ダーク・ファンタジー小説

青、きみを繋いで。
日時: 2017/09/16 16:40
名前: 厳島やよい

@sousaku_okiba_様より
お題『青春と呼べるほど、綺麗じゃない』

*


 ただ、愛したかっただけなんです。

 青、きみを繋いで。
 
 

Page:1 2



*2* ( No.2 )
日時: 2017/09/10 11:44
名前: 厳島やよい

 僕がミカと出会ったのは、3年前、つまり中2の春のことだった。
 ようやく中学初めてのクラスに馴染めたと思った頃に、まさかのクラス替え。憂鬱で仕方がなかった。余計な変化は好かない性分なのだ。
 比較的暗い性格の僕には、知らない人ばかりの新しい教室が、騒がしくてたまらなかった。話の合う人も片手で足りるくらいはいたけれど、どんなに良い人たちの集まりだろうと、合唱祭でも体育祭の学級対抗種目でも必ず1位を獲得していたようなあのクラスには、絶対に敵わないと思って。暗い僕なりに、前のクラスを居心地よいものにしてきたのである。
 そんなこんなで、4月も下旬に差し掛かったある日。窓際の席に着いて、一時間目が始まるのを待っていた頃のことだ。特にすることもないし、突っ伏して寝ようとすると。

「綺麗だね」

 僕の席の前に、窓の外を見詰める女の子が立っていた。
 僕に話しかけたわけではないかもしれないと思って、何も言わずに、その透きとおる瞳が捉える景色を追ってみた。ほいほい反応しても、もし間違いだったときにキモいだとか言われたらそれなりに嫌だし、困るし。男子という生き物は、よっぽど容姿が整ってでもいない限りそういう点でも不利なのである。
 …………ゆうっくり上半身を起こして更に視線を追うと、そこには、ベランダの手すりに引っ掛かり、僕たちのほうへ手を伸ばすように桜の枝が揺れていた。立ち並ぶ桜が美しいことで有名な近くにある大通りのそれだって、もう大分緑に生え替わりはじめているというのに、この木だけは、まだ、ふわふわと花びらだけを纏って春を満喫しているようだった。しかも、自らそれを望んでいるように。何が悲しくてそんなことをするんだろう。

「ね、綺麗だと思わない?」

 そんなことを考えていたら、不意に彼女が僕の方を見て問い掛けてきた。どうやら、この地味無口男に話し掛けていたらしい。相当な物好きなんじゃないの。と、思う。

「……そう、ですね」

 あんまり目を輝かせて訊いてくるものだから、僕も仕方なくその期待に応えてあげた。彼女もまた、この反応に満足してくれた様子だった。
 よくその辺にひとりはいる、少し大人しめで、目立ちはしないけど可愛い印象の女の子、という感じだ。まあ、幼馴染みのアイツとは月とすっぽんどころか、真珠と泥団子くらい違うということだけは確かだ。

「ねえ、あなたは何て名前? 自己紹介してたとき、周りの声で聞こえなかったから……あっ、今さら、ごめん」

 彼女は、もう一度窓の外の桜を見詰めると、短い髪とスカートを揺らして振り向いた。

「有明(ありあけ)」
「ん、名字じゃなくて、名前も」
「……恒平。有明コウヘイ」
「コウヘイくん、だね? わたしは美佳。須藤(すどう)、ミカ。よろしくね!」

 笑顔が、夢を見続ける桜のように、ぱっと花開いた。
 もしかしたら、こういうことを、漫画なんかの世界では"一目惚れ"というのかもしれない。
 まあ、要するに。
 僕は生まれて初めての恋をした。



 …………とかなんとか、それこそ恋愛小説のように言ってはみたものの、現実はそう練乳みたいに甘ったるくはない。あのあと、全く、まったく須藤さんとは話をしていないのがその証拠と言える。
 僕は窓際の席。彼女は廊下側の一番前。
 僕は地味系男子グループの幽霊メンバー。彼女はアイドル系女子グループの多分三番手。
 僕は特筆すべき点もない帰宅部、彼女は華やかな────いやだめだ、これ以上比較してたら死にたくなる。とにかく僕と彼女は、文字通り、雲と泥なのだ。雨音と同等なのだということを認めるのはごめんだけど。
 掴めっこなくて、綺麗でふわふわしている雲と、人に顔をしかめられながらまたがれたり、彼等をぐちゃぐちゃに汚してしまう泥。その真実を改めて見せつけられた気になる放課後だ。
 あの日、僕が彼女に惹かれる原因にもなった桜の木を見下ろすと、柔らかそうな大量の新緑が枝にのしかかっていた。舞うだけ舞って褐色に干からびた花たちは、もう何処にも見当たらない。
 気温が少しずつ上がってきて、風も湿り気を帯びてきて。さっきまで春だったのに、夏が確実に迫ってきているような、そんな気がする。
 茂る葉の奥で、生徒たちが部活の練習をして声を上げている。体操服を砂で汚したり、早くも黒く日焼けしていたり。そんな光景を時々目にしては、部活に入っていれば良かったかなあと考えることもあるけれど、入りたいと思える部活が無かったんだから仕方ない。訳なくたそがれていてもしょうがないし、とりあえず帰るか。帰ってからのことなんて考えちゃいないけれど。
 今日の夕飯何かなーなどとどうでもいいことを考えながら、鞄を担いで教室を出ていく。昇降口を出て、そのまま宇宙に吸い上げられてしまいそうな空を見上げた。雲ひとつない、夏をひとかけ、切り取ってきてきたみたいな。

「こーへい!」

 そんな快晴の街の中で、待ちわびていた声、が、きこえて?

「コウヘイったら」

 振り向くと、あの日と何にも変わらない笑顔の須藤さんが、息を切らしながら乱れた髪に指を引っ掛けていた。
 ただでさえ僕に話し掛けてくる女子なんて雨音くらいしかいないのに、接触回数が馬鹿みたいに少ない須藤さんに、まさかの呼び捨てで叫ばれている。どうにも心臓に悪い。

「な……何?」

 穏やかに紳士的に、どうしたの、とでも言おうとしたのに、口から飛び出したのはただのぶっきらぼうな返事だった。 

「部活を切り上げて早く帰ることになってね、つまんないなーって思ってたら、コウヘイが歩いてるのが見えたから」
「部活の友達とは帰らないの?」
「あー、帰るのね、わたしだけなの。こないだの中間テスト最悪だったから、強制的に塾通いさせられてて。やだやだ」

 ああ、中間テスト。そういえば、答案返却のとき、派手な顔立ちの女子と一緒に撃沈していたっけ。
 それとなく話しながら流れに身を任せていたら、普通にふたりで並んで歩き始めていた。
 中途半端な時間だから、ランドセルに背負われている小学生以外はほぼ誰も居ないし、校舎や体育館の壁にこだまする掛け声が良いBGMになって、心地良い。
 なんだか僕らが恋人同士みたいで、感覚がおかしくなってくる。

「塾ねえ……」
「コウヘイは、塾通いさせられたりとかしないの?」

 そういえば来年は高校受験がある。志望校のしの字も見ないふりをしている今だけれど、勉強くらい始めたってバチは当たらないかな。なんて考えていたのと同時に訊かれたので、少しどきりとした。

「うん、塾とか一度も行ったことない」
「良いなあ。親御さんが優しいんだね」
「須藤さんこそ、一人娘なんだから可愛がられてるでしょう」

 信号機のない角を、意味も成さない縞模様を踏みながら曲がっていく。

「コウヘイ」

 すると、ややキツめな声とは対照的に軽やかな動きで、僕よりも小さい足がアスファルトから離れた。
 そのまま、僕を追い越して、古い縁石へと飛び乗る。

「その、須藤さん、って呼ぶの、止めてもらってもいい?」
「え?」

 陰に苔の貼り付いた縁石の上で、ふわりと彼女は振り向いた。

「大人とか、先輩とかなら、我慢できるんだけどね。同い歳の子に名字で呼ばれるの、あんまり好きじゃないの。下の名前で呼び捨ててよ」
「…………す、いや、ミカは、自分の名前、嫌い?」
「そうじゃないけど……ごめんね」

