複雑・ファジー小説

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ミストゥギア
日時: 2022/06/26 22:53
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)

この世界は『霧』に包まれている。

全てを惑わせ、全てを狂わせ、全てを覆い隠す。

これは『霧』を晴らす物語。





<目次>
EPISODE1『The world is dominated in mist(この世界は霧に支配されている)』
第一話 >>1
第二話 >>2
第三話 >>3
第四話 >>4
第五話 >>5
第六話 >>6
第七話 >>7
第八話 >>8

Re: ミストゥギア ( No.1 )
日時: 2022/07/03 00:33
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)

 ――――この世界は『霧』に支配されている。

 それは何時からだったか。人々の記憶と記録からはとうの昔に消え去った、古き時代。
 広く、自由だった世界に『楔』が打ち込まれた。鈍い音を立てて駆動する歯車と、時計の針が合わさったような何かが、森に、野に、山に、海に突き刺さった。
 世界が震える。突き刺さった『楔』の根本から、得体の知れぬ『霧』が世界を満たし始める。

 水が冷えて生まれる霧ではなかった。その『霧』に包まれた生物は迷い、戻れなくなる。果てには、おおよそ進化の過程を無視したような生物に成り果てる。
 人々の生存圏はあっという間に狭まり、僅かに残された『霧』に包まれぬ大地で生きる事を余儀なくされた。

 ――――この世界は『霧』に支配されている。


 
 それでも、確かに人々は生き続けている。



 ◆



 その日、世界が震えた。

 階層都市『ヴェルドミッテ』。『霧』に包まれた世界で、指で数えられる程しかない人々の生存圏の一つ。その下層――貧民街スラムと呼ばれる一区画は、喧騒に包まれていた。
 人々の戸惑う声。高らかに鳴り響くサイレンの音。警告を表す赤の光。それらが日常的な光景でない事は、困惑で満たされた雰囲気が如実に示している。

「散れ! 散れ! 『霧』に飲み込まれたいのか!」

 コンクリートの住居が立ち並ぶ、決して広いとは言えない路地。そこに所狭しと立った人々の視線は、はるか路地の先に見える『霧』に集約されていた。
 人々……いや、野次馬に対して大声で警告しているのは、『霧』と野次馬の間に壁のように立っていた、物々しい装備を全身に纏った人々だ。
 鋼鉄の警棒。カーキ色の軍服。顔全体を覆う、機械的なヘルメット――画一的な装備を纏った彼らの腕に巻かれた腕章には、十字のシンボルが刻まれている。これは、『ヴェルドミッテ』における警察組織――通称『エニグマ』の所属である事を表していた。

「どけ、どいてくれ!」

 声を荒らげながら、野次馬をかき分けて、『エニグマ』の隊員と同じ装備に身を包んだ一人の青年が飛び出してくる。繰り返す荒い呼吸、汗で額に張り付いた赤い髪。青年が、この場まで全力で走ってきた事は容易に伺えるほどの様相だった。

 青年の視線が、路地の奥に漂う『霧』に向かい――目が見開かれる。

「……嘘、だろ」

 掠れた声が喉から漏れる。唇が震え、ギリリと音を立てながら歯を食いしばる。そして何を考えたのか――フラつきながら『霧』へと向けて駆け出した。

「っ! 何をしているんだ、フレイ! 死にたいのか!?」

 路地を封鎖していた隊員の内の一人が、戸惑いの声を荒げながら青年――フレイの行手を阻む。抱き留められるように止められたフレイは、憔悴した様子で手を『霧』に伸ばした。まるで、その『霧』の中にある何かを求めるように。

「……どいてくれよ。あそこには――俺の家族が居るんだよ。助けねぇと……助けねぇと!」
「『霧』に飲まれた者は――もう助からない。分かっているだろう……!」
「どけっ、どけよっ!!」

 行く手を阻む腕を振りほどいて、フレイが飛び出す。だが――背後から組み付くように隊員に押し倒され、地面に押し付けられるように拘束される。
 隊員のヘルメットが、衝撃で外れた。押し込められていた銀の長髪が、フレイの頬を撫でる。

「……離してくれよ、ジーヴル。あいつらを――助けねぇと……」
「……ッ駄目だ。行かせる訳にはいかない……! 『時律機』の設置を急げ!」
「離せ……離してくれよ……」

 懇願する声。苦虫を噛み潰すような表情を浮かべた女性隊員――ジーヴルが、それを拒否する。か細い声は、慌ただしくなり始めた軍靴の音に掻き消されて。
 フレイが手を伸ばす。『霧』に沈んだ向こう側。そこに居るはずの家族を求める。

「……すまない」

 頭上から小さく呟かれた、謝罪の言葉。頬を伝った涙が、硬いコンクリートにシミを作って。伸ばした手が力無く、地面に落ちた。



 ◆



 ……最悪の寝覚めだった。フレイは、無機質なコンクリートの天井に伸ばされた手を、投げ出すように下ろす。
 白い息が漏れる。肌を刺す寒さと、肺に流れ込む埃混じりの冷たい空気。聴覚を刺激する不快な音は、天井に備え付けられた光と熱を放つ照明で虫が焼ける音だ。

 体を起こす。ひび割れた革張りのソファは、寝床としては最悪の一歩手前だ。ソファの前のテーブルには、空になった酒瓶が三本転がっている。

「……クソが」

 悪態が口をついて出る。酒の飲み過ぎで痛む頭に、悪夢の光景が蘇った。『霧』に沈んだ、己の生まれ故郷――家族。夢であってくれ、と何度も願った出来事から、もう六年の月日が経った。
 『エニグマ』は、あの出来事から間もなく辞した。養うべき家族も、守りたいと思っていた大切な人も、皆『霧』に沈んだから。

