複雑・ファジー小説
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- 狭間に生きる僕ら ~混血(1)~
- 日時: 2025/06/21 18:09
- 名前: 花火 (ID: vCVXFNgF)
草原の空気を切るように、圭吾くんの声が届いた。振り返ると、彼がこちらに駆け寄ってくる。
「これ、持っていって」
圭吾くんが差し出したのは、彼が持っていた花びらの破片だった。夜空のように青く、でも端が少し破れていて、それでも不思議と美しかった。
「これは第一王女が遺したもの。僕にしかわからないけど、多分、この先で必要になる」
蓮くんが受け取り、静かにうなずく。
「ありがとう。圭吾くん」
今度は、圭吾“くん”と、はっきり言葉にして。
そして私たちは、再び扉の中へと踏み込んだ。
世界がぐるりと反転するような感覚。目の前の景色が淡く滲み、音が遠のいていく。
次に私たちが目を開けたとき、そこは――
瓦礫の街の、あの広場だった。時が止まっていたような場所。けれど、何かが少しだけ変わっていた。光の輪の気配が、微かに残っている。誰かがここにいたような形跡。
「……なあ」蓮くんがポツリと言った。
「圭吾が言ってた、宮司ってやつ。そいつがまだ“どの世界にもいない”って、どういうことなんやろな」
私は答えられなかった。でも、胸の奥で、微かに「それが鍵だ」と確信していた。
だから私たちは、もう一度この世界を歩き出す。忘れ去られた存在――宮司龍臣を探すために。
そして、光の輪が示す“記録”を、もう一度辿り直すために。
「俺さ。」蓮くんが寂しそうにうつむきながらぽつりとつぶやいた。
「本当は扉の向こうには、俺らがいた世界が、『現実』が待ってるって思ってた。もしかしたらこいつらの中に、宮司龍臣に似たやつがいなかったかどうかを確かめるのを口実にして、少しあの灰色の世界から逃げたくなってしまっていたんだ俺。」
蓮くんが最後に私の方を見て、違ったのかなと泣き出しそうな掠れ声で言った。私も本当は、「現実」に戻るんだと思っていた。私たちがいた世界に、宮司龍臣に似た人がいるんじゃないかって。でも、扉は私たちをこの瓦礫の町に導いた。
蓮くんの足元に、どこからやってきたのか分からない、コンクリートの破片みたいなものがコツコツと硬い音を響かせながら転がってきた。
瓦礫の町には、風が吹いていた。
吹くたびに舞い上がる砂埃は、どこか懐かしくて、どこか遠い。私たちは何も話さずに、ただ黙ってその風の中を歩いた。
「ここ、見覚えある気がする……」
私が呟くと、蓮くんもゆっくりうなずいた。
それは、かつて校舎だったような、商店街だったような、生活の匂いが確かにあったはずの場所の残骸だった。看板の破片、信号の骨組み、自転車のハンドル。ひとつひとつが、ここに人がいたことを教えてくれる。
「俺、ここで夢を見たことあるかもしれん」
蓮くんがぽつりと言った。
「夢っていうか……記憶っていうか。いや、ちがうな。ここ、前に誰かと来たんや。でも、誰と来たのかが思い出せん」
そのとき、遠くから音がした。
ザリ……ザリ……
瓦礫を踏む、誰かの足音。
蓮くんと私は顔を見合わせて、音のする方へと向かった。音の先には、白いシャツを着た少年がいた。細身で、顔立ちはぼんやりとしていたけれど、どこか見覚えがある。
「……峻、兄ちゃん?」
私の口から、思わず言葉が漏れた。でも、その声に少年は反応しない。まるで、こちらの存在が見えていないかのように、ただぼんやりと瓦礫の町の奥へと歩いていく。
蓮くんが私の前に出て、叫んだ。
「おい!お前、名前はなんや!」
でも少年は止まらない。風が強くなり、シャツの裾がふわりと舞い上がった。その背中には、光の輪に似た紋様が、黒く焼き付けられていた。
「蓮くん……見た?」
「……あぁ、見た。あれ、多分“記録”や」
蓮くんがポケットの中から、キーホルダーを取り出した。写真の中の少年たちの顔が、ひとつだけぼやけている。
「さっきまでこんなじゃなかった」
「それって……消えてるってこと?」
「……まだ消えきってへん。だから、急がなあかん」
私たちはその少年のあとを追いかけて歩き出した。ここが“現実”なのか、それとも“記録”の残骸なのかは分からない。でも、あの少年がまだ「完全に忘れられていない」存在であるなら——
まだ、間に合うかもしれない。
どうして私があの少年を見て、峻兄ちゃんだって思ったのかは分からない。顔が似てたかと言われると分からない。峻兄ちゃんはどこにでもいそうなド平凡な顔だから。
