複雑・ファジー小説
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- 狭間に生きる僕ら ~扉(1)~
- 日時: 2025/06/21 16:57
- 名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)
次のページを捲ると、第1巻終わりの文字が無情にも今までの世界を中断した。
夏休みが始まる直前、私は本屋に立ち寄った。特に何か理由があるわけではなかったが、汗でびしょ濡れになった制服が気持ち悪くて乾かしたかったし、シャーペンの芯も補充しておきたかった。自動ドアが開くと、全身を冷気が包み込む。冷たい風が私の髪の隙間を、スカートの下を吹き抜けていく。ここでしばらく涼んでいこう。そう思って私は探してもいない本を探して本屋の中をぐるぐるとさまよった。三周目に差し掛かって、そろそろ帰ろうかと思った矢先に「今話題のファンタジー小説発売中!」と手書きの等身大くらいの大きなポスターが入り口近くに貼ってあることに気づいた。どうして私、今まで気づかなかったんだろう。まあ、テスト期間も終わったし、気分転換に小説を読んでみるくらい良いよね?店員さんにその本が売られている所に案内してもらって、値段は比較的良心的だったから軽い気持ちで買った。正直あまり架空の物語は好きじゃなかったんだけど。でもだからこそ、私がこんなにこの物語の続きを喉から手が出そうになるくらい欲するとは思わなかった。次の発売日はいつだろう。成瀬蓮、宮司龍臣、日下部透、そして圭吾。早く彼らのストーリーの続きが読みたいな。「佳奈美ー、夜ごはーん。」お母さんが階段の下から私を呼んでいる。はい、と短く返事して、一冊の本をリュックサックの中にしまい込んだ。カレーの香りが私の鼻を撫でた。
夕食を終えて自室に戻った私は、リュックからあの小説をもう一度取り出した。文庫のカバーを外すと、出版社名も、値段も、バーコードもない。さっきまで気づかなかった。最初は普通の本だったはずなのに。何気なくページをめくってみる。最終ページには確かに「第1巻 終わり」と記されている。その下に、小さな活字でこう書いてあった。
“2巻の続きを読むには、鍵を持つ者と出会う必要があります。”
鍵……?読み間違いじゃない。もう一度見ても、そこに書かれているのは間違いなくその一文だけだった。ページの縁を指で撫でると、妙にざらついている。紙というより、どこか鱗のような質感。
ドン、と窓が揺れた。突風かと思ってカーテンをめくると、空はどこまでも静かで、星がよく見えた。ただ一つだけ、空の右端に小さく、金色に瞬く星があった。私は無意識に手を伸ばしていた。まるで物語の中の成瀬みたいに。その時だった。机の上のスマートフォンが震え、通知が表示された。
蓮くん:まだ起きてる?
胸の奥が、ドクンと鳴った。実は蓮くんって言うのは、私が中学時代に二年間付き合っていた人。いつの間にか自然消滅したけど、その後もお互い普通の友達の頃みたいに仲良くしてる。だけど本当は、こうやって蓮くんから連絡が来るのをひそかに喜んでいる自分がいるのは誰にも内緒。小説の主人公の名前が蓮くんと同じなのも、私がこの本に夢中になってしまった理由だったりする。そういえば、8月に近所で開かれる花火大会に二人で行く約束をしていたんだった。その日まで後1週間くらい。「起きてるよ?もうすぐ花火大会だから、お互い体調に気を付けなあかんね。」ポチポチっとフリック入力の音と送信音のシュッていう音が、気持ちよく部屋に響いた。蓮くんからの返事を待つ間、スマホを左手にもう一度窓から空を見上げる。やっぱり、あの星だけ異様な光り方をしている。あれ、なんて言う星だろう。生暖かい風が私の頬を撫でる。
「…何て言う星なんやろ」
誰に聞かせるでもなく呟いたその瞬間、スマホが震えた。
蓮くん:あの星、見えてる?右上の、変な光り方してるやつ。
ドクン。なんでわかったの?どうして私がそれを見てるって知ってるの?まさかとは思ったけれど、続けて送られてきたメッセージに、私は固まった。
蓮くん:佳奈美ってさ、「架空の世界が実は現実」って信じるタイプ?
スマホを持つ手に、じっとりと汗がにじむ。そんなの、さっきまでの私の心の中そのまんま。
佳奈美:え、ちょっと待って、どういう意味?なんで急にそんなこと聞くん?
