複雑・ファジー小説

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あのバーには死神がいるらしい
日時: 2023/02/05 23:05
名前: 夢乃枕 (ID: 0/ArHPqn)

 死にたい。決意したのは昨日。仕事で上司に散々パワハラを受け、今日も帰宅しようと思っていた時だ。
地下鉄のホームには高校生や会社員、その誰もが自ら死のうなどと考えたことは一度もないのだろう。俺が腰掛けたベンチの横に座り込んできたのは、女子高校生三人組だった。何やらスマホを見ながら大声で騒いでいる。仕事終わりの耳にはとても耳障りだった。
 「おい、おっさん。何見てんだよ。」
突然、三人組のうちの一人がこちらを向き、話しかけてきた。でも、その表情から決してそれはいい内容ではなさそうだった。何か気に触ることでもしたか心当たりがないので、聞き返したところ、勢いよく立ち上がって大きな声で回りに向かって叫び始めた。
 「みなさ〜ん!私、痴漢されました〜!」
え、そう思った時にはもう遅かった。女子高生の指の先は俺を向いていた。さっきまで俺のことを見向きもしていなかった周りの人々が一斉に俺の方を向く。誤解だ、そう弁明しようとベンチから腰を浮かせようとしたが、俺を見る周りのその目にそんな気持ちは殺された。
 「ねぇ、おじさんさぁ、捕まりたくないでしょ?」
わざとらしく、ぼそっと呟かれた言葉。顔をそちらに向けると、女子高生は手を差し伸べていた。救いの手か。いや、そんな優しいものじゃないことは知っている。ベンチに座る俺を上から見下す。腐った色をした目。
 「早く財布出せよ。」
低い声で、脅すように言われた。標的に襲われた獲物のように身体が収縮したのが分かった。会社員の男たちが騒ぎを聞きつけて歩いてこちらに向かってくる。早くなんとかしなければ。
 「…こ、これで許してください…」
俺は財布に入っていた2万円をつかんで渡した。女子高生は俺のことを見ると、鼻で笑った。その後、ホームに向かって再び叫んだ。
 「すみません〜!なんか〜私の勘違いだったみたいです〜!」
こちらに向かってきていたサラリーマンたちが「なんなんだよ」と言いながら戻っていく。三人は、ケタケタと笑いながら、俺のことを笑ってくる。こんなことになる前は一切感じなかった視線が、今は刺さるように痛い。
俺は、ベンチに座ったまま顔を上げられなかった。
 『まもなく〜4番線に電車が参ります〜危ないですから〜黄色の線より内側にお  下がりください〜』
アナウンスがホームに響き、真っ暗な闇に、電車のライトが光り出す。ブレーキ音が耳に聞こえてくる。
止まった電車に、ゾロゾロと人々は乗り込んでいく。何人かの人は、俺の前を通る時に、気持ち悪、と呟いたのが聞こえた。
終電の電車が去ったホームで、俺は一人ベンチに頭を抱え座り込んだままだった。気づけば言葉が俺の口からこぼれ出ていた。