 寝起きだからか、まだ酔いが残っているのか。ふらつく足で、床に散乱したいつ飲み干したかも忘れた酒瓶を蹴って、霜の張った窓ガラスへと近づく。
 結露を手で拭う。ガラスには、あの頃より老け込んだ男が映り込んでいる。

「クソみてぇな面だ」

 ボサボサの赤髪。生気の失せた碧眼。こびりついた隈は下手な化粧にも劣るぐらい不格好だ。
 ガラスに映る自分を嘲笑する。ガラスに映り込んだ自分も己を嘲笑する。

 ……これは呪いだ。守ろうとした者を喪い、のうのうと怠惰に生きている自分に対しての。
 
「……テメェはクソだ」

 ガラスの中に映る自分を罵倒する。か細い声は、冷たい空間に虚しく吸い込まれていった。



 ◆



 BAR『ブラック&ホワイト』。『ヴェルドミッテ』の下層、貧民街の一角に居を構える、寂れた酒場。その店――の二階の倉庫が、フレイの今の住処だ。

 防寒仕様の暗色のモッズコートを羽織る。ミリタリーズボンの左右からベルトで吊り下げられた一対の鍔の無いブレードは、『エニグマ』を辞したときに永久的に借りた物だ。
 現在のフレイの職業は、簡単に言えばBAR『ブラック&ホワイト』の『用心棒』だ。暗黙の了解で維持されている貧民街の治安も、一度花火が上がれば瞬く間に崩れ去る。元々法整備など欠片もされてないような所だ。自主的に『用心棒』を雇い始めるのは自然な流れだった。
 『エニグマ』が守るのは、飽くまでも『ヴェルドミッテ』における上層――いわゆる上流階級に該当する人々だ。下層の貧民街の人々はその対象に入っていない。

 鉄板が仕込まれたブーツと、寒気が立ち込めた鉄骨の階段が擦れて甲高い音を奏でる。急勾配の階段を降りれば、客の一人も入っていない寂れた酒場だ。
 
 木製のシーリングファンの下には、まるで統一感の無い椅子とテーブルが並べられている。木製の一般的な物もあれば、鉄板を切り出したような物や、バイクや車のシートを引っ剥がしたであろう物まで。
 廃材アートとでも言うのだろうか。芸術にとんと興味のないフレイは、その芸術性の一端すら理解出来ないが。

「おう、やっと起きたか」

 呼びかけられた声に視線を向ける。そこには、灰色の髪を後ろに撫で付けた痩躯の男性が、カウンター席に座っていた。顔に刻まれた小皺が、それなりに齢を重ねてきた事を感じさせる。
 男性が、右手に持った酒瓶を傾けて酒精を口に流し込む。前を軽く開けたシャツの間から覗く肌は赤みを帯びていて、相当な量を飲んでいるようだった。
 この男性こそが、BAR『ブラック&ホワイト』のマスターだ。

「……朝っぱらから酒かよ、ウォルト」
「ぷはっ……もう昼前だぜ。それにここは酒場だ。酒飲んで悪い事ァねぇだろう」
「マスターが殆ど飲んじまう酒場なんてあるかよ」
「ハハ、ここがそうだ」

 痩躯の男性――ウォルトが、笑いながらカウンターバーの上に置かれていた酒瓶を手にとって、フレイに向かって放り投げる。放物線を描いて飛んできたそれを掴み取って見れば、貼り付けられたラベルには妙に腹の立つ男性の顔が描かれていた。

「なんだ、これ」
「迎え酒だ。一杯いっとけ」
「…………チッ」

 舌打ちをしながら、封を切った酒瓶を傾けて、喉に流し込む。食道が焼けるような感覚と、ただただ苦いだけの味の悪さ。手っ取り早く酔う為に作られたような安酒だった。
 
「……クソ不味い」
「ああ? 俺が作った酒に対して随分な言い草じゃねぇか」
「自作かよ。度数高いのばかり飲みすぎて舌が馬鹿になってんじゃねぇか?」
「それもそうだな、ハハ。まぁ、目は覚めたろ」

 確かに、その不味さが寝起きの頭にはいい刺激になるのは間違いなかった。口元に僅かに零れた酒を手で拭って、瓶の封を閉める。
 幾分かハッキリした意識でウォルトに視線を向けてみれば、やけに鼻につくニヤついた表情を浮かべていた。

「……なんだよ」
「なぁに、迎え酒ついでに仕事を頼みたくてな」
「あぁ? 『用心棒』以外の仕事は契約外――」
「おいおい、飲んだ酒の分ぐらいは働けよ。それだって商品なんだぜ?」
「売ってねぇだろ……」

 ウォルトがフレイの持った酒瓶を指差す。

 ――――最初からそれが目的だったな、こいつ。

 嘆息しながら肩を落として、苛立ちを抑えるようにガリガリと頭を掻いた。ついでにそういう魂胆なら、この酒は俺のもんだな、と言うように酒瓶を懐に仕舞った。

 まぁ、そもそも『用心棒』として雇われて、寝床を無料タダで提供してもらっている身だ。強く拒否しようもんなら追い出されかねない、と気を取り直したフレイが、ウォルトに問い返す。

「何すればいい」
「荷物の運搬。仕込んでたワイン樽を納入してくれや」
「…………おい、酒飲ませた奴に車運転させる気かよ」
「『ウルヴァス』なんだから平気だろ。そもそもお前さん、ザルじゃねぇか」