 こんなに悲しげな笑顔を、初めて見た。それくらい、彼女は何かを必死にこらえていた。
 今どき、名前で呼び捨てなんて珍しくもないし、そろそろ須藤さん呼びも疲れるなあと思い始めていた。だから僕も、思いきって普通に呼んでみたんだけど、声は震えていなかっただろうか。近いうちにやって来るであろう夏の匂いが、南の空から漏れ出している。
 何だか今の君は、とても辛そうに見えたよ。そんな小さな手のひらに、いったい、どれほど重いものを抱えているの?
 その瞬間、空っぽの交差点はひだまりを濾(こ)した色の世界に染まって、そんな光には似合わぬ冷たい風が、彼女の髪をゆらり、波立たせた。

「残酷にもほどがある」












 季節は早回しで容赦なくめぐっていく。終わりなんてないかのように。
 9月に開催された体育祭は無事、クラス・個人成ともに平々凡々な成績で終わり、生徒たちが中間テストの勉強に励み始めた頃、大型の台風が日本列島に直撃した。言うまでもなく休校になった。しかし、そんな台風も1日で過ぎ去り、学校は今日から始まることになった。
 空が透ける水溜まりに、ときどきスニーカーで細く波紋を彫って、学校へと歩いていく。
 台風一過というやつで、風はビュウビュウ吹くわ、馬鹿みたいに暑いわで、昨日までの涼しさと暗さのギャップに、身体が持ちそうもない。こんな時間から、背中に溜まる熱気に汗が滲んできた。

「こーうへいっ!」

 まとわりついてくる熱を打ち破るように、後ろから声がした。
 振り向くと、随分伸びてきた髪を高く結わいたミカが、駆けてくるのが見える。いつもと何かが違うように見えたのは、髪型のせいかもしれない。

「おはようっ!」
「おはよう」

 もう数えきれないくらい、こうしてふたりで笑い合っている。だれにも邪魔なんてされずに。待ち合わせの連絡なんて、今まで一度もしたことはない。他力本願ばかりの僕だけど、それだけで嬉しくて、毎日が幸せに満ちあふれる。
 いつからだろう、こんな風に、お互いにひとりでいるところを見付けては、並んで歩くようになったのは。苦しそうに、美しく笑っていたこの人に、何かを思ったあの日からか?
 僕ばかりぬるい幸福感に浸かりつづけているなんて、と時々考えてしまうけど、彼女をいたぶり続けているものの正体が未だにわからない。何度も、聞いてしまいたいと思った。でも、訊けるはずはなかった。

「雨の匂いがするね。雨の残り香」

 ミカの言葉に、すんっ、と、低い鼻を鳴らしてみる。
 日陰にはいると、もうとっくに雨は上がっているはずなのに、さっきまで降っていたように濃く匂う。
 土と、葉と、夏と。思い出の匂いがした。

「……そうだね」

 そう言って、歩みを遅める。
 誰もいない通学路を、無言でゆっくり、歩いていった。きっとこれで最後であろう、弱々しい蝉の声も遠く聞こえてくる。
 隣に目をやると、不思議と視線がぶつかった。柔らかく笑う。わらう。
 こうしていると、このまま彼女を自分の物にしてしまいたくなる。そう、何度も思ってる。
 心とかいうものに襲ってきた、鎌鼬の残した傷。いつまでたっても塞がらないそこに、ミカを閉じ込めてしまいたくなった。そうすれば何もかも楽になるだろうと思って。
 今でも悪魔は僕の肩にまとわりついている。止まり木じゃないんだからさっさと消えやがれと思っているのに。僕には何もできない。ごめんなさい、そう言われるのが怖いから。拒否されるのが、突き放されるのが怖いから。
 最低だということくらいわかっている。自身の弱さを見て見ぬふりして、都合のいいように、未来を変えられぬものなのかと思っている。こんな人間、ヘドロ以下だ。
 朝っぱらから自己嫌悪。
 綿雲で辺りが陰って、ぐんと体感温度が下がった。

「ねえ、コウヘイ」
「何?」
「……好きな人とかさ、いる?」

 突然の、あまりにもタイムリーすぎる質問に脚が硬直した。
 蝉の嗚咽が空に消えていく。動けない。
 普通、こういうときには、それこそ漫画みたいに、どきどきするものだろう。緊張して、体が熱くなってきたりするものだろう。なのに、今の僕はその真逆。驚くほど冷静で、何も感じられなくて、それでも脚は棒になって、震えが襲ってきそうだった。

「─────」

 ああ、僕、今どんな顔をしてたかな。

「……そう。わたしはね、」

 ひきつってた。たぶん。

「わたしは、いる。好きな人」

 それからは、学校に着くまでひとことも喋らなかった。何事もなかったかのように歩き出す自分達に、軽く目が眩んできそうだ。
 蝉が、もう現れもしないであろう恋人をさがそうと、情けない騒音を再び発し始めて、暑苦しい。雲は千切れ、僕らを焼き焦がす太陽は、よりいっそう眩しさを増していた。
 ほんとうに、読心術でも使えるようになりたい。切実に。
 ばしゃあっ、と無邪気に透明な水溜まりを蹴り、しぶきをあげた彼女への想いは、空と同じように綺麗な色にはなれないんだなあと思い知らされたような気分だ。

*3* ( No.3 )
日時: 2017/09/12 15:12
名前: 厳島やよい

 小さい頃「好き嫌いもなくて大人しいなんて、ホント、イイコね」なんてよく言われていた記憶がある。そう言ってくるのは大抵、近所のごみ置き場の前で堂々と井戸端会議をしているおばさんたちだ。彼女たちの纏う空気が苦手で、声をかけられても無視をして、出来るものならその場を走り去っていた。だから、挨拶はちゃんとしなさいよと、それだけは口を酸っぱくして怒られていたものだ。お陰様でおばさん嫌いをこじらせたが、高校生になった今なら、あの人たちに挨拶くらいはできるようになっただろう。
 確かに僕は、食わず嫌いはしないし、大人に対しても滅多に反抗なんてしなかったし、漫画やゲームよりかは小説やパズルを好んでいる。それが大人の思ういい子なのだろうし、好きでそういう生き方をしているから、ここから抜け出そうとも思わない。けれども今から10年ほど前、きっと一生かけても打ち勝てないであろう嫌いなものに、僕は真正面から、自ら、ぶつかってしまったのだ。
 世界一好きだった人の残した、世界一嫌いで恐ろしい記憶は、まだ幼くて柔らかい場所を、痛みも感じさせないほどに深く切り裂いた。


 僕は、人間の血が、大嫌いだ。











 "彼女の噂"を耳にしたのは、その日の清掃の時間だった。
 授業が全て終了し、残すは掃除とホームルームのみ。きっと今日は、ひとりで帰ることになるだろう。ミカは塾の日だから、いつもなら、部活の無い生徒たちが下校しきった頃を見計らって、ふたりでこの世界から抜け出すのに。もう色々としんどいな、と思ってしまう自分がいた。
 広すぎて笑いたくなるほどの体育館の床へ、湿らせたモップを押し付けながら、班員の5人で並んで仲良くお掃除をする。もちろん僕は端っこで。どうでもいいけど進行方向に見ていちばん右だ。

「そういえばさあ、最近ミカ、元気ないよなあ」

 サウナだろこれと突っ込みたくなるような蒸し暑さと、摩擦に耐えきれず甲高い音を立てる上履きに、思わず顔をしかめながら無言で足を進めていると、隣を歩く颯真が不意に呟いた。
 1年のときから同じクラスの、それなりに仲が良いヤツだ。雨音に次いで、僕に話しかけてくる物好き第2号。だからミカは3号。……………ああもういやだ。まったく、何て時にそういうことを言う。
 しかし颯真のその一声で、しんと静まっていた女子たちが、僕らだけに聞こえるようにぺちゃくちゃと、彼女に関する報告やら憶測やらを喋り始めた。ステージの上のモップ掛けをしている監督の先生には聞こえないように。

「確かにー。4時間目の国語の時なんて上の空で、先生に怒られてたし」
「ボス…………じゃなくて、麗華とも最近一緒にいないよね」
「そうそう! もしかして麗華ちゃん、ミカのことハブってるの?」
「うわぁ、いじめとか、バレたら内申に響くじゃん」
「まっさかあ」

 3人はなんてことない世間話でもしているような感覚で笑っているみたいに見える。
 普段通りと言えば普段通りだが、朝、登校してからもミカとは一切口をきいていない。でも、目は口ほどにものを言うとかいうやつで、ずっと目は離せなかった。皆が一斉に板書をとっているときに視線だけ向けてしまったり、休み時間には、彼女の席に近い、教室の前のドアを使ってみたり。何度見てもあの子はぼうっとしていた。
 もちろん僕は、授業は注意されない程度に受けてはいたけど。
 ……ていうか"最近"?
 今朝のやりとりが原因じゃないということだろうか?

