ダーク・ファンタジー小説

青、きみを繋いで。
日時: 2018/02/23 04:03
名前: 厳島やよい

@sousaku_okiba_様より
お題『青春と呼べるほど、綺麗じゃない』

流血表現など入ります。物語の長さの割に矛盾点など多いかもです。苦手な方はご注意ください。


○おもな登場人物○

有明恒平(ありあけ こうへい)……父方の叔父とふたり暮らし
須藤美佳(すどう みか)……中1の春に母とふたりで越してきた

紫水雨音(しすい あまね)……コウヘイの家のお隣さんで昔からの友達
嶋川颯真(しまかわ ふうま)……コウヘイの友達。密かにミカを好いている
天宮城麗華(うぶしろ れいか)……中学のとき、ミカをいじめていた

奥羽晃一(おうば こういち)……ミカの兄。 自殺した。享年16歳
 

Page:1 2 3 4 5



*7* ( No.17 )
日時: 2017/12/05 06:44
名前: 厳島やよい

「えっ、と…………え?」

 それが彼の、突然の大告白だと気づくのに、きっかり10秒もかかってしまった。
 いや、知ってましたよ。だなんて、口が裂けても言えないけど。これはどこからどう答えれば良いのだろう。少なくとも颯真くんのときみたいにはしないほうがいいのかな、ほどにしか頭が回らない。
 頬どころか耳たぶの端まで真っ赤に染めている彼を前に、わたしはどうしたらいいのだろう。正解は?模範解答は?
 あの子のときもそうだったけど、こうして恋愛感情を剥き出しにされるのって、なんだか少し恐ろしいというか、気持ち悪いというか。相手が自分も好きな人だったら、たとえば……コウヘイだったら、こんなことは考えないのだろうか。

「あっえっ、その、ありがとうございます、すみませんでしたごめんなさいっ!」

 この熱のある空気に耐えきれず、わたしはそう言って、逃げるようにその場から走り去った。彼がどんな顔をしていたかなんて確かめる勇気はない。すぐに背を向けて、死ぬ気で、とりあえず荷物をおいてあるままの教室に帰る。

「どっ、どーしたのよミカ?」
「へへへ、なんでもないよお、ふううふふふ」

 さっきまで委員会の集まりに出ていたという、残っていた女の子にぎょっとした顔で訊ねられてしまった。本当にわたしって、誤魔化すのとか嘘をつくとかっていうのが下手っぴいだ。
 クーラーの効いた教室は、空気も気持ちよく乾いている。窓から見えるまだ入道雲ばかりが連なっている9月の空が、なぜだかとても穏やかなものに見えた。

「ねえ、もしかして、誰かにコクられでもした?」

 ぎくっ。
 そんな音が背中あたりから聞こえるようだった。
 振り返ると、彼女はわかりやすくにやついている。そういえばこの子、最近隣のクラスの彼氏との3ヶ月記念をサプライズで祝われたとかなんとか、誰かと話してたっけ。わたしがとやかく言えることではないけど、毎度そんなことをしていて互いに疲れないのだろうか。

「やだなあ、そういう冗談はエイプリルフールにとっておきなって」
「ん? エイプリルフールは嘘をついていい日じゃなかったっけ?」
「まあなんでもいいじゃん」

 もう、どいつもこいつも!
 ちょっと休憩してから帰ろうと思ったけど、それじゃあ余計に激痛の腹を探られるだけじゃないの。あー帰る、帰るぞ。
 じゃあ頑張ってね、ばいばーい。と互いに身勝手な挨拶を押し付け合って廊下に出る。足取りは史上最悪に重い。重たすぎて床を割りそうだ。どうしよう。もう伊予先輩の顔を見られないかもしれない。話せない、会いたくない、ぐちぐちぐち。
 そんなこんなでこの国の蒸し暑さへの不満とできたてほやほやの絶望にまみれながら、汗臭い、もう誰もいない靴箱にたどり着いた。このような状態でお勉強をしないといけないのかと思うと、憂鬱以外の何物でもない。

「あんたなんかいなければよかったのに」

 上履きを脱いで床にうずくまっていると、すぐそばからそんな声が降ってきた。
 ついに幻聴でも始まったか。自滅への道なら何も今歩き始めなくたっていいじゃない。むしろ遅すぎる。と、思ったのも束の間、軽く蹴られたらしい。身体の軸が折れたみたいに揺らいで、反射的に手のひらが床についた。
 さっき掃除されたばかりだというのにもう砂だらけの床へ、ぺたんと座り込んでしまう。

「あんたなんか、死んじゃえばいいのに」

 低くて小さな声の主を見上げる。
 垂らした前髪の影から覗いた顔は。

「れい、か?」

 さっき見た伊予先輩のそれとは違う意味で真っ赤に染まっていて、今もなお目から溢れつづけている涙でぐしゃぐしゃになっている。唇の色が端からうっすら滲んでいて、色つきのリップクリームを塗っているらしいことに気がついた。もちろん、そんなの先生や女の先輩に見つかったらスカート丈のことより酷く叱られるだろう。
 …………まさか、さっきの物音の正体って。

「ミカっていてもいなくてもどんどん周りを不幸にしていくよね。しかもあたしばっかり。すっげえ迷惑だね。生きてても死んでもごみだよきっとごみ、いやごみ以下だよ。あーーーーーーーーーあ、クソだわまじで」

 幸いにも、そんな稚拙な暴言を吐かれている間わたしの身には何も起こらなかったのだけど、精神的には相応の痛みを感じた。数年前のお母さんの心境と、今の彼女は表面上なんとなく似ている。
 こんなんじゃ、わたし、この子の前でしぶとく生き続けることも、この子の前で自殺することも出来ないじゃないか。いや、よほどのことがない限りは本当に死ぬつもりなんてないけど。……どっちにしても周囲には被害者面を向けるのだろう、彼女は。最悪「いじめなんて須藤美佳の虚言です」とか無理を通しかねない。お兄ちゃんも軽微な虚言癖があったみたいだから、警察や颯真くんなんかが下手に動く騒ぎになれば、わたしは勝手な病気扱いを受けるかもしれない。そんなのごめんだ。あーっ、お兄ちゃんを悪く言っているわけじゃないんだよ、許して。
 痛いな、心が痛いな。伊予先輩はわたしなんかじゃなくて、麗華を好きになってくれればよかったのに。そうすればすべてがまーるく収まって、みんな平和でハッピーになれたのに。
 更にひとことふたこと、彼女は飛んでくる唾とともになにかを言い捨ててどこかに消えていったけれど、その足音でさえただのノイズにしか聞こえなくなったから、何を言っていたかなんてまったく思い出せない。これから彼女の声だけ頭が認識できなくなりそう。きょひはんのうというやつだ。

