二次創作小説(映像)※倉庫ログ
- 第一章:『蔓延する狂気』-2 ( No.19 )
- 日時: 2015/08/08 22:31
- 名前: 霧桜 ◆U7aoDc6gZM (ID: K3Hf956n)
廊下で寝ているはずのソーマニアは居なかった。
何処へ行ったのか。老師の痩躯を探しがてら、ギィギィと軋む階段を降りて、酒場を横目に勝手口から外へ出る。昨日の麗らかさから一転、今日は空全面に雲が掛かり、街全体が薄暗い。ややもすれば一雨来るかもしれない天気だ。小さな溜息を一つ、男はきょろきょろとその場で顔を巡らせるも、老人の姿は見えない。
その代わり、別の人影があった。
「起きてたのか、姐さん。隣静かだったから寝てると思ってたぜ」
「あの槍使いと言いお前と言い、どうしてそう妙な代名詞を使う」
希少な真水の汲める井戸の傍、汲み上げた水で顔を洗っていたのは、昨日知り合ったばかりのバルだ。雰囲気も言葉遣いも、抜身の刃の如く鋭い彼女だが、その根底では本当に人を拒絶していない。漂う雰囲気に感じられる“隙”は、自然と男にざっかけない態度を取らせる。
——などと、問いにも答えずつらつらと考えていると、バルがやおら水の入った手桶を持ち上げた。何をするのか、と思う間もなく、彼女は真顔でそれを振りかぶる。嫌な悪寒が男を貫くも、時すでに遅し。
「っつべてェえッ!?」
彼女は、水を思い切り男にまき散らした。
手桶は子供が両手で抱えられる程度の大きさ、入っている水の量もさほど多くない。だが、撒き方が不味かった。見事なほど広範囲に広がった水は、真正面からそれにぶつかった男の頭から爪先までずぶ濡れにしてしまう。そして、春先の雪解け水は酷く冷たい。
「目は覚めたか? 弓使い」
「おぅふっ、ふぇっ、さっ、覚めた覚めないの話じゃねぇっ……くそっ、バルって呼べばいいんだろバルってよ!」
平然とした表情で尋ねてくるバルに対し、肩を抱きすくめてガタガタ震えながら、弓使いはやっとのことで言い返す。その様を見て、水を引っ掛けた張本人はと言えば、いかにも楽しそうだ。くすくすと柄にもなく笑声を零すバルに、オレは見世物じゃない、とばかり弓使いは半泣きで睨む。
そんな様子を見て、流石に憐れみを感じたか。悪かったとやや冗談めかした口調で謝し、バルは傍の物干し竿に数枚引っ掛けてあったタオルの内一枚をするりと引っ張ると、それを男に投げ渡した。
「どーも……つかさ、バル。ヒーラーのじーさんは?」
「ソーマニアのことか?」
「そうそう、そのじーさん。此処の辺りじゃ見てないんだけど」
いそいそと濡れた箇所を乾かしつつ、二人の話題は朝から姿の見えない老師の行方に飛んでいく。
そう言えば、とバルは斜め上の虚空を見上げながら少し考え、ゆっくりと周囲を二回見回した。
「そう言えば、見かけないな。私が起きた時にはもう居なかったが……」
「知らんのかい!」
「行き先を詮索するのは好きではない」
「そういう問題じゃねーよ! あんなひょろひょろのじーさん一人で街うろつかせて大丈夫か!? 痛てっ」
弓使いの五月蠅い声を遮るように、どんっ、と、割に鈍い音が彼の背後から響いた。突然のことに虚を突かれ、思わずたたらを踏んだ男の背後から、彼は杖を突きつき、特徴的な歩を踏んでバル達の前に姿を現す。
「ひょろひょろの爺さんとは失礼な物言いだね」
一房だけ長く撥ねた白髪、豊かに蓄えた白髭、白を基調とした服と、黒い宝玉のついた木の杖。そしてぴしりと背を伸ばした老齢の男と来れば、見間違いようもない。ソーマニアである。
彼は普段と変わらない——強いて言えば、少々疲れているようにも見える——様子で歩み寄ってきたかと思うと、杖の先で弓使いを脇に退け、真っ直ぐに歩いて二人の間に立った。バルや弓使いよりも背の低い彼は、必然的に二人の顔を見上げながら話すことになる。
「儂はずっと酒場の表に居ったよ。裏ばかり探して見つかる訳が無かろう」
「表って、何でさ」
「空を見ておったのだよ。表は広いからの」
言いながら、ソーマニアはやおら杖の先で空を指した。釣られるように二人は空を見る。
弓使いは一度見た空。灰色の雲が風に流れ、昇りかけの陽も遮られて、街全体が薄闇と薄明るさの中間に佇んでいる。午後には雨が降りそうな、何とも言えず不穏な空の色だ。
しかし、今度はそこに、一つ違うものが浮かんでいた。
「あれは……?」
上空の強い風に雲が流れる中、その間から、黒いものが見え隠れしているのである。
それは風や雲の動きに逆らい、三人が見つめる一点に留まって動かない。黒い物体との距離は遠く、その細部はよく見えないが、それでも彼等はその正体を知っていた。
「インビンシブルか」
「夜明け前からあそこに居る。儂等の出立を待っておるようだよ」
「……爺さん、夜明け前にもう起きてたのかよ」
「ほっほっほ、年寄りは朝が早いからの」
快活に笑いながらも、心中は穏やかならぬようだ。ソーマニアは弓使いの背骨を狙って、数度杖を振り上げる。対する弓使いは、痛い痛いとふざけたように言いつつ、慌てて距離を取った。いくら老人の振るう杖とは言っても、背骨を集中的に叩かれてはそれなりに痛いのだろう。どすどすと言う鈍い音が威力の程を証明している。
五回ほど男を殴った所で、ソーマニアは杖の先を再び地面に降ろした。弓使いは平静を繕いつつも、片手を背に当て、密かにダメージの大きさを周囲に主張する。バルは見なかったふりだ。
「ところで、槍使いの男はどうした?」
「嗚呼。あのアレ、昨日のクモ? あれに飛びつかれたショックで腰が抜けてる」
「あの悲鳴はあいつのものだったのか……」
お前のものだと思っていたが、とバル。まさか、と弓使いは嫌そうな顔で否定し、先程バルから投げ渡されたタオルの水分を絞ったかと思うと、そのままくるりと踵を返した。
「早く出るならとっとと準備しようぜ。この調子だと多分、夜を待たずに雨が降る」
雨の中の野宿なんて御免だ。そう吐き捨てて、男はさっさと酒場の中へ入っていってしまう。その後ろ姿を、バルとソーマニアはしばし唖然としたように見送り、ハッとして後に続いたのであった。