「でもありえるよな、コウヘイ」

 女子たちを、冷や汗垂らしながら見やっていた颯真が、こっそり耳打ちしてくる。

「僕に言われたって知らないよ。ていうか第一、何で彼女がいじめられなきゃいけないんだ?」

 もう聞かれたって構わないじゃないかと、少し大きめの声で訊き返してみる。
 先生は、ステージの上にある、体育館用の放送機器が置いてある部屋に行ってしまったみたいだし、彼にはどうせ聞こえもしない。

「それは……」

 と、彼が口ごもっていると、その更に隣にいる女子が、背中を屈めて僕を覗き込むようにしてきた。

「これはほんとに、ただの噂なんだけどさ。…………あの子、小6のとき、お兄ちゃんが死んだんだって」
「え」

 そんなの初耳だ。兄なんていたのか。その兄が死んだのか。今僕らは中2だから、2年ほど前ということになる。
 この話題に入るべきなのか?入っても平気なのか?ていうか僕、クラスメートと普通に話しちゃってないか?突っ込みどころはたくさん浮かんできたけど、僕もそれくらいちゃんと生活できるようになったということだからだろうと、とりあえずゴミは見えない場所に押し込む。
 すると、本領発揮だとでもいうように、颯真が声を潜めて皆に話し始めた。

「今も生きてたら、高校3年生で……死因は飛び降り。それこそいじめとかあったって。きっとそのことがボス……麗華に知られて、変な目で見られるようになったんじゃないかね」

 彼の隣の女子が顔をめちゃくちゃに歪ませる。色々想像すると此方まで死にたくなりそうだから、気持ちはわからないでもない。
 空を飛びたくなるほどのいじめだったってことか。

「可哀想に」

 うん、そうだ。こうやって同情でもしておけばいい。偽の感情が良い蓋になる。
 しかし、そんな心中を見透かしたのか、静かに騒ぎ立てる女子たちを後ろに、颯真が肩を叩いて耳打ちしてきた。

「コウヘイ、お前も他人事じゃないと思うぜ。俺もSNSで聞いたことあんだけどさ、ミカの両親、丁度2年前に離婚してるんだと」

 彼は僕の秘密を中途半端に知っているからこそ、こんな軽口を叩けるのだけど、そんなことは今はどうだっていい。
 それにしても、丁度2年前だなんて。それが彼女の兄が亡くなる前のことでも、後のことでも、双方の因果関係は否定できない。散々に振り回されたのかもしれないふたりのことを、今、心から可哀想だと思ってしまった。

「……僕は自殺なんてしないから。安心しろ」
「よくいうよ。……あ、ソースはミカの元クラスメートな。あいつってさ、元々この辺に住んでたわけじゃないらしいじゃん? そしたら小学校卒業までは山梨あたりに住んでたって聞いてさあ。それで気になって、まあ駄目元でそっちに住んでる従兄に訊いたんだよ。んで、ビンゴ。まだ誰にも言ってねえから、ミカがそのことを黙ってるのは、俺とあいつしか知らねーことになってる」

 あー、一発コイツ殴りてぇ。
 そんな物騒な思考が僕の中で膨らんでいることなんてつゆ知らず、莫大な情報量を抱える彼は、なおも耳打ちを続けた。

「1年のときは地味な人だったし、良くも悪くも空気みたいな感じだったって部活の奴も言ってたし、小学校のときの仲間とは一切つるんでないらしいし。こりゃあ、いじめでこっちに引っ越してきたって説はほぼ当たりっしょ」

 溶け込んで、溶け込んで、確実に周りに食い込んでいる。
 もし、過去を一切なかったことにしようとしてるなら、1年のときの静けさは計算のうちだったなら。
 あんなに苦しそうに、美しい笑顔で、彼女が積み上げてきたものを乱暴に壊していく人のことが、許せない。

「……前の名字は?」
「えっと、確か、オウバ? 奥羽山脈の奥羽で、オウバって、読むんだって」
「へぇ」

 奥羽美佳、か。あんまり聞かないような名前だ。
 に、しても。話がうまーく出来上がっている。ここまで欠片が大量に落ちてたっていうのに、よくも今まで繋ぎ合わされなかったものだ。颯真しかこの事実を知らないというのが、なんだか恐ろしい。そんなことをする気はさらさら無いが、僕は、ミカを闇の中へ突き落とすことも、逆に救い出してあげることもできるのだ。ひとりの人間の人生を右にも左にも動かせてしまえる高い可能性を、少なくとも今は、僕と颯真だけが持っている。それが、恐ろしい。
 あの人たちはどうしているのだろうと彼の隣を見てみると、女子たちはまた何か賑やかに話し始めていた。

「えーっ、まじ?!」
「まじだよ〜。もうあの映画神ってるから、絶対観てよね! 絶対彼氏欲しくなるから」
「やだー! もう、言ってくれれば3人で行ったのにねー?」
「ほんとー」

 耳を澄ますまでもなく、一目瞭然だった。彼女のことを話しているのかと思いきや、とっくに話がしあさっての方へ飛んでいっている様子で。
 そろそろ体育館の床を拭き終わるというのに、5人でつきあわせていたモップを離してしまった。立ち止まった僕に気付いた颯真が、数歩先で慌てて振り返る。
 それでも3人の咲かせた造花は、枯れやしない。用具置き場にそのまま直行して、ホームルームが終わるまでそのまま、くだらないことばかり話し続けるんだろう。

「他人事ってこういうことを言うんじゃねーの」

 誰にも聞かれたくなかった心の声が、思わず空気中へ吐き出されていってしまった。危機感とまではいかなくても、そういう雰囲気が、もう微塵も感じられない。
 けれど、あまりにも小さく呟いたその言葉を、誰も拾い上げてくれはしなくて。

「そういえばお前、最近ミカといっしょに帰ってるってまじ?」

 







 放課後になって、こどもたちが制服を脱ぎ捨てると、見計らったように太陽の熱がその激しさを増した。
 颯真はバスケ部だから、外ランのとき以外は日焼けしないって言ってたけど、あの体育館も中々の暑さだ。毎晩、蒸しパンになって帰ってくる彼を、家族は何て思っているんだろう。なんて、つらつらと独り言を並べてみたものの、僕はこんがりトーストにもふんわり蒸しパンにもなれない。このままパンの喩えを続けても笑われないのなら、僕はせいぜい乾パンだろうな。残念ながら、一緒に食べられてくれる金平糖はいない。いや……ミカなら僕と食べられてくれるかな。
 ついに僕らだけの秘密の時間が、秘密ではなくなってしまったのだと知ったさっき。
 嘘をつく気にもなれなかったので素直に白状したら、そうかそうかと、ニヤニヤしながら肩や背中を叩かれた。一応口止めはしておいたけど、効果があるかどうかは怪しい。

「類は友を呼ぶんだなあ」

 気休め程度に植えられた街路樹が良い木漏れ日を作り出してくれていて、どうにか家までは帰れそうだ。
 陽のかけらが散りばめられた影のなかにしゃがみこみ、べとつく額を腕で拭った。吹き込んでくる風が冷たくて気持ちいい。
 でもほんとに乾パン。喉渇く。

「はい、どーぞ」

 ……と、心の声と同時に視界の端から白い腕が伸びてきて、スポーツドリンクのペットボトルが目の前に差し出された。ボトルの表面に浮かび上がる結露に余計喉が渇いてきて「ありがとう!」飛び付くように手が出る。
 妙に甘い気もするスポーツドリンクを飲んでいる途中で、溶け出しかけていた脳みそが急速に凍りついた。いやまて、誰、これ渡してきたの。

