複雑・ファジー小説

Re: すばる ( No.11 )
日時: 2020/10/17 04:40
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 スバルくんを捜してみたけれど、ちょうど駐輪場から出ていくところで、ぎりぎり追い付くことができなかった。
 あれから、ふたりで公園に行ってみても彼の姿を見ることはなく、彼からの連絡も一度もなかった。家に行ってみるべきかとも考えたものの、虐待がひどくなってしまったら、父親から引き離すことになってしまったらと考えると、怖くて行けなかった。そうこうしているうちに仕事も忙しくなってきて、職場やアオイの新しい保育園に通いやすいよう、年度の明ける前に、市内のマンションに引っ越しも済ませて。
 縁があれば、またスバルくんに会えるだろう。最後に中央公園へ遊びに行った日、アオイはそんなことを、彼女なりの言葉でわたしに伝えてくれた。
 それから長い間、わたしは彼のことを記憶の奥底に封じ込めていた。


       ■



3.『スバル』


 高校一年生になった年の夏、父さんが、家族みんなで奄美大島にいかないかと提案してきた。母さんは二つ返事で、兄さんもしぶしぶ賛成して、八月にならないうちに計画は実行されることになった。
 兄さんが昔落ちてしまった、第一志望の公立高校に合格してから母さんの態度は手のひらを返すように変わった。おかげで兄さんの僕への嫌がらせもなりをひそめて、多少は生活しやすくなったと感じる。ふたりのことを好きになったわけじゃないけど。

「なあ、スバル。おまえにプレゼントがあるんだ」

 旅行に出かける三日前の夜、父さんが僕を部屋に呼んできた。僕や兄さんのよりも広くて、壁いっぱいに取りつけられた本棚には、建築関係や趣味の本なんかが綺麗に並んでいる。それ以外、床やデスクの上にはあまり物がなく、母の部屋と違って絨毯すらも敷かれていない。掃除が面倒だからといつか言っていた気がする。
 デスクライトひとつだけの明かりの前で待っていると、部屋の奥から出してきたなにかを僕の首に提げられた。影になっていた父さんがどけて、それが何なのか、ようやくこの目できちんと認識する。彼が持っているのとはべつの、新品らしいカメラだった。

「入学祝い、ちゃんとしてやれてなかったから、それも兼ねてな」
「え、いいの? こんな、」

 いっしょに渡された紙袋には、必要なアクセサリが入っていた。父さんも、そろそろ新しいものに買い換えたいと言っていたはずなのに。いいんだろうか。たしかに、中学に上がったくらいからときどき父さんのを借りて、ふたりで出かけた先で写真を撮ったりしていたし、いつか自分のものが欲しいなとも思っていたけど。

「最新のヤツじゃねえんだけど、勘弁してくれよ。さすがに値が張るんだわ」
「そんなの気にしないよ、つーかわかんないから。ありがとう、父さん!」
「使い方はそこまで変わらないはずだ、わからないことがあれば、説明書か俺に訊くといい。大事にしろよ」

 もちろん、言われなくとも大切に使うつもりだ。
 さっそく今度持っていって、たくさん撮ろう。そのためにいまから慣れておかないと。
 改めて父さんにお礼を言って自分の部屋に戻ろうとすると「昴琉」やさしい声で呼び止められた。

「昔は、問題集や本か、お菓子を買ってやることくらいしかできなかった。しかも、母さんやチカに隠れてだ。ごめんな。あのとき、おまえの味方になってあげられなくて」
「……父さんが気にすることじゃないよ。それに充分、僕にとっては心強い味方だった」

 力で勝てないのなら、違う方法で追い越してしまえばいい。小学生のとき、そう教えてくれたのは父さんだった。兄さんには劣るけれど幸い地頭は悪いほうではなかったので、それからずっと努力を重ねてきたのだ。
 兄さんに教科書やノートに落書きされたり、破られたりしても、負けなかった。いい友達や先生にも恵まれたから、わからないことは分かるようになるまで彼らに聞いて、その代わりに、みんなが困っているときは助けになれるように行動した。
 父さんは、僕が自分だけの力でここまで来たと思っているのかもしれないけど、それは違う。クラスのみんなや、部活や生徒会の友達や、先生や、父さんのおかげだから。

