複雑・ファジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 【完結】風神の台地
- 日時: 2020/07/08 01:33
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 3edphfcO)
【風神の台地】
人間と神。交わるべきではなかったふたつの存在。
ならば。
その間に生まれた私は、生まれるべきではなかったの?
今日もリノヴェルカは問い続ける。びょおお、びょおおと風の音。彼女の周囲で風が泣く。
泣かないで、と慰めてくれたあの人、
——私は。
伝い落ちる涙を、止めてくれる人は、もう……。
——私は、ひとりぼっちだ。
悲しみの風はアルティーラの台地に吹き、辺り一帯を凍らせた。
人と神との間に生まれた娘の歩む、数奇な運命のお話。
◇
【目次】
第一章 兄妹 >>1-2
第二章 居場所 >>3-7
第三章 訣別 >>8-11
- Re: 風神の台地 ( No.2 )
- 日時: 2020/06/19 08:58
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
町にたどり着き、ほっと息をつく。宿を探し、宿の主に宿賃代わりに金の輪を渡すと、驚いた顔をされた。イヴュージオがリノヴェルカを止めて輪を取り返し、懐から数枚の硬貨を取り出して渡した。案内された部屋で、イヴュージオに呆れた顔をされた。
「あのさ、純金は高価だってわかってる? リノ」
リノヴェルカはしゅんとなる。
「だって……私、お金それしか持ってないんだ」
「僕が払うから、ね? 下手に目立つことはしない方がいい。悪い奴らに目をつけられたら大変だろう」
リノヴェルカの身につけた金の飾り、そしてイヴュージオの額の銀の輪。それだけでも、狙われる理由には十分だ。それ以上の金品を持っているなどと悟られるわけにはいかない。戦乱で貧しくなった人が多い中、リノヴェルカたちのきらびやかさは人の目を引いてしまう。
イヴュージオの銀の輪は、少ない彼の魔力を増幅させる魔道具としての役割がある。そう簡単に外すわけにはいかない品だ。リノヴェルカの金の装身具は彼女の母の遺品らしい。金の輪は気軽に渡していたが、他の品は断じて渡そうとはしない。そういった理由はあるのだが。
「……傍から見れば、歩く宝物庫みたいなのはわかるけど、さ」
イヴュージオが溜め息をついた。
「今夜は念のため、海の結界を張っておくよ。襲われたら面倒だろう」
「そ、それなら私が風の結界を張るぞ。イヴは怪我人なんだから、しっかり休んでおけばいい!」
自信に満ちたその表情、絶対に魔法を間違えない、という確信。
それがイヴュージオの劣等感を掻き立てているとは、彼女は知るまい。
そうだね、とイヴュージオは笑みを返した。心を、殺して。
「じゃあおまえに任せるよ。僕はちょっと休む……」
「怪我したまま、イヴは結構歩いたよな。ゆっくり休むといいぞ」
ベッドに横になる兄にリノヴェルカは声を掛けた。
そして静かに唱える魔法。それは風の結界の魔法。
「さやかに揺れそよぐ風、我らへの害意にその耳澄ませ!」
リノヴェルカの起こした風が、宿の廊下を渡っていく。
リノヴェルカは兄の横たわるベッドに背中を預けていたが、しばらくして、眠ってしまった。
気が付いたら、夜だった。
風の結界がうるさいくらいに唸りを上げている。
リノヴェルカは飛び起きて、兄を起こした。
「イヴ、イヴ! 大変だ、何かが起こっているみたいだぞ! 起きろ!」
「……何」
目を覚ましたイヴュージオの動きは迅速だった。怪我をした脇腹に負担を掛けないように動きつつ、悲鳴の聞こえた宿のロビーへ慎重に向かう。
