複雑・ファジー小説
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- 亘理佳也子と返報の夢
- 日時: 2022/08/18 23:04
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
※ホラーです。怖いの苦手な人はご注意
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それが夢の中だという事はわかった。感覚としてわかった。誰の夢か、何の夢か。
黒々と塗りつぶされ、誰もいない。ただ何もない暗黒ばかりが広がる、誰のもとも知らぬ夢。
そんな夢の中で声は言う。
世の中には、冷酷な理不尽が幅を利かせ、抗う術もなく、その理不尽はわたしたちを切り裂いた。
世の中を呪いながら、この流れ落ちるような生への裏切りの雨を、あるいは心の奥底を食い荒らす復讐の狗を、果たしてどうして飼いならそうか。
例えばもっと安らかな死を与えられたならば、わたしはきっと悲しくも諦めただろう。
例えばもっと清らかな身で死ねたならば、わたしはきっと死してさえ誇らしかっただろう。
だからこそ、わたしは決した。
例え抗う事の出来ない宿命が、わたしに死ねと命じたならば、その運命に抗う事などしない、潔く殉じようと思う。
だからこそ、わたしは誓った。
不条理な理不尽を掲げてわたしに抗えない宿命を刻んだ者へ、わたしは必ず報いると。
この胸の奥底で唸る復讐の狗を、必ず躾け、飼いならし、そしてお前の喉笛を喰い千切るよう仕向けよう。
その為に、わたしは――――。
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■twitter:@taros5461
最新話 >>10
- Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.1 )
- 日時: 2022/06/01 22:51
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
* * * *
午後の斜陽の中には若さが煌めいていた。例えば昨日のテレビ番組の話、もしくは今日の授業の話、家族の話や、それから好きな男の子の話。明日のテストの話や、週末何処へ行こうかと言う話。若さと、それから希望が溢れかえっていた。そう、それは掃いて捨てる程に溢れかえっていて、世界を覆い尽くして幸福の海に沈めて窒息死させる程の勢いだった。
赤いランドセルを背負った小学生の集団と、膝丈のスカートをはためかせる中学生の一団、そんな彼女らを見守る教員たちの視線や、買い物帰りと思われる主婦の日常。世界は幸福だった。その中の誰もが、その幸福を認識できないほどに幸福に浸りきっていた。だから、その場に居た誰もが次の瞬間に起きた事が理解出来なかった。
幸福は悲鳴と、確かな破壊音に掻き消され、怒声と呻き声に塗りつぶされた。白い何処にでも有る乗用車が奪い去った幸福を、その瞬間には誰も思い出せなかった。
* * * *
「あんたは酔っても居ないしこれといって病名のつくような精神状態という診断書もない。今こうして向き合っていてもマトモに見える。それなのに、なぜあんな事をした?」
小さな取調室で男が聞いた。
レコーダーは回っている。立会人も居る。そして被疑者も居る。有り触れた取調室だ。
「あんたの車はふた月前に車検に出されているし、エンジンもブレーキもどこにも……動力系も駆動系も計器類だって何にも異常がない。あんたはマトモで車もマトモ、ついでに現場は一方通行で見通しも良いし、風も雨も地震もカミナリだってなかった。それなのにあんたは小学生の集団に百キロ超えで突っ込んだ。何人死んだと思ってるんだ」
男は憎しみを込めて言った。
だが、問われた方の男は肩をすくめ、俯いて、微かに肩を震わせているだけだった。
激しい音を立てて問いかけていた男が安い机を叩く。立ち会って記録を取っていた男が慌てて肩を抑え込み、落ち着くようにと諭す。
「刑事さん、どうして暖房を止めたんです?」
問いかけられていた方の男が小さく呟いた。問いかけていた男、刑事の方には目も向けない。ただ俯いたまま、肩を震わせて呟いた。
「暖房なんて最初から付いてない!」
刑事の男が怒鳴ると、被疑者の男は震えながら肩を抱いた。
「寒いんだ。とても寒い」
男の呟きが小さく響き、刑事と、立ち会っていたもう一人の刑事が怪訝そうな顔を見合わせる。
その間も被疑者の男はずっと「寒い」と言い続け、それから徐々に震えが激しくなった。
「刑事さん、何故灯りを消したんです? 寒い、何故ここはこんなに暗くて寒いんです? 刑事さん、何故私だけ置いて居なくなったんです?」
男は体を激しく痙攣させ、錯乱し、泡を吹いて椅子から転げ落ちた。その間中ずっと震えながら喋り続けた。
刑事二人が慌てて男の体を押さえ、医務員を呼ぶ頃、被疑者の男は息絶えた。奥歯を噛みしめ、目を見開いたおぞましい程の恐怖の表情を、その顔に張り付けて。
* * * *
催した吐き気をぐっと堪えて、彼女、亘理佳也子は傍らを通り過ぎた乗用車を見送った。十年前のあの日以来、佳也子にとって白い乗用車は堪え様の無い恐怖の対象だった。激しく高鳴る鼓動は胸を圧し、キリキリと収縮を続ける心臓に意識が遠のくのを感じる。周囲で友人たちの声が聞こえるが、佳也子の耳にはそれが深海の奥底から呼ぶように遠く感じられた。
大丈夫、少しすれば収まる。そう自分に言い聞かせて、制服のリボンを引き千切らんばかりにぐっと胸に爪を立てる。そうしていなければ今にも意識が飛びそうで。
友人たちが背中を擦る感覚や、肩を抱いてくれる感覚は遠くに感じられるのに、閃く様に脳内を駆け巡った過去の思い出だけは未だに佳也子の網膜の裏に焼き付いている様に近く感じられた。それは殆ど毎日の様に起こる事なのに、十年経っても、佳也子の身体はその危険な、閃光の様な記憶から逃れる事が出来なかった。
段々と胸の痛みが引いていき、少しずつ周囲の音が明瞭さを取り戻す。かれこれ十数分もの間、心臓の上で握りしめられていた手を開くと、皺だらけになったリボンが揺れた。淡い青色のリボンが、佳也子を現実に引き戻す。
「佳也、大丈夫? 今日は一段と酷かったね」
耳元で、同級生の声がする。皆分かっていない、今日も昨日と変わらないぐらい酷くて、明日もきっと同じぐらい酷い。この発作の痛みと恐ろしさは誰もにも理解されない。そう、佳也子の心臓が叫んだ。佳也子の脳内にだけ、その叫びは酷くこだました。
「ごめんね、もう大丈夫だから。ありがとう」
周囲の友人たちと、それから野次馬の様に集まってきた見も知らぬ人々へそう告げて、佳也子は力なく笑った。それは佳也子にとって義務の様なものだった。十年間、発作が起こる度に繰り返してきた、うんざりする様な義務だった。声を掛けられても、背中を擦られても、この痛みと恐怖は寸分も和らがない。それなのに、皆して狂ったように私を取り囲んで、自分の偽善を満たす。
佳也子の心臓が叫んだ。それから、佳也子の脳内に、いつもと同じ言葉がわだかまった。
『あなた達が居なければ、私は苦しまないのに』
