SS小説(ショートストーリー) 大会【平日イベント】

『メトロノーム』 ( No.6 )

日時: 2015/11/02 17:48
名前: 全州明 ◆6um78NSKpg

 おもりをてっぺんにやり、ネジを緩(ゆる)めて弾くとき、リズムとともにそれは生まれる。
 彼が始めて見たものは、長い長い木の廊下。彼は四足(よつあし)歩きでのんびり進む。
 初めの速度は遅く、おもりが落ちるのもまた、蝸牛(かたつむり)のごとし。
 彼がその端に辿り着くころ、そっちじゃないよと声がする。こっちにおいでとこだまする。
 振り向けば、廊下の向こうに誰かいる。四足歩きで急いで向かう。
 長い長い廊下の終わりに立つ人影は、実の母親であった。母親は、優しい優しい声で言う。
 よくできました。
 彼はにわかに嬉しくなって、元の位置へと引き返す。
 母の元まで向かうたび、何度も何度も褒められるから、それがあんまり嬉しくて、何度も何度も繰り返す。長い廊下を行ったり来たり、チクタクチクタク繰り返す。
 しだいにおもりはずり落ちて、テンポは自然と速くなる。
 四足歩きも速くなる。気付けば足は、二本になって、気付けば場所は、道路になって。
 家と学校を行ったり来たり。チクタクチクタク繰り返す。
 土日に休む、暇はない。寝ても覚めても勉強ばかり。
 よくできました≠ェ聞きたくて、毎日毎日繰り返す。
 毎日毎日勉強ばかり。チクタクチクタク繰り返す。
 彼はどんどん大きくなって、テンポはしだいに速くなる。
 気付けば大人になって、母はお墓になっていて。それでも彼は、繰り返す。
 自宅と会社を行ったり来たり。チクタクチクタク忙(せわ)しない。
 よくできましたが恋しくて。よくできましたが嬉しくて。
 けれども中々言われない。よくできましたと言われない。
 皆が皆、チクタクチクタク繰り返すから、それ以上じゃなきゃ言われない。
 おもりはどんどんずり落ちて、テンポはますます速くなる。
 彼もますます速くなる。チクタクチクタク速くなり、それでもチクタク繰り返す。
 どこか遠くで声がする。優しい優しい声がする。
 おもりはとうとう落ち切って、テンポはとうとう立ち止まる。
 繰り返して来た人生で、彼は一度も休まなかった。彼は一度も止まらなかった。
 遠のいていく意識の中で、たった一人の拍手喝采が起き、優しい優しい声がする。

「よくできました」

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