SS小説(ショートストーリー) 大会【平日イベント】
甘さが微睡む夢のよう ( No.12 )
- 日時: 2016/02/15 22:25
- 名前: 蜜虫
とろとろと光の射す淡い金色の液体が、未だ湯気を立てているホットケーキの上を滑った。
おしむことなく 垂らされていく蜂蜜のなめらかな動きは止まることを知らないままに、中心では油臭さのない綺麗なバターがしっとりと潤んで溶け始めている。
仄かな茶色がかかったケーキに、殴るような甘さを持ったはちみつと、薄くレモン色のバターが染み込んでいく様は、少女の心を沸騰させるように踊らせた。
わあ、と思わず小さな歓声を上げて、少女は片手に持っていたフォークを握りしめる。
その間にもホットケーキには白く冷たい生クリームが絞られて、ひとつ、またひとつとはちみつに溺れかけていたそれの隣にたっぷりと寄せられる。
それから、細かく切られた彩りのいい果物も乗せられ、ホットケーキはたちまち食欲を刺激する化粧を施された。
「とっても美味しそう」
「まだ、ダメだよ」
男は用心深く、目を咎めるように細めたまま少女へ釘を刺す。
普段は好奇心をひどく孕んで吊り上げられた少女の瞳も、今はただ甘く蕩けてホットケーキだけを見つめていた。
ふふ、栗毛を揺らして笑った少女は堪えられない嬉しさを喜ぶように、僅かに赤く色づいた頬へぴたりと掌をくっつける。
蜂蜜で覆われたホットケーキにすっかり視線を注ぎ続けながら、少女は甘える声を上げた。
「もう、いいかしら、だってあんなに待ったんだもの。ねえ、いいでしょう」
「まだダメだって」
男は睫毛を伏せてぱちんと瞬きをしては、不満げに眉を顰めた少女を見下ろす。
少女はかちりとぶつかりあった男との視線を、居心地悪く見上げた。男は穏やかな瞳を保ったままに、ねえ と静かな声をあげた。
びくりと肩を震わせた少女の姿は眺めずに、男はにこりと笑う。
男の浮かべた笑みへついていけないとばかりに固まった少女へと柔らかに目を細めて、優しく小首をかしげる。
「紅茶淹れるね、蒸し時間も頃合いだし」
男は慣れた仕草で紅茶をこぽこぽとティーカップに注ぎながら、微睡むように微笑んだ。
薄い茶色に色づいた液体がティーカップへ落ちていく瞬間、仄かに甘い鼻腔をくすぐる匂いが部屋中を満ちていく。
少女はそわそわと瞳を煌めかせながら、男がことりと自分の目の前に紅茶を置いたことに対して瞬きを落とす。
ふわふわでほわほわのホットケーキにこってりと温さを持ったままのクリームが滲み始めている。
柔らかで温かい色だけを集めたようなホットケーキと紅茶が並んだテーブルの上に、少女は宝石のごとく瞳を輝かせてふるふると口元を緩めながら 声を震わせた。
「ねえ、もう、食べていいかしら!」
「どうぞ」
男が微笑んだと同時に少女は持っていたフォークを握り直して、はちみつに存分に沈んだホットケーキに、もう片手で持ったナイフの刃を入れる。
蜂蜜が滲み込んでしっとりとした柔らかさのホットケーキは、驚くほどに抵抗もなく刻まれていった。
とろりと水滴の形を持ってなおも緩く動き続けようとするはちみつに慌て、ぱくりと一口大のホットケーキを口に含む。
瞬間、少女の目は甘さで恍惚に蕩けて、口はふにゃふにゃと不格好に緩く歪められる。
少女の幸せと顔に書いてあるような表情を男は眺め、音も立てずに紅茶を飲んだ。
「味はいかがか、な……」
男は瞬きを数回行い、前方でホットケーキを咀嚼していたはずの少女が跡形すらなく消えてしまったことに 目を丸める。
瞬時に事を理解して男はため息をつき、手に持っていたティーカップの紅茶には緩く波が打っていた。
男は眉を潜めて ひどいこ と嘯き、生クリームと果物に飾られたホットケーキを一口食む。
綺麗に分けて切られたホットケーキの間から、甘くやわらかな香りのはちみつが湖を作り上げていた。
「たまには一緒に食べてくれたっていいのになあ」
男が発した憮然な声は、はちみつの海に吸い込まれて消えてしまった。
- - -
「ごめんなさい……」
少女は翌日、じいと無言で自分を見下ろす存在へ、慌てて謝罪の言葉を投げながら顔の前で手を合わせる。
視線を空中に彷徨わせ、少女は涙目で男を見つめた。
「君と一緒に食べること、楽しみにしてたのになあ」
「あ、う、ごめん なさい……。だって癖なんだもの……」
少女は言い訳を口から紡ぎ、男が物言いたげに目を細めたことにごめんなさいと喚く。
男はそこで表情と態度で示す感情を止め、吐息をついて少女へ声を上げた。
「いい加減にお菓子を食べたらどこかにワープしちゃう癖、治したら」
「昔からの癖だからどうにも治らないのよ」
もっとたくさんのお菓子が食べたいって願ってたらできちゃった。
ほんわりと笑みを浮かべ、結局一口しか食べられなかったはちみつのたっぷり垂らされたホットケーキの甘さを夢心地に思い出す。
男はうっすらと瞳を細め、少女の華奢な体躯を軽々と抱えた。
途端にただでさえ少ない落ち着きをすっかりと手放してしまった少女は焦ったように男へ眉を下げた表情をやる。
こつん、と訝しげにシワが寄っていた額に自分の額をつけ、男は甘さを取り戻したような笑みで少女に呟いた。
「今度、ワープなんてしようとしたら抱きしめて止めるよ」
悪戯にそう囁いた彼へ、ぼんと顔を茹でたように真っ赤にした少女は震える声を上げる。
自分だけが翻弄されているような気になり、少女はますます目に涙の膜をふるふると張った。
ちらりと視線を下げて少女が浮かべる表情を、男は愉悦の満ちた瞳で見据えると口元の緩みを深くする。
動揺を持ち含んで冷静を欠いた少女の、はちみつの甘さすらも曖昧な唇へ 男はゆっくりとキスを落とした。