そう、それは佳也子にとっては有り触れた、十年間も続けて来たただの日常だった。何の変哲もない、ただの日常だった。
* * * *
- Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.2 )
- 日時: 2022/06/01 22:49
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
* * * *
「佳也ぁ、テストどうだった?」
午前の授業を終え、弁当を広げた佳也子にそんな声がかかる。
返されたばかりのテスト用紙を片手に、如何にも落胆の色を湛えた顔でこちらへ向かって来るのは、中学から佳也子の一番の友人である、白石瑞穂だった。短い栗色の髪をした瑞穂は、底抜けに明るくて、そして少々お節介で、何より人好きのする少女だった。佳也子は瑞穂の少々八重歯の目立つ笑顔が好きだった。
「まあまあかな、自己採点よりは良かったよ。瑞穂は?」
そう答えた佳也子に、瑞穂は肩を落として首を振った。
「佳也はさー、何か苦手な事って無い訳? わたし、佳也ぐらい何でも出来たらもう少し天狗になる自信あるけど、佳也ってそーゆーとこも出来た子だよね」
しみじみとそう言って佳也子の前の席を占領し、佳也子の方へ向かってニコニコと笑う瑞穂に、佳也子は自分の机を半分譲って弁当をつつき始めた。その時間が、佳也子は好きだった。
亘理佳也子にとって、朝の陽ざしと午後の斜陽は恐ろしいものだった。だが、それ以外に佳也子にとって恐ろしい物は何一つ無かった。勉強は満遍なく出来たし、事故当初は怪我やフラッシュバックのせいで弱り切った心臓も、今では充分に回復していた。それどころか、佳也子は運動部から勧誘される程度には運動神経が良かった。そして可笑しな――もしくは全く理にかなった――話ではあったが、多くの人々――それも女学生達に限定して――が居ない、もしくは燦然と太陽が輝いていない場所、時間には、例え目の前から鼻先すれすれを乗用車が通ろうとも、例の発作は起こらなかった。全く同じ色の、同じ車種が傍らを通り過ぎても、佳也子の心臓は悲鳴を上げなかったし、佳也子自身はその車があの時と同じものだという事に気付いていない事さえあった。
「事故当時の記憶が、きみの心の深い所に傷をつけてしまったんだ。だからその発作は暫く付き纏うだろうけれど、いつかは必ず良くなる」
事故の後、佳也子のカウンセリングを担当した中年の医師は申し訳なさそうな顔でそう言った。佳也子もその通りだとは思っている。この発作は、暫くは自分の事を解放してはくれないだろうと。ただ唯一その医師と佳也子の見解の相違は、佳也子はきっとこの発作は一生付いて回るだろうと思っている事だった。
そう、佳也子にとってそれはもはや不動の心理だった。十歳の子供が、自分が人間である事を疑わないのと同じで、十年間繰り返される発作は、もはや佳也子にとってはある種のイデオロギー、ないしはアイデンティティと言っても過言では無かったのかもしれない。
そんな佳也子にとって、学校生活と言うのは常に満ち足りた物だった。少なくとも勉学に励んでいる間、もしくは友人たちと談笑してる間は、つかの間、自分があたかも一人の、唯の人間に戻った様な気がした。朝夕の通学、帰宅の時さえ何事も無ければ、佳也子は全く満ち足りていた。特に瑞穂は裏表が無く、佳也子に不思議な安心感をくれる存在だった。
「わたしどうしても数Ⅱのテスト結果が納得いかないんだけどさ、後でちょっと教えてくれない?」
弁当を突きながらそう言う瑞穂に、佳也子は笑顔で頷いた。これも、中学の頃から変わらない、佳也子にとって幸福な時間だった。
瑞穂は昔から勉強が得意ではなかったが、テスト前にノートの映しをせがむでもなく、テストの数日前に突然教えてくれと言うでもなく、結果が出てから自分に足りなかった部分を補う。その姿勢に佳也子は好感が持てたし、何より友人の力になれる事が嬉しかった。
だがその幸福な一瞬の中で、佳也子はいつでも違和感を感じていた。
『此処は私が居るべき場所じゃない』
どこからか、心の奥底の様でも、すぐ耳元の様でも、背骨がそっと囁いた様でも、網膜に映し出された様でもある蟠り。それを笑顔で飲み込んで、佳也子は弁当箱を片付け始めた。
* * * *
「ただいま」
「おかえりなさい」
七時を過ぎて帰宅した佳也子を、母が出迎えた。閑静な住宅街の一角にある亘理家は、父と母、それから佳也子の三人にとって大切な場所だった。十年前、フラッシュバックと言う事故の後遺症に悩まされた佳也子の為に引っ越したその場所は、車通りが少なく、常に何処かの家の主婦が路肩で井戸端会議に精を出していたので、発作を抑制し、例え発作が起きても誰かが佳也子の異変に気づいてくれた。引っ越してすぐの頃は隣家の主婦が何度か発作を起こした佳也子の為に救急車を呼んでくれた。
そんな家族にも、隣人たちにも、佳也子は感謝していた。常に自分の為に身を削いでくれた両親、親切で暖かな隣人。だからこそ時々思う。
『私は何故此処に居るんだろう?』
そう考える事に疑問等は無かった。あの日、あの場に居た多くの罪なき子供たちが死んだのだから。何故自分は生き残って、こんなにも幸福な時間を過ごしているのだろうか。自傷的な、拭い去れない、誰のものでも無い恨みの様な疑問。
「佳也子、ご飯までもう少し掛かるから先にお風呂入ってきなさい」
母の声を背後に聞きながら佳也子は鞄を床に落として制服を脱いだ。少し時代遅れなセーラー服をハンガーへ掛けながら、果ての無い暴虐な疑問を飲み下す。
「お母さん、いつもありがとうね」
囁く様にそう言った佳也子に母は短く「いいのよ」と答えた。あの日の出来事があってからの一時期、両親は佳也子への接し方が分からずに苦労した部分もあった様だった。拭い去れない傷を心身に負って、思春期を迎えた佳也子は確かに普通の子供と比べれば変わった子供だった。佳也子はあの日受けた傷の恨みごとを言うでもなく、過保護気味な両親に反発するでもなく、社会で認められない立場や勉学の重圧に不満を漏らすでもなく、異性や流行のファッションの話をするでもなく、ただ両親に手間を掛ける事を詫び、両親の存在に感謝した。
流石に母は女同士で分かり合える部分があるのかいつも「いいのよ」と返したが、父は大いに当惑した。物静かだが自分に厳しい父は真剣に自分が何か佳也子に無理をさせているのかと悩みこんで、不眠に悩まされて通院したほどだった。それでも、佳也子と両親は仲睦まじかった。それだけは誰もが認めざるを得ない事実だった。
佳也子は脱衣所で服を脱いで、それからいつもと同じように胸部を中心に広がる大きな傷を眺めた。肋骨五本が折れて、内臓もいくつか損傷した。胸部以外も全身に傷を負って、骨折だけで十七ヶ所、折れた肋骨が飛び出た胸部はそこだけでも二十針以上縫う事になった。それでも、佳也子はその傷を見ても恨みごとを感じなかった。最初の頃は傷を見る度にフラッシュバックが起こったが、最近ではただ疑問が脳内で閃くだけだった。
『何故生きているのか?』
たったそれだけだった。それだけが、傷を見る度に毎日繰り返される疑問だった。
答えの無い疑問を脳内に遊ばせたまま入浴を終えると、父が帰宅していた。
「お父さん、おかえり」
