複雑・ファジー小説

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食物連鎖とトイレ【完結】
日時: 2019/08/31 21:21
名前: E ◆PLeu66YMU6 (ID: oKgfAMd9)

SSです
ログからそのまま引っ張り出してきました

Re: 食物連鎖とトイレ ( No.1 )
日時: 2019/05/24 20:57
名前: E ◆PLeu66YMU6 (ID: 3edphfcO)

 あれ、誰だっけこの人。
 目の前には癖毛の男がいる。
短髪で黒い毛が縦横無尽に飛び跳ねている。呆けた顔で、目の下に隈があって、顎が尖っていて。いかにも体調が悪そうな男だ。
 あ、これ、俺だった。
 トイレの汚い鏡に爪先立って覗き込む。ジャージ姿でじっと凝視しているのは紛れもなく俺だ。
 あれ、でも俺なんだけど、俺じゃないかもしれない。
 目を凝らす。足元に、冷やこい風がそよいだ。
 たぶん、俺。でも俺じゃないかも。そもそもなんで、俺って分かるんだ。
 ぼやけてる。頭も目も身体も全て。潜む、暴れ出す激情にのめり込んでしまいそう。ぶるり、と震える。
 だめだ、だめだ。
 鏡から目を逸らすと、蛇口から水を捻り出す。勢いよく出たに水に手を伸ばして、感情任せに手を洗う。蛇口を閉めれば、さっ、とパサパサのタオルに手を拭いて、トイレから出ていった。
 トイレの前にあるドアを開ける。部屋に入ると、ぐちゃぐちゃになったベットに寝転がった。
 横向きになると、組み立て式の机がある。そこに忌々しいヤツがいた。
 おかしくなってるの、全部こいつのせいだからな。
 ヤツとは、薬。忌々しい薬。こいつの副作用はクソみたいなんだ。
 でも今日は体に合わない薬を飲まないと、もっと嫌なことが起きてしまう。
 視界がジェットコースターになるんだ。もっと的確に言うと、洗濯機か。最初に体験した時は家が、自分のいる場所が、回転していると思って、戸惑ったんだっけ。自分の意思とは関係なく視界が回ると、焦点を合わせることができないから動けなくなる。視界が文字通り、ぐるぐる回るから乗り物酔いみたいに酔って、吐きそうになる。
 薬を置いた机の奥に、本が積み上がった、茶色い勉強机が目に入る。隣に貼られたカレンダーを見た。好きなゲームのカレンダーだった。
 目がチカチカする。眩しい。物が全部眩しく見えて発狂しそうになる。大好きなゲームの絵が今は憎らしく見えた。脂汗が止まらない。しょうがなく目を閉じて、深呼吸した。
 