              「死にてぇ…」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カランカラン、とドアの鈴が鳴る。路地裏で見つけた小さなバー。ひっそりとしたところに静かな淡い赤色の壁の色が映える。店の中はありきたりなバーと変わらず、カウンターが5席とテーブル席が2席あった。店にはゆったりとしたワルツが流れていた。
 「おや?お客さんですか。」
カウンターの向こう、グラスを拭いていたマスターが顔を上げた。見た目は、五十代くらいだろうか。少し白髪が目立つ髪に、紳士的な服装と髭が生える。少し背高なその男性は俺に、カウンター席を勧めてきた。
俺が座ると、マスターは一杯のグラスとボトルを出してきた。
 「こちらは、フランスのバンドールで作られたキュベ・インディア デュペレ・  バレラでございます。」
ワインに関しては全く知識のない俺だが、深い味わいを感じ取れた。
 「お客さん、よくここを見つけられましたね。」
確かに、俺以外に客はいなかった。
 「まぁ…たまたま路地に入ったらあったもので…」
 「そうですか…」
マスターは俺の眼を見ながらそういうと、先ほどと同じようにグラスを拭き始めた。
言葉のない時間。ワルツが静かに流れる店の中は、二人の人間の命以外、何もなかった。
飲んだグラスをテーブルに置くと、俺はマスターに尋ねた。
 「あの…このお店で一番のワインってありますか…?」
マスターはありますよ、と答えると手にしていたグラスを置き、店の奥へと入っていった。しばらくすると、一本のワインを手にして戻ってきた。
 「シャトー・ディケム、というワインです。こちらは1975年ものとなっており、  世界に1000本しかないうちの一本になります。」
そう言って出されたグラスには、淡い黄色味のあるワインが注がれていた。
一口飲むと、先ほどのワインとはまた違う深みがあった。だが、何度も言うがワインに関しての知識は皆無なので、これが美味しいのかどうかはわからない。 
 「失礼ですがお客さん、あまりワインを嗜んだことがなさそうに見えますが、そ  ちらのワインはお気に召されましたでしょうか?」
どうやらマスターに見透かされていたようだ。
 「あ…わかっちゃうんですね…すみません、ワインとかに関しては全くわからな  くて…」
そういうとマスターはフッと微笑んだ。
 「味わいが分からずとも、ワインにはその深みを感じさせる何かがあります。そ  う…例えば人生のような…」
人生…俺はその言葉を胸の内で反響させた。俺の人生に果たしてこのワインのように深い味はあるのだろうか。マスターはまたグラスを拭き始めると、手元に視線をやったままこう言ってきた。
 「今日はどうやって死ぬおつもりなんですか?」
俺は背筋に針を刺されたような感覚を感じた。手に持っていたグラスを危なく落とすところだった。
 「な…何を言って………いや、なんでそれを…」
俺が動揺する姿を見たマスターは店の入り口に目をやると、微笑みながらこう言った。
 「この店は、少々特殊な店でして…《自殺願望》のある方々しか辿り着けないようになっているんですよ。そう…例えばあなたのような方でないとね。」
俺には現実味が湧かなかった。そんな嘘みたいな店が本当にあるんだ、そう思った。
 「…なら、マスターは俺が死のうとしていることを知っていたんですか…?」
 「…はい、もちろん、存じ上げておりますよ。あなたが…店に入ってきた時か   ら。」
マスターに若干の恐怖心を覚えたが、それと同時に全部見透かされていた俺の間抜けさに苦笑いした。俺はこの人になら全部を話してもいいんじゃないか、そういう気分になった。
 「あの…俺の話…聞いてもらえますか?」
するとマスターはワインボトルを手にして、もう一つグラスを出してきた。そして手にしたワインを俺のグラスと、もう一つのグラスに先ほどのワインを注いだ。
 「どうぞ、お話しください。もとよりそのつもりですから。そのための最高級の  ワインですから。」
そういうとマスターはグラスを手にし、ワインを飲み始めた。気さくなマスターに安心して、俺も一口、喉を通した。

俺は中小企業の会社に勤めていた。会社では、さまざまな文具や、アイテムを出荷していた。いいアイディアを出せる有能なやつはどんどんと上に上がっていき、俺のように大した物を生み出せない奴らはどんどん切り捨てられる、そんな会社だった。毎日毎日、上司に腹を殴られ、靴を咥えさせられ、裸にさせられ、半ば拷問のような行為を受けた日もあった。独身で独り身の俺には滅多に休みも与えられず、頻繁にデスクの前で一夜を明かした。
俺には大した生きがいもなく、夢や目標の一つもなかった。小さい頃に憧れていたものは、大人になった今ではなんだったかなど思い出せやしない。そんな俺は、自分が生きていく意味なんてこの世にあるのかがわからなくなっていた。
何かがうまくいった覚えなどない。幼い頃に両親が離婚して、祖母の家に預けられたあの日から、俺には縋るものも無くなった。