「だから、泣かないでよ」
「ばかやろっ、泣いてねーわ!」

 涙でぐしゃぐしゃになりながら、父さんが笑う。
 まさかこの三日後に、彼が死んでしまうことになるなんて。いったいだれが予想できただろう。

Re: すばる ( No.12 )
日時: 2020/10/17 04:59
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 雨宮千嘉と名乗る男から電話がかかってきたのは、アオイが中学二年生のときの、秋の夜だった。弟の様子がおかしい、助けてくれと、男は切羽詰まった声で言う。
 ショートメールに送られた住所を見て、わたしはようやく、その声の主がだれなのかを思い出した。
 スバルくんの、お兄さんだ。

「アオイーっ、ちょっとお母さん出かけてくるねー」
「え、いまからぁ?」

 部活の練習から帰ってきて、夕飯のカレーを食べ始めたばかりのアオイが、あんぐりと口を開く。わたしはとりあえず、食事は後回しだ。
 何時になるかはわからないが、なるべく早く帰ると伝え家を出て、車を走らせた。呼び鈴を鳴らして玄関から出てきたのは、九年ぶりに、しかも初めてきちんと顔を合わせるチカ、本人だった。


       ■



 七月三十日、空港に向かう途中、高速道路で事故に遭った。しつこい煽り運転の車を避けようと、父がハンドルを切って、それから……それからのことは、覚えていない。知らない病院で目がさめたときには、数日が経っていた。両親はもうこの世にいなかった。包帯ギプスその他でぐるぐる巻きになった兄と、それに比べればちっぽけな僕の外傷だけが、あの日の事故を現実だと物語るばかりで。
 加害者はとうに死んでいた。他人の未来を、幸せを食い潰し、罪をつぐなうこともなく、だれよりもあっけなく。全身を打って、即死だったと聞く。家族の人たちに何度も頭を下げられたけど、謝って済むのなら警察も裁判所も必要ない。お金をもらっても、奪われたものが返ってくるわけじゃない。弁護士の人にそう言ったら、返ってこないからこそもらうんだよと言われた。
 あの事故の影響で、車に乗ることを避けるようになった。兄さんよりも一足早く退院し、家へ帰るために乗ったタクシーの中でフラッシュバックを起こしたのが、きっかけだったと思う。今度は同じ病院の違う科に担ぎ込まれた。
 そんな感じなので(どんな感じだ)自分を客観視しすぎてしまって、帰りに駅へ向かう道中は、笑いが止まらなかった。わりと元気だなー自分、まあこれからがんばるかー、なんて思っていたけれど、まあ。その調子で、正気でいられるわけがなかったのだ。
 まず、久々の帰宅から一ヶ月分の記憶が吹き飛んだ。生活に必要ないろんなことが、突然できなくなった。
 そうしてもう、退院から二ヶ月が経とうとしていた。学校にも行かず、自室の布団にこもって過ごしていたある日、なにかが弾け飛んだように感情が制御できなくなった。泣き叫び、幾度も自傷行為に及び、繰り返し再生される記憶から沸き上がる、強い後悔と怒りを体外に逃がすように、胃液を吐いていた。いつまでこんな悪夢がつづくのだろうかと。うつろな意識で考えていたのを、覚えている。

「スバルくんっ、スバルくんっ」

 またいつものように記憶に苛まれていると、なんだか聞き覚えのある声がしてきて、僕をぎゅうと抱き締めてきた。このところ風呂入れてないんだよなー、申し訳ないなあと思っていたら、眠ってしまっていた。
 気づいたときには、久しぶりに会ったミドリさんといっしょに、地元の病院の診察室にいた。僕の机の引き出しにあった古いメモを見つけて、兄さんが彼女を呼んでくれたのだそうだ。そういえば、なぜか医者が機嫌を悪くしていたっけ。
 僕の状態が予想以上に悪いということで、高校は退学することをすすめられた。ちょうど留年の決まる欠席日数に届きかけていたが、来年の春までに治る見込みがまったくなかったのだ。
 諸々の手続きはミドリさんに任せて、僕は再び引きこもりという名の療養生活に徹した。相変わらず発作がおさまらないからだ。どうして自分は生き残ってしまったのか。これから先の人生、兄さんとふたりで生きていかなきゃいけないのか。そんなの生き地獄だ。自動的に展開される思考が僕を蝕み、壊していく。
 そうして、退院から三ヶ月になろうとしていた頃。僕を見かねたミドリさんが、ある日兄さんに言った。

