複雑・ファジー小説

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狭間に生きる僕ら ~灰色(2)~
日時: 2025/06/21 17:42
名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)

りこちゃんは、青い花びらを小さな指先で大事そうにつまんでいた。海のように深い群青色にわずかに白い線が細かく入っていて、その花びらはまるで星の降る夜を閉じ込めたみたいだった。

りこちゃの目が蓮くんの右ポケットに向けられた。青いハンカチの端っこがポケットから少しだけはみ出ている。りこちゃんはそのハンカチに持っていた花びらを重ねた。りこちゃんは、一生懸命背伸びしてやっと蓮くんの腰に手が届くくらいだった。りこちゃんの姿に、私が青いハンカチを渡してあげたあの少年の姿を重ねる。もし、あの子が蓮くんが言うように、青い記憶を持った幼少期の蓮くんなら、現実だと思い込んでいた世界に別の世界が混ざっていたことになる。どうしてあの少年は、私を訪れたのだろう。もしあの少年が今、この灰色の世界にいるなら、どうしてあの時だけは灰色の世界から出ることが出来たのだろう。  

今までに色々なことに出会ってきた。現実っていうのはあくまで複数ある世界のうちの一つにしかすぎなくて、でもその世界は全く違うものというわけではなく少しずつリンクしている。小説の成瀬蓮と蓮くんと、蓮くんの幼少期。青い旗、青いハンカチ、青い花びら。マンションの小さな影、圭吾と名乗った少女、幼少期の蓮くんにりこちゃん。そして今は灰色の世界にいる人も、きっと最初は私たちと同じ世界にいた人。池に映った私の姿は、小説の少女「圭吾」に似ていた。圭吾は、小説では親から放置されていた。親から完全に忘れ去られていた。あの子も、もしかしたら灰色の世界のどこかにいるのかもしれない。  

この時は誰も気づいていなかった。小説の中で、かつて第一王女の護竜士だと言われた宮司龍臣と、ドラゴンの化身みたいな日下部透。まだ、彼ら二人に出会えていないということに。

りこちゃんが青い花びらをハンカチの上に重ねた瞬間――。

 ぱちん

空気が弾けたような音がした。蓮くんと私が顔を見合わせる間もなく、辺りの空気がほんの一瞬、震えた。

目を上げると、灰色だった空に、糸のように細い金色の亀裂が入っていた。まるで誰かが巨大なガラスに針で傷をつけたような、そんな不思議な光景。その亀裂は、音もなくゆっくりと広がっていく。

「何これ……裂けてる?」
蓮くんがりこちゃんの肩をとっさに抱き寄せていた。

金色の線が空を走り、まるで古いページが破れるように、空の一部がめくれ上がる。そこから、まるでページの裏に隠れていたかのように、別の景色が顔を覗かせた。

それは、草原だった。青い空と白い雲、風に揺れる長い草、そして遠くに見える――城。

私たちがいた灰色の世界の上に、まるで“本の次の章”のように別の世界が重なった。それは、どこかで見たことのある光景。そう、小説の中に出てきた第一王女が住んでいた王国の風景だった。

「まさか……この世界って、物語の向こう側とつながってる……?」

 呆然と見上げる私の隣で、蓮くんが静かに呟いた。

「宮司龍臣……」
その名を、まるで懐かしい人の名前みたいに、蓮くんは口にした。私はぎょっとして蓮くんの顔を見た。
「知ってるの? 小説の中の人物じゃなかったの?」
「違う。いや……違わなかったはずだったんだけど。でも、今なら分かる。昔、夢の中で何度も同じ人物に会った。青い竜を背負った人間。……それが、宮司龍臣だったんだ。」
「夢で?」
「夢だけど、目が覚めると腕に傷が残ってたり、朝から息が白くなるくらい寒かったり。あれは、ただの夢じゃなかった。」