濡れた長い黒髪を包んだタオルを叩きながら声を掛けると、父は笑顔で「ただいま」と返した。もともと小さい眼がしょぼしょぼに細くなる父の笑顔も、佳也子は好きだった。ただ自分の眼が母似だった事は良かったと思っている。少し強気な印象を受けられる事もあるが、母の凛とした黒瞳も佳也子は好きだった。佳也子は両親に負けないぐらい両親を愛していた。
「そう言えば佳也子、最近は変わりないか?」
三人で食卓を囲んでいると、珍しく父の方から声が掛けられた。佳也子の父は兎に角口数の少ない男だった。
「特に何もないよ? いつも通り」
思い当たる節も無く、小首を傾げる佳也子に無言で頷いて、父は暫く押し黙った。父はいつもこんな感じだった。自分の中で繰り返し納得させるように無言で何度か頷くのもいつもの事だった。
「何もないなら良いんだ。ただ最近、少し遠くを見てる事がある気がしてな」
独り言のようにそう呟く父がなんだかおかしくて、佳也子は母に向き直って「そう?」と問う。母は「年頃の娘が心配なのよ」と茶化したが、佳也子は両親の気遣いと言う名の嘘を見抜くのがとても上手かった。それでも、家族の団欒の時間を壊すほど、佳也子は愚かでは無かった。少しだけ父の言葉を脳裏の片隅に収めて、佳也子は少しだけ自分の将来の希望について話すことでその場を繋いだ。
* * * *
- Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.3 )
- 日時: 2022/06/02 23:36
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
* * * *
その日の夜、佳也子は珍しく夢を見た。
佳也子は何の変哲もない、何処とも知れぬ夜道に立っていた。何処にでもある、ありふれ過ぎた住宅街の一角の道。月光に黒光りするアスファルトの上で、佳也子は黙然と突っ立っていた。梅雨入り前の肌寒さが残る夜風と、裸足の足の裏を伝うアスファルトの冷たさに、佳也子は思わず身震いした。
「わたしがわかる?」
突然、背後で声がした。少女特有の、鋭ささえ備えた高い声。ただし、薄氷の如く触れれば壊れそうな静かな声が。
ぼんやりとしていた意識が覚醒した事を、佳也子は他人事の様に認識する。突然声を掛けられた事に全く驚きが無かった事が佳也子を驚かせる程度に、佳也子は自分の事を客観的に認識していた。そこが現実ではない事を初めからわかっていて、あたかも自分の意志でそこにやって来たかの様に。
佳也子が背後を振り向くとまず最初に目に入ったのは小ぶりな頭頂だった。月光を返す絹の様な黒髪が夜風に揺れている。視線を下へさげながら、佳也子は心底驚いた。客観的に自分を眺めていた佳也子の意識そのものが驚愕した。
結論から言えば、佳也子の背後に立っていたのは年端も行かぬ少女だった。ただし、その少女はこの世のものとは思えないほどに美しかった。絹糸の様な黒髪の下では冬の湖の様な黒瞳が静かに輝き、まだ幼さを残す鼻梁は既に美しさを芽生えさせており、僅かに開いた唇は夜目にも艶やかな桜色を見て取る事が出来た。
まだ十歳程度だろうか。後五年もすれば、すれ違う男全員の視線を奪って放さないだろう。佳也子はまずそんな事を考えた。それから暫く無言で少女の黒瞳を見つめながら少女の問いを考えた。
「わかるって、どういう意味?」
結局、佳也子の脳内では少女の問いの意味が分からなかったし、佳也子にとって少女は見知らぬ少女だった。こんなに美しい少女を記憶から消せる人間がいるとも思えなかった。
だが少女の方は佳也子の返事に少なからず驚いた様で、元々大きな黒瞳が更に大きく見開かれた。
「そう、わかるのね、見えるのね」
そう言って少女は少しだけ笑った。しっとりとした妖艶な笑みだった。
「覚えておいて。わたしは此処に居る。あなたと一緒に」
少女の声と同時に、佳也子の視界は白く焼きついた。視界が色を取り戻した頃には、見慣れた自室の天井だけが佳也子の視界の全てを埋めていた。それなのに、佳也子の脳内にはあの少女の存在が炎のように広がっていった。燃え広がり、網膜や鼓膜に焼きついた様に。
外はまだ暗かったが、佳也子はどうにももう一度眠る気になれなかった。今の夢の所為で、自分の中で何かが変わった事を漠然と感じていた。
まるで自分が別人になったかのように感じられる。それなのに、恐怖はない。自分自身を、自分の外から俯瞰する様な感覚。他の誰かを眺めている様な、意識が乖離していく感覚がひしひしと感じられた。
だが、佳也子はどこか清々しくも感じていた。嗚呼、これが本当の私なんだ。そんな考えさえ浮かんできた。何が変わったのかは分からない。ただ、今までの自分で無くなったことだけが漠然と、ただし確信に近いほどに感じられた。
* * * *
翌日、佳也子はいつも通り家を出た。父を見送り、母に声をかけ、住宅街を抜けてバスに乗って。校門前で瑞穂と合流して、いつも通りに授業を受けた。自分の本質が変わった事は意識の深い部分から理解していたが、表面上の佳也子と、それから佳也子を取り巻く日常は変わらなかった。佳也子自身が、自分が変わったと理解しているだけで、何が変わったのか理解していなかったからかも知れないが。
そうして授業を終え、部活へ向かう瑞穂と別れ、今夜の晩ご飯は何だろうかなどと考えながら帰り道を辿っているその時、佳也子は自分の中の何が変化したのかを知った。
目の前には小学生の一団が下校していて、そしてその脇を白い乗用車が通り過ぎた。いつものように佳也子の心臓は悲鳴を上げた。胸が高鳴り、視界に白い靄がかかった様に前が見えなくなる。ぎゅっと胸を抑え、込み上げる吐き気を必死に抑えながら、佳也子は気付いた。
目の前に居た小学生の一団の一人が、じっと佳也子を見据えていた。赤いランドセルからソプラノリコーダーのケースが飛び出ている所まではすぐに理解が出来た。そこで、佳也子は胸の痛みも発作の苦しさも忘れ果てた。
「わたしがわかる?」
夢の中で聴いた声と同時に視界が晴れる。こちらを見据えていたのは夢の中の少女だった。真冬の湖の様な黒瞳に、胸を押さえた自分の姿が映っていた。
「見えるのね、聞こえるのね」
少女は繰り返す様にそう言って、佳也子の目の前にやってきて、心臓を掴み出さん勢いの佳也子の右手に触れた。佳也子の胸の痛みも、吐き気も、それから心臓の高鳴りも嘘のように消えていた。
だが不可思議だった。周りの誰にも彼女の姿が見えていない様に、誰ひとり苦しむ佳也子と、目の前の少女の方へ目を向けなかった。いくら小学生とて、自分達の仲間が一人だけ知らない女子高生の方へ行けば誰かが、何らかの反応をして良いはずだ。それなのに、少女が世界の全てを欺いているかのよに、誰ひとりこちらへ意識を向けなかった。
「あなたは……?」
漸く絞り出した佳也子の声が全ての言葉を紡ぎ出す前に、目の前の少女が首を振った。
「わたしじゃない。わたしが何かは重要じゃないの。何が起きたのか、何が起きているのか、わたしは知っているけれど、あなたはどう?」
少女の湖の様な黒瞳が、凛と揺れた。それと同時に周囲の世界が元に戻った。白い靄は晴れ、人々は生気を取り戻し、雑踏の音が佳也子の鼓膜を叩いた。
だが、その世界の誰も、少女の姿が無い事に気付かなかった。佳也子以外は。
