複雑・ファジー小説

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狭間に生きる僕ら ~灰色(3)~
日時: 2025/06/21 17:56
名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)

私たち三人は同時に振り返った。灰色の草原のずっと向こう。ぼやけた空の境目に、ぼんやりとした少女の姿があった。

「……圭吾?」

少女はまだ遠くにいたが、なぜかはっきりと分かった。あれは、小説の中で描かれた圭吾。親に忘れ去られ、誰にも気づかれず、そして突然物語から消えたあの子だ。彼女は灰色の草原の中に、ぽつんと立っていた。けれど、よく見ると、彼女の足元にだけ、ごくわずかに緑が差していた。まるで彼女が立つ場所だけが、世界の中で色を思い出しているかのようだった。

「ねえ……圭吾、なの?」
蓮くんが一歩、前に出る。けれど、圭吾は一歩も近づいてこない。ただ、こちらを見ていた。表情は読めない。でも、その瞳の奥に、確かに何かを訴えるような光が宿っていた。

「圭吾は、まだこの世界のどこかに『閉じ込められてる』んじゃないかな。」
私はふいに、そう言葉が口をついて出た。「
物語の中から消えたんじゃなくて、記憶の隙間に沈んでしまったみたいに。」

蓮くんが頷いた。「だから……俺たちが呼び戻すんだ。」

りこちゃんが、蓮くんの青いハンカチの端をそっとつかんだ。
「りこも行く。」
私と蓮くんが同時に振り向く。
「りこ、この世界に残る人の気持ち、ぜんぶは知らないけど、少しだけ分かった気がするの。だから、圭吾ちゃんのところに行く。あの子、さみしいんだと思う。」

そう言って、りこちゃんはそっと私たちの前に出た。足元の灰色の草原に、彼女の足が触れた瞬間、ごくわずかに草が揺れた。そして、小さな、けれど確かな緑がその後ろに残った。

りこちゃんが歩くたびに、草が目覚めていく。彼女の一歩一歩が、灰色の世界に色を取り戻す。

圭吾の姿がゆっくりと近づいてくる。

──たぶんこれは、記憶を取り戻すための旅なんだ。誰かの記憶。小説の中の想い。過去の後悔。失ったもの。それらが再びつながることで、圭吾も、そしてこの世界も、きっと「色」を思い出せる。

りこちゃんが圭吾の目の前に立った。りこちゃんは自分より頭一個分くらい背の高い圭吾の目をじっと見つめていた。圭吾の腰まである長い髪が、空に浮かぶ光の環に照らされていた。漆黒に金色がわずかに混じった、タイガーアイみたいだった。

「圭吾ちゃんの目、きれい。」

りこちゃんがそう言って圭吾に手を伸ばした瞬間、電気が走るような音とりこちゃんの叫び声がした。私がその音に気付いたころには、蓮くんはすでに血相を変えてりこちゃんのところへ駆けつけていた。私も蓮くんの後を追う。

りこちゃんはしりもちをついて、右手を左手で抑えていた。背中をさすってあげると、りこちゃんから声にならないような泣き声が聞こえた。

嫌な思い出を突然思い出した。

昔、幼稚園に通っていた時、パパとママをびっくりさせて褒めてもらおうと思って、峻兄ちゃんと二人でパパとママが仕事で出かけている間に家族全員の好物であるパスタを作ろうとしたんだ。今思えばすごく危ないけど、私は鍋からお湯がブクブクと沸く音に興奮を隠せなかった。何だか大人になれたような気分でいた。でも、所詮は子供だった。自分の背よりも高いぐらいのコンロに水の入った鍋を無理やり乗せたせいで、鍋がちゃんとコンロの真ん中に置かれていなかった。

痛みに気付いたときには私の身体はずぶ濡れで、火に焼かれるような感覚だった。泣きたいのに泣けなかった。痛みがあまりに強すぎると、人間は泣くことさえできなくなってしまうんだ。峻兄ちゃんが慌ててママとパパに試行錯誤しながら固定電話から電話をした。ママたちが仕事を早退して、ママは私を、パパは峻兄ちゃんを強く抱きしめながら、もう二度とこんなことしないでと泣きながら怒った。やけどをした痛みと、ママたちに喜んでもらいたかったのに正反対のことをしてしまった痛みに、ママに抱きしめてもらえている安心感が少し混じって、私はやっと泣くことが出来た。

「りこちゃん、手見せてみ?」りこちゃんの左手をそっと、どかす。りこちゃんの右手には、何とも形容しがたい色のひび割れみたいな線が何本も走っていた。血じゃない何かが、りこちゃんの身体の中をうねうねとうねっていた。