そこは炎に包まれていた。
声がする。
「大変だ大変だ! 誰かが町に火を放ちやがった!」
ロビーの炎は、リノヴェルカたちのやってきた階段をも燃やしていた。このまま突破したら大火傷を負ってしまう。リノヴェルカたちの後ろで、他の宿泊客が騒いでいる。
リノヴェルカの風で吹き飛ばせる炎は小規模なものだけだ。今のように勢いの強い炎に浴びせたら逆効果になってしまう。こんな時は。
リノヴェルカは縋る瞳で兄を見た。ああ、とイヴュージオは頷き、虚空に向かって手を伸ばす。
「優しき母なる大海よ、溢れる慈悲で我らを包め!」
弱い力、海の力。それでも、事態を打開するにはこの力を使うしかない。
瞬間、溢れだした水によって炎が割れた。リノヴェルカは死に物狂いでその刹那に出来た道を走った。身体が焼ける。激しい痛み。しかし確かに、生きている。
刹那の道を走り切り、リノヴェルカは背後を振り返る。しかしそこに、一緒にいたはずの兄の姿はなかった。
まさか、とその顔が青ざめる。
リノヴェルカは、見た。
閉じてしまった道の向こう、諦めたように笑う兄がいるのを。
炎の向こうに、兄がいるのを。
思わず、叫んでいた。
「イヴ——! どうして!」
「僕には無理さ」
悲しげにイヴュージオが笑った。
「そもそも怪我もしているし……僕の体力では、この距離を一気に走りぬけるのなんて、無理なのさ」
「最初からそれをわかって、イヴは——?」
「リノだけでもさ、生きていて欲しいんだよ」
イヴュージオの顔には、静かな決意があった。
彼は凛とした声で言う。
「生きなさい、リノ」
兄を見るリノヴェルカの目に、涙があふれ出た。
「おまえは強い、そう簡単には死なない。僕がいなくたって、やっていけるだろう」
「でも、イヴ!」
「生きろ!」
それでも、炎の壁を突っ切ってそちらへ向かおうとするリノヴェルカに、鋭い一喝が飛んだ。
さようなら、と声を出さず、唇だけが動いた。その瞬間、瓦礫が崩れ落ちてきて二人の間を分かった。燃え盛る瓦礫の向こう、愛した兄は見えなくなった。リノヴェルカは慟哭した。
「イヴ——!」
燃え盛る炎はそんなリノヴェルカのすぐ傍まで迫っている。死ぬわけにはいかない、と本能が叫び、たまらず外へと飛び出した。
飛び出した先に見たのは、地獄だった。
燃え盛る建物、焼け焦げた人々。普通の町だったはずの場所が、あっという間に阿鼻叫喚の地獄へと変わる。
崩れ落ちた幸せに、何をどうすればいいのかわからず途方に暮れる。
いくら力があったって、亜神として生まれたって。
今の自分は、あまりにも無力だった。
それでも。
「……イヴ」
『生きろ』その言葉が、くずおれそうになるリノヴェルカに活力を与える。兄の決意と覚悟、無駄にするわけにはいかなかった。
「ありがとう、兄さん」
小さく呟いて。
リノヴェルカは阿鼻叫喚の町から逃げ出した。
火傷を負った全身が痛い。それよりも、心の方が痛かった。
ずっと一緒にいた大切な兄。唐突な別れが来るなんて、考えたこともなかった。
泣いて泣いて泣き疲れて、傷の手当てもしないまま、リノヴェルカの意識は闇に落ちていった。
◇
- Re: 風神の台地 ( No.3 )
- 日時: 2020/06/20 12:24
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
【第二章 居場所】
◇
「う……」
目が覚めた。生きている。見上げた天井は見知らぬものだった。
「イヴ……」
いつも隣にいるはずの人の名を呼んで、思い出す。燃え盛る炎の向こう、消えていった兄を。
「イヴ!」
叫び身を起こした瞬間、激痛。たまらずベッドに倒れ込む。
そこへ。