「ねえチカくん、あなたの通ってる大学って県外だったよね。突然なんだけど、この家を出ていってもらえないかな? スバルくんが立ち直るまで、わたしが面倒を見るから」

 半月後、兄さんが県外のアパートに引っ越していくと、必要な薬の量もずいぶん減って、僕の体調はたちまち回復し始めた。
 頭の中では兄さんをあの事故で死んだことにして、彼に関する記憶の大部分を封じ、再構築していったのだ。

Re: すばる ( No.13 )
日時: 2020/10/17 05:13
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 二月の中頃、隣町の通信制高校への入学が決まって、駅に近いアパートへ引っ越すことになった。それまで、引っ越しの準備といっしょに最低限の家の片付けもした。僕がこの家を出てからは、ミドリさんが定期的に掃除なんかに来てくれるらしい。そのため、大事なものはいまのうちに僕が片付けておいてほしい、と言われたのだ。
 父さんの部屋で作業をした日、防湿庫や収納スペースの片隅で、彼の愛用していた撮影道具たちが見つかった。旅行には持っていかなかったのだろうか。あるいは、ミドリさんがここに戻したのか。少し考えて、前者の可能性のほうが高いなと結論づける。
 事故に遭ったとき、僕のものはスーツケースの中でさらにバッグに入れていたせいか、運良く無事だった。けれどもあの日以来まともに触れてすらいない。一応引っ越しの荷物の中には入れたけど、しばらく使えないだろうな。
 いろんなことを、思い出してしまいそうだから。

「ねえ、父さん、僕がもらっていってもいい?」

 部屋の隅にでも、彼がいるような気がして。いいぞーと笑ってくれているような気がして。次の日、あの中央公園へ父の愛機を持って出かけることにした。久々すぎたのか、なんだかほとんど知らない場所のように感じたけれど、なぜだろう。


       ■



 前期・後期それぞれはじめてのホームルームは、通学コースの生徒たちが学年ごとに時間を分けて集まり、先生から予定の説明を聞く。僕たち二年生はほかの学年ほど人数がいないので、いつにもましてキャンパスが静かだ。
 同級生たちが過ごしているはずの日常から半年以上も離れていたブランクは大きく、なかなか苦しい一年間だった。勉強で困ることはなかったが、通学自体が体力を削ってくるのだ。甘え、などとかんたんに語れる次元の話ではない。
 一年経てば多少は慣れるかと踏んでいたものの、今でも正直しんどい。学校行事に参加したくないと思ったのは生まれて初めてだ。結局そこそこ楽しんでいるのだが、毎回、帰宅後最低一日は寝て過ごしてしまう。

「なーなー、きみって雨宮きゅんだよねえ?」

 七月の宿泊行事で、先生やOBといっしょに撮ってまわった生徒たちの写真を携帯で眺めながら、後期最初のホームルームが始まるのを待っていたとき。わざわざうしろの席から知らない男子生徒に軽く小突かれた。
 月のはじめには転入生が大体ひとりはやってくる。彼もその一人なのだろう。転入生に初日から認知されるほどこの学校で悪行を重ねてきたようなおぼえはないが、振り返ってみた。

「あー、やっぱり雨宮きゅん」

 笑顔で僕を見つめてくる彼は、地の色なのか日焼けや髪染めでもしたのか、小麦色の肌と金髪に近い長い茶髪の、主張がはげしい外見をしていた。耳にはピアスまでいくつか空いている。
 この学校では私服登校が許されているし、事実僕を含めたほとんどの生徒がいつも私服姿だ。校則もそこらの公立高校より断然ゆるく、外に出る学校行事でもない限りは髪を染めていてもアクセサリーを身に付けていてもとくに指導されない。しかし、ここまで派手な外見をしているのもなかなか珍しかった。ここの生徒の半分近くは、放課後や自分の授業のない日にはアルバイトをしているので、必然的に落ち着いてくるものなのである。

「初対面で意見するのもなんですが、その変な呼び方、やめてくれません?」
「だって俺、おまえの兄さんと知り合いなんだもーん。雨宮チカって、スバルきゅんのお兄さんでしょお? 後ろ姿からもう似てるよねー」

 ちりちりと瞼のはしが震えた。

「俺のねーちゃんが高校んときの同級生でさあ、いまでも付き合いあんのよ。ねえねえ、今度三人で遊ぼーよ、タピオカ奢っしー」
「人違いじゃないの。頭痛くなってくるから、ちょっと静かにして」
「はあ? なんだよその言い方、むっかつくなあ」

