複雑・ファジー小説

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死んだ私とライラ【完結】
日時: 2022/02/27 20:36
名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: Jhl2FH6g)

緑川蓮です。たまに紅蓮の流星です。
今回は猫と独身男性の話を書きました。

お陰様で完結まで辿り着きました。短い作品ですが、読者の皆様にはこの場を借りて心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。

◆目次
#1 >>1 (2022/2/11)
#2 >>2 (2022/2/12)
#3 >>3 (2022/2/13)
#4 >>4 (2022/2/19)
#5 >>5 (2022/2/27)

◇作者Twitter(更新・近況報告などはこちら)
@Dorry_0921 
ハッシュタグ:#死んだ私とライラ

Re: 【死んだ私とライラ】 ( No.1 )
日時: 2022/02/12 04:21
名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: Jhl2FH6g)

#1



「ライラさん、おはよう。隣で寝ていたんだねえ」

 布団の中から差し出した手に、初春の冷気が当たる。
 私が寝ている間に布団へ這入り込んで来ていたらしいライラは、うるるん、と喉の奥を一度鳴らす。彼女は私と同じように首だけ掛け布団から出したまま、まだ寝ぼけているらしい。
 小さな額やあごをわやにされながら、それでも瞼は開けずにされるがままだ。

 私は良い気分になってしばらくライラを撫で回していたが、やがて彼女は身震いするように首を回す。いい加減しつこいぞ、と両耳でビンタされたみたいだ。
 それから大きな口の中をこちらへ見せつけて欠伸をする。ちゃむちゃむと口周りを舐める彼女は、もうすっかり真ん丸な目を開いていた。お月さまと同じ色をしたビー玉の様な瞳だ。

「起こしちゃったね、ごめんね」

 また頭を撫でると、ライラはこっちに構わず背中を丸めて毛づくろいし始めた。
 なので私もそろそろ布団から出る事にする。まだ眠っていたいと訴える身体を両手で起こせば、今度は全身に、部屋に沈む寒気が覆い被さる。

「さむい」

 湯たんぽが欲しいと思ったけれど、隣のライラはまだグルーミングで一心不乱らしく、抱き上げるのは我慢した。雑種でキジトラ模様の彼女が着込んでいる毛皮は、そりゃあもうこの世でひとつしかない最高級品だ。その綺麗な毛並みを保つ秘訣だからね。並々ならぬこだわりがあるらしい。
 ライラが毛づくろいしている間はちょっかいを掛けないのが、私達の暗黙のルールだ。
 一通り満足したらしいライラがまた口の周りを舐めるのを待って、私はベッドからおりて立つ。

「ライラさん、ごはん食べよっか」

 私もひとつ背伸びをしてから、寝間着から着替えて、寝室を出る。
 ドアノブはすっかり冷え切っていた。洗面所へ向かう足取りは重い。
 歯を磨いた後には、私の寝ぼけ眼もすっかり覚めていた。

 テレビを点けてから、冷蔵庫の隣に置いてある大きな瓶を取り出すと、カラカラという音が鳴るなりライラはリビングへすっ飛んできた。尻尾を真上に立てながら、私を見上げながら鳴いてうろうろする。

「はいはい、今あげるからね、おなか空いたね」

 猫用に底を高く上げたような皿を作った人は、本当に頭が良いと思う。いや、頭がいいだけじゃ出てこないアイデアだな。きっと思いやりがあって、気配りもできる人なんだろう。
 屈んで瓶をライラの皿へ近づけると、彼女はもう既に皿しか見ておらず、鼻息を鳴らしている。
 白いお皿に、かつお節とかにかま和え……という売り文句がついていたカリカリを流し込む。私が瓶を引っ込めるなり、ライラは勢いよくガリガリと音を立て始めた。
 カリカリを掻き込む姿に、まだ釘付けになっていたいけれど、私も仕事へ行く準備をしなければいけない。

 冷蔵庫からパックの納豆と、昨日のお惣菜の余りを取り出す。ほうれん草の胡麻和えと、半分ほど残った焼き鮭だ。
 戸棚から取り出した茶碗も冷たかったが、開けた炊飯器から立ち上る湯気は、指先を少し温めてくれた。

「どうしたの、ライラさん」

 納豆ご飯をもくもくと頬張っていると、カリカリを食べ終えたらしいライラは、やはり口の周りを満足気に舐めながらこっちをじっと凝視していた。いつの間にか、私の足下まで来て。
 ライラの座り方はたいてい綺麗だ。ちゃんと尻尾を前足に載せるようにくるんと巻いて、小さくまとまって座る。

「鮭はあげないよ、しょっぱいから。ライラさんは食べられないよ」

 そんな事を言いつつ、今夜はマグロの赤身でも買って帰ろうと考える。ちょっとだけライラにもあげよう。
 朝食を食べ終えた食器は、水が冷たいけれど、ちょっと我慢して頑張って洗っておいた。帰ってから夕食後に洗おうかとも思ったけれど、今日は時間に少し余裕があるのだ。