あの少年に浮かび上がる「記録」のしるし。いったい誰があの少年を記録しているの?あの少年を誰かが記録してしまったなら、あの子も圭吾くんやりこちゃんがそうだったみたいに灰色の世界に行ってしまうのだろうか。
あ。
私の両足が急に重くなった。「どうしたんよ佳奈美、早よ行かな。」蓮くんが私を急かすように、どんどん先へとその子の後を追って歩いていく。蓮くんの背中がどんどん遠くなる。
「小説の…成瀬蓮…日下部透に記録を開始しろって言われてた。覚えてるでしょ。蓮くん、さっき今の蓮くんも、小説の中の大学生の成瀬蓮も、きっと大きな魂の一部分みたいなこと言ってたよね。」
蓮くんのサンダルがジャリっと地面と擦れた音がした。
「俺が…あの子を消しかけてる…?」
そう言ったとたん、蓮くんは男の子の後を全力疾走で追いかけた。私も急いでそれについていく。 たった今、一人の男が自分自身によってなされるだろうことを必死に拒もうとしている。
蓮くんが走る砂利道の向こうで、少年が立ち止まった。まるで、追いかけてくるのを最初から知っていたかのように。肩越しに、蓮くんを一瞥する。
夕暮れの瓦礫の町が、まるで一瞬だけ色を取り戻したかのように見えた。どこか遠くで、カン、と鉄が打たれるような音がして、それが合図のように私の足元もふっと軽くなった。さっきまでの重みが嘘のよう。
走り出す。蓮くんの背中がすぐそこにある。
「君……」
蓮くんの声が掠れる。少年はゆっくりと振り返る。その目は、まるで——鏡だった。
その目に映っていたのは、今の蓮くんじゃない。大学生の成瀬蓮——灰色の世界で、名もなき死者たちの記録者だった、あの彼の姿。
「……宮司、龍臣……?」
少年の名前を呼んだとたん、世界がひび割れた。
いや、世界じゃない。空間でもない。それは、記録だった。蓮くんの胸元で、キーホルダーの写真が震える。かすかな風が、記録という名のガラスの板を吹き抜ける。一枚、また一枚と、記憶のなかの風景が崩れ、少年の影がその中をまっすぐ歩いてくる。
「僕は……誰かの記録だった。でも、記録されていない僕も、確かにいたんだよ。」
少年の声は、子どもらしい高音と、底の見えない静けさを同時に孕んでいた。それはまるで、圭吾くんの声の裏側に隠れていたもうひとつの声と、どこか似ていた。
「蓮お兄さん。君が僕を記録しなかったなら、僕はきっと……」
そのとき。私のポケットの奥から、古びた紙片がひらりと舞い上がった。
それは、一度灰色の世界で拾ったはずの、破れたノートの断片だった。名前のないページ。だけど、そこにはこう記されていた。
『宮司龍臣、記録不能。未確定。未定義。』
「……消えなかった?」私が思わず呟いた。
「ううん。」少年——いや、龍臣が、微笑んだ。
「まだ、始まってないだけだよ。」
少年は小学校高学年くらいに見えるけれど、どこかとても大人びていた。
「君は誰」
ヒューヒューと息を切らして肩を大きく上下させながら蓮くんが少年に尋ねる。
「宮司龍臣だってば。」「違う!」
少年の言葉をかき消すように蓮くんが叫んだ。風が吹いて粉塵が一瞬蓮くんと少年の間を煙みたいに通り過ぎた。
蓮くんはキーホルダーを少年の目の前に突き付けた。
「だったらこれはどうやって説明するんだ。」
蓮くんが人差し指で指しているのは、さっきよりもぼやけてもはや顔の面影すら残っていない、一人の少年の姿だった。
「ここに映っているのは、昔の俺と友達だ。俺は、蓮だ。こいつらの中に、宮司龍臣なんていなかったぞ。」
蓮くんは少年の襟首をつかまんとせんばかりの勢いだった。対して少年は冷静で、静かに蓮くんの言葉一つ一つに耳を傾けていた。
少年はほんのわずかに目を細めた。その仕草には怒りも狼狽もなかった。ただ、あまりにも落ち着いていて、逆に年齢不相応な不気味ささえ漂わせていた。
「そうだね、僕は……写っていない。」
ゆっくりと、少年はキーホルダーの写真を見た。まるでそれを初めて見るかのように、丁寧に視線を滑らせていく。
「でも、それは僕がいなかったからじゃないよ。写らなかっただけだ。」
「写らなかった?」蓮くんの声が揺れた。「どういう意味だよ、それ。」
「記録されなかったってこと。ずっと、記録の外側にいた。だから、誰の記憶にも、写真にも、名簿にも、映らなかった。」
そのとき私の中に、圭吾くんの言葉が蘇った。
“宮司龍臣っていう人だけ、まだ他の世界にはいないんだ。”
私の中で何かが繋がった気がした。宮司龍臣は、そもそもどこにも「存在」していない。でも確かに「ここにいる」。それってどういうこと?
