複雑・ファジー小説
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- 雷炎無双
- 日時: 2021/01/13 13:32
- 名前: N (ID: 9ccxKzNf)
よろしくお願いします。
第一話 虹色の三番目 【V】
>>1
- Re: 雷炎無双 ( No.1 )
- 日時: 2021/01/13 14:25
- 名前: N (ID: 9ccxKzNf)
その男はまるで雷のようだと呼ばれている。空を裂く稲光のような黄金を纏い、無念に涙する雫を雨とし、口から漏れ出る号哭を雷鳴として駆ける。誰かが言っていた、空に居るらしい神様は、雷を落として罪人を裁くと。
その男はまさに雷の体現者のように、大罪を誅すと言われていた。
ここは一般社会から爪弾きにされた人間の暮らす隔離区域で、箱庭と呼ばれている。人により追いやられた理由は様々だが、ここにいる多くの人間は前科者であったり、親や祖父母の世代が表の世界で罪を犯した者たちだ。
そんな箱庭の治安が良いはずもなく、毎晩裏路地の数だけ流血沙汰が起こっているとまことしやかに囁かれている。実際のところを誰も知らない。その噂が真実かどうか確かめるには、相応のリスクを冒さねばならないし、何よりもその噂には作り話と笑い飛ばせない信ぴょう性がある。
昨日まで同じ卓について飯を共にして掃き溜めみたいな街を語り合っていた顔見知りが、今日の内に行方不明となるような街だ。幾何かの食糧を対価に、娘を売るような父親もいる。一晩で数十人もの人間が凄惨な事件に巻き込まれようとも、特別な話にならない。
箱庭の中は、楽しい玩具など一つも詰まってなくて、世の中の穢れと、そこから立ち昇る臭気のような恨みと怨嗟に満ち満ちていた。
そして今宵、街灯の光もろくに通らないような一角で、また一人の犠牲者が生まれようとしていた。雑巾の方がまだ綺麗だと思えるような襤褸(ぼろ)布を纏い、靴底が今にも全て剥がれ落ちてしまいそうなスニーカーをかろうじて履いている。服とも言えない布切れから覗く手足は肉付きが悪く、皮の下に直接骨があるのではないかと思う程、やせ細っていた。
背丈は一般的な大人の胸の高さほどだろうか。箱庭の外、幸せな家庭であれば反抗期や思春期の入り口に当たるような齢の少年は、今にも枯れて朽ちそうな手足を振って逃げ続けていた。息も絶え絶え、どれだけの間走ったかも分からず、視界もかすんで意識も朦朧としてきた。でも、まだ追っ手の足音がする。死神の歩みが迫っている。
どうしてこんな事になってしまったのか。少年は近道をしたかっただけだった。太陽が沈むか沈まないか、それぐらいの薄暗い夕闇の中で、出来心で近道をしようと考えただけだ。だが、それが良くなかった。もう暗くなり始めていたのだから、路地裏には警戒しなくてはいけなかった。
遡ること、少々。どこから仕入れたのかも分からない作物を売っている八百屋がある。愛想の悪い婆さんが、しなびたトマトや形の崩れたじゃがいもなんかを売っている、箱庭の人間にとって命綱の一つ。その商店とも小屋とも言い難い建物の真裏の道にさしかかったあたりで、ドサリと何かが崩れる音がした。
商品でも倒れたのだろうか。もしそうなら表にいる店主に教えてやろう。そう思って音がした方を覗いたのが、災難の始まりだった。
そこには、首がありえない方向に曲がったまま地に伏し、動けなくなった男が倒れていた。その正面には、おそらく横たわっている死体をこしらえたと考えられる、屈強な男が、白い何かの入った透明なビニールを数え、さも大事そうに胸元にしまっていた。
箱庭では、ほんの数メートル離れたところで日とが死んでいるかもしれない。それはまだ大人になっていない彼でさえも常識の一つとして知っていた。だが、知識として得ているだけの状態と、実際に目にしたのでは、全く違うというもの。
「ヒッ」
と怯えた吐息のような声が漏れ出たのも、仕方のない事だった。
「そこに誰かいるのか」
己の存在が認知される。この現場を見られても気に留めない人間も、箱庭には多数在籍していることだろう。
しかし、今回はその限りでは無かった。少年がそこに居合わせたことを咎めるような問いかけがそれを如実に物語っていた。
そして逃げて、追われて、今に至る。日はとっくに落ちて、今や月だけが見えていた。一旦大通りに出てみても、追ってくる男が諦める様子はなかった。弱肉強食の意識はこの区域の人間全員に染み付いている。子供が大人から殺意を向けられ、執念深く追われていても、助けようとする人間はいない。それが此処での当たり前で、自分が介入すべきことではないからだ。
