複雑・ファジー小説

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常世ノ雨
日時: 2019/05/29 20:59
名前: 春山 深花 (ID: tctpjh/F)

 夏のそよ風に吹かれた風鈴が心地いい音色を奏でてくれる。風鈴が鳴ったからと言って部屋の温度が下がるわけではないのだが、随分と涼しくなったように錯覚する。私は昔からどうも冷房というものが苦手で、今年の夏も団扇を片手に縁側で涼んでいた。
「いい加減冷房つけたら?」
 庭先から声がした。庭木の陰から葵の影が見える。
「冷房苦手だって知ってるだろ」
「じゃあ私は中で涼んでるね」
 そう言って家に入ってくる姿を尻目にしばらく涼んでいると、麦茶と西瓜を持った葵が隣に座った。
「夏は麦茶と西瓜だね」
「ありがとう。丁度喉が渇いてた」
 麦茶を一口飲み、西瓜に口をつけた。
「どう?美味しいでしょ。お父さんが作ったんだよ。お客さんも大喜びしてた」
 葵の家は農家と食堂を経営しており、葵はその食堂で働いている。
「よく冷えてるし美味しいよ」
「そうでしょ。ねえ、明日の祭り楽しみだね」
「ああ、そうだね」
 葵は明日の夏祭りをとても楽しみにしている。付き合い始めてもう四年になるが、まだ二人で夏祭りに行った事が無かった。毎年運悪く私か葵のどちらか忙しく、今年やっと予定を空けることができた。
「浴衣着ようね。隼人は浴衣持ってる?」
「持ってるよ。葵は?」
「明日のために綺麗な浴衣買ったんだ。楽しみにしててね」
 葵は子供のように無邪気に笑った。
「じゃあ、そろそろ帰るね。明日何時に集合か覚えてる?」
「十八時に葵の家。覚えてるよ」
「正解。楽しみだねえ。じゃあまた明日」
 葵は束の間の別れを告げて走り去った。

 祭りの朝は生憎の曇り空だった。天気予報によると夜の空模様は良くて曇り、悪くて小雨の様だ。どちらにしても祭りが中止されることはない。とりあえず一安心だ。
 私は家ではいつも浴衣を着ている。それなのに「浴衣持ってる?」と聞かれたという事は、もっと洒落た浴衣を着てこいという事だろう。箪笥の中を探すと、数年前に祭りに行こうと思って買った浴衣があった。浴衣と帯を引っ張り出し、ついでに巾着も用意する。準備万端に用意された浴衣達を見ていると、小学生の頃の遠足を思い出し苦笑した。結局のところ、私もとても楽しみにしているのだ。

 待ち合わせの一時間前に雨はぽつぽつと降り始めた。私はため息をつき、念のため用意しておいた傘をさし家を出た。葵の家に向かう途中雨はさらに強くなり、私は少し足早に待ち合わせ場所へ向かった。交差点の角を曲がろうとした瞬間、騒音と共に目の前が暗転した。

 気が付くと私は交差点に横たわっていた。雨は止んでいたが全身ずぶ濡れだ。特に怪我もない事を確認し足早に歩いた。葵の家に着き扉を空けた。人影はなかった。壁に掛けられた時計の針は十七時五十分を指している。この時間に葵は疎か、客がいない事など有り得ない。私は携帯を取り出し葵に電話をかけようとしたが、さっきこけた時に水浸しになっており電源が入らない。私は焦って祭りの会場へと向かった。向かう途中も何故か人影が見当たらない。祭り会場に着いた私は、水たまりのできた参道に腰を下した。腰が抜けた、という方が近いのかもしれない。無人の屋台が眼前に広がっていた。

 それから私は町中を駆けた。葵の家、友人の家、お寺、交番、自宅。どこに行っても誰もいない。ふと公園の時計台を見ると、針は十七時五十分を指していた。私は自宅へ戻り、居間に置いてあった親父の煙草に火をつけた。四年前にやめた煙草だが、今の気持ちを落ち着かせるには十分役立った。パソコンを起動しようとしたが、電源が入らず起動しない。
 私はどうやらこの町で、若しくはこの世界でただ一人八月四日の十七時五十分に取り残されたようだ。