「ミカ、あんたもしかして、いつもあんなこと言われてんの?」

 そのせいか、直後にすぐそばからしたその声も半分くらい母音しか聞き取れず「だいじょーぶー、生きてるかー」と目の前で手をひらひらされた。

「ぁあ、雨音ちゃん」

 かすれた声が出てくる。

「よかった生きてて。つーか、ちゃん付けやめてよ、なんかキモい」
「雨音ちゃんはどうしてこんなところにー?」
「人の話を聞け! んん…………なんか練習に集中できなくってさ、部員に迷惑かけたくないし、ひとりで外周でも走ろうかと思って」
「そっかあ」

 何だかんだできちんと質問に答えてくれるので、雨音ちゃんはとても優しい。
 彼女が差しだしてきた手のひらに支えられて、立ち上がった。ほんの少しだけ、目の前がふうっと暗くなったけど、気のせいだろうか。

「ねえ、ミカ大丈夫? すっげー疲れてるみたいに見えるんだけど」
「錯覚でしょ、錯覚」
「……そう」

 そうだ、こんなところで、あんな人間のために落ち込んでいる暇はないのだ。
 のろのろと上靴を脱いで、ついさっきまで履いていた生ぬるいスニーカーへ再度足を突っ込む。そうだ、須藤美佳。そのまま走り出せば、あの冷房キンキンな塾にきっと一瞬でたどりつくぞ。

「じゃあ、わたし、ちょこっとだけ急いでるので」
「ああ、そりゃ悪かったね、気をつけて」
「うん」

 本来の目的も忘れたまま立ち尽くしている雨音ちゃんに見送られ、彼女の視界から消えるまではゆっくりゆっくり歩いていったけれど、最初の角を曲がり、頭がとけていきそうな暑さを実感した途端、自覚するよりも早く脚は動き始めた。

「うおおおおおお」

 そうだ、走っているのだ。熱風を巻き起こし、奇声を発しながら。
 やっていられない。好きとか死んじゃえとか大丈夫かとか、こんなに短い間に色々な言葉を浴びてしまって、やっていられない。
 何故かリコーダーをぴいひょろろと吹き鳴らしながら歩いている小学生には変質者に向けるような目で見られてしまったけれど、そんなことを気にしたところでわたしの人生は後ろ向きのまま何ら変わらないし、ていうか本当に変質者なんだからね。自分でも何を言ってるのかよくわからないけどもういい。まじでやってられない。
 このまま、この照りつける暑さで脳みそも骨も全部溶けちゃえばいいのにと本気で思う。でもそうしたらわたしは死んじゃう。そんなのはいやだなあ。

「はーはっ、はー………………はああ」

 気がついたら自販機に頭をぶつけ息を切らしていた。しかも笑いながら。倒れる前に水分補給をしよう。
 後々面倒なことになるので今まで誰にも言ったことはないけれど、塾のある日は鞄に小銭入れを忍ばせてある。以前から、部活帰りの同年代の人たちで賑わう時間帯をなるべく避けて予定を組んでいるため、帰りは大体彼らと入れ違いになる夕飯時。だから近くのコンビニで、飲み物やおにぎりなんかを軽く買ったりするのだ。もちろん、毎回ではないけれど。
 あそこはわたし以外、隣の中学や知らない高校に通っているような人たちばかりだから、先生に告げ口されることもないだろう、と見込んでいる。それこそ麗華たちに盗まれたりしたら、わたしはご臨終するかもしれない。いや死なないけど!!!
 取り出し口に落ちてきたスポーツドリンクを手にとって、頬に押しつける。なんとも心地よく冷たい。

「お?」

 そうして、右向け右の号令を掛けようとしたとき、てってれーん、といかにもな古くさい音が自販機から聞こえてきた。まさかと思って見てみれば、ルーレットの表示がオールラッキーセブンになっているではないか。お、おお?当たっちゃった?
 喜びにまかせて小躍りしたい気持ちを抑えこみながら、伸ばした人差し指をふらつかせる。この中で一番お値段が高いのはコーラだけど、苦手だしなあ。かといってコーヒーでも飲めないし、お茶だなんてつまらないしもったいないし。
 そうこうしていたら、カウントダウンらしい数字がとうとう1桁になってしまった。
 ええい、もうさっきと同じやつでいいや。







 と、いうわけで今現在に至る。色々と省略しすぎている気もするけど。

「ほんとにきみは突然わけのわからないことをするんだね」
「そんなにわたし、何度も変なことしてる?」

 わたしの運が当ててくれたもう1本のスポーツドリンクを手に、後ろを歩くコウヘイ(ついでに学校への金銭持ち込みという秘密もその手に握られている)はまさに汗びっしょりといった様子だ。きっと彼も早く涼しい我が家に帰りたいのだろうに、ふたつ返事でわたしなんかのおサボりに付き合ってくれるとは。やっぱり、ふたりはよく似ている。

「そういえば、そんなにしてないかも」
「でっしょー? ひとを簡単に変人扱いしなーいの」
「…………」
「こら、そこは元気よく返事をしなさい」

 物理的にも精神的にも後ろ向きに歩きながら、ビシッとご指導を入れる。
 すると、突然思い出したのか、脇見歩行をしながら彼が口を開いた。余計な力が入っていないその目元、きれいで好きだなあ。

「ミカ、最近元気ないねって、掃除のときに女子が言ってた」
「え?」

 思わず足が止まる。
 行方不明、脈絡14歳。捜索状況は依然困難となっています…………ではなくて。

「僕って、ひとの繊細な変化とか気持ちとかよくわからないんだけどさ、それでも今朝のミカは、少しいつもと違うような感じがしたよ」

 今朝。
 いまよりは幾分か空気が軽くて、たしか蝉が鳴いていて、足元には鏡みたいに綺麗に透きとおった水溜まりがたくさんできていた。
 家の窓から見た広い空。目にしみる強い風……机の上にあった退部届け。
 どうした?
 自分のものか、コウヘイのものかもわからない声が耳の奥に響く。

────……好きな人とかさ、いる?
────そう。わたしはね、わたしは、いる。好きな人

 閉じられた紫の傘、濡れていくあの子の長くてきれいな髪、初めて見た彼の私服姿。

「ねえ、ミカ」

 頭がぼうっとしてきて、足元が柔らかく感じかけた瞬間、コウヘイの顔がぐんと近づいてきて、目が覚めた。目が覚めた、だなんて、さっきまで夢を見ていたような言い方はおかしいけど、まさにそんな感覚がわたしの表面に降り立ったのだから、仕方ない。
 あれ、なんか、変だ。なにかが。わたしの頭がおかしいのかな?