 ウォルトが口にした『ウルヴァス』という単語は、この世界における種族の一つだ。獣の特徴が強く表れた、身体能力に優れた種族。事実、フレイの頭頂部には一対の狼の耳が生えているし、肌着に覆われて見えないが、背骨に沿うように赤い体毛が生え揃っている。モッズコートの下にはふさふさとした尻尾が揺れているのだ。
 対してウォルトは『ヴィーク』という、この世界で最も人口の多い種族だ。頭の回転が種族的に早く、学習能力の高い種族。特徴的なのは、男性であれば右目に、女性であれば左目に二つの歯車が噛み合ったような紋様が浮かび上がっている事だ。ウォルトであれば、その灰色の眼の内の右側に歯車が刻まれている。

 『ウルヴァス』はその身体能力もさることながら、生命力にも優れている。毒物にも耐性が高く、必然的に酔いにくい身体であり――『ウルヴァス』であるフレイが迎え酒の一口如きで酔うはずもなく。

「……どこに運べばいいんだ」

 フレイの不服そうな声にカラカラと笑いながら、ウォルトが上を指差す。そこには木製のシーリングファンと、無機質なコンクリートの天井があるだけだったが――フレイにはそのジェスチャーが何を意味するのかは分かった。分かってしまったので、肩を落として嘆息する。

「……上層かよ」
「そういうこった。慎重に運んでくれよ? お得意様への大切な荷物だからな」
「…………? 分かったよ、クソが」
「ハハ、もうちょいボキャブラリー増やせよ。荷物積んだ車は店の裏だ。キーは挿してあるぜ」

 苦し紛れの悪態も、笑いで返された。そこには妙な念押しをするウォルトへ感じた違和感を誤魔化す意図もあったが――すぐにどうでもいいか、と思考を破棄する。
 ……そう、どうでもいいのだ。なにかしらの裏があろうが、思惑があろうが。その結果、何かに巻き込まれようが――命を落とそうが。

 フレイにとっては、どうでもよかった。



 ◆



 吹き抜けになった入口から外に出る。頭上を見上げれば、上層と下層を隔てる鉄の蓋が、陽の光を閉ざしている。
 視線を下ろす。遥か遠方には、『霧』沈んだ区画を封鎖する為に、『霧』を抑制する『時律機』が組み込まれた壁がそびえ立っている。その向こうには、フレイの生まれ育った区画があるはずだった。

「…………クソみてぇな世界だ」

 口をついて出た悪態。それを嘲笑うように、冷たい風が頬を撫でていった。

Re: ミストゥギア ( No.2 )
日時: 2022/06/02 20:39
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


 BAR『ブラック&ホワイト』の裏路地。陽の光の差さない、暗い空間。無人になった隣のビルのひび割れた壁に空いた穴から、紅い目の鼠が飛び出してくる。
 それを横目に見ながら、黒い水溜りを跳ねさせながら歩いた先に古めかしい車があった。
 凹凸の目立つドアに、ガタガタのタイヤ。かつては赤だったのだろう塗装は、斑模様に剥がれ落ち。その上から汚れでコーティングされている。

 車の近くまで歩み寄る。そうすれば、より鮮明に見える車体の汚れ。黒ずみ、こびりついた土と砂。タイヤは錆びている。
 とてもじゃないが、まともに動くようには見えない。下層にある車で綺麗な状態なモノなど中々無いだろうが……だからと言って、これはどうなんだ。

 憂鬱な気分でドアの取手に手を掛け、開けてみようとすれば――案の定、ガタガタと揺れるだけで開かない。フレイの額に、青筋が浮かんだ。

「――フンッッ!」

 思い切り力を込めて引っ張る。いや、引っこ抜くと言った方が正しいのだろうか。『ウルヴァス』の身体能力で発揮された力は、過不足なく取手へと集中し。

 「あ」

 バキリ、と鈍い音を立てて開かれたドアの取手が外れて、もはや何の役にも立たぬ曲がった棒状の金属だけがフレイの手の中に収まった。
 冷や汗が背を伝う。脳裏に弁償の二文字が浮かんで――そもそも廃車ギリギリのレベルの車だし問題ないだろう、と自分勝手な結論を下す。
 

 ――――ドアは開いたのだから問題なし。


 そう、自分を納得させる。手に収まった取手を放り投げ、腰に吊り下げていたブレードを、ベルトごと外して助手席に放り投げる。運転するには邪魔だからだ。
 運転席に座り、冷え切ったキーを回す。エンジンのメンテナンス自体はされていたようで、心配していたエンジンは問題なく一発で掛かった。
 
 微振動する背もたれに体を預けながら、エンジンが温まるのを待つ。『ヴェルドミッテ』の下層部は、陽の光がまともに当たらない事もあって寒々しい。雪こそ振らないが、フロントガラスに張り付いた霜はしばらく溶けそうになかった。

「……どうすっかね」

 低い天井を眺めながら、白い息を吐き出す。荷物の届け先はウォルト曰く『上層のお得意様』だ。上層と下層は道こそ続いているが――その行き来に掛かる労力は、下層側からの方が遥かに大きい。
 上層の人間が下層に降りてくるのは問題ない。わざわざ好き好んで降りてくるような物好き自体がいない事には目を瞑るとして、その行為に面倒な手続きも許可もいらない。
 だが、下層の人間が上層に行くのは別だ。ある種の選民思想が染み付いた上層部の人間にとって、下層部の人間が上がってくる事は我慢ならないらしい。
 フレイがため息をつく。厳しい検問は当然ながら、荷物も全てチェックされるだろう。最悪、車ごと接収されるかもしれない。

