SS小説(ショートストーリー) 大会【平日イベント】
メモリー・メモ 〜中片〜 ( No.16 )
- 日時: 2016/06/05 00:09
- 名前: りあむ ◆raPHJxVphk
>>15上片
ふたりで手を合わせ、食器を持って立ち上がる。男は食器を水に浸けると、振り向きざまに、
「じゃんけんぽん!」
思わずグーを出した。彼はパーだった。彼は凄絶な笑みを浮かべる。
「食器洗い、よろしくー」
確信犯だな。くそう。突然やられると、グーを出しやすいのが人間というものだ。
仕方ない。私は手を水にひたした。
じゃばじゃばと食器を洗う中、男は外へ出ていく。こんな皿割り機のような奴に任せて大丈夫なのか。
あ、そういえば、明日……。明日、使うって……。
急いで食器洗いを終わらせ、私はペンとメモを手に取った。そしてペンを走らせる。
『ドライブ』
自分で見つけた明日のかけら。
濡れたら困る。後で貼ろう。
外に出て、よく働く男を眺める。
車を見れば、なんだかトゥルトゥルした不思議な布でピカピカに磨かれていた。まー濃やかな男だこと。
私は窓拭きに取り掛かろうとする男を見た。
横顔を眺める。やはり、何も思い出せなかった。
私がとんでもない不器用でも、やな顔ひとつしないこの男は、何者なんだろう。
なぜ自分はここにいて、なぜ彼はここにいるのだろう。
名前すら、知らない。
彼は私の名前を呼ばないし、名前を呼ばなくても、私たちの関係は成り立ってしまう。
それを思うと、なぜか私は下を向きそうになった。
湧き上がる疑問。私の胸を締め付ける。しかしなんでもない顔で、私は窓を拭く彼を眺めている。
「おーい?」
男は私にホースを持たせた。しょーがないなー、そこまで頼まれれば、洗い流す役を買ってやろう。
あいも変わらず、ばしゅっばしゅっと水を発射し、洗剤を跳ね飛ばした。被害は男の全身に及んだ。
被害請求は風呂掃除だった。
私が四苦八苦して全身を濡らしながら風呂洗いをしている間、男は着替えて、夕飯作りに取り掛かる。非常に楽しみなので、私はいそいそと掃除を済ませるのだ。
自分で洗った湯船に浸かる。この狭さは、膝を抱えてブクブクするのにちょうどよかった。
じっとしていればしているほど、疑問が溢れてよくわからない不安に襲われる。
何しろ、目が覚めてからというもの、自分のことが、わからないのだから。
ひとつだけ解ってきたのは、あの男が、自分の大切な人であるということ。それだけは忘れたくないし、メモにも任せたくないのだという気持ちに驚いた。
風呂から上がれば、男は濡れた髪のまま、夕飯を作り上げていた。
私を振り返ると、笑顔になる。うっ、時間が経つほど、この笑顔に耐えられなくなってくる。
そして私は温かい湯気の上る夕飯に、一瞬にして目が奪われた。ぴっかぴかに光る白米と、味噌の良い香りのする味噌汁。
「ぬか漬け出したんだー。昨日の夜つけといたヤツ」
でも、それよりも、私はある不安に襲われた。男の濡れたままの髪を見る。何時間、そのままなんだっけ……?
『ドライブ』のメモに、『もしかしたら中止』と書きたさないと、いけないかもしれない。
そのとき男は案の定、くしゅん、とひとつくしゃみをした。あああ……。
私が先に悠長に風呂なんか入ってないで、彼に先に入って貰えばよかったんだ。
とめどなく、思考が頭の中で堰を切ったように溢れ出した。ちゃんとした思考に纏まらなくて、落ち着こうとすればするほど思考は黒く塗りつぶされていった。
彼がもし、風邪をひいてしまったら。私のせいで、熱を出してしまったら。私に何ができる?
今日見つけた、唯一の明日の手がかりも、消えてしまう。彼も、消えてしまう……?
……いや、いやだ。
今まで感じたことのない、途轍もなく大きな黒い闇のような溢れた不安が私を襲った。
怖い。とても怖い。怖くて仕方がない。
私は怯えたように目の前の男を見つめた。
「っあー、疲れたー。あったかいもの食べて、今日は早く寝よっか」
私の様子をじっと見ていた男は、何でもないように言って、私に彼の向かいの椅子を勧すすめた。
その確かな微笑みの温もりを感じて、やっと私に安心が訪れた。そうだ、明日のことなんてわからない。それはきっと、私だけじゃなくて、このひとも同じだ。
今を大切にしろ、というのは、こういうことをいうんだ。……と、どこかで聞いたような気がする。
彼には風邪をひかないように、あったかくしてもらわねばならない。
私は何をしてあげられるだろう。してもらってばっかりの彼にしてあげることを考えると心が躍って、うふふと笑みが溢れた。
ふたりで手を合わせた。自然の恵みと、目の前の男に感謝を捧げる。大事に大事にじっと祈って、そっと目を開けた。
「じゃ〜ん」
男が言いながら、目の前の大きな皿の上のキッチンペーパーをとった。
光を反射して輝くころも。カツがあらわれた!