佳也子は暫く呆然と立ち尽くし、それから胸の痛みが消えている事に安堵すると、足早に家までの道を歩いた。
胸の痛みが引いた事を理解した瞬間から、どんどんと恐怖が膨らんでいた。何故誰もあの少女の事を気に掛けなかったのか。何故あの少女と自分以外の世界が静止したのか。そしてあの少女は何なのか。考えれば考えるほどに恐ろしかった。
佳也子は利口だった。勉強という面でもそうであったし、勉強では計れない人間性、社交性、もっと根幹的な部分でも頭の良い少女だった。だからこそ、超常現象などと言う物を頭から信じてはいなかったし、ホラー映画は作り物だと理解していた。心霊現象の話なんかは嫌いではなかったが、それでもその全てを鵜呑みにして怖がるような稚拙さは持ち合わせていなかった。
それなのに、佳也子は恐ろしかった。理由など無い。佳也子の意志とは無関係に、胸の奥底から、もしくは脳髄の根元から、その恐怖はインクの染みの様に広がっていった。佳也子にとって発作以外でこの様な理由の無い恐怖が湧き上がるのは初めての体験だった。
これが一夜の金縛りや、夜道で少女の様な何かがふっと消えた、程度だったなら佳也子は心霊現象に遭遇したのか、程度に割り切っただろう。だが、あの少女は確かに佳也子自身に話しかけていた。意志を持って、目的を持って佳也子に接触してきた。そう思えばあの少女の人外の美しさも納得がいった。あの美しさは、人を惑わす為にあるんだ。佳也子は殆ど無意識にそんな事を考えた。
既に昨夜の夢から覚めた時の解放感、自分が生まれ変わった様な高揚感は消え失せていた。あるのは背骨の芯が冷え切る様な恐怖ばかりだ。
気付くと、佳也子は自宅の前に立っていた。亘理家からは母の作る夕食の良い香りが立ち上っている。今夜の夕食は魚料理の様だった。
「ただいま」
そう言って家に入って、佳也子は今日の出来事を両親に話すべきか考えた。
確かに一連の出来事は恐ろしかった。だが、佳也子にとってあの少女の恐怖と、それらを話す事で両親に与える焦燥と心配と、両親が気を病んでしまう恐怖を比べればもはや答えは火を見るよりも明らかだった。
結局、佳也子は「おかえり」と笑みを結ぶ母にもう一度「ただいま」と告げて、いつものように着替えをして風呂へ向かった。それはいつも通りの、佳也子にとって、亘理家にとって、殆ど毎日繰り返される日常だった。そのはずだった。
* * * *
気が付くと、佳也子はソファに仰向けになっていた。モダンなリビングは馴染みのない部屋で、そこが誰の家で、何故自分がそこに居るのか、佳也子は皆目見当もつかなかった。
上体を上げて足の裏に冷たいフローリングの感触を確かめても、やはり佳也子はそこが何処だか分らなかった。
確かに佳也子は一瞬前まで自宅の浴室でシャワーを浴びていた。心地よい温度のお湯が一日の勉学の疲れを解す感触にうっとりとしながら、父と母が若い頃に流行ったのだというポップソングを口ずさんで居た。それなのに、次の瞬間にはこのソファの上に居た。今自分が服を着ているのも不思議で仕方が無かったし、自分の体が全く濡れていないことも不思議だった。
だがそれ以上に不思議なのはその部屋で、ほんのりと百合の様な香りがして、僅かにひんやりとした湿度が有って、それから曇りガラスを透かす日光の様な柔らかい光が大きな窓に掛けられたレースのカーテンを通して部屋全体に染みわたっている。部屋の隅には大きな観葉植物があるが、部屋にあるのはその観葉植物と、今佳也子が腰かけているソファだけだった。兎に角、不可思議な部屋だ。
それなのに、佳也子には不思議と不安はなかった。光量が充分だったからかも知れない。ひんやりとした室内が心地よかったのかも知れない。音がしないことも、誰もいない事も、佳也子は少しも怖くなかった。
嗚呼、帰らなくちゃ。
佳也子が最初に考えたのはそんな事で、自分が今までシャワーを浴びてたはずだ、などと言う現実は一切疑問として上がらなかった。
佳也子は立ち上がって、ひんやりとしたフローリングの上でぺたぺたと自分の足が音を立てるのを聞いた。しかしその足音はすぐに止んだ。いつの間にか部屋の戸は美しい少女によって立ち塞がれたいた。
「駄目よ。まだ駄目」
自分を見つめてそう呟く少女に、佳也子は身を強張らせた。自分の心臓が早鐘の様に鳴り響き、脳内ではこの少女は危険だと言う信号が明滅していた。その少女は自分たちとは違う世界に居る。その確信が佳也子にはあった。それと同時に視界が白く霞み、まるで靄がかかったように周囲を乳白色に包んだ。あの発作が起きているときの様な感覚。
だがなぜか胸の痛みはない。こんなにも心臓が恐怖に打ち鳴らされているのに。
「佳也子、駄目よ。ここでその力を使っては駄目。いいえ、駄目ではないけれど意味が無いわ」
少女の声は小さかったが、ひどく透き通って、聴く者の精神の奥底に突き刺さる鋭さを備えていた。鼓膜を突き抜けて脳髄の奥深くに刺さる様な衝撃と共に、佳也子は我に返った。そうして、しっかりとこちらを見据える大きな瞳を見つめ返した。
不思議なことに、恐怖は引き潮の様に醒めていた。見も知らぬ、得体のしれない少女に名前を呼ばれたのに、佳也子は何故だか少しも少女の事が感じていない。
そして気付いた時には視界の乳白色も消え失せて居ることに気付く。嗚呼、あれは発作の症状じゃなかったんだ。そんな思いが、考えが、目まぐるしく佳也子の脳内を駆け巡った。
「佳也子、座ってわたしの話を聴いて。聴いてくれたら、あなたはいつでもここから出る事が出来るから。それまで、少し我慢して」
そう言って目の前の少女は佳也子の目をしっかりと見据えたまま、小さな手と細い腕で先ほどまで佳也子が転がっていたソファへと誘った。
言い知れぬ品格と言うか、威厳と言うか、それが何であるにせよ、佳也子は少女に逆らう事が出来なかった。ただ導かれるまま、誘われるままにソファへ腰を下ろし、ちょうど同じぐらいの高さになった少女の瞳をじっと見据えた。
少女はしばらくの間、佳也子の瞳を覗き込み、それからゆっくりと口を開いた。ぽつりぽつりと、薄い唇から小さな、透き通った声が漏れ聞こえ始める。
「あまり時間が無いから、詳しい事は後回しにするわ。佳也子、わたしはあなたに一つだけ頼みごとがしたいの。勿論、それなりのお礼、報酬は用意するわ。きっとその報酬はあなたにとってこれから必要になる」
そこまで言って、少女は人差し指を立ててその小さな手の華奢な指を佳也子の唇へ押し当てた。口を開きかけていた佳也子は、おとなしく少女の話が終わるのを待つことにした。
「あなたが訊きたい事はわかるわ。何故自分なのか、どんな頼みなのか、そして報酬は? そんなところでしょう? だけれどその全てを話すには今は時間が無い。だから今日、今この場ではこれだけ知って欲しいの」
そこまで言って、少女は佳也子の唇から指を離した。その小さな両手を佳也子の頬に添えると、ずいと身を乗り出す。危うく、二人の唇が触れ合うほどに。
「わたしを恐れないで。わたしはあなたに用があるのだけれど、決してあなたに危害は加えないわ。それから、決して自分を疑わないで。自分に対して疑問を持てば、それは永劫に解けない災禍の様にあなた自身を蝕む。そうなってしまえば、あなたはこれからずっと呪われた一生を送ることになる。いいえ、むしろ生きているとは呼べなくなるわ」
