二次創作小説(新・総合)
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- 人魚の骨
- 日時: 2020/12/27 20:54
- 名前: ぴ (ID: RaUA8Tgo)
「へえ、それじゃあ海には火葬はないんですか」
あかりが落とされたモストロラウンジは、天井が広く声がよく響いた。
「火葬?」
「遺体を火で焼くことです。骨は多少残るので、埋めますけど」
「!?」
「..............あ、そっか、ここだとみんな土葬なんでしたっけ」
「焼いてしまうんですか.......いくら死んでると言っても遺体を.......」
「まあ、私の国だと国土も広くなかったんで。あ、でも、骨は残るのでそれを形見にする人もいるみたいですよ。ネックレスとかにして」
水槽に乱反射して拡散する光が、監督生とアズールを青白く照らしていた。水面の揺らぎを反映する光がぬるりぬるりと互いの頬を舐める。
「骨がアクセサリーに.........興味深いですね」
「.......海の中って、お葬式どうするんです?」
監督生は明日、元いた自分の世界に帰る。
どの文献にもなかった、異世界への移動は、条件が揃えば案外簡単なものだったのだ。
移動のトリガーになった、監督生の持つ特殊な性質さえわかって仕舞えば全ての謎は解けた。
驚くべきはそのあとで、監督生の意思さえあれば、鏡を使って世界同士の行き来さえ自由だった。
それでも一応、別れの挨拶に朝から回って、モストロラウンジが閉まる時間に合わせて訪ねたアズールが最後だった。
「気になりますか?」
「まあ、それは。自分の世界に人魚はおそらく存在してないので」
アズールはすでに監督生が帰ることを知っていたのか、別れの挨拶をしに訪れた時も驚かなかった。
ただ、消灯した店内のソファをすすめて、紅茶を淹れてくると、静かに隣に座った。
軽く一言二言交わすつもりだった監督生はアズールの静かすぎる雰囲気に困って、いつの間にか海中の葬式なんて暗い話をしていた。
「僕らの葬式は、簡素なものです。死んだら、魚が食べに来ます」
「っへ?」
「おや、意外ですか」
思わず勢いよく首を回した監督生に、アズールは不思議そうな目を向けた。
「意外というか...........え、それって亡くなってすぐにですか?」
「まあ、そうですね。流石にいつまでも遺体をその辺に晒しておくのはいけないので、専用の奥まった場所に鎖や紐なんかで流されないよう繋いでおいて、個人差はありますが3日から一週間ほどで無くなります」
淡々と話すアズールを見れば、彼にとって、人魚にとってそれは普通のことなんだろう。
「じゃあ、骨も残らないですね..........」
「そうですね。まあでも、陸と海ではやはり少し考え方が違いますからね。形見が残ったところで、僕ら人魚にはあまり意味がないかもしれません」
紅茶を口に運びながらそう言ったアズールを見て、思い出したように自分も冷め始めている紅茶を一口含んだ。
声が途切れる静寂に目を泳がせて、何となく、カップの底が見え始めた紅茶を見つめると、紅茶の色が青かったことに気づいた。
何の茶葉を使っているのか知らないが、鮮やかな青が美しいそれはモストロラウンジ限定のモストロティーと呼ばれる紅茶だった。人気だから、毎日閉店までには完売しているはずなのだが。
すっかり、アズールがよく裏で飲んでいる通常のものを持ってきたのかと思っていたから、想像していたよりも歓迎されていたのかもしれない、と今更になって少し嬉しくなってしまった。
「どうかされました?」
「あっ、いえ......」
それをきっかけにふと時計を見たアズールが、組んでいた足を下ろしながら、
「............もう、こんな時間でしたか。つい、名残惜しくて長く付き合わせてしまいました」
なんて言うので、今度こそ監督生は固まってしまった。
「..........な、名残、惜しかったんですか.......」
照明や静けさもあってうっかりスルーしそうになっていたが、今日のアズールは常より相当...........素直だ。そして優しい。
「当たり前じゃないですか」
「.............っえ、何ですかアズール先輩疲れてます?熱あります??」
別れの挨拶と言っても、行き来が自由なことは初めにアズールにも言ってあるからこれは今生の別れじゃない。ポイントカードだってまだまだ貯めるつもりでいるし、何なら来月から始まる期間限定プリンのためにモストロラウンジにマブ達と予約まで取っている。