「……まぁ、それならそれでいいか」

 フレイが受けた仕事は『荷物の運搬』だ。最終的に依頼主に届けば良いわけで、フレイ自身が届ける必要はない。責任感の欠片もないような思考だが――その責任の欠片すら背負いたくない、というのがフレイという男だった。

 フロントガラスの霜が取れるまで十数分。微睡み始めた意識を繋ぎ止めて、あくびを噛み殺す。
 『ヴェルドミッテ』は広い。上層に繋がるハイウェイへ向かうだけでも、半日以上は掛かる。

 退屈なドライブになるのは、間違いなさそうだった。



 ◆



 『ヴェルドミッテ』は山岳を切り開いて作られた、三層で構成された階層都市だ。中央に『霧』に対しての結界のような役割を果たす、巨大な柱型の『時律機』が天を貫くようにそびえ立ち、最上層から下層まで円錐状に鉄の大地が広がっている。

 その中でも下層は最も広大だが、最もごみに溢れ――最も貧しい区画だ。

 うず高く積まれた瓦礫と廃材。木製、煉瓦造り、鉄筋構造と統一感の無い家屋が立ち並び、少し遠くへ目をやれば、法整備されていれば間違いなく違法建築のビル群。無人の廃墟となったビルの下では、とうの昔に動かなくなった自動販売機が、その胃を腐らせている。
 頭上に張られた鉄の蓋からは、大小様々なパイプが枝垂れるようにぶら下がっている。所々に設置された割れかけの巨大なモニタでは、上層の有り難いお話が映し出されているらしい。何時からか音も出なくなって、貧民街の住民は寄り付きもしなくなったが。
 
 この貧民街は、光を見れば日々を懸命に生きる人がいる。貧しい中でも良心を捨てぬ者もいる。が、そこから目を逸らせばロクなもんじゃない。
 ロクな物がないのに廃材を漁る子供。路地裏に目を通せば、餓死した浮浪者が倒れている。治安を守るはずの警察である『エニグマ』は、何時からか腐りきっていて犯罪行為を金で見逃すようになった。
 
 整備なんてされてない凸凹の激しい路面は、オンボロ車の貧弱なタイヤ周りと相性抜群だった。時折、身体が浮き上がるぐらいの衝撃を腰に受けながら、ゆっくり車を進ませる。
 出立するのが遅かったのもあって、全行程の半分を終える頃には日はとっくに暮れて、周囲は夜の帳を下ろしていた。乱雑に取り付けられた街灯と、頭上を覆う鉄の蓋の底に取り付けられた照明。何故か動力が通りっぱなしの廃墟ビルのネオンサイン。それが、夜の中でも『ヴェルドミッテ』は無駄に明るく照らしている。
 夜に好んで外に出る住民は少ない。ギャングなり浮浪者なりに餌食にされるのが目に見えているからだ。事実、フレイが進む路地からは人気は感じられず、エンジンの音だけが虚しく響いている。
 
「……今日はもういいか」

 路端に適当に車を停める。今日中に届けろ、なんて言われていないのだ。夜通し走らせてまで荷物を運ぶ義理はどこにもない。
 
 シートを軽く倒す。『ヴェルドミッテ』の寒々しい夜の中で車中泊など、下手をすれば凍え死ぬ可能性もあるが――『ウルヴァス』であるフレイはその心配もない。『ヴィーク』なら凍え死ぬだろう温度も普通に耐えられる。

 ――――仮に死んだとしても、それすらどうでもいい。

 瞳を閉じる。瞼越しに主張していた光が、意識が落ちるのに連動して遠ざかっていく。数分もすれば、フレイは完全に夢の世界へ旅立っていった。



 ◆



 上下が逆さま。左右が逆さま。正転と逆転が混ざり合って、どこを向いているのか分からない。
 眼の前はまるで『霧』のように真っ白だ。もし『霧』の中に迷い込んだらこんな光景なのだろうか、とフレイは皮肉げに笑う。
 
 これは夢だ。そう、フレイは自覚していた。

 明晰夢というやつだろう。夢自体を見るのが久々だというのに、また物珍しい体験をしたものだ。
 とは言え、それが分かった所で何かが変わるわけでもなく。夢を自由に操れるという事もなく、ただ退屈に何もない白い空間を漂っているだけ。
 これなら夢なんぞ見ずに、さっさと寝て起きたかった、とフレイがため息をついた所で。

 
「――――――――!」

 
 声が聞こえた。鼓膜を僅かに揺らす程度の、今にも崩れてかき消えてしまいそうな、か細い声。だが、その声を聞いた途端に。フレイの目が見開かれ、表情が凍りつく。
 知っている声だ。聞き覚えのある声だ。聞き慣れたはずの声だ。ずっと聞き慣れていて――もう聞けなくなった声。

 
「――――――……!」
「…………やめろ」

 
 咄嗟に否定する。それを聞かせるな。明晰夢だっていうなら、自分の思い通りになるはずだろう。やめてくれ。そんな思考で埋め尽くされる。だって、その声を聞かせてくれる人は、もういないのだ。いなくなってしまったのだ。これ以上――俺を責めないでくれ。


「おにぃ!」
「やめろッ!!」

 
 はっと目が覚める。荒い呼吸で肺に流し込まれる冷たい空気が痛みを訴えて、寒さが身体を覆っているはずなのに、心臓が燃えるように熱い。眠気は遥か彼方へ飛んでいき、疲労感が全身を包み込んでいる。額に滲む汗が頬を伝い、それを拭うように目を手で覆った。