 朝、目が覚めたら調子が良くなったように思えたから、精神科に行って新しい薬を貰ってきた。これで、あの合わない薬を飲まなくても良くなる。
 時が止まっている。俺が止まっている。にこやかに、時には仏頂面で都会を歩く人々は別世界の住人に見えた。俺の世界は、家しかない。
 ドラックストアの前を歩くとうるさい店内放送が耳を掠めた。
「あのう、すみません」
 ぱたりと足を止めると、女の人がいた。黒縁メガネをかけていて、長い黒髪で、一見大人しそうな女性だった。年上だと思う。
「あの、大学の研究で、言葉の研究をしてて、良かったら協力してくださいませんか」
 バインダーを持って一生懸命に話す人は、素直そうだった。俺は肩から下げたカバンを持ち直すと、手を差し出す。
「いいですよ」
 パァッと明るくお礼を言う、女の人は笑顔が素敵だった。つい、こちらも口角が上がってしまう。
「この紙に好きな数字を書いてください」
 ボールペンを持たされた俺はバインダーに挟まれた、正方形の紙に大きく六を書く。
「あの、名前も書いてください」
 なんで名前書かないといけないんだ?
 少し疑問に思うと、急に暗い影が落ちてきて、女の人の後ろを見た。
「こんにちは」
 背が高くて、ショートカットの綺麗な女性が歩いてきた。笑っているが目の奥が笑っていない。圧を感じた。何より大学生に見えなかった。
 大学の研究って言ってなかったっけ。
 固まっていると、ますます笑みが深くなるショートカットの女。
「お兄さん、服カッコいいですね」
 いたって普通のジャケットとパンツだ。なんで急に褒め出したのか。変な感じ。
 ショートカットの女を見比べながら、適当にその場で思いつきの名前を書いた。
「わー中山透さん、素敵」
「素敵な名前!」
 思いつきに過剰に褒めすぎだろう。笑えてきた。
「あ、ちょっと待ってください」
 その場を去ろうとすると呼び止められた。女性はバインダーの紙を一枚捲る。
「良かったら、住所と電話番号書いてくれませんか」
 黒縁メガネの女性は遠慮がちの笑みの中に怯えと焦りが見えた。後ろにいる女性はずっと笑っているが怒っているようにも見える。雰囲気がおかしかった。
 ふと、詐欺という言葉が頭によぎった。
「ごめんなさい、急いでるんで」
 話しながら振り切って、歩く人の流れに逃げる。一瞬、振り向いて見た時、黒縁メガネの女性は絶望しているような顔をしていたような気がした。やがて、それも人混みに紛れて消え失せた。
 ちょろい人間に見えるのかな、そうかもしれない。
 歩き進めると、帰りの駅へ向かう。
 駅前だから人が多かった。ティッシュ配りしてる人、スーツで歩いている人、華やかな服を着る女性たち。靴がバラバラに音を立てて動いていく。
 人の話し声を聞かないように考える必要がない帰り道を頭に思い浮かべた。
 交差点で信号待ちをしている雑踏についた時、薄く溜息を吐いた。車が横切っていく。
「今から学校行く、うん、うん」
 隣に立つ女子高生が大きな声で電話をしていた。学校行かなくなってどれくらいだったっけ、頭の中で数えてみる。
 数えてるうちに音声信号機が鳴った。人の多さに、騒つく心を抑え、口笛みたいな音に軽い足取りで横断歩道を歩行する。
 学校にはスクールカーストというものが存在するらしい。俺はそんな日陰者の劣等感と甘酸っぱい青春を刻んで、煮込んだ、可愛いものをあまり意識したことはない。
 強いて言うなら、教室は社会の縮図だと思った。
 力を行使されてもいいと思われる人が弱者であり、自由に力を行使する人が強者。弱者と強者。無限に存在する社会の上下関係のシステム。これは学校に限らず、どこにでもある社会システムだと思う。みんなこの食物連鎖みたいな弱肉強食なシステムにのっとって集団生活をしている。
 だから、もし強者に爪弾きにされて、病気になり福祉施設に送られても弱者である人にとってはシステムの中に存在する大なり小なりの当たり前の通過儀礼かもしれない。
 俺はこのシステムの弱者として、都会の隅っこの教室でいじめられていた。

Re: 食物連鎖とトイレ ( No.2 )
日時: 2019/08/25 14:39
名前: E (ID: oKgfAMd9)

