複雑・ファジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 狭間に生きる僕ら ~開始せよ(2)~
- 日時: 2025/06/21 16:11
- 名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)
「日下部さん、なんか俺の友達朝飯食ってないらしくて、俺に作れって電話でさっき頼まれたんで、悪いんですけど一緒に引き返してもらっていいですか。暑いし外で待ってるのもあれなんで。冷蔵庫に冷たいジュース、いくつか買いだめしてあるんでそれでも飲んで待ちませんか。」
一刻も早く空き地から距離を取らなくちゃいけない気がして、いろいろ口実を付けて日下部さんを家に引き戻そうとした。日下部さんは少し渋るような素振りを見せたが、日下部さんのニキビのないおでこからポタっと一滴汗が流れ落ちると、笑顔で「じゃあ、もう一度お邪魔しますね。」と言って、俺より先に家の方を向いて歩きだした。日下部さんもこの不気味さに耐えられなくなったのだろうか。身長162㎝。顔面偏差値はかろうじて平均…より少し下くらいか?そんな俺は、俳優みたいな日下部さんの後をてくてくとついていった。
家のドアを閉めると、外の音がふっと遠のいた。日下部さんがリビングの隅で涼しそうに立っている。俺はキッチンに向かって冷蔵庫を開け、麦茶とオレンジジュース、それから微炭酸のレモン水を取り出した。
「日下部さん、どれがいいですか?」
「んー……レモン水、いただきます」
「どうぞ。冷えてます」
「ありがとうございます」
グラスに注ぐこともせず、そのままペットボトルを開けて静かに一口飲む日下部さん。喉を鳴らす音さえ整って聞こえるのは、こいつの無駄のない動きのせいか。
「旗を見たっていうのは、何日くらい前の話なんですか?」
「……今朝です」
「じゃあ昨日までは、マンションがそこにあったかどうかは、あまり意識してなかった?」
「そうです。今朝、初めて旗を見たときは自然に“ああ、あるな”って思った。でも、あなたと一緒にもう一度見たときは……空き地でした」
「なるほど」と日下部さんは頷いて、麦茶を一口飲んだ。
「幽霊船もそうなんですが、観測者の“視認”って案外曖昧なんです。だから時々、誰かが何かを見たせいで“それ”が一時的に実在することもあるらしいんです」
「らしいって……日下部さん、それ誰から聞いた話なんですか?」
日下部さんは答えなかった。黙って、麦茶をテーブルに戻す。沈黙の中、俺のスマホがブルッと震えた。宮司からだった。
《もうすぐ着く》
俺は日下部さんの顔を見た。さっきまでと変わらない、柔らかい笑み。でも、どこか少し遠い。
「宮司が来たら、旗のこと、空き地のこと、一緒に確認してくれますか?」
「もちろんですよ」と日下部さんは優しく微笑んだ。
けれどその時、俺はふと気づいた。日下部さんの足音、ここに入ってから一度も聞いていない。
あれだけ静かな床なのに、なぜだ?俺の手が、無意識にペットボトルをきゅっと握る。ひんやりとした感触が少しだけ、俺を現実につなぎ止めた。あと数分。それまで俺は、日常のフリをし続ける。そう決めて、俺はジャムトーストを焼く準備を始めた。
「へーい、蓮!宮司だよ、いーれーてー。」インターホンぐらい鳴らせ馬鹿野郎。玄関に向かうと、ドアの向こうに宮司の気配を感じる。ドアを開けると、宮司は真っ先にアッツいねー最近、と日下部さんがいることも知らずに、どんなジュースを準備してくれたのやら汗をかきすぎたからシャワーを貸してくれだのとガキみたいに騒ぎ始める。「ああ、どうも。あなたが宮司さんですね、初めまして。僕先日ここに引っ越してきた日下部透と申します。」気づけば日下部さんが俺の後ろに立ってて、綺麗な笑顔を宮司に向けている。宮司はしばらく口を開けて日下部さんをまじまじで見つめたかと思うと、「男の人と付き合い始めたんだ!でも良いじゃん別にね。多様性だろ。」と不躾にも叫ぶ。「違うわ。」そう言って俺は宮司の頭をこつく。宮司が俺と同じくらいの背丈で助かった。
日下部さんはふっと笑った。まるで微風のように静かな笑みだったのに、何だか宮司の大げさな一言よりも、場の空気を一気に和ませる力があった。