蓮くんの語る“夢”は、この世界の別の扉の予感だった。

空に走った亀裂は、今やポッカリと穴を開け、草原の世界と私たちの灰色の世界を、静かにつなげていた。そして、その穴の中から一人の人影がゆっくりとこちらへ歩いてくる。

長いマントに身を包み、腕に金属のガントレットのようなものを嵌めた男。その背後には、青い光を帯びた竜のような影がぴったりと寄り添っていた。

「宮司……龍臣……?」

私がそう呟いた時、男は蓮くんをまっすぐに見据え、ひとことだけ口を開いた。

「記憶を返しに来た。君が失くした“夜”の記憶を。」

蓮くんが失くした「夜の記憶」。男の言葉が私の胸に引っかかった。私の知らない姿の蓮くんがいて、蓮くんでさえそれを忘れてしまっている。でもそれ以上に気になるのは、蓮くんが小説とあまりに多くの共通点を持っているということ。蓮くんの口から発せられる言葉一つ一つが、小説の成瀬蓮のもののように聞こえる。蓮くんはもしかしたら、記憶を失ってしまっているだけで、本当は小説の中の人間だったりするのかな。

でも。

小説の成瀬蓮は大学生の設定で、今私の隣にいる蓮くんは私と同い年の高校2年生。年齢差は小さいけれど、成瀬蓮と蓮くんは違う人。…いや、今ここに高校生の蓮くんがいて、灰色の世界に幼少期の蓮くんがいるかもしれないってことは、違う年齢の蓮くんが同時に存在することもあるの? 

「夢の中で何度も何度も出会ったんだ。青い龍を背負った人間。それが宮司龍臣だった。」

蓮くんの言葉が急に私の頭の中で鳴り響き始めた。頭が割れそう。大きなスピーカーの真隣に立たされているような感じがする。もう一度空を見上げる。男と青い龍は、依然としてこの灰色の世界に入ることもなく、空の上から私たちをただ静かに見つめていた。わずかに蓮くんが短く息を吸ったのが分かった。あの人達、日下部透と宮司龍臣だ。 

でも、一つ矛盾していた。青いものはいつも子供と一緒にあった。でも、宮司龍臣は成瀬蓮と同じく大学生。大学生はもう、子どもと言えるような年齢ではない。 

日下部透と思われる男の後ろに青い輝きを放つ竜。

「あなた…子供なの?」

蓮くんの夢の中では、宮司龍臣は背中に青い龍を背負った姿でいた。でも、小説の成瀬蓮といた宮司龍臣は初めは人間だったはず。違う世界で、同じような人たちが、わずかに異なる運命の船にただ流されている。この先、どこへ、どんな風に流されていくのかは分からない。でも、舵があれば船の行き先を変えることは出来る。灰色の世界。この世界にはそれをする人が必要なんだ。耳の中をパラりとページを捲るような音がした。新しい紙の匂いがしたような気がした。

私は頭の中で、複数の記憶や存在が交錯するのを感じていた。誰かが私の耳元でページをめくるような音を立てて、そっと何かを囁こうとしているような気配。それは“過去”とも“未来”とも、“誰かの想像”ともつかない、不確かな声。

「ねえ……聞こえる?」

その声は、私自身の声にも、幼い誰かの声にも聞こえた。でも振り向いても、そこには誰もいなかった。

「この世界に必要なのは、舵を持つ人。」

もう一度、ページをめくる音。

私は空に浮かぶ男たち――宮司龍臣と日下部透――を見上げた。青い龍は、まるで彼の一部のように彼の背から光を帯びて揺れていた。まるで呼吸をしているみたいに、静かに、しかし確かに生きていた。

蓮くんが、そっと私の手を取った。

「なあ、佳奈美。もしかしたら、俺……小説の中の蓮が“別の形”でこの世界に現れてるのかもしれない。」

「……別の形?」

「小説の蓮が大学生で、俺が高校生で、池の中の子がもっと幼かったとしたら。全部、同じ魂の別の形……断片なのかも。」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に浮かんできたのは、あの時私が手渡した“青いハンカチ”だった。
もしかしてあれは、記憶の断片を繋ぐための鍵だったのかもしれない。

