二次創作小説(新・総合)
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- 【腐術廻戦】レム【五夏】
- 日時: 2022/06/01 00:00
- 名前: 宮田おろか ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)
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- レム ( No.1 )
- 日時: 2022/06/01 00:17
- 名前: 宮田おろか ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)
ある朝、夏油傑が目を覚ますと身体が鉛になっていた。
醜い毒虫の方がまだマシだったかもしれない。柔い肉のまま鉛のように重くなった身体は指先一つ動かせず、布団の中から時折思い出したように瞬きをしながら、ただ時計の秒針がぐるぐると回り続けるのを眺めていた。
あと一周したら顔を洗おう。二周したら着替えよう。三周したら起き上がろう。
そう心に決めては自分に裏切られ、ようやく諦めて瞼を閉じた時には長針もまた一周していた。屈辱と罪悪感が心臓を這った。
「恐らく季節性の鬱ですね」
「はあ」
突然遅刻を繰り返すようになった夏油を、見かねたのか心配したのか。同僚と上司に勧められ、部下に懇願され、近所のクリニックに行くと告げられたのはそんな一言だった。思わず間の抜けた返答をしてしまう。
他人事としては聞き馴染みのある病名ではある。実際夏油の知人にも数名既往歴のある人間はいたし、知人未満の女にはそれを口実に脈絡のない連絡をしてくる者もいた。だから対応の仕方は素人なりに身に付いているし、タブーとされる言動も一通り頭に入っている。しかし、いざ自分の身に降り掛かった場合のことなど考えたことが無かった。
医者の穏やかな声が、鼓膜を撫でる。
「夜は眠れていますか?」
「少しは」
「暫くお仕事はお休みした方が良いですね」
「はあ」
「診断書出しましょうか?」
「……お願いします」
「手助けしてもらえる人はいますか?」
淡く微笑むと、医者も穏やかなまま「そうですか」と頷いた。
受付で貰った処方箋には、抗鬱剤と睡眠薬の名前が並んでいた。十四日分の錠剤二種類だけが、夏油の頼れるものだった。
休職願は拍子抜けするほどあっさりと受理された。夏油の仕事ぶりを見ていた後輩達が、大まかにでもやっていた業務を把握していたのかもしれない。申請したその日から職場には行っていない夏油には、推測することしかできなかった。それも寝る前、比較的調子のいい数時間のうちに考えられることで、殆どの時間は泥濘のようにただ横たわっていた。
抗鬱剤は食後に服用するものだったから、時間がどうあれ何か腹に入れてから飲もうと決めていた。結局減るのは睡眠薬ばかりで、それがまた頭に掛かる靄を濃くしているのは夏油にも分かっていた。
起きている間は寝返りすら打たないから、食欲も湧かない。薬を流し込む水ばかりが喉を通る。そうして寒く長い夜を布団に沈んでやり過ごし、夢現に朝を迎える。
もうすぐ睡眠薬が半分を切ろうかという日、不意に玄関のドアからがちゃりと音がした。
いつから鍵を掛け忘れていたのか、ドアは抵抗なく簡単に開く。
「うわ、不用心だな……」
男の声だった。少し低く、芯が通ったテノール。男友達は数多くいるが、聞き覚えの無いそれを夏油は布団の中からぼんやりと聞いていた。
足音が近付いてくる。ようやく何かがおかしいことに気付いたが、逃げる気力も隠れる体力も無かった。
そうして夏油の前に現れたのは、やけに背の高い男だった。
脱色してるにしては柔らかそうな髪が、カーテンの隙間から差し込む西日を受けて輝いている。両目はサングラスに覆われているものの、それを支える鼻梁の凹凸一つ、そこから続く頬の滑らかさ、薄く色付いた唇。Vネックから覗く首元まで全てが作り物のようで、濁った部屋の中で酷く浮いて見えた。