 ――最悪の夢だった。声が、自分を『兄』と呼ぶ声が、耳穴と鼓膜にこびり付いて離れない。

 ……『妹』の声だった。六年前、『霧』に沈んだはずの、幼い声。

「…………クソが」

 バリエーションに乏しい罵倒を繰り返す。今日は寝起きから最悪な事ばかりが起きる。いや、それを言うのなら――こうして生きている自分が、もっともクソだ。
 グルグルと思考が廻る。フレイという男には何の意味もない。そんな事はわかっている。分かっていてなお、ただ生きているだけ。
 臓腑の底から絞り出されるような吐息が、白い糸になって解けていく。もう、寝付けそうになかった。
 
「…………?」

 ふと、気付く。首裏に、ざわりとした感覚。脳が乱れていて、先程までは気付かなかった、わずかな違和感。
 横になったまま、視線をサイドガラスへ向ける。霜が貼って、外の様子は伺えない。だが、フレイは何かに感づいたように目を細める。

 ――――誰か、いる。

 ゆっくりと体を起こして、嘆息する。そして――助手席に投げられていたブレードを、手に取った。



 ◆



 その人影は、極力音を立てずに路端に停められた車の荷台――コンテナに忍び寄っていた。周囲を警戒しながら、ゆっくりとゆっくりと荷台までたどり着き、コンテナの鍵に手を掛ける。
 フケの目立つ無造作に伸ばされた髪の毛、淀んだ瞳、口元を隠す布。身に纏う服は汚れが目立ち、正しく浮浪者という言葉が似合う出で立ちの中年の男性は、貧民街では珍しくもない物盗りだ。

 ――――酒の臭いだ。
 
 布に隠れた口元が、ゆっくりと弧を描く。男の片側が詰まった鼻孔は、確かにコンテナの中に積まれた酒の臭いを嗅ぎ付けていた。
 そっと、慎重に。呼吸すら惜しみながら、ゆっくりとコンテナの取手に手を掛けた、その時。

「おい」

 背後から掛けられた声に、肩を大きく跳ねさせる。慌てて振り返れば、そこには腕を組んで鋭い視線を向ける赤髪の青年――フレイが立っていた。焦りながら、咄嗟に懐へ手を突っ込んだ所で。

「――それを取り出したら殺す。よく考えろ」
「ひっ…………」

 底冷えするような声。フレイの両手は、すでに腰に付けられた一対のブレードの柄に添えられている。心の臓を貫くような殺気に、物盗りの男性の喉から、乾いた音が漏れた。
 男性の懐からチラリと覗いていたのは、鈍い黒の光沢のある物体。銃だ。だが、この距離ならたとえそれを取り出しても、それより早くフレイが男性の腕と首を胴体から切り離せる。
 
 数回の逡巡。混乱する思考で、悩みに悩んだ結果。観念したように物盗りの男がズルズルとコンテナを背に座り込む。そして視線を左右に彷徨わせた後、ゆっくりとフレイに視線を向けた。

「な、なぁお兄ちゃん……今積んでる荷物は、さ、ささ、酒だよな?」
「…………ア゛ァ゛?」

 迂闊に放たれた『兄』という言葉に、思わず唸るような声が出た。物盗りの男は、今度こそ生きた心地がしなかった。

「酒だったらなんだよ」
「さ、ささ……酒、切らしちまってんだ。ほ、ほん、ほんのちょっとでいいんだ……わ、分けてくれよ」

 盗みを働こうとしておいてなんという厚かましい願い事だろうか。あまりの面の皮の厚さに、苛立ちを通り越して呆れの感情が湧き上がってくる。
 ふと、懐に仕舞い込んだままの酒瓶を思い出す。ウォルト特製のクソ不味い酒。もうどうせ飲まないだろう。そう考えたフレイは、懐から酒瓶を取り出して、無造作に男に向かって放り投げた。放物線を描きながら飛んでくるソレが酒だと気付いた男の目の色が変わる。

「お、おおお! マジか! あ、あ、ありがてぇ!」

 男は身体全体で抱え込むように酒瓶をキャッチすると、震える指先で封を開ける。口元を覆った布を下げ、伸び切ったヒゲの合間に覗く唇と酒瓶の口で熱い接吻を交わした。
 どうやら味や風味はどうでもよく、酔えればいいらしい。みるみるうちに流し込まれて減っていく酒瓶の中身に、若干フレイも引き気味だ。

「……んぐ、ぶはーーーっっ!! 生き返った! 生き返ったぁ!」

 男が、口元から零れ落ちた酒を腕で拭う。唾液混じりの酒でテラテラと照らされた髭が、わずかばかりに生気を取り戻していた。
 あの酒でそこまで喜べるのかよ、と。フレイがうんざりしたような表情を浮かべる。
 
「……そりゃよかったな」
「アンタは命の恩人だぁ!  ありがとなぁ!」

 人が変わったようにハキハキと喋りだす男。よく見れば指先の震えも止まってる。典型的なアルコール依存症だ。
 上機嫌になった男が、もう一度酒を呷る。満足したらさっさとどこかに行ってほしいのだが、酒に夢中の男はそんなフレイの視線にも気付かない。
 それどころか、朗々と自らの苦労や身の上ばかりを話す有様だ。これだから酔っ払いは。

「ぷっはぁ……最近は『ブラッドドッグ』の連中の締め上げがキツくてよぉ。酒の一杯すら漁れねぇ」

 陽気に話す男。その話題の中の一つの単語に、フレイがピクリと反応した。
 『ブラッドドッグ』。貧民街の中でも比較的規模の大きいギャンググループだ。元々は上層部に対して革命を起こそうとしていた連中の集まりだったが、いつしかタダの暴力的なグループに成り下がった、と。『エニグマ』に所属していた時に聞いた話が脳裏に浮かぶ。
 このまま酒だけ飲まれるのも癪に障る。どうせなら少し有益な情報の一つでも聞き出さればいいか、とフレイは男に問いかけた。

