コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ

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透明な愛を吐く【短編集】
日時: 2017/01/04 15:18
名前: あんず ◆zaJDvpDzf6 (ID: XWWipvtL)
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel2a/index.cgi?mode=view&no=4705

 この透明な指先で、君への透明な愛を綴ろう




***

こんにちは、またははじめまして。
あんずと申します。

前作の短編集を一時更新停止とし、こちらを執筆してきたいと思います。詳細は前作をご覧ください。

明るい話から暗い話まで、割と何でもありの短編集の予定です。
不定期の更新、ときおりぽんっと投稿されていることが多いと思います。

更新速度は遅めですが、楽しんで頂ければ幸いです。


*お客様*

 *Garnet様


*記録*
2016年4月9日 執筆開始


*短編(予定含)*

▼透明な愛を吐く >>003

▼青い記憶に別れを >>004

▼君の消えた世界で >>005

***

*NEWS*
現在、ダークファンタジー板にて「シオンの彼方」を執筆中です。こちらは更新度高めです。
上記URLからどうぞ。

『白銀の小鳥』のリメイクを始めました。
拙いですが楽しんでいただければ幸いです。

Page:1



Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.1 )
日時: 2016/04/09 17:04
名前: Garnet (ID: GlabL33E)

いちこめ……取れたかな?! いや取りたい!
やっほーあんたん! がーねっとです。

愛ちゃんのほうの更新停止は、ちょっぴり残念だけど、こうして、また少し違ったあんたんの文を読めるのが、かなり楽しみだったりしてる(笑)
無理しない程度に、あんたんの思うままの文を、書き続けて欲しいです(*^^*)

短編集仲間としても、カキコ仲間としても、同じJK同士()としても!
応援してます!!

じゃあねっ♪

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.2 )
日時: 2016/11/04 23:59
名前: あんず ◆zaJDvpDzf6 (ID: ADRuIPKx)

>ガーネットちゃん

こんにちは!
ガーネットちゃんが1コメです!ありがとう!

白銀の小鳥はとっても思い入れが深い、大切な作品なので私自身寂しいです。
それでも、これからもこちらで皆さんに楽しんでいただければ嬉しい…。

こっちはのびのびと、割と自由に書いていきたいと思います。頑張ります!

いつも色々とありがとう。

コメントありがとうございました!

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.3 )
日時: 2016/11/05 00:35
名前: あんず ◆zaJDvpDzf6 (ID: ADRuIPKx)


#1 『透明な愛を吐く』




「君の幸せって、何?」

 不意に放たれたその問いの答えを、僕は持たない。





 がらんとした教室に、夕日が光を落としている。
 
 グラウンドから聞こえる運動部の声、落書きが残ったままの黒板、机の上のペンケース。そんなどうしようもないほどの平凡な光景に、僕も彼女も溶け込んでいた。
 彼女の肩先まで伸ばされたストレートヘアが、風に揺れる。特に何も話すことなどなく、ただぼうっと僕らは時間を潰す。
 
 彼女はいつも通り、彼女の彼氏を待っている。僕はいつも通り、家へ帰る時間を遅らせるために座っている。どうせ、家に帰っても嫌なことしかないのだし。
 
 夕日が差し込んで、僕の読む本が風でめくられた。彼女が隣の席でぼうっと僕を眺める。いや、もしかしたら眺めているのは僕の向こうの窓かもしれない。その窓の向こうでは、まだ蕾のままの桜の枝が赤く染まって眠っていた。

 僕が本を読む、彼女は何も言わずに宙を見る。それが、毎日のこの時間の過ごし方。三ヶ月という長い間変わらない光景。
 けれども今日は少しだけ違った。彼女が少し身動きしたかと思うと、はっきりと僕を見つめたから。



「園田くんってさぁ、放っておいたら死んじゃいそうだよね」

 
 彼女の声が響く。まるで世間話をするかのように、彼女はその言葉を放った。淡々と文字を追っていた僕の目は止まる。彼女はそれに気付いたのか気付いていないのか、なおも話し続けた。

「雰囲気が透明っていうか。ある日突然、いなくなっちゃいそう」

「……そう?」

 ようやく零れた声は掠れたもので、唇も小さく震えた。
 
 うん、と頷く彼女は、僕に何を伝えたいのだろうか。その瞳は明るくて、無邪気で、ただそれだけで。
 それでも。……もしかしたら僕をこの世に引き留めようとしているのかもしれない。そんな瞳だ。僕の思い込みかもしれないけれど。
 
