複雑・ファジー小説
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- 狭間に生きる僕ら ~開始せよ(3)~
- 日時: 2025/06/21 16:27
- 名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)
俺の喉が、ひとりでに声を漏らした。消える? 俺が?なんだよそれ、冗談だろ。そんな、まるで俺が“記憶で出来た存在”みたいな言い方じゃん。
「でもそれは……」
言いかけた俺の口に、突然、風が吹き込んだ。ただの風じゃない。俺の胸の奥にしまっていた「あの記憶」が、風に煽られてひらりと舞い上がる感覚。赤い靴。鉄柵越しに手を振る人影。なぜか泣きそうになった、幼い頃の夕暮れ。
「……この記憶……」
俺の指が、一つの扉を自然に指し示していた。他の扉と違って、ほんの少しだけ開いていた。中から、ほんのりと鉄と埃の匂いがする。それはまるで―何かが出てくるのを、待っていたかのように。宮司が小さな声で言った。
「なあ成瀬、そこだけ……開いてるのって、ヤバくないか?」
わかってる。だけどもう、ここしかないってわかってる。
俺は、取っ手に手をかけた。扉の向こうには、きっと俺が“なかったことにした記憶”がある。
「行くぞ、宮司。」
俺の言葉に、宮司はぶるぶる震えながら頷いた。
「……うん、死ぬときは一緒だぞ。」
そして、ゆっくりと扉を押し開けた――。
扉の向こうには穏やかな夕方の公園があった。真っ赤な空とオレンジ色の暖かい光が公園を照らし、木製のブランコと滑り台の影がにゅっと伸びていた。俺たちの影はない。まさか、死んでしまったのか…。右隣にいる宮司に目をやると、どこか遠くを見つめている。宮司の手はいつの間にか俺の腕を離していた。宮司の両手がだらしなく垂れさがっている。「いいえ、御心配には及びませんよ、お二方。罪のない人を冥界に誘うようなことは致しません。第一に、私は死神などではございません。」背後から、日下部さんの声がした。日下部さんは、普通の好青年に戻っていた。さっきまでの姿はいったい。
「では、ここがどこなのか、説明を差し上げますね。」
日下部さんはまっすぐに俺たちを見た。その目はさっきの爬虫類のようなものではない。でも、何かが奥で眠っている気配がする。
「ここは、“失われた記憶の投影空間”です。蓮さん。あなたの記憶の中で、“忘れたくせに忘れられなかったもの”それがこの場所を形づくっています。」
俺はもう一度、公園の景色を見渡す。どこか見覚えがあるようで、でもはっきりと思い出せない。その時、ブランコの方で何かが揺れた。誰も乗っていないはずの木のブランコが、ギィィ……と、まるで誰かが座ったように、勝手に揺れている。
「なあ、成瀬……あれって……」
宮司が震える声で言った。
その瞬間、俺の脳内に、鋭いノイズみたいな音と一緒に、何かの映像が割り込んでくる。
ー泣いている女の子。俺の制服の袖を掴んで、何かを必死で言っている。でも、俺は顔をそむけて、その手を振り払った。そして、走り去る。
「……うわっ……!」
俺は頭を押さえてしゃがみこんだ。なにこれ、知らない……いや、思い出したくなかった。日下部さんが、静かに言った。
「忘れた罪はありません。しかし、“選んで忘れた”ことには、意味がある。それに向き合う覚悟があるなら、先に進めます。どうしますか、蓮さん。」
頭の中で、あの女の子の泣き声がリフレインする。忘れたはずの記憶が、俺の心を叩いてくる。俺はゆっくりと顔を上げて、ブランコに向き直った。
「……思い出すよ。全部。」
「おい…成瀬?どうした…。何が見えた?」