男はベッドに横たわる夏油を見つけると、ずんずん近付いてくる。そうして脇まで来れば不意にしゃがみ込んだ。軽やかな音が響く。どうやら床に散乱した空のペットボトルを拾っているようで、そういえば飲み終えたそれらをゴミ袋にまとめることすらできずにいたのを思い出した。
集め終えたゴミを部屋の隅のゴミ箱へ無理矢理押し込むと、男は再び夏油の元へ来た。外されたサングラスの下から、青い瞳が現れる。子供の頃に飲んだ夏祭りのサイダーの味が、ふと舌に蘇った。
「飯、食う?」
「……食べる」
そう答えたつもりが、喉からは掠れた空気しか出てこなかった。仕方なく頷くと、男は笑って台所へ向かう。数秒後には「冷蔵庫なんもねーじゃん!」という叫びと共に戻ってくると、そのまま「お前霞でも食って生きてんの!? 買い出し行って来る!」と部屋を飛び出して行った。
何だったのだろうか。またあの男は戻ってくるのだろうか。見知らぬ人間の、それも部屋に堂々と上がり込んでくる不審者の作った料理など普段の夏油は食べるはずもなかったが、サイダーの味を思い出した脳は現金にも栄養を求め、夏油に空腹を訴えていた。
戻ってきて何か作ってもらえるなら、それで良い。新手の空き巣か狂人で、殺されるならそれもそれで。そう結論付けると夏油は瞼を閉じた。遅い午睡がしたい気分だった。
どこか遠くで、呼ぶ声が聞こえた。置き去りにされた子供の泣き声のように必死で、聞こえてくる方へ目を向けようとする。一面に広がる白色に、自分が目を閉じていることに気付いた。
「──る、起きろよ。おい、起──ってば」
身体が重い。慣れてしまった鉛の重さではなく、深く水底へ沈んでいるような。とろみのある羊水の中で浮かんでいるような。微かな息苦しさと名残惜しさで押し潰そうとしてくるそれを振り切って、瞼を開く。
強い照明の光で眩む視界の中、こちらを見下ろす蒼眼が零れ落ちそうだと思った。
「……え、だれ」
「はあ? 寝惚けてんの。買い出し行って来たら気持ちよさそうにぐーすか寝てやがるし。起きろよ、飯出来てる」
「……? わかった……」
心外だと言わんばかりに顰められる眉まで、一分の紙魚すら許さぬほどに白い。人から脱色したというよりも、彫刻に必要最低限だけ色を塗って服を着せたような男だった。こちらの問い掛けに、答えなんて自明だという態度で男は台所へと向かっていく。
言われた通り寝惚けているのかと瞼を擦ったが、例えそれが死ほど深い眠りからでも目覚めそうな程男の顔は鮮烈だったし、改めて考えてもやはりそんな鮮烈な顔を持った知人はいなかった。なんならそのまた知人まで広げたって、きっと彼のことは耳に入るだろう。
「はーやーくー! 冷めちゃう!」
首を傾げていれば急かされる。子供っぽい言葉なのにやけに似合っていた。
誰であれ作ってもらった物を粗末にするのはいけないことだし、出来立てのうちに食べた方が料理も報われるだろう。そこまで思って、ようやく寝る前のことを思い出した。男は不法侵入者だった。本当に食事を作ったのか、とぼんやり感心する。自分が殺されずに目を覚ましたことに対する感動は無かった。
ベッドから下りて、床に足を付ける。ひんやりとした冷たさが足裏に伝わった。見回すと白い照明の光で、部屋が描いたように輪郭を主張している。思えば暗くなったら照明を点けることすら、最近はしていなかった。
ローテーブルでは男が座って待ち構えていた。
「……うわ、多いな」
「えー、これくらい普通じゃね? おかず一品しか作れなかったし」
「一品じゃないだろ」
大皿に乗った肉と野菜の炒め物がテーブルの中央を占め、冷奴とお浸し、味噌汁に茶碗一杯の白飯が二人分並んでいる。長いことコンビニ弁当に飼い慣らされ、しばらく水しか入れてなかった胃が慄いた。
男の隣に腰を下ろすと、見計らったようにグラスへ水を注がれる。
ペットボトル以外から水を飲むのも久し振りだった。洗う手間を厭うようになったのは、いつからだっただろうか。