「いえーい」

 ざばばっ、と音が立つほど勢いよく振り替えると、そこにはお揃いのボトルを手に、ピースまでして笑っているミカがいた。

「みみみ、ミカ?!」
「美佳ですよ、須藤美佳ですよ」
「何でここに?!」
「何でって、いっしょに帰ろうと思って」
「え、は、え? お、怒ってないの?!」
「怒るって何に? コウヘイ、暑さで頭おかしくなってる」

 乾いた音を立てて、彼女の手の中でもフタが開いた。
 頭がおかしいのは元からなので、否定できなかったのがどうも悔しい。やっと絞り出せた声も、なんでこんなものを買えるんだという素っ気ないにも程がある問いだった。

「自販機。塾の日は財布持ってきてるから」
「え、いいの、それ?」
「普通でしょ」

 中学生の財布の中身なんてたかがしれている、が。学校にお金なんて持ってきていいのか。僕のような人間はそういう変なところで真面目なのである。つまらない奴だと言われても否定はできない。明日お金は返すよ、なんて伝えた僕に対するミカの視線も、いいから黙って飲まんか、と今にも声が聞こえてきそうなものだった。ああああ、女の子に奢られる男だなんて。

「ほんとにつまらないんだな」
「なんか言った、コウヘイ?」
「いいえ、なんにも」

 自然と、細い木の幹に背中をくっつけると、影に引き寄せられるように彼女もしゃがみこんだ。
 木漏れ日の向こうで駄々をこねる残暑を無視して、ふたりで日陰にとじこもる。

「あ〜、おいしい」

 丁寧に膝を揃える彼女が、またごくごくと音を立てた。微かに揺れる喉元で、汗の粒が輝く。

「……ねえ、ミカ」
「ん?」

 額で風を受ける伸ばしかけの前髪。綺麗な瞳だけがその下で滑って、僕の表情を映し出した。
 唇からこぼれだしたジュースをぺろりと舐めとった仕草が、こどものように見えてかわいかった。

「何で……僕なんかといっしょにいるの」
「理由が欲しいの?」
「え」

 わたしがコウヘイに惹かれた理由はあるのかもしれないね、でもそういう訊き方じゃ後付けみたいだよ。 そう言って、残り半分もないペットボトルを僕との間に置いてみせた。

「だから、そんなものは各々の心の中にでもとどめておけばいい。全部知ってしまったら、つまらないでしょう」

 勘付かれたんだろうか、僕が過去を知ってしまったことを。
 でも、それならば彼女はもっと苦しくなったんじゃないか?全部吐いてしまいたいと、少しは思ったんじゃないか?
 僕は何て馬鹿なんだろう。

「そろそろ帰ろうかな」

 ひとこと、謝らなければと、思ったのに。
 それまで見越したように、美佳は前髪に触れるように表情を手で隠し、素早く背を向けて立ち上がってしまった。

「…………だな」

 だから僕も、他には何も言わずに重たい腰を引っ張り上げた。
 僕のボトルの中味は、半分も無くなっていない。
 いつの間にか蝉の叫び声が渇れている、相変わらず閑散とした通学路には、温い風が吹き込んでくるばかりだ。

「なーんか、塾とか勉強とか、めんどくさくなってきちゃったよ」

 たっ、たたん。あの日のファーストステップと同じ音。
 スカートをふわりとバレリーナのように広げて、彼女は何回もまわってみせる。木漏れ日がセーラー服に濃い網目模様をたがいちがいに落として、非日常の風景のようだった。

「何もかも忘れて、楽になっちゃいたい。そんなの無理かな」

 彼女の薄いピンクのスニーカーが軽やかなまま僕を追い越して、まだ白さの残る新しい縁石に飛び乗る。

「……どうだろうね。でも、僕も同じようなことを思うときはあるよ」
「そうかあ」

 彼女はちょっぴり寂しそうに笑った。
 曖昧な確証しかないけれど、僕はたぶん、目の前にいるひとりの女の子の秘密を知っている。その上で導き出した、砂浜に記入するような情けない解答は、風に撫でられ、掻き消されてしまった。
 代わりに、彼女が意味ありげに振り向いて、一時的な回答をさらりと口にした。

「よし、今日は塾さぼろう。コウヘイも付き合ってよ」
「は?」

 ほんとうに「は?」だ。

*3* ( No.4 )
日時: 2017/09/12 22:06
名前: 厳島やよい

「えへへっ、暑いのが気持ちいー」
「頭がおかしくなったのはミカのほうなんじゃない? 熱中症にでもなった?」
「なによっ失礼な。スポドリならここにあるもん。そんなことより、コウヘイもこれに乗りなさい」

 15分ほど歩いて大きなドブ川の橋を渡っていった先、少し細く入り組んだ道を歩いていくと、そこには目新しい小さな公園があった。
 目新しいとはいっても、遊具の錆び具合なんかから察するに、10年前には既にあったんじゃないかと思う。丁度公園を覆い隠すように木が生えていて、今まで橋のほうからは、隣に建っている家の庭のように見えていた。だからまったく気づくことがなかったのだ。この辺りはよく通るのに。
 敷地内には、滑り台と鉄棒、ジャングルジムみたいな球体がくるくる回るやつ(名前を忘れた)と、二人で座れそうなベンチがひとつ、置いてある。隣の家から桜の枝がなだれを起こしそうな勢いで伸びているので、結構日陰にも困らない。そんな穴場にやってきて、彼女は一番にジャングルジムボールに飛び乗った。鞄も背負ったままで。
 そしてひとこと、暑いのが気持ちいい、とこっちが心配になる一言を発したのである。ミカが倒れたら僕の責任にされかねない。おおっとこんな思考はクズだ。

「やだよ、乗り物酔いする体質だから。…………あのねえ、僕は、か弱い女の子が点滴刺して痣だらけの腕になっちゃうような展開になったら、親御さんも君自身もいたたまれないと思って言ってるんだ。ちゃんと話を聞こうか」
「重みのない言葉だねぇへへへへ」
「僕のろくでもない性格にまで感染したみたいだ」

 日影から見える、ぐるぐる回り続けるミカの笑顔がとても幸せそうで、これ以上意味のない説教をする気が綺麗に失せてしまった。
 初恋って、こういうものだっけ。ドラマや映画の中は、失恋するにしろ、付き合うにしろ、もっと中高生らしいシナリオにあふれているのに。文化祭や体育祭でふたりきりになってそういうシーンができあがるとか、夏祭りや初詣に一緒に行く約束をして、浴衣や着物姿の想像をしてドキドキするだとか。そんな少女漫画らしい展開は望まないけど、せめて、両者の面倒な過去は神様とやらに削除してほしかった。
 悪いけどガッカリだ。若者の特権剥奪。

「わたしは、あなたの性格っていうか、生き方、好きだし尊敬するんだけどな」

 だから、いつのまにか目の前に音もなく立っていて、何も悟らせないような笑顔でそう言う彼女に、らしくも"ドキドキ"してしまった。
 中2の夏は、秋は。こんなもんか。

「やっぱり塾行くよ。振り回しちゃってごめん」
「ああ、いや……ばいばい」
「バイバイ! また明日ね!」

 ベンチに座る僕の隣に置いてあったペットボトルを手にとって、彼女は走り出す。いつの間にか結構な分を飲んでいたらしく、指の間から残りもずいぶん少なくなった中味が、きらきら光を反射して見えていた。

「ばい、ばい」

 人影もなくなった眩しい世界で、もう一度、別れの言葉を手のひらに転がしてみる。
 ちょっと気を抜けばすぐにこぼれてしまいそうだったそれが、うるさく存在を主張し始めたとき、同時にミカの笑顔ひとつひとつが、映画のエンドロールのように美しく流れていった。
 葉の擦れる音が聴こえる。風に撫でられて、渦になる。
 違和感の塊。これは胸騒ぎなんだと気がついた。