そこまで言うと、少女はおもむろに踵を返した。肩越しに佳也子を見やって、小さく笑みを結ぶ。
「全てを話す時間はないけれど、何か訊きたいことがあれば答えるわ」
そんな言葉に、佳也子は少しだけ悩んで、それからとても大切な疑問が口を吐いた。
「あなたは?」
そう、佳也子は少女について何も知らなかった。名前も、年齢も、それから少女が何なのかも。
対して少女は少しだけ拍子抜けしたような表情を作って、少しだけ悩むように眉根を寄せて、それからもう一度佳也子の瞳を覗き込むように見つめながら口を開いた。
「夢魔よ。わたしは夢魔」
短い少女の言葉に、佳也子は小首を傾げる。
「ムマちゃん?」
そう聴き返すのと殆ど同時に、佳也子の視界がぱっと開けた。いや、もともと視界は開けていたのだが、世界そのものが普段の明瞭さを取り戻した。
それから、聞きなれた声が鼓膜を揺さぶる。
「佳也子、風邪ひくわよ! 早く上がってきなさい!」
気付けば佳也子は風呂の湯に浸っていた。どうやら眠っていたらしい。僅かに開いた浴室の戸から、心配そうな母の顔が覗く。
だんだんと鮮明になる思考と、白昼夢の様な少女との邂逅とが脳内で混濁して、佳也子はのぼせたようにふらふらと立ち上がって、母に頷いた。何と言えば、何と答えればいいのか、すぐに言葉が出てこなかった。
しばらく母は心配そうに佳也子を眺めていたが、佳也子が何も言わないので、そっと浴室の戸は閉められた。佳也子の脳内にはいまだに少女の言葉が反芻していたが、それもすぐに再び熱い湯を吐出し始めたシャワーの音にかき消されていった。それこそ、白昼夢の様に。
熱いシャワーが洗い流したはずの疲労感が帰宅時よりも一層体の芯に染み込んだような気怠さを抱えたまま、佳也子は出来る限り普段通りの生活を演じた。そう、演じた。
風呂を出て、少しだけ母と世間話程度にその日一日の事を話し、帰宅した父に声をかけて、家族三人で食卓を囲んで……それらは全て演技だった。そう感じる理由はわからない。ただ、あの少女、夢魔と名乗った少女が関係している事だけは漠然と理解が出来た。と言うよりもそれ以外に考えられなかった。そう、その時まで、佳也子がいつもより少し早めに床について、重りを付けたまま洋上に投げ込まれたように眠りに落ちるその瞬間までは。
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- Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.4 )
- 日時: 2022/06/04 21:08
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
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寒いと言うほどでもないのに否応なく鳥肌が立つような風を剥き出しの腕に感じて初めて、佳也子はまた自分が自分の知らない場所に居る事を知った。
そこはどこかの廃ビルの様な場所で、地上からどれ程の高さにあるものか、遥かな摩天楼を僅かに眼下に見下ろす事が出来る場所だった。忘れ去られた空中都市の様な、乳白色の淡い靄に包まれ世界。
佳也子が立つその場所は、天井も足元も所々に穴が開き、僅かに鉄骨が覗いて、さらにはどこから漏れ出しているものか、足元には滔々と水が流れて眼下の地上へと霧散して落ちていく。そして同じように生気を感じない周囲の荘厳な魔天楼共々、過ぎ去った崩壊の傷跡を外界の目に晒すままにしている。
「今度はゆっくり話せるわ。あなたが話したいかどうかは分からないけれど」
小さな声が聞こえた。それだけは既に知っていて、かつ予見しきっていた少女の気配を背後に感じた。振り向けば確かに夢魔と名乗った少女が居る。
ゆったりとしていてフリルが可愛らしいワンピース調のシャツとジーンズ地のホットパンツと言う装いの少女は、この寂寞を欲しいままにする廃墟にはあまりに異質で、それでもその短く切り揃えられた艶やかな髪や物憂げな桜色の薄い唇が醸す哀愁はしっとりとその美しさを寂れた廃墟を取り巻く乳白色の靄を透かして放っている。
佳也子はもう、何故この少女が自分を呼びだすのかがわかっていた。この少女は自分に何かをさせたいんだ。その何かが何であれ、眠りに落ちる度に現れるこの少女から逃れる術は今のところ無い。それなら、無駄に足掻くよりも話だけでも聞いてみようと佳也子は考えていた。
そう、佳也子は利口だった。世の中には理不尽でも抗えない事が存在することを充分に理解していた。例えば、何一つ悪い事をした訳でもないのに、下校途中に乗用車に撥ねられて生死の狭間を彷徨う事になる、そんな抗えない、望まなかった理不尽が存在する事を。
「話を聞くだけでいいの? ムマちゃんは、私が話を聞いて、その後どうするの?」
今度こそ最初から恐怖も不安も感じなかった佳也子は臆することなくすっきりと言い放った。オペラ座の役者の様な、清々しいまでに凛とした声で。
対して夢魔と名乗った少女は少しだけ驚いた様な表情を作って、それからすぐにその蠱惑的な唇を笑みの形に変えた。
「話を聞くだけで良いわ。その後の事を決めるのはわたしじゃない。佳也子、わたしはあなたに何一つ強要しないわ。こうしてわたしに逢う事以外はね」
そこで一端言葉を切って、少女はまたじっと佳也子の瞳を覗きこんだ。冬の湖の様な澄んだ黒瞳には、その湖を覗きこむ佳也子の姿が映っていた。それは正しく深淵を覗きこむ時は必ず深淵に覗かれている、その通りだった。少女の眼を見つめ、自分の意志を伝える為には、少女の瞳に見つめられ、その黒瞳の奥に渦巻く少女の意志に交わう必要があるのだった。少女もこの場所も恐れて居ない、自分はしっかりと自我を保って少女と対峙している、その意志を凛と示す。それだけがこの少女と対等に渡り合う術だと佳也子は理解していた。
対して少女はしっかりとその意志を携えた佳也子の瞳を直視した。言葉もなく、それでいて自身の存在の全てを賭けるような、ただ見つめ合うだけの攻防。意志と意志が縦横にぶつかり合う一瞬。
それでも佳也子は最後まで視線を外さなかった。少女が長い睫毛を揺らして瞬きをするその瞬間まで。そして少女が今度は柔らかな愛らしい笑みを浮かべるまで。
「それで良いのよ佳也子。あなたのその強い意志は、きっとあなたを救うわ。色々な、例えばわたしの様なこの世生らざるモノどもから。もしくは、わたしをこんな存在にした様な、現実に起こりえる理不尽な宿命から」
少しだけ自嘲を含む言葉を零して、少女は肩の力を抜いた。その姿は本当に愛らしい、それでいて何処にでも居る幼い少女そのものだった。そんな少女が、この世に存在すべきでない『何か』だと、佳也子はにわかに信じられなかった。いや、信じたくなかった。こんなに美しく、愛らしい少女が、既にこの世を去った存在だと。
「やっぱり、ムマちゃんは幽霊なのね。何となく、そんな気はしてたけど」
つられて笑顔になる佳也子がそう言うと、少女は少しだけ当惑した様な表情を作って、それから少しだけ呆れた様に肩を落とした
「あのね佳也子、わたしの名前はムマじゃない。わたしは夢魔だけれど、名前はちゃんと別にあるの。夢魔よ、夢魔、夢の、悪魔で夢魔。幽霊と言えば幽霊だけれど、恐らくあなたの思う幽霊と、わたしたち『この世生らざるモノ』はきっと大きく違うわ」