何も持っていない俺。そんな俺が死んでも誰も困らないだろう。そう思うと、そろそろ楽になりたいような気がしてきた。
俺が話している間、マスターはずっと俺の話に頷きながら聞いてくれた。
 「では、どのように死のうと思っているのですか?」
一通り話し終わるとそう尋ねてきた。普通ではない質問だったが、俺はマスターにすっかり心を許してしまっていた。なぜかは自分でもよく分からない。マスターの不思議な雰囲気だろうか。それともただ単純に俺が誰かと話したいだけなのか。
 「…私は…どうやったら楽に死ねるのでしょうでしょうか…」
俺は俯きながらグラスに目をやった。話している間に飲み干したグラスは、その側面にうっすらと俺の顔を映し出していた。
 「…そうですね…あなたのような方ですと、首吊りか、電車に飛び込みが多いですが…まぁ、今回の場合は自殺を思い立ったのが駅のホームということもありますので、未練を残さぬためにも飛び込みの方がいいでしょう。」
マスターは淡々と俺に告げてきた。俺は俯きながら、自分に言い聞かせるように頷いた。その時、マスターがポンッと手を打った。
 「あ、そういえば言い忘れてましたが、お客さんは新規の方なので一回無料で体験ができますがどういたしますか?」
マスターが微笑みながらそう言ってきた。初めは何を言っているか分からなかったが、そもそもこのバー自体が異質なのである。今更何があろうと大したことではない。
 「“体験”、というのはどういうことでしょうか…」
 「それはですね…まぁ、簡単に言いますと死を体感できるわけです。」
マスターは、俺の前に置いてあったグラスに、一本のワインを注いだ。どこからかいつの間に持ってきたワインだったが、素人の俺でもわかるくらい、異様な感じがするものだった。
 「…どうぞ、こちらのワインをお飲みください。こちらを飲まれますと一旦意識が飛んだ後に、死を疑似体験することができます。まぁ、口で説明するよりも体験していただいた方がいいですから。百聞は一見にしかず、ですので。」
俺は目の前に出されたワインに妙な好奇心が湧いてきて、躊躇するでもなく、口元に運んだ。喉を鳴らしてワインを体に流す。先ほどまでのものとは違う、なんともいえぬ気持ち悪さと、言葉では表せない快感が体に走った。
次の瞬間、俺は視界が回ったように見え、そのまま倒れた。


 『まもなく〜4番線に電車が参ります〜危ないですから〜黄色の線より内側にお下がりください〜』
目を開けた時、そこは見覚えのある景色だった。
 「ここは…駅…のホームだ。」
周りを見渡すが、いつもの通勤と大して変わることがない風景で、俺はどこか既視感を覚えた。そしてそれと同時に、マスターの言葉を思い出した。死を体験する。つまりそれは、今ここで飛び込みを体感できるってことだろう。
俺は一歩前に足を出し、黄色の線に踵を合わせる。
後ろにいたサラリーマンの男の人から、「何してんだコイツ、邪魔くせぇ」と、そう聞こえた。でも俺はどうでもよかった。今ここで飛び込む、ただそれだけ。死のうと思った身でも、足がすくんだ。
 「大丈夫、大丈夫。俺は生きてても価値がないんだ。だから死ぬんだ。自由になるんだ。大丈夫。」
震える足を落ち着かせようと自分に暗示をかける。
暗闇に電車のライトが光り出す。電車のブレーキ音が聞こえてくる。
俺は右足の爪先を空中に出し、体の力を抜く。電車が視界の端に見えた瞬間、左足で思いっきり体を前に押し出した。
体に強い衝撃が走ったのと同時に世界がゆっくりと動き出した。内臓から痛みが走る。しかしそれも一瞬で、すぐに痛みは無くなった。自分の体が形を失ったのがよく分かった。空に舞う自分の血が鮮やかな朱色をしていて、景色が俺の色で染まっていくのが目に見えた。その後すぐに視界は暗闇へと変わり、音も遠ざかっていった。だんだんと意識がなくなっていく中で、俺は思った。
死ぬってこんなに簡単で、怖いんだな。
俺は、死んだ。