 すこーん、と丸めたプリントの冊子で肩を叩かれる。おまえこそ何なんだ。音のわりに大して痛くもないし。
 前の壁にかけてある時計がちょうど十一時を指して、同時に隣の職員室から先生が出てきた。チャイムなんてものは、ここに存在しない。

「はーいみんな、席につい……てるか。って、ほんとに少ないよなあ、一年生の半分もいない」

 ホワイトボードの前で、僕を含めて全六名の二年生を見渡しながら、キャンパス長が笑った。

「まあ、これからもう少し転入生も来るかもしれないからな。雨宮の後ろのきみ、自己紹介して」
「ほーい」

 うしろから椅子の引きずる音が大きく響いてきて、まわりの生徒たち四人の視線が集中する。僕は振り返らずに、彼の短すぎる自己紹介を聞き流した。

「どーも、螯よ怦逅「蜩峨〒縺吶€ゅh繧阪@縺上€�


Re: すばる ( No.14 )
日時: 2020/10/17 15:18
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)


 三年生に進級してすぐ、アオイが不登校になった。去年から学校でいじめられていたらしい。
 わたしは、クラスでも部活でも同級生にいじめられたけど、無理やり学校に通わされつづけていた。それが当時、辛くてたまらなくて、近所の川に飛び込んで死のうとしたことがある。結局、痛みが怖くて飛べなかったけど。

「アオイがいてくれるだけで、わたしは、きょうまで生きててよかったなあって思うの」

 死にたいと願うのがどれほど苦しいことか、わたしは知っている。
 アオイにはあんな思いをしてほしくなかった。


       ■



 中学卒業から一年後、進学した隣町の私立高校で、昔よく遊んでもらったおにいさんにそっくりな男子生徒を見つけた。昼休み、彼は窓際の席で机に向かって課題を進めていて、申し訳ないかなと思いながらも、わたしはそばに近づいて声をかけた。

「すぅ、くん? わたし、アオイなんだけど、おぼえてる?」

 少し遅れて、彼が顔を上げた。やっぱり似ている。でもずいぶんまとう雰囲気が変わったな。
 レポートの記名欄に並ぶ角張ったきれいな文字も、漢字ははじめて知ったけど、記憶に残るそれと一致している。だから、きっとすぅくんだと思ったのに。

「……さあ。人違いじゃないですか」

 あっさりそう言われて、また意識の外に追いやられてしまった。

「アオイちゃん、ちょっと」

 うしろから呼ばれたので振り向くと、部屋の端のほうで三年生の女の子が何人か固まっていて、手まねきしていた。もう名前を覚えてくれたらしい。
 なんですかー、と彼女たちのもとへ駆けていくと、そのうちのひとりが声を落として訊いてきた。たしか、北野さんだったっけ。

「あなた、雨宮くんの知り合い?」
「えっと……ちいさい頃の友達に似ていたので、確認したんですけど、人違いだったみたいで。それがなにか?」
「去年、あなたみたいに声をかけた男子がいてさ、悪気はなかったらしいんだけど、あんまりしつこいからトラブルになったことがあってね。ちょっと思い出しちゃったの」
「そうなんですか」
「十月くらいだったっけ、たしか。お兄ちゃんがいるとかいないとか……だよね」

 輪の中で、席についてお弁当を食べているべつの女の子が、北野さんにたずねた。

「そうそう、雨宮くんここで爆発しちゃって、びっくりしたよね。それから何か月も休んでて、単位足りなくて留年。一年遅れて入学してるから、今年で十九歳になるはずだよ」

 そっか、それでいまからあんなにレポート頑張ってるんだ。

「なんか病気だか障害があるらしいって聞いたけど、そのせいだったのかな」
「あー、この学校だとたまによくいるよねー」
「どっちだよ」
「あたしのお姉ちゃんもそうだから」

 いろいろ訳ありな人が多いんだなあと思いながら、さっきコンビニで買ってきたフルーツジュースをストローで吸った。果汁百パーセント、濃縮還元。
 彼女たちは噂話を楽しむわけではなく、あくまでも疑問を解消するためとか、彼のことに限らず、わたしが知らずにだれかの地雷を踏んでしまわないようにと言ってくれているみたいだった。現に空気にはそこそこの重みを感じる。

「あのー、そのとき声をかけた男子っていうのは」
「ああ、あいつねぇ、もういないよ。転入してきて二ヶ月くらいで都内に転校したの。雨宮くんのこととは関係なく」
「に、二ヶ月!」
「それもたまによくいるよねー」
「だからどっちだよ」