「どうでしょうっと」
最高ですね、戦闘能力高そう。
私は無言でカツを頬張った。サクッと響いたカツの第一声と、声にならない私の叫びがカツの全てを物語っていた。
それを見届けてから、男は満足そうに食べだした。
ふたりとも、味噌汁を手にとってズズッとすする。
味噌汁が、泣きそうなほど、身体に染み込んだ。
「労働の後の、最高の一杯だね。はぁあ、うまい」
あなたが作ったのでしょーに。
……これもまた、ひとつの自画自賛というのだろうか。ふふふ。
でも本当にそう思うので、しみじみと頷いた。労働といえど、今日私はほとんど何もしていないけれど。
二回戦は、ふたり同時に箸を置いた、その直後だった。
「はいやーっ、じゃんけんぽん!」
なんだ! はいやーって! 動揺も露わに、私は反射的に拳を前に突き出した。
あーあ、また負けたか、と思って私は手元を見た。私は相変わらずグーで、でも彼はチョキだった。
あれ?
「…………」
これは、ワザと、だなぁ……。
「あー、負けちゃったー」とか言っているが、この確信犯め。
皿を洗おうとする、男の隣に私も並んだ。
男は驚いて私を見たけれど、御構いなしに私は皿をスポンジで洗い出した。
ふたりともしばらく無言で、皿を洗った。何も言わなくてもとても満たされるような感覚を、私は彼の隣で全身で感じていた。
皿を洗い終えると、男は風呂に入りに行った。私は早く入れと追い立てる。
無事風呂に男を押し込み、私はソファに沈み込む。
お腹は満たされていたけれど、それだけじゃなくて、全身がすみからすみまで満たされているように感じた。とても、温かい心地だった。
それなのに、目を閉じると、黒い影が私の目の中に浮かび、消えた。あまりに一瞬のことだったけれど、その言葉は私の心を押しつぶすには充分すぎた。
『私の記憶は一日しかもたない』
今朝、一番に目に入ったメモの文字が頭をよぎる。途端に身体がサァッと冷たくなる。
その事実が告げることは、私を支えているものを静かに、残酷に壊した。
今、今私が抱いているこの気持ちは、たった一晩、たった一瞬で、なかったことになる。
彼はまた知らない人になり、私はただの不器用な何もできない、何も思い出せないただのモノになる。
目の前にいても、声をかけることすらできない。目を瞑れば温かい笑顔が浮かんで、その顔に手を伸ばして名前を呼びたいのに。
喉から声が出ない。思い、出せない。
昨日の私。明日の自分。きっと同じようで、あまりにも違う。
今日、私は、何を忘れた?
今まで、何を忘れてきた……?
男はあっという間に風呂から上がって出てきて、ソファでうとうとしていた私は、タオルをかけた大男が急に目の前に現れて、飛び上がるほど驚いた。
「あ、ごめん。起こした? ちょうどいい、ねぇちょっと見て」
ごめん、と言いながら、クスクスと笑う男。
私は軽く睨みつけたけれど、男は知らぬ顔で私の手を引いた。
カレンダーの前に連れられ、男はある一点を指差した。なんだ急に、と思って訝しげに男を見つめると、切なくなるほど優しい笑みをしていて、とてもじゃないけど直視できずに慌てて視線をカレンダーの一点に戻した。
『オムライス記念日』。
ハッとしてその字を凝視する。
きっと、今日の日付けだろう5月の真ん中に、そう書いてあった。そう赤色で、男のくせに丸っこい可愛い字で、書いてあった。
温かくて、苦しすぎるほどの何かがこみ上げてきて、喉の奥がグッと鳴った。
「どう?」と男はいたずらっ子のように聞いてきて、私はもう耐えられなかった。
彼に顔を押し付けて泣いた。嬉しかった。嬉しかった、ただそれだけなのに、何故か涙が溢れて止まらない。
愛しそうに頭を撫でる手と、肌に感じる温もりに、またなんとも言えないものがこみ上げてきて、その全てを包み込むようにギュッと抱きしめた。
>>17下片