そんな少女の声に小首を傾げて、佳也子は初めて少女の言う夢魔は名前ではなく存在の名称だと感付いた。ああ、そうか、そう言えば少女の名前を尋ねた事は無かった。そんな事を思いかえして、佳也子は少しだけ内心で不貞腐れた。名前は尋ねて無いけれど、名前を教えてくれても良いじゃないか。
だがそんな佳也子の考えなどお構いなしに、少女は再び口を開いた。
「まあ良いわ、わたしが夢魔である事は変わる事の無い事実よ。だから、本題に戻りましょう。さっきも言ったけれど、わたしはあなたに一つだけ頼みたい事があるの。その頼みを、わたしの望みを叶えてくれるなら、わたしはあなたに相応しい報酬を支払う。そうね、あなたを苦しめる発作、胸が締め付けられるように痛み、視界が錯乱し、吐き気と眩暈に苛まれるその発作を、あなたの人生から消し去ってあげる。帰り道にあなたが発作を起こした時の様に、わたしにはその発作を消し去る力がある。それでどうかしら?」
今度は佳也子に視線を向けず、崩れた壁の先に屍を晒す魔天楼の群れを眺めながら、少女は冷たい清流の様に淀みなく言葉を紡いだ。美しいその姿に相応しい、聴く者の心を掴んで離さない、清々しい言葉の流れだった。生前はさぞ大人達を驚かせた事だろう。演説が仕事の大人達さえ舌を巻きかねない、一種のカリスマ的な雰囲気を少女は備えていた。姿さえ目にして居なければその言葉を発する人間が、まだほんの小学生程の少女だなどと誰ひとり信じないだろう。
そんな少女の声を聞きながら、佳也子はこの少女の望みは何かと思い巡らせた。自分の肉体だろうか? 既に死んでいる少女が求めそうな最もたる物だが、それではこんな風に頼みごとなどする意味が無い。では何か、もっと特殊なものだろうか? だがどんなに考えてみても、そんな物は何一つ持ち得ていなかった。だから佳也子はすぐに少女の言葉に応える事が出来なかった。
だが少女はしつこく問う事無く、少しだけまた自嘲的に笑って言葉を続けた。
「どうかしら、の前にわたしの望みを伝えるべきね。簡単な事ではないけれど、あなたならきっとわたしの望みを叶える事が出来る。勿論わたしもちゃんと手伝うわ」
そこでもう一度言葉を切って、少女は大きく深呼吸をした。少女の中で、何か、常人には計り知れない何かが蠢いて、相反し合って、そして少女を苦しめて。そんな苦しげな想いを乗せた深呼吸だった。
「わたしを殺した男を探して。わたしをこんな風にした、こんな存在にした男を探して。それが、わたしの望み」
覚悟を決めた様にそう言った少女の声は安堵さえ含んだような、自分自身を保ち切った達成感のような、複雑な音色で紡がれた。
そして少女の言葉を合図にしたかのように、ぼんやりと視界がふやけて歪んで、少女の姿も霞んで色褪せた。
「時間になってしまったみたいね。少し考えてみて。わたしは勿論、自分でも最大限あの男を見つける努力をするわ。あなたが何をすれば良いのかも教えてあげる。その対価は発作からの解放よ、悪くないでしょう?」
遠くなる少女の声を聴きながら、佳也子の視界はジリッと、熱した鉄でも押しつけた様な感覚と共に白く染まった。佳也子の脳内には、まるで毒の様に染み込んだ少女の胸の奥に渦巻く憎悪が渦巻いていた。自分を殺した相手へ手向けるべき、繰り返し育て、肥やしてきた無限の憎しみ。それに似た憎悪を、少なからず佳也子は持ち合わせていた。そう、佳也子の脳内に巡る少女の憎悪を、佳也子は紛れもなく持ち合わせていた。それは佳也子の意志などお構いなしに発作と共に肥大化して、鏡の前で自分の身体を眺めれば、瞳の奥に煉獄の炎の様に燈った。少女が佳也子を選んだ理由が、佳也子には何となくわかる気がした。
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白く焼きついた視界が深夜の寝室の天井を映し出すのと、佳也子の意識が覚醒するのはほとんど同時だった。覚醒した意識の中で、夢魔と名乗った少女の言葉を思い出すのも。
『わたしを殺した男を探して』
余りに唐突な願いだった。だが、抗えない何かを感じた。
不思議な事に、あの夢魔と名乗った少女がやはり人外の存在だったとわかった今、微塵も恐怖を感じなかった。その理由は少女の容姿が美しかった事も、特段危害を加えられた訳でも無いことも、それから昨日あの少女が発作の痛みを消してくれたこともあるだろうが、何よりもあの少女の凜とした強い意思が、少女の目的は佳也子自身ではないことを感じさせたからかも知れない。
それに、少女が提示した対価は佳也子にとって魅力的だった。まるで病の様に防ぐことが出来ない発作を消し去る。少女は具体的な方法を語らなかったが、あの少女にその力があることは既に証明済みだった。
佳也子は少しだけベッドの中で伸びをして背筋を伸ばすと、カーテンを開けて、まだ朝焼けの昇りきらない住宅街を見つめた。それからベッドを抜け出して、冷たいフローリングの床を探りスリッパの中に足を突っ込む。毎日繰り返す、変わらない日常。簡素なドレッサーの前で髪を梳かして、ひんやりとした肌着に袖を通して、玄関に出て新聞を取る。そう、佳也子の、亘理家の変わらない日常。
大概は佳也子が一番に目覚めて、次いで母が朝食の支度をしに起きてくる。父はどちらかと言えば早起きが苦手で、佳也子は殆ど毎朝父に声をかけて起床を促した。
佳也子の父は出来た男だった。亘理家の長男で、職業は大学教授、専門は古典。性格は穏やかで、理想の父として、夫として必要な物は全て持っていた。そんな父の殆ど唯一の欠点が、朝起きれないと言うもので、佳也子は父のそのひどく庶民的欠点が好きだった。
「お父さん、朝だよ」
物心着いたら頃から佳也子は早起きで、かれこれ十年と少し、家に居る日は毎日そう言ってきた細やかな習慣。そうして十年と少しそうだった様に、もぞもぞと寝返りを繰り返す父が上体を起こすのを認めてから朝食を摂る。それから急いで身支度をして出ていく父を見送って、母に晩御飯の内容を尋ねて、母に見送られながら学校へ向かう。毎日繰り返してきた、変わらない日常。
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- Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.5 )
- 日時: 2022/06/05 23:37
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
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ふと気付いた時、佳也子はまた昨夜の廃墟と化した摩天楼に佇んでいた。ここへ佳也子を呼ぶのは他の誰でもない、夢魔と名乗った少女だ。
「あなた、眠りが浅いのね。あなたとこうして夢で逢うのは大変よ。他人に夢を見せるのも、それはそれで疲れるのだけれど、他人の夢に入り込むのも、それはそれで大変なのよ」
そう叱責するような声が聞こえて、佳也子は背後の少女に向き直った。