「大丈夫?」
「え、すっごく元気だよわたし!」
「…………なら、いいんだけどね」

 暗い色の目をわずかに細めた彼に向かって薄っぺらい偽りの笑いを吐き出しながら、今度は前を向いて歩き始めた。幸いにも、コウヘイは目的地に到着するまで後ろで一定の距離を空けたままついてきてくれていたので、わたしはずっと黙っていた。彼も何も話さなかった。








 こんなところに公園があったなんて初めて知ったよ。そう言ってわたしを追い越し、入り口に向かって駆けていく彼の動きをじっと見詰めながら思う。さっきから喉に引っ掛かっているこの違和感はなんだろう。そもそもどうして違和感など抱いているのだろう。
 木陰が濃く落ちたベンチに倒れこむように腰掛けたコウヘイは、さっきまでの沈黙が嘘のように「あーあっつい」「やべえ」なんて言いながらシャツを緩めたり、ジュースを飲んだりしている。わたしが中に入ってこないことにも気がついていないらしい。
 変に心配されたくはないので、ここはひとつ、童心に返ったつもりで。

「うわーいっ」

 何度ここに来てもいちばん始めに目に留まる、わたしのお気に入りの遊具に飛び乗った。塗装が剥げ、錆びて真っ黒な部分を掴んでしまってこれまた熱い。
 わたしがここを見つけたのは、この町に引っ越してきた日だ。次の日とかじゃなく、その日だ。力仕事が苦手で、特にすることもなく邪魔者となってしまったわたしは食糧の調達という大切なお仕事をこなしていたのだけど、例のごとく体力は足りないし、ついさっきやって来たばかりの街を歩き回るなどという大変なことをして疲れたので、一休みできそうな場所にここを選んだ。袋の中には生卵なんかも入っているため、買い物用のメモを手渡された瞬間から自転車を使うのは諦めていたのだ。一足早く真っ白な桜が咲きはじめていたあの景色は、きれいだった。

「えへへっ、暑いのが気持ちいー」

 前に住んでたとこじゃ、これ、子どもたちには回旋塔って呼ばれていたっけ。お母さんには、回旋塔じゃあないと言われてしまったけど────あれ、何で違うんだっけ。帰ったらネットで調べよう。

「頭がおかしくなったのはミカのほうなんじゃない? 熱中症にでもなった?」
「なによっ失礼な。スポドリならここにあるもん。そんなことより、コウヘイもこれに乗りなさい」

 彼の表情はわたしが一周回る度に絶妙に変化していく、なんていうことはなく、真顔のまま鼻の頭に浮かぶ汗の粒を手の甲で拭うだけだ。

「やだよ、乗り物酔いする体質だから。…………あのねえ、僕は、か弱い女の子が点滴刺して痣だらけの腕になっちゃうような展開になったら、親御さんも君自身もいたたまれないと思って言ってるんだ。ちゃんと話を聞こうか」

 そんな台詞を聞きながらも、なんだかコウヘイの声が近くなったり遠くなったりする感覚にとりつかれる。彼の言うとおり暑さでおかしくなっているのかもしれない。
 ひょうんっと乾いた砂の上に着地してから、わたしは何か一言二言、自分自身に対してか彼に対して言っていた気がするけど、思い出せない。

「やっぱり塾行くよ。振り回しちゃってごめん」
「ああ、いや……ばいばい」
「バイバイ! また明日ね!」

 鞄をきちんと背負い直し手を振って、公園の出口に向かって走り出す。
 嘘をついて、隠して、罵られて、わがままやって他人をふりまわして、わたしって嫌な人間になったなと思う。いつからこうなってしまったのかな。ああ、でも、いつから、なんて馬鹿みたい。物心ついたときからじゃないの。

「あ、忘れ物してるよ、ミカ」

 水の中に潜ったときのようにくぐもって聞こえてきた声で、わたしは無意識にこの足を止めて振り返った。
 視界もぼやけて、彼に当たる太陽の光がやけに白く眩しい。

「言いたいことが、あってさ」

「美佳、ありがとう。僕と友達になってくれて。あのとき、声をかけてくれて、ありがとう」

 あれ、なんか、やっぱり違う。

「ふふふふふ、ふふっ」

 だれだろう。何もかもを忘れて笑ってなどいるのは。
 数瞬、音もなく辺りが真っ暗に陰ったかと思えば、それはすぐに消え去っていく。彼はまばゆい光の中に突然現れたおさない少年を突き飛ばすように駆け出した。そのかわりに、少年に向かっていたはずの陰の固まりをその身に一心に受けて。

「こう、へい」

 コウヘイの背中が、弾けていった。跡形もなく。

「だめだよそんなの」

 ひどい蒸し暑さも、緑色に濁った川から漂ういやな臭いも、ジュースの味も風の感触も全部本物なのに、ちがう。ちがう。ちがう、ちがうちがちがが、ち、が…………………血と、肉が、残っただけだ。また。

「ぎ    っ、               ぁああああああああああああ、う、っっっっ






*8* ( No.18 )
日時: 2017/12/29 23:29
名前: 厳島やよい

 いつのまにか、自分の部屋の一角で叫んでいた。豆電球の明かりもない闇の中で、ドアノブに、必死に震える手を伸ばしながら。
 そうか、夢だったんだ、あれは。だから時々事実と異なる部分が見えたり聞こえたり、自分と彼がすり変わってしまっていたんだ。
 でもコウヘイが助けたあの男の子は、わたしが怪我をした理由でもある子だったのは確かで。気を失う直前に間一髪で無傷だった彼を見たのが最後だけど、元気にしているだろうか。
 もうあれから3年も経とうとしているなんて、信じられない。

