SS小説(ショートストーリー) 大会【平日イベント】
ある先生と患者の少女 ( No.63 )
- 日時: 2016/04/14 22:34
- 名前: 奏
≪少女≫
優しくドアを開ける音が、私の方に向かって歩いてくる足音が聞こえました。
「やぁ、調子はどうだい」
続けて先生の優しい声が聞こえました。その手が私のそれに伸ばされては、触れて、先生のあたたかさを伝えてくれます。
私はいつも、どうしてもそうしているとそのまま眠ってしまいそうになります。
そんなときは眠らないように彼の言葉に応えるのです。
『今日はいつもより、良いです』
そう彼の掌に指で記すと先生はきゅうと私の手を握って下さいました。
それは良かった、と、彼の気配は言っているようでした。
私は嬉しくなって先生の手を握り返しました。やさしい空気を肌で感じて私は胸が温かくなりました。
優しい優しい先生。私の髪が短い頃から先生はずっとつきっきりで診察をしてくださいます。
今、私の髪は私の腰の辺りまで伸び、ベッドの上で散らばっています。
髪を切ることを忘れてしまった私の髪はさぞ、ざんばらでしょう。
けれど先生が伸びたね、と私の頭を髪を梳くように撫でる度私はこんな髪をもいとおしく思えるのです。
私の体の病気が悪化して、もうどのくらいになりましょう。
生まれたときは私はとても健康で、風邪など引かなかったらしいのです。
最初に目を悪くしたのは、何歳の頃だったのでしょうか。
視界は日に日に暗闇に埋まっていき、もう土の色も空の色も、先生の顔さえも思い出せなくなりました。
気付けば、足は動かなくなりました。鉛のように重たい脚が邪魔で仕方なくなりました。
喉は、急に音を失いました。口からはヒュウヒュウと空気の流れる音しか流れず、けれど口内は水分を求めて乾いてかわいて……、
ぼんやりと過去を思い出していると、先生は私にご飯だよと呼びかけてくださいました。
視界というものを持たぬ私の食事ももう慣れたものです。
私にとって熱過ぎないよう、食べやすいよう配慮してくださった食事はとてもありがたいものでした。
『ごちそうさまでした』簡易な机の辺りにそう書くと、「お粗末様でした」との声が聞こえました。母の味付けが時々ふと恋しくなる時があります。けれど私を先生に預けてくれた両親とは、仕事が忙しいのか会えません。いつか退院したら、大好きなハンバーグが食べたいな。そのときを想像して、自然と笑いが零れてしまいました。
すると先生は昨日の続きを読もうか、と言ってくださいました。
本棚へと先生の気配、足音が離れていきます。
少しさみしくなりました。
紙を捲る音、先生の声、先生の息遣い、私の心臓の音。それらが部屋に響きます。この時間を私はとても心地良いと思っていて、いつも穏やかな優しい気持ちになることができます。ゆっくりした調子で本を読み聞かせていただいていると段々と眠くなってきました。
最近私は一日に何時間寝ているかも把握できなくなってきました。
それでも私は先生の声を聞いていたかったのですが、ぱたんという音の後「もう終わりにしようか」と先生は仰いました。
かなしくなりました。
けれど、先生が少し私の頭を撫でてくださった時にはもう意識はゆらゆらとあっちこっちを行ったり来たりしていました。
こんな生活ですが私は今とても幸せに思っているのでございます。
このままずっと治らずにいたいと考えたこともあります。悪化したっていいとさえ……。私は、とても、親不孝で先生不孝な子かもしれません。
しかし先生も私の傍にいるのは大変でございましょう。きっといっぱい大変な思いをしてらっしゃるのでしょう。
時間もわざわざ割いてくださっているのでしょう。先生は忙しいなんてわかっているのに、つい私は先生を引き留めたくなるのです。
