複雑・ファジー小説

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狭間に生きる僕ら ~扉(2)~
日時: 2025/06/21 17:15
名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)

「待って、あれ蝶々じゃんか。あんな真っ白なの初めて見たわ俺。」
蓮くんは蝶々が逃げないように、そっと近づいた。蝶々はどんどん山の奥へと飛んでいく。蓮くんもそれについて奥へ行ってしまう。
「蓮くん、やめとこうよ今晩は。暗いし何がいるかわかんないよ。親も心配するといけないから、明日の朝にまた来よう?」
私の呼びかけに蓮くんは立ち止まった。蝶々は蓮くんと私の間を行ったり来たりしはじめた。
「今晩じゃなきゃいけないんだとしたら?」
私は初めて蓮くんのこんな顔を見た、声を聴いた。蓮くんの少し茶色がかった黒目が、私の全てを見抜いてしまいそうなくらいに鋭くて深い。蝶々がまた奥へ奥へと飛んでいく。
「ついて来いっていう意味だよきっと。行こう。死にはしない。」
蓮くんのその言葉が、小説の蓮が宮司に説得する場面と重なった。

私は、足がすくんだまま立ち尽くしていた。
暗がりの山道、草の匂い、土の湿った匂い。そこに、蓮くんの言葉が混じる。死にはしない。たったそれだけで、私の心にあった怖さが、少しだけ薄れた。
「…分かった。でも、絶対、手離さないでよ。」
蓮くんがまた私に手を差し出す。今度はさっきみたいなやわらかさではなくて、しっかりと私を引き寄せるような強さだった。私はその手を握り返した。白い蝶は、私たちを見ながら、ゆっくりと舞い進んでいく。道案内をしてくれているみたいに。途中、地面に古びた鳥居のような形をした木の枠が、斜めに倒れていた。そこをくぐると、空気が急に変わった。気温が少し下がって、肌に触れる風が冷たく感じる。
「なあ、佳奈美……」
蓮くんの声が、少し震えていた。
「虫の声が……消えた。」

気づけば、あんなににぎやかだった虫の音が、どこにもなかった。代わりに、遠くから水のせせらぎのような音がかすかに聞こえる。その音の方へ向かって、白い蝶も飛んでいった。もう戻れないのかもしれない。だけど、不思議と怖くなかった。蓮くんと手をつないでいる限りは。――そして、私たちは、音のする方へと、一歩また一歩と歩いていった。

暗い。寒い。冷たい。帰りたい。夜の山の中は全てが寝静まっている。一人の男と一人の女、一匹の蝶々の息遣いだけが山の中を響いている。山道のあちこちに水たまりがあった。ここ最近雨なんて降っていなかったのに。サンダルの穴から氷水みたいな雨水が入ってきて私の足指を一本ずつ凍らせていく感覚を覚える。今まで私を力強く引っ張ってきてくれた蓮くんが突然止まった。サンダルのつま先が濡れた土に食い込む。蓮くんの大きな背中で前が見えない。「どうしたの?」蓮くんの脇腹あたりから顔を覗かせると、蓮くんよりも大きな、空に届きそうな石碑が立っていた。石碑は高く空に伸びていた。私たちはいつの間にか山頂まで来ていたんだ。 石碑は半径3メートルくらいの円い池の真ん中に立っていた。池は不思議なくらいに青く澄んでいた。「佳奈美、さっき俺らが見た蝶々だ。」久しぶりに蓮くんの声を聴いた気がする。蓮くんは石碑の高い所を見つめてる。石碑の一番上のところに、真っ白な蝶々の姿が彫られていた。蝶々がこのまま空の彼方へと飛んで行ってしまいそうに見えた。
「……この場所、なんなんやろな。」
蓮くんがつぶやく。私たちは自然と口を閉じて、石碑の周りの池を見つめた。風もないのに、水面がかすかに揺れている。何かが、呼吸しているみたいに。
「佳奈美、ちょっと池、覗いてみ?」
蓮くんに言われて、私は慎重に池の縁まで歩いていった。サンダルがじゅくじゅくと濡れた音を立てる。池の水は底が見えないくらい深くて、だけど青く澄んでいた。私は体をかがめて、水面を覗き込んだ。……そこに映っていたのは、私の顔じゃなかった。髪が長くて、少し年上に見える女の子。だけど、目だけが私と同じだった。
「蓮くん……誰かいる。私じゃない誰かが、映ってる。」
蓮くんも池を覗き込む。彼の顔にも緊張が走る。
「……それ、成瀬蓮の小説に出てきた女の子やないか?」
私は思い出す。蓮の小説に出てきた、もう一つの世界で蓮と一緒にいた女の子。名前は――「圭吾」。

池の水面が急に波打ち、真ん中の石碑の蝶の彫刻がほのかに光りはじめた。
白い蝶が、その石碑からふわりと離れ、宙に舞い上がる。その蝶が飛び去った先には、光の粒が集まって、一つの扉のような形を作りはじめていた。私は、息を呑んだ。

これが――もう一つの扉?