「こわいね、ミカ、こわいね、こわかったね」

 なぜか涙声のお母さんに抱き締められて、赤子でも宥めるように、熱い頭を撫でられていた。パジャマはぐっしょりと汗で濡れていて、布地がちらちら肌に触れる度にいいようのない寒気がした。
 ふと部屋の中の壁時計に目を凝らしてはみたけれど、ぼんやり緑色に光る針は22時前を指しているじゃないか。あんなに長い夢を見ていたのに、まだこんな時間だなんて。
 コウヘイとの海辺へのおでかけから帰ってきた途端に身体がだるくなって、夕飯も食べず、すぐ着替えてベッドに直行したことまではよく覚えている。この寝汗の量に、自覚できるほどの高い体温。明らかに風邪だろう。
 それにしても、どうしてお母さんはこんなところに。お風呂から上がったばかりなのか、頬に当たる髪は微妙に湿っているし、寝間着もズボンならちゃんと穿いているけれど、上は下着代わりのTシャツしか着ていない。

「大丈夫。お母さん、ここにいるからね」

 聞き覚えのある言葉で、答えは導き出された。
 あの人がいなくなってしまう少し前、こんなことがよくあったんだっけ。まあ、そうでなくとも、眠っていたはずの娘が何の前触れもなしに大声を上げれば、だれでも様子を見に来るだろう。

「ごめんね、泣かないでお母さん、わたしはどこにもいかないから」
「そんなこと…………」

 彼女は言いかけて、口をつぐんだ。混乱している記憶がまだ元通りに戻っていないことになっているからだ。
 情けない秘密がバレてしまったのかどうかはわからないけれど、その瞳によくないものがきらめいたのが見えて、わざとらしくも話題をそらすことにした。

「始業式の日、ちゃんと学校行けるかなあ。コウヘイが心配して、わたしよりも高熱出しちゃうかもしれないし、早く治さないとね」

 そう、彼のことだから。いくら4月だといっても海辺は寒くてわたしの身体を冷やしてしまったんじゃないかとか、人の多い駅を使ってしまったせいで菌をもらってきてしまったんじゃないかとか、どうしようもないことで悩んで本当に寝込んでしまうかもしれない。喜ぶべき2年生の春なのに台無しにしちゃうだろうな。
 高校に上がったくらいから、コウヘイは心配性になった気がする。良くも悪くも、あの人は変わったと思う。

「母親に気なんか遣うんじゃないわよ、ばか」

 やだなあ、当然のことをしているだけなのに。











 彼の時は止まったままだ。正確には、進むことを知らないだけなのかもしれない。
 長い間、色褪せた世界が彼の周りを、ただ、ただ、覆い尽くしている。
 どうしてこの世界はこんなにもさみしくて、騒がしいのだろうと、彼はよく考えていた。何度も思考を重ねたところで、答えなど出たりはしないのに。
 だから今日も、ほのかな月明かりだけをたよりに、彼は彼自身に傷を刻みつける。
 カッターの刃では冷たいから、きもちよくはないから、この手だけでいい。そうして滲み、真っ白な肌の上を、時間をかけて滑り落ちていく色が見えているだけで安心できた。
 まだ自分は生きているのだと。まだ世界には確かに、この色が残っているのだと。














 正式にはもう、何日も前からなっているけれど、僕らは晴れて今日から高校2年生に進級した。
 クラス替えの結果も運がよかったとしか言いようがないほど本当に素敵なものになった。ミカとはもちろんのこと、颯真や雨音も一緒で、ミカや自分自身のお願いも叶えてあげられそうなのだ。颯真とは去年離れてしまっていたので、余計に嬉しい。

「げ、有明もA組じゃん」

 クラス発表の模造紙の前に群がる生徒たちの最前列でそんな幸せを噛み締めていたら、すぐ隣からよく知った声が耳を貫いてきた。
 そう、その声の主はまさに、

「うぶしろれいかじゃん」
「謎の棒読みでフルネームの呼び捨てはやめろと何度言えばわかる! そこはもう驚くほど健在だね」
「あーはいはいレイカさま、よーくそんなこと覚えていらして」
「それはもっと嫌だ、せめてウブシロ!」
「じゃあレイカ」
「最初からそうしてよもー」

 僕も大人にならなければと思い昔のことは気にしないと決めたので、至って普通に接しているのだけど、彼女はさっきから僕の耳元で声をキンキン響かせてくる。それを近くで見ていたらしい1年のときのクラスメートに「おーいコウヘイ、浮気か? カノジョに言いつけるぞー」なんてからかわれてしまったけど、数年前の僕の口からは決して出てこなかったような大きい声と言葉がするすると出てきて、周囲の、彼を見知った人たちから大笑いが飛び出した。なぜか麗華は真っ赤な顔で僕を引きずりはじめたのだけど。

「下品、下劣」
「はあ? どこが」

 確かに僕は変わったのかもしれないな、と思った。下ばかり見ていた顔を上げ、少しは周囲を見渡して背筋を伸ばすようになった。以前より身なりにも意識を向けるようになった。そうしたら自然と、素敵な仲間が歩み寄ってきてくれた。こういう生き方が、せめてもの罪滅ぼしなんじゃなかろうかと、考えている。誰に対するものなのかは…………きっと死んでも彼らには言えない。
 根本的な暗さはどうも染みついたままなのだけど、みんな、そんな僕を気遣ってくれて、時々ひとりにさせてもらえている。こんなに幸せでいいんだろうか、僕は。もう一生分の運を使い果たしてしまった気がしてならない。
 まだ発表の結果を見られていない人達に申し訳ないので、制服を引っ張ってくる彼女には抗わず、早速教室に向かうことにする。今日は登校途中に会わなかったミカも、もしかしたら先に待っているかもしれない。

「あれ、レイカ、もしかして髪染めた? それに化粧も」

 薄暗い廊下を歩いている途中、なんだかレイカの"色"が違うなと気づいた。

「しーーーっ、先生に聞こえる」
「あぁ、ごめん」

 ふたりで辺りを見回す。幸いにも生徒たちしかおらず、ほっと胸をなでおろして階段に足をかけた。2年生の教室は3階のフロアにある。去年より階段の段数が減ってくれたのがなんともありがたい。