「ミカっ……、ちょっと、あの」

 きっと今頃は、塾に向かって大通りのほうへ歩いているはずだ。気がつけば僕は、彼女を追いかけて全力疾走していた。
 待って、待って。行っちゃだめだ。
 吐き出す熱気で噎せそうになりながらも、川に沿う急な坂道を駆け上がる。体力なんて無いに等しいけど、そんなの知ったことじゃない。このままだと、ミカが遠くへ行ってしまう気がしてならなかったから。
 ……変化を嫌い、余計な人間関係は広げないようにしてきた僕に、彼女は心地よく、水のように透き通った心で隣に駆けてきた。互いに秘密のひとつやふたつはあるだろう。人から互いの過去を聞いて、思うこともたくさんあっただろう。春の穏やかなひだまり色だった僕らの世界には、段々と暗い場所も見えてきたってことだ。それでも同じ空気を共にしたいと、無言の意思を交わしあったのだから、そんな大切な人に何かが忍び寄っていると気づいて、引き留めずにいられるわけがない。
 坂を上りきりそろそろ限界が近づいてきたというころ、大通りに沿って曲がったほうで太陽に焼かれるアスファルトの真ん中に、求めていた後ろ姿を捉えた。

「ミカ!!」

 彼女が振り返った途端に、僕の後ろから気持ちのいい風が吹き抜けていく。柔らかい髪が舞い上がって、綺麗だと思った。
 そして、無意識のうちに、その細い腕を引いて建物の陰に連れ込んでいた。

「え、なに、コウヘイ、どうしたの?」

 彼女は丸く目を見開いて、顔に流れる髪を、そっと指で耳にかける。

「あ、わたし、なんか忘れ物した?」

 決して涼しいとは言い難い日陰の中で、心なしか、彼女の頬の色が鮮やかに見えたのは、気のせいだったのだろうか。

「うん、した」
「え?」
「僕が、きみに忘れ物をしちゃったから」

 何と言おうか迷った。
 目の前のきれいな瞳が揺れ始める。早く言わなければ、本当に彼女は何処かに行ってしまいそうだと思った。

「言いたいことが、あって」

 どうでもいい言葉はすらすらと口から吐けるのに、大事なときにはそうはいかないから、人間というのはとことん面倒臭い。
 気まずくて視界の脇の道路へと目がいってしまったけれど、ちょうどそのとき信号が変わって、ランドセルを背負った小さな男の子たちが走り出したのが目に飛び込んできた。逃げてはいけないと、自分に鞭を叩き付けられたように思えて、言うしかないと、僕は思いきり息を吸った。
 美佳に出会ってからの集大成を、思いきりぶつける。これまでにないほど素直に。これまでにないほど正直に。

「美佳、ありがとう。僕と友達になってくれて。僕にあのとき、声をかけてくれて。ありがとう」

 これが僕の、精一杯だ。
 好きだとか、付き合ってくださいなんて、そんな、身分に相応しないことは言うつもりもないから。
 きっと、僕がいきなりこんなことを言ったら驚くだろうなと思っていた。けれども、彼女はそんな予想を軽々と裏切った。文字通り、満面の笑みに、なったのだ。

「ふふふふふ、ふふっ」

 それはそれは、とても可愛らしい笑顔だった。
 八重歯に似ているけれどそうではない、少し尖った前歯が覗いて、顔がさっきよりもっと赤くなって。照れているんだなとわかった。こんな顔もするんだなと知った。
 途中から、そんな様子をきょとんと見ていた僕に気がついたのか、恥ずかしそうに両手で顔を塞がれてしまったのだけど。
 あのときの表情を、3年経った今でもはっきり覚えている。

「そっか、そっかそっか、そっかあ」

 ぱしぱし。笑いに吸いとられて弱々しくなった力で、肩を叩かれる。
 その後もしばらく震えているので、大丈夫かとちょっと心配になり始めた頃、深呼吸とともに彼女は勢いよく顔をあげた。もう、恥ずかしそうだった表情は、いつもの柔らかい笑みに戻っていて。

「やっぱり教えてあげる」
「え?」
「声をかけた理由。わたしがきみと一緒にいつづけている理由」

 一瞬、冷たい風が僕たちを包み込んだ。
 拒むような声色で何とも語ろうとしなかった彼女が、こんなにあっさりと、自らそれを破ったなんて。

「もちろん、ちゃんと名前を聞いておきたかったっていうのはあるよ。わたしは委員もやってないし、特に必要もないから、学級名簿なんてなかなかじっくり読めなかったの。ほかの子の名前を覚えるのにも必死だった。わたしバカだからさ、実は、コウヘイの出席番号が一番だったこと、あの時まで気づかなかったんだよ。ほら、有明、じゃん」

 バカなんかじゃ、ないのに。

「そんなこんなで、結構焦ってた。もう一週間以上経つのに、かわいい女の子たちの輪にお情けででも入れてもらえてるわたしが、クラスメートの名前も覚えられないなんて、って。そう思いながら過ごしてたら、あの日、陽に当たってよーく見えたコウヘイの顔がね……その日の朝、鏡の前で見たわたしの顔に、なんだかそっくりだったから。この人となら、もしかしたらわかり合える部分が沢山あるんじゃないかって、素敵な友達になれるんじゃないかって、そう思った。
 あっ、あのね、わたし、春休みに発表された今のクラス編成がいやでいやでたまらなかったの。麗華のことはほんとはあんまり好きじゃなかったし、ていうか今でも好きじゃないし、春休みに慰めてくれてた親友は、別のクラスでわたしのことなんか目に入らないくらい大人数に囲まれて楽しそうに笑ってるし、しかもその大半は知らない子だし。もう、嫌になっちゃって」

 そんなことがあったなんて、思いもしなかった。
 一気にたくさんのことを喋りすぎてしまったようで、ふうぅ、とミカは息を切らしている。呼吸が整うのを待って、うん、それで、と相槌を打つと嬉しそうに、また話の続きをしてくれた。

「国語で習った言葉を使うなら、常住? っていうのかな。それをコウヘイから感じ取ったの。使い方が合ってる気がしないけどね」

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
 おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。
 ────最近国語の授業で習い、先生には悪いけど、内申の為に1日で覚えてしまった文章が、なぜか頭の中に流れていった。あの文章には関係ない……まああるといえばあるかもしれない、けれど、最近違う学習範囲の中で覚えた言葉だ。僕にそんなものがあるだろうか。

「人と関わらないと、広く浅い皆の手に支えられないと、わたしはこうやって立っていられない。でも、きみは…………そんな風に自分を安売りしなくても、しっかりその足で立ってる。嫌われたくなくて、認めてもらいたくて頑張りつづけているわたしとは大違いだって思った。きっとそんなこと言ったら軽蔑されちゃうかなっていう怖さが半分くらいはあったから、言えなかった」
「そんな。軽蔑なんてしないよ。ミカが蔑まれるべきだというなら、僕は一体どうなっちゃうの。たぶん軽く2回は殺されるよね」
「ありがと、コウヘイ」

 冗談なんて言っているつもりはないのに、控えめにまた、ふふふっ、なんて笑われてしまった。気を遣っているのだと思われたかもしれない。

「一緒に居続けている理由は、きっと、そういうこと、なのかも。さーてそろそろ行こうかな」
「そういうこと、って何?」
「ほらほら、どいたどいた」
「えっ、ちょ、待っ」

 やけに発音だけはハキハキと、しかし意味はよくわからないことを言われてしまったので、些か消化不良だ。
 伸ばした手が空を切り、ミカは眩い光の世界にゆっくりと、飛び込んでいった。僕も慌てて追いかけた。

「ねえ待ってよほんとに」
「もう、どーしたの? コウヘイ、今日は何か変じゃない? いきなりありがとうなんて言うし」

 小さな肩を加減もせず掴みそうになってしまったところで、彼女がやっと振り向いてくれた。
 出会った頃より随分長くなった髪が、綺麗に揺れている。太陽に透けて、いつもとは違った美しさを辺りに放っていた。