 もしそうなのだとしたら素直に感心する。僕がこの世からいつ消えてもおかしくないのは、多分本当だから。

 別に大きな病気とか、そんなものじゃない。僕は消えたいと思っていた。おそらくはこの世から。別に明確な理由はないけれど、そう言ったら、多くの人が僕を非難するんだろう。命を粗末にするんじゃない、と。
 
 うん、たしかに僕もそう思う。

 それなら何故かと問われても、僕は答えを持たない。強いて言うならば、生きていたくないから、だ。そんな単純明快で、簡単な理由。
 もしくは日々呼吸することが、水の中でもがくほどに苦しいからかもしれない。最早慣れつつあるけれど、それでも生きることが苦しくて、切ないことなのは変わらないんだ。

 
「でもね、そんな透明な園田くん、私は好きだな」

 
 彼女の柔らかな声が響く。誰もいない放課後の教室。夕暮れの日差しは暖かいのに、何故だか突き刺すように冷たかった。
 
 彼女は優しい。誰にでも平等に、残酷なほどに。誰かを救うためなら平気で死んでしまいそうな人間だ。
 
 彼女はだから、誰にも傷つけられることがない。誰にでも優しいから。優しさは振りまくほど、誰もが優しさで返そうとする。だから彼女はいつだって、愛されて生きている。
 
 きっと、友情だろうと恋情だろうと、好意を伝えることに躊躇いがないんだ。
 僕とは違う、心の底から。

 
「……はは、ありがとう」

 その自分の言葉に、何故かこの胸は傷んでしまう。彼女といる時が唯一の平穏な気さえするのに、彼女といると僕の胸は悲鳴を上げる。
 その理由は、多分もうわかっている。わかっているからこそ、彼女が眩しく見えてしまう。

「香穂」

 開かれていた教室のドアの外。一人の男子生徒が立っていた。すらっとしていて、僕より断然かっこいい。彼女はそいつを見ると、心底嬉しそうに笑う。ずきり、また胸が痛むけれど、その笑顔はとても綺麗だった。
 
 僕の好きな笑顔だった。

「私、園田くんが幸せなようには見えないよ」

 席を立つ前に、彼女は僕の顔を覗きこんだ。陽の光を受けてはちみつ色に輝く瞳は、僕の暗い瞳を余すことなく映しだす。
 まるで自分の内面を見ているようで、少し気分が悪い。彼女はそんなことも知らずに、不思議そうに僕を見つめた。
 

「ねえ、君の幸せって、何?」

 
 後ろの男子生徒が、しびれを切らしたようにもう一度彼女を呼ぶ。彼女は慌てて立ち上がると、僕に振り返ることなくかけていく。
 じゃあね、ドアの前でそう言って手を振った彼女の顔を、僕は覚えていない。
 
 幸せって、何?そんなこと僕が聞きたい。答えがどこかにあるというのなら、今すぐ探しに行きたい。彼女の幸せそうな顔が、頭から離れない。


 ぼうっとしたまま、時間がすぎるままに。ふと外を見ると、校門の前に見えた彼女と男子生徒の影。ゆっくりと黒いそれは重なっていく。
 決して晴れない逆光の光景は、太陽すら僕を馬鹿にしているみたいだ。

 
 足は自然と屋上へ向かった。理由はやっぱり、ない。

 風が頬に当たる。それは教室で感じたような暖かな風ではなくて、まるで刺すような風だ。先程の夕日の光と似ている、かもしれない。
 僕を刺して、通り抜けていく風。
 
 僕が今、死んでいったら。明日、彼女は泣くのだろう。僕の死を知って、救えなかったと自身を責めるのだろう。
 だって彼女は、残酷なほど優しいから。それでも彼女が泣くのは少し嫌だなあ、と思う。けれど空を踏みしめようとするこの足は止まらないから、その考えも消えてしまう。
 
 
 空の中に、吸い込まれて消えてしまう。
 
 
 幸せってなんだろう。僕はその答えを持たない。彼女のことだから、なんとなく聞いたのかもしれないけど。
 僕にとっては、意外と大きなことだったのかもしれない。分からない。自分のことは昔から、いつだってよく分からない。
 