「君は……本当に、宮司龍臣なの?」私は思わず口をついて出た疑問をぶつけていた。
少年はまっすぐ私を見た。その瞳は不思議なくらい深い色をしていた。夜明け前の空みたいな、まだ世界が目を覚ます前の、あの曖昧な色。
「うん。僕が、自分にその名前をつけた。」
「……え?」
「誰もつけてくれなかったから。だから、自分で選んだんだよ。『宮司龍臣』って。」
私も蓮くんも、返す言葉がなかった。あまりに静かに、あまりに当然のことのようにその言葉を口にしたから。
「僕は、誰かが記録してくれないと、世界に存在できないんだ。でも……君たちが“僕を見ている”うちは、ここにいられる。だから、来てくれてありがとう。」
少年の声は優しかった。でも、その優しさの奥には、ずっと一人でいた者にしか持ちえない、深く澄んだ孤独があった。
風が止んだ。
少年の足元から、小さな紙片が一枚、ふわりと宙に舞った。そこにはこう記されていた。
『記録開始 第一対象:宮司龍臣』
それは、誰かがついに、この少年を「見た」ことの証だった。
小さな紙片が風に乗って、空の高みへと飛ばされて気づいたら見えなくなっていた。少年が、宮司龍臣がそれを静かに見送っていた。記録のしるしがさっきよりも濃くなった。
「何でお前だけなんだよ。」
蓮くんが宮司龍臣に詰め寄る。
「俺ら、灰色の世界っていうところに行ってきた。誰からも忘れ去られた人たちがいる場所だ。その人たちにだって、こんなのなかったぞ。」蓮くんが宮司龍臣の肩を両手で握って、無理やり少年を後ろ向かせた。「記録してもらえなかったら、忘れられるだって?矛盾してるだろ。」
少年が肩に乗せられた蓮くんの手を柔らかく振りほどいた。
「どうして、写真の中の人が一人だけぼやけているのかも分からないんだ、じゃあ。」
少年が私たちに背中を向けたまま、吐き捨てるように言った。その声は静かだったけれど、その奥に絶望と怒りと軽蔑が混ざっていた。それが、今の蓮くんに向けられたものなのか、それとも別の何かに向けられたものなのかは分からなかった。
「蓮くん、ところで、顔がぼやけてる男の子の名前ってなんなの。」
蓮くんは少年のうなじあたりを睨みながら「かずって呼んでた。今山一裕ってやつ。」
とりあえず名前自体には、宮司龍臣っぽさはないな。そう思った途端。
「言うな!」
いったいこの少年は誰を憎んでここにいるんだろう。少年は、この世の全てを滅ぼしたがっているように見えた。自分自身も含めて。何もかも。
「何だよ!」さっきから蓮くんは叫んでばかりいる。今度は少年が蓮くんに詰め寄った。
「何も分からないなら、お前なんかいる価値はない。」
温厚なはずの蓮くんの腕が高く振り上げられた。硬く拳を握りしめている。
「殴るなら、自分でも殴ってれば。」
少年はますます蓮くんを刺激した。蓮くんが唇を強く噛んでいる。鈍い赤色をした血が一滴地面に落ちた。
小説では、じゃれ合っていた成瀬蓮と宮司龍臣。それが、この瓦礫の世界では親の仇みたいにお互いに憎しみをぶつけ合っている。
私はもう、蓮くんが蓮くんでなくなるのを見たくない。
「怒ってもいい。腹が立ったら殴るなり蹴るなり何でもして。だけど、私はあなたのことが全然分からないの。教えて。人に伝えようともしないで、分かれなんて無責任だよ。」
しまった。こんな説教じみたことを言うつもりはなかったのに。少年が私の方にゆっくりと首を回す。少年が私の目の奥を観察するように見つめる。「お姉さん、誰?」少年は私に対しては、普通の少年だった。りこちゃんみたいなあどけなささえ感じさせた。
私は一瞬、息を呑んだ。自分の名前を名乗ればいいのに、それがすぐに喉元から出てこなかった。私自身が、私という存在をどう定義していいのか分からなくなっていたのかもしれない。
「……佳奈美。私はただの――」