宮司には何も見えていないんだ、きっと。あの女の子は、俺が中学三年の頃に近所に引っ越してきた家族の末娘だった。俺が登校中にその公園を通る時にも、俺が部活終わりに日が落ちてから公園を通った時にも、毎日同じようにその子はブランコを漕いでいた。毎日同じ服。毎日同じ靴。今思えば、あの子はたぶん、親に完全に放置されていた。あの日。俺が当時好きだった人に告白して粉砕した日の帰り道、その女の子はブランコに座っていた。でも、その日は漕いでいなくて、代わりに小さな小さな方が上下に不規則に揺れているのが見えた。「どうしたの?」精いっぱいの優しい声で、公園の柵の向こう側からその子に声をかけた。その少女はハッと気づいたように顔を上げたかと思うと、俺の方を振り返った。髪の毛は荒れ果てた庭みたいにボッサボサで、顔も良く見えなかったけど、とてもきれいな、澄んだ青い海みたいな瞳がボサボサの前髪からほんの少しだけ顔を出していた。
「お兄ちゃん、今日、ひとり?」
その子は、ブランコから足を下ろして、ぎこちなく立ち上がった。しゃがれたような、でもまだ幼さの残る声だった。
「……うん。ひとり。」
俺は柵の門を開けて、公園の中に入った。その子は俺をじっと見ていた。まばたきもせずに。
「じゃあね、今日だけ、あそんでほしいな。」
そう言って、右手を差し出してきた。小さな、小さな手だった。爪の間に土が入り、指先には小さな傷。でも、どこか「ひとりで戦ってきた人の手」だった。俺はその手を、気づいたら握っていた。
「名前、なんていうの?」
「……おしえるのは、明日ね。」
そう言って、彼女は笑った顔のまま、目をそらした。――でも、それが最後だった。次の日も、その次の日も、公園にその子はいなかった。どこかへ行ってしまったのか。それとも、最初から“いなかった”のか。俺は、怖くなって、その記憶を心の奥底に沈めた。いなかったことにした。
でも今、その子のブランコが、あの時と同じように揺れている。俺がブランコに近づくと、揺れていたブランコがぴたりと動きを止めた。まるでその子が俺の存在に気づいたように。ブランコの鎖に右手を添えながら、初めてあの子と会話した日を必死に思い出そうとした。名前も教えてくれなかった、綺麗な目をした少女。荒廃した世界に、頑張って一輪花を咲かせているような少女。数えきれないくらいの星の中から、たった一つ、自分が探している星を見つけようと空に手を伸ばす。その時、星が一つだけ瞬いた。「やっぱり、名前、今日教える。私…僕…ほんとは圭吾って言うの。」あの子は名前を教えてくれなかったんじゃない。俺がそれを忘れていただけで、あの子が俺に名前を教えてくれたという事実は間違いなくどこかに息をひそめて存在していたんだ。けいご?ユウとかルキとか、中性的な名前ならともかく、けいごって言うのは明らかに男の名前だ。
「成瀬さん、あなたがお持ちの小説の内容を今一度思い出しては下さいませんか。そこに、鍵がございます。」
日下部さんの声が、地面を伝って心臓の中に語り掛けてくる。
「成瀬、お前さっきから黙りっぱなしでどうしたんだよ。」
宮司は、混雑した大型ショッピングモールで親とはぐれた幼児みたいな面持ちで俺と日下部さんを交互に見ている。小説。その時俺は、何であの本に興味を持って手に取ったのかを急に思い出した。舞台は架空の王国。そこではドラゴンが王族の家来として、一人一人の王族に仕えていた。そこの第一王女のセリフ。「ホントの僕は」それが本の帯に、印字されていた。俺の中で何かが手をつないだ。架空の世界っていうのはきっと、俺たちとは別の世界の現実なんだっていうことに。
「よくぞ、お気づきになられましたね。…が、キーパーソンはあなた一人ではございません。」
