複雑・ファジー小説
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- 月をみていない
- 日時: 2021/09/07 22:51
- 名前: 三森電池 (ID: bOxz4n6K)
ボロアパートに住む、秘密を抱えた大学生たちが映画を作る話です。よろしくお願いします。
二〇一 中野
実は今夏中に自殺をしようと思っている。
二〇二 落合
実は他三人よりも偏差値の低い大学に通っている。
二〇三 一倉
実は大学を辞めてお笑い芸人になろうと思っている。
二〇四 赤川
実はセクシー女優として活動している。
二〇五 羊山
羊山荘の大家の息子。四人の秘密を知っている。
一 惑星のかけら >>1-6
二 ベッドタイムキャンディー2号 >>7 >>8 >>9 >>10
- Re: 月をみていない ( No.7 )
- 日時: 2021/09/08 00:49
- 名前: みもり (ID: bOxz4n6K)
二 ベッドタイムキャンディー2号
僕の長所として器用であること、短所として器用貧乏であることが挙げられると思う。
羊山荘の二〇二号室。壊れた扇風機を、物干し竿でつつく。ひっくり返って大回転すれば面白いのに、それは死体のように横たわったままでいる。
しばらくして、来客を知らせる鈴の音がした。レポートを一緒に消化してくれと言って僕の部屋に来たいっちのカバンには簡素なパスケースが下げられていて、羊山荘の位置から一番近い私立大学までの駅名が記載された定期券が入っている。一々うざったいんだよ、と内心悪態をつく。
「よーこそ、なんもないけど」
「おっちの部屋は涼しいやろ、俺の部屋よりも」
なんでこいつ、北日本出身なのに関西弁を使うんだろう。僕がいっちと呼んでまあまあ仲良くしている方の人間、一倉洋輔はご丁寧にぺこりと頭を下げた。僕としても、そのくらいの距離感の方がありがたかった。初夏の夕方、気だるいスウェットと、安い煙草の香りだけまとって、隣人はやって来た。
どうせレポートなんかやらないから、好きにすればいい。扇風機と一緒に倒しておいたアコースティックギターを手に取り、布団にあぐらをかいて適当に弦を抑える。間の抜けたコードの連続は、自分の隙を隠すにはちょうど良かった。流行りの歌を口ずさみ、僕の机で勝手にレポートを広げ始めるいっちが、ちゃんと「いっちの課題をやってること」だけを確認して、僕はまた歌い始める。
僕は簡単に言うと、羊山荘の他の人間より頭が悪い。
……受験は頑張った。浪人も考えた。しかし、田舎には妹も弟も居て、更にはニートの兄もいる。僕が何とかしなきゃ、落合家は名前の通り落ちておしまいだ。別に裕福でもないのにぽんぽん子供を産みまくった結果、進と名付けた息子はこんな所で止まっている。自業自得だ。
「落合くんは、成績も優秀で生活態度も良くて……」
錆びた中古のギターは、特に何か特定の音楽だけを奏でることも無く、隣部屋の中野が流し始めたスピッツに簡単に変わり、「楓」の歌い出しをなぞる。この高くも低くもない声を、好きになってくれた人は居ない。
中学生の時、好きだった子もスピッツを聞いていた。その子とは違うクラスで、受験前の補習で初めて一緒になったのだが、第一志望の高校が偶然一緒で少し仲良くなった。容姿はこのアパートの住民である中野や、さやかに比べたらパッとしない地味な子だったが、性格は誰よりも真っ直ぐで、努力を怠らない子で、もちろん第一志望の高校に合格した。
僕は夏頃から成績が第一志望の学校を受けるには少々芳しくないことになり、両親と学校の先生と話し合ってひとつランクを下げた。「ここなら勉強しなくても受かるだろう」程度の場所を選び、その結果モチベーションも無くなり、好きな子と話す機会も全く無くなった。惰性で入った第二志望の高校は楽しくなくて、絶対に東京の一流大学に入ってやる、と一年の一学期から思っていた。
「なんか足りないんだよね、君。別に嫌いじゃないの。むしろ良い人だと思ってる。でも、なんかね、良い人止まりなんだよね」