「まだ治ってないんだ、無理に動くと危ないぜ?」
声がした。
緑の頭が視界に映る。青い瞳がリノヴェルカを見た。鋭く釣り上がったその瞳は、どこか鳥を連想させた。
肩にタカを留まらせた青年は、芝居がかった仕草で礼をした。
「俺は風の神ガンダリーゼ。風の亜神はご機嫌麗しゅう」
「風の……神?」
「神がそこらにいるのが珍しいか? いいだろ別に。あんたの父さんも人間と交わったんだしさ」
くつくつと風の神は笑った。
風神ガンダリーゼ。この世界“アンダルシア”の風の神。自由を愛し、気紛れに動く。彼はいつも緑の目をしたタカを連れており、緑の目のタカは彼の象徴として神聖視されている。
青年の肩に乗っかったタカは、緑の目をしていた。
人間と神との間に生まれた亜神がいるのだ、神が地上を歩いていたって、おかしくはないのだろう。
リノヴェルカは問うた。
「イヴは……兄さん、は」
「海の亜神のことかい? 生きていた……はずなんだが見失った。悪い、わからない。それに」
風の神は、指ぬきグローブに包まれた人差し指をリノヴェルカに突きつけた。
「捜せとか言われても協力はしないぞ。俺たち神々が地上に関わるのは、通常なら御法度だ。ただ……俺の眷族の亜神が死にそうになっていたから助けたってだけ。傷が癒えたら出て行ってもらうからその点は覚悟しておけ」
リノヴェルカは頷いた。
「わかり、ました……。ありがとう、ございます……」
「敬語は不要。地上に降りた以上、今の俺は大した力を持っていない」
悪戯っぽく彼は笑った。
◇
イヴュージオの助けがあったって、リノヴェルカの負った傷は重かった。風の神はリノヴェルカの手当てをしてくれたが、痕は残るだろうと伝えられた。
「俺じゃなくって、大地の女神とかがいれば完治は可能なのだろうけどさ。悪いね。風は破壊専門で、修復は得意じゃないのさ」
彼はそう、苦笑していた。
しかしそれでも、傷は確実に治っていった。リノヴェルカは少しずつ動けるようになった。
『生きろ』炎に包まれた兄に言われたその言葉。約束は果たせそうである。
「神様って……優しいんだ……」
思わず呟いたら、どうかな、と返された。
「そうとも限らないぜ。氷の神なんかさ、あいつは基本的に慈悲がない」
「でも風神さまは、優しい」
「気紛れを優しさと呼ぶのかって言われると、微妙なんだけどな」
風の神は苦笑した。
そしてそれからさらに数日。
怪我も治り、リノヴェルカは完全に回復した。風の魔法を操ったり走ってみたりするリノヴェルカを見、風の神は告げた。
「もう、ここでの日々はおしまいだ」
リノヴェルカは頷いた。『傷が癒えたら出て行ってもらう』、そう風の神は言っていた。
出て行っても、行くあてなどあるわけがない。しかし確かに生きている。生きているならば希望はある。
リノヴェルカは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、風神さま」
「達者でな、風の亜神よ」
言葉と同時、
空間が歪んだ。
はっと気がついた時、そこにはしばらくの間過ごした家はなかった。
まるで夢でも見ていたかのように。
けれどそれは夢ではない。あの日の火傷は確かに癒えている。風の神は確かに、リノヴェルカを助けたのだ。
「……生きて、みよう」
呟いた。
兄に風の神に助けられた命。今がどんなに泥沼の状況でも、生きていればきっといつかは何かを掴めるはずだから。
リノヴェルカは前へ進む。
◇
- Re: 風神の台地 ( No.4 )
- 日時: 2020/06/21 11:09
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