日下部さんの言葉の余韻が、沈黙の空間に深く浸透する。俺の背筋を何かが這い上がった。まるで、“まだ記憶していない誰か”の指が、心の奥に触れてきたみたいだった。
「それって……まさか、圭吾が?」
俺の問いに日下部さんは静かに頷いた。公園の空が、夕暮れから次第に薄闇に変わっていく。
「圭吾様の魂の行方が、残響の界に留まっているのです。あなたの記憶の中で彼が『少女』であったこと。それは事実であり、同時に真実ではございません。」
「ど、どういうことだよ……」宮司の声が震えていた。
「圭吾様は、自らの存在が“どちらにもなれない”と感じておられました。王国で生まれたものの、血筋による身分は持たず、性の在り方も規格からは外れていた……それゆえ、大人たちは、彼を“忘れる”という選択をした。」
「……忘れる?」
「記憶から、歴史から。すべての記録から。けれど、蓮さん、あなたは唯一、あの子の名前を聞いた。覚えていた。それが、魂をこの界に繋ぎ止めた最後の鎖だったのです。」
俺は、まるで自分が巨大な歯車の真ん中にいたことを、いまやっと理解した。
「彼の魂は、次の扉の先にございます。ですがその前に――」
日下部さんが振り返り、こちらにまっすぐな目を向けて言った。
「“本当の姿”で向き合っていただかねばなりません。」
その瞬間、公園の中心にブランコが現れた。誰も乗っていないのに、軋んだ鎖の音とともに、ゆら、ゆら、と静かに揺れている。その後ろに、もう一人の「俺」が立っていた。あの時、あの場所で、あの少女と向き合うことを選ばなかった、自分だ。
「……成瀬?」宮司の声が遠い。
「俺、たぶん、ここで一回、逃げたんだ。」
あの日、ブランコに座っていた圭吾の前で、俺は声をかけて、そして――それ以上、近づかなかった。助けようとも、名前を呼び続けようともしなかった。そんな自分の臆病さを、どこかで封じ込めていた。それを、今、ここで向き合わなければいけないんだ。俺は、歩き出した。ブランコへ、過去の自分へ、そして圭吾へ。
近所のあの子。小説の第一王女。少女に見える少年。圭吾って言うのはあの子がその場で思いついた名前だったのか?それとも、心も体も本当は男でありながら、無理やり女にされた?ブランコまでのたった数歩。色んな思いが交錯する。キーパーソンは、あなただけではない。その言葉を反芻する。俺が再び右手でブランコの鎖を掴もうと鎖に手を伸ばした瞬間、宮司の方を振り返る。宮司は今も泣き出しそうな幼児みたいな表情をしている。
「お前、下の名前、龍臣だろ。ドラゴンの臣下だってよ。お前、あの小説のキャラみたいな名前してんな?」
冗談のつもりで言った。そのとき、日下部さんの目が一瞬また、爬虫類みたいになった。いや、ただの爬虫類じゃない。それは、間違いなく…。俺はどうやら限りなく正解に近づいてしまったらしい。
日下部さんの瞳に浮かんだ、あの光。
それはただの“爬虫類”ではなかった。――竜のそれだ。
金色と深緑、そして燃えるような朱。見たことのない虹彩が、確かに俺を睨んだ。日下部さんの口元が、ほとんど 気づかれないほどに歪んだ。まるで、俺の推理を肯定するように。
「成瀬……何、それ。どういう……?」
宮司が不安げに声を震わせながら俺に寄ってくる。
「お前、名前。龍臣。ドラゴンの家臣……」
俺が口にした言葉の意味を、宮司はまだ分かっていないようだった。けれど、彼の背後で、夕陽が弾けるように光った。
パキンッ
何かが割れた音がした。
見れば、宮司の足元に光の裂け目が走っていた。夕暮れの景色にヒビが入る。ガラスを割ったみたいに、世界が音を立てて歪み始めた。
「龍臣様」
日下部さんが、静かに、けれど確かにそう言った。
「……え?」