だから私は戯れに、早く治るといいな、と指で枕に記して、眠りに着きました。
***
≪先生≫
可哀想な子。本当に、可哀想な子。
彼女の家族は既にあのとき亡くなってしまったのに、彼女は今でも彼らがいると信じて疑わない。
悲しい事故だった。小さな不注意が積み重なった事故だった。平和な家族が暮らす家に火が付いた。隣の家に住んでいた僕は目の前で焼け死んでいく実の両親を眺める幼い少女を連れ出した。どうしても彼女を放っておけなかった。
僕は彼女を引き取った。表向きには養女として。親戚が遠縁なのか、それとも他の理由か、彼女を引き取ろうという人は他には居らずあっさりと彼女は僕の義娘になった。隣の貸家に一人で住んでいた僕だがなんとか彼女と一緒に暮らすことはできた。
彼女はその後もずっと放心していてぼんやりと虚空を見上げるばかり。事故の前後の記憶も曖昧らしい。一度事故のことをそれとなく聞いてみたことがあったが、彼女は首を傾げていた。寝かせればよく魘されていた。あつい、いたい、こわい、と譫言を言う。起きればすべて忘れ、事故のことを聞いても首を傾げる。彼女が酷いショックを受けていたことは僕でもわかった。
何年かかっても、彼女の傷を取り除こうと僕は決意した。なるべく家にいるようにし、彼女に根気よく話しかける。彼女の元気が出るように、僕は必死に頑張った。初めて彼女から話しかけてくれたとき、泣きそうになったものだ。
ある日僕は彼女に何か変わったことはないかと聞いた。彼女は言った。「暗いです、ね。少し」部屋の電気は点いていた。天気も良かった。まぁ、少しなら大丈夫だろうと僕は高をくくった(それが軽率で最悪だと知らず)。彼女の視界は日が経つごとに暗くなった。毎日「今日は昨日より暗いです」と言う。日常生活をしていて、よく物にぶつかるようになった。本を読んでいて、見にくそうに眼を細めることが増えた。彼女はいつか、ついに視界を闇に染めてしまった。
沢山後悔した。病院に連れて行くべきだと思った。できなかった。どうしてか自分でも分からない。悩み続けているうちに彼女は今度は歩き辛そうにしていることが分かった。足を引きずっている。聞いてみたら、足が重たいと言った。やはり彼女の脚は動かなくなり、地面を這うような動きしかできなくなった。やがて動くことも減り、食事を与えれば床に吐くのでどんどん痩せ細っていった。
一日中ベッドでいることが増えた彼女は、僕を「先生」と呼び始めた。どうしてか僕を「先生」と思い込んでいるのだ。それが彼女の中での真実だと疑いもしない。彼女自身の妄想を。
先生と呼ばれ続けるのかと思っていたら、すぐに呼ばれることは無くなった。彼女は突然声を失った。喋ろうとして、酷く喉を掻き毟り、苦しそうに咳き込んだ。僕は、僕僕僕僕のせいで僕は彼女を何も僕は。
弱弱しい体が横たわるベッドに、縋り付いて、ごめん、ごめんと懺悔した。もっと早く僕が対処できていれば、僕がもっと、いや、他の人に彼女を引き取ってもらえれば、………。彼女は僕の手を徐に取る。足が動かないので、少し変な姿勢になっている。僕の片手のひらを上に向けて、彼女はそこに人差し指で、『先生、私の病気、なおしてください』
僕は彼女の「先生」を演じることにした。これ以上彼女の心を荒らさないためにはこれしかなかった。僕にはこれしかできなかった。
いつか彼女は耳も聞こえなくなるのだろうか。腕をも鉛のように引き摺る時が来るのだろうか。
僕はいつまで彼女の先生をできるだろう。薄らとした不安は今日も僕を蝕む。
ただ、彼女だけは幸せでいてほしい。どうか、妄想だとしても彼女にとって良いものがいい。嫌なこと全部、取り除けたらいい。言ってること無茶苦茶だなんて、僕が一番思ってる。
神様仏様義娘様、彼女の両親様、どうか。
(どうか僕の罪を赦さないでください)