「ちょっと、危ないよ、ライラさん」

 食器を洗っている間中、ライラはなぜか私の足元を、身体の横を擦り付けながらちょろちょろ付きまとっていた。甘えたげな、構ってとでも言いたげな声でしきりに鳴いていた。
 だから洗い物が終わって手を拭いてから、前足の付け根を掴んで、持ち上げて、丸めてだっこして、頬ずりをした。ライラは打って変わって鬱陶しげにそっぽを向く。
 けれど尻尾の先で柔らかく私の胸を叩くライラは、多分まんざらでも無さそうにしている。

「それじゃあね、ライラさん。お仕事に行ってくるからね」

 しゃがみ込んでライラをゆっくりと床に下ろす。ライラはどこか拍子抜けたように真ん丸な目で、私の顔を見つめる。

「帰ってきたらマグロ食べようね、マグロ」

 じっと合わせてくる視線をなだめるようにして、ライラの頭を撫でる。私の手から頭をぐりんとずらしてきたので、今度はあごを撫でてやる。ライラは目を細めたまま真上に向いて、喉元を差し出す。ふわふわの首元をなぞってやると、穏やかに喉を鳴らす音が聞こえた。
 けれどあまりゆっくりはしていられないので、名残惜しくも私はゆっくりと立ち上がる。

「ライラさん、行ってきます」

 玄関の戸が閉まる瞬間も、いつものごとく、ライラは身じろぎもせずに私を見ていた。

 底冷えするほど青白い空に、うっすらと雲の膜が掛かっている。放射冷却のせいか、いつもより寒さが身に沁みる気がした。両手をすり合わせ、白い息をかけながら歩いてゆく。
 長い間使っていた手袋は穴が空いてしまったので、近々また新しいのを買わないといけない。
 駅までの道には、ふたつ交差点がある。まだ7時ちょうどくらいなので車の量は少ないが、そのぶんどれも速度を飛ばしてくる。
 だからいつも充分に気をつけて交差点を渡っているつもりだし、信号だって当然守っている。
 今日もそうだったのだけれど。
 黒いワゴン車が横合いから猛スピードで迫っている時、私には、何も出来る事が無かった。



「あ……」







 では次のニュースをお伝えします。
 今朝7時頃、東京都旗辺市とうきょうとはたべしの路上で、男性が倒れているのが発見されました。男性は近くに住む篠垣遼しのがきりょうさんと見られ、すぐ病院へ搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。
 警視庁によりますと、篠垣さんにはタイヤで轢かれた痕跡が残っており、警察はひき逃げ事件として捜査を進めています──……。


Re: 死んだ私とライラ ( No.2 )
日時: 2022/02/12 19:33
名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: Jhl2FH6g)

#2


 意識がハッキリとしない。寝て起きたばかりだからだろうか。
 そう言えば昨日は何時に寝ただろう。お酒を飲んでいた様な覚えもないから、ひょっとして疲れが溜まっていたのかも知れない。
 いけない、まずは早く帰らないと。ライラが待っている。きっと、お腹を空かせている。可哀想な事をしてしまった。早く帰って、今日のご飯の後には、ちゅ~るもあげよう。ごめんね、と、ちゃんと謝りながら。
 真っ暗な闇の中を進む。ただ漠然と、柔らかな光が差す方向を目指した。

 どれほどの時間が経ったかは分からない。光の中へ足を踏み入れた先は築30年にもなる、ペット可の私が住むアパートだ。
 てっきり夜だと思っていたら、窓の外からリビングへと陽が降り注いでいる。ライラは白いソファの真ん中で丸まって、よく眠っているようだった。
 ただいま、帰ったよ。遅くなってごめんね、ライラさん。
 そう声をかけて触れようとした。
 ライラは耳を動かし、まだ眠たげに目を細めながら、右と左を一度だけ眺めて、ふたたび眠ろうとして丸くなる。そして私の声は出なかったし、彼女を撫でようにも手が無かった。
 手だけでなく、足も、お腹も、何も私には無い。
 ああ、そうか、そうだった。遅まきながら、やっと思い出す。

 私は車に轢かれて死んだのか。

 ごめんね、ライラさん。マグロを買って来てあげられなかったね。これじゃあなでなでしてあげることも、ご飯もあげられないね。ごめんね、ライラさん。
 私はライラの他に家族が居ない。父と母は早くに病で他界してしまったし、他の親戚にも心当たりがない。恥ずかしい話ながら三十代なのに、お付き合いしている女性なども居ない。
 私が居なくなったら、誰がライラのご飯やトイレの世話をするのか。考えるだに底冷えする様な、暗く黒いものが去来した。
 けれど私の漠然とした不安をよそに、ライラは呼吸のたびに身体を膨らませたり、縮めたりしながら、無邪気に眠っている。
 その寝顔を眺めている間に、自然と想起したのは、彼女が我が家へ来た時の事だ。







