむっと顔を顰めた。ぷくりと頬がまるで餅の様に膨らむ。男は先手必勝とばかりに、馬鹿にしてる訳じゃないぜ、と右手をひらひらと振った。
「そういや、椿ちゃん、今日は何方に? もし遠いなら乗せていくぜ? あの変ちきな電車よりは大分安いと俺あ思うがな」
「いえ、別段遠くは無いので……」
椿は頬を緩める。
「『かねもり』に一寸用事がありまして」
「へえ! 彼処ねぇ……」
あからさまに眉を寄せた男。見逃さず、椿は首を傾げた。何か思うところでも有るのだろうか。不思議がる椿を見て彼は、待ち構えていた様に鼻を鳴らし、何も問わずとも話し始めた。聞いてくれと言わんばかりに、勢いよく。
「いや、何。あれは最近悪い噂ばかりだからな。御上に擦り寄ってるとか、金を横領してるとか、な。菓子はうめぇのに勿体ねえよ。最近じゃ人攫いの菓子屋、なんて呼ばれてやがる……」
「そうなのですか? 初めて聞きました」
「何だ、知らないのかい。あの轟だからな、耳に入らない筈は無いんだが。まぁいい、一寸聞いてくれや。頼むぜ」
大男は苦虫を噛み潰し、更に飲み下した様な顔で両手を合わせた。構いませんよ、と椿が頷くと同時に、又一つ、何処かで警笛が鳴る。ちくちくと向けられる通行人の視線に、男は苦笑いを返し、それから軽く頬を掻いて、ちらと目を伏せた。
「実はなぁ、俺の先達に、芳っつう鎌鼬の車夫が居るんだよ。其の人の妹がなぁ、『かねもり』で働いていたんだが、どうやらとんと家に帰って来ねえらしい。此れは怪しいよなぁ。前々から悪い話の種に事欠かなかった店だぜ? 此処絡みで行方不明と言や、怪しい以外の何もんでもねえよ」
「成程……」
「とまぁ、風の噂で聞いたのはほんの少し何だが、轟は何か言ってたかい?」
軽薄な口調とは裏腹に、眉をぎりりと寄せ、険しい表情を作る大男。表情筋がまるで凝り固まってしまった様な、体格相応のいかめしい顔。椿は彼の顔を見ず、心底無念そうに、目を伏せ首を横に振った。
「生憎ですが、そういったお話は伺っておりません。轟さんは何も……」
「そうかい、それじゃ仕様がない」
「本当に申し訳ありません。お力になれず……」
「いいんだいいんだ、椿ちゃんが謝る事じゃねえよ」
深く下げた頭を椿がゆっくりと上げると、既に、大男の顔は元の豪快な笑顔に戻っていた。浅黒い肌に、弾ける波頭の様な白い歯が良く映える。椿の肩にぽん、とごつごつした手を彼は置いた。
「そう簡単に頭を下げちゃいけねえよ、な?」
「……は、はい」
見上げる黒い瞳が少し大きくなり、雨上がりの燦々とした光を捉えて煌めく。その一瞬ののち、大男とまるで鏡合わせの様に、椿の表情もふわりと柔らかくなった。
「……お気遣いありがとうございます」
大男はもう一度、椿に向け笑みを返すと、彼は人力車の前に渡された梶棒を捕まえた。墨色の塗装が空を映し、てらてらと薄青く染まっている。彼はよし、と低く呟き後方を確認すると、椿の方に向き直った。
「それじゃあ、長々と話すのも悪いしな。俺あ本業に戻るぜ。くれぐれも用心しとけよ、椿ちゃん。菓子を買いに行くだけでもな」
「ええ! 用心はばっちりです。心配御無用ですよ」
「そうかいそうかい」
椿が柔らかな動作で道を大男に譲る。ぱちゃんと、水音。ゆらりと紅海老茶の袴が揺れて、道は開かれた。何度目か分からぬ太陽の様な表情を椿に投げかけ、大男は短く、耳に心地よい掛け声をあげて駆け出す。すぐ横をゆったりと走る路面電車を追い越す様な勢いで。空っぽの人力車が小さく、そして見えなくなるまで、風になって走る彼を呼び止める者はいなかった。
椿は暫く立ち止まり、彼を見送ったあと、改めて路を歩き出した。耳に、先刻までの喧騒がゆっくりと蘇る。初夏の重い匂いが、幽かにくるぶしの辺りをくすぐっていた。
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