扉がゆっくりと形になってきた。私たちは二人、固唾を飲んでそれを見守る。成すすべもなく、人知を超えた何かを前にいったい何が出来ようか。扉が完成すると、ゆっくりと私たちの前に降りてきた。それを作っていた光の粒が蛍みたいにふわふわと飛び散っていった。扉はまるで開けてもらうのを待っているかのように、私たちの前に静かに立っている。石碑の周りの池が星空に照らされ、反射した光が扉をゆらゆらと漂っている。開けなきゃ。理性よりも先に行動が先に出た。私が扉のドアノブに手をかけると、その上から蓮くんの手が私の右手を包んだ。「せーのっ」二人で声を合わせて開けた扉は存外軽かった。

扉を開けた瞬間全身から力が抜けた。夢の中を漂っているような感じがする。周りは何も見えない。蓮くんも見当たらない。開けなきゃよかった、と後悔したとたん、聞き覚えのある電子音が耳を刺激した。目を開けると、そこは私の部屋だった。柔らかい光がカーテンの隙間から差し込んでいる。鳥たちの歌声がどこからともなく聞こえてくる。理解が出来ない。だって、さっきまで私、蓮くんと山にいたのに。夜だったのに。しばらくベッドに腰かけてぼんやりしていると、峻兄ちゃんがドアを軽く叩いた。「朝ごはんだってよ、この寝坊助」時計を見ると、もう10時。やばい、ママに怒られる。ようやく現実に引き戻されて慌ててドアを開けると、ドアと何かがドスンと鈍い音を立ててぶつかった。「いってえな」峻兄ちゃんが鼻を抑えて、私を少し睨んでる。「ごめん」そういって私は台所へ向かいに階段を降り始めた。峻兄ちゃんは後ろから「おかえり」とだけ言って、また自室に戻ったのが聞こえた。

階段を降りながら、私は頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。

(夢……だった?)

テーブルにはいつものように朝ごはんが並んでいた。卵焼き、ウインナー、味噌汁、炊き立てのごはん。でも、箸を持っても食欲が湧かない。
「どうしたの、佳奈美。寝すぎて頭でもぼーっとしてんの?」
ママが笑いながらそう言った。
「ううん、ちょっと変な夢見ただけ。」
私はそう答えながら、ふとスマホに目をやった。

新着メッセージ:蓮くん(未読)「無事、戻れたか?」

心臓が、ドクンと跳ねた。夢じゃなかった。蓮くんも、あの扉も――全部、本当だった。私は箸を置いて、スマホを握りしめた。
「ごめん、ちょっとトイレ!」
そう言って洗面所に駆け込むと、すぐさま返信を打つ。
「戻れた。あれ、何だったの?」
送信ボタンを押すとすぐに既読が付き、間を置かず返ってきた。
「まだ終わってない。今夜、話せる?」
指が震えて、何度か打ち直しながら、私はこう返した。
「うん。会おう。」

鏡に映る自分の顔は、どこか変わって見えた。
昨夜、扉の向こうで見た“もう一人の私”の影が、まだ目の奥に残っている気がした。

朝ごはんを食べ終えて着替えたり歯を磨いたり、諸々を済ませた頃にはもう、お昼時になっていた。今はもう、何も食べる気になんてなれない。

部屋は太陽の光で白く照らされていた。少し眩し過ぎるな。普段は開けっ放しにしているカーテンを閉めて、勉強机に腰かける。もうすぐ数学のテストがあるから勉強しなきゃ。リュックに手を突っ込んで数学の参考書をごそごそと探した。左手の指先が硬いものに触れる。それを持ち上げようとすると重みがズシリと指先に伝わってきた。リュックの隙間からその重みに負けじと指先に力を込めて、無理やり引っ張り出した。あ、間違えた。重さもサイズも似ているから、てっきり参考書だと思ってあの小説を持ってしまった。 