その時だった。空に浮かぶ宮司龍臣が、初めて地上に視線を落とした。鋭い眼差しで私たちを見下ろし、そして、はっきりとこう言った。

「――選ばれた者には、世界を紡ぐ力がある。君たちは、まだ気づいていないだけだ。」

そして、日下部透が静かに歩み出た。青い龍がその背を押すようにして前に進む。

彼は右手を胸元に当て、ゆっくりとした動作で頭を下げた。まるで王に仕える騎士のような、誓いの動作。

「小説の結末を迎える前に、世界はひとつに繋がろうとしている。君たちの選択が、物語の“最後の章”を決める。」

「あの!」

蓮くんの低いけど透き通った声が灰色の世界を貫いた。日下部透と青い龍…宮司龍臣がいた草原の草がさわさわと風に揺られた。
「俺、あなたたちのいる世界を小説で読みました。第一王女は…いかがお過ごしなんですか。圭吾は、どこにいるんですか。俺…。」

何かを言いかけて蓮くんは口をつぐんで下を向いた。下唇をギュッと噛んで、唇が白くなっている。青いハンカチとは反対のポケットに左手を突っ込むと、薄くて四角いキーホルダーのようなものをそっと取り出した。目を細めると、小さい写真ケースがキーホルダー状になっている物だった。そこには、小学校か中学時代の友達と思われる無邪気な男の子たちと蓮くんの姿があった。それを横目でちらっと見て、もう一度意を決したように顔をぐっとあげて、日下部透の目を見た。
「小説の中の俺はまた、友達に…宮司に会えるんですか。」
言い終えた頃には蓮くんの目は、青い龍の光に照らされて、鈍い色のサファイヤみたいだった。

草原の風が止んだ。蓮くんの問いかけが、静寂の中で何かを揺り動かしたようだった。空に浮かぶ青い龍の羽がふわりと広がる。しばらくの間、日下部透は何も言わず、ただ空を仰いでいた。その背に乗るもう一人の男が、ゆっくりとこちらを見下ろす。黒いマントの縁が風に揺れている。

「宮司は……いま、夢を抜け出せずにいる。」
日下部透の声は深く低いけれど、どこか水の底で響くような柔らかさがあった。「だが、お前の声は届いた。記憶の底に沈んでいたものが、わずかに浮かび上がってきた。」

青い龍の背で立っていた男が、そっと一歩、前へ出た。風が彼の髪をゆるやかになでる。

「…蓮。」
宮司龍臣が名を呼んだ。蓮くんの体がピクリと震える。確かに、声が聞こえたのだ。夢で何度も呼ばれた、あの声。今はっきりと、現実の中で耳に届いた。

「君は、俺に会いに来てくれたんだね。」

青い光が彼の足元から舞い上がる。草原の一部が淡く光り始める。それは蓮くんのポケットの中にある青いハンカチと同じ色。

「俺たちは、ずっと前に別れた。でも、その時に“約束”をした気がするんだ。──もう一度、君と出会うって。」

宮司の言葉は、まるで記憶の奥底に置き去りにされていた何かを呼び覚ますようだった。

「青い龍は、心を繋ぐ記憶の化身だ。」
日下部透がそっと続ける。
「それを背負えるのは、過去と未来のどちらにも未練を持った者だけ。」

蓮くんは、無意識に青いハンカチをポケットから取り出した。それに重なるように、りこちゃんが渡した青い花びらがひらりと揺れる。

その時、私──佳奈美の耳にも、微かな声が届いた。

 『け・い・ご。おぼえてる?』

池の中に映った“あの少女”の声だ。圭吾。いや、“圭吾と名乗った少女”。彼女の声は風に紛れて、どこまでも遠くから届いてくる。

『わたしも──ここにいるよ。』

彼らは第一王女がどうなったのかについては触れなかった。

「忘れないであげて。」

空が裂けてから初めてりこちゃんが口を開いた。出会ったこともないはずの未知の存在に対して。か弱さの中に秘めた強さ。嵐を耐え抜いた茎の細い花のよう。「忘れないで。」りこちゃんの言葉が再び灰色の世界から日下部透たちに向けられた。りこちゃんの言葉はきっと、灰色の世界にいる人達みんなが思っていること。数千人の中で、最初に色を取り戻した少女。数千人がたった一人の少女に彼らの思いを託している。りこちゃんはじっと日下部透の目を見つめている。日下部透はそれを、言ってはいけない何かを隠しているような面持ちで見つめ返していた。