今日はやたらと暑く、熱気が首元までまとわりついて気持ち悪い。ついでに少し前に、サークルの女に言われたことを思い出す。こっちだってお前なんか良い人止まりだよ、と言い返してやりたかったが、できなかった。僕は良い人だから。
アルバイトの面接なんかでも、僕の履歴書を見た店長は、「これ、どこにある大学?」と平気で言ってくる。このスーパーからチャリで二分の大学を、彼は知らないらしい。僕だって受験に落ちるまで知らなかった。いわゆる、首都圏の私立大学の大きな括りにも属せず、学部の名前がやたらと長い、なんの自慢にもならない学校。周辺には誰もが認める立派な私立大学があり、いっちや中野、さやかはそこの生徒だ。
三人とも、僕がそんな大学に行っているなんてことは知らない。当たり前のように同じ大学の同級生として接してくる。単にこいつらの大学の規模が大きいから、この辺の大学生はみんなあそこの生徒だろうという認識なのだ。
僕の中のしょうもないプライドは、とうとう一年経っても「実は違う大学に通っている」と三人に打ち明けることを許さなかった。持ち前の器用さでかわし切って、どうせバレないんだし、こんな奴らに、下に見られたくない。このまま退居の時まで嘘を突き通すつもりだ。僕が弱みを握っているさやかはともかく、中野といっちにだけは誤魔化し続けなければならない。何気ない会話の端々でボロを出してしまわないように、僕は羊山荘の人間とはあまり深く関わらないようにしている。唯一の同性であるいっちも、向こうは友人だと思っているかもしれないが、こちらは秘密を隠しながら付き合わなければいけない隣人でしかない。
そんないっちは、ふああ、と欠伸をして腕をのばし、ぱきぱきと関節を鳴らしたあと、思い出したように僕に話しかけてきた。
「そうだ、おっち。今日だけ学生証貸してくれへんか? 俺、図書館に用事あるんやけど、学生証コピー機の中に忘れてきてもうてさぁ、コンビニに取りに行かなあかんねん。今からあっち方面行くのだるいし、今日だけ……」
「中野に借りろよ、僕も持ってない。友達に、僕の学生証で代替出席してもらってるから」
羊山荘の人間と居ると、こういうことを頼まれる時が頻繁にある。だから面倒だなと思う。
咄嗟に出た言い訳は、思いのほか強い口調になってしまい、見るからに不自然だっただろう。しかしいっちは、「そっかぁ、んならマイちゃんに借りるわ」とあっけらかんとしている。
さらに気温は上がってゆく、ボロアパートの一室。僕はなんでこんなに、繊細に気を遣って生活しなきゃならないんだと、呑気そうないっちを睨んだ。
- Re: 月をみていない ( No.8 )
- 日時: 2021/09/08 23:48
- 名前: みもり (ID: bOxz4n6K)
「落合、煙草一本くれない?」
いっちが大学に行って数分後、ベランダの向こうから声がした。このボロアパートにおいて、プライバシーなんてものは無いと考えた方が良い。嫌々網戸を開けてベランダに出ると、物干し竿に下着やらTシャツやらを干しっぱなしの中野麻衣と目が合った。二つの部屋を隔てる柵はいよいよ柵としての機能を失い、へし折れて簡単に向こうの部屋まで見える。ピンクのスリッパを履き、銀の安い灰皿を足元に置いて、中野はお願いと手を合わせた。
パンツ見えてるよ、とは言わない方が良いんだろう。波風を立てないためにも。
中野は隙だらけのだらしない女で、部屋に男は連れ込むわ、夜中に突然泣き出すわで、かなり面倒な隣人である。もう片方の隣人、いっちは可愛いもので、遊びたくない気分の時は「気が乗らない」と素直に突っぱねれば折れてくれるし、さっきの学生証の件だって深追いしてこなかった。
それに比べて中野はいつでも話しかけてくる上に、いつでも下着を干している。前髪を雑なピンで止めて、ライターを握りしめる茶髪の女は、顔立ちだけを見ればかなり整っている方だろう。それだけではない、胸は推定Dカップ(いっちと話しあってほぼ決定した)で肌も白く、顔も小さい。ただ、これまでの不幸な人生が、彼女の雰囲気というか、オーラというか、なんとなく不幸せそうな気だるい空気を隠しきれていない。中野と居ると、不幸が移りそうだった。