 当時の私は仕事を辞めたばかりだった。
 忙しさ、慢性的な疲労、立て続けに起きた身内の不幸など、心当たりは沢山ある。うつ病を始めとした精神疾患により、ある朝とうとう自力で立つことすらもままならなくなった。
 心療内科より処方された薬を飲み、ただ呆然と時間が過ぎるのを待っていた。ぼんやりと横になったまま、スマホの画面を眺めるか、カーテンの間から覗く青空を見上げているかの生活である。生きて活する、という言葉を戴く事すら烏滸がましいだろう。
 このまま私が住まう岩館荘いわだてそうの片隅で、きっと身を丸め縮こまったまま死んでゆくのかも知れない。そんな想像を受け入れてしまう程に、活力も何も無かった。

 猫を飼ってみよう、と思い立ったのは、単なる幾つかの小さな偶然が発端だ。
 前々から、なんとなく猫が好きだった。飼っていた事こそ実家でも無いが、故郷の野良猫を部活の帰りしなに撫でてやるのは楽しみだったし、仕事の休憩時間にも、SNSで流れてくる猫の画像を眺める事を癒しにしていた。
 ものを整理する気力も失くしていた私の部屋は、ペットを飼うどころでは無いほどに悲惨な有様である。ただ幸いにも多少の蓄えはあった(遣う暇もなかった)ので業者さんを呼び、何もかも捨ててもらう事にした。
 生活するに最低限足る家具と、必需品を残して。
 新卒の当時を思い起こさせるくらい閑散とした私の部屋は、新たな一歩へと踏み出す決意を後押しした。

 今のご時勢は、ペットの里親募集で溢れ返っている。きっと経済的な理由が大きいのだろう。ペットに避妊手術を受けさせるにも、倫理的な抵抗感はあるだろう。
 人間の身勝手で、無垢な生命にメスを入れて良いのか。それとも無責任に管理しきれない命を増やす方が悪なのか。
 その議論に明快な答えを打ち出せる程、私は聡明ではない。ただ事実として、私は生まれて間もない子猫を引き取ることにした。

 里親を募集していたのは、当時の私よりも一回りか二回り年上のご婦人だ。それきり連絡を取ってはいないが、物腰が柔らかで丁寧な人だった。
 私は兄弟のうちいちばん末っ子の、女の子の子猫を引き取ることにした。ここに歴然とした理由は無い。ただ4匹いた子猫のうち、たまたまキジトラ模様の彼女と目が合って、その瞬間に自然と「この子にしよう」と思い立ったのだ。

 ペットを運ぶためのキャリーケースを片手に提げたまま、私は「とんでもない事を決意してしまった」と早くも途方に暮れていた。
 命を預かるという事は経験がない。けれど言葉で言うほど簡単でもないとは考えていた。
 とりあえずは猫用の食器やトイレと、ケージもそうだし、まず思い当たる限りは全てのものを買い揃えないといけない。けれどいつまでも彼女をキャリーケースの中でぶらぶらさせる訳にも行かないので、まず子猫を自宅に置いてから、必需品を買いに出かけようと考えた。

 部屋へ着くなり、私は子猫を部屋に放した。まだひとりで立ち上がるにも震えているくらいの子猫だ。部屋までの道中はそれなりに時間もあったので、お腹が空いているかもしれない、と思い立つ。
 里親を募集していた婦人から、ご厚意でミルクの粉と哺乳瓶も受け取っていた。粉を入れた瓶にポットでお湯を半分ほど注ぎ、それから冷水を混ぜる。瓶をよく振って、子猫が口の中をやけどしない様に冷ます。
 ご婦人がやっていた事の、不格好な見よう見まねだ。手のひら程もない小さな背中をできるだけ優しく抱えつつ、子猫の口元へ哺乳瓶の吸い口を当てる。子猫はしばらく口で空を噛んでいたが、すぐに私なんかよりもずっと上手に、ミルクを嚥下し始めた。
 心の中に、ソファへ深く座り込んだ時の様な安堵感がじわりと染みる。


 ミルクをひとしきり飲み終えた後、あぐらをかいている私の太ももの上で、子猫は前足を交互に押し付け始めた。子猫が親猫に甘える時よく見せる仕草らしい。
 ずっと同じ体勢でいるのが少しばかり辛かったので、子猫を載せたまま仰向けになる。
 すると彼女はお腹の方へ乗ってきて、やはり私をこねながら喉を鳴らす。
 私はたまらず、その小さな生命が愛おしくなり、伸ばした手のひらでゆっくり背中を撫でた。しばらく子猫は一心不乱に甘えていたが、やがて満腹になったからか眠気が襲ってきたらしい。
 前足の動きはゆっくりと止み、喉を鳴らす音の代わりに寝息が聞こえ始めた。

