複雑・ファジー小説
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- 狭間に生きる僕ら ~開始せよ(1)~
- 日時: 2025/06/21 15:51
- 名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)
ぼんやりとした世界に生暖かい空気。柔らかい光が揺らりゆらり。ピピーッピピーッ。不自然な電子音。元気すぎる子供みたいだ。静かにしてくれ。全身にしがみつく重力に負けじと腕を振り上げ、その子供を黙らせる。再び世界が静かになったかと思えば、曖昧だった世界に輪郭線が少しずつ現れてくる。そもそも気付かなかっただけでこの世界は静かじゃなかった。どこか遠いところでミーンミーンと騒いでる輩がいる。ベッドの縁に腰をかけて、しばらくその騒がしい合唱に耳を傾ける。身体はまだ布団の名残を引きずっている。床が冷たい。カレンダーをめくった覚えはないのに、季節だけは先に進んでいる。窓の向こう、ぼやけた光のなかに青い空が隠れているのがわかる。
ふと、机の上のメモに気づく。丸い文字でひとこと、「さがして」とだけ。変だな。これは俺の筆跡じゃない。俺は何を探していたんだっけ。両足を床にべたりと付けて、まだ布団に帰ろうとするもう一人の俺をよっこらせと無理やり立たせる。氷を踏んづけた時みたいな刺激が足から入って全身を駆け巡る。生暖かい世界に走る一筋の冷たい線。これのおかげでようやく世界が明確になった。ペタペタと片足ずつ前に進んで寝室のドアを開けると、バアーっと眩しすぎる閃光が両目を刺激する。台所とリビングの間の天井まである大きな窓のカーテンが全開になっているではないか。目を細めながら、いつもは真っ先にうがいをしに洗面所へ向かうのだが今日はカーテンを閉めに行った。
カーテンに手をかけて引こうとしたその瞬間、何かが違和感として引っかかった。窓の外。そこには、いつもと同じようでどこか異なる景色があった。向かいのマンションの三階のベランダに、小さな青い旗がひらひらと揺れている。見覚えがあるような気がした。いや、ある。昔、どこかで見た。夢の中だったか、あるいは子供の頃の、ぼやけた記憶の中か。
カーテンを閉める手が止まり、思わず窓ガラスに近づいて額をぺたりとつけた。ガラスの向こう、青い旗のすぐ隣。誰かが、こちらを見ていた。小さなシルエット。子供か?気づかれたと思ったのか、その影はすっと後ろに下がり、姿を消した。青い旗。俺にはなんの心当たりもない。それと俺を見ていた小さな影。最近大学に入って一人暮らしを始めるために上京した。あの影は、きっと虫かごの中のテントウムシを凝視するみたいに新参者の俺を興味深く観察していたガキなんだろう。それにしても視力が良すぎないか。それに何で虫かごの中に新しい虫がいるなんてそいつは知ってるんだ。俺が住み始めたアパートの数少ない住人仲間にはもう挨拶を済ませたが、向かいのマンションになんて挨拶に行ってない。ーまあいいや。パン食べよ。いつもはバターだけど今日は気分を変えてジャムにしてみようか。俺の腹が怪獣みたいにうなる。よしよし、今から餌をやるからな。さっきまで考えていたことを忘れるようにシャっとカーテンを閉めて、ペタペタと台所に向かう。
冷蔵庫の扉を開けると、イチゴジャムの瓶がドアポケットで光っていた。久しぶりの甘い朝食。パンをトースターに入れてレバーを下げ、コーヒーの準備もついでに始める。お湯が湧くまでのあいだ、ジャムの瓶のラベルをぼんやりと眺めた。「…ん?」ラベルのすみに、細いマジックで何か書き足されていることに気づいた。最初は汚れかと思ったが、明らかに人の手による文字だ。「さがして②」え、なにこれ。あのメモと同じ言い回し。誰かが俺の生活の中に、ひっそりと足跡を残していっている。トースターから「カシャン」と乾いた音がして、パンが跳ねた。そして、同時にインターホンが鳴った。