どちらかというと隣町に引っ越す感じだ。どこでもミラーのおかげで距離は近いし、挨拶を済ませた生徒も軽い報告という感じだった。
「失礼な方ですね.........いや、でもそうか。僕はずっとあなたにそんな態度でしたね」
メガネを軽く押し上げて、アズールの唇が自嘲気味に歪む。
「.........ちょ、ほんとに先輩らしくもない.........どうしたんですか」
これ以上はやめてくれ、と監督生の内側がやかましく警鐘を鳴らしている。
まだらに蠢く光の中に見え隠れするアズールはやけに妖艶に映る。
「僕は..........ずっとあなたを好いていました。僕がオーバーブロットしたあの時から、あなただけがなぜか眩しかった。その理由に気づいたのも、最近のことではありません」
「..........ちょ、」
「あなたがいつか、元の世界に帰ることを僕はわかっていました。だから、この気持ちはしまっておこうとしたのですが」
「先輩、ちょっと、」
監督生とアズールの目は合わない。
俯き気味のアズールの横顔はうねる銀糸の髪に邪魔されて伺えない。
監督生の声が聞こえないはずはないのに、アズールは話すことをやめなかった。
「やはりどうしても、言いたくなってしまいました。そうすれば記憶に残るんじゃないかと思ってしまって」
「先輩やめて!!!!」
破裂したような声はびいいいん、とラウンジの天井へ尾を引いて抜けた。
「............................すみません、監督生さん。僕の、一方的な思いを」
監督生の声に驚いて一瞬、放心したような表情のアズールは、また自分を貶すような笑みを浮かべた。
「...............やめてくださいよ、先輩。.................もう、限界なのに」
「..........そうですね........気色の悪いことを言って、」
「違います!!................自分も、アズール先輩のこと、好きです」
「.........は」
今度はアズールが監督生の顔を伺う番だった。監督生の頬は水面の光を避けるように左右へ緩く振れる。
「でも、先輩は自分とは違う世界の人、っていうか人魚で.........自分とは文字通り、住む世界が違う。............元の世界に、帰りたいんです。だけど、なのに、っ......................望んじゃいけないことばかり、なんて。だから、忘れようとしたのに。何もないまま、終わらせたかったのに」
「....................監督生、さん」
「..........................................どうすればいいか、わからないんです。先輩のことが好きなのに、こんな捻れた存在のせいで、どうしたって......................。っ捨てられないんです、自分の世界を。家族に会いたい。心配をかけたくない...............」
監督生がモストロラウンジの閉店時間を言い訳にアズールを最後の番にしたのは、こうなることを避けるためだった。
行き来できると言っても、元の世界に帰れると言うことは、「ツイステッドワンダーランドから出ない」と言う選択肢が消えてしまうと言うことだ。
「帰りたい」と願いつつも、いつの間にか「帰れるかわからない」ことを口実に答えを出すことを先延ばしにする日々の中で、「帰ることができなければ」と考えてしまったのは一瞬ではない。
そしてその思いは監督生のアズールへの思いが大きくなるごとに比例して膨らんでいったのだ。
「........................................................................................また、顔を見せて、くれますか............?」
長い沈黙の先に、やっとアズールは絞り出した声を上げた。
初めて陸に上がって、初めて肺に空気を満たしてあげた声より、それは頼りないもので。
結局、それしかないのだ。
明日に迫った異世界移動は鏡の開通に多大な魔力を必要とするため、ずらすことなどできない。
帰りたくないわけではなく、帰らせたくないわけでもない。ただ、世界で一番勝手な我儘を言うのなら、「帰る手段など今は欲しくなかった」。
監督生は涙を目に溜めながら、それでも、アズールがそこまで悲しむ理由がわからなかった。
思いを消そうとしたのは監督生だ。
それを果たせず、不器用にも繋がってしまった想いが嬉しくて、でも切なくて、監督生は泣いた。
では、アズールは?