再び意識を取り戻した時、そこはバーのカウンターだった。
 「おや、もう戻っていらしたんですか。早いお方ですね。普通は二本ほど電車を見過ごしたりするものですが。」
マスターはまたグラスを拭いていた。
 「いかがでしたか?死ぬことは。」
俺は気付かぬうちに額にまとわりついていた汗を拭いながら答えた。
 「…簡単でした…死ぬことは。…でも、怖かったです。すごく…」
マスターはその言葉を聞いてどう思ったのかは知らないが、少し微笑んだかに見えると、また新しいワインのボトルを出してきた。
 「こちらをお飲みください。あなた様専用の、特注品になります。」
そう言ってグラスに注がれたワインは、透明に近い色合いのものだった。
もはや何がどうなっているのかも考えられなかったが、俺は少し躊躇した。
 「…このワインは、俺専用、なんですか…?」
マスターの言った一言に疑問符を投げかけると、マスターは優しく頷いた。
 「…これは、普通のワイン、ですよね?」
マスターは、相変わらずグラスを拭き続けている。だが、目線を合わせることなく頷いた。
俺は恐る恐るとしながら、口にワインを運んだ。
一口飲んだ瞬間に感じたものは、先ほどのものとはまるで真逆だった。
甘いような味がして、とても優しい感じがする。胸の奥から何かが出てこようとしていた。
俺はなんだか唐突に耐え難いほどの眠気に襲われ、グラスを手に持ったままゆっくりと瞼を下ろした。


目を開けた時、そこはまた見覚えのある場所だった。ただ、そこがどこかはすぐに分かった。目の前には、学校の黒板があった。そして黒板には、卒業おめでとう、の文字が大きく書かれていた。
 「ここは…俺の、中学校…」
懐かしい教室、風に揺れるカーテン、傷がたくさんついた机と椅子。それら全部が思い出のなかに在るものそのままだった。
 「ここ…俺の席…」
そう言って俺は、窓際の一番後ろの席に手を添えた。その手は、たくさん傷がついた手ではなく、中学校の時の血色の良い手だった。
あの時は、席替えでたまたまここの席を引いて、友達に自慢していた気がする。
授業中に見える外の景色が好きで、まともにノートも取ってなかったっけ。
なんとなく、椅子を引き出す。物音ひとつない教室に椅子を引く音が響いた。少し冷たくなった椅子に座って周りの風景を懐かしむ。
窓の外に見える景色もあの頃のままだった。
窓と逆側、隣の座席を見た時に、ふと、脳裏に何かが蘇った。
 「あ……」
そこに見えたのは、誰かの残した影だった。誰が残した影だったか、うっすらと輪郭が見え隠れするだけで、その全貌は隠されたままだった。
なのに、なぜか胸が高鳴っている自分がいた。誰かも思い出せない、声も顔も霞がかかっているように記憶の中を漂っている。
思い出そうと自分の手元に目線を移した時、机に付いた傷が見えた。
この机を前に使っていた人が作ったであろうその傷は、相合傘の形をしていた。それを見た瞬間、過去の自分が同じように見ていた時の感情が蘇った。
そうか。あの時、自分は隣の席のあの子に恋心を抱いていたんだ。今はもう名前も思い出せない子だけれども、確かにあの時の感情は覚えている。
たまたま最後の学年で同じクラスになった女の子。最初はただ、かわいい子だな、ぐらいにしか思ってなかったのに、気がつけば毎日彼女に会うのが楽しみになっていた。体育祭の時には一緒にクラスTシャツを作ったっけ。修学旅行の時は、自主研修で君にばったり会ったりしないか期待したりもした。合唱コンクールの時は、章をとって喜ぶ君をみたくて必死に練習した。通学路で、同じ時間に出れるように頑張って早起きしたりもした。あの子がいる前では、変に気取ったりもして少しでもかっこ良くあろうとしてたんだっけ。授業中も、横顔を見るのがとても愛おしかった。話しかけた時は、すごく胸が高鳴った。
今でも鮮明に思い出せる感情。なのに、彼女の顔と名前だけはどうしても思い出せない。
 「…結局なんも言えないまま、卒業して、終わっちまったんだよなぁ…」
黒板に書かれた卒業おめでとうの文字。あの日の俺も、こんな気持ちで見ていたのだろうか。思い出せば思い出すほどに、今の自分の醜さが輪郭をはっきりと表してくる。あの頃の自分に、情けなかった。
 「……あの子は…今、何してんのかなぁ…」
つぶやいた時、教室のドアがガラッと開いた。
 「佐藤くん…?」
そこにいたのは、あの時大好きだった、あの子だった。顔を見た瞬間、彼女と話した会話も、その時の彼女の表情も、全部が昨日のことのように蘇った。
 「そうか…君は…」
 「いやぁ、私ったらうっかりしててさぁ、卒業したのに忘れ物しちゃってたんだよね〜」
屈託のない笑顔。俺は忘れていたのか。こんな大事なことを。大好きな子のことを。
俺は椅子から立ち上がると、彼女の方へと足を一歩だけ動かした。
 「佐藤くんはどうしてここにいるの?」
彼女がそう聞いてくる。俺は知っていた。彼女…いや、渚のことを。足の力が抜けて、真っ直ぐ立つことが難しくなって、膝から地面に落ちる。
瞳から一雫、また一雫と粒が溢れていく。彼女は驚いた顔をしている。俺はぐちゃぐちゃになったその顔を袖で拭いながら、喉の奥底から声を絞り出した。
 「…君に……渚にずっと…ずっと…会いたかった……」
あぁ、こんなこと思い出さなきゃよかった。忘れたままでいたら、綺麗な思い出でいれたのに。
彼女の顔を見た瞬間に脳裏に浮かんだもの。それは彼女の血で汚れた顔、彼女のことを囲む友人たち、彼女の前に置かれた花束、大きな額縁に入った君の愛らしい笑顔。…動けなくなって立ち尽くす俺。