「うるさい先輩が丁度卒業したから、試しにやってみてるんだよね」
「ふうん」

 彼女の髪は微妙に茶色でカールがかかっているし、肌は少しだけ白っぽくて唇の色もピンクをしていた。
 うちの学校は平凡な公立のくせに、制服だけはおしゃれだと評判だけれど、校則に関しては至って普通のどこにでもあるような決まりしかない。もちろん化粧も染髪も表向きは禁止なのである。若い先生や転任してきた先生だと生徒には特に何も言わないものの、昔からいるような人だとビシバシ指導を入れていくことが多い。それが定年間近の女体育教師なんかだとなおさらだ。そのため一部の女子生徒たちは、いかにその先生たちに気づかれぬように化粧できるか、研究に研究を重ねていて、どうやらSNSで互いに情報交換もしているらしい。そこまで情熱をかけられると、僕ら男子もついつい尊敬してしまうわけで。

「ミカは髪さえ染めないよな」
「あの子は素材も造形も全部きれいじゃん、まだ必要ないでしょ」
「お、褒めるねえ」
「だって本人が絶対に認めないんだもん。雨音が美人さんだから尚更」
「そんなにあいつって美人か? ていうか、なんでそこで雨音が」
「うっわあ、神経麻痺してやんの」

 そりゃあ確かに、周りの女子と相対的に比べれば、雨音の顔は整っている部類には入るとんだろうけど。言葉遣いがすべてを打ち砕いてしまっているところがあるし、そういう意味でも、きちんと血が通っているというか。本当の美人って、男性でも女性でも、とても冷たいものを持っていると思うのだ。表情とか、もう内面自体とか。
 踊り場の窓から外を見下ろすと、校門の接している大通りには呆れるくらいに、ぼけた色の桜たちが咲き誇っていた。さっきあそこを歩いてきたときも頭や制服に花びらがまとわりついてきて、めちゃくちゃむかついたんだよな。

「そういえば、有明は部活入ってるっけ?」
「いや。中学から帰宅部だし、もう今更っつーか。ミカも、最初は美術部が気になってたみたいだけど、結局僕と同じ結果に」
「うわーお」
「社交辞令できいてあげるけど、きみは何の部活に入ったのかな」
「ひとこと余計だけど教えてあげるよ。美術部」
「は?」
「だから、美術部」

 ううん、ちょっと自分の聴力が疑わしいなあ。
 他人に対する無関心さに拍車がかかっていたあの頃でさえ、彼女が美術の授業中に生み出していたあの禍々しい作品の強烈な印象が、頭の隅で焦げるレベルだったというのに。

「えええ? レイカ、絵、超下手くそだよね? 犬を描けば何故か鳥になり、逆に鳥を描けば」
「言いたいことはわかるけどあと5枚くらいオブラートに包んで」
「オブラートって歯ぐきにつくと気持ち悪いんだよね。薬を飲むときならまだしも、昔グミについてたやつ、あれ何の意味があったのかな」
「ごーめん、わたしが馬鹿だったねえ」

 そうこうしているうちに僕らの新しい教室に着いてしまった。まだ半分以上席が空いている。知らない顔の中を探してみたけれど、まだミカも雨音も颯真も来ていないようだ。
 前の黒板には、席順が小さな文字で書かれたプリントだけ、磁石で貼り付けられていた。灰色の壁に掲示物などはもちろん見当たらず、時間割さえまだ作成されていない。ここに入学してきたときは、教室どころか廊下や昇降口まで、紙の花飾りやら何やらでごてごてと賑やかな雰囲気を作り出されていたのに、在校生にはこんな扱いなのか。まあいいけど。

「そーいやあ、画鋲を刺せる壁のとこの色って、学年で色違いなんだっけー。今年は緑か、くだらない」

 濃度の低いため息をつきながら、自席に向かおうと1歩足を踏み出した瞬間に、麗華が呟いた。小さく開いた、画鋲の穴を下品にほじくりながら。

「え?」
「だからあ、ここの色、学年で色が違うんだよねって。去年は水色っぽい感じだったじゃん」

 つんつん、と、長く伸びた爪で壁を叩く、彼女のあきれたような顔。麗華は何も知らないし、たぶん、人の話を聞けよという意味を込めているんだろうけど、僕は焦ってしまった。
 だって、文字通り、この視界には灰色しか映っていないから。
 いつだったか、だれかが疲労度診断だとか心理テストだとか言って見せてきた、答えに個人差のあるような微妙な色合いのものではない。本当にただの灰色。ザ・グレーなのだ。

「え、えええ、あ、うん。そうだね」

 どうしよう、これ。今まで、認識できなかったのは青色だけみたいだから全然気にしていなかったけど、今の言葉で、途端にすさまじく心配になってきた。もしかしなくとも、知らないうちにひどくなってないか?色盲と呼ぶべきなのかもわからないこの症状は悪化するのか?
 雨音と、良典さんしか知らない秘密。もしもみんなに知れ渡ったりしたらどうなっちゃうんだろう。
 教室の中の景色も、窓の外のまぶしい世界も、廊下も何もかも全部偽物に見えてくる。その不安を、過去に聞いた同級生や先生たちの台詞が増幅させるからよけいに恐ろしい。美術の授業中の「個性的な色使いだね」ミカが言った「読みやすいノートだね」そう言った本人は深く考えていなかった可能性だって十分にあるのに。ていうか9割9分の人がそうだろうに。ああ、ミカや颯真にも言っておいたほうがいいのかなあ、こういうことって。

「まあ、いいけど。6月の文化祭で、さっきの発言、後悔しなよ」
「は?」

 脳みそを乱暴にかきまぜられてしまったみたいな混乱が襲ってきて、話にまったくついていけない。きっと僕の目はおかしいのだ。いつか ら?いつからなんだ。
 麗華はひらりと、わずかな香水の匂いとともに僕を追い越していき、窓際の席に着いてしまった。50音順の並びなので僕の4つ後ろの席らしい。
 鞄を机のわきに掛けるなり、もう、隣の席にいた顔見知りとともに新しい友達作りを始めている。人間関係に関してはまだまだ彼女を見習わなければならないようだけど、根本の出来がちがうのだからその辺は放っておいてほしい。僕は数が少なくとも、互いを大切に扱う友人とかわいいかわいい恋人がそばにいてくださればそれで十分なのですよ、はっはー。
 なんて、窓際のいちばん前の席に突っ伏しながら考えていたら、数分後突然誰かに叩き、いや殴り起こされた。学校では万年ロングポニーテールの雨音だ。なぜかはわからないが顔に「超機嫌が悪い」と書いてある。