世界を行き来できること、また頻繁に通う意思が監督生にあることも知っているはずのアズールが、なぜここまで悲壮なのか。
監督生とアズールの涙は、悲しみは、どこか噛み合わない。
そのことに、監督生は気づいていなかった。
「当たり前じゃないですか。来月なんて言わず、明日にでも。会いにきます」
そう、監督生は答えた。
*
異世界移動当日、午後7時。
授業も部活も終わる頃に合わせたその時間、オンボロ寮の鏡の前にはたくさんの生徒が集まった。
繋ぐ鏡はどこでもよかったのだが、たくさんの生徒が行き来する鏡の間よりは、オンボロ寮の方がいいだろうと言うことで、今日からこのオンボロ寮の古い鏡は監督生専用の鏡となる。
教師陣をはじめとして、寮長たちも魔力を貸すことになっていたが、どうせならば、と今まで監督生が関わってきたものたち全員が魔力を提供することになった。
「んじゃ、来月の限定プリン、忘れんなよ」
エースがニカっと笑ってそう言うと、鏡をかこむみんなも口々に軽い別れの言葉を投げかけた。
アズールは、来なかった。
だがジェイドとフロイドは顔を見せていて、話しかけようとしたら静かな笑顔で手を振られた。
その表情は今まで見たことのないもので、なぜか、突き放されるような冷たさを感じた。
倒れるように背中から鏡に飲み込まれていく間、オンボロ寮の一室でみんなが手を振ってくれる光景は幸せなものだった。
...............幸せな、ものなのに、そのあまりの眩しさにほんの少しの違和感を覚える。
白昼夢から覚めていく時の、徐々に手足に重たさが戻っていくような違和感。
鏡の中は暗かった。闇に飲み込まれていくような感覚が少し恐ろしくて、監督生は思わず目を閉じた。
*
目を覚ました天井が白くて、驚く。
オンボロ寮じゃないことに気がついて、不安になる。自分はまた何か面倒ごとに巻き込まれたんだったか。
目を閉じる前の記憶を辿って、やっと飛び起きる。
自分の部屋だ。現実の。ツイステッドワンダーランドじゃない、元の世界の。
枕元で充電されていたスマホを開くと、時計は8時半。日付は春。おそらく、自分が世界を移動した日から時間は動いてないようだった。
リビングにつながる階段を降りると、母が朝食を作っていた。
ダイニングテーブルには父と妹、そして自分の弁当。妹は幼稚園の制服のボタンを止めていて、父は新聞を読んでいる。
振り返った母と、目があって、名前を呼ばれた。
早く着替えなさい、と。
今日から新学期で、自分は公立高校に通う高校2年生だ。
新聞の写真は動かない。ボタンは勝手に止まらない。必修科目に錬金術はない。
久しぶりに袖を通すはずの制服は大きくも小さくもなく、学校の友達は当たり前に自分の顔を覚えていた。
クラス替えの結果を見て教室に行って、朝礼とホームルームを終えて部活に顔を出して帰った。
何事も恙無く過ぎる。信じられないほどにそれは、自分の日常だった。
家に帰ると、丁度母が妹を迎えにいく時間だと言って家を出て行った。
オンボロ寮の制服に着替えて、玄関の姿見を見つめる。
見つめていると、次第に鏡面は波打って、自分の像が歪む。
指を差し入れれば、鏡の先の闇が自分を包んだ。
「............」
ほんの少しの恐怖があった。また戻れなくなるんじゃないか、と。
でも、それでも。
鏡面の闇へ、足を踏み入れた。
*
「....................」
オンボロ寮だ。
そこらじゅうに蜘蛛の巣が張っていて、床は埃まみれ。
「.............あれ?」
いや、おかしい。掃除をして出て行ったはずだった。蜘蛛の巣はジャックやジェイド、フロイドに取ってもらったし、グリムと一緒に掃き掃除もした。窓を開けたままにしたんだろうか。それでもこれは少し不自然だ。
「.......グリムー?」
グリムはまだこの寮に生徒として住んでいるはずだ。授業は終わっている時間のはずだが。
「..........部活?マジフト部にでも入ったのかな」
グリムならやりそうなことだ。それか居残りか。
ゴーストもなぜか顔を出さない。
来る前は、来月なんて言って1日経たずにやって来るなんて、自分だけ寂しがってるみたいで恥ずかしいかも、なんて思っていたが、そんなものは今となっては二の次だ。
何かがおかしい。
オンボロ寮を出て学園に向かう道の途中、こちらに歩いてくる数名の生徒が見えた。
掃除用具を持っているから清掃係だろうが、顔は知らなかった。
この先に掃除をするようなものがあっただろうか。そもそも、生徒が教室以外を掃除するのを見たことがないのに。
すれ違いざまに会話に耳を傾けると、どうやら当番制の掃除があるようだった。
「って言うかあそこってさ、もう使われてないんじゃないの?なんで掃除するわけ」
「知らねーよ。でも学園長が当番制にしたらしいぜ、月一で」
「先輩の噂だと、タヌキの住処だったらしいけど」
「あーあれな、しゃべるタヌキの噂」
しゃべるタヌキはグリムのことだ。あの生徒たちは今からオンボロ寮の掃除に向かうのか。
だとしても、タヌキの噂、なんてそんな言い方。まるで実際に見たことがないみたいだ。
グリムを知らない生徒なんて、NRCにはいないはずなのに。
それに、もう使われてない、と言う言い方もおかしい。グリムが住んでるはずだ。それに、あそこを出てまだ1日しか経っていないのに、そんな言い方をするだろうか?