 子猫の寝息を聞き届けて、改めて天井へ目線をやった私のこめかみへ、滴が落ちる。全くの無意識だった。涙が出るのは何年来だろうか。仕事で精神をやられていたときも、退職する時も、幾度の冷たい夜も、ついぞ泣けはしなかったのに。
 胸の奥がきゅうと強く締め付けられる感覚と共に、それはとめどなく溢れた。
 どうか寝息を立てるこの小さな生命を、起こさないようにと、頑張って嗚咽を噛み殺した。
 それから3日間、さんざ悩み抜いた末、彼女をライラと名付けることに決めた。


Re: 死んだ私とライラ ( No.3 )
日時: 2022/02/13 19:26
名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: Jhl2FH6g)

#3



 昼過ぎにひとしきり部屋の中を駆け回り、毛繕いに精を出した後、ライラはまたお昼寝した。そして再び目を覚ましたのは、陽が沈んだ頃である。
 耳をひとつ動かしてから、にゅっと首を伸ばす。ぱっちり開いた目でリビングを見渡して、ソファから降り立つ。前足を伸ばし、背を提げて思い切り背伸びする。
 身体を震わせてから、軽やかな足取りで玄関の方へ向かう。
 その直後に、玄関の鍵が開いた。ドアが開いた先に立っていたのは、私ではなく大家さんである。
 恰幅の良い朗らかな女性だが、今は神妙な表情をしている。

「あらライラちゃん、お留守番えらかったね。ごめんなさいね、勝手に入っちゃって」

 大家さんは玄関先でしゃがみ込み、ライラに目線を合わせながら笑いかける。けれどライラは少し警戒したような様子で、棒立ちのまま大家さんをじっと見つめている。大家さんが手を伸ばすと、ライラは恐る恐るといった様子で鼻先を近づけた。

「まずはお腹すいたよね。ご飯食べたいわよね。ちょっと待っていてね、おばちゃんが用意しちゃうから……篠垣さん、お邪魔しますよ……っと」

 はいどうぞ、大したおもてなしも出来ませんで、と思わず反射的に言おうとしたが、やはり声は出ない。代わりに大家さんが廊下の電気を点ける時の、パチンという音だけが静けさに響く。
 大家さんの来訪に少しばかり驚いたけれど、ライラを気にかけてくれる方が居て良かった。身体があれば、胸をなでおろしていたに違いない。お陰様で、ライラがずっとひもじい思いをせずに済んだのだから。本当にありがとうございます、大家さん。

「篠垣さん、ライラちゃんのご飯はどこ仕舞ってるのかしら。ねえライラちゃん、どこにあるか分かる?」

 ライラはキッチンの周りを探し始めた大家さんに対して、遠巻きから視線を送っている。

「って、言われたって分かんないわよねえ」

 大家さんは構わず、お茶目にライラへと笑いかける。

「あった、この瓶ね。篠垣さん丁寧ね。ちゃんとライラちゃんのご飯を袋から瓶に移し替えているのね」

 瓶の中から音が聞こえ、ようやくライラは大家さんの方へとゆっくり近づいて行った。何か釈然としない風に、大家さんがカリカリを皿に載せる様子を観察している。

「はい、お待たせ。さ、お食べ」

 ライラはカリカリを食べている間、何度かふいに大家さんの方を見上げ、それからまた皿に向かってと繰り返していた。大家さんは近くに座り込み、そんなライラを見守っている。
 ライラが振り向くたび、大家さんは「うん、どうしたの?」と笑いかける。

「よく食べたねえ。おいしかった? お腹いっぱいだね」

 大家さんは夕食後のグルーミングが終わるのを待ってから、ライラに向き直った。ライラは座りが悪い様子で、まだ部屋の中を見渡している。まるで私の姿が無い事を気にしているように思えた。
 大家さんは落ち着かないライラの、前足の付け根を持ち上げて、視線を合わせた。
 この部屋の玄関を開けた時と同じ、沈んだ面持ちである。

「さて。ライラちゃんに大事なお話があります」

 更に戸惑っている様子のライラは、微動だにせず大家さんと向き合っている。
 大家さんは、しばらく沈黙していた後に、重々しく口を開く。

「……篠垣さんは、ライラちゃんのお父さんはね、とても、とても遠いところに行かなくちゃいけなくなったの。お空に架かる、虹色の橋の先よ」

 大家さんの声は、少し震えていた。猫であるライラに伝わるかは分からないけれど、私の家族として丁寧に言葉を選んでいるのが分かる。
 当然ながらライラは返事をしない。
 ただ大家さんから目を逸らさず、手からすり抜けて逃げ出すこともしなかった。

「今後ライラちゃんがどうなるかは、ごめんね、まだ決められていないの。ライラちゃんが嫌じゃなければ、本当は私のおうちに来て欲しいけれど……娘の旦那さんが、動物アレルギー持ちでね……ちょっと難しいの、ごめんね」

