複雑・ファジー小説

Re: ロストワンと蛙の子【短編集】 ( No.69 )
日時: 2020/06/17 21:40
名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)

♯51 暗澹たるや鯨の骸

 僕の話を聞いてくれるかい。
 最近、夢を見るんだ。いつも同じ夢を。

 泡沫に呑まれて、自分がわからなくなった頃。カプカプ、カプカプ。不思議な笑い声に誘われるようにして、君は沈んでいくんだ。淡く蒼い光の中、声を出そうとすれば、代わりにあぶくが上がる。
 君には罪があるから、海の底に沈められたのさ。揺蕩う鰯が群れを成しながら言った。
 謂れのない罪に戸惑うのは、自覚がないだけさ。海月たちがせせら笑う。
 カプカプ声に混ざって、歌が聞こえてきた。高く、幻想的なそれが、まだ見ぬ海底から、君を呼んでいるのだ。
 君は殺しをしたのさ。罪無き穢れ無き魂を、君が銀のナイフで抉ったのさ。岩陰の蛸が炭を吐きながら喚いている。
 まだ不安そうな顔の君が、必死に何かを思い出そうとして、何もわからずに、迷子の子供みたいに項垂れる。ただ呼ばれているから、歌の方へ、海の底へ、君は沈んでいくばかりだ。君は自らの罪を思い出すことはできない。罪の自覚も無い。誰になんの許しを請えば良いのかわからない。なのに、咎める海の住人たちの声に耳を傾けては、胸を痛めている。
 お前が悪いと言われれば、私が悪いのだと信じ込んで、罰を求めて深海に沈んでいく。
 仄暗い蒼に染まった海底に足をつけると、君の前には巨大な魚の骨が横たわっている。
 ほら、そろそろ思い出す頃だろう。君が殺した彼が目の前にいるよ。鮫たちの囁きに、君は目を剥くだろう。
 彼は皆に愛されていたのに。君が殺したんだ。残念だ、残念だ。そう口々に言うのは鯱の親子だ。

「鯨の、骨?」

 あぶく混じりの声で君が言う。それは確かに鯨の白骨化した亡骸だ。
 肋骨の隙間を縫って泳ぐ小さな魚達が思い出せ、早く思い出せ、罪人め、と言い募る。
 でも君は、最後まで何も思い出せないんだ。
 責め立てる魚達が何を言おうとも、大きな鯨の骨を見つめていても、君からは罪の記憶が抜け落ちていて。首を横に振るばかりだ。
 何故だ。君が悪いのに。なんて薄情な。最低だ。多方面から、君を責める声が響いている。君は煩わしそうに耳を塞いで、それから、

「ごめんなさい」

 その言葉に呼応するように、横たわっていた鯨の骨がゆっくりと起き上がった。海底の砂が巻き上がる。鯨の骨の隙間を泳いでいた魚達が一斉に逃げ出した。
 罰を受けろ。罪を償え。僕達の悲しみを知れ。海の住人たちの声に君は頷いて、ひたと鯨の顔を見つめる。
 再び歌が聞こえた。高く不思議な旋律。それが鯨の骨から響いているのだと、僕と君は今更気がついて。

「ごめんなさい。私には、あなたのことわからない」

 泡沫に包まれた声に、僕は呆れて、ありもしない肩を竦めたくなる。君は思い出してくれないんだ。何もわかってくれないんだ。
 鯨の顔の骨に、左右対称で空いた穴。本来なら瞳があった部分から、雫が溢れたような気がした。でも、海中ではそんなものわかるはずがないから、きっと気のせいで。
 鯨の大きな口が縦にゆっくり開かれる。生え揃った鋭利な牙が剥き出しになって。
 そうして一息に君を飲み込んでしまった。
 音もなく。あぶくだけが辺りに漂った。
 罪人は裁かれた。裁きは下された。喜ぶような魚達の声に包まれて、やがて辺りの光が失われていく。大きな鯨の骨の輪郭さえ見えなくなって、ただ悲しげな歌だけが聞こえ続けて。そうして僕は目を覚ますのだ。

 夢から目を覚ました僕は、何故かいつも泣いていた。何が悲しいのか、それとも悔しいのか、怒りにも似た感情に胸中が掻き乱されて、涙を零す。
 ただ大きな感情がそこに存在するのに、それがなんであるかがわからない。現実の君を見ては、夢の君と重ねて、泣き出してしまいたくなる。
 君は、僕のことを何も知らない。僕だけが君をずっとずっと、知っている。
 どうしてこんなに知っている僕が、こんなに遠いのだろう。海に手を伸ばしても海底には届かないように、君の隣にいたって手は届かないようにできている。
 海底で鳴く鯨の歌は、同じ海にいたって届かないし、尚の事、君には聞こえない。
 それが寂しいのか、遣る瀬無いのか、気に食わないのかはわからない。
 君が僕を殺したのに。君はその自覚さえないのだろう。死んだ僕の、暗澹たる胸中なんて、想像も付かぬだろう。
 時々、狂いそうになる。君の横顔を見ては、届かない声にもどかしくなって、頭を掻き毟って、独り叫びながら走り出してしまいたくなる。狂気に身を任せることのほうが、幾分ましだろう。なのに僕は、ただ涙を零すだけなのだ。
 海水と大差ない涙の雫なんて、最初から無かったみたいに波に攫われていく。それで良かった。
 大海がこの感情まるごと、攫ってしまえばいい。
 何も知らないという罪過に汚れた君に、届かなくたって構わない。
 ただ。僕は今日もまた、君に罰を与えるのだ。
 許さない僕らと、許されない君が触れ合うことは、永遠にないままで。

***
このタイトルで本を作ろうと思っていました。その本の看板作品として書き下ろしたものです。
君に殺された僕と、自覚のない殺人者のすれ違いは、往々にして起こるものです。