 あっはっは。北野さんのとなりで「たまによくいる」女の子がショートヘアを揺らして快活に笑う。彼女はいちごオレの五百ミリパックから、ずこここーー、とストローで残りを飲みきると、満足そうにまた微笑んだ。

「あたしらも一回くらいは、みんなにここに来た理由とか訊いちゃうんだけどさー。あんまり言いたそうじゃなかったら、踏み込まないであげてね。アオイちゃんなら大丈夫だろうけど」


 それから、約半年後。
 雨宮くんもわたしも平日はほぼ毎日登校していたし、校内行事に参加することも多かったのだけど、とくに話す機会もないまま時間だけが過ぎてしまった。
 無理やり昔のことを掘り起こすつもりはないけど、このまま雨宮くんが卒業してしまったらと考えると、やっぱり全部諦めるなんてできなくて。こういうのをジレンマというのかななんて思いながら、放課後になったキャンパスでのろのろと帰り支度を進めていた。ら。

「えーっ、入賞! すごいじゃん」

 前にあるキャンパス長のデスクでノートパソコンの画面にかじりついている、OGの榎本先生が声をあげた。そのそばには雨宮くんが立って恥ずかしそうに辺りを見回している。わたしと目があってもすぐに逸らされてしまった。
 わたしたちのほかに何人か残っていた生徒も一瞬、何事かとふたりに視線を送っていたが、出入り口や廊下で待つ生徒たちに呼ばれてすぐ出ていってしまった。わたしが口を出すことじゃないけど、あんまり他人と関わっていないもんなー。

「やっぱり私の目に狂いはなかったんだね、まあ素人なんですけど」
「大したことじゃないですよっ。こんなに小さく載ってるし」
「それほかの受賞者に失礼でしょー。ていうか初応募でいきなり最優秀賞なんてなったら、こっちが怖いわ」
「たまにはいるんじゃないですか?」

 たまによくいる、のかと思って身構えてしまった。例の三年生が頭の中で笑っている。とりあえずわたしも前に出て、ダメ元で輪に混じることを試みた。

「あのー、二人とも、何かあったんですか?」

 振り返ったふたりの表情が、まるで対照的なのでおもしろい。

「スバルさ、私のすすめで応募したフォトコンテストで入選しちゃったの!」
「ふぉと?」
「ほら、後ろの壁に貼ってある行事のときの写真。今年の分からほとんどスバルが撮ったやつなの。キャンパス長が直々に、撮影係やってほしいって」
「……すこしだけ趣味でやってたので」
「あ、なるほど。そうだったんだぁ」

 これまでのささやかな疑問が解決した。
 さっきから小躍りしそうな勢いで喜んでいる先生が、パソコンの向きをくるりと変えて画面を見せてくれる。「これこれ」指さしたところをクリックすると、作品が拡大表示された。

「……わ、すごい」

 一瞬、絵画かと思った。
 生垣の真っ赤なハイビスカスが咲き誇る中、白い肌と麦わら帽子がきれいに浮き立つ、思いきり笑っている先生。視線の先でだれかと話していたワンシーンなのだろう。場所の心当たりはあった。

「夏の宿泊行事のとき、いつのまにか撮っててくれたみたいでさー、すごくない?」
「たまたま、距離も光の具合もよかったんですよ。ただでさえ人を撮るのは難しいのに。あくまで偶然です。入選も、初心者部門だったから」
「雨宮くんっ」

 思ったよりも大きな声が出て、びっくりした。

「わたし、中学でバドミントンやっててね、部活の先生によく言われたの。偶然で勝つことはあっても偶然で負けることは絶対ないって。雨宮くんのいう通りたまたまだったのかもしれないけど、いまは喜んでいいと思うよ。逆上がりや二重跳びができるようになったときだって、最初は偶然からじゃなかった?」

 わたしたち以外だれもいない部屋が、しんと静まり返ってしまった。見上げた雨宮くんの顔から、表情が薄れていく。
 ど、どうしよう。わけわからないこと言っちゃったな。雨宮くんの運動神経が悪い前提みたいな言い方だし、わたしなんて最後に写真撮ったのまさにあの沖縄の行事のとき以来じゃん、しかも友達との自撮りかご飯ばっかりだしそのくせ偉そうで自分でもむかつくしうわーーーーどうしようどうしよう!
 あと十秒沈黙がつづいたら、ダッシュで帰ってしまおうと思った。だから八秒まで耐えられたのに。