「なんだって締め上げしてんだ」
「なんか捜し物らしいぜぇ……ぎ、ひひ……」

 情報としては全く役に立たない粒度だった。期待もしてなかったが、それはそれでフレイのフラストレーションが溜まっていく。
 男が酒を呷る。凄まじい飲みっぷりだが、酒は有限だ。酒瓶の口から一滴の酒精が落ちてこなくなったのが分かった男は、わかりやすいほどに落ち込んだ。それはもう、体が萎んで見える程に。

「……………………なぁ兄ちゃん。もう一杯」
「あるわけねぇだろボケ」
「だよなぁ……」

 ガクリと肩を落とした男。だが、枯渇していたアルコールを補充できて一端の満足はしたのか、荷台から飛び降りる。

「ありがとなぁ兄ちゃん。おかげで眠れそうだ」
「こっちは寝不足だ……さっさと行け。息がクセェんだよ」

 心無い罵倒に笑いながら、男が千鳥足で離れていく。辺りに残ったのは、男の悪臭とアルコールの臭いが混ざりあった、ある意味で芳しい香り。
 休息を取ろうとしたはずなのに、無駄に疲れた。

「……もう一眠りするか」

 出来れば、今度は悪夢を見ない事を祈って。



 ◆



 男は口元が緩むのを止められなかった。止める気もなかった。
 弧を描いた口から、下卑た嗤いが漏れていく。震える手で懐から銃を取り出し投げ捨てると、もう一度懐に手を入れる。男が取り出したのは、黒い筐体に簡素なモニタとボタンが取り付けられただけの通信機だった。

 酒が切れた。指先が震え、ボタンを押し間違えそうになる。どうにか目的の番号を打ったらしい男は、発信のボタンを押すとソワソワと忙しいない動きをする。

「や、やややっぱり酒だけじゃ、た、足りねえ」

 呂律が回らない。寒い夜のハズなのにぼたぼたと汗が流れてくる。男にとっては永遠にも感じられた時間は、通信がつながった事を知らせる音が出た瞬間に途切れた。

「おう――」
「見つけた! 見つけましたぜ! あのコンテナの中で間違いねぇ!」

 男は興奮を抑えられていない。通信先の相手の言葉を遮って、矢継ぎ早にまくし立てる。もし通信先の相手と直に対面していたのであれば、その不機嫌な表情が見て取れたに違いない。

「……じゃあ後で届けさせる」
「ありがてぇ! ぁありがてぇ! あぁりがてぇ……!」

 男が感謝を連呼する頃には、通信は切れていた。それにも気付かずただ感謝を述べる男。錯乱状態と言われてもなんらおかしくない精神状態だ。

「は、は、早く……クスリをくれぇ……!」

 左手の袖を捲り上げた。そこには無数の注射痕。そして。


 ――――血の涙を流す、赤い狼のタトゥーが彫られていた。

Re: ミストゥギア ( No.3 )
日時: 2022/06/07 19:09
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)

 どれだけ『霧』に閉ざされた世界でも、太陽は昇る。白み始めてきた空と鉄の大地の境界線から差す光は、徐々に『ヴェルドミッテ』を明るく照らしていく。

「く、ああ……」

 数時間ほど寝ただろうか。フレイの口元から、噛み殺しきれない欠伸が漏れ出る。
 硬いシートの上でじっとしていたためか、背中と肩の筋肉は凝り固まっていた。グルグルと肩甲骨を回すように動かして、体を暖めていく。
 半覚醒といったところだろうか。微睡みと覚醒の合間で揺れ動く意識のまま、覚束ない動きで挿しっぱなしにしていたキーに触れる。

 夜の寒さで冷え切ったのだろう。キーに触れた指先は、皮膚が張り付くような感触がした。
 低重音。何年ものか分からないエンジンが、唸り声を上げて駆動し始め、その熱が車内にも回っていく。ほう、と上っていった白い吐息がなくなるには、もうしばらく時間がかかりそうだ。

「……ねみぃな」

 あのクソ不味い迎え酒でも、気付けにはなる。そう考えると、浮浪者のおっさんに投げ渡したのはもったいなかったかもしれない。
 ……考え直す。どのみち目覚めるなら美味い酒の方が良い。
 両の目の目尻を、親指と人差指で揉み込むように触れる。生理反応で出た涙が、少しだけ指先を湿らせた。

 寝惚け眼のまま、フロントガラスの霜が溶けるのを待つ――ことなく。何を思ったのか、フレイは。


 ――――底に張り付く程の勢いで、アクセルを思い切り踏み込んだ。


 空転混じりに回転し、激しい擦過音をがなり立てるタイヤ。唸りをあげるエンジン。排気口から吐き出される氷が溶けた水混じりの白煙。運転者の命ずるままに莫大な推進力を得た車体は、当然の事ながら高速で前進し。

「と、止ま――」

 車の前方にいた男を跳ね飛ばした。フロントガラスに乗り上げた体が、霜を巻き取って新たに血霞の紅い化粧を施していく。
 ブレーキとアクセルを踏み間違えた不慮の事故ではない。フレイは、確固たる殺意を持ってアクセルを踏み込んだ。それは何故か。

