複雑・ファジー小説

Re: 朗らかに蟹味噌!【短編集】 ( No.82 )
日時: 2020/09/22 16:17
名前: ヨモツカミ (ID: 51xGQIyI)

♯56 お前となら生きられる

 この世界には、人間と殆ど同じ形をしていながら人間ならざる者達がいる。優れた身体能力。それから人知を超えた特異な〈能力〉を所持しているそれらを、ヒトは“バーコード”と呼んだ。
 バーコードは人間に害をもたらす者として、駆除の対象──つまり、見つかり次第、殺される。生きることを許されない存在だった。
 彼らバーコードの中には、突発的な“殺人衝動”に苛まれて、親しい間柄の存在だろうが他人だろうが、自分の本来の意志とは関係なく、猟奇的に殺す快楽に溺れてしまう者がいた。
 そんな危険な存在であるバーコード達を狩ろうとする人間の軍隊が日々活動しており、バーコード達は自分らの正体を懸命に隠して、なんとか生存しようとする。
 ──そして、とある彼らもまた、哀れなバーコードという存在だった。
 曇り空の色をしたくせ毛に、隈の目立つタレ目の目元。そこに収まる金色の双眸は、相方の男の顔を見ているようで、捉えていなかった。

「ねーぇ、このまんまじゃオレ、トゥールのこと殺しちゃうよ? いいの?」

 上ずった声。金色の瞳を爛々と輝かせながら、その青年、クラウスが言う。
 トゥール、と呼ばれた男を押し倒して、馬乗りになったままナイフを掲げたクラウスは、今にもその鋭い刃で、男の喉を掻き切らんとしていた。
 自分の腹の上に跨ったクラウスを見上げて、トゥールは疲れたような目をした。トゥールもまた、バーコードであったが、こちらは〈能力〉の発動が随時解けないという、異質な体質を持っており、その体の至るところが深緑の鱗で覆われており、手足は恐竜の如く鋭い爪を携えていた。人間がそれを見たなら、彼を“バケモノ”と称しただろう。

「お前がそうしたいなら、構わない」

 トゥールは諦念の篭った声で、弱々しくそう告げる。
 クラウスがこうして殺人衝動に突き動かされることは、そう珍しくない。彼らが出会った日も、トゥールはクラウスに命を奪われそうになったのだから。本当は、トゥールはずっと前からこうしてクラウスに殺されてしまっても構わないと思っていた。けれど、クラウスがトゥールを殺すことを拒んだのだ。
 「なにがあっても、オレに殺されないで」。それは、正気の状態のクラウスとの約束だった。大切な契だった。
 それすらも破ってしまいそうになるほど、トゥールは疲れていたのだ。バーコード狩りから逃げ続ける生活も、無理に生きようと足掻くことにも。だから彼は、クラウスにナイフを向けられても、一切の抵抗をしなかったのである。
 クラウスはナイフの歯先を指で優しくなぞりながら、そっと目を伏せる。長い睫毛の下から覗いた金色には、濁った光が燻っている。

「オレね、ずっとずっと、こうしてトゥールのこと殺すことばっか考えてたの。やっぱ大好きだからさ。喉を切り裂いてね? 手足をグサグサしてさあ、目玉抉りだしてー、あとは……なにしてほしい? ヒヒ、痛いのは嫌だ?」
「別に。痛みには慣れている。好きにしろと言っただろう」

 こんな状態のクラウスとも、会話は成立するのだな。今まさに殺されようとしているのに、こんな思考をするのはあまりにも悠長だった。
 クラウスが微笑む。顔立ちが整っているために、彼の笑みは天使のようですらあった。どこまでも純粋に、ちょっといたずら好きの子供のように。その瞳にドロドロと泥濘んだ光がなければ、幼い子どもの笑みそのものだった。

「オレ、トゥールのこと大好きだからね、トゥールの腹を裂いて、中身を丁寧に、丁寧に、細かく切って、どうしよ? 食べてみよっかな」
「腹を壊すぞ」
「キャハハ、やっぱそーぉ? 生肉食べちゃ駄目ってお母さんにも言われたもんな、火通してから食べるからだいじょーぶ!」

 そういう問題では無いのだが。殺戮の衝動に乗っ取られていても、母親の言いつけを思い出せるものなのか。これまた殺される寸前の獲物の思考としては相応しくないものだ。トゥールは、自分が本気で殺される気があるのかと、少し疑問に思う。きっと、わからないのだ。想像がつかない。大切な相棒であるクラウスに、殺されるということが。
 死ぬ覚悟はとうにできているはずなのに、彼に殺される瞬間が思い浮かばない。自分は本当に死ねるだろうか。