監督生は学園へ走った。
学園に近づくほど人が多くなり、全速力で走る監督生には不思議そうな目が向けられたが、構わず走る。
いつもは廊下を歩いていれば1人2人は知り合いに会うはずなのに、誰にも会わない。
学園長室へ向かう途中、廊下の先で翻るブルーグレーのコートが見えた。オクタヴィネル寮長の、コート。
「________________アズール先輩っ!!」
呼び止めても止まらない。周りの視線を浴びながらも走り寄って、その肩を掴む。
「先輩、あのっ.............」
「えっと..........どちら様で........?」
振り返ったのは、茶髪の知らない男だった。
「...........え?」
「寮長に、何か?」
傍にいた男もオクタヴィネルの制服を着ている。
その男が、寮長と呼ぶ男を、監督生は知らない。
「あ、ずーる、先輩は..........?」
「アズール?それは..........」
「監督生さん」
答えかけた茶髪の男の言葉を遮ったのは、やっと聞き馴染みのある声。
「学園長...............」
「..............お待ちしておりましたよ、監督生さん」
仮面の奥に光る目は、感情の一切を悟らせない。
「.......おかしいんです、学園長」
「ええ、さぞ困惑したでしょう。まさか........1日で戻ってくるなんて」
学園長の後について学園長室へ入ると、分厚いファイルを渡された。
「これは........?」
「歴代の寮長が記録されたファイルです。後ろの方のページを開いてみてください」
広辞苑のように分厚いファイルを机に裏返して置いて、数枚めくってみると、リドルの顔が出てきた。その次にはレオナ。式典服とメイクのせいか、大人びて見える。
「...........これがなんだって言うんです..............?」
またいくつかページを捲ると、もう一度、ハーツラビュルの寮カラーのページが出てきた。
「............っえ、なんで.............」
ハーツラビュル寮長、エース・トラッポラ。副寮長、デュース・スペード。
2人とも、髪が伸びている。こんな長さだったことなんて、ないはずなのに。
サバナクロー寮長、ジャック・ハウル。ポムフィオーレ寮長................。
しかもその次のページには、見たこともない顔ぶれの寮長たちが並んでいる。
「............どう、言うことですか」
ファイルを捲る監督生を無言で見つめていた学園長は、その薄い唇で告げる。
「あなたがここを去って、10年が経ちます」
「っは.............?」
「この世界とあなたの世界では時間の密度が違うのです」
「密度?」
「あなたは元の世界に帰った時、こちらで過ごした時間はあちらの世界では経過していないと感じませんでしたか?」
「違うんですか?」
「あなたの世界の1秒は、こちらの世界の何時間にもなります。だからあなたがあちらで過ごした1日は、こちらのほぼ10年ほどに相当するんですよ」
「............っそ、そんなこと.............知ってたんですか!?どうして言ってくれなかったんですか!!」
学園長の光る目が伏せられたのがわかった。
「................あなたは、こちらの不手際で連れてきてしまった、被害者なんです。あなたの世界で時間はほぼ経っていないとはいえ、精神は歳を取る。............時間の密度の違う世界を行き来すればするほど、精神と身体の歳は離れて、あなたは不自然な存在になってしまう。特に成長期の若者に関しては、その影響は大きいのです。............あなたが当たり前に享受するはずの未来を、邪魔したくなかった。これは五年前在学していた生徒全員の意見でした。あなたはこの世界と自分の意思で繋がれてしまう。だからこそ、あなたの意思で、この世界を諦めてもらう必要があったのです。」
「...........そんな勝手に.......来月に来てたら、どうなっていたと思うんですか」
「諦めて、忘れて欲しかったのです。これ以上、あなたの日常を奪いたくはない」
「.......................みんな、知ってたんですよね。エースも、デュースも..........アズール先輩も」