「変なんかじゃないよ、でも……」
「でも?」

 未来への疑いなんて微塵もないように感じてしまう、そんな澄んだ目を見ていたら、何も言えなくなってしまった。

「…………ごめん、やっぱりなんでもない。また、明日」
「うん、また明日」

 ひらり、と彼女は頭の上で手を振って、背を向けた。
 陽炎の中で小走りの揺れに、セーラーの襟とポニーテールが跳ねている。あれが、学校で元気のなかったミカだなんてことをすっかり忘れてしまえるくらい、日差しもアスファルトも風もあつい。
 あんまり視力の良くない目が彼女を見失った頃、僕もまばらな人の流れに溶け込み、日影を縫って自宅を目指すことにした。
 それからどれほどの時間が経っただろうか。今日の夕飯は何にしようかな、なんて考え始めたときのことだ。遠くから──後ろから、今まで聞いたことがないくらいに大きく、長く、低いのと高いのとがぐちゃぐちゃに混ざりあったようなクラクションが響いてきて、近くを歩いていた人や自転車に乗っていた人たちが一斉にその方向へ振り向いた。もちろん、僕もだ。
 けたたましいクラクションの音は、一向に鳴り止まない。暴走族か何かだろうかとも一瞬は考えたけれども、それにしては突然すぎるし、音の種類が多すぎる。

「おいおい、見ろよこれ! カイトが写真送ってきたぞ!」

 どうしたものかと顔をしかめていたら、ちょうど僕の隣で驚きのあまりに泣きそうになっている女性の、恋人らしき大学生ほどの男の人が、スマホの画面を見せながら彼女に言った。
 僕も失敬して、目を細めて覗きこんでみる。

「コンビニから出てきた途端、車も歩行者も滅茶苦茶だとよ!」
「うそ……?! ねえ、モエは無事なの?」

 少しぶれていたけれど、メッセージに添付されていた数枚の画像には、想像していたよりも凄惨な光景が映っていた。トラックや乗用車が絡んだ、複雑な交通事故が起こったらしい。最後の画像は、植え込みのレンガが割れているのを撮ったものだった。
 ええ、嘘、事故?こんなご時世だもの、薬物とかだったら嫌ね。周りからそんな声が押し寄せるようになってきた。
 写真撮ってるくらいだから絶対平気だよ、と男性は言ったものの、次の瞬間にはスマホを耳に当てて黙りこんでしまった。
 目の前にコンビニがある交差点とと言えばやっぱり、さっきミカが向かっていったほうだ。彼女の身に、何か起こっていたらどうしよう。

「もしもし、カイト? モエも大丈夫か?」

 電話が繋がったのを後ろに聞き流しながら、僕は全速力で走り出した。どうか、無事であってくれと、普段ならその存在を信じもしない神様とやらに祈り続けながら。しかし、そんな都合の良すぎる思考にバチが当たったのかどうなのか、祈りは叶うこともなかった。…………ミカを引き留めさえしなければ。あんな目に、遭わなかったかもしれないのに。
 彼女がこの日、担任と顧問以外に何の前触れも見せず部活をやめたのだと知ったのは、丁度1週間後のこと。
 
 
 
 
 

*4* ( No.5 )
日時: 2017/09/13 22:19
名前: 厳島やよい

「ねえ、良典おじちゃん。母さんはどうして、父さんを殺したの。どうして、自分のことも殺したの」

 風もないというのによく揺れる蝋燭を、力なく座り込み、虚ろな目で見つめながら、幼い頃の僕は座布団にすわる伯父に問いかけていた。目を合わせて問いを投げかけても、居場所のなくなった僕を引き取ってくれた彼は、何も答えてはくれなかった。答えようとしてくれたみたいだけど、開きかけた口は固く引き結び、僕の背中をさすっているばかりだった。
 線香なんて、立てる気になれない。僕はただ、なかなかおさまらない発熱に睡眠を害されて、クーラーの効いた家の中を歩き回っていただけだ。そうしたら、いつも閉じられていた和室の襖が開いていることに気がついて、漏れ出す明かりの中に伯父と、開かれた仏壇と、その中にある両親のうつった写真が、見えただけだ。それ、だけだ。

「母さんは病気にかかってたの? それならどうして治せなかったの?」

 あの日、雷雨から逃れるように学校から帰ってきたとき、もう父さんは。
 自宅の小さなマンションの玄関先に現れた母さんは、赤の滴り落ちる手で震えながら包丁を握りしめていて。しばらく何が起きているのか理解が追い付かなかったのを覚えている。
 よくよくみれば、乱れた髪に隠れている彼女の頬や腕、服の裾にも、手の痕でないかと思しき掠れた色がたくさん付着していた。何があったのとたずねても、まともに呂律が回らず聞き取ることができない。ついには幼児のように泣き出されてしまったので、仕方なくすがりついてくる彼女の手を優しく振りほどき、鼻をつく臭いのするほうへ、靴も乱暴に脱ぎ捨てて必死に走っていった。
 あの日、父さんは仕事が休みで、きっといつものように家にこもっていた。……まさか、母さんがあんなことになっているのは。
 ある程度の予想はしていたものの、リビングにたどり着いて、僕は愕然とした。血だまりの中に、変わり果てた父さんが、倒れている。サスペンスや刑事ドラマとは比べ物にならないくらいの酷い有り様だった。近くの壁や家具にも、飛沫が垂れているし、さっきよりもむんと濃い異臭で、簡単に吐きそうになった。
 立ち尽くす身に、時間差を作って恐怖感が足元から襲ってくる。救急車、救急車を呼ばなくちゃ。それだけを考えて血だまりに背を向け、いつのまにか力の抜けてしまった腰を引きずるように電話の置いてあるほうへ這っていた。脈をみる勇気なんか当然のようにない。
 9歳の僕に今できることなんて、それだけだ。

『はい、119番です。火事ですか? 救急ですか?』

 数コールで相手は出たはずなのに、何分も待たされたような感覚だった。この後警察も呼ばなくてはいけないのかなんて考える余裕はなかった。
 強い口調の相手に答えようとするのに、声が喉に詰まって出てこない。焦る度に、頭の中がどんどん真っ白になっていく。

「コウヘイ」

 そしてついに、何よりも聞きたくなかった、抑揚のおかしな掠れた声が、背後からした。思わず振り返る。いつのまにやって来たんだろう。一度落としたはずの刃物なんかしっかり握っちゃって、泣いていたのが嘘みたいな渇いた目をしちゃって。
 綺麗な手が明らかに使い方を誤っている包丁を逆手に構えていることに気がついたとき、コードの繋がった受話器が、音もなく滑り落ちていった。

「いっしょに行こうって約束したのに、私だけ置いていってしまうなんて。意味がわからない、どうして、どうしてどうして」
「な、に言ってるの……母さん」
「ひとりぼっちなんて堪えられない」
「母さん?」
「ひとりぼっちなんて嫌、ぜったいに嫌……はやく、おいかけなきゃ」
「ねえ、僕がここにいるよ。救急車だって呼ぶよ、ねえ、母さ────」

 彼女はそのまま、僕の言葉も聞こえていないという風に、両手を振り上げて腹のほうへ押し込んだ。すこし遅れて呻き声が上がる。

「大好きな青い色がね、んうう、見えなくなったの。あの人は私のことを病気だって言う……こんなに元気は、あるのに。病んでるのは稔のほう」
「母さん、僕の話、聞いてよ」

 清々しいほど噛み合わない会話に、目が回ってきた。
 ぶら下がった受話器からは、異変を察知した相手の大きな声がかすかに聞こえていたけれど、もうそんな声もしない。ただ、通話状態は切れていないらしく、この部屋は恐ろしいほど静かだ。この梅雨時の湿度を嫌う母さんのために電源をいれてあるエアコンの音以外、この瞬間は何も聞こえなかった。
 母さんは俯いたまま動かないし、こんな状況にやっと涙がでてきそうになったし、そのときにまた、1秒でも早く受話器を取っていればよかったのに。それなのに、しずくになって新しく汚れをつくっていく血液に目を奪われていた僕は、呆れるほど愚かだ。
 気づいたときには、彼女に何の前触れもなくいきなり押し倒され、腹に刺さっていたそれは喉元に向けられていた。
 すぐ近くで錆びた鉄みたいな臭いがする。熱いものがねっとりと垂れて、僕のシャツへ、腹へ、胸へ伝ってくる。さっきの生気のない目が嘘のように黒い瞳をぎらぎら輝かせているのを見て、もう駄目だと悟った。
 もうすぐ、死ぬのだ。