「いやーごめんごめん!でもさ、マジでビビったわ。すげえ整ってる顔してんのに、柔らかい雰囲気もあってさ。そりゃ誤解するだろ!」
「まあ……褒め言葉として受け取っておきますね」と、日下部さんは笑顔を崩さず答えた。
宮司はすっかりペースを持っていかれたようで、「てか、俺シャワーいい?」と何度目かの確認をしてきた。
「勝手にしろ。タオルはいつものとこにあるから」
「さんきゅー!」
バタバタと脱衣所へ向かう宮司。その背中を見送ってから、俺は静かにリビングに戻り、日下部さんと二人になった。
「宮司さん、いい友達ですね」
「うるさいけど、まあな。たまに、こういうやつがいるから助かる」
「なるほど」と日下部さんは頷いて、ふと真剣な顔になる。
「今のところ、成瀬さんが日常に戻れてるようで、少し安心しました」
その一言に、なぜか心臓がドクンと跳ねた。
「……日下部さん、あんた一体何者なんだよ」
言ってから、しまったと思った。でも日下部さんは怒るでもなく、少しだけ視線を落として、こう言った。
「僕は、見たものの“後始末”をする人間です。“見るべきでなかった何か”が、人に見えてしまった時…それをなるべく早く消し去るのが、僕の仕事なんです」
「俺はその“何か”を、見たのか」
「はい。青い旗、それに……あの空き地。きっと、成瀬さんだけじゃなく他にも見てしまった人がいるでしょう。でも、あなただけが“覚えていた”んです。だから、僕がここに来ました」
シャワーの音が脱衣所から聞こえる。普通の日常のはずなのに、俺の中で日下部さんの言葉だけが異物のように浮いていた。でも、なぜか嘘だとは思えなかった。
「だったら俺の“覚えてた”ことって、ヤバいことなのか?」
「……場合によります。けれど、大丈夫です。僕がいますから」
そう言って、日下部さんはもう一度、あの完璧な微笑を浮かべた。本当に、何でもしますって顔してる。俺は無言で頷いて、ふとキッチンに目をやった。ジャムトーストが冷めていた。
日下部さん、どういう人なんだろ。なんか自分がファンタジー小説に迷い込んだみたい。ガラッと宮司が風呂場の扉を開けるのが聞こえた。宮司と湯気の混じったような匂いが台所にまで漂ってくる。
俺は冷蔵庫から炭酸の抜けかけたレモンソーダを取り出すと、コップに注いだ。氷の音がチリチリ鳴って、わずかに張りつめていた空気がほぐれていく。リビングに戻ると、日下部さんはソファに静かに座って、俺の本棚を眺めていた。指先が微かに揺れていて、タイトルをなぞるような仕草が妙に印象的だった。
「面白そうな本、多いですね。あ、これ、僕も読みました。」
指差していたのは、俺が高校時代に何度も読み返したファンタジー小説だった。竜と王国と、あとよく分からない“消えた街”が出てくるやつ。風呂場からまた水音が聞こえてくる。宮司が歌ってる。なにかアニソンっぽい。変わらない宮司のバカさ加減に、少しだけ気が楽になる。
「成瀬さん、あの……あの旗、見たとき、何か、感じました?」
日下部さんの声がすうっと入り込んでくる。
「……感じたって?」
「思い出すような、逆に、忘れさせられそうな。そんな感じ。」
俺は一瞬、今朝目を覚ましたときの、あのぼんやりとした世界を思い出した。やわらかい光と、生ぬるい空気と、あの不自然に元気な電子音。
「……あれは、夢じゃなかったんですね。」
日下部さんは、黙ってうなずいた。
「日下部さん、全部教えてください。俺、どんな現実でも受け止めます。だってさっきあなた、僕がいれば大丈夫ですって言ってましたもんね。別にこれから誰かが死ぬわけでもないんでしょ。これから残酷な運命が俺らを迎えに来るわけでもないんですよね。だったら俺平気ですよ。どんなにぶっ飛んだ話でも。教えてください。日下部さん。」
小説の背表紙を日下部さんは真剣な面持ちで見つめている。そして大学の本やら参考書やら漫画でパンパンになった本棚からその本を無理やり引っ張り出して、ぱらぱらとめくり始めた。まるでそのストーリーを確かめるかのように。日下部さんは、ページをめくる手を止めると、少し迷ったように息を吐いた。それから、そっとその本を閉じて、膝の上に置いた。
「成瀬さん……これは、ほんの入り口なんです。」
「入り口……?」
「青い旗が見えるようになったのは、“許された”ってことです。あなたは――選ばれたわけじゃない。たまたま、入り口の前を通りがかっただけ。でも、その時点で、もう普通の生活には少しずつ戻れなくなるんです。」