「圭吾が、拒絶してる?」蓮くんの言葉は、捲ろうとしたページが破れた時の音をしていた。

「りこちゃん……」
私がそっと呼びかけると、りこちゃんはぎゅっと唇を噛んだまま、こくんと頷いた。頬には涙の筋。だけど、瞳の奥にあったのは恐怖でも諦めでもなく――ただ、真っ直ぐな意思だった。
「圭吾ちゃん、痛かったんだね……すっごく、痛かったんだ。」

りこちゃんの震える声は、まるでその痛みを代わりに抱えてあげようとするみたいに、静かに空気を揺らした。

その声に呼応するように、圭吾の周囲を流れていた金色の光が、わずかに揺れた。

圭吾は一歩も動かず、ただその長いタイガーアイのような髪を風に揺らしながら、じっとりこちゃんを見つめ返していた。その瞳の奥には、炎に焼かれたような傷跡が、まだ残っている気がした。

「触れちゃいけないんだと思ってたの。誰にも。私のこと、思い出されないのも、その方が楽なのかもしれないって、ずっと……」

圭吾の口が、ようやく動いた。

その声は風の中に溶けてしまいそうなほどか細かったけど、確かにそこに「自分を消すことを選んだ人」の哀しさがあった。

「でも、りこは……思い出してって言った。忘れないでって。あれ……あたしが、言いたかったことなんだと思う。」

圭吾の金色の光が、少しずつりこちゃんの方へと流れはじめた。でも、まだ触れない。傷が残っている。蓮くんが、そっとりこちゃんの肩に手を置いた。

「圭吾。俺たちは、君を忘れたくない。……忘れてたことを、悔やんでる。」

蓮くんの声もまた、圭吾の魂の奥に届こうとしていた。圭吾の瞳が、一瞬だけ、揺れた。そのとき。

りこちゃんの右手に刻まれたひび割れのような模様から、淡く光る青い線がすーっと一筋、空へ向かって伸びていった。

その線は圭吾の足元に、静かに到達した。まるで、水面を揺らすように。まるで、記憶にやさしく触れるように。

圭吾の口元が、かすかに震えた。

「……わたし、りこちゃんの手……あったかかった。」

その言葉を最後に、圭吾の体からふっと力が抜けたように、草原に膝をついた。蓮くんと私は息を呑んだ。けれど、そこには絶望ではなく、ほんの一滴だけ希望の光が差し込んでいるように思えた。

世界のどこかで、時計の針が一目盛りだけ動いたような、そんな気がした。

性別の在り方が規格から外れていたために、大人から忘れられた第一王女。親から忘れ去られた「圭吾」。蓮くんと同じように、違う世界にいても、細かいところは違っても結局は同じ船に乗せられているのかな。だとしたら。

『第一王女はもう…。』

日下部透の言葉が脳裏をよぎる。このまま行けば、圭吾も?心臓がドクンと強く波打った。だめ。こんな少女を、こんな小さなりこちゃんの前で、消えさせるわけにはいかないんだ。

「第一王女はね。」草原に膝をついて力なくうなだれたまま、圭吾が口を開いた。「あの子は、僕と似ていた。わたしは、僕なんだ。第一王女は絶世の美女だった。でもその美しさがかえってあの方を苦しめた。あの方の本当の美しさは、僕だけが知っていた。僕は、あのお方みたいにはなれなかった。」 

圭吾の口から、私の知らない第一王女の姿が伝えられる。まるで、圭吾自身が第一王女のすぐ近くで一緒に過ごしていたみたいに。第一王女を美しいと言った圭吾の目から、忠誠心に恋慕が混じったようなものが静かに流れていた。

圭吾は微かに震える手を見つめながら続けた。

「誰にも言えなかった。誰に話しても、わたしが“女の子”であることを受け入れてもらえなかった。美しいと言われるたび、胸が裂けそうだった。第一王女のあの美しささえ、あの方を救えなかった。だったら、私なんて……」

言葉が途中で途切れた。圭吾は、声を殺して泣いていた。静かに、でも確かに、草原の空気が涙を吸いこんでいくようだった。りこちゃんは立ち上がると、そっと圭吾の横に座り込み、その小さな手を再び差し出した。ひびの入ったその手を、躊躇いなく。

「圭吾ちゃんは、綺麗だよ。」

それは、否定ではなかった。拒絶でもなかった。ただ、小さな少女が自分の言葉で、真っ直ぐに伝えた「肯定」だった。

圭吾は顔をあげた。涙に濡れたその頬に、今度は誰も触れなかった。代わりに、太陽のような柔らかい光が射した。

――灰色の世界に、一輪の小さな花が咲いた。

蓮くんが、そっと前に進み出る。

「圭吾、俺さ……小説の中の『成瀬蓮』は、君のことを最初からちゃんと見てなかったんだと思う。君が“いない”ことにされても、そのまま話を進めてしまった。……ごめん。」