 けれど彼女が、僕を透明と称したなら。もしかしたら僕の幸せは、透明なのかもしれない。透明だから、見つからないのかもしれない。

 
 透明だから、彼女には見えないんだ。

 指先が空を掻く。頬に当たる風と、近づく灰色と。彼女の笑顔が頭から離れない。もしも僕が、彼女のことが好きだったというのなら。
 その愛さえ、透明だ。この透明な指先が綴った、透明な心が抱いた、そんな愛なら。
 
 彼女の愛は何色だろう。僕はあまりにも彼女を知らない。知らないけれど、きっと透明ではない。もっと優しくて淡くて、暖かな、彼女らしい色をしているんだ。
 
 透明な愛を歌おう。届いてしまえ、君へ。僕の透明な愛なら、君にも見つからないだろう。届いたって、気付かないだろう?
 忘れてしまえ、透明な僕なんか。こんな僕の死を哀しむ義理なんて、君にはないんだ。どこにも。
 
 だから。

「————、」


 僕は最期に、透明な愛を吐く。



Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.4 )
日時: 2016/05/12 00:11
名前: あんず ◆zaJDvpDzf6 (ID: 6QYZf7dF)

#2 『青い記憶に別れを』



『結婚することになりました』


そんな言葉と共に添えられていたのは、一通の招待状だった。可愛らしいレースの飾りがついたそれは、花嫁のドレスを連想させるような純白。

木川結衣様、紛れもなく私に宛てられたそれを見た瞬間、ひどく胸が苦しくなった。見たくなかった、こんなもの。
手紙を持つ手が震えて、滲む。


***


私達は友達だった。それは事実だ。

けれども側で見ていた友人たちは、私達が付き合っているのではと疑っていた。あるいは、両想いであると囁いていた。

それもおそらく、間違っていない。


私達は友人というには近すぎて、恋人というには遠かった。
好きか嫌いか、そう聞かれたら迷わず好きと答えただろう。けれどそれはどうしても、恋愛にはならなかった。というより、なれなかったんだ。
私達はひどく臆病で、鈍感で、勇気がなかったから。


登校中に会ったら、一緒に学校まで行く。お昼はたまに一緒に食べる。休みの日には遊びに行ったりもする。漫画や小説の貸し借りをしたり、勉強を教え合ったり。

周りから見ればそれこそ親友で、もしかすると恋人で。
けれど私達は友達だった。少なくとも私と彼の間では、そういうことになっていた。



だからあの日もそうだった。

夕日に照らされた教室、どこかから聞こえる卒業式の歌、一足早く落書きで埋まりつつある黒板と。
二人の影が長く伸びるその部屋で、いつものように彼と他愛もない話をしていた。それから、明日の卒業式の話も。

その話題もいつしか尽きて、立ち込めた沈黙の中でふと見上げた彼の横顔。
その顔は本当に見飽きるほど見ていた顔で。それなのに寂しそうで————ただ、綺麗だった。



その日は彼とそのまま一緒に帰った。ばいばい、見送る背中も、手を降る影も。それが最後だった。

卒業式はいつの間にか終わってしまって、私は。





そのまま。何も言えないまま、私は今ここにいる。

 
ねえ、あなたはどうだったのかな。私にとっては、やっぱりあれは恋だったよ。近すぎて、眩しすぎて、気付けなかったけれど。あの時の私には、あの感情が恋だったのかさえ分からなかったけれど。

それでも、今ならわかる。わかってしまう。あの、触れるのももどかしいほどの感情は。夕日に照らされた君が、お世辞抜きで輝いて見えたのは。

どうしようもなく、恋をしていたからだ。

……うん、それでもわかってる。きっと心のどこかで私は知っていた。あの時もきっと、無意識にわかっていたのかもしれない。私はずっと、君が好きだった。


「変なの」

今更胸が痛むなんて、変なの。くしゃりと手の中で手紙が潰れる。その白が、彼の今の幸せの証。私が掴めなかった、彼の幸せだ。


自惚れじゃなければ、彼と私は多分両思いだったんだろう。
けれど、お互い言い出せずに卒業してしまった。そのままなんとなく、連絡も取らなくなった。知らなかった。彼がもう、こんなに離れてしまったこと。