 それからはただ退屈な日々だった。日々、という言い方は適切ではないかもしれない。日も昇らず時計の針も動かないので、正確にどれくらいの時間が経ったのかは分からない。自分でも不思議なのだが、この異常な現実を少しは受け入れていた。それはいつか、元の時間に戻れると勝手に信じ込んでいたからなのだろう。
 この世界の異常さは時間が進まない事だけではなかった。喉は乾かないし空腹にもならない。詰まるところ時間の経過が原因で起こることはすべて起きない。私は夜道を歩き駄菓子屋へ向かった。煙草五箱を手に取り、代金を置いて誰もいない駄菓子屋を後にした。自室に戻り布団に横になった。この世界の唯一の救いは眠れることだ。

 初めてこの世界に変化が起きたのはいい加減同じ時間に飽き始めた頃だった。いつもの様に縁側で煙草を吸っていると空に雲がかかった。私は立ち上がり空を見上げる。雨だ。そう言えばこの非日常の始まりの日にも雨が降っていた。急いで外へ出ようとすると急に力が抜け畳の上に倒れこんだ。立ち上がろうとするが力が入らない。それどころかますます力が抜けていく。雨に打たれる屋根の音を耳にしながら私の意識は途絶えた。

 窓から差し込む日差しに当てられ私は目を覚ました。外を見ると雨は上がっている。私は時計に目を向けた。針は動いていない。がっかりしながら私は居間へ行き麦茶をグラスに注いだ。飲み終えると同時に急いでもう一度時計とカレンダーを確認する。九月三十日の十四時三十四分。時間が動いている。やっと私は開放されたのか。外へ出ると相変わらずあちこちに水たまりができており、太陽の光を反射している。葵の家へ向かおうと思い、八月四日と同じ道を走った。交差点を曲がろうとしたとき、花瓶に生けられた一輪の花が目に留まった。あの日交差点に花は無かったはずだ。葵の家に着き、扉を開けようとしたところで少し動きを止める。もし誰もいなかったら。いや、そんな事今はいい。私は意を決して扉を開けた。
 食堂には誰もいなかった。椅子に腰かけ時計を見る。十四時三十四分。確かに時間は進んでいたが、この時間も止まっていた。私はのそりと立ち上がり葵の部屋へ向かった。机には去年二人で海遊館へ行った時の写真が飾ってある。晴れた笑顔の葵に私は曇った微笑みを返し、食堂を後にした。
 人の気配のない道を歩いているうちに今度は不安や恐怖が押し寄せた。私の周りの時間はもう動き出さないのだろうか。それとも転んだ拍子に頭でも打って気が狂ってしまったのか。自宅へ戻り変化した室内を見回すと、仏壇の脇に自分の写真が飾られていた。少しして笑いが込み上げてきた。そうか、私は死んでいたのだ。
 布団に横になり思索にふける。恐らくあの交差点で倒れた時に私は命を落としたのだ。曖昧な記憶を辿るがどうして死んだのかは分からない。倒れた拍子に頭を強打したのか。それとも飛び出してきた車に轢かれたのか。あの交差点の花は私への手向けだったのだろう。葵が生けてくれたのか。葵。私はもう二度と葵に会えないのだろうか。葵の浴衣姿を見ることもできないのだろうか。脳裏に葵の姿が浮かび、涙が頬を伝った。

 雨が降るたびにこの世界は私を別の時間へと誘った。初めの頃はすぐに気を失っていたが、雪が積もり始める頃には少しの間だけ意識を保つことができた。どうやら大雨が降っている間だけは私の生きていた世界とこの世界の時間が重なるらしい。しかしその時間でさえ人の気配を感じることはできなかった。
 十二月二十四日の二十時四十七分。何度目かの時間旅行で聖夜を過ごしていた私はいい加減この町を出てみることにした。車の鍵を手に取り車庫へ向かう。案の定エンジンはかからなかった。これも時間が止まっているせいか。仕方なく自転車を漕ぎ始める。学生の頃にほとんど毎日通っていた通学路を走った。葵と一緒に。
 私と葵は幼馴染で昔からよく遊んでいた。私の方が一歳年上だったので、近所からはよく仲良し兄妹と呼ばれていたらしい。今思えばこの二十四年間私の傍にはずっと葵の存在があった。私がわざわざ不便な実家に住み、毎日車で一時間かけて通勤していたのも葵と離れたくなかったからだ。私は自分が思っている以上に葵を愛していた。
 通学路を抜け、隣町に出る。あちらこちらに電飾された木々が見える。私は少し離れた場所にある大きなクリスマスツリーを見に行くことにした。少し時間がかかるが、今の私には関係ない。