文句を言われても、それは決して佳也子が頼んだ訳ではないので答えようが無いのだが、少女の方はただ言ってみただけらしく、特段怒っている風でも疲れている風でも無さそうだった。尤も、既に死んでいる少女が未だに疲れる事ができるならばの話だが。
「ムマちゃんは、好きに私の夢に現れたり、私に思うまま夢を見せることが出来るの?」
佳也子はふと思った疑問を投げ掛けてみるが、少女は答えずに僅かに肩を落とした。どこか疲れた様な、花の盛りに向かう美しい少女の容姿には似つかわしくない仕草だった。
「わたしに何が出来て、何が出来ないかを説明するのは構わないのだけれど、順を追って説明させて頂戴。あなたは眠りが浅いから、長時間こうしてコンタクトし続ける事が出来ないの。だから断片ずつでも、順を追って説明するから、しっかりと聞いて」
少女の抗うことを許さない声に、佳也子は無意識に頷いた。尤も、佳也子には少女の話を聴く以外の選択肢が無いので、徒な問いを投げ掛けて彼女の機嫌を損ねるほど佳也子は愚かな女ではなかった。
「まず、わたしの目的は昨夜伝えた通り。わたしを殺した男を探して欲しいの。あなたは探すだけ、その先は何もしなくて良いわ。わたしからの対価はあなたを苦しめているその発作、唐突に襲う胸の痛みを消してあげる。恒久的にあなたから発作という症状を消し去ってあげる。簡単でしょう? あなたはある男を見付けて、わたしはあなたから発作を取り除く」
そこで少女は一寸言葉を切って、じっと佳也子の目を覗き込んだ。少女が度々行う、儀式めいた視線の交錯。ただそれは仔猫の様な甘えた様子でも、訴える様なものでもない、自分の意志を相手の胸の内に突き刺す様な力強い視線。
佳也子は黙ってその目を覗き返して、ゆっくりと頷く。
それに満足したように少女は桜色の薄い唇で笑みを結ぶと、少女は視線を崩れた壁の向こうに見える薄靄の中の摩天楼へと向けた。
「良い子よ佳也子。それじゃあ、あなたに具体的にどうわたしの探す男を見付けてもらうか教えるわ」
そう言った少女に、佳也子は首を振った。佳也子自身、その少女との取引は成立させるつもりだったが、まだ大事なことを聞いていなかった。
「ムマちゃんの申し出は受け入れようと思う。でもね、先に、どうして私なのかを教えて」
佳也子の声は常に少女に劣らず凜としていた。そしてその声にもやはり少女に劣らぬ抗えない何かが備わっていた。
話を遮られた事に少女は僅かに不快な表情をしたが、その表情はすぐに普段のあまり感情を携えない表情に戻った。
「良いわ、教えてあげる。ただ、それは今じゃないわ。今夜はゆっくり話したいから、深い眠りに落ちれる様にしておいて頂戴」
少女の声を遠く聞きながら、佳也子の視界は白く焼き付いた。少女と繋がり逢う僅かな睡眠から目覚めるとき、佳也子はいつも感じた。
『嗚呼、またあそこへ戻るのか』
それは意識が覚醒している間の方が虚像の様な、少女との逢瀬の時間こそが、本来自分が居るべき場所の様な、不確かでどこか気まずささえ感じさせる不快な感覚。ここではない何処かへ、否応なく追放される様な、虚空に投げ出される様な。
「ねえ佳也、今日放課後って空いてない?」
ふと鼓膜が瑞穂の声を拾って、ようやく佳也子は現実へ還ってきた。それはいつも通りの昼休みで、恐らく傍目には佳也子は自分の席で物思いにでも耽るようであったことだろう。あの夢魔と名乗った少女はどうやら完全な睡眠状態でなくとも、眠りに落ちる下地さえ整っていれば佳也子の意識に夢として入り込めるらしい。
そんな事を考えながら、佳也子は瑞穂の言い出しそうな事と、それから今日の放課後の予定を思い出そうとした。結局、予定などというものは何もなかったのだが。
「空いてるよ」
短く、曖昧な笑みを浮かべて答えた佳也子に、瑞穂は目を輝かせた。
「あのね、今日の放課後に他校と練習試合があるんだけど、一人欠員出ちゃったから佳也に入って貰いたくて。もう部の方には話通してあるし、みんな佳也なら大歓迎だって言ってるから、もし佳也がヤじゃなければ頼めないかな?」
そう一息に捲し立てた瑞穂に佳也子は僅かに苦笑をこぼして「良いよ」と返した。
瑞穂はバレーボール部所属で、そこそこ優秀な部員だった。ただ学校としての成績はそう優れたものでもない無かったが。
入学当初から、瑞穂は何度か佳也子を勧誘したが、佳也子は頑なにそれを断った。自分の発作や過去やトラウマにこれ以上誰かを巻き込みたくなかった。その代わり、欠員が出た際には何度か補欠の役を引き受けたのだが、それ以降、他の部員さえ機会がある度に佳也子を勧誘した。それほどに佳也子の運動神経とセンスは卓越していた。
そんな佳也子が申し出を受けてくれた事に喜んだ瑞穂は満面の笑みで「ありがとー!」と叫んで、それから慌ただしく何処かへ消えた。佳也子はこれで少なくとも今日は普段よりは深い眠りにつけるだろうと内心で微笑んだ。
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久々に本格的な運動をして溜まった疲労は、すぐに佳也子を心地よい眠りの淵へと導いた。
いつもより少し遅く帰宅して、いつもより少し長く熱いシャワーを浴びて、いつものように家族で食卓を囲んで、それからすぐに佳也子はベッドの中に潜り込んだ。それと殆ど重なる様に、視界は瞼の裏の暗闇ではなくあの摩天楼を臨む廃墟を映した。
「ちゃんと深い眠りに落ちる努力をしたのね」
珍しく笑みを含む様な少女の声が聞こえると、佳也子の腕にひんやりとした陶器の様な感触が伝わった。少女が腕を絡めたと理解するより早く、佳也子の全身が硬直する。
「ごめんなさいね。私情で申し訳ないのだけれど、今夜はわたしの姿を見ないで頂戴。月が低い日はどうしても身繕いが上手くいかないの」
少しだけ物悲しい色合いを帯びた声に、佳也子は黙って頷いた。その感覚を、佳也子も知っていた。今でこそ、そこまで気にならなくなったが、小さい頃は胸の傷を見られるのが苦痛で仕方がなかった。鎖骨の下から臍の上まで、生きていたのが不思議な傷が、二度と消えることのない、望まなかった刻印が、どれ程人の魂に負の感情と、絶望を与えるか――。だから佳也子は、この蠱惑的な美少女も、本来の姿は幼くして殺された惨たらしい姿なのだろうと悟った。
「何故自分が選ばれたのか、訊いたわね。あなたのそんな所、多くを語らずとも相手の意を汲めるところだとか、律儀に深い眠りに落ちる努力をするところだとか、そんなあなたの性分は大きな理由のひとつよ」
少女の言葉を聞きながら、佳也子は瞬時に悟る。他にもっと大きな、それから本質的な理由があることを。
「他にあるのね、私が選ばれた本当の理由が。それは過去のせい? この傷痕や発作のせい?」
珍しく、急かす様に問いかける佳也子ではあったが、少女は直ぐには答えずに佳也子の長い髪に指を通した。
すぐ背後に少女が居るのは気配でわかる。髪を透く陶器の様な細くて冷たい指も感じる事が出来る。それなのに、佳也子はひどく戦慄した。背中を嫌な汗が流れて、膝が震えるのがわかった。それほどに禍々しい気配を、巨大な憎しみの気を、本来の姿の少女は放っていた。それをどこか他人事の様に感じながら震える自分を、佳也子は妙に冷静に理解する。
「佳也子、わたしがあなたを選んだ理由はね、あなたの持つ能力よ。勿論、あなたの過去はわたしが支払うべき対価を用意する上では好都合だったけれど。」