「ふあぁ、やっぱセッターよねぇ。色々吸ったけど、セッターに落ち着くのよね」
そんな中野と、僕はこの羊山荘において、セットで扱われることが多い。
まず最初に言い出したのは、大家の息子、羊山幸一だっただろうか。中野と落合で、東西線じゃないか、と。当時九州の田舎から上京したてだった僕は、東京を走る電車の種類の多さに混乱していて、えっと、東京メトロっすよね、それ、みたいな事しか言えなかった気がする。中野も中野で北の田舎から上京したてだったので、中央線に繋がるんですよね、高円寺に最近行ったんです、とかなんとか言っていた。東京を乗りこなして一年、東西線に揺られていると嫌でも中野を思い出す。僕は、中野がけっこうかなり、上位の方で嫌いだ。
あと、吸っている銘柄が偶然被ってしまったこと。そのせいで中野は、お互いが部屋にいる時間に、頻繁に僕に煙草をせびりにくる。
羊山荘は全員が喫煙者である。いっちがゴミ捨て場の前で変なメンソールを吸っているのは日常的に見かけるが、赤川さやかが喫煙をしていることを知っているのは、実は僕しか居なかったりする。さやかはセーラムのライトを開けて、「中野さんって、どうしてあんなのを吸うのかしら」と侮蔑するように言っていた。男の影響だろと僕が返すと、さやかはニッコリと笑って、本当に不幸なのね、あの人、と煙を吐いた。
「あー、死にたい、死にたい、だって今日も授業行けなかったんだもん、起きたら午後だったんだもん」
贅沢な悩みだよな、と僕は思う。
中野たちの大学に入れていたら、僕は少なくとも中野よりは、真面目に勉学に励む学生だったであろう。中野も、いっちも、僕も、地方では有名な進学校の生徒で、似たような青春を送ってきている。同じくらい頑張ったのに、僕だけかすりもしなかったなんて、こっちが死にたくなるじゃないか。
「行けよ、留年すんぞー」
「正直それもいいかなって思う。大学は人生の夏休みでしょ? 三十歳くらいまで大学生やってたいのよ、私」
ふー、と中野は煙を吐き出した。せっかく外に干した洗濯物も、煙草の香りに変わっていく。
中野は、全てにおいてナメていると思う。人生のそのものでさえも、「頑張る」という姿を一切見せず、かといって隠れて努力しているわけでもない。プライバシーが筒抜けなこのアパートで、隣人として彼女を一年間見てきたが、まるで生きる気力そのものが元から無いような人間に見えるのだ。それが更に僕をイラつかせる。なんで僕が落ちて、こいつが受かったんだと顔を合わせたり、話をする度に思う。
明日死んでも別にいいや、くらいの感じで生きている、だって本当に死ぬかもしれないでしょ。いつか、飲みの席で中野は言った。
刹那的な快楽しか享受できない、狂った人間の台詞だと思った。僕は適当に相槌を打ち、中野は「ちゃんと聞いてよ! 私、死ぬんだよ!」と顔を真っ赤にして怒る。両極端なことしか言えない女だな、やっぱり僕の方が何倍も頭が良いなと思った。去年の十月くらいのことだった。
ちょうどその頃だろうか、二〇四に住む赤川さやかの秘密を知ってしまったのは。中野やいっちにぶつけられないこの感情の、捌け口を見つけた。
さやかはしょうもない素人モノに転々と出演する、AV女優だった。
- Re: 月をみていない ( No.9 )
- 日時: 2021/09/08 23:51
- 名前: みもり (ID: bOxz4n6K)
さやかと個人的に会う時は、近くの安いホテルを借りる。こんな狭いアパート内で逢瀬などしようものなら、僕の部屋の両隣から中野といっちが駆け込んできて何事かと騒ぐだろう。さやかの秘密は、絶対に僕以外の人間が知る訳にはいかない。それはさやかのためでもあるし、口実にして抱いている僕のためでもある。
AV女優を抱いている、今の僕にはこれくらいしか他人に誇れるものがない。
さやかは中野やいっちよりも、羊山荘を出て外に泊まりに行くことが多い。こんなオンボロアパートに居たくないのは全員同じで、中野が男の家に行ったりいっちがサークルの仲間の家に行ったり、定期的に居なくなることはあるが、さやかは一週間に四回戻ればいい方で、残りの三日は知らないおじさんのタワマンに居る。僕の勝手な想像に過ぎないけど。