私を結婚式に呼ぶなんて、つまりはそういうことだろう。彼はもう私なんか気にしていない。
私だけが今頃後悔している。いつの間にか私の恋は、高校最後の年で止まっていたみたいだ。

「馬鹿だなあ、私」

取り返しがつかなくなってから気づくなんて、とんだ馬鹿だ。
そっと手紙の封を開ける。丁寧な文字で書かれたそれは、よく知っている彼の字だった。



「……あ」

そして私は、見つけた。差出人である彼の名前の隣。そこに走り書きされた、小さな言葉を。
くしゃり、またもや手紙が潰れていく。視界がぼやけたかと思うと、紙のインクが滲む。いつの間にか、頬を涙が伝っていた。




泣き終えた私は、手紙のしわを手のひらで丁寧に伸ばした。ばーか、と彼を心の中で罵りながら。ばか、あほ。あんたなんか嫌いだ、大嫌い。なんて。

「ばーか……幸せになってよね」



元通り綺麗に封筒へ戻す。さて、これから服を探さなければならない。けれど結婚式用の服なんて持っていない。どうせなら買ってしまおうか。悔しいから少し奮発しようかな。

彼を驚かせてやろう。綺麗になったと言わせてやろう。そうすればそこで、私の恋も終わりだ。だから、彼を心の底から祝福しよう。



『ありがとう、結衣』



手紙の端に書かれた言葉。身勝手なやつだ。ありがとうなんて、私はそんな礼を言われることなんかしていない。そういうところが嫌い。

「…………ふふ」

なぜか笑みがこぼれた。けれど一緒に涙も滲むから、よくわからない。ひどくおかしくて、悲しくて、それでも。



幸せにならないと許してやらない。そう言ったら彼は何と言うだろう。困ったように笑うだろうか。それもいいかもしれない。

さっそく準備しよう。うんと綺麗にして、パーティー用の、私にあったドレスを着るんだ。花嫁が霞むくらい、なんてそれは冗談だけど。少しだけなら許してほしい。これは私の区切りだから。




そっと開いた携帯の画像欄。そこに変わらず笑っている彼と私がいた。もう一度だけじっと眺める。まだ制服姿の、少しだけ青い私達。

「……さよなら」

消去ボタンに触れる手が、少し震える。それでも勇気をだしてみる。さよなら、私達。さよなら、あの日の幼い恋。


最後に深呼吸をひとつ。



さあ、ドレスを買いに行こう。


Re: 透明な愛を吐く【短編集】【白銀の小鳥リメイク中】 ( No.5 )
日時: 2016/11/18 19:50
名前: あんず ◆zaJDvpDzf6 (ID: MXjP8emX)


 
#3 『君の消えた世界で』
 
 
 
 
 ——好きだよ。
 
 
 いつかの君の声が、聞こえた気がした。
 
 
 
 
 海を見に行こうと言い出したのは君だった。春が来たら海に行こう、買ったばかりの車に乗って。なんて、ひどく嬉しそうに。
 
 君は海が好きで、私達の思い出はいつだって潮の香りと波の中にある。喧嘩した時も、仲直りの時も、卒業の時も、出会いと別れも。全部、海が近くにあった。
 押しては引く波の、貝殻を擦り合わせたようなさらさらとした音の中。君は泣いて、怒って、見慣れた笑顔で喜んで。私が君を思い出すなら、海がなくては語れないだろう。君を思えば、波の音があふれてくる。
 
 
 だから、今こうして目の前に広がる遥かな水面を見て、私は君のことしか考えられない。夕焼けで赤く染まるこの景色は、何度も見たことがある。君とともに、見たことがある。
 きっとそのせいだ、隣の空白に違和感しかないのは。君が座るはずだった隣のシートには、ぽつんとテディベアが座っている。小さなそのぬいぐるみをそっと抱き上げて、見つめた。
 
「……会いたい」
 
 かすれる声で漏らした言葉は、私の全てだった。私の思いの、全て。
 会いたい。会って話をして、ううん、違う。もっと、もっと単純なこと。
 
 何だっていい。声が聞きたい。
 
 夕日が沈んでゆく水平線。海に溶けていくように、その境界は曖昧になっていく。きらめく海が、一番美しい時間だ。
 いつの間にかこぼれた涙が、小さなテディベアの頭を濡らした。顎を伝う透明な雫は、夕焼けの色に染まっているに違いない。
 
