ダーク・ファンタジー小説 ※倉庫ログ
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 囚人のジレンマ
- 日時: 2009/11/01 19:35
- 名前: プリウス (ID: OEIlxS1W)
『イワン・イリイチの死』という小説をご存知か。
『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』などで有名なレフ・トルストイの作品だ。
彼の描く物語には、人間の死というものを極限まで見つめる姿勢がある。
イワン・イリイチは自らの死を悟ったとき、周囲に溢れる欺瞞に気づいた。
自分に同情を寄せる人々が、自分たちもいずれ死ぬ存在だということになんと無自覚なことか。
そう、イワン・イリイチ(レフ・トルストイ)は感じたのだ。
前世紀において最大の哲学者と称されるハイデガーもまた、死を極限まで見続けた人の一人だ。
彼は人間を「現存在」とし、死と共にあり死に向かい続ける存在と考えた。
『異邦人』で有名な小説家カミュもまた『シーシュポスの神』において、哲学の最大の問題は人間の死であると述べた。
昔も今も、死は人間が直面する最大の問題だ。
それを受け入れるも良し、否定しあがき続けるも良し、端から無視するも良し。
大抵の人は、受け入れるでもなし、否定しあがき続けるでもなし、端から無視するでもなし……
ただ忘れているだけなのだが。
Page:1
- 囚人のジレンマ ( No.1 )
- 日時: 2009/11/01 19:38
- 名前: プリウス (ID: OEIlxS1W)
記憶にあるのは、深く暗い闇。体中を締め上げるような痛み。遠くの光。薄ら寒くなるほどの静寂、そして振動。底には、何か大きな生き物が大きな口を開けて待っている予感。遠のく光。絶望はなく、ただただ寂寥感がつのるばかり。ああ、自分は死ぬんだなという安堵にも似た諦め。これでいいのだと思った。自分はそうなるに相応しい、いやそうなるしかない人間なのだから。遠のく意識。光はもう届かない。沈む。沈む。ゆっくりと、着々と。記憶はここで途切れた。
僕は死んだと思った。でも助かった。助かったのだ、と思う。少なくとも足は付いている。体がぎしぎし痛むが、痛みは生きている証拠だ。いや、死んでも痛みは感じるのだろうか。いずれにせよ、それを確かめるのはもう少し先になりそうだ。ゆっくりと体を起こす。ベッドのきしむ音が部屋中に響いた。刑務所にでも置いてありそうな安物のベッドだ。灰色のシーツの下は、がちがちに固い。薄肌色をした使い古しのブランケットを押しのけ、周囲を見回した。
「ここは、どこだ」
月並みなセリフだと思ったが、すぐに思考を切り替えた。状況の把握が最優先だ。僕は今、見知らぬ部屋の中にいる。正方形のカタチをしている。中にあるのはベッド、椅子、壁と繋がった机のみ。机と面した壁には、小さな扉のようなものがある。扉と言っても、猫が通るくいらいの大きさで、そこに入ることは出来ないだろう。取っ手は見当たらず、こちらからは開けられそうにない。照明は円筒形の蛍光灯が二本。電源スイッチを探したが、見当たらない。ベッドの対角線上、扉らしきものの四角に和式の便器と紙。そして僕はさらに重大なことに気づいた。
「ドアも、窓も、無い」
そう、この部屋にはドアや窓といった外界と通じるものが何一つ見当たらないのだ。机の近くの扉はどう見ても移動に適した大きさではない。しかし、それなら僕はどうやってここに入ったのだろう。周囲をさらに詳しく見てみることにする。壁は一面、コンクリートの打ちっぱなし。完全に囲まれているというのは息苦しさを感じるものだが、呼吸それ自体には問題が無い。ということはどこかに隙間があるはずだ。そう考えて隅々を見渡したとき、床と面した壁の一部に、四角い穴を発見した。これも机近くの扉同様、猫が一匹通るくらいのスペースしかない。すぐに駆け寄って、外を覗いてみる。だが奥は真っ暗で、何も分からなかった。
部屋を一通り観察した結果、それが全てだった。蛍光灯のジーという音だけが部屋に響いている。
「おい。誰かいないのか」
声を荒げてみたが、何の反応も返ってこない。いったい、今が何時なのか、朝なのか夜なのかも判別つかない。仕方なく、椅子に座り、机にもたれかかった。特に慌てる理由もない。僕は冷静になり、自分が死ぬはずの人間だったことを思い出した。そう。一度死を選んだのだ。自らの犯した罪に耐え切れず、この世からおさらばしようと考えた。だから僕は一度死んだ人間なのだ。今さら、何かを恐れる理由もない。とにかく僕は今、経緯は分からないが助かった。そして誰かの意思によってここに連れてこられた。ならばその誰かが現れるまで、僕は特に何かをする必要もない。たとえ誰も現れなかったとしても、飢えて死ぬだけ。少し予定とは異なるが、死ぬのが遅くなるだけだ。