あーあ、俺がか弱い女の子でそれを守ってくれる王子様みたいな彼氏がいてくれたらな。そしたら、キャーっとでも叫べばすぐに駆け付けてきてくれるんだろうか。でも俺は女の子じゃない。ピーンポーン。不気味な電子音が俺の思考を遮る。宅急便は頼んでない。遊びに来てくれる友人もまだいない。ピーンポーン。また鳴りやがった。あ、もしかしたら俺以外にも誰かが入居するからその挨拶に来たんだ。時期的にも全くおかしくない。なんだ。ピーンポーン。不気味に聞こえていた音がただの音になる。「はいはーい、今行きますー。」小走りに玄関に向かう。右手をドアノブにかけながら、左手で玄関の鏡に映る寝ぐせで爆発したみたいな頭を整える。多少ましになった。「はーい。おはようございますー。」ドアの先はいつもの日常だった。ランドセルを背負った子供たちが、どこで拾ってきたのか木の棒を振り回しながら歩いている。この時間帯は、この雛鳥たちの声が聞こえてくる。そしてのんきな雛鳥とは対照的にスーツに身を包んだ男たちが忙しそうに歩いていく。本当にいつも通りの光景だった。ただ、目の前にいる、とんでもない国宝級イケメンをのぞいては。
一瞬、時間が止まったような気がした。こいつ…誰?目の前に立っているその男は、まるでドラマか何かの撮影で間違ってうちのドアの前に来てしまったんじゃないかと思うほど、現実離れしていた。整った顔立ちに爽やかな笑顔、シャツの袖まくりもさりげなく決まってるし、持ってる封筒すらおしゃれに見える。
「おはようございます。えっと…こちらに越してきたのは最近ですよね?」
柔らかい声だった。
「あ、はい。つい先週…えーと…?」
「あ、ごめんなさい。急に。これ、隣に住んでる者なんですけど、これ…預かってまして」
そう言って、男はスッと封筒を差し出してきた。表面にはまたあの文字が書かれていた。
「さがして③」
俺はもう、パンどころじゃなかった。
「あのー、助けてくれません?」サガシテ、サガシテ、サガシテ…。俺は怪談の登場人物に生まれた記憶はない。ジャムまでは何とか知らんぷりできた。きっと夢の延長線上なんだって、適当に理由をつけて。でも、今はっきりと分かった。これは、現実だ。俺の知らない現実だ。その現実から逃れたくて、初対面の知らない男に助けてくれだなんてバカげてる。でも恐怖心が俺の心の声を黙らせる。俺に助けを求められた男は、もし俺なら気味悪がってそうそうに話を封筒を渡して帰ろうとしただろうに、「どうしましたか。僕もなんのことかわかってなくて実は。出来ることなら僕、何でもします。」だって。ああ、ものすごく綺麗な顔でスタイルも良くて、性格もいいなんて。どれかひとつでいい、俺に分けてくれ。
「…じゃあ、ちょっと中、入ってもらってもいいですか?」
言い終わった瞬間、俺は内心で「何やってんだ」と思った。なんでこんなに警戒心がないんだ。でも足はもう動いていて、玄関のドアを少し開け、彼を招き入れていた。靴を脱ぐその所作すら美しくてなんか腹立つ。でもまあ、今はそれどころじゃない。リビングに入り、さっきまで放置していたパンとジャム、そして封筒をテーブルの上に並べる。
「これ、さっきポストに入ってて…あ、自己紹介がまだでした。僕、向かいのマンションの203に住んでます。日下部です」
「俺、成瀬。今日がパンにジャムを塗る気分だった成瀬」
「……面白い自己紹介ですね」
「パニックを誤魔化すために出たボケなので、スルーしてくれてよかったのに」
ふっと、日下部が笑う。その瞬間、少しだけ部屋の空気が軽くなった気がした。でもその空気を断ち切るように、テーブルに置いた封筒がわずかに動いた。二人とも無意識に身を固くする。
封筒は、まるで中の何かがもぞもぞと動いているように、ぴく…ぴく…と震えていた。
「……中、見ますか?」
と、日下部が言った。
「近所のガキがいたずらで虫かなんか入れたんでしょうかねー。」残念だったなガキ。俺はな、虫は平気なんだ。怖い話は苦手だがな。男の理想の全てを持ち合わせたような男の前で、なんとか格好つけたくて右手でガシッと封筒を鷲掴みにする。力が強すぎたのか封筒がくしゃくしゃになってしまった。くしゃくしゃになった封筒を一度見て、苦笑い。隣で見ていた日下部も、肩をすくめて笑った。