「なあクラウス」

 トゥールが呼びかけると、なあに、と無邪気な子供のようにクラウスは微笑んだ。

「許してくれとは言わない。目が覚めたら、お前は約束を破った俺のことを恨むだろう。それでも、このままお前に殺されたいと思ったんだ」

 クラウスは目を丸くした。驚いた猫みたいな顔をしている。トゥールは静かに右手を伸ばした。鱗に覆われて醜い掌でも、クラウスはそれを払い除けようとはしなかった。伸ばした手で、クラウスの頬を撫でる。

「俺を、許さなくていい。でも、自分のことを責めないでくれ」
「……とぅーる。ねえ、トゥール」

 灰色の髪が揺れる。鋭いナイフが高く振り上げられた。

「だいすきだから、しんでね」

 トゥールが目を閉じると、風を切る音がして、何か鋭利なものが肩を抉った。思わず痛みに呻く。だが、肩にナイフが刺さった程度では死ねない。
 ぽつり。ぽつり。トゥールの頬に冷たい雫が垂れてきた。雨だろうか。ゆっくりと目を開けると、金色を潤ませるクラウスの姿が飛び込んできた。

「あ、ああ、とぅーる……」

 声を震わせて、クラウスはナイフを取り落とす。ああ。正気に戻ったのか。殺人衝動が収まって、本来の優しい青年が戻ってきたのだ。
 殺されようとしたのに。トゥールの思惑通りには行かなかった。
 クラウスが突然掴みかかってくる。その手の位置が肩の傷口に近くて、トゥールは顔を歪めた。

「バカ! トゥールのバカ! お前、今オレに殺されようとしてただろ!?」
「……だとしたら、何だ」
「オレに殺されないって、約束したのにッ、なんでこんなことするんだよ、バカ!」

 罵倒のボキャブラリーが貧弱すぎて、「バカ」くらいしか言えない彼を、愛らしく思う。いや、本気で怒っている相方に、こんなふうに思うのは間違っているな。
 トゥールは確かに約束を破ろうとしたのに、あまり罪悪感が無かった。目の前でクラウスがボロボロと泣いている。殺人衝動に呑まれていたときに発言した大好き、は偽りではないらしい。だから大切なトゥールが命を大事にしないことや、クラウスに殺されようとしたことを本気で怒っている。

「バカバカ! ふざけんなよ、オレ、お前のこと殺したら、どうなっちゃうかわかんないよ、ばかぁ」
「だから、許さなくていいし、自分のことは責めなくていいといっただろう。全て俺の独断で、俺が勝手にすることだから、」
「そういう話じゃねーだろアホ!」

 左手の拳がトゥールの頬を掠めた。あまり手加減されてない一発。口の中が切れて、口端からも血が滲む。未だに出血している肩の傷ほど痛みは無かったが、きっと攻撃したクラウスの感情の重さは違う。

「ばか。なんでこんなことしたんだよ。お前がいなくちゃったら、オレは……オレは」
「すまない」
「謝って済む話じゃねぇよ! なんで、オレがこんなにトゥールに生きてほしいって思ってるのがわかんねぇんだよ? どんなに死にたくなっても、お前なんか死なせねぇよ!」

 言い切ると、クラウスは嗚咽を上げて泣き喚いた。雨のように、涙がぽつり、ぽつりと落ちてくる。
 こんなに自分のようなバケモノを大切に思ってくれる存在がいるのに。トゥールはそれに気付いていながら目を逸らしていた。だから、殺人衝動に苛まれたクラウスに殺されようだなんて考えに至ったのだ。それがどれだけクラウスを傷付けることなのかだって、なんとなく理解していたのに。

「……クラウス。悪かった。本当に心からそう思う。もう二度とこんな真似はしないから」

 許さなくていい、なんて言葉は。そのヒトに恨まれることを受け入れた気になって、己の罪を認めつつ、反省の色が存在しない。無責任で最低な行為だった。

「だから、許してほしい」

 その声に、腕で涙を何度も拭いながら、不機嫌そうな顔で、クラウスは小さく頷いた。

「お前なんか死なせないし、オレだって死にたくない。バーコード狩りだろうが何だろうが、関係ない。オレらが生きてちゃ駄目だって言うなら、全力であがいてやろ。ほら。トゥールも、一緒にだよ」

 優しく揺れる金色の双眸は、水面に映る月のようだった。ああ、自分はこんなにも必要とされていたなんて。今まで気付かなかったのだ。というよりも、知らないふりをしていた。
 この世界で生きようとするなんて、バーコードには難しすぎる。それはクラウスも知ってるはずだ。しかし、どんな困難にあっても、生き延びるのだと。クラウスは無邪気に笑う。
 この笑顔の隣なら、自分もまだ生きていてもいいような気がした。彼の隣なら、こんなに醜い自分も、生きることを許されたように感じたのだ。

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みんつくに投稿した「狂気、激情、刃」というお題のやつ。私の書いている「継ぎ接ぎバーコード」の二次創作的な作品を書きました。継ぎ接ぎバーコード、こんな感じの作品なので、興味のある方は是非。