俺が恋していた少女_花橋渚は、卒業式の三日後、

交通事故で亡くなった。

目の前にいる渚はそんなことを知らないから、俺がなんで泣いているのかも理解できず、困惑した表情を浮かべている。
マスターも言っていた。これは現実じゃない。だから目の前にいる渚は本物じゃない。わかってはいる。分かってる。でも、そんなこと、今の俺には無意味な現実だった。
目の前にいるのは大好きだった女の子。肝心な時に何にもできなかった俺。自分自身の無力さが首を絞め、罪悪感が俺を殺そうとしてくる。今も昔も、結局俺は何も成すことができない。俺が生み出すのは無価値な時間だけだったんだ。
渚はこの時は知らなかった。自分が死ぬなんて。俺はどうだ。自分から死のうとしてるじゃないか。きっと、もっと、もっと生きたかっただろうに。そんな渚が死ぬんだもんなぁ。不憫なんて言葉じゃ表せない。君と過ごした時間も、君を思っていた時間も、君が死んじゃったら最初から無かったのと同じじゃないか。
俺はもう顔を上げることはできなかった。息をすることでさえ切なく、苦しく感じる。
そう思った直後、何かに包まれた感触がした。
 「…いっぱい、頑張ったんだね。和哉くん。」
耳元で呟かれた言葉が俺の心を融かした。今まで溜めてきた涙が、一気に胸の中から溢れた。
渚は座り込んだ俺のことを強く抱きしめた。
そうだよ、俺は頑張ってきたじゃないか。俺がここまで生きてきて、頑張ってないわけがないじゃないか。
涙が渚の服を濡らしていく。気づけば、渚も泣いていた。
 「…あれ?…ごめん、なんでかな?なんか和哉くん泣いてるの見たら私も泣けてきちゃった。」
渚、そう口にしようとしたが言葉は涙に変わってしまって音にはならない。
渚の胸の温もりが痛い。生きていることが分かってしまって辛い。渚の鼓動が聞こえる。ずっと同じ拍で刻まれている。この瞬間も渚の体には血が巡っているんだ。同じように、俺の体にも。
 「…渚…ありがとう…ありがとう…。」
それしか言葉は出なかった。言いたいことはどんどん浮かんでくるのに不思議で仕方がない。
 「…なんでだろう…君がどんな人生を生きてきたのかがすごく分かるの。君に触れてる間だけ、頭の中に流れてくるの。…君は…大人になっていて、一生懸命に働いて、毎日苦しそうで、でも必死に次の日も生きて、その次の日も必死に生きて、次の日も、その次の日も、ずっと君が頑張ってきたんだって分かるの。」
俺にも分からなかった。なんで渚が俺の今を知っているのかは。だけど、誰かが俺の人生を知っていることが幸せだった。
 「…本当に頑張ったんだね。和哉くん。」
彼女は俺を包んでいた腕を緩めると、濡れた瞳で俺を写した。
俺は渚の手を握った。なんだか、少しでも触れていないと消えてしまうんじゃないかと思ったからだ。
すると渚は繋がれた手を見て、思い出したように顔を赤らめた。
 「待って…よくよく考えてみたら私すごく恥ずかしいことしてるじゃん!急に抱きつくとか…何やってるんだ、私…」
恥ずかしそうに目線をずらす彼女があまりにも愛おしくて、気づけば口から言葉が漏れ出ていた。
 「大好き。」
俺の口から出たのか分からなくなるほどに、自然と言葉が出ていた。
目を丸くして顔を赤らめている少女がそこにはいた。
渚は泣いたような、笑ったような曖昧な表情で、俺の顔をその両の目に捉えてからはっきりと言った。
 「私も和哉くんが…____。」