「逃がすんじゃねぇッッ!!」

 車内でも聞こえる怒声。続けて響き渡る数多のエンジン音。この車は、フレイは、少なくとも友好的な感情を持っていない集団に囲まれていた。
 『ウルヴァス』は獣の特性を強く受け継いだ種族だ。その危機察知能力は、『ヴィーク』のソレを遥かに上回る。寝惚けていようが、フレイの第六感は確実にその敵意を捉えていた。

 助手席に投げられていたブレードを左手で持つ。右手はハンドルに添えたままだ。肘と腕の動きだけで引き寄せたブレードの刃を、助手席側のガラス側に向け――思い切り突き刺した。
 破砕音と共に車外に散乱していくガラス。霜が張っていたガラスを砕いた事で見えるようになったサイドミラーで、背後の様子を目の端で捉える。

「――――『ブラッドドッグ』……!」

 背後から激しいエンジン音と共に迫ってくる集団。バイクに跨った彼らの肩や腕には、血涙を流す狼のタトゥーが彫られている。それこそが貧民街スラムで幅を利かせるギャンググループの一つ――『ブラッドドッグ』のメンバーである証拠だった。

「なんだってんだ……っ!」

 悪態をつきながら、アクセルが底に付くほどに踏み込む。だが、どれだけ初速で差を付けられたとしても。コンテナという重量物を背負った骨董品寸前のオンボロ車と、恐らく魔改造されているであろう『ブラッドドッグ』のバイクでは、その性能差は歴然だ。いずれ追い付かれるのは目に見えている。

 何故こちらを狙っているのか、などと考えている暇はなかった。
 彼我の距離が詰められ始めている事を悟ったフレイは、逆に思い切りブレーキを踏み込み、ハンドルが千切れそうになるほど激しく回す。急制止によりコンクリートの道路と激しく擦れたタイヤが、熱を持って煙を上げる。慣性の乗ったドリフトによって高速で流れていく視界を追いながら、数瞬の後にアクセルを踏み込んだ。

「ぐ、ぬ――ッ!」

 直角90度。激しい加速が体を置き去りにしようとしてくる。コンテナに偏った重心が浮き上がりかけるのをなんとか制動し、脇道へと車を滑り込ませた。
 速度で撒けないのは分かりきっている。なら、地の利を活かす他無い。『ブラッドドッグ』がこの地区の地理にどれほど詳しいのかは知るよしもないが、直線で追い付かれるのならこうやってカーブで差を付けるしかない。
 
 怒声と数多のエンジン音が鳴り響く。どれもこれも「殺せ」だの「潰せ」だの「ぶっ殺せ」だの「ぶっ潰せ」だの、不穏な言葉のオンパレードだ。もう少しボキャブラリー増やしやがれ、と悪態混じりに舌打ちをしながらハンドルを回し続ける。

 廃墟のビルが、積み上げられた廃材の山が、高速で視界を流れていく。朝露がまだ残る時間帯に始められたカーチェイスは、その静謐な雰囲気を見事に破壊していく。
 数度のカーブを曲がる。数人は曲がりきれずに追突したのだろう。僅かに減った追手をサイドミラーに捉えながら、歯を食いしばって、擦り減っていく精神から目を逸らして逃げ続けた。

 だが、その追走劇も唐突に終わりを迎える。




 ――――カーブを曲がった先で、『ヴィーク』の子供が、廃材を漁っていた。
 浮浪者に使われているのか、それとも貧困に喘いで少しでも使える何かを探しているのか。いや、そんな事を想像する暇はない。
 その幼い子供は、フレイが駆る車に、少しの反応も出来ていなかったのだから。
 
「く、そがっ!!」

 咄嗟に子供を避けるコースへとハンドルを切る。ようやく子供がこちらを向いた。目を見開いて硬直したその姿に、回避能力は微塵も期待できない。
 極限の状態でコントロールしていた車体は、大きく蛇行する。子供を避けるコース取りは出来た。だが、その路地は狭かった。
 助手席のサイドミラーが積まれた廃材の山と衝突してへし折れる音が、鼓膜を震わせた。コントロールの効かなくなった車体は、何かに引っかかったのか回転しながら宙へ翻る。

 子供のつぶらな瞳が、空を駆る車を捉えていた。子供は見た事もないが、まるで映画のワンシーンを見ているような興奮が、その胸中に広がっていく。
 きっと、子供はこの光景を忘れないだろう。それが子供にどんな変化をもたらすのか――などというのは。上下が反転し、フロントガラスから見える上層の鉄の蓋を眺めながら「あーやっちまった」と諦観しているフレイには、分かるはずもなかった。

 破砕音。衝突音。擦過音。廃材の山にダイブした車が、ひしゃげながら転がっていく。午前5時の目覚ましの音にしては、派手すぎる音だった。



 ◆



 薄く開かれた瞼。そこから見える光景は、約一日程度の相棒だった車の、最後の姿。エンジンが発火したのか、静かに熱を上げていく様を、フレイは霞んだままの意識で知覚した。
 どうやら、衝突の瞬間にフロントガラスから放り出されたらしい。視界の右半分が赤い。頬に感じるドロリとした感触で、額から血が流れている事をようやく悟った。

「ぐ、う……」

 全身をナイフで刺されるような痛みが走っている。痛みの強弱すら分からない程に、僅かな一挙一動でも全てが痛い。
 起き上がろうと右腕に力を込めようとして――――まるで動かない。視線を向けてみれば、その腕と同じ程の幅がありそうなガラスの破片が貫いているではないか。
 
「は、は」

 止めどなく流れ落ちていく命の通貨。それが地面に紅い水溜りを作り始めているのを見て、フレイは乾いた笑いを浮かべた。
 よく見れば、全身の至る所にガラスが突き刺さっている。まだ生きているのが不思議な程だった……いや、放っておけば確実に失血死であの世へと逝くだろう。