メッセージを送った直後、私はスマホをじっと見つめた。既読がつくのが怖い。返事が来るのが怖い。けれど、目を離すことができない。既読。そして、その下に浮かび上がったメッセージ。
蓮くん:俺もあの小説読んでたんだ。っていうか、読んだっていうより、思い出してるって感じ。
夜の静けさが、部屋を締め付ける。花火大会の約束、制服を濡らした夏の日、ふと立ち寄った本屋。その全てが、物語の中に組み込まれていたパーツみたいに、かちり、と音を立てて繋がっていく。
あの星ってもしかして、架空と中間の間にあるみたいな存在なのかな?でも、それってなんだか怖くない?自分の予想が外れてほしくて、峻兄ちゃんの部屋に向かう。ドアを開けようとすると、鈍い金属音が手を伝わってきた。
「開けてよ。天体図鑑貸してほしいの。捨ててないよね。」
ドア越しに叫ぶと、峻兄ちゃんが面倒くさそうにドアを開けて、「なんでそんなもんがいるんや、佳奈美。」と実に不思議そうな目で私を見る。「良いから貸して。」自分の部屋に戻りがてら、本当にあの星が存在しないことを確かめようとした。でも数百ページの中から名前も分からない星を見つけ出すのは酷だった。
「なんの星が見たいんや、佳奈美。」峻兄ちゃんが自分の部屋から出て、私の頭の上から図鑑をのぞき込む。「知らない星があるんよ。兄ちゃん、わかる?」そう言って私は自室に生まれて初めて峻兄ちゃんを入れた。窓のところに峻兄ちゃんをグイって押し付けた。「ほらあれ。一際目立ってる変な星あるでしょ。」峻兄ちゃんが窓から見える空を端から端まで確認するように目で追っていた。そして、窓の鍵を開けて窓の外に身を乗り出して、今度は空全体を見回すようにぐるりと首を回した。
「…どれのことや。」それを聞いて私は鼻で笑った。まさか自分の兄がここまで鈍感だとは思わなかった。「ほら、あれやんか。」でも、私が指さした先にはあの星はなかった。嘘。小説の蓮も、マンションがないことに気づいたとき、こんな気持ちだったんだ。生暖かい風が、ぬるりと頬を撫でた。
ついさっきまで、あの星は確かに、あそこにあった。目の奥に焼きついてるくらい、強く光っていたのに。
「熱中症か?水でも飲むか?」
峻兄ちゃんは眉をひそめながら、私の額に手をあててきた。それが余計に自分が“おかしい側”にいることを突きつけてくる。私はその手をそっと払いながら、ぎこちなく笑った。
「大丈夫。ただの見間違いやったんかも。」
自分で言っていて、涙が出そうになった。
部屋に戻って窓を閉める。カタン、という音が、世界の蓋が閉じるように響いた。私は気づいてしまった。本当に“ない”なら、こんな風に胸が痛くなったりしない。どこかに“あった”からこそ、消えたことが分かるんだ。スマホを手に取り、さっきの蓮くんとのトーク画面を開く。
佳奈美:あの星、今、消えたみたい。兄ちゃんには最初から見えてなかった。
ほんの十秒ほどで、既読がつく。
蓮くん:たぶん、佳奈美が“扉”を開けかけたからだと思う。それは、誰にでも見えるものじゃない。選ばれた人にしか。
選ばれた?私が?胸の奥が、ふわりと熱くなる。もしかして私も“物語”の中の住人になりかけているのかもしれない。小説の中の蓮くん。現実の蓮くん。あの星のことを知っていたのは、彼だけ。
次のメッセージが届いた。
蓮くん:花火大会の日、もうひとつの“世界”の入り口が開くと思う。行くよな?