 大家さんが謝ることはないのに。
 釈明するように言葉を紡ぐものだから、どうか謝らないで、と言いたくなってしまう。

「しばらくはこうしてご飯とお水とか……おトイレも手入れしなくちゃね。ちゃんと私が通うからね」

 ライラより先に、大家さんの方が視線を下へ落とした。ライラを抱き寄せて膝の上に載せ、優しい手付きで、毛並みに沿ってその背中を撫で始める。

「……寂しくなっちゃうねえ」

 一言ぽつりと零す大家さんの声には、既に鼻をすする音が混じっていた。
 ライラは大家さんの顔を不思議そうに見上げながら、身を預けている。まるで死という概念に覚えのない、無邪気な子供そのものの姿だった。私には、まだ今日この後に私が帰ってくる事を信じて、疑いもしていないように映る。
 このライラを残して、本当に先に逝ってしまったのか、私は。
 それとも悪い夢を見ているだけだろうか。そうだ……どうか夢であってくれ。

「それじゃあね、ライラちゃん。エアコンは付けておくからね。ちゃんと寒くないようにするのよ。また明日の朝も来るからね」

 心から、これが夢であることを願う。
 しかし大家さんが去った後、電気を消した暗い部屋で、玄関に向かって座ったまま動かないライラの背中を見ていた。
 それから闇の帳に、ライラの小さい身体から出ているとは思えない、大きな鳴き声が響く。最初のひと鳴きを皮切りに、それは何度も何度も、せきを切って溢れ出したように続いた。
 ライラの姿を見ている間にずっと私を苛む、引き裂かれるような思いは、これが夢ではなく現実である事を如実に伝えてくる。

 どうか、触れさせて欲しい。ライラさん、といつものように名前を呼ばせて欲しい。私の顔を見て欲しい。駆け寄ってきて欲しい。鼓動の音を聞かせて欲しい。そんな悲しい声で叫ばせて本当にごめんなさい。
 私がここに居るという事をすぐに伝えたい。
 それでもライラはここに居る私へと背を向けたまま鳴いている。
 私には伸ばす手も無い。彼女の名前を呼ぶ口も無い。
 私が帰ってくる時の足音は、もう永遠に聞かせてあげられない。
 ライラがひとつ鳴くたびに、まだ現実味がなかったそれらの事実も、明確な輪郭を帯びてゆく。
 そして巨大な虚の中に立たされているような感覚と共に、ライラの声だけが響く、残酷なほどに静かな夜は更けていった。

Re: 死んだ私とライラ ( No.4 )
日時: 2022/02/19 22:04
名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: Jhl2FH6g)

#4



 猫を飼い始めてから理解した事が幾つかある。その内のひとつが、猫は私たち人間が思っているよりも遥かに賢いという事だ。
 だからこそ猫が窓辺から空をじっと見つめている時にも、私はその瞳の奥へと吸い込まれる。そして蛍が舞う様な黄緑色や、線香花火が散る様な橙や、浜辺の海を掬い上げた様に冷えびえとした青などの、星々が舞い散る宇宙のいちばん奥で漂っている心地になるのだ。
 何を考えているか分からないけれど、猫が凛として佇んでいる面持ちは、眺めている私達を惹き込んでやまない。
 君は何を見ているのだろう。君は何を考えているのだろう。君はどんな思いを馳せているのだろう。君は何に惹かれているのだろう。

 そうして今日もライラは、しばしば遠くから踏切が鳴るだけの、張り詰めた様な寒さが覆う空をただただ見上げている。線路がごうごうと唸る音も通り過ぎてしまえば、後は寂寥とした薄暗さが部屋に残るだけだ。
 今日で私が死んでから4日目になる。幸いにしてその間ライラが飢える事は無かった。大家さんは朝、昼、夕方に一度ずつ訪れる。まずトイレの砂を取り替え、カリカリをあげてから、部屋に軽く掃除機をかける。それから30分から1時間くらいライラを見守り、時には膝の上へと載せて、少し荒れ始めた毛並みを柔らかく撫でるのであった。
 けれど夕方になって大家さんが帰ると、やはりライラはひとりでなきはじめる。
 大家さんが言うに私を轢いた犯人は捕まったらしいが、それは想像していた以上に何の慰めにもならなかった。私にとっても、きっとライラにとってもそうだろう。

 猫は私たち人間が思っているよりも遥かに賢い。私にはライラが、私が死んでしまった事を理解しているように映った。それでもなお彼女は、昼間には窓辺から蒼穹を仰ぎ、夜には悲鳴のような叫びを上げ続ける。
 今まで幾度か、部屋に帰ると花瓶が倒されていたり、無残に横たわったティッシュとちり紙の花吹雪が床へ散乱していたりなどという事もあったが、この4日間はそんな様子もない。
 彼女が誇りに思っている、キジトラ模様の毛並みも、すっかりと手入れが疎かになっている。私は私が仕事に行っていた間のライラを知らない。ただどうしようもなく茫漠としている姿は、今までもそうだったとはとても思えない。
 まるで表情のように雄弁な彼女の白いヒゲは、ずっと毛先が下を向いたままだ。