「まあ、開けるのに支障がなければ……大丈夫ですよ」
どこまでも優しいやつだな、まったく。俺は指先で器用に破れ目を広げていき、中から何が出てくるのか目を凝らした。最初に出てきたのは、写真だった。
古びた白黒写真。モノクロのその中には、何かの遊具らしきものと、小さな子供が写っている。顔はぼやけていてはっきりしない。でも、その背後に映り込んでいるものに、俺は思わず息をのんだ。
それは、今朝見た“青い旗”。まったく同じ角度、同じ形、同じ風の流れ。
「これ……」
「見覚え、ありますよね。僕も、あるんです」
日下部の声が急に低くなる。彼の目の奥にも記憶を探るような光が宿っていた。封筒の底からもう一枚、小さな紙片が滑り落ちる。
「つぎは ここに きて」
手書きの地図。そこに描かれていたのは、線路沿いの細い道、そして一軒の古びたアパート。
「……行きますか?」
日下部がこちらを見る。今度は、冗談めかしていない真剣な目。俺は、ため息混じりに頷いた。
「あの、行く前に確かめたいんですけど、日下部さん、あなたはどこでこの旗を見たことがあるんです?」
朝から怪奇現象に見舞われ、知らないはずなのに見覚えのある正体不明の青い旗を知らない男と正体を確かめようだなんて。昨日までは、朝ごはん食ったら近所の公園を軽く走って、家に帰ったら大学の課題を済ませて、昼は最近新しくできたラーメン屋に行って、そのあとはゲームなり本を読むなりで、親の管理から解放された一人暮らしを満喫するつもりだったのに。
日下部は、少しだけ目を伏せて黙った。たぶん、答えを整理してる。やがて、静かに口を開いた。
「……僕、三日前に引っ越してきたんです。で、夜にコンビニに行こうと外に出たら、見たんです。あの旗。向かいの空き地に、ぽつんと立ってて。……でも翌朝には、もうなかった」
「空き地?」
「ええ。この辺、ちょっと古い家が取り壊されたまま放置されてる土地、ありますよね。まさにああいう場所です」
その言葉に、俺は朝の記憶を手繰った。確かに、俺の部屋の窓から見える向かいの敷地、ずっと空き地だったような。草むらと、崩れかけたコンクリの壁しかない。けど今朝、旗があったような気がする。それは、見間違いじゃなかったのか。
「それだけじゃなくて……その夜、帰ってきたらポストに手紙が入ってたんです。『さがして①』って。それだけが、白い紙に、ただそれだけ」
「……俺も、①はないけど②と③はあります。順番はよく分かんないですけど」
二人してソファに沈み込む。まるで、見えない糸に操られているみたいに。偶然というには、整いすぎている。
「僕、実はこういうの嫌いじゃないんです。意味不明なものに巻き込まれるの、どこか刺激的で」
「俺は……こんなイケメンと朝からこんなことになるっていう刺激の方向性が全然違ったけど」
「え?」
「なんでもないっす」
たぶん、俺たちは行くしかないんだと思う。引き返すには、足を踏み入れすぎた。テーブルの地図をもう一度見る。
「よし、準備して、行きましょうか」
日下部さんは綺麗に揃えられたスニーカーに右足、左足と入れる。俺のサンダルはその横で無造作に脱ぎ捨てられている。靴の脱ぎ方までこうも違うとは。せめて脱いだ靴だけは綺麗に揃えてやろう。こいつに負けないように。日下部さんの綺麗なかかとを何となく見つめているうちに、急に違和感に襲われた。今朝、旗を見たのは向かい側のマンションの三階のベランダ。それは記憶として頭の中にちゃんと綺麗に残っている。
さっき俺、向かい側はずっと空き地だったなーなんて思ってなかったか。あれ、マンションは?あれ、何かがおかしい。「あ、日下部さん。俺忘れ物したんでちょっとここで待っててください。」そう言って花柄のカーテンをシャっと開ける。カーテンの向こうはーー建物なんてない。草が無秩序に生えて、人工的で整った都会に自然の素の姿が広がっていた。俺の記憶の中のマンションは嘘だった…?