りこちゃんのまっすぐな言葉に、空気が変わった。青い龍が翼をふわりとたたんだ。まるで、空のどこか遠くから風が方向を変えたかのように。

「忘れないで。」
その声は、時間の底に沈んだ祈りのようだった。忘れられた人々、名もなき子供たち、誰かの記憶からこぼれ落ちたすべての存在を思う気持ち。それを、たった一人の少女が代弁していた。

日下部透は一度、ゆっくりと目を伏せた。

「第一王女は──」
口を開きかけたが、言葉が続かない。その代わりに、彼の後ろで静かに佇む宮司龍臣が、視線を空へ向けた。

「彼女はもう……」
言葉の続きは、風にかき消された。だが、蓮くんと私はそれだけで十分に察した。何かが、取り返しのつかないかたちで終わってしまったのだと。

「でも。」りこちゃんがもう一度口を開く。「忘れないで。思い出してくれる人がいれば、その人は消えない。」

空に裂け目が現れたあの日、世界の一部が壊れた。でも、壊れたままで終わらせてはいけないんだと、この小さな少女が教えてくれているようだった。蓮くんが青いハンカチを握りしめた。そこに重なる花びらが、ふっと宙に舞う。

「俺……たぶん、忘れてたんだ。」
蓮くんの声は震えていた。「誰かのことも、自分のことも……たくさんの大事なことを。でも、ここに来て、りこちゃんや佳奈美といて、やっと気づけた。忘れちゃいけないことって、あるんだなって。」

空の裂け目が、微かに収縮する。

「俺、行くよ。」蓮くんが宮司龍臣に向かって言う。「君のいる世界に。まだ君と、話せてないことがある。俺は忘れてない、ずっと君を思ってた。きっとその思いが、小説っていうかたちで……どこかに残ってたんだと思う。」

「……それでいい。」
宮司の目がわずかに潤んでいた。「それだけで、十分だったんだ。」

そのときだった。空に大きな光の環が現れ、音もなく回転しはじめた。日下部透がそっと振り返る。

「旅の扉だ。……だが、お前たちはこの扉をくぐれば、何かを置いていくことになるかもしれない。」

それでもいい。

「りこちゃんが教えてくれたから。忘れないでいようって、そう決めたから。」

初めて訪れた時には生気のなかったこの世界は、相変わらずほとんどが灰色で時間を失っていたけれど、どこか鮮やかだった。
日下部透からはっきりとした答えを得られなかったりこちゃんは、不服そうに頬っぺたを膨らませていた。ちっちゃな膨らみがマシュマロみたいで愛おしい。私がそれを人差し指で軽く突くと、ポンとはじけた。
「みんな、まだ動かない。」
りこちゃんが寂しげにうつむきながらかすれそうな声でつぶやいた。でもね、りこちゃん。りこちゃんが、ここにいるみんなの思いを伝えてくれたこと、きっとみんな見てたよ。それに、ちゃんとみんなのこと、思ってあげられたじゃん。何だか照れくさくてこんなことは直接は言えなかった。

蓮くんが扉の先の宮司龍臣を見失ってしまわないように、しっかりと見つめていた。
「蓮くん。」私の声に気が付いて、はっと私の方を見た。
「蓮くん、あと一人。圭吾を見つけなきゃ。小説の中から突然消えたあの子のことを。」
光の輪の回転の速度が若干遅くなった。

空が少しだけ明るくなったように感じた。回転する光が、まるで時間の時計針のように、止まりかけた灰色の世界にそっと新しい呼吸を与えている。

「圭吾を……」蓮くんがぽつりとつぶやいた。
「そうだね。圭吾を見つけなきゃ。」
私の言葉に、蓮くんは静かにうなずいた。その瞳の奥に、一瞬だけ、小説の中の成瀬蓮のような、深い決意の色が浮かんだ気がした。

どこからか、風の音に混じって、微かな声が聞こえた。

──わたしは、ここにいるよ。

 


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