「…………ふっ、そうかも。 ……そうかも。ありがとう、相馬さん」

 口元を隠してくすくす笑いながら、肩を叩かれた。バカだと思われたかな。恥ずかしい。

「スバルでいいよ。呼び方」
「じゃあ……わたしもアオイがいい」
「あのーう、おふたりさん。いや、アオイちゃんはいいのか。スバル、あのさあ」

 いつのまにかまたパソコンに向かっていた先生が、スバルを呼びとめた。

「はい?」
「さっき初心者部門に応募したって言ってたよね」
「ええ、まあ」
「入選したの、何度見ても上級者部門みたいなんだけど」
「     げっ  」

Re: すばる ( No.15 )
日時: 2020/09/26 15:53
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)




「お母さん、あのね、学校にすっごくすぅくんに似た男の子がいるの。声をかけたら違うって言われたんだけど、わたし、それでも絶対すぅくんだって思っちゃうから、ときどきどうしてもそう呼んじゃうの。最近、なんて呼んでもいいよって言ってくれたんだけど、やっぱり申し訳ないんだぁ」

 冬休みに入ったある日、学校のクリスマス会で撮ってもらったツーショットをお母さんに見せた。そうしたら、嬉しそうな悲しそうな顔をしながら、スバルのこれまでについての話をたくさんたくさんしてくれた。その子はすぅくんだよ、ずっと黙っててごめんね、と、見たことないくらい大粒の涙をこぼしながら言われた。
 今年の四月、ひさしぶりにスバルの様子を見にアパートへ行ったとき、彼はもう、お母さんのことを忘れてしまっていたそうだ。
 人間の頭はボタンひとつで記憶を操作できるほど、簡単なつくりをしているわけじゃない。ねじ曲げた分のしわ寄せは、必ずどこかに現れる。
 それが必然的に、お母さんやわたしとの思い出だったわけで。

「危うく通報されかけたよ。部屋を間違えたってことにして、すぐ帰ったけど」

 こんなに辛そうな顔をするくせに、彼女は笑い話へ昇華しようとする。
 わたしは、なんにも言えなかった。


       ♪




 月明かりの目に痛む現実に、意識が浮上する。走馬灯みたいなものの再生は、一通り終了したらしい。なんだかひどく疲れた。全身が痛い。バキバキだ。

「俺が、殺したようなものだ、ミドリ以外の女も。実際に殺したのはあいつだけど、そう指示したのは俺自身だ。俺は連続殺人犯なんだよ」

 ぼんやりしていた視界の端に光るものが見えて、その瞬間、僕はめいっぱいの力をこめて兄さんを蹴り飛ばした。頭がうまく回らないから、もうめちゃくちゃに数打ちゃ当たるだろう的作戦でやった。何回か急所にヒットして「んがっっ」運良くナイフまで遠くに飛ばすことができて、僕って「ラッキーだなー」と思う。
 母さんと兄さんに嫌われていても、父さんだけは僕の味方でいてくれた。ミドリさんとアオイちゃんに出会うことができた。友達に恵まれた。頭だけは少し良かった。一時的にでも兄さんを見返すことができた。両親が死んでも、五体満足で生き残れた。絶望から救いだしてくれる人がいた。アオイとまた出会えた。岸くんや店長にも出会えた。
 もう、嫌になるくらい超ラッキーだ。
 なんとか芝生の上に押さえつけた彼の首に、手をかけて、僕はずっと隠していたひみつを告白した。

「子どもの頃、兄さんが母さんにされてたこと、知ってたよ。僕はあのとき何度も見てたけど、父さんにもだれにも言わなかった。何でだと思う?」

 力が出ないなりに、なんとか両手でその首を握りしめる。なさけない音のする吐息が額にかかってきて、気持ち悪かった。

「兄さんが不幸でいることで僕は幸せでいられるんだって、気づいちゃったからだよ」

 母さんがイカれた感情を兄さんに向けていてくれたから、僕に危害が及ぶことはなかった。無視されて、殴られていても、そんな状態が良くならない代わりに、さほど悪くもならない。半分以上あきらめてあの時を生きていた僕にとっては、それが最善策だった。最良ではなかったけれど、それが平穏を保つための手段だった。
 ひとの不幸で相対的な幸福を得る。だれかの不幸を踏み台に、結果的な幸福を手に入れる。