 三時間ほど進んだだろうか。ビルが立ち並び目が痛くなるほどの電飾が施されている。人が誰もいない都会の真ん中に私は立っていた。目の前には大きなクリスマスツリー。私と葵の思い出の場所だ。ベンチに腰掛け聖夜に彩られた無機質な町を眺める。途中、雨音に邪魔をされうんざりとした。この世界は感傷に浸ることすら許さないらしい。町中の電飾が消えていき、空が暗く染まっていった。

 一月十日の十六時十九分。私は葵との思い出を辿ることにした。私は自転車屋へ行き、走りやすそうなものを拝借した。最近分かったことだが、この世界で使ったものや移動させたものは元の世界には影響しないらしい。
 自転車を選び店を出ると、正面に古びた露店があった。古い時計やカメラなどが並んでいる。私は傷の入ったフィルムカメラを手に取りシャッターを押した。フィルムを見てみるが何も映っていない。私はこれも拝借することにし、いくらかのフィルムを鞄に入れ露店を後にした。

 それから私は日本中を旅した。各地で写真を撮り、葵との記憶に思いを馳せた。途中寄り道をし各地の名産物なども堪能した。殆ど不眠不休で自転車を漕いでいたおかげで随分と早く最後の目的地に着くことができた。ここは一番の思い出の場所。夜景が見えるレストランで食事をしたいと駄々をこねられた事を思い出す。私が葵に想い伝えたフランス料理店だ。シャンデリアに照らされた深紅のテーブルクロスが真っ白な店内によく映えている。私はその時と同じテーブルに座り、回想にふけった。緊張して店に入っていく葵。夜景を見て少し控えめにはしゃぐ葵。そして、そんな姿に心を惹かれた私。全て遠い過去の様に思える。今日は七月九日。もうすぐ祭りの時期だ。私は誰も座っていない正面の椅子に向かってシャッターを切り店を出た。

 旅を終えた私は自宅へ戻り、次は何をしようかと考えた。徒歩で日本一周をしてみようか。それとも手漕ぎボートで海を渡ってみようか。とにかく思いつく限りのことをやってみよう。時間は有り余っている。空を見上げると黒雲が覆っていた。途端に雨が降ってくる。このころになると私の意識が消え入ることはなくなり、世界の変貌を眺めることができた。町の景色が変わり、時計の針が進む。そうか、今日は八月三日の日曜日。祭りの日だ。
 私は傘を差し祭りの会場へと向かった。この雨では中止になっているだろうが、屋台くらいはたっているはずだ。人はいないだろうが、いたところで私には見えない。
 神社の石段を登り、提灯の飾られた鳥居を抜ける。誰もいないはずのそこには、見慣れた影があった。

「葵」
「…隼人?」
 私たちは目を丸くして見つめあった。刹那の間を置き心臓が高鳴る。気付けば私の胸の中に葵がいた。抱き寄せると確かな温もりを感じる。涙を降りしきる雨が覆った。ずっと会いたかった、言いたいことも沢山あったはずなのに、何も言葉が浮かばない。永遠に思えるような長い時間が流れ、私はようやく口を開いた。
「浴衣似合ってる。綺麗だよ」
「……ありがとう…」
 雨音が小さくなっていき、私の体を別の温もりが覆った。
「ごめん葵、もう」
 私の言葉を遮り葵が顔を上げる。
「私夢ができたんだ。隼人と過ごしたこの素敵な町をもっと多くの人に知ってもらいたいって。私頑張るから。隼人も見守っててね」
 ああ、ずっと見守ってるよ。泣き腫らした目で満面の笑みを浮かべる葵に晴れた微笑みを返す。ゆっくりと私の意識は薄れていった。

 体を覆う温もりは優しさと強さを増していき、私はそれに身を任せた。あの孤独な世界からようやく解放されるのか。私が過ごしたこの一年は誰の記憶にも残ることはなく、こっそり葵の部屋に置いてきたフィルムも跡形もなく消え去ってしまうのだろう。でも、最後に葵に会えてよかった。あんな田舎を多くの人に知ってもらいたいだなんて。でも葵ならきっと夢を叶えるだろう。私は約束通り見守っていよう。そう言えば、随分と前にもあんあふうに大泣きした事があったな……私は深く心地のいい眠りについた。

 夏風が短冊を揺らし、風鈴の音色を響かせる。活気立った町には祭囃子が木霊しており、一軒の食堂では陽気な騒ぎ声が飛び交っている。少女はふと窓際に飾られた写真に目をやり、明るく微笑み窓から空を見上げる。窓を開けると差し込んだ光が写真を照らし、二人の笑顔をよりいっそう輝かせた。


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