部屋の静けさの中で、私は指をゆっくりと動かした。
佳奈美:うん、絶対行く。
打ち終わった瞬間、再び風がカーテンを揺らした。今度は、生ぬるくなかった。どこか遠くから吹いてくる風の匂いがした。知らない世界の、知らない草木の匂い。私は、あの小説の続きを、現実で読むことになるのだと確信した。
「佳奈美、おい、佳奈美、起きろって。」
誰かのつぶやき声が耳の中に滑り込んできた。重たい瞼をこじ開けると、そこには眠った痕跡のない峻兄ちゃんがいた。「佳奈美、なんかさっきのお前変と違ったか?」峻兄ちゃんは鈍感なくせに、変なところで鋭い。そういえばお兄ちゃん、俺は宇宙人と一回でも良いから遊んでみたいんだって、小学校の低学年くらいの時に大泣きしてパパとママを困らせてなかったっけ。そんなお兄ちゃんなら、私の話も信じる、いや信じはしなくても受け止めるくらいはしてくれるんじゃないか。気づいたら眠気は完全に消えていた。睡魔が、伝えるなら今しかないって言うように。隣の部屋で寝ているパパとママに聞こえないように、私は体験したことを全部話した。話し終えると、私は息が上がっていた。息継ぎをするのさえ忘れていたらしい。チッ、チッと秒針の音が静かに響く。星の光でかろうじて見えるお兄ちゃんのシルエットの口が動いた。
「佳奈美、パラレルワールドっての知ってるか?」
犬の遠吠えが静寂を破った。
「パラレルワールド?」
私は思わず聞き返す。声がかすれて、自分の耳にも頼りなく聞こえた。峻兄ちゃんは、いつもの飄々とした感じを一瞬だけ脱ぎ捨てたような、真面目な目つきをしていた。夜の闇にその顔ははっきりとは見えないけれど、気配だけで分かった。
「もし、やけどな。もし、ほんまに“向こう側”の世界ってやつがあって、お前がそこに引き寄せられかけてるとしたら、俺、ちょっとだけ信じる気になってきた。」
「……え?」
「だって、お前、こんな真剣に話すことないやろ。お前が嘘ついてるときは、必ず右の眉毛がピクピクするけど、今日は一回もしてなかった。」
私は反射的に自分の眉を触った。そうだったのか……自分でも知らなかった癖を、兄はちゃんと見ていた。
「でも、これだけは覚えとけ。どんな場所に行っても、お前の“帰ってくる場所”はここにある。」
その言葉が、ずしりと胸に落ちた。気がつけば、涙がこぼれていた。声も出さずに、ただぽろぽろと。
その夜、私は久しぶりに夢を見た。
夢の中で私は、小説の中の“王国”に立っていた。
金色の空。紫の雲。赤く光る川。現実のどこにも存在しないはずの風景なのに、なぜか懐かしかった。目の前にいたのは、あの“蓮くん”だった。現実の蓮くんではなく、小説の中の彼。いや、もしかしたらそのどちらでもない、もうひとつの“蓮”だったのかもしれない。
「佳奈美、次に会うときは、花火が空を割る夜だよ。」
そう言って彼が手を差し出すと、私は何の迷いもなく、その手を取っていた。
朝、目が覚めると、枕元に一枚の紙が落ちていた。それは、小説の1巻に挟まれていたはずの“しおり”。でも、何かが違った。見覚えのない文字が、ペンで書き足されていた。
「“境界線”が開くとき、選ばれし者は名前を失い、新たな名を得る。」
しおりの紙がほんのりとあたたかかった。
子どものはしゃぎ声と大人の低い話声が家の前を賑やかに通り過ぎて行った。私もそろそろ行かなきゃ。玄関のサンダルに両足を突っ込む。いったんドアを開けてから、後で痒くなるのは嫌だから虫よけスプレーをリュックの中に押し込んだ。スプレー缶の底が、先日から入れっぱなしの小説の表紙にコツンと当たった。サンダルの底と砂利が擦れる音が気持ちいい。サンダルの中のゴムと足の裏が歩くたびにくっついたり離れたりするのがムズムズする。蓮くんと待ち合わせ場所にした公園までは、住宅街の中をたった一本の道が貫くように走っている。どこまでも続いていそうな道。どこか違う世界に誘われるような道。この道の先に、蓮くんがいて私を待っている。
「お、いたいた。」公園の方から蓮くんの声がした。蓮くんは、ブランコに乗るにはもう似合わないような大きな体でぎーこぎ―こと漕いでいた。公園よりずっと向こう側の広場から、子どもたちの甲高い声が聞こえてくる。おじさん、おばさんたちが焼きそばとかたこ焼きとか綿あめって大きな声で叫んでいる。「さて、行きますか。」蓮くんが長い脚をまっすぐに伸ばして、ズズっとサンダルを地面に擦り付けた。ブランコから立ち上がると、蓮くんは私の方に左手を差し出す。それを私が右手で握る。蓮くんの手は大きくて暖かかった。手汗で湿ってはいたけど、不思議と気持ち悪さはなかった。