秘密は知っているくせに、もっと浅いはずのプライベートのことは何も知らない。僕が他の三人とは違う大学であることも、さやかがAV女優であることも、こんなに狭いアパートで、共有しているのはふたりだけ。二〇二と二〇四に挟まれているいっちはとんだ災難を被っていることになる。両隣同士がバチバチに悪い関係であることなんて、脳天気な奴には知りようもない。
「落合くんって、そういう子が好きなの?」
いつも寝ている布団の三倍近い広さがあるベッドで、僕はバスローブを着たままスマホを見ていた。後ろからいつの間にかやってきた、同じ衣をまとったさやかが、抱きつくように重なってきて人差し指を僕の頬に立てる。
「なに、嫉妬?」
「違うけど、この子、たぶんすごく性格悪い」
端正な顔を見ると安心する。綺麗なものは綺麗でいて欲しいと思うのは、僕が汚れた秘密を持っているからだろうか。さやかも初めて出会った時は、その姿を写真に撮って現像して部屋にポスターのように飾りたいと思ったものだ。結局その、やたらと人の姿かたちが気になるようになったせいで、偶然流していたアダルトビデオの中のさやかを見つけてしまった。
反面、スマホの中のアイドルはかわいらしくて、綺麗で、理想の女の子としてそこに居る。これは一種の安心を得たいから現れたかもしれない感情で、普段接する女が中野もさやかも大学の女も総じて「見た目は良いのに残念なやつ」だから、憧れの象徴のような偶像のアイコンに逃げている。いっちも東和モネが好きだと言っていた。画面の中で、モデル雑誌の表紙になったという彼女の飾り立てられた写真がSNSで流れてくる。今はこれを部屋に飾りたいと思った。
「かわいいだろ、東和モネ。性格は悪いかもしんないけど、さやかとか中野ほどではない」
「さあ、どうやら。やっぱり、男の人ってなにも分からないのね」
この子、目が笑ってないもの。そう言ってさやかは、隣に座って煙草を取り出し火をつける。
たかがAV女優が、知ったような口をきくんじゃねえよと言えば、でもあなた、私たちより偏差値低いんでしょうと返される。もうわかっていたので何も言わなかった。僕はスマホを閉じて、隣のさやかを見やる。綺麗な顔だとは全員が認めるだろうけれど、こうやって煙草を吹かして、手の届かない偶像に対して毒づく姿はかわいらしさの一ミリもない。
さやかの方こそ、目が笑っていないと思った。こちらに合わせて高まっているフリをしたり、適当に喘いでみたりはするけれど、心の奥底ではバカなんじゃないのと見下している。人間に対しての態度が最初からこれなのだ。外面を着飾ることは上手いのに、内側のドロドロした部分が透けて見える瞬間がある。
「そんなんだから、さやかには本当の彼氏ができないんじゃないかな」
「別に欲しくもないわ、自由に生きたいもの」
煙草の煙は空を昇るようにくるくる回っていくが、低い天井に当たって儚く消えていく。さやかが望む自由とは、僕なんかに制御もされないような綺麗なマンションで、金に困ることも無く、友人と午後に待ち合わせをして銀座でお茶をするような生活なんだろう。僕はAV女優としてのさやかしか知らないし、それ以外を知ろうとも思わない。友人としての接し方を間違えた不器用な男女関係は、割り切れないままに続いていく。
さやかが先に部屋を出る。花柄のスカートにブラウスを合わせ、ヒールの高い靴を履いて、いかにも良いところのお嬢様のような雰囲気をまとって。遠くから見ているからそう思うんだろう。ベッドを挟んだ向こう側で、全身鏡で前髪を直しているさやかを見た。きっと、東和モネも遠くから見ているから良いだけで、内面は僕らと変わらない人間で、重苦しい秘密だって抱えてるかもしれない。
「それじゃあ、また来週」
さやかが笑って手を振る。また部屋を空けるのか、そろそろいっちあたりが勘づくと思うけどな、と言おうとしたけど、やめた。先週も同じようなことを考えた気がする。僕らが立っているグラグラの板は羊山荘の廊下の床くらい不安定で、転げ落ちてしまう時も近い予感がする。
- Re: 月をみていない ( No.10 )
- 日時: 2021/09/09 19:46