圭吾は目を細めた。その瞳の奥に、ほんの僅かだが怒りのような火が残っていた。それはきっと、「消されたこと」への痛みだ。

「でも今、こうして蓮くんが君を探しに来て、見つけて、声をかけてる。君を無視しないって言ってる。」

私がそっと言葉を重ねる。

「それって、物語の続きを一緒に書けるってことなんじゃないかな。」

そのときだった。

空に浮かんでいた光の輪が、回転を止めた。ピタリと。そしてゆっくりと、空の裂け目に沿って横に開いていった。まるで、古い絵本の見開きが、ずっと閉じられていたページを久しぶりに開くように。そこから、風が吹いた。透明で、あたたかくて、どこか懐かしい風。圭吾の髪がなびき、その風の中で、彼女の涙の粒が空に吸い上げられていった。

「……続けても、いいのかな。」

圭吾のその声は、まるで誰かに許しを乞うようでありながらも、どこか希望に満ちていた。蓮くんは、はっきりと頷いた。

「もちろん。君が書く続きを、俺たちも読みたいんだ。」

「それと。」蓮くんがつぎ足すように言う。
「俺らの前でくらい、男の子でいてもええよ。圭吾くん。」
圭吾の目の奥が揺れた。
「男の子って、どうなればいいのかな。なりたいとだけ思い続けて、なり方が分からない。」

憧れをずっと抱き続けて、その憧れの存在に自分がなれる。でも、それって。空に恋焦がれた魚の下に突然神様がやってきて、鳥にしてあげますよなんて言われても、本当に飛ぶことなんて出来るのだろうか。いや、現実を受け入れて、憧れを大事に憧れのままにしておくかもしれない。圭吾くんも、自分で男の子になろうとしたけれど、圭吾くんも魚になってしまったのかな。本当の自分を無理やり自分で閉じ込めた。だけど、圭吾くん自身は閉じ込めた自分のことをちゃんと覚えていた。圭吾くんがどうして灰色の世界にいたのか、どうして灰色の世界にいても圭吾くんだけは周りと違って色を持っていたのかが分かった気がした。

圭吾くんの言葉は、男子高校生である蓮くんにはまた違って響いたようだ。顎は上げてなかったけれど、目が若干白目になっている。きっと、どうやって自分が男の子になったのか、その理由を探しているんだろう。

「これでも着てろ。」そういって蓮くんは着ていた無地の黒いシャツを脱いで圭吾くんの肩に乗せた。蓮くんの紺色のタンクトップが風で少し膨らんでいた。圭吾くんは蓮くんのシャツを、ツチノコでも見たのかというような表情で見まわしていた。

圭吾くんは、肩にかかった蓮くんの黒いシャツにそっと手を添えた。迷うような、震えるような動きだった。生まれて初めて触れるものみたいに、大切に。

「変だよね」
圭吾くんが、ぽつりと呟いた。
「これを着たからって、僕が男の子になるわけじゃないのに…なんか、ちょっと、ほっとした」
蓮くんはそれを否定もしなかったし、肯定もしなかった。ただ、うんと小さくうなずいた。

風が草原を撫で、灰色の世界を少しだけかすめた。
蓮くんの背後から、りこちゃんがトコトコと歩いてきた。
「けいごちゃん」
ちょっとおどおどしながらも、真っ直ぐに圭吾くんを見つめている。
右手には、小さく折りたたまれた紙が握られていた。

「これ、もってて」
りこちゃんはその紙を、圭吾くんの手にそっと押し付けた。圭吾くんは驚いたように目を見開きながら、それを受け取った。

紙を開くと、中にはぎゅうぎゅうに詰め込まれた、丸い文字。

「けいごちゃんへ
 さっきはごめんね。
 でもね、あのとき、けいごちゃんが手をつなごうとしたとき、
 こわくなかったよ。
 ちょっとだけびっくりしただけ。
 けいごちゃんのこと、きれいだなっておもったよ。
 りこより」

圭吾くんは黙って紙を見つめていた。その目に、涙が浮かび始めた。

「…僕のこと、怖くなかったの?」

声が震えていた。でも、それは怯えからじゃない。心の底で長い間凍っていたものが、少しずつ溶けていくような声だった。

「うん」
りこちゃんは、ためらわずうなずいた。
「けいごちゃんは、けいごちゃんだもん。
 おとこのこでも、おんなのこでも、どっちでもいいよ。
 けいごちゃんがけいごちゃんでいてくれるなら、わたし、すきだよ」