 君は何を見ているのだろう。君は何を考えているのだろう。君はどんな思いをはせているのだろう。君は何に惹かれているのだろう。
 今まではそれらも分からない事さえ心地良かったのに、今はそれらが分かってしまう事に、ちょうど手摺りを掴もうとした指先がすり抜けるような欠落感を抱いてしまう。
 次第に、私のことを忘れ去ってくれまいかという願いばかりが巡るようになっていく。
 時間が巻き戻って欲しいという願望は、もう食傷するほどに繰り返したので枯れている。

 私はもう居ないから、どうか私を忘れて、健やかに幸せに生きてほしいんだ。
 ほんのそれさえ伝える事が出来ないので、ライラが鳴き疲れて眠った真夜中に、私は夜より深く暗い色の感情にひたすら溺れていた。







 そもそも、ライラの新たな引き取り手も決まってすらいない。
 大家さんだって自分の生活があるから、いつまでもこうしてはいられないだろう。なのに、後は自分のいない場所で幸せに生きてくれというのは、あまりに無責任で身勝手かも知れないと思った。
 そんな折だ。私が死んでから5日目の今日になって、予想だにしていない新たな訪問者が、部屋の玄関先へと現れた。

「さあさ、どうぞお上がりになって……と言っても私の部屋じゃないわね、あらやだ」
「いや、そんな……お邪魔します。よいしょ……っと」

 たった一度きり会っただけの人だけれど、すぐに私は思い出した。
 土曜日の夕方に、大家さんに招かれるがまま部屋へと上がったのは、私と同じ年頃か少し上くらいの女性である。
 忘れもしない。私に当時まだ生まれたばかりのライラを譲った女性だ。早瀬さんという。
 ライラは5日前に増して戸惑った様子で、覚束ない足取りで後ずさりをしつつ、怪訝な視線を女性へと送る。あまり見慣れない人間が増えたのだから無理もない。すっとリビングの片隅へ逃げ込むと、そこで縮こまり様子を伺うように固まる。

「あら。ライラちゃんったら……怖がらなくて大丈夫よ、ほら、お姉さんのこと覚えてない?」
「あはは……さすがに覚えていないと思います。ライラちゃん、素敵な名前をもらったんだね」

 大家さんも早瀬さんも、無理にライラの方へと距離を詰める事はしなかった。少し離れた所でライラを見守ったまま、テーブルを挟んでカーペットに腰を下ろしている。

「ライラちゃんもこの一週間ですっかりやつれて……毛並みもちょっと荒れてきちゃったわね」
「無理もありませんね……。最初にライラちゃんを引き取ってもらったきり、お会いできませんでしたけれど……とても丁寧な方でした。きっとライラちゃんを大事にしていらしたんだろうなと思います」
「そうなのよ。会うたびいつも、あのはにかんだような笑い方でね、ライラちゃんの話が飛び出してくるのよ。聞いているこっちもなんだかね、もう温かくなっちゃって」

 聞いていながら、少しだけ気恥ずかしくなる。割と自分で思っていたよりも、大家さんにもライラの話をしていたらしい。
 話は途切れて、少しの間エアコンから空気を送り出す音だけが流れる。
 それから大家さんと早瀬さんは同じようにライラへと正座のまま向き直って、本題を告げる。

「ライラちゃん、驚かないでね。といっても難しいかも知れないし……ちょっとまだ受け入れにくいかも知れないけれどね」

 大家さんはそこで言葉を区切った。それから続きを切り出しにくそうにしているのを察してなのか、代わりに早瀬さんが息を吸ってから、口を開く。

「ライラちゃん。良かったら……私がまた、ライラちゃんを私の家に連れて行ってもいいかな」


Re: 死んだ私とライラ ( No.5 )
日時: 2022/02/27 20:38
名前: 緑川蓮 ◆vcRbhehpKE (ID: Jhl2FH6g)

#5


「まだライラちゃんが生まれた時は、他の兄弟の皆も含めて、お世話するだけの余裕が私達に無かったんです。恥ずかしい話ですが……なのでSNSを通じて、里親さんになってくれる方を呼びかけました」

 早瀬さんは申し訳なさそうに視線を落としながら、ぽつぽつと語る。

「当時はこの子の親に、去勢手術を受けさせておくべきだったのかも知れないと、ほんの少し、後悔もしていました。飼い主である私が管理しきれない事を、他の人へと丸投げするのは……あまりにも無責任だったんじゃないかって」

 一旦そこで言葉を区切ってから、彼女は「けれど」と継ぐ。
 私の部屋をゆっくり見回してから、やがて視線は変わらず部屋の隅から視線を注ぐ、ライラの方へと戻る。それから柔らかく微笑みかけた。

「篠垣さんは時折、ライラちゃんの姿をSNSに上げていました。この部屋を見ても思います。ライラちゃんと篠垣さんが出会った事を、否定してしまうのは……ダメだなあって」