「あんただけ……痛みも、苦しみもなくのうのうと生き続ける……なんて…………そんなの、許せないから」

 荒い息が不規則に僕の髪を揺らしている。
 どうしてそんなことを言うの。僕は母さんのこと、大好きなのにな。フライパンを揺らしながら、おはよう、と笑いかけてくれる母さん。朝はいつも玄関で見送ってくれる母さん。僕がうまれたときのことを嬉しそうに語っている母さん。閉じた瞼の裏に映し出されるそんな記憶たちの合間に、段々と父さんの笑顔や言葉も混ざるようになってきて、情けなくも涙が溢れた。だって、この思い出は。ほとんど昔のものばっかりだ。なんでこんなことに、なってしまったんだろう。思い当たることならいくつかあるけど、考えたくもない。
 ……3人で死ぬのなら、また、父さんとも母さんとも、いっしょにいられるんだよね。きっと、その時には母さんが苦しむこともなくなってるよね。だから、

「殺していいよ、母さん」

 目を開くと、彼女の表情がみるみるうちに変化してくのがわかった。ぼやける視界でも、母さんが、母さんに静かに戻っていくのがよくわかった。耳元で包丁が倒れるとき、頬にわずかな痛みが走ったけど、そんなこと、どうでもよかった。

「……どうして」

 それはまるで、彼女に取り憑いていた悪魔が、剥がれ落ちていくみたいで。

「私、なんてことを」

 ああ、よかった。
 母さんが、かえってきたんだ。
 僕によく似た瞳から大粒の涙がこぼれてくる。正気に戻った彼女に抱きしめられると、心の底から安心して、気を失ってしまった。不思議と、ぬるい血の感触が不快に感じなかった。

「ごめんね、こうちゃん。ごめんね……ごめんなさい…………」

 僕が気絶したことにも気づかず、そのまま、震える母さんも意識を手放していったのだろう。もう二度と悪魔の付け入る隙を作るまいと、そうしたのかもしれない。たとえ血にまみれた最期でも、母さんは僕を愛しきってくれた。それ"だけ"は、死ぬほど嬉しいことだ。
 この事件は当時の家の周りを騒然とさせ、数時間はテレビやラジオの中で報道されたこともあったらしい。偉そうなコメンテーターが、息子の精神状態を気にかけているだの、母親が生きていた場合どうなるだのと好き勝手言及していたようだが、政治家の汚職疑惑や、豪雨による冠水で地方に避難勧告が出されたことなど、次々と溢れ出す大きなニュースにかき消されていってしまった。また、被害者の一人である僕が未成年であることも考慮されて親子共に氏名が伏せられていたため、あの町の一部の住人以外、ほとんどのひとが僕らのことを忘れているだろう。
 その後、警察から話を聞かれてから、名前も知らない遠い親戚の家でお世話になっていた数日の間、僕を引き取るのは父方の祖父母の家か、伯父の家か、長時間に及んで議論が重ねられていた。結論としては、遠方の田舎町に住む祖父母より、同じ都内にある伯父の家で預かるほうが僕は暮らしやすいだろうということで、今に至っている。

「いっぱい食べて、大きくなれよ。お正月には、たっくさんお餅ついて、待っとるからな」

 東京駅でお見送りをしたとき、そう言って頭をくしゃくしゃになでてくれた祖父は、その年の冬から、本当にたくさんのお餅を作って祖母と待ってくれるようになった。
 今までほとんど会ったことも話したこともなかった祖父母と交流を持つようになったり、遺品整理や引っ越しをしたり、転校したり。落ち込む暇もなくなって、油断をしすぎていたのかもしれない。忙しい日々に一段落ついた夏休みのある日、高熱を出して寝込んだのを境に、比較的明るいほうだと言われていた僕の性格は、段々と暗くなっていった。
 そして、両親が亡くなった丁度一年後。青色だけが、霞んで見えることに気がついた。

*5* ( No.6 )
日時: 2017/09/16 01:43
名前: 厳島やよい

 ひとには気づかれないようにしているけれど、僕はあの日から脱け殻のように虚しく生きている。周囲の情報を可能な限りシャットアウトして、ただ呼吸を繰り返し、学校にだけはなんとか通い続けていた。言うなれば、ほとんどミカと出会う前と変わらない生活を送っていたつもりだ。
 少なくとも颯真とおじさんだけは僕の様子がおかしいことを見抜いて、そっとフォローしてくれた。カウンセラーのところに回されたくなくてたまらなかったことに、気づいてくれたかどうかはわからない。
 あの子のお見舞いに行くよう提案してきたのも颯真で、彼が渡してくれた、病院への行き方なんかがわかりやすく記されているルーズリーフの用紙を片手にひとりで下校した。午後の4時を過ぎた頃に学校から帰ってきた僕は、余計な荷物をかばんから吐き捨てた後、もう一度家を出た。
 事故から丁度一週間が経っている。あの日の暑さがまぼろしのように辺りは秋が満ちていて、寒がりにとっては少々辛い。マフラーも巻いてくればよかったかななんて思ったけど、家に戻れば次のバスを逃してしまう時間だったし、列に並ぶ人の中にそんな重装備の人なんて誰ひとりとしていないので、ひたすらに堪えつづけていた。
 耐久戦に勝ち抜いて、お気に入りの座席にすわることができたという点においてはまあ文句はない。けれども、窓から眺める景色は、夕焼けに染まって何度も揺れてはブレていて、僕の目にはちょっと優しくなかった。赤い色が、あの日のミカに、見えて。
 彼女のほかにも巻き込まれた歩行者は結構多く、あの交差点は変わり果てた様になっていた。車なんて、あれほど簡単に潰れてしまうんだと、初めて知った。
 誰のものかもわからないくらいに混じりあった鮮血の中で、倒れている彼女。ガラスの破片が頬の上で鈍くきらめいていたのをよく覚えている。その姿が、父に、母に、重なって。死んでしまうのか、いや、死んでしまったのか。混乱して、狂いそうで。やっと正気を取り戻したのは、見知らぬ人に歩道の隅で背中をさすられながら、差し出されたビニール袋の中に嘔吐した直後だった。そういえば、あの人にちゃんとお礼言ったっけ。

「須藤さんの病室へ? それなら、西通路からまわって行かれたほうがいいですよ」
「え?」

 そんなこんなで重たい足を引きずり続ける。受付でのろのろ手続きを済ませていると、若い看護師の女性に脇から声をかけられた。

「実は、マスコミの方がちらほら待ち伏せしているらしくて……私達もできるだけ、敷地内からは追い出すようにしてるんですが」

 ああ、そういうことか。
 心ないだなんて言うつもりはない。彼らもそれが商売で、家族や自分の身が懸かっているかもしれないのだ。ただ、夕食前にはなるべく帰っておきたいので、余計な時間は取られたくない。わかりましたと頭を下げ、僕は彼女の言う通り、遠回りをして目的の病室へ向かうことにした。
 もうすぐ、日もとっぷり暮れる。


*


 特に迷うことも、誰かにつっかかれることもなく、5階のはじに位置する病室の前にたどり着くことができた。名札には、須藤美佳の文字。それを目にした途端、最後に言われた言葉や、あの特上の笑顔が、否が応にも浮かび上がってきた。
 ……そういえば、これまでずっと、何も考えないでいるか、考えたとしても嫌なことばかり頭の中でループさせて、素敵な記憶を捨てかけていたな。まるで、誰かさんみたいだ。
 ふう、と息をついて、おそるおそる、ドアを叩く。

「どうぞ」

 中から聞こえてきた明るい声は、以前のミカとほぼ変わりない澄んだものだった。
 事故当時は周りの状況も相まって、彼女は命に関わるほどの重傷を負っていると脳が錯覚していたけれど、本人はまあまあ元気なようだ。

「ひさしぶり、ミカ……お見舞いにきたんだ」
「あれっ、お母さんじゃないのね」
「ん?」

 二重になっている個室の扉を順に開いていき、ベッドの中で身体を起こしている、あちこちに包帯やらガーゼやらを当てられて白くなっている彼女に挨拶をした、の、だが。
 なんだか様子がおかしい。しゃべり方も、その抑揚も、視線の向けられ方も、僕の知っている彼女とは微妙にズレがあるようだ。その曖昧な違和感が、次に彼女の口から飛び出してきた言葉で、確信に変わらざるをえなくなった。