どこへ行くのか決めていない。兄と一緒にいた時も、どこに行くか決めずにただ彷徨っていただけだった。生きていければそれでいいと思っていた。今が戦乱の世の中ならば、この風の魔法が何かの役に立つこともあるだろう。兄に羨ましがられたこの力が、あれば。
その日、リノヴェルカは風の魔法で人を助けた。ある女性の頭上から降ってきた大きな何か。反射的に吹き飛ばし、駆け寄った。背後で大きな音がした。
「えっと……大丈夫?」
助けられた女性は、驚いた顔をしていた。
「今の……あなた、が?」
「私はね、風の魔導士なんだよ。こんなことくらい、余裕さ」
ふふと笑うリノヴェルカに、女性は笑い掛けた。たくさんの髪飾りのついた金の髪に薄桃色の瞳、着ている服は高価なものだ。貴族の女性だろうかとリノヴェルカは思う。
女性は言った。
「何かお礼をしなければね。お嬢ちゃん、おうちはどこ?」
問われても、家などない。幼い頃に母を失い、異母兄であるイヴュージオに出会った。その日からずっと二人で放浪し続けた。そんな彼女に家などない。
首を振ったリノヴェルカに、何かを察して女性は言う。
「……もしかして、帰るところがないの?」
頷いた。すると女性はにっこり笑って、リノヴェルカに手を差し出した。
「そう……ならば、私の家に来ない? 命を救ってくれた恩人さんに、何かをしたいのよ。どこにも家がないのなら、私の家に住んでもいいわ。私はね、優しいからねぇ。家をなくした子が目の前にいると知ったら、何かしてあげなくちゃって思ってしまうのよ」
住むところを提供してくれる。それは思ってもない申し出だった。
——居場所を、くれる。
リノヴェルカは目を輝かせて頷いた。
「それは助かる! ずっと野宿で疲れ果てていたのだ!」
持っていた金の輪も全て売ってしまった。それでも、死んだ母の遺品たる他の飾りに手をつけることは出来なくて。物盗りに襲われないよう人目につかない場所を選び、野宿をする日々が続いていた。美しかった白銀の長髪は、すっかりもつれ、乱れてしまっていた。
生きてはいる、生きてはいるけれど。それが彼女に出来る精一杯のことで。その先に希望などない。ただ生きている、それだけだった。
そんな彼女にとって、高貴な家の出らしき女性に『私の家に住んでもいいわ』なんて申し出をされるのは、まるで夢のような出来事である。
リノヴェルカの笑顔を見て、女性は頷いた。たおやかなその手を差し出す。
「私はアルクメネ。アルクメネ・ラフォーンヌよ。お嬢ちゃん、名前は何て言うの?」
「リノ……リノヴェルカ。名字なんて、ないよ」
「リノヴェルカ。私と一緒に行きましょう?」
「うん!」
差し出されたその手を、握った。
握ったその手は温かかった。この手が幸せへと導いてくれる、そう信じた。
◇
手を引かれて着いた家は、リノヴェルカが今まで見たことのないほど大きくて立派なものだった。アルクメネはよっぽど大きな家の貴族らしい。その門の大きさと豪華さに、リノヴェルカは眩暈に似たものを感じていた。
自分の身体を見た。ぼろぼろの衣服、もつれ乱れた白銀の髪、そして身体に残る火傷の痕、荒れて血のにじんだ手。長い間風呂に入っていない身体は変なにおいを漂わせている。
こんな自分が、こんな立派な、家に。
気後れすることはないのよ、とアルクメネが笑い掛けた。
「今日からここがあなたの家なのよ。大丈夫、あなたをとっても綺麗にしてあげるから」
「……どうして、そんなに優しくして下さるんですか」
決まっているじゃない、と彼女は言った。
「だってあなたは、恩人なのですもの」
彼女に背を押され、門の向こうへと歩き出す。
家で、彼女は家人らしき人物に色々と説明していた。家人は頷き、リノヴェルカの方を向いた。