そう言うや否や、少女はずいと佳也子の背を押した。ひんやりとして骨張った小さな手が、圧倒的な力強さで佳也子を突き飛ばす。勿論、押された佳也子の目の前にあるのは遥かな虚空に乳白色の靄を湛える崩れ去った外壁だ。見上げても見下ろしても、生気の無い摩天楼と、それを取り巻く白い靄しか存在しない奈落だ。
「やめっ!」
やめて、と声が出るよりも早く、佳也子の脚は虚空を踏んだ。まず右足が床を踏み外し、そのまま崩れる様に左足も後を追う。
だが、佳也子は怖れなかった。驚きこそすれど、その胸には一片の恐怖も存在しなかった。理解したのだ。ここは夢の中だと。
正確に言うならば、佳也子が理解したのはその空間が夢である、と言うことではない。もっと重要で、それから少女が佳也子を選んだ最大の理由。その夢だと思われていた空間は佳也子自身が作り出した場所だと。
音を立てて少女の手が佳也子の腕を掴んだ。滑落した体が空中で制止する。
「霊縛、わたしはそう呼んでいる。佳也子、あなたの、その力を。わたしたちこの世生らざる者共を捕らえ、留める、その力を。あなたは馬鹿じゃないから、もうわかったでしょう? わたしは確かにあなたを選んだ。だけれど最初にわたしを捕らえたのは、あなたなのよ」
腕一本で宙吊りにされたままの佳也子に、少女は透き通った声で言った。どこか楽しそうで、それから嬉しそうな声音は、事実に気付いた佳也子の反応を見透かし、嘲る様な――つまりは夢魔を名乗る妖かしにふさわしい――それでいいてどこか無邪気で蠱惑的な雰囲気を纏う少女の声。そして、それを祝福するかの様に眼前に広がる漆黒の闇。
少女の腕に助けられたまま、佳也子は乳白色の靄が霧散した闇、まさに深淵の如く廃墟を飲み込む闇を眺めた。
先ほどまで広がっていた白い世界は、どうやら佳也子の力、少女の言う『霊縛』なる力が作り出したものらしかった。原理などわからない。ただ、感覚や、全身の神経の奥底で理解出来るのは、今眼前に広がる深淵こそが少女が入り込んだ夢であり、あの乳白色の靄と共に周囲を照らしていた不可視の光源こそが、佳也子の能力によって繋ぎ止められた現に他ならないと言うこと。それが、ただ其処に在ると言うこと。
「私の力が、夢と現実を繋ぎ止めているの?」
少女に問いかけ、少女の方へ目を向けた時、佳也子は少女の言葉を思い出した。今夜は、姿を見るなと言う言葉を。
だが時すでに遅く、佳也子の視界はしっかりと少女の姿を収めてしまっていた。じっとりと張り付く様に少女を取り囲む黒い何か――水蒸気の様な質感に見えるが、ずっと重量の有りそうな何か――と、そこに浮かぶ血走った無数の目玉、それから、その黒い何かのどこか、黒い何かの全ては視界に収まっているのに、何処とも知れぬ場所から溢れだして、少女に絡みつく臙脂色の包帯の様な布状の何か。それから、その布の内に隠された、惨たらしい美少女の姿。腕は爛れ、下半身は血に塗れ、髪はその血で固まり束になって、片方を虚空が埋める眼の周りに張り付いていた。そして何より、その無残な全身を覆う無数の傷跡。文字の様に、文様の様に刻まれた赤黒い刻印。
「見ないでと言ったのに」
そう、小さく呟いて、少女はぐいと佳也子を引き上げた。
身長は佳也子の三分の二、体重は半分でもおかしくない少女とは思えない力――もっとも、ヒトの常識を当てはめるべきではないが――で引き上げられた佳也子は、暫く身動きが取れなかった。勿論少女の怪力にも驚いたが、それ以上にあまりに無残な少女の姿に、佳也子の精神の多くの部分が動揺と静止を余儀なくされた。
「酷いものでしょう? ヒトはただ死んだ程度、ただ殺された程度ではわたしの様な存在にはならないわ。強い恨みを持っていても、わたしほど醜い存在にはそうそうならないの。そのうち、あなたにも見える様になるわ。霊縛の力を自在に操れるようになれば、わたしの様なこの世生らざるモノどもが。だけれどわたしほど醜い彼らには滅多にお目にかかれないでしょう」
少女は淡々とそう言って、佳也子の視界を逃れる様に佳也子の背後へ回った。佳也子が暫くは身動きが取れないだろうと察したものかもしれない。
「わたしは一息に殺されはしなかった。あらゆる拷問を受けて、あらゆる凌辱の限りを尽くされ、そして全身を切り刻まれた。こうなってから気付いたけれど、わたしの全身に刻まれたのはとても古くて、とても威力のある呪いの詞よ。わたしは襤褸切れの様にズタズタにされて、呪いの詞を刻まれながら犯し殺された。わたしの望み、わかるでしょう? わたしをこんな存在にした男に、わたしは必ず報いを受けさせるわ」
そっと佳也子の髪に指を通しながら、それこそ怨嗟の、まるで煉獄の業火が滾る様な無限の憎しみを込めた小さな声で少女は語った。そしてその無限の憎しみの中に隠された、下火の様に燻って、いつまでもその憎しみを胸の内に留めている悲しみに佳也子は気付いた。自分自身が感じた、理不尽を呪い、その理不尽に抗えずに傷ついた悲しみ。きっと、少女が佳也子を選んだ本当の理由。
「ムマちゃんごめんね。見る気はなかったの。私も、人の目から隠したいものがあるから、余計にわかるの。ごめんね」
ぽつりとそう言った佳也子に、少女は静かに笑った。くすりと、小さく。
「佳也子、優しい子。でも覚えておいて、わたしたちこの世生らざるモノどもは優しくされると困るのよ。優しさ、思い遣り、愛情、友情、そう言った正の感情を向けられ、それに感化してしまえば、わたしたちはこのままでは居られない。多くのこの世生らざるモノどもは形も持てずに彷徨うだけだから、そう言う感情を向け、赦し、受け入れる事で鎮める事が出来る。あなた達ヒトの言葉で言えば『成仏』するの。だけれども、わたしの様に目的を持った、醜くともこの願いを叶える事が出来る形を持ったモノどもは正の感情を受け入れると力を失う。わたしたちは負の感情そのもので出来ているから」
そこで言葉を切って、少女は佳也子の顔を後ろからぐいと振り向かせた。佳也子の目の前にはいつもの美しい少女が居た。夜明けが近いのだろう。魔性を解き放つ時刻が終りに近づいているのだ。
少女は佳也子の瞳をじっと覗き込み、そして小さな笑みを作った。
「でも佳也子、これだけは忘れないで。あなたにとってもきっと大事な事だから。わたしたちは、負の感情を取り込み、強く大きくなる。だけれども、わたしの様に目的を持って、この呪われた身体と精神と心と力を使うにはね、この溢れだす憎しみを抑制しなければならない。堪えるのではなくて、飼い慣らさなくてはならないの。必要な時に、いつでも、胸の内から憎しみと怒りと悲しみと、言い表せない内側の傷と毒とを解き放つ事が出来なければいけないの。覚えていて。忘れないでいて。大切な事だから」
白く焼けつく視界の中で遠くなる声を聞きながら、佳也子はずっと少女の瞳を見つめ返していた。自分の中の憎しみを汲み上げながら。時が浄化したと思っていた――そう思いたかった――癒える事の無い悲しみと、消える事の無い傷跡を想う憎しみ、そして怒りが心の中に染みの様に広がるのを幇助する様に、僅かな断片さえ残らず拾い上げながら。少女の冬の湖の様な黒瞳へ、この胸の火焔が映る様にと。
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