少しだけ。本の背中に小さな文字で印字された小説のあらすじを、もう一度、一言一句確かめるように読み直した。小説の蓮は、私から見れば架空の人。宮司も、日下部さんも。ドラゴンなんているわけないもの。だけど、本人はきっと、自分は現実にいる人間だって思い込んでる。それは、きっと私も。現実に扉が光の粒に包まれて現れるなんてこと、ある訳ないのに。もし、もし、蓮くんも私も実は架空の世界の住人で、私たちのことを興味深く観察している誰かがいたとしたら。出口のない迷路に連れていかれそうになって、慌てて立ち止まった。

その時、部屋のベランダの下の方から男の子の声が聞こえた。「すみませーん、すみませーん。」 甲高い声が休日の住宅街にどこか静かに響いた。ベランダの窓から顔を出して下を見ると、小学校の低学年くらいの子がいた。おでこに汗をかいて、肩から少し大きすぎるような水筒をぶら下げている。ハンカチが突然吹いた風に飛ばされて、うちのベランダの物干ざおに引っかかってしまって取れなくなったらしい。男の子のあどけない表情に思わず顔がほころぶ。些細なことでも、この子に何かできることがほんの少しだけ嬉しかった。

その直後、私は胸をギュッと掴まれるような感じがして、心臓が激しくなり始めた。物干しざおには、深い青色のハンカチがはためいていた。きっと、あの本を読み過ぎたんだ。きっとそうだ。絶対にそうだ。そう自分に言い聞かせて、恐る恐るハンカチを手に取りベランダから男の子にひょいッと投げると、男の子は大げさなくらいに大きなジャンプをしてそれを両手でつかみ取った。お礼を言って嬉しそうにパタパタと、水筒をカランカランと言わせながら走っていく姿を見ると幾分か心が落ち着いた。

自分の心臓がまだ激しく動いていることに気づいた。拍動と秒針が呼応する。蓮くんと私と、あの男の子も?何かが私たちを小説の世界に巻き込んでいる。架空を現実のものにしていっている。

スマホが、かすかに震えた。
新着通知:蓮くん「あの小説、また読んでみて。今夜までに。」

それだけだった。でも、その一行が私の脳を完全に覚醒させた。
「また」読めって、どういう意味?あの出来事はもう終わったんじゃないの?

頭の奥で警鐘が鳴っているようだった。

私は机に置いた小説を、恐る恐るもう一度手に取る。開いたページには、見覚えのない場面が書かれていた。そこには、昨夜蓮くんと私が登った“山の描写”が、そっくりそのまま書かれていた。石碑、池、真っ白な蝶、そして扉。

でも、一つだけ違う。

蓮は扉を開けたあと、彼女とはぐれなかった。二人はそのまま扉の向こうで、ある村に辿り着いていた。

私が経験したことと、微妙に違う。私たちははぐれて、目覚めたのは自室だったのに――。

ページをめくる指が止まらない。その村には、「時間が止まったままの住人」がいた。動かないはずの人々。眠ったままの街。そして、そこに火を灯すために現れたのが、“蝶の導き”を受けた者だった。

私は目を閉じて深く息を吸った。

蓮くんは、知ってる。
この小説の続きを、すでに――。

先日お兄ちゃんがパラレルワールドっていうものを教えてくれた。諸説あるみたいだけど、どうして平行世界があるのかやどうやって出来ているのかを研究している人たちが世界には多くはないけれどいるらしい。実際にその平行世界に迷い込んだっていう人たちの体験談が想像以上に多かった。細かい所では違っていたけれど、共通していることがあった。それは、私たちが今いる世界とそっくりだけれど、何かが変わっているということ。それが、人なのか人以外の事柄なのかについては明確には定まらないようだけれど。

でも。

成瀬蓮と蓮くん。私と、私に似た少女「圭吾」。青い旗と青いハンカチ。何より、私たちの体験したことがほぼ完ぺきに小説の中に描かれていた。でもそれがまさに、私たちがパラレルワールドに行っていたっていうことじゃないんだろうか。もし、そうだとしたら、あの夜の山の中がパラレルワールドなら、本の続きに描かれる扉の向こうの「時間が止まったままの住人」がいる世界はいったい、どこなの? 