「僕は、兄さんのおかげでやっと幸せになれた。悪いけど、あんたに殺されるわけにはいかないんだ」

 そうだ。こうして兄さんが接触してくるまでの間、僕が殺されずにすんだのも、ちがうだれかが犠牲になったからだった。罰当たりだろうか、彼らが死んでくれたおかげで自分が生きているのだと、考えるなんて。
 あいつにまたカルボナーラを作ってやらなくちゃいけない。アオイにまた新しい写真を見せたいから、撮りにいかなくちゃならない。ああ、景色だけじゃなくてこんどはアオイのことも撮ってみたいな、彼女さえよければだけど。
 だれかの命でできている、そんな平凡な穏やかな毎日を今度こそ生きるために。また築き上げていくために。僕はまだ、死ねない。……そう考えれば、すこしはミドリさんも許してくれるかなあ。
 ごめんね、守ってあげられなくて。
 わずかに力が緩んだ瞬間を見計らって、兄さんがまた、僕の上に乗ってくる。彼は泣いていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、また僕を殴っていた。弱々しく首を絞めてきた。多少は苦しいけど、死ぬほどじゃない。もう、彼には体力も気力も残っていないのだ。
 僕が兄さんを記憶から消した理由が、こうして僕を助けることになるなんて。ひどい皮肉だ。僕の脳みそ、どうなってるわけ? 自分ですらわからない。

「死ぬななんて言わねーよ。頼むから、死にたいんならだれにも迷惑かけずにひとりで静かに死んでくれ」

 目を閉じて、深呼吸して。いちにのさんで、兄さんの顎へ拳を振り上げようとした、そのとき。

「うわああああああああああああああああっ!!」

 どこかから、叫びながら走ってきたアオイが、彼の背中を、は、さし、え? 刺した。
 それはもう、ぶっすりと、流れるように。


 気づいたら、ナイフが刺さったまま、兄さんが僕の上に倒れていて。
 かたわらで、放心状態のアオイが座りこんで、大きく息を切らしていて。
 叩いてもゆすっても兄さんは起きない。胸元と右手に伝う生温かい感触で、今しがた起きたことに理解が追いついた。

「……アオイ、」

 彼の身体をなんとか退かし、熱いほど痛む全身で、アオイのもとに這っていく。

「もう、大丈夫だから。遅くなってほんとにごめんね」

 こんなこと、させてしまってごめんね。
 腕いっぱいにぎゅうと抱き締める。安心したのか、アオイは僕の言葉と同時にやっと、赤ん坊みたいに泣き出した。

「頑張ったね。しんどかったね」

 ちらちらと並んで灯りが瞬く、水平線の彼方まで届きそうな慟哭に目蓋を閉じる。何度も何度も、その背中をさすりながら。
 とつぜんに重たい眠気がのしかかってくる。これで終わりだけど、でも終わりなわけじゃない。
 アオイのこともなだめつつ、ポケットからなんとか無事だった携帯電話を取り出して、三桁の数字をダイヤルした。海沿いだからもしかしたら繋がらないかなとも思ったし、実際にすこし時間がかかったけど、それでも出てくれた相手に百回くらいはお礼を言いたくなった。

「あの、きゅーきゅーお願いします……けが人が、三人、いるので」

Re: すばる ( No.16 )
日時: 2020/10/17 15:43
名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)




 田舎に住んでいてよかったなと思うこと、そのいち。外がうるさくない。
 そのに。空気がきれい。
 そのさん。治安はわりといい。
 田舎に住んでいてやだなあと思うこと、そのいち。交通の便が悪い。
 そのに。虫がうじゃうじゃいる。
 そのさん。村八分的な慣習。

「うん、そんな感じだな」

 最後に至っては本気で引っ越しと転職を考えたほどだ。犯罪者の家族というものは、それほど偏見に満ちた目で見られる。
 けれど、どこに行ったって噂は広まるものだし、悪意や攻撃性や、歪んだ正義感にとり憑かれた人間は山ほど存在するわけで。だから僕は、平和よりも暮らしやすさを取ることにした。彼の罪状が罪状なので直接危害を加えられることもないのだ。やっぱり僕は、兄の不幸のおかげで幸せに生きながらえていた。
 店長のお言葉に甘えて、あのレストランでも働きつづけている。客は若干減ったし、ときどき年寄りのクレーマーが僕をやめさせろと唾を吐きに来るけど、がたいのいい男性スタッフが毅然と相手をしにいけば大抵は尻尾を巻いて逃げていく。おもしろいくらいに。あ、田舎に住んでいてやだなあと思うこと、そのわん。じゃなくてよん。男女差別がけっこうひどい。
 豆腐とわかめの味噌汁をすすりながら、朝七時のニュースに耳を傾けた。煽り運転の厳罰化が始まったという旨の原稿を、アナウンサーが読み上げている。