日下部さんの声は静かだったけど、ひどく現実的な響きがした。
「この本、昔、僕がいた“街”にもあったんです。細かい描写が少しずつ違うけど……構造はほとんど同じ。まるで、誰かが記憶をそのまま写し取ったみたいな。僕があなたの世界に来たのは、それを確かめるためでもあります。」
俺は頭が少し混乱していた。けど、一つだけはっきりと分かったのは――日下部さんは、元から「ここ」にいた人じゃないってこと。
「じゃあ……日下部さんがいた“街”って……」
「ええ、あなたが今朝、見たあのマンションが建っていた場所です。」
また、風が吹いた。今度の風は、少し冷たかった。
「成瀬ー、換気扇つけといたよ。」宮司がまだ濡れた頭をタオルでごしごしと吹きながら台所にやってきた。宮司の目が俺に向かう。そして日下部さんにも目を向ける。そしてまた俺を見る。それを何回か繰り返して、お前らどうした、何があったと宮司には珍しい真面目な顔で問いただすように質問してきた。もしかしたら、俺は宮司を家に誘うべきじゃなかったんじゃないか。宮司も引きずり込んでしまったんじゃないか。でも今更帰れなんていえない。さっきまでの俺は強がりだったけど、やっぱり怖い。俺は自分が知らない世界になんて行きたくない。日常に帰りたい。でもきっと行くしかない。この世に生まれてくる赤ちゃんたちは母親のお腹に入る前にはこんなことを思ったりしているんだろうか。
「なあ、成瀬、マジでどうした? なんか空気おかしくね?」
宮司の声は、いつものガサツさより少しだけ低くて、妙に現実感があった。
「ごめん、ややこしい話があって……お前に巻き込むつもりじゃなかったんだけど。」
俺がそう言うと、宮司はタオルを首にかけながら、床にペタリと座り込んだ。
「成瀬がマジ顔で謝るのなんて初めて見たわ。……だいたいどれくらいややこしいかはわかった。」
そして宮司は、ちらりと日下部さんを見た。
「で、イケメン。あんたは何者なんだ? そして、こいつをどこに連れて行こうとしてる?」
日下部さんはほんの一瞬、何かを考えるように目を伏せた。でもすぐに、表情を戻す。まるで、ずっとこうなることが決まっていたように。
「成瀬さんには、“まだこちら側に足を踏み入れたばかり”の権利があります。選ぶ時間は与えられている。…もしあなたまでその扉を覗き込むのなら、同じように“帰れない可能性”が生まれます。」
「うわ、なにそれ怖っ……でも、成瀬が行くなら。アイツひとりに何か起きるのは、ムカつく。」
宮司はあっさりとそう言った。まるで、明日の飯をどこで食うか決めるくらいの軽さで。でも、あれは本気の目だった。
日下部さんはそれをじっと見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「わかりました。では――“入り口”を見せます。」
その瞬間、部屋の照明がフッと揺らいだように見えた。
どてっ。音のした方を見ると、宮司が床であぐらをかいていた状態から倒れた風に力なく横たわっている。血の気が引いて顔色が悪い。乾ききっていない宮司の髪の毛からしずくが一滴また一滴と時を刻んでいく。「おい、ぐうj…」宮司に駆け寄ろうと思ったとたんに床も天井もすべての空間がグワングワンと揺れ始めた。吐き気がして、胃から何か出てきそうになる。両足から力が抜けて、俺は重力のなすが儘にされる。右頬を床の冷たいフローリングが勢いよく叩く。どんどん俺の視界が闇に包まれていく。睡魔が俺をいざなう。前髪が俺の左目を覆っていて毛先がチクチクと目に当たって痛い。前髪の隙間から日下部さんが立っている方に目をやると、美しい顔で虚無を見つめている。
睡魔に連れていかれる直前に見えたのは、怖いくらいに美しい日下部さんの目が人間の物じゃない、何か爬虫類的な目に姿を変えた瞬間だった。
目を開けると、真っ黒だった。いや、違う。漆黒の闇に、どこかで“青”が混じっている。さっきまでいた六畳のアパートは跡形もない。目を凝らすと、うっすらと光る青い布――旗――が、風もないはずなのに、はためいていた。
「成瀬……成瀬、おい!」
低くて、懐かしい声。宮司だ。音がやけに遠くから聞こえる。けれど次の瞬間、すぐ近くで宮司の手が俺の肩を揺さぶった。