何年か前の学校の教室。二人だけの教室。現実じゃない世界。
俺は人生で初めてキスをした。

向かい合った顔、お互いの赤くなった頬を見て笑い合った。初めて触れた唇は、柔らかくて、あったかくて、ちょっぴり甘かった。

彼女が大好きだ、というその感情は俺の胸の温かさに変わっていた。
 「…渚…君に会いたかった。ずっと心のどこかで、この温かさを探してたんだ。」
渚は優しく微笑むともう一度強く手を握った。そして、何かを思い出したのか、立ちあがろうとした。
 「和哉くんと一緒に見たいものがあるんだ。今から見に行こうよ。」
手を繋いだままで、彼女は教室のドアに向かっていく。触れているはずの感覚が遠いものに変わっていくのが分かった。きっともうこの世界にはいられなくなってしまう。現実に帰らなくてはいけない。
 「_っ待って」
そういうのが先か、彼女が教室のドアを出たのが先か、彼女の姿は霞に包まれ、薄れていった。
 「渚っ_」
渚が振り返ったのが見えた。もう二度とこの手を離したくない。失いたくない。忘れたくない。死なせたくない。
 「渚!待ってるからっ!君が生きている世界で、俺はずっと待ってるから!」
霞は視界を閉じ、俺は暗闇の世界を見た。



再び視界が戻った時、そこは駅のホームだった。
もう何度も見た景色。でもいつもと違う景色だった。
 「おい、おっさん。何見てんだよ。」
突然、横のベンチに座っていた女子高生がそう話しかけてきた。俺は知っている。その表情を。俺が何も反応しないでいると、勢いよく立ち上がって大きな声で回りに向かって叫び始めた。
 「みなさ〜ん!私、痴漢されました〜!」
女子高生の指の先は俺を向いていた。沢山の視線が一斉に俺の方を向く。  「ねぇ、おじさんさぁ、捕まりたくないでしょ?」
わざとらしく、ぼそっと呟かれた言葉。顔をそちらに向けると、女子高生は手を差し伸べていた。救いの手か。いや、そんな優しいものじゃないことは知っている。ベンチに座る俺を上から見下す。腐った色をした目。
 「早く財布出せよ。」
小さく低い声で、脅すように言われた。だが、俺はもう死にたくなんかない。何よりも、生きる意味がある。
 「俺は何もしていない!そうやって大人から金を騙し取ろうとするのも大概にしろっ!」
俺が立ち上がってそう怒鳴ると、女子高校生たちは萎縮したようにあとずさりした。それでも女子高校生たちはまだ退かずに被害を訴え続けている。周囲は困惑し、どちらにも手を出せないでいる。
そのうち、その様子を見ていた一人の男性が声を上げた。
 「お前ら、この間もそう言って同じこと言ってたじゃん。」
その男の人の声がホームに反響する。周囲の人たちの視線は、女子高校生たちへと変わった。
女子高校生の一人が、やばいよ、と言って他の二人を連れて駅のホームを去って行く。 
 『まもなく〜4番線に電車が参ります〜危ないですから〜黄色の線より内側にお下がりください〜』
アナウンスがホームに響き、真っ暗な闇に、電車のライトが光り出す。ブレーキ音が耳に聞こえてくる。
止まった電車に、ゾロゾロと人々は乗り込んでいく。声を上げた男は、俺の前を通る時に、あんたが声を上げなかったら大変だったな、と言ってきた。
 何度も見た電車。やっと俺はこの電車に乗り込む。
俺は生きるよ。君が俺のいる世界にいるって信じてるから。必死に生きていくよ。

電車が動き出し、窓から見えていたホームは横へと流されていった。


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