僕は、サラのことを思い出していた。そうすることが僕にとっては苦痛でしかないというのに、それ以外のことを考えることなど出来なかったのだ。サラは僕の妹だ。そして同時に恋人でもあった。
- 囚人のジレンマ ( No.2 )
- 日時: 2009/11/01 19:52
- 名前: プリウス (ID: OEIlxS1W)
【回想】
サラは絵を描くのが好きだった。彼女の描く絵は、宗教画が多かった。特に楽園を追われたアダムとイヴが彼女のお気に入りだった。逆に彼女はマネやモネといった印象派を毛嫌いした。とくにそれらを絶賛する評論家たちを追従主義者と言って非難した。ある時期、印象派画家たちの運動が最も隆盛となった頃、彼らは言った。「宗教画のような悲痛な絵はもう十分描かれた。人間の明るさ、心の豊かさを描くことがこれからは大事なのだ」、と。サラはこうした考え方をこそ気に入らなかった。彼女曰く、勝手に人類の壮大なテーマを終わりにしないでほしい、とのことだ。彼女はレンブラントやドラクロワといった画家のスタイルを好み、よく模写をした。その絵は僕には本物と見まごうばかりの出来だったが、彼女にすればまだまだ稚拙だということだった。
「お兄様、私のモデルになってくださらない」
カンバスに向かったまま、後ろに立つ僕に言った。彼女は今、静物画のデッサンをしている。対象はテーブルの上に林檎がひとつ。とてもシンプルな構図だ。
「もう林檎なんか、何度も描いてるだろう。どうして今さら、同じものを描き直すんだ」
僕は彼女の申し出には応えず、思ったことをそのまま告げた。彼女は手を休めることなく答えた。
「アダムとイヴのお話はご存知ですか」
「もちろん知っている。たとえキリスト教徒でなくとも、必ず知っておくべき必須知識じゃないか」
「ええ。私はそのお話に登場する知恵の実を描いているのです」
旧約聖書、創世記におけるアダムとイヴの話は有名だ。神は自分の姿に似せてアダムを創り、アダムのあばら骨からイヴを生み出した。男から女が生まれた。アダムとイヴは楽園で何不自由なく過ごした。ただ一つだけ、神が彼らに禁じた行為、それが楽園の中央に位置する知恵の木の実を食べてはいけないというものだった。彼らは当初、神との約束を守っていた。だがそこに蛇、サタンが現れ、イヴをそそのかした。イヴは知恵の実を採って食べ、アダムにも与えた。蛇が女を騙し、女が男を騙した。彼らは神の怒りを買い、楽園を追放されることになった。
ここで知恵の実とは何だったのかが問題となる。聖書の中では知恵の実としか書かれておらず、それが林檎であるという記述はどこにも無い。後世の画家たちがそれを描く時、林檎を描いた。そのために知恵の実は林檎であるというイメージが定着したのだ。僕はそのことをサラに伝えた。
「存じておりますわ。林檎が知恵の実だという根拠はどこにも無く、ただ多くの人がそのようにイメージしているだけだ、と。けれど私、こうも思いますの。この世に生きる人たちが、それを林檎だと思うのなら、まさしくそうなのではないか、と。大事なことは、信じるということ。もし何か古い文献が見つかって、知恵の実が実はイチジクだったとしますわね。それはとても大きな発見ですし、人々が今後は知恵の実とはイチジクのことだ、と考えを改めるかもしれません。けれど、永きに渡って私たちがそれを林檎だと思っていたという歴史は変わりません。だから私たちはきっと、林檎を見れば知恵の実を思い起こすことができる。実際に何が知恵の実であったかは問題ではなく、知恵の実とは何か、の方が問題だと思いますの。だから私は性懲りも無く、林檎を描き続けるのです。ところでお兄様、モデルの件ですが、お引き受けいただけますか。座って、こちらを向いていてくださるだけで結構です」
「その、座ってそちらを向き続ける、というのが一番やっかいだな。退屈してしまいそうだ」
「あら、そんなことありませんわ」
「どうして」
「だって、お兄様は私に夢中なのですから、私の顔を見て飽きるなどということはあり得ませんもの。むしろただじっと私を見ていられることに幸せを感じるはずです。だからこそ、お兄様にモデルとなっていただきたいのです。私もお兄様に夢中なので、お兄様を見続けているだけで幸せなのです。正直なところ、いくらそこに人類の英知が詰め込まれていようとも、林檎ばかりを見続けるのはいささか退屈していたところですから」
そう言ってサラはくすくすと笑った。その笑顔につられて僕も笑った。サラはこういうことをさらりと言ってのける。最初は戸惑ったが、今ではもう慣れっこだ。本当に、サラの顔を一日中見ているだけで飽きないだろう。肩の少し上で切りそろえた黒髪はつややかで、窓から差し込む太陽の光を反射しているように輝いている。青い瞳は母親譲りで、アクアマリンを思わせる。整った鼻。少し意地悪そうに笑う唇。全てが美しく、見るだけで心が洗われた。僕は仕方ないなといった振りをして、彼女の前に座った。サラの眼は全部お見通しだと告げていた。
Page:1
この掲示板は過去ログ化されています。