さっきまで確かに存在していたはずの建物が、跡形もない。ただただ風に揺れる雑草と、一本の電信柱がぽつんと立っているだけ。俺は無意識に自分の頭を両手で挟んだ。ズキンと、軽い頭痛のようなものが走る。目を閉じて深呼吸。
「お待たせしましたー。……どうしました?」
玄関から日下部の声。俺は何でもないような顔を作りながら、カーテンをさっと閉じる。
「いや、あの、ちょっと暑かったんで。空気の入れ替え的な」
「そっか。じゃあ、行きましょうか」
彼はそう言って、俺の表情を一度だけじっと見た。けれど何も言わず、先にドアを開けて外へ出て行った。たぶん、俺の顔に“何か”が浮かんでたんだろう。でもそれをあえて言わないあたりが、彼の優しさか、あるいは……。
サンダルを履いて一歩外に出る。太陽の光は、普通の朝と変わらない。近所のガキの笑い声が、遠くでかすかに聞こえる。
だけど心のどこかに、「何か取り返しのつかない世界に一歩踏み込んだ」感覚があった。
日下部は手に地図を持って、振り返りもせずに歩いていく。その背中を追いかけながら、俺は小さくつぶやいた。
「……ほんとに、どこまで行くんだ、これ」
次の角を曲がった時、ふと風が止まった。まるで、世界全体が一瞬だけ息を飲んだような、そんな気がした。
「そういえば日下部さん、幽霊船って知ってます?本当は存在しない船なのにあるように見えるっていう、外国の話らしいんですけど。幽霊マンションなんてのもあったりして。あはははは。」なんだこの気持ち悪いウソ笑いは。もう少しマシに笑えないか。うふふふ。あ、ダメだ、俺にウソ笑いの才能はない。気づいたら風が吹き始めた。風が気持ち悪さを取っていってくれたような感じがして救われた。そういえば日下部さん、何歳なんだろ。下の名前も何となく知っておきたいな。
「幽霊マンション、か……。ありそうで、なさそうで」
日下部さんがふっと微笑んで、視線を前に向けたまま答えた。俺のどうしようもないウソ笑いを、笑わずに拾ってくれるその声が、妙に落ち着いていて逆に怖い。だけど、少しだけ安心する。風が通り過ぎていく。
「…あの、日下部さんって、何歳なんですか?」
唐突な問いに、自分でもちょっと驚いた。けど、なぜか気になったんだ。どこか大人っぽいけど、同じ大学生くらいにも見える。
「僕? 二十二ですよ。たぶん、あなたとそんなに変わらないですよね?」
「俺は十九なんで……やっぱ、ちょっと上っすね。あ、あの、下の名前って……」
「透(とおる)です。日下部 透。あなたは?」
「……あ、えっと、成瀬 蓮です。蓮って書いて“れん”」
「成瀬 蓮くん。いい名前だね。……なんか、草の名前が入ってる同士だ」
日下部——いや、透さんは柔らかく笑った。太陽の光がその表情にかかって、少しだけ眩しかった。風が止んで、代わりにまたセミの声がうるさくなってくる。さっきまであんなに怖かった世界が、少しだけ距離をとってくれたような気がした。
「蓮くん。あの空き地、もしかしてさっきと何か違ってた?」
「……え?」
その一言に、背筋がすっと冷えた。
「僕もね、朝見たときより……草が、少し伸びてた気がしたんだ。気のせいだといいんだけど」
俺は言葉を失った。
何も変わっていないはずの空き地。でも俺も、さっきカーテンを開けたとき、ほんの一瞬——地面が少し、湿っていたような気がしていた。
ピンピロピンチンチロリン。俺のスマホだ。誰だろ。スマホの画面を見る。宮司龍臣。小学校で同じクラスになって、俺のすぐ近くの大学に通うことになったやつ。だんだん奇妙な触手に侵され始めているこの世界に、お前だけが俺の日常を保ってくれるんだ、宮司。俺を日常に帰らせてくれ。普通の日常で良いから。応答するをタップして画面を右耳に当てる。「よお。成瀬、元気?」ああ、お前はちゃんと俺の日常の一部だ。なるべくいつも通りの声を出すようにしたけど、自分の声がどこか遠くの誰かの声みたいに聞こえた。さっきまでの空き地、封筒、青い旗、全部をひとまず頭の棚に押し込んでおく。今は、宮司の声だけに集中したい。
「いやさー、今こっち来てんだけど、成瀬ん家寄ってもいい?」
「……へ?」
「あ、言ってなかった?今日午後からそっちで用あって、今もう駅降りたとこ」
世界が少し揺れた気がした。現実がぐいっと腕を引いてくれる。
「マジか。今ちょっと……いや、ちょうど良かった。来て来て、すぐ来て」
「おお?なんかあった?お前のその“ちょうど良かった”って、たいていロクな時じゃないよな」
「来たら話す。とりあえずチャリで10分くらいだろ?待ってるわ」
「りょーかい。ジャムとパンよろしくー」
電話を切って、スマホを胸ポケットに戻す。俺はもう一度空き地を見た。さっきよりもほんの少し、風に揺れる草の高さが高くなっているような気がした。気のせいであってくれ。
「すみません、友達が今こっちに来るらしくて。合流したらもう一度だけ…向かいを、確認してもらってもいいですか?」
透さんは穏やかに頷いた。
日常がこちらに戻ってきている。そのはずだった。でも心のどこかで、俺は知っている。宮司が来る前に、何かが起こる。何かが、この空き地に足音を落とす気がしてならなかった——。