「オマエがどの食器使ってんのか分かんなかったから、適当によそっといた」
「ああ、いいよ。気にしない」
「じゃー食おうぜ。いただきます」
存外品のある所作で手を合わせる彼に合わせ、夏油も「いただきます」と呟く。迷って味噌汁の椀に口を付けると、熱い液体が軽く舌を焼きながら食道を通り、胃へと落ちていった。ほう、と小さく息を吐く。
「ど、旨い?」
爛々と覗き込む瞳に答えあぐねて、結局本音を告げる。
「一味が欲しい」
「サイッテー!」
男は大袈裟に頬を膨らませると、破裂したように笑った。
ソファに座って、ぼんやりと水音を聞いている。そこに混ざる鼻歌は何か陽気にポップソングをなぞっているが、夏油には耳馴染みのないメロディだった。
結局夏油は味噌汁だけではなく、冷奴とお浸し、炒め物に一味を振りかけて食べた。横から見ていた男は段々と笑い声が小さくなり、白飯の上でも振り掛けられようとする瓶を夏油の手ごと掴むと、「おかずと一緒に食え!」と止めた。
久々の食事だったからか、胃が重たい。微かな吐き気もひりつくような痛みもあるが、それよりも温かいものを身体に詰め込んだ時の穏やかな快感が勝っていた。
水音が止まる。長身が滑るようにリビングへ戻ってきて、夏油の隣に座った。それほど大きくはないソファだから、互いの膝が軽くぶつかる。不思議と嫌悪感は無かった。
「ったく、意外とクッソ食うじゃん」
溜息混じりに言う声は、呆れたような振りをしながらもどことなく喜色が滲んでいる。隣に視線を投げると、艶やかな唇が拗ねてつんと尖っていた。
「バカスカ一味掛けやがるし。せーっかく俺が腕に縒りをかけて作ってやったのに」
「あは、ごめんね」
「そんな辛党だっけ、オマエ」
「いや、そこまででは」
ないんだけど、と続けようとしてふと言葉が途切れる。何故この男は、自分の過去を知っているような口振りで話しているのだろうか。
栄養が行き渡り始めたのか、錆ついていた頭が少しずつ回っていく。そもそもこの男は誰なんだろうか。どこから夏油の話を聞き付けて、何故夏油の元に来たのか。考えてみれば分からないことだらけだった。
切れた言葉尻に男の目が瞬く。それが不安そうに覗き込んでくるから、問い掛けようとした口を閉ざした。
どうせこの男が狂人だったとして、自分だって一人では食事一つ摂れないのだ。自力で維持できない生活が、命が、他人の手に委ねられることの何が悪いのだろうか。全てはできない自分の責任だというのに。
緩く首を振る。窺う顔から気遣いを拭うように微笑んだ。笑うのは得意だった。
「どうだったか思い出してただけ。そんな顔しなくても大丈夫だよ」
「嘘吐け、オマエがその顔する時は誤魔化そうとする時なんだよ」
夏油の微笑みが初対面で通用しないのは、これが初めてだった。
「ゆるゆる和風縛りで揃えたけど、やっぱ旨くなかった?」
「いや、そういう訳じゃ……折角作ってもらったし」
「そういうメンドくせえのはいいんだよ。好みか好みじゃなかったのか聞いてんの。女にするみてえな気遣い止めろよ」
「ええ……」
気を遣われて喜ぶ人間こそおれど、怒る人間は初めて見た。
戸惑っている夏油を知ってか知らずか、男は「で、どーだった?」と重ねてくる。
「美味し、かった……よ?」
「はいそれも嘘~。辛党でもない癖にあんだけ味変しといてそれはねえだろ」
困ったことに、一向に誤魔化されてくれない。何なら煽るように舌を出すその顔を殴りたくなってきた。問答を繰り返すのも疲れて、溜息を吐く。先に折れたのは夏油だった。
「別に、大したことじゃないんだけど」
「おう」
さっきまであんなに口煩かったのに、切り出そうとするとぴたりと止めてこちらの言葉に耳を傾ける。静かな勢いに気圧されそうになりながら続ける。
「少し前から、あんまり味が分からないというか。辛味は分かるから、多分他も強ければ分かるのかもしれないけど」
思わず視線が泳ぐ。だから作ってもらった料理も味は分からなかった、とまでは言えなかった。それでも男は怒るでもなく慰めるでもなく、「そっか」と頷いた。