「リノヴェルカ様、よくアルクメネ様を助けて下さいました。色々とお疲れでしょう、まずは湯の方へどうぞ」
言って、彼はリノヴェルカの手を引いた。アルクメネがついてこないのを見て、心細くなった。それを見て、
「私は別の用事があるの。大丈夫、後でまた会えるから。綺麗になったあなたを楽しみにしているわ」
彼女はにっこり笑った。その笑みを見ると安心できる。うん、と頷き家人に手を引かれ、湯浴みの場所へと歩き出す。
その先には。
「ようこそ、リノヴェルカ様。よくぞアルクメネ様を助けて下さいました。歓迎いたします」
たくさんの女性が穏やかな笑みを浮かべていた。それぞれの手には櫛やらブラシやらがある。家人は礼をしてそこで別れた。
たくさんの女性たちが、リノヴェルカの身体を洗う。傷だらけの身体を見て痛そうな顔をした女性もいた。彼女たちは卵でも扱うかのように優しくリノヴェルカに触れ、その身体を磨いてくれた。身体から発していた悪臭は薔薇の香りとなり、もつれ乱れていた白銀の髪は、絹糸のように美しく輝いた。
用意された服を着せられ、鏡を見たリノヴェルカは絶句した。
「これが……私、なのか?」
月の髪に銀の髪飾りを挿し、服は白と銀を基調としたドレス。
そこにいたのは、どこかの貴族の少女と見紛う姿、否、伝説で聞いた月の女神そのものだった。火傷の痕も化粧で隠され、もう見る影もない。
生きるのに精いっぱいだった時代。自分の容姿のことなど考えたことはなかった。
鏡に映る美少女は、本当に自分なのだろうか。
「お美しゅうございます、リノヴェルカ様」
女性の一人がにっこりと笑った。
彼女は呆然と椅子に座り尽くすリノヴェルカの手を持って、鏡の前で振ってみせた。
鏡に映るその手は、自分の手。
思わず、呟いた。
「夢みたいだ……」
「夢では御座いませんよ、お嬢様。お嬢様は、とても大切な方の命を救われたのです。これもまた当然のこと」
さあ、参りますよと促されて椅子から立ち上がる。着ている服はふわふわとして動きづらい。バランスのとり方を間違えて、何度も転びそうになった。そんな彼女に周りの女性たちは、この服での歩き方を教えてくれる。教わった通りに意識すれば、何とかバランスを取ることが出来た。
貴族の娘たちは、こんな服を着て動くのが当たり前らしい。すごいんだなとリノヴェルカは思う。
そして案内された先は、夢みたいに大きな部屋。
こんなに天井の高い建物など、見たことはなかった。
部屋の中央には大きなテーブル。その上には銀色の蓋のついた、たくさんの料理と食器が並んでいる。貴族の晩餐会みたいだ。いや、実際、貴族の晩餐会なのだろう。
今は本当に戦乱の世の中なのだろうか、と疑問に思ってしまう。
そこへ、
「リノヴェルカ。綺麗になったかしら?」
聞き覚えのある声がした。
華やかにドレスアップしたアルクメネが、笑っていた。
「とっても素敵よ、リノヴェルカ。月の女神さまみたいよ」
「あ、ありが、とう……」
まだ頭は混乱している。美しい服で着飾ったけれど、自分は庶民の子、貴族の作法など何も知らない。場違いな気がしてならないが、相手の申し出に乗ったのは自分である。息苦しくても、ここでやっていかなければならない。
「ディナーを御馳走するわね、リノヴェルカ。あなたは今日からこの家の子、しっかり作法も覚えてもらうわ」
案内されて席に着く。しばらくするとこの家の人らしき者たちが集まってきた。アルクメネが食前の祈りを大地の女神にささげると、豪華な晩餐会は始まった。
銀の蓋が開けられる。出てきたのは見たことのない料理ばかりで。とりあえず目の前にあった水の入った器を持って中の水を飲もうとすると、それは手を洗うための水だと教えられた。作法なんて何もわからない、何も出来ない。混乱しながら、傍にいる女性に教えられて何とか食べる。出された料理は全て美味しかったけれど、作法を覚えるのに必死でどんな味がしたのかは忘れてしまった。