「どうせまだ使いもしない新品の教科書の角で頭を殴って熟睡している人を起こすなんて性格が悪いね! 痛いな!」
「角を当てるつもりはなかったんだけどごめんね! なーんであいつまでA組なんだよ」
「え? あいつってだれ」
「嶋川。なんか昔からあんたにいっつもくっついてるヤツ」

 ああ、颯真のことか。いつのまにか賑やかになっている教室を見渡すと、2列分は離れた席についているこれまたなぜか性格の悪そうな笑みを浮かべている彼と目が合った。
 昔から、ねえ。なんだかあいつとは、ずっと前からつるんでいるような気がする。実際には……あれ、いつから一緒なんだっけ?やばいなあ、こんなことを本人に言ったら次の日には死んでいそうだ。どちらがとは言わないけど。

「しかもあいつ、あたしのすぐ後ろの席なの、最悪! 初めて自分の名字を呪ったわ」
「ちょっとちょっと、僕にキレられても困るんだけど。雨音はどうして颯真のことがそんなに嫌いなの? 大体、今まで同じクラスになったこともないじゃないか」

 ああ、そういえば話していなかったっけ、と彼女が怒りのモードを解除なさる。最初からその調子でいてくれれば僕も無意味な頭痛を訴える羽目にはならなかったのに。

「初めて会話……ていうか一方的に話されたのは中2の冬頃なんだけど。放課後に図書館で本を選んでたら、あいつが後ろに立ってて『きみと僕は似てるよね』とかいきなり言ってきやがったの。さすがにキモすぎっしょ」
「あー、なるほど」
「その後も、なんか知らないけど、じっと見てきたりニヤニヤ笑ったりしてきてさ」

 そういうところ、ある。あります。
 不思議ちゃんなところというか、彼の場合、他人のことをよく見過ぎているがゆえにそういうことが起きたりするんじゃないかなあ。という旨の言葉を、誤解がないようにうまくオブラートも駆使して伝えた。
 まあ、どうしてその観察眼や探究心好奇心を、当時面識もなかったであろう雨音に対して向けたのかは、見当もつかないんだけど。

「というわけだから雨音、彼は変態などではないんだ。断じて………………おそらくは、ねえ、うん」
「現在進行形でにやつきながら眺められているのに、その言葉を信じろと?」
「面白いことが起きるように念力を送っているんだと思うな」
「趣味悪っ」

 彼女は唾を吐きそうな勢いで顔をしかめ、そのまま自席へ戻るべく回れ右をした……と思ったらなぜかそのままくるんと振りかえって。

「あ、そういえば、ミカがまだ来てないんだけど」
「え?」
「あの子の席、嶋川のすぐ後ろじゃん? だから、ミカが来たら取っ捕まえて愚痴を聞いてもらおうってはりきって待ってるのに、全然来ねーんだよ」
「さあ……僕は何も知らないけど。もうすぐホームルーム、始まるのにね」

 言っているそばからいつもの古ぼけた予鈴が鳴る。
 遅刻なんて欠席なんて珍しい、と言えるほど、彼女も心身ともに元気いっぱいな人ではない。もしや不登校の前兆なのではあるまいかと、いつかの自宅養療時代を思い出して気分が沈んでしまう。あんなに暗い顔で笑うミカを、もう見たくはない。

「ミカのアドレスなら入ってるから、訊いておこうか?」
「ああ、うん。お願い」

 ブレザーの深いポケットから携帯電話を取り出してみせた雨音に、お願いすることにした。僕は未だに持っていないから。

*8* ( No.19 )
日時: 2018/01/18 18:04
名前: 厳島やよい

 この歳になっても自分の携帯電話を持っていないのは、良典おじさんが意外とそういうところに厳しいからだ、なんていうわけではない。単に僕が、携帯を持つことを拒否しているだけだ。「欲しくなったらいつでも言えよ」なんて言われても、困ってしまう。持ったところで、ミカに愛のこもった重いメッセージを朝から晩まで大量に送ってしまいそうな気がして…………それはさすがに冗談だけど。
 雨音がミカにメールを送ったすぐあと、返事がかえってくるよりも早く、新しい担任からミカは風邪で欠席だと知らされた。その瞬間は、もしかして僕のせいじゃなかろうかと冷や汗が噴き出したものだけど、心配したところでこちらまで寝込むような展開になってしまっては、だれにとっても良いことなんてない。いつもより早くそう気づいたので、思考を切り替え、きたる来週の入学式のために体育館や校舎内で労働に励み、彼女のいない、寂しくてさわがしい3日間を過ごしたのだ。

「なんか、それっぽい」

 土曜日。
 高校からは自転車を飛ばして約15分、中学からは徒歩で20分弱ほど、僕の家からなら、たぶん徒歩10分くらいのところ。
 雨音と、颯真と、麗華と僕と。合わせるほどでもない予定を合わせて4人でミカの住む場所にやって来たら、麗華がマンションを見上げながら唐突にそんなことを言い出した。

「は?」
「こんな人数で、友達のお見舞いに行くとか、なんかそれっぽい!」

 まあ、言いたいことはなんとなく、わかるのだが。喜ぶべきなのか、これは。
 ビュウビュウと吹き荒れる風をものともせず、はしゃぎながら中に入っていく彼女を3人で呆然と見つめる。

「あいつ、良くも悪くも変わったね」

 なんだかんだ颯真のことを嫌っているくせに一緒に来てくれた雨音はそう言って、何事もなかったかのようにゆっくり麗華のあとを追い始めた。相変わらず長い、高く束ねた髪をゆらゆらさせながら。
 僕もそんな彼女について、麗華を追うことにしようか。僕と雨音は何度もここに来たことがあるけれど、彼女は2度目だし、先に行って見当違いの部屋に駆け込まれては困るし。
 ……そうだなあ。僕たちほとんど、3年前とは変わったんじゃないか。麗華は薄汚い行為から足を洗ってくれたし、ミカはそんな彼女を本当の意味で許せたみたいだし。僕も時間はかかったけど、彼女たちの過去を忘れることに決められて。雨音は…………受験のとき、第1志望だった仁陵に合格できなくて長い間相当落ち込んでいたけど、ここに通えてよかったって、ついこの間笑って言ってくれた。
 あれ、颯真は?
 颯真は、何か、変わったっけ。
 軽く記憶を掘り起こしてみるけれど、なぜか思い当たることが全くと言っていいほど見つからない。