「思い出していただく時が参りました。あなたは、かの王国にて、第一王女様に仕えていた唯一の護竜士でございます。」
「ちょ、ちょっと待てよ日下部さん。何だよそれ……俺が?」
宮司の声は完全に素のままだったが、足元のヒビはもう彼のふくらはぎまで到達していた。
「王族は、竜の加護なしに即位することは叶わぬ定め。そして、あの戦で……あなたは命を落とされました。ですが、彼の方――成瀬蓮様が“名前”を記憶していた。それが、奇跡の継ぎ目となったのです。」
「お前……お前、なんか変な薬とか盛ったか?それか、どっきりか?マジでわかんねぇ……!」
「宮司!!」
俺は思わず彼の肩をつかんで叫んだ。「思い出せって言われてるんだよ!」
「何をだよ!! 俺はただの大学生だぞ、成瀬と一緒に適当に授業受けて、たまにカラオケ行って……なんで、なんでいきなりそんなこと言われんだよ!」
涙が混じっていた。彼は本当に分からないんだ。けれど――彼の背中から、淡い青の鱗が浮かび上がっていた。まるで、彼の心の中から滲み出たかのように。彼はまだ気づいていない。けれど、もう始まってしまった。俺はブランコに視線を戻した。圭吾は、まだそこにいる。俺を待っている。
「圭吾、俺……俺、逃げないから。今度こそ、最後まで、ちゃんと見るから。」
そして――俺は、ブランコの鎖に触れた。
「宮司、お前も鎖、触ってみろよ。何かが起きるかも。」
何が起きるのかは全然分からない。なんで龍臣が小説からの転生者みたいになってるんだ。どこぞのガキが妄想しているような世界。ドラゴン、王国、転生。要素が完璧に揃っているのではないか。でも、その要素の中には俺たちも含まれている。きっと、俺たちがいなきゃダメなんだ。だから、呼ばれた。俺たちはこの世界の部品なんだ。多分。宮司は欠けた歯車かなんかで、俺は潤滑油みたいなもんか。
「……成瀬、お前、マジで言ってんのかよ……?」
宮司は震える指で、そろそろとブランコの鎖に触れた。その瞬間、風が吹いた。何もなかったはずの公園の空気が、急に形を持ったように渦巻き始める。ブランコの鎖が金色に、滑り台が銀色に光る。地面には、幾何学模様の魔法陣が音もなく浮かび上がった。
「ちょ、ちょっと……なんだこれ……? うそだろ……」
宮司の背中、そこから羽のような光が伸びようとしていた。鱗とは違う。もっと、神聖な、でも確かに異世界のもの。
「君が王女圭吾の“盾”であり、龍臣たる名に込められし魂そのものであるのなら、君―成瀬蓮は、“記録の書き手”であり、“導きの者”であるべき存在です。」
日下部さんが、またしても唐突に言う。すでに彼の姿は人のそれではなかった。腕の節々に鋭い金のうろこが浮かび、髪は宙を泳ぐように揺らめき、瞳は人と竜とのあわいにある。
「物語には、“記す者”が必要です。君が本を手にしたのは偶然ではありません。君の思考が、言葉が、物語を進める力を持つのです。」
「……そんな、馬鹿なこと……」
俺は言いかけて、やめた。胸の奥に、あの日の感覚が蘇っていた。あの時、確かに俺は思ったんだ。
――この子のことを、誰かに話さなきゃ。忘れたくないって。誰かの人生を「語る」ことは、忘れないことと同じだ。忘れないことは、死なせないってことなんじゃないか。だったら、俺は――
「わかったよ日下部さん。俺が“記録の者”ってんなら、そうする。でも、その代わり、約束してくれ。宮司を、圭吾を、死なせないって。」
「成瀬、てめぇ何勝手に……!」
「お前、思い出してる最中だろ?」俺はにやりと笑う。「なら、せっかくだから全部思い出してから文句言えよ。」
宮司が何かを叫ぼうとした時、空が、割れた。
闇が開き、そこに新たな扉が現れる。
そして、そこに書かれていた文字。
『記憶の竜の番人――成瀬蓮、記録を開始せよ』