SS小説(ショートストーリー) 大会【平日イベント】

メモリー・メモ 〜下片〜 ( No.17 )

日時: 2016/06/05 00:11
名前: りあむ ◆raPHJxVphk

>>16中片

 少し泣き疲れ、涙も止んだころ、「じゃあ、今日はもう、寝よっか」と男が言った。
 男の髪に触れて、しっかり乾いているか確認する。よし、大丈夫だ。甘い笑顔が至近距離にあるので、落ち着かなくなった私は、急いで手を引っ込めた。

 寝室に向かいながら、結局何もしてあげられなかったな、とぼんやり思った。私ができることは、本当に少なくて、ないにほぼ等しい。
 せっかく、本人がすぐそばにいるというのに、ほの暗い気持ちに支配された。

「くしゅん」

 ハッとして顔を上げると、男がううーんと唸りながら鼻を擦っていた。

「今日は、一緒に寝てほしいなぁんつって」

 彼を凝視する私を見て、「やっぱ忘れて」と取り繕うように頭を撫でた。
 あった。あったぞ、私でもできること。

 少し冷えてしまった手を、ぱしっと取る。急いで今朝目覚めた部屋に連れ込んだ。思わず笑みが溢れる。こういうことは、自分らしくない気がした。
 いつもだったら、たぶん。その証拠に、後ろで少し息を呑む気配があった。なぜか嬉しくて、得意な気分になる。

 何も言わずに困ったような顔で笑う男に、私はベッドに座って隣をバンバンと叩いた。
 手を引いたときに分かったけれど、やっぱり少しフラフラしている。あったかくして、寝てもらわねば。

「……うつしちゃうかもしんないよ? まったく……」

 垂れた眉をして聞いてくる割には答えを求めていない。むしろ、にやついている。
 この人も大概私のこと好きだなぁと、自惚れたことを思って少し笑うと、余裕の笑みで返された。み、見抜かれている……?

 いつの間にか目線は下がってきていて、私の前に屈み込んでいた。そして彼が後ろ手でドアを閉めると、この部屋は朝起きたときと同じ部屋とは思えないほど、静かな闇に包まれた。

 暗闇の中、目の前のひとの瞳しか見えなくて、その瞳が甘く細められると、ひどく動揺した。
 何故か急に緊張してきて、息が詰まってしまう。
 ほぅ、と息を吐こうとしたそのとき、突然視界が揺れて平衡感覚がなくなった。

 彼の匂いに包まれて、頭を抱え込まれたのだ、と遅れて理解する。突然のことに思考が停止し、気づいたら抱き締められたままベッドに倒されていた。
 心臓の音がうるさい。
 でもその動作が優しすぎて、また涙が出そうになった。

 少し腕が緩められて、彼の顔が見えた。私を見つめるその瞳が揺れると、私の中の、私を支える何もかもが、ひどく揺れるのを感じた。
 あまりに至近距離で、一気に顔に熱が集中する。

「……俺の名前、知りたい?」

 ドキッとした。
 今、一番知りたいことだった。でも、一番忘れちゃいけない、一番忘れたくないことだとも、わかっていた。だから怖かった。

 こくんと頷いた。

「日野、和樹。俺は日野和樹だよ。……おまえはめぐみ。日野めぐみ」

 ひの、かずき。ひのめぐみ。その響きは私の体に染み込んで、私の奥深いところまで包みこんだ。
 ひのかずき。ひのめぐみ。
 その文字が形取られて頭に浮かんだとき、温かくて懐かしい感覚に襲われた。丸っこい、可愛い字で書かれたその文字を、ずっと、ずっと私は……。

 その文字が、彼と、私を繋ぐ、一番初めのメモだった。

「いつも、ちゃんと書いといて、って言ってるのに」

 そう言う彼は少し寂しそうだったけれど、ちゃんと微笑んでいた。
 だって、書きたくない。彼が許してくれるなら、私はその文字を伝言にはしたくなかった。
 毎日、毎日、確かめればいい。伝言になんかしないで、ちゃんと、自分で。
 とっても大事なことなのだ、これは。

 貴方が、かずきが笑って許してくれるなら、めぐみは我が儘で書きません。

「……なんでいつも、ちょっとドヤ顔……」

 はぁ、と呆れたようにため息を一つ吐くと、私をまたギュッと抱え込んで横になった。

 くすぐったくてクスクスと笑ってしまう。
 かずきは少しムッとしたようで、腕の力が強くなった。

「めぐみ、ちゃんと確認した? メモ」

 はっとして飛び上がる。ドライブ! ドライブの紙!
 あっと言う間に、彼の腕の拘束を抜け出してバビュンと居間に戻る。そしてテーブルかけの下からそっとメモを取り出した。
 今日一番の大収穫なのだ。危ない危ない。

 そこに『絶対』と強く書き足した。あっ……。
 何事もなかったように、そっと抱えて部屋に戻る。
 そして、目の前の男によーく見せつけてから、大事に服の袖口に貼った。

 また私は腕の拘束の中に収まって、布団を被った。さぁ寝よう。寝てしまおう。明日が楽しみだ。明日が早く来ないかな。
 だというのに、後ろからずっとクツクツと笑い声が聞こえてきて、とても気にくわない。何がそんなに面白い。

「絶対。行こうね、ドライブ……っ」

 そんなに笑うなら別にいいから。絶対が赤いのはたまたまだから。私が手に取ったボールペンが二色だったのが悪い。

 背中に感じる小さな振動が、止まったと思ったらまた復活するけれど、それがとても恥ずかしくて、その脇腹を殴りたいけれど。

「幸せだなぁ……」

 はっとして息を呑んだ。自分の心の中の、叫ぶほどの声。その声と同じ声が、今確かに、私の耳元から聞こえた。

 その言葉に、私の中のすべての不安が消え去った。
 私は彼の幸せが何なのかを知らない。
 私は今、痛いほど幸せで、だからこそ、彼の幸せを知らないことが辛かった。でも今。確かに、今。
 涙が出た。また泣いてしまった。
 見開いた目から、温かい気持ちがあふれて、こぼれ出した。
 でも絶対に、この人には、かずきには知られたくなくて、ギュッと自分を抱え込んだ。すると、なんでかクツクツと笑えてきて、ポロッと涙がこぼれて、思わず無防備に身体を投げ出して笑った。
 
 くるっと振り返って、私はかずきにぶつけた。このどうしようもない気持ちを。どうしても、今日伝えたい。どうしても、今。
 だいすき、かずき。

 くちびるの動きを読み取って、でも最後まで見届けずに、抱き締められた。
 なぜだかわからなくて、私は慌てた。

「……なに泣きそうな顔で言ってんの」

 苦しそうな顔が見えたのは一瞬で。

「めぐみ。俺はめぐみのものだよ」

 なんのことかはわからなかった。
 でもその響きはとても心地よくて、私はとても安心して、眠りにつくのがわかった。

 明日が怖い。でもとても楽しみだ。
 矛盾した想い。私はずっと矛盾したまま生きている。
 それは彼がずっと抱き締めてくれるから。私を、私の想いごと、抱き締めてくれているから。

メンテ