ただ、落ちてくる瓦礫を吹き飛ばして命を助けた、それだけなのに。
気が付いたら、貴族の晩餐会に、豪華なドレスを着て参加している。
夢じゃなかろうか、と思ったが、確かに感じるこの世のものとは思えない味が、リアルな食感が、鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いが、これが現実だと教えてくれる。
——私は今、幸せだ。
リノヴェルカはその思いを噛み締めた。
◇
その後、たくさんの作法を教えてもらい、あっという間に時間が過ぎた。
「リノヴェルカの部屋よ」
案内された部屋は、やはり豪華なものだった。
広い部屋、豪華な絨毯、天蓋つきのベッド、本棚に詰まった本、本、本。
幼い頃におとぎ話で読んだ貴族の部屋。それが今、目の前に広がっている。
「私には優しい姉さまがいたのだけれど、戦で死んでしまったの。あなたには姉さまの部屋を差し上げますわ」
そう、アルクメネは言った。
後はお好きに過ごしなさい、何かあったらそこのベルを鳴らしなさい。そう言い置いて、彼女は部屋からいなくなった。
恐る恐るベッドに寝転がってみる。そのベッドは雲に包まれているようにふわふわで良い匂いがして、天界にいるかのような心地がした。
思い出すのは、野宿の日々。背中が痛くなるのなんて当たり前で、次第にそれにも慣れていった。地面に落ちている葉っぱを集め、布団のようにして眠った日もあった。硬い石畳の上で、身を丸めて眠った日もあった。それが、今、こんなベッドで身体を伸ばして眠っていられる。
不幸な時代は長かった。けれど今は確かに、幸せだ。
「イヴ……」
いつも一緒にいた兄がこんなところに来たら、どんな顔をするだろうか。
考えれば悲しくなるから、やめた。
自分は今、生きている。自分はここで、生きていく。
悲しい過去はあるけれど、今、幸せならばそれでいい。
ふわふわの布団に包まれて、彼女はいつしか寝入っていた。
◇
- Re: 風神の台地 ( No.5 )
- 日時: 2020/06/22 22:58
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
それから、彼女はラフォーンヌ家の養女として過ごすようになった。男っぽい口調は直され、正しい作法を教えられ、難しい文字や言葉を覚えさせられた。頭は良くないけれど物覚えだけは良かった彼女は、一か月もする頃にはそれなりに作法を身に付けられた。
ある日、彼女はアルクメネに訊ねられた。
「そう言えば、リノヴェルカは風の魔法が使えるのよね?」
はい、お母様、とリノヴェルカは頷いた。
この家の養女となった以上、彼女はアルクメネを母と呼ぶようにしなければならない。
「私は天空神と人間の間に生まれた亜神なのです。私は天空神の持つ力のうち、風の力を受け継ぎました」
「その力で、私を助けてくれたのよね?」
「はい」
頷くリノヴェルカに、見せてほしいわとアルクメネは懇願する。
「何もしない子を養い続けることはできないの。あなたは風の魔法で何が出来るの? あなたにもお仕事を割り振りたいのよ」
問われ、リノヴェルカは少し考える。レースとフリルに包まれた袖を上げ、指をついと動かした。
すると、そよと風が吹きアルクメネの頬を撫でた。
「危険なものもあるので、今ここで使えるのはこれくらいです。でも他には……風の刃でものを切り落としたり、いつかお母様を助けた時のように突風を吹かせたり、あとは小さな竜巻くらいなら起こすことが出来ますし応用も利きます」