「何、コウヘイ。俺の顔じろじろ見て」

 それほど高さの変わらない、目を細めていた横顔がふと僕のほうを向いた。

「あ、いや、な……なんでもない」
「あー、そ」

 ほらいくぞ、と、いつものように首に腕をかけられて歩き出す。
 まあ、いいか。変化だけが成長じゃないよな。変化などなくとも、颯真は今までも、そしてこれからも、僕にはもったいないくらいの素敵な友人なのだ。
 僕は、確かに少しは成長できたけれど、現実から目を背けていることに変わりはないから。たとえ、ミカが許してくれているとしても。颯真や雨音がこのあやまちを知ったとき、離れたくなったのなら、離れられても一向にかまわない。僕には彼らを引き留める資格もないのだし。




*


「いらっしゃい! 雨音ちゃんとコウヘイくんと、麗華ちゃんと、颯真くん、よね。来てくれてありがとう。上がって上がって」
「休みの日なのに、押し掛けてしまってすみません」

 思わず頭が下がる。ヘッドダウン。
 須藤の表札がかかる部屋にたどり着くと、呼び鈴を鳴らすよりも早く、母親が出迎えてくれた。事前に電話を入れておいたので、僕らが全員ミカと同じ組になったことも、ほとんど面識のない颯真との交友関係についてもすでに伝えてある。理解が早いので助かった。

「へーきへーき。そんなことより、エレベーター、点検中で使えなかったでしょう。大変じゃなかった?」
「いや全っ然問題ないです!」

 答えながら颯真が盛大に息を切らしていて、僕と麗華は無意識に吹き出してしまった。おいおいそれでも元バスケットボール部か、たかが3階分の階段なのに。まあ今は、僕やミカと同じ帰宅部員だから仕方もないけど。
 早速お邪魔して、玄関を高校生の薄汚い靴で埋めさせていただいた。
 余計なものが何も置かれていない静かな廊下を歩きながら、先頭のミカの母親が嬉しそうに口を開く。

「ミカね、もう月曜から学校に行けそうなの。すっかり元気になったし、多分、みんなにうつしちゃうようなことはないと思うけど……」
「だいじょうぶですよぉ、少なくともわたしはこん中でいちばん馬鹿なんでえ!」

 麗華がけらけら笑った。ああ、これか、この前ミカが言ってた、たまにやってる喋り方って。
 正直僕は、ふたりがずっと前から普通に会話をして笑いあっていることが信じられない。あまり詳しいことは知らないけど、母親だって麗華がしたことは何らかの形でわかっているだろうし、その行為の重みを僕らの何十倍も何百倍もわかっているはずだから。

「なら俺もうつらねーわな、紫水とコウヘイは危ないだろうけど」
「それは僕に対する嫌味か?」
「なんでそうな、イテッ」

 ひっひっひー。隣を歩くあほ面を小突いてやった。残念ながら叩いても治るものじゃないけどねえ。
 いつもなら、僕らの前で麗華たちを見ながら歩いている雨音が彼を殴る役なのに、なんだか今日は大人しい。さっき颯真の家に寄った(雨音は外で待っていた)のがそんなに嫌だったのかなと少し気にはなったけれど、そういう気分の日もあるのかもしれないし、何も言わないでおいた。
 手洗いうがいをさせていただいてから、だだっ広いリビングにお邪魔すると、ずいぶんラフな格好で彼女はテレビを見ていた。何年か前に公開されて話題になっていたアニメ映画が、流れている。

「おおお、なんか久しぶりだね。わざわざ来てくれてありがとう」

 いつものように棒アイスもかじっていた。

「ああ、これはね、抹茶練乳あずき味。みんなも食べる?」
「わたし食べたーい!」
「雨音ちゃんは?」
「ああ、あたしも」
「コウヘイは?」
「うん」
「颯真くんはどうする?」
「遠慮しとくよ、たぶん腹が冷える」
「わかったー」

 彼女は母親が麦茶を用意している後ろに歩いていって、がさがさとアイス専用の冷凍室に手を突っ込んでいる。この音がストックの量を物語っているのだ。颯真もそれに気がついたらしく、ぎょっとした顔で「まじかよ」なんて呟いているので笑ってしまった。

「これさ、前、途中までしか見れなかったんだよねえ。親が風呂はいれってうるさくって」
「あたしも。これって録画?ブルーレイ?」

 麗華と雨音がテレビに食いついている。なんだか意外だ。

「ううん。リアルタイムだよ」
「まじか」
「みんなで観る?」
「え、いいの?」
「いーっていーって、あと1時間くらいだし」
「うおー、やったー!」

 ミカから差し出されたアイスの袋を放り投げそうな勢いで、麗華は両手を上げて喜んだ。そんな彼女の前に腰を下ろして僕はあまーいアイスをがじがじと、あ、おいしいわこれ。
 映画は、漫画が原作のストーリーで、記憶にわずかに残っている予告編の第一印象とは違い、薄暗いところが目立つものだった。雨音と颯真だけは僕の感想を聞いて即座に「そんなことない」と口を揃えたのだけど(またもなぜか、雨音は颯真との意見の一致について異議を申し立てず)。まあそんなことを言われたって、僕は初めてみたんだから。
 確かにそうかもねえ、と言ってくれたミカにはアイスのお礼を伝えて、すっかり渡すのを忘れていた、学校からの手紙をリュックサックの中から取り出した。ファイルに入れてきた紙たちをガラスのテーブルに広げていく。始業式の日からずっと思っていたけど、新学期だからか異様に量が多い。ふつうにバッサバサ言う。

「これ、保護者会の連絡のやつはあさっての月曜提出で、進路のは隅にメモってあるとおり、1週間後だから。あとは集金のお知らせと新しい封筒と、健康診断のときの記入表と」
「うわあ、絶対どれかなくしちゃいそう」
「大丈夫だよ、紛失魔の颯真だってちゃんと全部持ってる。心配だから確認してくれって言われて、さっき家に寄ってきたけど異常はなかったから」
「なーにそれぇ、コウヘイ、お母さんじゃあるまいし」