「分かった。じゃー次は味濃いめにするわ。腹は大丈夫そう?」
「それは大丈夫。……ありがとう」
次があるのか、とか、そこで心配するのは腹なのか、とか。そもそも君は誰なのか、とか。言うべきことは色々あるはずなのに、消化器に血液をもっていかれた頭では何も思い浮かばない。男が立ち上がるのを、夏油はぼんやりと見上げていた。
「じゃ、今日は帰るから。そろそろその他人行儀なのやめろよ。……前みたいに名前呼んだり、っていうのは難しくてもさ」
そう言って玄関に向かっていく男の背中を見つめる。広いそれが扉の向こうに消えてから、見送りくらいはするべきだったと後悔の念が脳を締め付けた。しかしそれも、忍び寄る睡魔に緩んでいく。
目の前に残されたグラスを持って、台所に立つ。雑に水道から出した水でも、今は生臭さや鉄臭さが気にならないのは利点だな、とどこか他人事のように思った。水道水で睡眠薬を流し込む。そうしてベッドに戻ると、照明を消した。それだけで酷く満たされた思いだった。
瞼を閉じると、あの青い目が暗闇の中で浮かんで見える。きらきらと輝くそれは昔作った、罅割れたビー玉を思い出させた。サイダーのビー玉で作った、安っぽい宝石。幼い夏油の宝物。
あれは結局、どこにやったんだろうか。そういえばあの男の名前も知らない。呼んでやらないと、いけないのに。
そんな思考を最後に、夏油の意識は深く落ちていった。穏やかな眠りだった。
- レム ( No.2 )
- 日時: 2022/06/01 21:55
- 名前: 宮田おろか ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)
ふっと意識が浮上する。最初に気付いたのは、小さな何かが弾けるような音だった。それからソースの香りが鼻を擽って、ようやく重たい瞼を押し上げる。
優しい陽の光をいっぱいに取り込んだ部屋だった。窓際を見れば、昨日まで閉め切っていたカーテンが大きく開かれている。窓も開かれていて、冷たく乾いた風が薄手のレースを揺らしていた。
「おっ、ようやく起きたのかよ寝坊助」
そんな声が聞こえて視線を移すと、台所に大きな人影があった。ガタイの良い身体にちょこんと乗った白い頭が見えて、静かに納得する。と同時に微かな驚きもあった。
「オマエ今日こそ鍵掛けておけよ。毎回開ける度にヒヤヒヤするんだけど」
「また来たのか……」
「来てあげたんです~」
そんな憎まれ口を叩きながらも、掴んだフライパンから大皿へと中身を盛り付ける所作は流れるようで、顔だけでなくこんなところまで整っているのかと感心した。あの弾ける音は、どうやら何か炒めていた音だったらしい。
「昼飯食える?」
「……多分」
「焼きそば作ったんだけど」
顔の割に随分と庶民的な料理を作るな、と思った。
「食えなかったら夜に食っても良いし」と続ける男に頷いて見せると、なんてことない風に「じゃー箸二膳出さなきゃなー」とものぐさを装う。それでも隠し切れない喜色が言葉尻に滲んでいるのは、夏油も聞いていて嬉しい。
温もりが溜まり込んだベッドから立ち上がる。そうして台所に向かおうとして、ふと足が動かないことに気付いた。
何か手伝うべきだろうか、そもそも自分の部屋で自分の為に作ってもらっているのだから、手伝うどころか自分から動くべきだろうか。でも何を。
考え出すと止まらない。ぐるぐると。踏み出さないといけない足が動かない。途端に口の中が渇いていく。何処に行けば、何をすれば、私は──
「傑?」
名前を呼ばれて、ハッと顔を上げた。ぼうっと突っ立っていることしかできなかった夏油に男は首を傾げると、大皿を持ちながら「あ、」と目を瞬かせる。
「なんか寒いと思ってたら窓開けっぱだったわ。閉めといてくんね?」
その言葉にようやく足が動いた。窓際に行って、全開になっていた窓を閉める。それだけでさっきまでの焦りが嘘のように治まる。鍵まで掛ける後ろでは、テーブルに皿が置かれる音がごとりと鳴っていた。明らかに重たそうなそれに振り返ると、夏油の持っている皿の中で一番大きなものに茶色い面が山盛りになっている。