 学校の薄暗い個室トイレで聞こえてきた話し声は今でも時折思い出す。
「オレ、あいつが、学校来なくなるまでやるわ」
「でもさ、死んだら病むからそういうのはやめてほしい」
「ちょっとかわいそうじゃん」
 果たして、彼らには良心というものは存在していたのであろうか。今となっては、確認する術はないけれど、少なくとも、いじめに関するアンケートで、あの教室にいる三十五人全員がいじめはなかったと答えられたら、俺は閉口せざるを得なかった。
「無かったみたいだよ」
 教師にもそう言われたら、もう何も言えない。諦めてしまった。
 自分なりに納得しょうと思った。多数決で負けたんだと。弱者の当然の処遇であって、いじめではないと。
 駅の改札に入ってすぐ、ちょうどいいところにやってきた電車に乗ることができた。
 電車の窓から薄青色の空が流れていく。目の前の女性は本を読んでいた。平日の昼間のせいか人がまばらで寂しかった。
 学生生活で、孤独は寂しいとは思わなかった。むしろ、孤独のままが良かった。孤独にはなれなかったけれど。
 空気が抜けたような音がして、電車が止まった。ドアが開くと、ゆっくりした足取りで客が降りていく。
 鞄を抱え直して、駅に降りる。潤滑油の臭いがして生暖かい空気が肌に伝わってきた。駅構内は電車内より人がいた。携帯をいじって、列に並んでいる人数名ずつ等間隔で並んでいた。
 嫌だった。この集団の間を通るのが。自分の耳を塞ぎたくなるほど自意識過剰になってしまう。集団イコールいじめだった。いじめられるわけがないのに、誰かクラスメイトがいるんじゃないかと警戒してしまう。
 できるだけ下を向いて、早く足を進めた。目が少しでも合ったら動揺してしまいそうだった。
「文人?」
 低い声で名前を呼ばれた。心臓が波打ち、恐る恐る振り返る。
「あ」
「やっぱ文人じゃん、久しぶり」
「辻井先輩」
 ホッとした。

Re: 食物連鎖とトイレ ( No.3 )
日時: 2019/08/30 21:51
名前: E (ID: oKgfAMd9)

 ピアノのおしゃれな曲が流れている。レンガ模様の壁紙に囲まれ、暖色の電球の上にシーリングファンが回る。
 落ち着かなかった。手前に座る人物は濡れた指先でコップを触って遊んでいる。
「おまたせしました、ベーグルセットです」
「ありがとうございまーす!」
 辻井先輩は目を輝かせ手をすり合わせた。
 二つ並んだ皿に置かれたベーグル。その一つを赤く染めた短い髪の男が取り上げると、ニコニコ笑いながら口に頬張った。
「遠慮しないで食べろよ、ここのベーグル美味しいんだぞ」
 はぁ、と生返事をするとベーグルを手に取る。
 ベーグルはもちもちして美味しかった。けれど話が進まない。沈黙に負けそうになる。
「なぁ、今何してんの」
 セットでついていたコーヒーのカップの取っ手を持つが、持った気がしなかった。口に出そうするが、上手く言葉にできない。
「あ! 分かった! 言わなくていい」
 先輩は視線を周囲にやると、口に手を当てて机から身を乗り出した。
「浪人、じゃない?」
 違うけれど、曖昧に笑うことにした。どうでもいい。
 あぁ、そうなんだと先輩は頷き、でも、今時珍しくないじゃん、あいつとあいつもそうだしと今度は普通の声で話した。
「先輩は?」
 話を変えたくて、先輩に話を振った。
「大学だよ」
 先輩は微笑み、コーヒーを飲む。
 先輩は黒い髪だった。なぜ、赤い髪に変えたのかは俺には分からないが、とても似合っていた。大学生活を謳歌している様子が自然と目に浮かぶ。
「それよりもさ」
 はつらつとした声がしたと思えば、少しだけトーンが落ちた。
「サークルあんま人来ないんだけど」
「サークルって、ESS?」
「うん」
 まだ続けていたのか。驚いた。
 俺たちが言ってるサークルとは、市の公民館でやっている無料のクラブ活動のことだ。日本人男性と結婚したアメリカ人の女性が講師となって、週一日集まって英語の勉強をしたり喋ったりするゆるいクラブだった。
 俺は学校に行くのが辛くなり、こちらも疎遠になってしまっていた。
 他校の辻井先輩と知り合ったのもそこだった。お互い学校の部活動に興味が薄くてたまたま見た、学校の貼り紙で入ってきた。同世代は先輩だけだったし、一年早く先輩が参加していたからいろいろ教えてもらって仲が良かった。
「ビラでも配ろうかな」
「大丈夫なんですかそれ」
「いいんじゃない」
「適当じゃないですか」
 ヘラヘラ笑う。こういうことをするのは久しぶりだった。
「なんか、本当に久しぶりだな、文人」
 先輩も同じように感じていたらしい。確かに、本当に久しぶりだった。
「大学はつまんないわ、本当に」
「そうなんですか」
 意外だった。先輩なら何でも楽しくできると思っていたから。
「友達できたけどつまんないし、勉強もつまんないし」
 良いことないよ、と笑う。
「文人はどこの大学行くの?」
 えっと、と言いかけた時、若い集団が店に入ってきた。笑い合いながら、楽しそうに男女がテーブル席に座っていく。身体が凍りついてしまう。
「ん?」
 先輩が若者のグループを一瞥して、俺を見て首を傾ける。
「どうかした?」
「いえ、別に」
 精神科医の先生は学校に協力してもらって高校を卒業して、精神障害者保健福祉手帳を貰って、精神障害者として高卒で就職できる道も一応残されていると言ってくれていた。それよりも落ち着いて大学に進学したいならそれもいいと。
 将来のこと。何も考えていなかった。考えられる余裕も今よりなかったかもしれない。
 結局、先輩には適当に誤魔化して、苦いコーヒーを飲み干した。