日が落ちてきた。蓮くんと会うまであと数時間。私は小説もスマホもリュックの中に放り込んで数学の参考書を開けた。薄暗くて文字が見えにくかった。ページの文字は霞んで見えたけれど、私の頭の中は妙に冴えていた。今、何をすべきか、心のどこかでちゃんと分かっていた。

「蓮くんと、もう一度あの場所に行く。」

この結論にたどり着くまで、何日もかかるはずだったのに、わずか数時間でそこに至った自分に、私は驚きさえしなかった。

部屋を出ると、峻兄ちゃんが廊下にいた。ちょうど部屋から出てきたところだったらしく、湯気の立ったマグカップを片手に、ちょっとびっくりした顔をした。
「お、出かけんの?」
「うん、ちょっと。」
「またあの山?」
私は黙った。兄ちゃんは目を細めて私を見つめると、ゆっくりマグカップを口に運んだ。何か言いたげな間があったけど、結局彼はそれ以上何も言わずに、こう言った。

「……気をつけてな。」

私はうなずいて、玄関のドアを開けた。夕暮れが街をオレンジ色に染めていた。時間がゆっくりと流れている気がした。空を見上げると、どこかにあの真っ白な蝶がいそうな気がした。

目的地は決まっている。
石碑のある山頂。
そしてその先にある、まだ見ぬ世界。

私は歩き出した。次に開く扉の先に、何が待っているのかはわからない。でも、それを確かめなければ、前に進めない気がした。

オレンジ色の空がだんだん赤くなり始めた。この前蓮くんと待ち合わせた公園には、まだ帰りたくないと地面に寝転がって手足をバタバタさせながら泣きわめく息子を必死になだめている父親の姿。私が電柱を通り過ぎるたびに、カラスの声が頭上を私の進む方向とは反対に飛び去っていく。色んな家を通り過ぎるたびに、色んな香りがしてくる。ここは中華か。あっちはカレーだな。シチューっぽい香りも漂ってくる。

赤い空に紫色が混ざり始めた。今何時だろう。ポケットからスマホを取り出すと、蓮くんから新着メッセージが一通来ていた。「あの石碑の前で待ってる。」早く行こう。蓮くんが、私の知らないもう一つの世界が、私を待ってる。一度立ち止まって、知らぬ間に左のふくらはぎに出来ていた虫刺されを掻いてから、私はあの山を目指して走った。

私の影は見えない。日が沈むあの空へ、一直線に走り出した。額から流れ出た一滴の汗が、スッと後ろに流れていった。

山の入り口には、もう誰の姿もなかった。登山道を照らす外灯もなく、鳥居の奥はまるで世界が終わっているかのように真っ暗だった。それでも私は一歩を踏み出した。足元が見えなくても、心が知っている。蓮くんと歩いた、あの夜の記憶が、私の体をそっと導いていた。

小さな石を踏んで足が少しよろけた。サンダルじゃなくてスニーカーにしておけばよかったと、今さらになって後悔する。でも止まるわけにはいかない。息が白くなるほど気温が下がってきた気がした。風が木々の間を縫うように吹き抜けていく。葉のざわめきがどこかで囁いてる。

「……蓮くん……」
私は声に出してみた。でも、返事はない。懐中電灯もないまま、私はスマホのライトを頼りにして足を進めた。地面はぬかるんでいて、サンダルの底に張りつく泥が歩くたびに重たく響いた。

息が少し切れてきた頃、あの蝶々が現れた。真っ白な翅が宙を舞っている。昨晩よりも幻想的で、光そのものが形を持って羽ばたいているようだった。

その蝶が、また私を導くように山の奥へと飛んでいく。そして―見覚えのある空間にたどり着いた。

暗闇の中に、ぽっかりと浮かぶように池があった。水面が月も星もないはずの夜空を映して、かすかに光っている。あの石碑は、そこに静かに立っていた。

蓮くんは、いた。

池の縁に、背を向けて立っていた。肩のあたりがほんの少し震えているように見える。私は声をかけようとして、やめた。胸がぎゅっと締めつけられる。このまま声をかけたら、何かが壊れてしまいそうで。

「……来たんだな。」
先に、蓮くんが口を開いた。背を向けたまま、でも私の来た音をちゃんと聞いてくれていた。
「うん。」
たった一言なのに、今までのどんな会話よりも意味が詰まっていた。あの夜の続きを、今、私たちは迎えに来たんだ。

蓮くんが、ゆっくりと私の方を向いた。手には、あの青いハンカチを持っていた。
「これ、君が……持っててくれたんだ。」
私が言うと、蓮くんは静かに頷いた。

「おれも、目が覚めた時には自分の部屋だった。でも、ハンカチがポケットに入ってた。……現実なのか、夢なのか、正直よくわからなかった。だけど――」
「だけど、また来ようって思ったんだね。」
私の言葉に、蓮くんが微笑む。
その微笑みを見て、私はやっと、息が深く吸えた気がした。

蓮くんが石碑の方へと歩き出す。
そして、ぽつりと呟いた。

「……次は、開けた向こう側に行く番だ。」

扉はまだ現れていない。けれど、私たちはもう準備ができていた。光の粒は、今夜もまた、私たちの目に見えない場所で息を潜めている――。


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