必死に逃げた。走り続けたせいで死んでしまうかもしれないと思うぐらいに辛く苦しくなっても走り続けた。しかし、どんな物事にも終わりは来るというものだ。
無我夢中で駆け抜けた先、角を曲がった瞬間に少年は絶望し、立ち止まる。そこにはごみ袋が積み重なって一つの壁が形成されていた。食べ残しが腐敗した、鼻を突くような酸っぱい悪臭が漂っている。山のようになっていればまだ登って逃げられただろうか。しかし、あまりのごみの量に上から押し潰され続けた結果、そこに出来たのは斜面というよりも切り立った崖と呼ぶべき景色だった。
「災難だったな、色々と」
拳の関節を鳴らす音が、これから自分の肉体が砕き潰される暗示のように聞こえて、少年は身震いした。もう逃げられない、その諦めが脚から力を奪い、膝から崩れ落ちた。怖いと思うよりも先に、大粒の涙がぼろぼろと零れだした。
「許してください」
意識より先に飛び出した自分の声を聴いて、自分が命乞いをしているという現実を理解した。許してください、だなんてまるで彼が罪を犯したような物言いであるのが、奇妙な話だ。しかしこの街においてそれは奇妙でも何でもない。見てはならない世界を覗いた。それだけで深淵は、そこに住む人に容易に牙を突き立てる。
丸太みたいに太い筋肉に包まれた腕が少年の頭へ伸ばされる。あんな大きな掌に握られれば、自分の頭なんて林檎みたいに砕けるんじゃないだろうかと、まるで他人事のように少年は想像していた。柘榴のように、自分の頭蓋が弾ける。それはまるで、悪夢から覚めた後に思い出しているつもりで。
恐怖に負けた彼に残された抵抗といえば、そのように現実逃避することくらいだった。
彼が死ぬまで、後数センチ。そんな差し迫った状況だった。遥か遠くで瞬く雷光がごとく、一筋の閃光がその場を刹那の時だけ照らし出した。
街路の灯りさえ届かないような、箱庭の闇の底。それを暴くように差し込む一瞬のスポットライト。
何事かと、目撃者だった少年の始末を後回しにし、振り返る。そこには誰とも判断できない不審な男が佇んでいた。
フード付きのパーカーの上に、黒のジャケットを羽織っている。ただでさえ暗がりで見えづらいと言うのに、そのジャケットのせいで余計に夜に溶け込んでいるように思えた。ご丁寧にパーカーのフードを被っているものだから、顔の判断はできそうにないが、背格好から若い男であると窺えた。フードの隙間から口元の様子がうかがえるはずなのだが、黒い布製のマスクをつけているようで、ついぞ素顔は拝めそうにない。
とはいえ戸籍謄本もないようなこの箱庭で、素顔を確認したからと言って素性が分かる訳でもないのだが。
「また後始末が一つ増えた」
舌打ちをして、少年を追いかけまわしていた大柄な男はそう吐き捨てた。一つ、その言い方にはまるで物を扱うかのような無機質さがあった。この男にとって人を処理するということにはその程度の価値しかないのだろう。
一般的な成人男性と比較し、明らかに高い上背に、発達した筋肉。普通の人が食材を千切るように、他者の身体を容易く引きちぎりそうな悪漢を前にしているのだが、突然現れたフードの人物は怯え、竦み、戦いている様子は微塵も見受けられなかった。
それどころかフードの人物はハスキーな男声で「あ、すみません」だなどと気さくに話しかけている。若く、世間知らずで、遊び慣れていそうな軽薄な声音。ただそれだけで、人間を始末していた大柄な男は神経を逆撫でられたものだが、次に飛び出した言葉にその苛立ちと敵意はさらに高まった。
「復讐代行でーす。どっかの誰かさんからの御怒りを届けに参りましたー」
間延びした気だるげな声。しかしそこにはれっきとした挑発と、軽蔑の感情が含まれていた。殺意の優先順位が、少年からそのフード男へと切り替わる。これまでしつこく後を追っていた少年のことなど最早意識から抜け落ち、身体ごと、そして意識ごと舐め腐った若造へと向き直る。
この街を統べる五人の統治者の一人、青の“アルコバレーノ”が言ったそうだ。力だけがこの箱庭で絶対のものだと。
そして、箱庭についてまだ無知だった少年は、これから知ることになる。力とは何も、膂力と暴力に限った話ではないのだと。
そして触れる。箱庭という隔離地域が造り出された、その理由の一端に。
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