Re: 食物連鎖とトイレ ( No.4 )
日時: 2019/08/31 21:20
名前: E (ID: oKgfAMd9)

「じゃあ、俺こっちだから」
 灰色のビルが入り組む、駅前で俺たちは立ち止まった。相変わらず騒がしく人は通り過ぎていく。
「はい、じゃあまた」
「おう」
 先輩は手を振ると人混みに紛れていった。
 俺は腕時計で時間を確認して随分先輩と話したなと思った。今日は帰ったら何をしょうかな。とりあえず、部屋を掃除したいな。
「文人!」 
 びっくりして、振り返ると人混みの中に満面の笑みの先輩がいた。
「言い忘れた! 忙しいかもしれないけど、また、サークル来いよ! 」
 待ってるからな、と大きく手を伸ばして左右に振った。
 俺は黙ってゆっくり頷く。赤くて目立つ頭は、今度こそ人の波に流されていった。
 
 手を洗って、ふう、と息を吐き出した。
「自殺してほしい」
「ほんと、お願いだから自殺してほしいわ、マジで」
 鏡に映る自分を見る。もう限界かも知れない。
 今日、学校のトイレで俺に向かって言われた言葉を思い出していた。俺はいるだけで、不快になる存在なんだろうか、死んだ方がマシなレベルくらいに。
 もう、それなら、誰もいなくなった教室でロープで首括って死んでやろうか。
 いじめで自殺というニュースはよく聞くが自殺は悲しくてというより、いじめの首謀者に対する、いじめられた人なりの報復で、復讐だからではないかと思い始めた。
「なに、文人顔険しくね」
 思い悩んでいると辻井先輩が、ニヤニヤ笑いながら個室トイレから出て来た。
 先輩は学校のブレザーの袖をまくって手を洗う。
 さりげなく無視して、トイレから出て、サークルをやってる会議室へ行こうとした。
「文人さぁ、古典教えてくんない」
「文人、古典教えて」
「古典、古典」
 思わず、足を止めてしまう。確か、定期テストがあるから教える約束をしていたような気がする。
「いいですよ、俺なんかで良ければ」
「よし、来た!」
 能天気な先輩の顔だったけれど、意外と嫌な気持ちはしなかった。
 
 家に帰れば母親からの置き手紙があった。それを見て心が温かくなる。
 ふいに、震えたスマホには辻井先輩と表記されていた。メールを返す。
 トイレに入って、鏡を見てみた。
 自分の姿が少しだけはっきり見えるようになっていた。


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