二次創作小説(映像)※倉庫ログ

第一章:『叫ぶ虚』 ( No.1 )
日時: 2015/08/08 21:56
名前: 霧桜 ◆U7aoDc6gZM (ID: K3Hf956n)

 ごぉ、と、低く吼えるように、空が唸る。
 母の胎内で蠢(うごめ)いていた頃、否、その母がまだ生まれてもいない頃から響くそれ——生物が適応を許される程度の緩慢さで、僅かずつ大気が剥がされていく音——は、最早聞こえていても誰も気に留めない。細胞の一つ一つ、遺伝子の一本一本にまで刻み付けられた音は、聞こえているのが日常なのだ。
 しかし今日は、その唸りが妙に気に掛かった。

「……何かが」

 ぽそり。搾り出すように呟いたのは、険しさを瞳に宿した女。そよぐ風に揺れる金髪の一房を左手で掻きあげつつ、微かな不安の色を横顔に宿して、彼女の顔は下がらない。
 空の吼える声はそれだけ異様に聞こえていたのだ。この女の耳に、そしてもう一人に。

「慟哭か、怒号かな——」

 九十九髪(つくもがみ)の老人、それの漏らしたしわがれ声は妙に透徹として女の耳に届く。その余韻が消えた頃を計り、顔を下げた女が見る先には、見惚れるほどの野の花の群生だ。白く愛らしい花弁をそよ風に揺らす花々の中に、二人の男女は腰を下ろしているのである。
 今日は月に何度もない麗らかな晴れの日、可憐な白さは陽の光に映え、空が吼えさえしなければ平穏そのものの光景に違いない。平和を象徴する純白の絨毯を、女は寂しそうに見つめていた。

「探しておるのかね」
「誰を?」

 女が老人の方を見たとき、彼の眼は未だ空を向いたまま。透けるような蒼穹の向こう、一片二片と流れる細い雲の流れを、細められた目が追っている。それに倣ってか、女は再び空へその顔を向けた。
話し声が止んでしまうと、辺りはぞっとするような静寂が包む。聞こえるのは風の咆哮だけだ。先ほどから渦巻く不安と不穏の中にあって、その静けさは負の要素を助長するものでしかない。

「ソーマニア」

 女は老人に顔を向けた。ソーマニア、そう呼ばれた彼も、女を見る。

「儂等をだよ、バル」

 事もなげに放たれた言葉、その声の主たるソーマニアが浮かべるのは、飄々とした笑み。いつも変わらない表情の不気味さに、背へ悪寒が走る。思わず苦さが顔に出るのを、バルは堪えられなかった。

「何故、私達を探す?」
「——儂等と同じ」
「と言うと」

 我等と同じ。そう言われて、思い当たる節は一つしかない。それでも彼女は問うた。
 老師はそれに平生と変わらぬ態度で返した。

「神を求めとるのだろう、そやつもまた」
「神か」
「真実と読み替えても良い」

 ソーマニアの何でもないような調子の一言に、バルは押し黙る。今まで地面に押し当てていた手がふらりと宙を一瞬彷徨い、彼女のすぐ傍で咲き誇っていた白い花に添えられた。
 冬に襲う地獄のような寒さが緩む春、この花は丁度開花の時期を迎え、今が最も美しい頃となる。穏やかな季節の訪れ、それを虫が蠢くより早くに知らせる可憐さが、バルの密かな気に入りだ。そしてその少女趣味を彼女は隠せていると思っているが、隣に腰を下ろす老人の慧眼(けいがん)は誤魔化せない。
 ただ黙々と花を見つめるバルと、その様を横目にちょこんと腰掛ける白髪の老人。二人の複雑な心境を知らない者がはたと見れば、これほど呑気な光景もないだろう。

 しかし、常人にも分かる異様は、そう遠くない未来に訪れることとなる。