それはすごいわね、とアルクメネは驚いた顔をした。リノヴェルカは気付かない。その瞳の奥に潜む、企みの光に。
なら、とアルクメネが目を輝かせてリノヴェルカの手を握る。
「あなたにお似合いのお仕事……あるわ。やってくれるかしら?」
アルクメネの言うことだ、きっと変なことは押しつけまい。
はい、とリノヴェルカは頷いた。
そして、
知った。
◇
「今日からここで働くことになったリノヴェルカよ。仲良くしてあげてね」
アルクメネに連れられたのは、どこか殺伐とした雰囲気のある建物。
アルクメネはリノヴェルカに言った。
「風の刃……面白い力よね。私の部隊に魔導士は少ないの。おまえの力はきっと、役に立ってくれるわ」
混乱し、リノヴェルカは問うた。
「部隊? 私は……どこに行くことになるのですか。私は何をすればいいのですか」
「簡単よ、リノヴェルカ」
アルクメネの桃色の瞳に邪悪が宿る。
「おまえには戦ってもらうのよ。私の軍が勝つように、おまえには勝利を導く役目がある。たくさん功績をあげたら私は、おまえのことをもっと愛してあげるわ。でも私に逆らうようなら、おまえとは縁を切ります。わかったわね?」
「待って下さい!」
立ち去ろうとする背中に、呼び掛けた。
「戦争? 軍? そんなの……そんなの、聞いてません! 私は私は……!」
「もっと違うお仕事だと思っていた? 残念。そもそも神でも人間でもないおまえが、普通の人間のように愛されるとでもお思いかしら。おまえが愛されるにはね、それだけのことをしなくてはならないの。命の恩人に対する恩は返したわ。夢のような世界、楽しかったでしょう。でもそれはそれ、これはこれなのよ」
縋るように伸ばしたその手を、アルクメネは振り払いリノヴェルカを突き飛ばした。突き飛ばされたリノヴェルカは、無様に地面に転がった。
「お母様……どうして……」
「愛されたいなら頑張ることね」
嘲笑うように鼻を鳴らし、アルクメネはいなくなった。
呆然と残されたリノヴェルカの肩に、手がかかる。
「まぁそんなわけだから、頑張りな、お嬢ちゃん」
あちこち破れた服を着た男が、笑い掛けた。
◇
- Re: 風神の台地 ( No.6 )
- 日時: 2020/06/27 12:43
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
愛されたいから、アルクメネの愛を失いたくないから。
リノヴェルカは頑張った。風の魔法を操って、アルクメネのためにたくさんの人を殺した。
これまで殺しなんてしたことはなかったし、最初はとにかく嫌だった。けれど。
『愛されたいなら頑張ることね』
アルクメネの言葉がリノヴェルカを突き動かす。
生きている、自分はまだ、生きている。
しかし。
抱き始めた、疑問。
誰かの命を奪って生きる。愛されたいから殺して生きる。そんな生き方に、意味があるのだろうか?
ただ自分は、『生きろ』イヴュージオとの約束を守るだけ。
戦果を上げて戻ってくれば、アルクメネは頭を撫でてくれた。それを幸せだと思ったから、リノヴェルカはたくさん殺した。
そうやって過ごし、二ヶ月が経った頃のことだった。
「次はあいつを殺しなさい。敵方の魔導士よ。非常に危険なの」
言われ、ターゲットを指で示された。その指の先、いたのは幼い少女。
無理だ、とリノヴェルカは思った。これまで殺してきた相手とは全然違う。もしも相手の少女も自分と同じように利用されているのなら、殺すのではなく救いたかった。そうやって躊躇していると、
アルクメネが耳元で囁く。
「こんな子だったなんて。失望したわ」
「…………!」
愛してくれない。その可能性と目の前の正義を天秤に掛ける。リノヴェルカには決断することが出来なかった。