濃いソースの匂いで、胃が空なことに気付いた。
「閉めた? 食おうぜ」
「腹減った~」と言いながらも男は箸を付けない。何故だろうとぼうと眺め、自分が座るのを待っているのだと気付いた。昨晩のように男の隣へ腰を下ろす。
自分の前に置かれた箸も昨日と同じ黒色のもので、隣を見れば男は少し塗装の剥げた白い箸をその長い指で操って、取り皿に焼きそばをよそっていた。
黒い方は来客用で、白い方を夏油は使っていたのだが。明らかに使い込まれているそれを男は何の躊躇もなく使うから、夏油もまあ、良いかと思うことにした。本人が気に入ったのなら、特に愛着があった訳でも無いし。
「いただきます」
わざわざ一度持った箸を置いて、手を合わせる。言葉遣いとは裏腹に存外丁寧な男だった。その隣で作った訳でもない自分が箸を付けるのも気が引けて、同じように手を合わせた。
こうして今から食べる物と向き合うのは何年振りだろうか。小学生の給食みたいだと、小さく笑う。
「ん? どーかした?」
「なんでもないよ。……いただきます」
しっかりとソースの色に染まった麺を、人参やキャベツと一緒に口に運ぶ。ほんのりとした香ばしさと触感は楽しい。味がしなくても食事は楽しめるのだと、初めて知った。
「一味持って来る?」
「いや、……ごめんやっぱいる」
首を横に振ろうとして、目の前でこんもりと山になってる皿の上が視界に入り諦めた。どうしたって誰かの作ってくれた料理をそのままの味で食べられないのは、申し訳なく感じてしまう。昨日であれば辛党だからと誤魔化せたのにと思って、何故そうしなかったのだろうという後悔に近い思いが湧いた。
「そんな顔すんなって。美味しく食ってもらえる方が嬉しいし」
いつの間に台所まで行って来たのだろうか。目の前に一味の瓶が置かれる。秋の暮れから使っていたそれはもう半分ほどしか残っていなくて、冬を越せるかは怪しい。この男がこうして部屋へ訪れ続けるのであれば、どこかで買い足さなくてはもたないだろう。
否、その前にこの酔狂が飽きるのが先か。
一味を振り掛ければ、味蕾が刺激を受けて熱くなる。好みの味ではなくとも、何も感じないよりは遥かにマシだった。
二人で並び、黙々と目の前の焼きそばを口に入れる。夏油がのろのろ取り皿の上を半分減らしている間に、男は大皿からおかわりを取っていた。よく食べる割に、箸で取る量は下品にならない。そういう使い方に慣れてるのだろう。
いつの間にか手が止まり男の食べっぷりを眺めていると、ふと視線が合った。不躾に見ていた気まずさから目を逸らそうとするのを、伸びる男の指が止める。反射的に目を閉じた。
「あ、傑。髪食ってる、……そんなビビんなよ」
いつの間にか口端に咥えていた前髪が、そっと外される。ガラス細工に触れるような指先だった。
瞬くとこちらを見る形の整った眉尻が下がっていて、そんな顔させてしまったのが申し訳ないな、と思った。遅れて名前を呼ばれたことに、首を傾げた。けれどそれを問い掛けようと口を開く前に遮られてしまう。
「相変わらず長いよなー、オマエの髪。結ぶ?」
「いや、もうお腹いっぱいだから……」
「あ、ホント? じゃあいっか。残ったやつは晩飯に食お」
下げられていく焼きそばの山は、綺麗に半分だけが残されている。それが自分を責めているようで、夏油はそっと目を逸らした。
懺悔のように、テーブルへ取り残された取り皿二枚と箸を流し台へ持っていく。
「マジ? 持ってきてくれたの? そこ置いといて」
「……洗い物くらい私がするよ。昨日もやってもらったし」
「え? いーよ。それよりシャワー浴びてこいよ。頭、重油まみれのカラスみたいになってる」
夏油はこの瞬間、初めて鬱で良かったと思った。この気怠さが無ければ、目の前のやたら馴れ馴れしく不躾な男をグーで殴っていた。
