複雑・ファジー小説
- Re: ジャックは死んだのだ【短編集】 ( No.59 )
- 日時: 2020/04/03 10:36
- 名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)
♯45 いとしのデリア
私は恋をしている。
いつも通りのオフィスワークを終え、電車に乗り込んだ。帰宅ラッシュで人の溢れかえる車内に、なんとか自分一人分の居場所を見つけて、立ち尽くす。揺れに負けて転んでしまわぬよう、吊革に体重を預けたまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。特に情緒も無い夜景が遠く、流れていく。店の明かりやマンションの蛍光灯。それに、目立たない星明り。そこに何かを感じることもなく、ただ過ぎ行く風景だ。
窓に私の姿が映っている。飾りっ気のないスーツに身を包み、適当に後頭部で結った髪と薄い化粧の顔。本当にどこにでもいる量産型社会人の姿だ。会社の人間だって、私を数ある社員の一人程度にしか思ってないだろう。
私は誰かの特別になんかなれやしない。し、それでいいと思っている。
家に帰れば、愛しい彼女がいるけれど、彼女が私に好意を抱くことなんて無いのだ。それでも構わないって思う自分がいる。
ねえ、デリア。あなたがいれば。それだけで、それだけで世界が華やぐのだから。
最寄り駅で降りて、カツカツと未だ履きなれないパンプスを鳴らして帰路を歩む。駅からそれほど離れてないアパートの一階。家の鍵を開けると、彼女が待っている室内に入った。
「ただいま、デリア」
返事はない。彼女は一度だって私に返答をしてくれたことがない。それが当たり前で、それでも構わないから、私は彼女を愛していられるのだ。
部屋の明かりを付けると、机の上にちょこんとお行儀よく座っている彼女と目が合った。グレイの硝子玉がぼんやりと景色を眺めるみたいに私を見ている。いや、実際私は彼女にとって景色の一部に過ぎないのだろう。
そっと、身長40センチしかない彼女の脇の下に手を入れて、顔を寄せる。デリアと唇を合わせると、固くて温もりなんて微塵もない。たけど、心が満たされて、じんわりと体が熱くなるのを感じた。
「好きだよ、デリア」
彼女は微笑んでくれるわけもないし、照れることだって無い。ただ、美しい無表情を続けるだけだ。
……人形に恋をするなんて、おかしいだろうか。
デリア。
抱きしめてほしいわけじゃない。想ってほしいわけじゃない。名前を呼んでほしいわけじゃない。ただ、私が彼女を愛したいのだ。私が抱きしめて、私が想って、私が名前を呼ぶ。それだけでいいのだ。
この、少女の姿をした人形を愛してしまうのは、同性愛者というわけではないと思う。もしかしたら、同性よりももっとおかしなものを愛しているのだから、私は酷く異常だろう。
異端でも構わない。好きの気持ちに偽りはないのだから。
彼女の金糸の中に指を通す。ふわりと軽い感触で手の中から零れていった。
ああ、デリア。
愛してる。
先日カフェで友人と会話したときのことをふと、思い出す。
「ねえあんた、彼氏とかいないの?」
ああ、困る質問だ。私は曖昧に笑って、答える代わりにコーヒーのカップに口をつけた。
「いつまでも一人じゃ、つまんないでしょ?」
自分には彼氏がいるからか、半ば私を見下すような視線を送りつつ、友人は言う。ムッとした私は彼女と視線を合わせないように言い返す。
「……いるよ、恋人」
言った瞬間、友人は口に含んでいたココアを吹き出しそうになって、噎せた。それから目を輝かせ、机に身を乗り出して言い寄る。
「えっ、本当!? よかったじゃーん! ねえねえどんな人なの?」
それで、私はもっと困ることになる。だって、デリアは人じゃない。人柄なんて存在しなかった。いつも話しかけているけれど、答えが帰ってきたことなんて一度たりともない。それが当たり前で、私だって返答は求めていない。造花が変わらぬ美しさでそこに咲き続けるように、デリアがデリアとして存在するだけで、私の心は一杯に満たされるのだから。
友人は未だ、私の答えを期待してこちらを見つめていたけれど、私は少し照れて、口元に手を当てて笑う。