「あなた、どうしてわたしの名前を知っているの?」

 色褪せたオレンジ色が、大きな窓ガラスの隅からほろりとこぼれだした。
 どうして、って。
 きっかり20秒ほど、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
 返事が思いつかない。そんな。そんなことって。
 さまよいはじめた視線に従って、僕は何度も、彼女の綺麗な容姿を確かめるように眺めていた。でも、何度見たってミカはミカで。
 そのうちに、小さく首をかしげる彼女と、目が合ってしまった。……あれ、左目が大きな脱脂綿で塞がっている。ガラスでも入ってしまったのか。

「ああ、そういえばわたし、学校に通ってたんだものね。なんだか、うっすらとあなたに見覚えがある気がする。部活でいっしょだったっけ? わたし、なんか急に辞めちゃったらしいよね、ごめん」

 ふるふる、と頭を揺らして否定する。
 少しおしゃべりなところは変わっていない。でも、目の前のこの人が、部分的にしろ完全なものにしろ、記憶を失ってしまったということは認めなければならないようだった。

「じゃあ、クラスメートさん? …………あ、それとももしかして、わたしの恋人だったりするのかしら、なんて」
「そうだよ」
「え?」

 気がつくと、僕はベッドのそばの椅子に腰を下ろす僕自身と、目を見開く彼女を離れたところから見つめていた。
 なんで、そんな嘘をついているの。問いかけたいのに、冗談だよと言いたいのに、ひどく疲れきった横顔を見せる僕に、この手は、声は届かなかった。一体どうしてしまったのだろう。

「事故の前から付き合ってるんだよ。僕ときみは、クラスメートでもあり、恋人同士だ」

 真ん丸なミカの右目は、その別の誰かの声でさらに大きくなった。
 嘘つき、早く、はやく冗談だって言えよ。何笑ってんだよクソが、気持ち悪いな。僕はパニックに陥りそうだというのに、そいつは薄気味悪い笑みを浮かべながらミカに近づいていくし、驚く彼女も可愛いな、なんてどこか呑気に考えている自分もいる。おかしい、おかしいおかしい。変だ。なんで。

「あのとき、目の前で血を流すきみを見て、ショックを受けてしまったみたいで。今までお見舞いにこられなくてごめんね」
「そ、んな、気にしないで」

 戸惑いながらも嬉しそうな表情になる彼女を見ながら、やっぱりミカは優しいな、なんてほざいている自分は、やっぱりとても気持ちが悪かった。

「改めまして、有明恒平です。寂しくなったら呼んでね。学校じゃなければ、すぐ飛んでくからさ」
「うん、わかった。よろしくね」

 屈託なく笑って受け入れてくれたミカも、よくよく考えてみれば異常なんじゃないかと思う。見ず知らずの男にいきなり恋人なのだと言われ、証拠も提示させず、ひとつだって思い出話などをたずねることもなく。きっと僕らはこの瞬間、決定的に壊れ始めたのだと思う。
 他愛もない話が繰り広げられ、僕の頭もやっと冷えてきたころ、丁度いいタイミングといったように彼女の母親がやってきた。花を生けにでも行っていたのだろうか、小さな体に花瓶と大きなかごを抱えているのに、その人は僕を見るなり明るい顔で微笑んだ。あんまり美佳には似てないな、というのが率直な感想だ。引っ越してきてから、母親と二人暮らしなのか。 

「あら、お友達? 男の子だなんて、珍しい」

 あ、はい、なんて口が開きそうになった瞬間、掛け布団の下からブレザーの裾をちゅんと引っ張られた。…………内緒にして。声こそ聞こえないものの、わかりやすく空回りさせた唇を読んで、僕はそのまま、好感を抱いていただくための笑顔になった。

「こんにちは、クラスメートの有明恒平です。友達から話を聞いて……早く美佳には、元気になってほしいですから」
「ま、嬉しい。時間があるならゆっくりしてって。リンゴとお茶、用意するから」
「気にしないでください。す、すぐおいとましますから」
「いーのよ、いーのよ」

 荷物を抱えて帰ってきたばかりだというのに、彼女は何てことないように、部屋の隅にある棚の中から一式の道具を次々に取り出していく。本音建前関係なく、余計な手間をかけさせてしまう申し訳なさで足が先に動いていた。
 ふたりは顔は似ていないけど、何だか親子らしい共通点が見えたかもしれない。

「ならせめて、僕にも手伝わせてください」
「それじゃ、せっかくだから頼んじゃおうかな」

 そんなわけで、僕は、食器やリンゴなどが入ったかごを運ばせてもらうことにした。両手で抱えたそれは意外と重たくて、やっぱり声をかけてよかったと思った。

「いってらっしゃい」

 ミカが、僕と彼女の母親を交互に見て、微笑みながら手を振ってくる。僕らも手を振り返して、静かに病室を出ていった。

 ────そういえばお前、あの子が搬送される直前まで傍にいたってこと、母親に知られてないんだな

 廊下を歩いている途中、僕の声が耳のすぐ近くで聞こえた。あいつだ。ミカに嘘を吐いた、屑だ。
 いつのまにか患者さんや看護婦さんたちの声が響く6人部屋のエリアに入っていた。僕の前を歩く彼女は、近くの病室の中を時々そっと覗きながら、緩やかな歩幅で進んでいく。

 ────屑ってことは、ないでしょう。あんまり反抗的だと、あとで痛い目見るよ?

 そっくりそのまま同じ言葉を返してやりたい。勝手に独立したもうひとりの僕は、それからしばらくケタケタと笑いつづけていた。
 戦時中を生き抜いたのであろう老人の、悪夢にうなされている声が聞こえる。彼がいくら付き添いのナースに宥められても、悲痛な叫びは止むことはない。僕じゃあ、こんなところに長いこといたら、頭がおかしくなってしまいそうだ。いや、もうなってるけど。

 ────まあ仲良くしようよ。僕はきみで、きみは僕なんだから

「あ、ここだよ、給湯室」

 僕の中で怒りが振りきれそうになったとき、ミカよりひとまわり分小さな彼女が振り返って照明のスイッチを入れた。その瞬間、気味の悪い笑い声もぴたりと収まり、世界が幾分か静かになった。

「……結構遠いんですね。大変じゃないですか?」
「そんなことないよ。それに、あの子にはできるだけ、落ち着く場所にいてほしかったから。ここの隣にはコインランドリーもあるし、それよりも奥のほうにはお風呂とかもあるでしょ、それでどうしても騒がしくなっちゃうの」
「なるほど」

 僕は話を聞きながら、かごの中の食器やまな板と林檎を、順に広げていった。

「まあ、それほど重傷でもないからって、5階になっちゃったんだけどね。ここよりも上の階の個室だと、浴室もトイレも洗面台も付いてるの。超便利」

 ワガママが言えるならそっちがよかったんだけど、しょうがないもんね。彼女は笑いながら言ってみせる。あれから意識が回復していない人だっているのだからと。

「ミカの外傷も、右手の軽い骨折と、左脚にヒビが入ったのと……あとは、目を、傷めてしまっただけだし」
「あ、そういえば、左目ってどうしたんですか?」
「ちょっとガラスが、入っちゃってね。手術したの」
「えっ」

 何となくわかってはいたことだけど、やっぱり、こう事実として伝えられると驚いてしまうもので。手が止まってしまった。

「あっ、手術っていってもそんな大袈裟なものじゃないし、別に視力が急激に落ちたり、とかいうことはないの。ただ…………」
「ただ?」
「ううん、何でもない。そんなことより恒平くん」
「はい……?」

 ざくり。彼女の手の中で音を立てて、赤い林檎が真っぷたつに割れる。
 急に何も話さなくなったので、思わず視線が上がった。そこで捉えた横顔は、何故か恐ろしいほどミカに似て見えた。

「もう知ってるだろうけど。あの子、事故が起こる前のことをほとんど覚えてないんだ」

 ああ、やっぱりそれが本題なのか。

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