悔しいことに、数日振りのシャワーは埃と汗を綺麗に洗い流してくれた。言い方は癪に障るが、促されなければ今日も何もしないまま終えていただろう。
バスタオル越しに頭を掻い撫でる。皮脂の落ちた髪は本来の硬さと癖を取り戻したようだった。乾かせばまた、毎朝頭を悩ませていた主張の強さを見せてくれるだろう。そこまで考えて、乾かすのか、と当たり前の手順に気付いた。
気付いてしまうと途端に、それが途方もなく大きな労力に思えてくる。既に重くなり始めた手足をどうにか動かして身体も拭き、水気の無くなった腕をスウェットに通すとそのまま洗面所から出た。
出ると、まず視界に入ったのは自分のベッドの横で立ち、スマホを見ている男だった。
「……何やってるんだい?」
「おわっ! ビビった~、もうちょい掛かると思ってた……おかえり~」
大袈裟に跳ねた肩に首を傾げるも、先んじてひらりと手を振られてしまうと言及できない。男の大きな手に収まったスマホが、音もなく画面を暗転させた。
「まだ髪濡れてんじゃん、乾かさなくていーの?」
「面倒で……空気も乾燥してるし、このまま乾くよ」
「その前に風邪ひくだろ。それじゃあ俺が乾かしたい!」
ベッドの縁に座って男を見上げる。やけにはしゃいでいるなと思った。機嫌が悪いよりは良いので頷くと、長い脚をせこせこと動かして洗面所からドライヤーを持って来る。
「コンセントどこ?」
「そこの充電器が刺さってる……」
「あー、これ?」
ベッド下の延長コードに電源を繋ぐと、持ち手を握ったままベッドへよじ登って来た。夏油の背後へと回ると、マットレスがぎしりと沈む。膝立ちになったらしく、夏油の頭上から声が降ってきた。
「ベッド狭くね?」
「セミダブルなんだけどな」
大柄な方である夏油でも、寝るだけなら十分ゆとりのある広さである。それを手狭に感じるということは、この男の寝床はどんな広さなのだろうか。
頭頂部から毛先へ向かって、温かい風が当てられる。濡れて束になった髪を解すように、そっと手櫛が通されていく。
「髪かった!」
「頑固な髪質なんだ」
「あは、本人とそっくり」
モーター音と風音にも掻き消されない笑い声。それが止むと、微かに鼻唄が聞こえてくる。夏油の知らない歌ばかり歌うのに、夏油のことは何でも知っているようだった。
温められていく首元と頭を撫でる指に、ふと口が緩んだ。
「君は私のことをよく知っているね」
「はあ? 当ったり前だろ。つーか昨日からやけに他人行儀じゃん、……やっぱ怒ってる?」
怒られる覚えはあっても、そう問われるのは予想外だった。頭は動かせないから目を一度瞬く。他人行儀も何も、この不審者と自分は赤の他人の筈だが。
そう答えると、髪を梳かしていた指がふと止まる。一緒に動いていたドライヤーも止まるから段々と地肌が熱を持って、流石に声を掛けた方が良いのか、でもやってもらっている身分で、と悩み始めた時。背後から「──は、」と吐息の漏れるような音がした。
「マジで言ってる……?」
「マジも何も、昨日が初対面だろ、私達」
数瞬後、ドライヤーの音すら霞む程の叫び声が夏油の鼓膜を貫いた。
「──それで? 夏油傑くんはあろうことか知らない男の侵入を許し、今日もされるがままになってたってことで合ってる?」
「はい……」
言われるがままベッドの上に正座している自分が、酷く間抜けに思えた。
夏油の前では男が同じようにベッドの上で胡坐をかいている。ドライヤーは役目を終え、脇へと追いやられていた。後で片付けなければ。
「ちょっと、何よそ見してんだよ」
男は夏油の視線の行く先に気付き、むっと唇を尖らせた。そのまま大きく溜息を吐くと乱雑に髪を搔き乱し始める。「しゃーないとは言えぼんやりしちゃって……」とか「俺だったから良かったものの……」だとか聞こえたが、何が良かったのか夏油にとってはよく分からなかった。不審者に這入られているのは変わらない。やはり彼には何か目的や、先を越されてはいけない理由があるのだろうか。
そんな疑問を頭に浮かべていればようやく男が落ち着いたようで、再び大きく息を吐いた。