 今この瞬間まで、私の心には黒い靄が立ち込めていた。まるで霧が晴れるように、早瀬さんの言葉で、音もなくそれは失せてしまった。沈黙する部屋の中で、早瀬さんの言葉だけが浸透してゆく。

「幸せそうなんですよ。カメラ越しの、ライラちゃんが、いつも。あとで大家さんにもお見せしますね」
「あらやだ、気になるわね……ぜひぜひ、見せてね」

 それまで早瀬さんの言葉に頷きながら沈黙を守っていた大家さんは、急に口元へ手を当ててそわそわとし出す。
 早瀬さんは仕方ないとして、知人にSNSのアカウントを知られるのは気恥ずかしい心持ちがあるのでやめて欲しい……という気持ちもあったが、悲しきかな今の私はそれを止めるべく口も無い。

 ……──幸せそうだったと言ってくれるのか。

 それを無かった事にしなくていい、という言葉が、私にまとわりついた重りを事も無さげに取り払う。きっと私に身体があれば、その場で膝から落ちていただろう。
 私とライラは出会って良かったのだと、そう思わせてくれた。きっと私に身体があれば、涙を流していたのかも知れない。
 今はただ、心の内へ集まって収束していくような安らかさと共に、早瀬さんの言葉へと耳を傾ける。ありがとう……と伝える事はままならないから、祈りに似た想いを湛えて。
 早瀬さんはライラに向き合ったまま、今度は真面目な表情で語りかける。

「ライラちゃんにとっては環境も変わるし、篠垣さんがいなくなって辛い事ばかりだと思う。けれど、だからこそライラちゃんは生きなくちゃいけないんだ……この先も」

 早瀬さんも、泣きそうなのを必死で堪えているように見えた。

「だから……身勝手で本当に申し訳ないけれど、また私達と一緒に暮らして下さい。今なら、ライラちゃんを護っていくだけの準備もあるから……」

 ライラに深々に頭を下げながら、それを言い切った辺りで、ついに早瀬さんは限界を迎えた。
 頭を下げたまま嗚咽を噛み殺し、絨毯へと雫が落ちる。
 早瀬さんは再び顔を上げ、涙を服の袖口で拭いながら続ける。

「篠垣さんが……護り続けてきた命を……どうか私に、繋げさせて下さい」

 誰も言葉を発しない。大家さんも、無論ライラも何も言わずに見守っている。
 当たり前だが、人と猫の間で、言葉のやり取りは出来ない。
 だからこれは無駄な事だと、果たして言い切れるだろうか。
 猫は私たち人間が思っているよりも遥かに賢いのだから。それを知っているからこそ、彼女は彼女なりに、ひとつの魂ある命どうしとして誠意を尽くそうとしている様に見えた。
 もちろんライラは表情を変えることも、異議を唱えることも出来ない。
 ただ身体を丸くまとめて縮こまっているだけだ。

「きっと今からすぐにはライラちゃんも困っちゃうだろうから、連れて行くのは明日にするね」
「そうねえ……明日だったら私も空いているし、今日は一旦お開きにして休みましょっか」







 大家さんと早瀬さんが去ってから、部屋はまた漆黒に包まれた。
 エアコンが吐息を響かせ続けるだけの、無情なまでの静けさが時を送り出していく空間に、再びライラは置き去りにされている。
 ライラは基本的に、夜はリビングのソファへと陣取って眠る。もちろんゲージには、小さくもふかふかな絨毯を敷いて、寝床になるよう考えてはあるのだが……どうもそこがお気に入りらしい。
 朝になって起きてみれば私の布団へ潜り込んでいたりする事もしばしばあったが、基本的にソファが彼女にとって不可侵の陣地だ。

 しかし今日は珍しく……大家さん達が去ってからしばらくした後、ライラはおもむろに私の寝床へと向かい、そこに腰を下ろした。
 今日はまるで私を呼ぶように鳴かない。代わりに私の布団を小さく可愛い肉球でこねながら、一心不乱に喉を鳴らし始める。まるで一生懸命に、親猫へと甘えるような姿だ。

 私はライラにとって、一端でも親で在れただろうか。
 たとえ腹を痛めて生んだ子でなくても、彼女にとっての親で在れただろうか。
 ほんの少しでも、彼女を幸せに出来たのだろうか。
 人同士ですら、心根は分からないのだ。それに応えるべく誰かも居る訳がない。
 けれど今、私の本心だけは分かる。

 ──ライラ、私は君が居てくれて幸せだったよ。

 初めてこの部屋へと来てくれた日、抱き寄せて耳へと胸元を当てた時に聞いた、君の鼓動。命がここに生きていると実感した瞬間を、決して忘れはしない。
 君が必死でミルクを飲む姿も、カリカリを食べる姿も、微笑ましく見守ったものだ。
 疲れ果て残業から帰った時も、不貞腐れたように素っ気ない態度の君を見て、疲れも忘れて慌ててご飯を用意したものだ。
 一番最初のお気に入りだった、ネズミを模している毛玉がついた玩具は、件のネズミちゃんが取れちゃって壊れちゃったね。実は、あのネズミちゃんは今も押入れの奥に隠れているんだ。
 君が休日の朝日を浴びる姿は、どうしようもなく背中を撫でたくなるんだ。君は訝しげな顔をするけれど、僕の手の平から逃げようとはしない。小さな鳴き声を上げて、目を細めながら頭を撫でさせてくれる。
 ずっと、ずっと私を見守ってくれていたね。
 そのお月さまのような、透き通った真っ直ぐな瞳で。