蓮くんと手を繋いだまま、私たちは屋台が立ち並ぶ通りへと歩き出した。夜の空気は昼より少しだけ涼しくなっていて、でも人の熱気でじんわりと暑い。綿あめの甘い匂い、たこ焼きソースの香ばしい匂い、射的のコルク銃の音、金魚すくいの水のはねる音——全部が混ざって、夏祭り独特のざわざわしたリズムを作っていた。
「何食べたい?」と蓮くんが聞く。
「うーん……」
「優柔不断やな、佳奈美は。」そう言いながら、蓮くんはにやっと笑う。
その笑顔は、少し昔のままだった。中学の頃、付き合っていた頃に見せた、私しか知らなかった顔。それを今、また見ることができている。それだけで、胸の奥がちょっと痛くなる。
「じゃあ、まずは焼きそばで腹ごしらえやな。」
手を繋いだまま、焼きそばの屋台へ向かう。その途中で、ふと私は立ち止まって空を見上げた。
——あの星が、戻っている。
昨日見た、あの異様な光り方をした星。周りの星と違って、わずかに揺らめいているように見える。まるで、そこが何かの入り口かのように。
「ねぇ、蓮くん。あの星、見える?」
「ん?どれ?」
私が指さした星を見て、蓮くんも目を細める。「……ああ、なんか他の星と光り方ちゃうな。よく見つけたな。」
「私、昨日もあれ見たんよ。でも……一回、消えた。」
「消えた?」
「うん。峻兄ちゃんに見せようとしたら、なくなってて。でも今、また戻ってる。」
蓮くんが少しだけ真面目な顔になった。
「それ、小説と関係あると思ってるん?」
「……うん。あると思う。だって、最初にあれを見つけた夜から、全部が始まった気がする。」
星は、私の話を肯定するように、ふわりとまた瞬いた。蓮くんが黙ったまま空を見つめる。そして、しばらくして口を開いた。
「俺、実はちょっとだけ、変な夢見た。」
「夢?」
「うん。昨日の夜。なんか、知らん場所で、知らん服着て、誰かに『成瀬蓮、お前が守るんや』って言われた。」
私は喉がぎゅっと締まる感覚に襲われた。今まで、自分だけが変なことに巻き込まれてると思ってた。でも違った。蓮くんも、何かに触れている。
私たちは、焼きそばの屋台の前で立ち止まった。屋台の灯りが、私たちの顔を照らす。焼きそばのソースの香りが、一瞬だけ、不安な気持ちを遠くへ吹き飛ばしてくれた。
「なあ佳奈美、もしかして俺たち——」
「うん、たぶんもう、普通の世界には戻れないのかもしれない。」
その言葉は、お互いにとって答え合わせだった。
遠くで花火が一発、夜空に開いた。ドン、という音が胸に響いた。
「ねえ、食べる前に確かめない?すぐに戻れるか、わかんないけど。」
私は空に光る一点のあの星だけを見つめながら、蓮くんに話しかけた。「へ?」蓮くんの声が少し遠くからしたから、そっちを見ると蓮くんが、名前は分からないけどジャガイモをぐるぐる巻きにして串に刺したやつを二本、左手に持ちながら右手でポケットに突っ込まれた財布をごそごそと触っていた。「ごめん、もう買ってしもうたわ。こっちお前な。ほれ。」蓮くんが買ってくれたジャガイモは香ばしかった。蓮くんの褐色に焼けた腕みたい。蓮くんは昨日、花火大会の日にもう一つの扉が開くって言った。それは蓮くんの直感だろうか。それとも、蓮くんが小説の成瀬蓮と混ざり始めているのだろうか。
「もう一つの扉…どこにあるの?」蓮くんの口の端にジャガイモのかけらがくっ付いている。「わっかんねーな。」ジャガイモのかけらがひょこひょこと口の横で動く。「だけどな、多分。」そう言って彼はジャガイモの串を口の中に入れたまま、右手でどこかを指さした。夜の闇の中に溶け込む大きな山。それをすぐ近くで開いた大きな花火の光がオレンジ色に照らした。
私は蓮くんの指さす先を見つめる。確かに、あの山にはいつも妙な違和感があった。あのふもとにある小さな神社、誰が管理しているのか分からないし、地元の誰もあそこに近づこうとしない。
「行ってみよっか?」
自分でも思ってもみなかった言葉が、口から出ていた。花火大会の喧騒の中で、私の声はかき消されそうだったけど、蓮くんはちゃんと聞いてくれていた。呆れたような顔。でも、笑ってる。私は頷いた。蓮くんは空になった串を近くのゴミ箱に突っ込んで、じゃあ行こか、と一言。
気づけば、二人で人の流れに逆らうようにして、公園の裏手の小道を進んでいた。空では、花火がぽんぽんと開いては散っていた。それはまるで、現実の世界が私たちを見送ってくれているみたいだった。次第に人の声が遠のき、周囲の音が虫の声と草のざわめきに変わっていく。
「蓮くん、こっちで合ってるの?」「たぶん、な。」
彼はいつもの調子でそう言って、でもどこかいつもと違う顔で前を見据えていた。
ふと、視界の先に何かが揺れた。風もないのに、木の奥で白い何かが、ひらひらと舞っている。
私は立ち止まり、蓮くんの袖を掴んだ。
「見えた?」「……ああ。見えた。」
あの星は、まだ空にあった。