「ってことは、全部覚えてなかったってことか。マジかー……」
静かな部屋にぽたぽたと、滴り落ちるような呟きだった。
それがあんまりにも聞いていられなくて、夏油もおずおずと口を開く。
「どこかで会ったことあったかな。ごめん、最近あまり記憶力が良くなくて」
「いや、いーよ。めちゃくちゃ前だし。ホント前、すっげー前。だから思い出せなくても無理ない」
「でも君は覚えてるだろ」
「あー、それは……まあ、俺だから?」
今度は男の青い瞳が、ゆらりと逸らされた。言外に自分とお前は違う、と線を引かれたようで、それがちくりと心を刺す。それに思わず嗤いたくなった。
この投げる視線一つにさえ価値が付きそうな男と、部屋で横たわっていることしかできない自分。違うのは明らかなのに、何故そんなことで傷付いているのだろうか。
「ま、でも! それならこれから仲良くなりゃ良いだけじゃん?」
俯いた目の前に手が差し出される。仕事以外の握手なんていつ以来だろうか。
「俺は五条悟」
「私は夏油傑、知ってるだろうけど」
「おう、知ってる! よろしく、傑」
「よろしく……悟」
戸惑いながらも名前を呼んで応えると、大きく見開かれた双眸が光を受けてきらりと光った。
- レム ( No.3 )
- 日時: 2022/06/01 21:54
- 名前: 宮田おろか ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)
それからも五条は、毎日夏油の許へとやってきた。
大抵は昼頃にやってきて夏油を起こし、料理を作って一緒に食事をし、洗濯機を回して、それから夜までだらだらと過ごす。そうしてまた食事をし、夏油が眠ろうとする頃に帰っていく。
明らかに終電が出てしまった後でも気にせず出ようとするから、ある日思わず立ち上がる五条を引き留めたことがある。
急に腕を引かれて丸く見開かれた瞳が瞬くと、今度は心配を滲ませて横に座る夏油を見下ろしていた。
「え、なになに。どうかした?」
「いや、どうって訳じゃないんだけど、もう終電も無いだろ」
「あー、まあね。でも帰りの足は、」
「良ければ泊まって……いや、帰れるなら全然、ごめん、余計なことを」
「えっ待って泊まって良いの!? 泊まる!! すげー泊まる!!」
すげー泊まるって何、と夏油が呆けている前で五条は携帯を取り出し、凄い勢いで何やら打ち込み始めた。それが終わるとテーブルの上へ投げ出して、「よっしゃーお泊りだ!」と天井に向かってガッツポーズしている。
「そんな喜ぶことある?」
「あるって! マジで泊まりなんていつ振りだろ、桃鉄買っときゃ良かったなぁ」
ぐ、としなやかな体躯が伸びをする。
「ってことは風呂も借りていいの?」
「そりゃあ勿論」
「よっしゃ入ってこよーっと! 傑も入る?」
「なんで?」
突然の誘いに素っ頓狂な声で返すと、五条もぽかんとする。不思議な静けさがが瞬き一つの合間に通ると、蒼眸が緩んで「まあそうだよな」と頷いた。
そうしてばたばたと忙しなく洗面所へと走っていって、着替えなどはどうするんだろうかと思っていれば「すぐる~!」と呼ばれる。やっぱり、と小さく笑ってしまった。
「は~スッキリした!」
「それは良かった」
ソファでテレビを眺めていれば、長躯が洗面所から出てきた。髪をタオルで拭く手が寸足らずの袖から出ている。
夏油もよく買った服の丈が足りないことがあるが、更に額分背の高い五条にとっては既製品の服など大抵サイズが合わないのではないだろうか。そこまで考えて、じゃあいつも着ている服たちは、と思い至った。海外のブランドだろうか、身に付ける物全てオーダーメイドでもおかしくない気もしていた。
歌番組だったはずのテレビはいつの間にか変わり、スーツ姿の二人組がステージで漫才していた。客席から笑い声と拍手が弾ける。
「傑もう寝る?」
「うーん、どうしようかな……」
睡眠薬は二日前から切らしていた。それから起きている間の意識がはっきりと輪郭を持つようになっていたが、引き換えに夜になっても眠気が薄く、昼過ぎまでぼんやりと浅瀬を揺蕩うような眠りが増えていた。