- 名前: パン屋さん (ID: bOxz4n6K)
「キッショいな、こいつほんまに!」
「こら、死ね、殺せ、私のアパートに勝手に入ってくんな!」
今にも崩れ落ちそうな羊山荘の二階の廊下で、いっちと中野が騒いでいる。出たと予測できる黒い虫のことを思うと、無関係を装って自分の部屋に戻りたかったが、僕の部屋は二○二。見事に二人に挟まれている。僕の部屋の前で殺虫剤とハエ叩きを構えた二人が、騒がしくてしょうがない。黙って逃してやればいいのに、わざわざ殺していてもキリがないだろう。
「落合、帰ってきたなら手伝ってよね、あとその匂い、ラブホのシャンプーでしょ」
「おっち、こいつほんまにしぶといねん、ここで殺しとかんと夜中部屋に出るで」
そう言って、弱いものいじめみたいに、瀕死の虫相手に人間二人が本気になっているのが異様で、僕はトートバッグを持ったまま廊下の入り口で立ち止まってしまった。
赤川さやかはなにしてんのよ、と中野が喚く。赤川さやかは今日戻らない、それを僕が知っていることがバレると面倒なことになる。何も知らない顔をして、部屋と部屋の間に貼ってある「騒ぐな」とルーズリーフに殴り書きをしただけのポスターを見やる。しばらくした後、ばちん、と乾いた音がアパート中に響き、よっしゃ、殺したで、といっちが笑っていた。中野も笑っている。二人がボロい箒で死骸を柵から放るのを見て、薄寒い恐怖を覚えた。
僕もこいつらにとっては、こんな感じなのだろう。
有名大学に通う、頭の良い学生様方にとって、名前も知らないFランクの大学など、あってもなくても同じなのだ。
友達みたいにハイタッチをする二人を呆然と眺めていた。友達みたい、とかじゃなくて実際に友達なのかもしれない。僕とさやかが隠れて会っているのは誰にも言えない秘密だというのに、こいつらは羊山荘で、何にも怯えることなく、楽しそうに笑っている。
「どけよ、またご近所から通報されんぞ」
二○一の前に居た中野を軽くどつく。中野はちょっとドアにぶつかったくらいで、痛いなあと喚いて僕を睨みつけた。こんな奴らに挟まれて、僕の暮らしが健康で文化的な訳がない。いっちも、さっきまであんなに虫に殺意を向けていたのが嘘のように、女の子相手にそれはやめたれや、と言ってくる。中野も虫も僕からしたらカーストは一緒、私立の有名大に通う学生など、僕はこの世で一番嫌いだ。
中野のことは割と上位で嫌い、いっちのことは迷惑な隣人くらいにしか思っていなかったが、訂正、どっちもとんでもなく嫌いだ。僕が落ち着ける場所なんてどこにもない。どんな洒落た店を知ったって、隠れ家的カフェでアルバイトをしたって、取り繕った自分で居るのは、果てしなくつまらない。
東京はもっと楽しい街だと思っていた。地元よりずっと娯楽もあるし、古着屋が多すぎて一帯の街を形成しているし、古本屋とカレー屋しかない街もあるし、いろんなカルチャーを吸収して、流行りのさらに最前線を見ることができる。下北の小さい箱で見たバンドは、一年でとんとんと地位を上げ、今じゃチケットも入手困難らしい。だらりと布団に転がっていると、中野もいっちも部屋に帰ったのか、両隣から隠そうともしない生活音が聞こえてきた。そりゃあこんなの、さやかも逃げたくなるだろう。
中野といっちは、虫を潰して煙草でも吸って、じゃあねーって感じで解散したのだろう。さやかが僕に言う「じゃあ、また来週」とは程遠い、お気楽な、友達と交わす感じの挨拶。膝を抱えて、寝返りをした。寂しいわけじゃないけれど、部屋がいつもより暗く感じた。
- Re: 月をみていない ( No.11 )
- 日時: 2021/09/11 21:45
- 名前: 三森電池 (ID: 393aRbky)
「だからさぁ、あんたは良い人どまりなのよ」
横から煙草を貰いに来た中野が、便所スリッパを履いてTシャツと下着だけを着て、ベランダにしゃがみ込んでいる。僕も同じように干した洗濯物をかき分けて座る。生乾きだろうなと思っていたが、とうとう本格的な夏が来たのか、すっかり乾いていた。
うざいなあとか、どっか行って欲しいなあとか、僕が中野やいっちに抱く感情なんてそれくらいだ。あんなに真剣に虫をぺちぺち叩いて、小学生かよ、アホが。