「...........はい」
「どこにいるんですか、みんな。エースは?デュースは?アズール先輩は!?」
「.........エースくんは、優秀な魔法士になりました。デュースくんも、警官に。でも、お二人に会うことは........私は、反対です。この世界のことは忘れなさい」
「いやです。アズール先輩はどこですか」
「...................」
「学園長!」
「........................やはりアーシェングロットくんは素晴らしい生徒でしたね」
「早く居場所を、」
「あなたが今日、こうしてやってくることを見越して、もうすぐここに迎えが来ます。.........私は、信じてませんでしたがね」
「迎え..............?」
「久しぶりい、小エビちゃん」
「全く変わりませんね、あなたは」
学園長室の扉の前には、ジェイドとフロイドが立っていた。2人とも人間の形で、大人びた骨格が10年の経過を感じさせる。
「ジェイド先輩、フロイド先輩.........」
「んじゃ早速だけど、これ飲んで」
フロイドが手渡したのは小瓶に入った液体。おそらく魔法薬だ。
「これから僕たちの住む、珊瑚の海へご案内します。それはそのための薬です」
ジェイドは言いつつすでに鏡に足を踏み入れていて、フロイドも監督生の腕をとって鏡へ誘う。
その強引さは大人になっても昨日と変わらない、と気づいて、躊躇うことなく小瓶を呷った。
鏡を抜けて瞬く間に人魚へと変身した双子に導かれるまま、海の深く深くへと潜っていく。
肺に満ちていく水に冷たさを感じるのは一瞬で、温度の低さは感じるが寒さは感じなくなった。
「....................ここは?」
洞窟や、岩の地形を利用してたくさんの大きな貝や海藻が並んでいる。
よく見ると看板があったり、遠くには背の高い建造物も見える。
「ここが、僕たちの故郷です」
洞窟の中には影が動いている。遠くの通りには確かに人魚が泳ぐのも見える。
「..........じゃあアズール先輩は、故郷に帰られたんですか」
実家が料理店だと言っていた。あの看板がそうだろうか、と目をやるが、水中で息ができるだけの人間の目では視界が揺らいで見えづらい。
「アズールは、死んだよぉ」
「.......................?」
背後のフロイドを振り返る。
フロイドもジェイドも表情は変わらない。大人びた顔に少しの笑みをのせて、もう一度、
「アズールはねぇ、死んだ」
そう言った。
「死......んだって、病気とか、ですか」
「いや?寿命」
当然のように言いきるフロイドに、ジェイドが見かねたように付け足す。
「人魚は、種類によって寿命に開きがあるんですよ。ウツボはそこそこ.......70年ほど生きますが、タコの人魚の寿命は長くて30年ほどです。故郷とは言いましたが、繁殖方法も違いますから、陸のように必ずしも生みの親が子を育てるわけでもないんです。アズールも、稚魚の頃に生みの親は亡くなってますから、陸に四年もいたアズールを知る人魚は実はここでもそう多くはないんです」
「..............じゃあなんで.......」
「あなたは信じないだろうから、と。アズールが死ぬ前に僕たちに言い残したんです。ここにあなたを連れてくるように、と」
「...............先輩たちは、知ってたんですね。自分が次にここにくる時、.............................アズール先輩はもういないと」
「あなたに真実を言わないことを、最初に提案したのはアズールでした。アズールは学園長が見つけた異世界移動の仕組みから、時間の密度が違うことを突き止めたんです」
「..........................」
「アズールはねぇ、ちゃんと待ってたよ」
「フロイド、」
「番も作らないで、長生きしたよ、10年生きるために」
「やめなさい、フロイド、泣かせてしまいますよ」
「もう泣いてんじゃん...........」
監督生の涙は落ちる前に海水に溶けて形にならない。
それでも、どこから湧き出てくるのか、涙は無尽蔵に海水に溶け出していく。
音のない水中で、喉の奥で唸るような声が、遠くの海流にかき消されていく。