眠気を待って、ぼんやりと明るくなるカーテンの向こう側を眺めている。部屋が群青に染まり、朦朧としていた秒針が急に回り始める時間。思うように寝付けない自分への苛立ちが、ようやく訪れた眠気と安寧、そして柔らかな朝靄の光に揺蕩い始める。そしてうつらうつらと夢現の狭間を彷徨っていれば、五条の声で目が覚める。
滲む視界の中にあの澄んだ輝くビー玉が映る瞬間の、絶望にも似た安堵をどの言葉に当て嵌めるべきなのか。夏油はまだ、分からないでいた。
要領を得ない夏油を不審がったのか、五条が首を傾げる。どうはぐらかそうかと口を開きかけて、出会った頃、最初の食事を思い出した。
寝なければいけないのは分かっているから、後ろめたい。
「……最近、あまり眠くないんだよ」
「ふうん? 成程な」
「その分起きてる時は動きやすくなったから、悪いことばかりじゃないけどね」
結局、薬のことは言えなかった。
元々飲んでいることも言っていなかったし、今更告白したところで手元に残っているのは手付かずの抗鬱剤だけ。再診に行くべきだと分かっていたが、今はこの一室から出ること程億劫で、退屈で、不安で、途方もないことなど無い。それに医者は季節性、と言っていた。つまりこのまま夜長の冬が明け、明るくなって春が来れば病状も快復していくのだろう。
春になれば。この憂鬱とも気怠さとも、そして自分が呼吸をするだけで満たされたような顔になる五条とも別れる時が来る。
そこに思い至ってしまえば急に惜しくなって、ちらりと五条の顔を見た。何やら考えているのか、眉を寄せて下唇が突き出されている。そういうふとした仕草が人間らしくて、いいな、と思う。
暫くそうして考え込んだ五条の目が、ぴかりと光った。
「分かった、添い寝してやるよ!」
「ええ、分かったって何が……?」
戸惑う夏油を余所に五条は立ち上がると、ぐ、とその細長い身体を上に伸ばした。爪先が天井すれすれを揺れて、再び落ちてくる。その手がまだ座ったままの夏油の前に差し出された。
見上げると、得意げな笑みが夏油を見下ろしている。下からだと逆光で、あの綺麗な瞳が灰色っぽく見えるのは小さな発見だった。
手を引かれて立ち上がり、ベッドに向かう五条の後ろをついて行く。そうして我が物顔でマットレスに腰掛ける横を軽く叩いて示されるから、大人しく隣へと収まろうとしてその狭さに躊躇った。
なにせ特別広くもないセミダブルに、大男二人である。それが横並びに寝そべろうとしているのだから、まず肩幅が邪魔をする。それを避けようと横向きになっても、次はどちらを向くのかで迷う。なにせ片側は壁、逆を向けば五条が至近距離にいるのだ。例えそれがどんなに整っていようと、日頃から自分の世話を焼いてくれていようと、不快感以前にその距離へ自分を置いても良いものなのか。困る、というよりも悩む。
五条は足元に膝をついて動かないことへ痺れを切らしたのか、そのままごろりと寝転ぶと夏油に向かって腕を伸ばした。
きらきらに縁取られた目が細められる。
「すーぐーる」
薄い唇が紡ぐ自分の名前に、何故か心臓がはくりと動いた。
呼ばれるがまま、そっと腕の中へと身体を潜り込ませる。そうして抱き込まれると、五条の胸が鼻先へと触れた。
品の良さそうな柔軟剤の匂いがする。それだけじゃない、ミントのような爽やかさが駆け抜けていって、ああこれがこの男の匂いなのか。そう思った時には温もりの中で瞼が重く閉じ掛かっていた。
ゆったり、後頭部を掌が撫でていく。
「眠そうじゃん、寝る?」
「んー……電気消さないと……」
「いいって、俺が消しとくから」
甘い囁きに頷いてしまう。
まるで母親の胎内、否もっと前、自分の居場所を取り戻したような安心感。それに抗えず、夏油の意識は眠りへと落ちていった。
絶えず頭を撫でる、その体温だけが確かだった。
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