「……宮司。大丈夫か……?」
「お前こそだよ。倒れたかと思ったら、俺まで変な風に引きずられて……ここどこだよ、なんだこの空間。」
立ち上がろうとすると、重力がねっとりと足元に絡みつくようで、まるで夢の中のように体が動かない。そのとき――
「こちら側へようこそ。」
あの、澄んだ声が聞こえた。日下部さんが、旗のすぐそばに立っている。…その姿はさっきまでの“完璧な青年”じゃなかった。髪は重力を無視して揺らめき、服の縁が風に逆らうようにたゆたっている。目はもう完全に“さっきの”目――深海のように冷たく、爬虫類的な光を宿している。けれどその口元は、変わらず優しく微笑んでいた。
「この場所は、“残響の界”。現実に触れそこねた思念と、未完成の記憶が棲みつく、もうひとつの層です。」
宮司が俺の腕を握る。その手が震えてるのが分かった。多分、俺も同じくらい震えてる。でも、俺は言わなきゃいけないと思った。
「……日下部さん。さっき、俺に選ばせるって言いましたよね。なら、もう一度聞かせてください。――俺は、ここで何をしなきゃいけないんですか?」
静寂な世界に日下部さんの声が、俺たちの周りの空気を揺らして心臓まで響いてくる。
「まずはここ、残響の界をもう少し分かりやすく説明し申し上げねばなりません。」
そう言って日下部さんはくるりと美しい所作で俺たちに背を向け、揺らめく青い旗と一緒に闇にだんだんと姿を消す。ついてこいってことか。
「宮司、行ってみよう。大丈夫だってきっと、夢みたいなもんだろ。死にはしない。」
適当なところに腕を伸ばすと、宮司の腹あたりに俺の右手が指先が触れた。その時、宮司が震えた声で言った。
「成瀬、あのイケメン、人、じゃない。」
なんとなくそんな気はしていた。こいつは日下部さんの目が変わった瞬間を見ていないんだから。でも、何となく気になって、もう一度日下部さんがいた方を振り返った。もうかなり遠くの方へ行ってしまっていたが、彼の後ろ姿の異質なものが俺の目を捕らえた。ーードラゴンみたいな尻尾だ。金色とオレンジにどこか緑も混じったような不思議な色の光を放っていた。
「……行こう。」
俺は尻尾のことは何も言わなかった。宮司に言ったってどうせ混乱するだけだ。それに――わかってる。言葉にしたら、もう戻れなくなる。残響の界の空気は、どこまでも静かだった。けれど歩を進めるたび、何かが背後でゆっくりと崩れていく音がする。パリン、と氷が割れるみたいな、かすかな音。振り返ってはいけない。そんな気がしていた。歩き続けると、旗が揺れるたびにできる青い光のカーテンが、空間の“壁”を切り開いていく。やがてその先に広がったのは。
無数の扉。
何百、何千と並ぶ扉。それぞれ違う色、形、大きさ。ひとつとして同じものはない。そのすべてが、青い霧に包まれて静かに呼吸しているようだった。日下部さんが、その中心に立っていた。さっき見た尻尾は、もう見えなかった。けれど俺には分かる――あれは幻じゃなかった。あれが、この世界の“真実の形”なんだ。
「ここが“記憶の回廊”です。」
日下部さんが、俺たちの方を見ずに言った。
「この中のどれかひとつが、あなたの《歪んだ記憶》につながる扉。……あなたが“見たはずのマンション”の正体です。」
宮司が俺の腕をまた掴む。その手はさっきよりも力強かった。怖い。でも――行くしかないんだ。
「扉を選んでください、蓮さん。」
夥しい数の扉を一つ一つ吟味したら、ドアを選ぶよりも先に俺たち老衰で死んでしまいそうだ。でも、どれかを選ばなくちゃいけない。「日下部さん、俺はその歪んだ記憶とやらに繋がる扉を選ばないといけないんですか。」宮司はさっきから完全に怖がって、子猫みたいに俺の腕をぎゅっと掴んで離さない。「もし、俺がその扉を選べなかったらどうなるんですか。」日下部さんとの間に沈黙が走る。その間中、一つ一つの扉の呼吸音が聞こえてくるようだった。そして、日下部さんがスッと息を軽く吸ったのが聞こえた。
「もし選ばなければ――」
日下部さんがようやく口を開いた。その声は、まるで深海から浮かび上がってきたみたいに、静かで重たかった。
「蓮さんの《世界》は、ゆっくりと崩れます。あなたの記憶は“存在しない真実”に上書きされ、やがて《現実》そのものが意味を失います。最終的には……あなたも、消えるでしょう。」
……え?