デリア。その桜色のドレスから覗く白磁の肌。金糸の髪。長い睫毛。銀灰色の双眸。整った小さな鼻。薄い花唇。彼女を思い浮かべるだけで、頬が火照った。
言葉はなかったけれど、私のその反応だけで満足したらしい友人が、背もたれに体を預けて深く嘆息した。
「いいなあ。あんたラブラブみたいだね。うちなんてね、聞いてよこの間彼氏がさあ……」
友人の愚痴は一時間近く続いた。連絡を返すのが遅いとか、デート中に他の女の子を見ていたとか、喧嘩したときに態度がどうだとか。
うん、うん、と頷いて聞いていくうちに、相手がちゃんとした人間なら、私もこういう悩みを抱えたりしたのだろうか、なんて考えたりもした。
私がどれだけデリアを愛したとしても、デリアは何も返してはくれない。その美しい無表情を一時も壊すことなく、ただ机の上に座り続けるのだ。
コーヒーのカップの中、すっかり冷えてしまった残りを、一気に飲み干した。濃厚な苦味と香りが口の中に広がって、やがて消えていく。
「デリア、そろそろ寝よっか」
うん、なんて返事はないが、私は彼女を抱えると、寝室に連れて行った。
デリアの小さな頭をそっと枕の上において、体に毛布をかける。私も同じベッドの中に入って、横になった。
おやすみ、デリア。囁くように声をかけて、私は目を閉した。
そうして、思考する。先日友人の話を聞いていて、少しだけ想像したことがある。もし、デリアと全く同じ容姿の女の子が存在したとして、その女の子と暮らしていたとしたら。
ただいま、と声を掛ければ彼女はそれはそれは可愛らしい声でおかえり、と返してくれるのだろう。その唇に自分の唇を重ねたなら、暖かくて柔らかい感触が伝わってくるのだろう。そのまま抱き締めれば、彼女もまた、私の背に小さな手を回してくるのだろう。今日はこんなことがあったのだと話しかければ、その頬を綻ばせて相槌を打ってくれるのだろう。私の作ったご飯を、上品に口に運んで、でも好き嫌いだってするのだろう。そろそろ寝ようかと言えば、まだ起きていたいの、と我儘を言うことだってあるのかもしれない。
「好きだよ、デリア」
「ええ。わたしも、あなたのこと好きよ」
小鳥のさえずりのように愛らしい声で、笑顔で、そう答えるデリアがいる──。
はっとして私は思わず飛び起きた。
頬は濡れていた。両目から、次から次へと涙が溢れてきて、止らない。
咄嗟に悟り、罪悪感に体が震えた。
違う、違うのだと首を横に何度も振った。
私は、デリアがデリアであるだけでいいはずなのに。造花は造花のまま、作られた美しさで咲き誇る。それでいいのに。生花のように、風に柔らかく揺れて、瑞々しく咲き誇り、いつかは枯れてしまうのを。生を求めた。
彼女の声を、愛を、求めてしまった。
私は傍らで横たわるデリアを胸に掻き抱いた。固くて冷たい頬に触れて、ごめんね、ごめんね、と何度も謝った。相変わらず、デリアは美しい無表情で何処かを見つめるばかりだった。
彼女は私を許すこともなければ、見放すことも、軽蔑することもない。
それに耐えられなくなった自分を知った。叱ってほしい。許さないでほしい。愛してほしい。
デリアにできないことを、沢山、沢山求めて、泣いて、泣いて。
泣き疲れて眠ったら、朝になっていた。
「……おはよう、デリア」
デリアは何も答えない。
私はベッドから降りると、朝食の支度をした。
味気ないトーストと、苦いコーヒーを飲む。黒い液体の中に、表情のない自分が浮かんでいる。苦くて、美味しくない。なのに、なんで飲むのだろう。
カップの中に残ったコーヒーは台所に流してしまった。それから、スーツを着て、髪を結んで、軽く化粧をする。
家を出る前に、透明のビニール袋を取り出してきて、中に桜色のドレスの人形を入れた。
家を出て、駅とは反対方向に歩き出す。ゴミ捨て場だった。そこに、人形の入ったビニール袋を置いていく。
……私は、なにをあいしていたのだろう。
無表情にゴミ袋を一瞥して、踵を返した。カツカツ、とヒールの音を引き連れて。
***
この話を書くに当たっていろいろ調べましたが、人形に対する愛着はピグマリオンコンプレックス、とか、アガルマトフィリア(人形フェチ)と言うそうです。
彼女は、真のそれにはなりきれなかったようですけどね。