「やっと、かあ」

 思うことならたくさんある。ありすぎて全然まとめられないから、テレビの画面を消して、朝食の残りを腹に収めることに集中する。
 兄さんが搬送先の病院で自殺してから、一年と半年以上が過ぎた。アオイの母親以外を殺していた連続殺人事件の実行犯は、彼の携帯電話に残っていたわずかなメッセージのやり取りから判明し、案外あっさり逮捕されて一件落着となった。相手はSNSで知り合った人間で、じつは県外でも何人かやらかしていたらしい。被害者はすべて、兄さんと面識のある人物。ネットのニュースか何かで読んだけれど、それ以上細かいことは忘れてしまった。
 加害者遺族とはいえ、なんの関係もない見知らぬ人間の死にいちいち胸を痛めていられるほど、優しい人間じゃない。そもそも僕だって殺害未遂の被害者なのである。必要があればひと様に頭も下げてきたが、本心はそれ以外の何物でもなかった。
 兄さんの件に関する難しいことは、もうほとんど弁護士の人に任せることにしている。七年前の事故のとき、お世話になった先生だ。僕がこんな考えなのにも関わらず最善を尽くしてくれて、なんだか申し訳ないなと思う。それが仕事なのだといえばそれまでだけど。
 午前七時四十五分。駅前の小さな噴水近くにあるベンチに荷物をおろして、待ち合わせの相手を待つ。思いのほか暇なので、噴水や近くを通りかかった野良猫たちなんかをマイカメラで写真に収めていたら、あっというまに時間が過ぎていた。

「……す、ばる、おまた、せ」
「全然待ってにゃいよー」

 呼びかけられて、振り向く。スーツケースを転がすアオイが、ちょうど路線バスから降りてきたところだった。

「もう、撮っ、てる……あ、れ? あた、らしいの?」
「あー、今まで使ってたやつ、父さんのでさ。こっちは父さんからのプレゼントで、新しいほう」
「なるほ、どっ」
「あれより軽いよ」
「っお、おぉー」

 大きさが変わったので、気がついたのだろう。手に持たせてみると、なぜか喜んでいる。

「じゃあ行こうか」

 少しぎこちない動きで、アオイが頷いた。ベンチにまとめておいた荷物を背負い、改札に向かってゆっくり、彼女に合わせて歩いていく。

「た、のしみっ、だねえ。あまみ、おー、しま」
「うん」

 きょうは、目的地についたら早めの夕ご飯を食べて、寝るだけになる。一般的なそれよりもゆったりとした旅だろうけど、僕もそれくらいがちょうどいい。

「高校のときの、榎本先生とハイビスカス。あれを超える一枚が撮りたいなぁ」
「で、き、るよ」

 歩を止めて、アオイが確信に満ちた表情で言った。
 ……時々、ほんとうに時々、彼女の声を聞くのがつらいことがある。こんな風に、いろいろな気持ちをアオイが一生懸命に伝えてくれるとき。思い通りに言葉を発せず、もどかしそうな目をしているのが見ていて少しだけつらい。
 軽度の吃音、緘動。諸々のストレスやショックがもたらした、あの誘拐事件の後遺症だ。幼少期、まったく話せなくなったことがあるらしく、そういう体質なのだろうと本人は言っていた。僕がいるから、またいつかふつうに話せるようになるだろうとも言っていた。後者の意味はよくわからないけれど。

「すぅくんなら、できるよ」

 アオイは、二十一年の人生を、過去を経て。いま、幸せだろうか。どうかそうであってほしい。
 目の前にある、やわらかい笑顔を見つめながら考える。
 相手の感情なんて、思考なんて、わからなくて当たり前だ。ときには相手自身でもわからないことがあるかもしれない。ならば。

「ありがとう」

 まずは僕自身が、いまこの瞬間の幸せをめいっぱい噛み締めることにしよう。
 僕が幸せだと思いつづける限り、アオイもいっしょに幸せなのだ。きっと。




       完