圭吾くんはその言葉に、答えられなかった。答えなくていいことを、ようやく知ったみたいに。ただ一筋の涙が、金と黒の混じった瞳から静かに流れた。

蓮くんの後ろで、かすかに音がした。カラ…カラカラ…と、遠くの方で小さな歯車が回るような、軽やかな音。――光の輪が、再びゆっくりと回転し始めた。

灰色だった草原の一角に、ほんのわずかだが、淡い若草色が滲み出ている。

誰も、何も言わなかった。でも、全員が分かっていた。

この瞬間に、たしかに“何か”が変わったのだと。

じわじわと若草色に染まる草原に立つ、一人の幼女と一人の少年。りこちゃんが持っていた花びらは緑の草原の中に紛れて、夜空みたいな青はあまり目立たなくなっていった。花びらが少しだけ破れていた気がした。

「僕、宮司っていう人のこと覚えてる。」
圭吾くんが光の環を見上げた。
「あの人は今、向こうにいる。でも、あの世界に蓮お兄さんはいない。記録を開始せよって日下部透に託されたまま。」
圭吾くんが蓮くんの左ポケットに目をやる。
「蓮お兄さん、写真に写ってる人たち、見せて。」
蓮くんが写真のキーホルダーを圭吾くんの手の平に乗せた。圭吾くんの手は、りこちゃんに比べれば大きかったけど、蓮くんの手に重なるとまだまだ子供の柔らかくて綺麗な手をしていた。圭吾くんは写真に写っている男の子たち一人一人を確かめるように眺めていた。光の環はまだカラカラと音を立てて回っている。
「蓮お兄さん、佳奈美お姉さん、宮司龍臣っていう人、まだ向こうにいるのしか見たことないでしょ?」
圭吾くんがまた、光の環の方を見る。それにつられて蓮くんも私も見た。りこちゃんだけが、「ぐうじって誰?」と圭吾くんの方を見ていた。
「僕たちが知っているよりも、沢山世界があって。その世界の中で、そっくりな人間がいるなら。」圭吾くんが私の方を見る。
「佳奈美お姉さんは僕に少し似てる。蓮お兄さんも、今までに自分と似たような存在がいるっていうことに、きっともう気付いているよね。」
圭吾くんがりこちゃんの方を見る。
「でもね、宮司龍臣っていう人だけ、まだ他の世界にはいないんだ。」りこちゃんがもう一度、ぐうじって誰?と尋ねる。「忘れちゃいけない人。」圭吾くんはそれだけ言って、今度は蓮くんの方を見る。

「だから、探しに行ってあげて。」

蓮くんは圭吾くんの手に乗せられたキーホルダーを、腰を少し屈めて手に取った。蓮くんはしばらく何か考え事をしているようだったけど、ふっと何かを思い出したように顔を上げて私を見た。「いったん、俺らがいた世界に戻ってみるか。」

「あ、お星さま?」

りこちゃんが指さした先には、光の粒がふよふよと浮いていた。またあの扉だ。「りこちゃん、あのね。」りこちゃんの小さな手を私の両手で包んだ。「私達、少し帰らないといけないんだ。寂しいかもしれないけど、圭吾くんと一緒に待っててくれる?」私の背後で扉が、草原にゆっくりと着地した音が聞こえた。

りこちゃんは小さく頷いた。でも、その頷きは今にも泣き出しそうな顔の中でぎりぎり保っている強がりだった。私はそれを見て、ぎゅっと彼女を抱きしめた。細い体が私の腕の中で小さく震えていたけれど、泣かなかった。りこちゃんは、泣く代わりに一言だけ呟いた。

「帰ってきたら、圭吾ちゃんの髪、あたしが編んであげるね」

圭吾くんが、少しだけ驚いた顔でりこちゃんを見つめた。けれど、その目はすぐにやさしい笑みに変わった。

光の粒が一つ、二つと増えていく。扉の向こうの世界が呼んでいる。草原に降り立ったその扉は、以前よりも少しだけ柔らかい光を帯びていた。灰色の世界がほんの少し、色を取り戻しつつあるように見えた。

私は蓮くんと目を合わせた。彼も黙って頷いた。

扉の前まで歩く。振り返ると、りこちゃんと圭吾くんが並んで立っている。草原の風がふたりの髪を揺らしていた。どちらもまだ幼いけれど、ここに残る覚悟を持ってくれている。そのことに胸が熱くなった。

私は小さく手を振る。扉の向こうへ、蓮くんと一緒に足を踏み出す。――その瞬間。

「待って」









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