「ねえ、近代文学取ってる? 私行けなかったからさ、レジュメ見せて欲しいんだけど」
煙を吐き出す中野。そんな授業があるのかと思う僕。
もし僕が中野と同じ大学で、同じ講義を取ってたとしても、絶対見せはしないだろう。でも、お願いと半泣きで言われたら仕方ないな、となってしまう気もする。そこが僕が都合の良い人たらしめる最大の要素なのだが、生憎中野にもいっちにも何も貸せない。僕の近代文学と中野の近代文学は、全く違う。
「そんなの取ってない、楽単だったら来年取ろうかな」
「めちゃくちゃ楽単で有名よ、サークルの先輩とかから話聞かない?倍率とんでもなかったのに、よく通ったよなあ、私」
だから、知らないんだよ、と出かけた声は喉元の更に下で止まる。もう誤魔化すことにも慣れてしまった。ふう、と返事の代わりに煙草の煙を吐く。
楽単で有名、ということはいっちもさやかも、この授業のことを認知していて、簡単に単位が取れるならという下心で受講しているかもしれない。履修希望者がそんなに多いのなら、抽選で落ちている可能性の方が高いが。とりあえず勉強する気はあるいっちやさやかが落ちて、進級も卒業もできなさそうな中野が通るとは、神様も一々不公平だ。
僕の知らない話を、中野はずっと続ける。利き手がいっちやさやかなら共感できるんだろう。大学の話は、僕が暗い気分になるだけだからやめて欲しい。ボロが出るかもしれないし、とてもいい気分ではない。
それなりに、大学は楽しくやっている。持ち前の器用さで先輩にも気に入られて、みんなのご機嫌をとりながら、単位も取って、表向きには楽しそうに生きている。
だからこそ、羊山荘の人間たちが憎かった。本当はあんな、知能の低い奴らとはつるみたくないのに、羊山荘の人間はそれ以下に思えてくるのだ。あんな奴らが良い大学に入れて、羨ましいし妬ましい。引越しすら考えたが、貧乏な実家にこれ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。
夏の夜空に紫煙が登っていく。どこまでも、どこまでも。僕が吐き出したものなのか、中野のものなのかは分からない。子供の頃は、夕方の公園でシャボン玉を吹いていた。歳をとって、煙草で寿命を削りあって、つまらない大人になったと思う。中野もいっちもさやかもつまらないが、僕も同じくらいつまらなくて、しかも大学は一番下。
「あれ、もしかして落合、近代文学知らない?」
中野は急にこっちを向いて、茶化すような笑顔を浮かべて話しかけてきた。煙草の煙が消えていく。根本まで吸い終わった、残骸が汚い床に転がる。柵は古すぎて顔すら反射してくれないが、今の自分が相当酷い顔をしているのはわかる。
「知らなかったなぁ、単位には困ってないから」
本当に知らないって言っておかないと、教授や授業スタイルの話に持っていかれたら困る。なんで僕は、日常会話でとんでもない爆弾を抱えながら生活しなきゃいけないんだと、全てに当たりたくなってくる。洗濯物も溜まった課題も、僕より弱くて反発してこないものは殴りたくてしょうがない。
あれ、さっき廊下で立ち止まって、必死に虫を退治している中野といっちが騒いでいたのを、弱いものいじめのようで、みていられないって思ったのはなんでだっけ?
案外低い自己肯定感、それは虫以下にまでなり、もう一本煙草を吸って落ち着きたいくらいだ。思いっきり叫んでやりたいけど、こんなボロアパートで、プライバシーのかけらもないところで、できるわけがない。というか都内に広くて叫べる場所なんて、多分そんなにない。僕、あの虫にビビってたのか、とじわじわ競り上がってくる気持ち悪さ、いや、あんな気持ち悪いもの中野もいっちも嫌がってたし、退治されて当然だろという思い、それらが混ざり合って夜が歪みだす。
「あー、希死念慮やば、今日」
中野はのんびりとベランダに座り込んで、いつも言っている通りの台詞を吐く。僕は、いつも通りでいられているだろうか。実は頭も悪い、思考もネガティブ、要領だけでなんとか人に媚びて生きていることを、隠し切れているのだろうか。