 ライラも身体を丸くして眠り、夜は更けていく。
 死んでしまった事は悲しい。けれど私の人生は決して、不幸ではなかったよ。君という家族と共に過ごせた人生は、決して不幸なんかじゃあなかったよ。
 だからライラも、今は悲しくても、どうか私の分まで命を繋いで欲しい。そして、いつでも見守っているから……ひとつでも多くの幸せな笑顔で、その人生を満たしてくれ。
 心のなかで繰り返す。月明かりに照らされ、音も立てずに呼吸を紡ぐ、私にとってかけがえのない命へと向けて。愛しい気持ちを、どうかひと欠片でも贈ることが出来るようにと、暗い部屋の中で祈りながら見守る。
 ──私はもう、救われたから。







 死者が生者へ想いを託す事ほど、残酷な事は無い。

「さてと……ひと通り運び終わったねぇ」

 ライラが愛用していたソファの毛布や、ケージにトイレ、カリカリを入れる器など、結構な数はあったと思う。ひと通りを旦那さんの運転する車へ運び終えてから、早瀬さんはライラに語りかけた。
 リビングには、まだ午前の穏やかで、少し暖かい陽が差している。
 早瀬さんの隣には、大家さんがどこか寂しげな微笑みで佇んでいた。

「それでは」

 早瀬さんがおもむろに放った言葉で、大家さんも彼女へと向き合う。

「ライラちゃんは、私が責任を持って、連れて行きます」

 早瀬さんは深々と頭を下げ、大家さんもそれに応じる。
 頭を上げてから、大家さんは何度か頷いて、名残惜しげに言う。

「篠垣さんの分まで幸せにしてあげて頂戴ね」
「……ええ、ええ! 勿論です……!」

 ライラは玄関先に居て、早瀬さんと大家さんのやり取りを見守っていた。
 そして早瀬さんがライラを、持参していたペット用のリュックへと誘う直前の出来事である。
 ライラは賢い子だ。今日の受け渡しが終わる時も、こうして自ら玄関先に──意図しているのかいないのか、分からないが──ちゃんと待機している。
 けれどライラは部屋の奥の方へと向かって、確かに一度だけ鳴いた。



「にゃあん」



 程なくして、ライラの姿に戸惑っていた早瀬さんが、苦笑しつつも代弁した。

「……まるで『行ってきます』って……言っているみたいですね」

 この部屋にはもう、誰もいない。
 けれど大家さんも早瀬さんも、私が在る方へと向かって深々にお辞儀した。
 それから早瀬さんはライラを柔らかく抱きかかえ、ペット用のリュックを、ジッパーを開き中へと誘った。ライラは一度だけ部屋の方へと振り返ったが、恐る恐るリュックの中へと頭を滑り込ませる。
 それからリュックに誂えられたプラスチック製の窓から、部屋の中を……或いは、見えないはずの私を見つめていた。
 ライラと見つめ合いながら、私は祈るように、声にならない声を返した。

 がちゃん。と。
 黒いドアが閉じてから、大家さんによって鍵の閉まる音が響く。
 部屋には、リビングから朝日が差し込んでいた。音もなくフローリングを照らしている。

 死者が生者へ思いを託す事ほど、残酷な事はない。
 託された者は、その思いをも背負って生きていくしか無いのだから。
 だからせめて君が生きている限りは、きっと見守っているよ。

 私と出会った事を、無かった事になんて出来ない。
 それでも良いから、どうかこれからも生き続けて下さい、ねえ、ライラさん。

 そして君が永く疲れ果てるような歩みを終えた時は、暖かな日だまりの中で、君を撫でよう。そして隣で、寄り添っていよう。それまではいつまでだって待っていてあげるから。
 いつまでだって待っているから、焦らずに、ゆっくりと生きるんだよ。

 閉じた玄関のドアを名残惜しく眺める。
 それから私の視界は、瞳を瞑るように閉ざされてゆく。朝日が夜の闇を溶かしていくように、陽光が照らす空へと沈んでいくように、私の意識は撹拌されてゆく。
 そこに絶望は無かった。
 ただ意識が消える間際に、君がこれからできるだけ多くの楽しい事、嬉しい事、幸せな事に出会えるよう願っていた。
 そして黒いドアが閉じる直前の、私が声にならずとも祈るように想った言葉を、繰り返す。

 ──いってらっしゃい、ライラさん。



                              死んだ私とライラ・了



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