そのまま送りこまれた戦場。相手の少女を視認する。彼女は無邪気に笑っていた。息を潜め、風を呼ぶべく手を構える。やたらと鼓動の音がうるさかった。愛されたい、が。己の理念に反してまでそう願うのは、正しいのだろうか。
「風よ渦巻け刃となりて、目の前の敵、」
「燃えちゃえ炎!」
唱えている最中、リノヴェルカの隠れていた茂み目掛けて一直線に飛んできた炎の球。反射的に前転、何とか避けるがしまった、と焦りを感じた。
前転したお陰でリノヴェルカの身体は相手の目の前に投げ出された。慌てて距離を取ろうとするも既に遅し。リノヴェルカの姿は少女にばっちり目撃されている。
少女はリノヴェルカを見た。無邪気な好奇心が、赤の瞳に宿る。
「へーぇ、あなたがそっちの魔導士! 風を使うんだ? 見せて見せて!」
「…………」
何も言わず、リノヴェルカは風を呼ぼうと息を吸う。大丈夫だ、いつも通りに殺せばいいんだ。殺すことにはもう慣れた。だからこんな少女くらい、
殺せない。
リノヴェルカの心が悲鳴を上げる。
優しかった兄を思い出す。兄は襲われたっていつでも、人を殺しはしなかった。痛めつけても、命だけは助けていた。殺しは兄の理念に反する。兄が何よりも嫌っていたことなのだ。
それをリノヴェルカは、平然とおこなっている。誰よりも大切だった兄が、最も嫌うことを。
今更罪を重ねたって、これまで殺してきた人々が蘇るわけではない。けれど、『もう殺さない』という選択肢もあったっていいはずで。
その迷いが、命取りになった。
ここは戦場、迷っていたら死に直結する場所なのに。
「見せてくれないんだ。つまんないの!」
声にはっとしたら。
目の前に、巨大な炎の球が迫っていた。
逃げようと後ろを振り返るが、そこには茂みがある。茂みなんかに逃げ込んだらそこに火がついて、辺り一帯が焼け野原になってしまう。それにスピードが、おかしかった。
迫りくる炎の球を見て、リノヴェルカは目を閉じた。閉じた眼の奥、浮かぶのは、愛した兄との幸せな日々。
最後にアルクメネを思う。自分は愛されるくらい働けただろうかと考える。
ごうごうと激しい音が鳴る。リノヴェルカは死を覚悟した、
瞬間。
「——リノッ!」
声が。
幼いころから傍にいた、大切な人の声が。
死んだと思っていたはずの人の、声が。
その人にしか許していない名で、リノヴェルカを呼んで。
「……イ、ヴ?」
懐かしい温もりが、リノヴェルカを包み込んだ。目に映ったのは海の髪。
「もう大丈夫だよ、リノ」
その身体から溢れ出た力。現れた大量の水が壁となって二人を覆い、炎の球から守り抜いた。
「やぁ。よくも大切な妹を傷つけてくれたね?」
立ち上がったその背中。懐かしさの余り涙が溢れそうになる。
イヴュージオは、魔導士の少女にその手を向けた。圧倒的な魔力が膨れ上がり、そして、
人体を貫く音が、ひとつ。
すさまじい勢いで、水が槍となって少女を貫いていた。その一瞬で、少女は絶命していた。
リノヴェルカは混乱する。殺しを何よりも嫌っていた兄が、目の前であっさりと人を殺した。そもそも、死んだはずの兄が何故か生きていた。わけがわからない。
混乱するリノヴェルカの頭に、そっと手が置かれた。
どこまでも優しい瞳で、イヴュージオは笑い掛ける。
「もう大丈夫だよ、リノ」
「どう、して……」
「話せば長くなる。こんな戦場からはとっととおさらばして、別の場所で話そうか」
兄に手を引かれ、リノヴェルカは呆然と歩きだす。
気が付いたら、アルクメネのことなどどうでもよくなっていた。
繋いだその手から感じるのは、確かに兄の温もりだった。
今はただ、それを感じているだけで幸せだった。
「お兄ちゃん……」
初めて兄を、そう呼んだ。ふふふと穏やかに、イヴュージオは笑っていた。
◇