「.........監督生さん、アズールからひとつ、預かり物があります。見ていただけますか」
そういってまた手を引かれて、町の奥まった場所に着いた。
殺風景で、理由もなく開けたような場所。大きな岩に紐や鎖が取り付けられて、それがゆらゆら揺れている。
「...................こ、こって、」
監督生にとっては昨日の記憶だ。
アズールと話した、人魚の葬儀場。
そのさらに奥の岩陰に、オルゴール箱のようなものが置いてある。
「アズールの実家はもうないんですが、僕らも今は陸で生活していまして、物を管理できる場所がないんです」
「だから、ここに置かせてもらってたんだけどぉ.........はい」
その箱の中には、ひとつ、白い小さな石のようなものが見えた。
「もともとタコは骨が少ないので、残るか不安だったのですが、さすがアズールでしたね」
「小エビちゃんとこはさ、骨を形見にするんでしょ?だからもし、小エビちゃんがこの世界に来て、アズールのことを知りたがったら、これを渡せって言われてさぁ。骨なんて残したことないから、変な感じだけど」
差し出された箱を、監督生は受け取っていいものかと迷った。
何も知らなかった自分が、こんな物を受け取っていいのかと。
「..............僕は、学園長の言葉は間違ってないと思います。この世界を忘れることを勧めます。............だから、受け取るかどうかはあなたが決めてください」
「あ、ちなみに俺らは形見とかキョーミねーから、小エビちゃんがいらないならこれは無駄ってことになるけど............でもアズールはもらって欲しそうだったけど」
「こらフロイド」
「....................................受け、取ります」
震える手で箱を受け取った。寒さを感じるわけじゃないのに、その箱は何よりも冷たく感じた。
一瞬で物言わぬ小さな骨になってしまった思い人。
凝縮された思いだけを残して、2度とその手で温めてはくれない。
これを持ち帰り、そばに置くことがとても苦しいことだと、この箱に関わった誰もが知っている。
「.............いいんですか、それで」
「...............自分は、いつでも会えると.......思ってたんです。また考えればいいって、方法だっていつかは見つかるって。でも、そうじゃなかった。そうじゃないことを知ってたアズール先輩は、それでも頷いてくれた。......................すっごく悔しいし悲しいしわけわかんないけど、これをここに置いてく選択肢だけはないです。自分はこれを抱えて生きます」
帰り道に、蛸壺からはみ出た脚を見た。
中にタコの人魚がいるのだろうか、と双子に手を引かれながら視線だけ追っていると、ひょっこり、中から人魚が顔を出した。
当然、髪の色も目の色もアズールとは違う。まだ7歳くらいで、太ってもいない。
その人魚と不意に目があった。目があって、そしてすぐに視線は逸れた。興味なさそうにその人魚はまたツボの中へ引っ込んだ。それだけだった。それだけのことで、監督生の涙は止まった。
これは悲しい話ではないのだ。
生き物はみんないつか死ぬし、偶然も運命も、都合よく機能したりしない。
見逃された奇跡があり、不運は不平等にランダムにめぐる。
そこに天命も徳もあったもんじゃないし、愛や恋なんてものはそれらに簡単に揺られるクラゲより無力な存在なのだ。
だからアズールと監督生が出会い、愛し合い、そして再び巡り会えなかったことは、悲しむべきことじゃない。
苦しみと悲しみは同じではない。
*
玄関の姿見から戻ってきた時、ちょうど母と妹が帰ってきた。
鏡の向こうから突然現れたところを見てしまった母はしばらく動かなくなって、妹は泣き出した。
監督生、もとい、公立高校2年3組出席番号18番は、母に聞かれるままありのままを一度だけ話し、その後一度もその話はしなかった。妹はしばらく鏡に突っ込んでは額にたんこぶを作ったが、大人になったら忘れているだろう。
あの箱は机の上に置いてある。
よく見るとNRCのロゴがあって、卒業記念品だと気づいた。
しばらくしてそれを加工してペンダントにしようと業者に持っていったら、薬指の骨であることがわかった。
第二関節と付け根の間の部分だったらしい。左手の。