言いかけたそのときだった。少年の背後から、遠く低く、風を割ってくるような音が聞こえた。
ゴォ……ッ。
瓦礫の先、崩れたビルの影から、何かがこちらに向かってきている。粉塵が再び巻き上がり、風が逆巻いた。
蓮くんが私の肩を掴んだ。「伏せろ!」
私と蓮くんは同時に地面に身を伏せ、少年だけがじっと立ち尽くしていた。彼は、何かに引き寄せられるように、瓦礫の向こうへとゆっくり歩き出した。
「だめ!」私は叫んだが、彼の耳には届かなかった。
風が引き裂くような音を立てて、一枚の紙が彼の足元に落ちた。それは――ノートの断片だった。
少年はそれを拾い上げ、じっと見つめた。そして、何かを確かめるように、その紙を胸に当てた。
「……やっぱり、ここにも僕はいる。」
その言葉に、蓮くんが目を見開いた。
「どこにだって、僕はいる。でも、誰の記憶にも、ちゃんとは残ってない。記録はあっても、意味がないんだ。僕のことを覚えてる人は、いつも途中で――」
彼は唇を噛んだ。「……怖くなるんだよ。」
私の中で何かがつながりかけていた。圭吾くん、灰色の世界、記録、そして“忘れられる”ということ。
「龍臣……」蓮くんが言った。
少年はその名を拒まなかった。ただ、紙片を指先でそっと撫でながら、呟いた。
「この世界では、まだ僕は“誰”にもなっていない。ただの残響。記録のかけら。でも、ね――」
少年の声が、急に柔らかくなった。
「君たちが来たってことは、きっと何か変わる。僕も、ちゃんと“名前”になれるかもしれない。」
空の高みに舞い上がった粉塵が、静かにおさまりはじめていた。あの強い風が止み、周囲の音がゆっくりと戻ってくる。
私も蓮くんも、次に何を言うべきかを探していた。けれど、それはもう“問いかける”というより、“聞きに行く”ことに近い感覚だった。
この少年の、物語を。
少年は再び私たちの下へ歩いてきた。少年の目に、もう憎しみはなかった。
「聴いてくれる?僕の話。」
蓮くんが小さく頷く。少年は私たちの前で体育座りをした。少年の顔は歪んでいた。思い出したくないことを無理やり思い出そうとしているみたい。
「無理しなくていいよ。」
少年の表情に思わず私は声をかけた。少年は、ギュッとつぶっていた目を開けて私を見た。
「ううん、話す。お姉さんが、伝えるってこと僕に教えてくれた。それに…」
少年は一度蓮くんを見ると、すぐに決まりが悪そうに自分の足と足の間の地面を見つめた。
「お兄さんとお姉さんが、初めて僕の話を聞こうとしてくれたから。」
この子はきっと、私たちには想像することすらできない何かを背負ってきたんだ、たった一人で。でもどうしてだろう、この子は青くない。
「お前の目、不思議だな。」蓮くんが独り言のように言った。「宇宙みたいだ、なんか。」その言葉に、少年はギョッとしたような表情を見せた。確かに、少年の目は小説に出てきたドラゴンのような目でもなく、私たちと似たような黒い目だったけれど、何かが違った。どこか無機質だった。
蓮くんと私に目をじろじろと見られて、少年は照れくさそうにまた足と足の間に視線を落とした。少年の照れくささには、不安と恐怖が隠れていた。
「ばれちゃったか。」
「え?」蓮くんと私の声が重なった。
「お兄さん、お姉さん、ヒューメイリアンって知ってる?実は僕、それなんだ。」
それ、知ってる。前にお兄ちゃんが教えてくれたことがある。この世界のどこかに、人間と宇宙人の間に出来た生き物がいるって。「は?ひゅー…なんて?」蓮くんは、ついさっきまで目の前にいる少年に殴りかかろうとしていたことさえ忘れているみたいに素っ頓狂な声を上げた。
「お兄さんがさっき言ってた人の名前…今山一裕は…僕の父親なんだ。」「え。」
今山一裕は蓮くんと同い年のはず。また、どこかで、時間というものが崩れた。