 *
 
 
 唐突な一本の電話。彼の母の震える声。戸惑うままに飛び出した外の空気の冷たさ。
 体中にのしかかるように重く、息を吸うたびに詰まるような、重い潮の香り。絡みつくような夜の闇と、普段よりも格段に甲高く聞こえた波の音。
 
 全てが「最悪」を示している気がして、手が震えそうになるたびに車が揺れた。自分の手元にあるハンドルを固く握りしめ、浅い呼吸を繰り返す。
 

 辿り着いた病院の壁の白さを、今でも覚えている。
 よほどひどい顔色だったのだろうか、面談のためにと向かった受付で看護師さんに呼び止められた。大丈夫ですか、そう気を遣うような彼女の声を押し切って無理に彼のことを聞いた。
 
 その名前を告げた途端に、彼女は口をつぐんだ。そして努めて冷静な声で、ご案内します、とお辞儀したその背中に、一層恐怖が押し寄せる。最悪はすぐそこだと、誰かに言われた気がして。
 
 
 
 それからのことは、もう私にもわからない。
 
 病室のドアを開けたら、すぐに彼の母に抱きしめられた。昔からよく知るその人の、咽びなく声。震える足でたどり着いた彼の眠るベッドと、すでにリズムを刻まない心電計。崩れ落ちた、自分自身。
 
 
 
 柔らかな笑顔で眠っていた最期の顔を、私はもう思い出せない。
 
 
 
 *
 
 
 もしも私が死を選べたなら、それはどんなに楽だっただろう。そんなことを思っては、自分を叱咤する。
 
 私も好きだよ。震える舌が、あの日の言葉をもう何回も繰り返している。
 
 海が見たいと笑った君はすでにいない。だから一緒に海を見る約束は、もう誰にも果たせないんだ。あの日の約束は永遠に約束のまま、私の中に残り続ける。
 
「綺麗……」
 
 今まさに沈みきる夕日が、海を金色に溶かしていく。その上を包む、悲しいほどに美しい茜と紫に染まる空。
 
 じわりと、涙が乾いた瞳から再び雫がこみ上げる。鼻をすすりながらそれを小さく指で拭う。
 誰がいるわけでもないのに、その涙を誰にも知られたくなかった。

 きっと君が知ったら、心配させてしまうから。
 
 
 太陽が沈みきった空の下、しばらく波の音に耳を傾けた。寄せては返す、押しては引いて、何度も何度も繰り返す波。嘆くように、歌うように、静かな波音を奏でている。
 
 温かな風が、スカートを優しくはためかせた。見上げた茜と紫の、いまにも溢れてきそうなほど星を湛えた夜空。透明な空気は、遥か宇宙を余すことなく映し出す。
 
 君は今、この空の上にいるのかな。
 
 そうだといい。そうあってほしい。美しい空の上で、ただ君が幸せであればいい。そう思うのは私の我儘なんだろうか。
 
 
「ありがとう、ずっと」
 
 ありがとう、もう一度だけ口の中で呟く。小さなその声を聞いていたのは、柔らかな風と、腕の中のテディベアだけだろう。
 
 キーを差し込んでエンジンをかける。耳慣れたその音と、小さく響くカーラジオ。窓を開けば、こもった空気が潮の香りに流されていく。
 きっと、大丈夫。君が愛した海の香りを、私もまた、愛したい。
 
 君がいなくても生きていけと、誰もが言う。私もそう思う。これから始めよう、何もかも。
 
 全部抱えて、君がいつか思い出になる日が来るとは今は思えない。そんな日は来ないのかもしれない。君は今の私の全てで、これからも大切なままで。
 
 けれどそれでも、光が差すなら。

 忘れない思い出も、訪れる明日も。
 全てを抱えて、歩けますように。

 
 
 走り出した車内に、付けっぱなしのラジオから軽快な音楽が流れ出す。流行りの歌手の伸びる声と、吹き込む柔らかな風。
 
 隣に座る、君がくれたテディベアは、きっといつまでも宝物のままだ。
 
 
 坂道を曲がれば、いつしか海も小さくなって。
 
 ——やがて全て、見えなくなった。
 
 
 
***
 
 
 
『人生は、決して後戻りできません。

 進めるのは前だけです。

 人生は、一方通行なのですよ。』
 
《引用:アガサ・クリスティ》
 
 


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