 ――――それでも、いいか。

 諦めた。いや、どうでもよかった。守りたかった家族が『霧』に沈んだ六年前のあの日から、フレイという男は死んだままだ。今更ここで改めて死を突き付けられた所で、何も思うことはない。体が冷たくなっていく。意識が、どんどんと昏い闇の底に沈んでいくのが分かる。薄く開かれていた瞼が、そのまま閉じられようとした。


「…………?」


 ガタリ、という小さな音が、細い糸で手繰られたフレイの意識を繋ぎ止めた。狭められた視界で、音がした方向へと視線を向ける。そこにあったのは、車が廃材と衝突した瞬間に固定が外れたのか、少し離れた場所に転がっていたコンテナ。横倒しになったそのコンテナの扉が開いて、朱紫色の液体がポタポタとこぼれ落ちている。
 血の臭いに混じって芳醇な酒精の香りが漂う。マジでワインだったのかよ、とフレイが薄く笑った。だが次の瞬間。


 その笑いが、凍りついた。目は見開かれ、口がワナワナと震え始める。

 
 ペタリ、と足音を立てながら。コンテナの奥の暗闇から、一糸まとわぬ裸体の少女が姿を現した。燃えるような赤髪と、昏く淀んだ翡翠の瞳。虚ろな瞳は何も捉える事がなく、ただ宙を眺めるだけ。その左目には『ヴィーク』の特徴でもある歯車の紋様がくっきりと浮き上がっている。
 人身売買の片棒を担がされたのか、とか。ウォルトの野郎、仕組みやがったな、とか。フレイに生まれるはずだった思考は、全て脳裏に浮かんだ『名前』に塗りつぶされた。

「……レイア?」

 無意識に、呼ぶ。『霧』に沈んだ妹の名前を。
 眼前に現れた少女が、妹であるはずがない。そもそも種族が違う。虚ろな表情で立ち尽くす少女は間違いなく『ヴィーク』で、フレイの妹――レイアは『ウルヴァス』だったのだから。
 仮に生きていたとしても、六年も月日が立っている。フレイが知っている妹の姿そのままであるはずがない。
 だが、そんな事も些細な問題だと思える程に――――少女は、妹に酷似していた。

「……………………」
「ッ! お、い……!」

 立ち尽くしていた少女が、急に脱力して、コンテナから身を投げるように倒れ込む。冷たくなりかけていたフレイの意識は覚醒し、這いずるようにして少女へと近づいていく。
 全身に走る痛みなどどうでもよかった。突き動かされるようにして近付き――――少女の胸板が上下し、ただ気を失っているだけだと分かって安堵の息を付く。


「……い! …………こ……ちだ!」


 遠くから怒声が聞こえる。『ブラッドドッグ』の連中だ。
 
 ――――慎重に運んでくれよ? お得意様への大切な荷物だからな。

 ウォルトの言葉が、脳内でリフレインする。
 今なら分かる。ただのワイン如きに、あのギャンググループが食い付くはずもない。元から、目的はこの少女だったのだろう。

「――――ふざ、けんな」

 動く左腕で、少女を掻き抱く。小さく軽い肢体はフレイの腕に容易く収まる。腕から伝わる熱と鼓動は、確かに少女が生きている事を示していた。
 

「ぐ、が……ッ!」

 四肢に力を込める。立ち上がろうともがく度、ボタボタと血が流れ落ちる。霞んでいく視界と意識を、歯を食いしばって繋ぎ止める。

 ――――これ以上、喪ってたまるか。

 ――――これ以上、奪われてたまるか。

 喪った妹に面影を重ねているだけだ。そんな事は分かりきっている。「何してんだ」と、六年間死んでいた『フレイ』が呆れた声で諌めてくる。黙れ、と否定する。
 足音が迫ってくるのが分かる。ひしゃげた車が爆ぜた。末期の声のように弾けた音は、連中に居場所を知らせるには十分すぎた。

「おい、こっちだ!」

 足音。滲んでいく紅い視界に、黒い影が映る。
 
「て……ずらせ……」
「こい…………どう……る?」
「……ねぇよ。殺し……いい」

 黒い影が蠢いて、聞き取れない声を浴びせてくる。鼓膜を揺らす音を脳が処理出来ていない。それでも、その影が銃口をこちらに向けたのだけは、背筋に走る悪寒で分かった。
 僅かに身動ぎする。その程度で銃弾が躱せるはずもない。そうだと分かっていても、腕に抱く小さな命だけは守ろうと、覆いかぶさるように。

「…………死ね」

 その言葉だけが耳に届いて。己に風穴を開ける衝撃を待ち構えて。
 

 ――――上空から飛来した『銀色』に、その黒い凶器が叩き落とされた。


「な……だ!?」

 黒い影が、『銀色』が振るう何かに吹き飛ばされる。あっという間だった。翻った『銀色』が、悲鳴すら許さずに黒い影を刈り取る。

 硬い靴音を立てながら、爆ぜる車の音をBGMに『銀色』が近付いてくる。その輪郭が、ボヤケた視界にハッキリと映っている。結い上げられた銀の長髪。褐色の肌。左目を覆う眼帯。残された右目の群青色。それは――――フレイにとって、見知った顔の一つだった。

「……ジー……ヴル」
「…………! …………!」

 端正な口元が動いている。何かを喋っているのは理解出来た。もう、音が聞こえない。
 繋ぎ止めていた意識が途切れる。視界が昏い闇に沈んでいる。最後に感じたのは、腕の中で眠る少女の、小さな鼓動だけだった。


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