 へへへへっ、とミカは笑った。なんか変な笑い方だなあと思いつつ、颯真から飛んできた抗議の声をかわして僕も笑ってみせる。どうしたの、なんて言われたくはない。今はうまくごまかせない気がしたから。
 そんな心配をよそに、空気は悪くなるどころか良くなっていくし、ミカの笑顔からも違和感が遠退いていく。なんだ、うまくやれてるじゃん。
 レースカーテンの隙間から、黄昏色の光が覗いている。目的も達成できたところだし、そろそろ失礼しようか。そう思って口を開きかけたとき、呼び鈴らしき音が控えめに部屋に響いた。

「あ、お母さん、帰ってきたのかな」

 ミカが素早く立ち上がって、インターホンのほうへ駆けていく。

「え、いつのまに外に出てたの?」
「買い物に行くって、さっきわたしたちが映画観てたとき。やっぱりコウヘイ、気づいてなかったんだね。夢中だったもの…………はーい、どうぞぉ」

 ミカのお母さんは忍者か何かなのかとでも思ってしまった。

「じゃあわたし、ちょっと出てくる」
「えっ、いきなり、どこに?」

 そのまま僕たちのほうに戻ってくるのかと思ったら、近くに置いてあった上着を羽織り始めるじゃないか。何事かと驚く僕に対し、彼女はきょとんとした顔で、首をかしげて答える。

「今日たくさん買い込んだみたいだから、運ぶのを手伝いにいくの。ずっとエレベーター止まってるしさ」
「それなら、僕が行くよ! 仮にもミカは病み上がりなんだから」
「え、でも、そんな」
「だって、ミカや、ミカの母さんが大変な思いをしてるときに、お邪魔している側の僕らはテレビ見てだらだらしてるって、変でしょう。特に男が」

 ここまで言っているのに、彼女は、立ち上がった僕のTシャツのすそを掴んで話してくれない。

「俺も行きたいなあ。ふたりに少しでも楽させてあげましょうや」

 その様子をじっと見ていた颯真が、機転を利かせてくれた。

「じゃあ一緒に行こう」
「おうよ」

 さすがは我が友だ。

「ありがとね、コウヘイも……颯真くんも」
「病み上がりだからーとか言うなら、最初から見舞いになんか来ないでポストに突っ込んどけばいいだけの話だよな」

 新しくおろしたばかりのスニーカーにうまく足がはまらず、しゃがみこんで苦戦していたら不快なモスキート音が響いてきたではないか。

「んーんーなにか言ったかなー、雨音ちゃん」
「なんでもありましぇん」

 僕はうざったいおばあさん並に自分の悪口だけはよく聞こえる体質なのだ。気持ちわるい笑顔を意識的に作り出し、いってきますとドアを静かに閉じる。案の定、颯真からキモいとのご意見を頂戴した。うーむ、美形の顔になりたい。
 階段を降りていくと、1階と2階の間の踊り場で、荷物のつまった段ボール箱とビニール袋を抱えたミカの母さんと合流できた。あらまあ、もう帰っちゃうの?……なんて言葉がいちばんに出てきたあたり、やっぱり彼女はミカにとても似ているなあと思う。

「荷物置いたまんま帰りませんって! コウヘイとふたりで、手伝いに来たんですよー」
「やだわぁ、そんなに気を遣っちゃ」

 そう言いながら、ふらり、箱と共に倒れこみそうになっている。来て正解だった。

「やっぱり、お願いします……」
「はいはーい、段ボールいっちょー、お運びしまっ、いてえよコウヘイ」
「ごめんなんかムカついて」
「ひどいねえ!」

 いけないいけない、つい手が出てしまった。
 じゃあ代わりに重いほうを持つから、と提案したことにより、颯真から恨みのこもった視線を受けるはめにはならずにすんだ。

「歳かしらねえ。最近あちこち痛いわ力が入らないわで困ってるの」
「んもー、お若いのにそんなこと」
「そんなお世辞を言っても出るのはハーゲンくらいよ」
「えっ、やべえすげえ欲しいです」
「ふふふ」

 さっきから後ろでふたりが盛り上がっているのを耳だけで感じながら、だれともすれ違わない薄暗い通路をただひたすら歩いている。
 ここに来るまでの道中、雨音から、このマンションの部屋は比較的良いお値段がするほうだと教えられたのだけど、僕にはそこらのものとの違いがよくわからない。一軒家住みだからなおさら。中学の頃の同級生にも上の階のほうに住んでいるとかいう人がひとりだけいるくらいだし、その彼だか彼女だかが何組だったかさえ覚えていないから、参考にもできないのだ。
 そんなこんなで、311号室、思ったよりも早く須藤家の前に着いて、とりあえずは一安心した。それにしても、この箱は重い。まさか醤油と砂糖と塩とかを全部いっしょにギッチリ詰めこんでるんじゃないよな。中から音もまったくしないから、予想がつかない。
 冷蔵庫の前に置いてくれればいいわよと言われたので、先に部屋に上がった颯真にそのままついていこうとしたら。

「コウちゃーん、それは洗面所のとこにお願い」
「え? あ、はい」

 靴を脱ぎながら頼んだ彼女の顔は、垂れた髪が邪魔をして見えない。
 言葉にするまでもないけれど、違和感が段ボールの上から、ずん、とのしかかってきた。それはさっきのミカの笑い方におぼえたものよりも、ずっと重いものだ。
 今まさにリビングのほうへ、ドアを開けて入っていこうとしていた颯真も、わずかに眉をひそめてミカの母親と僕を交互に眺めている。僕はそんな彼に無言で「知らないよ」と念を送った。だって本当に知らないし。
 とりあえず信じてはくれたみたいだけど、その後ろ姿の周囲に浮かぶ疑問符たちは、消えてくれないみたいだった。
 コウちゃん。
 僕の名前は一応恒平だし、もうどこにもいない両親からそう呼ばれていたこともある。今思えば、男の子に向かってなんて恥ずかしい親だ、と少々恥ずかしいのだけど。
 そんなこと、話した覚えもないし、そう呼びたいなら呼びたいで、彼女なら一度くらい確認してくれるだろうに。それに、なんだか、呼んでいるのは僕のことじゃなかったみたいで。僕とは、まったくの別人。
 なんだったんだろう、さっきのは。
 無意識に漏れた細いため息とともに、洗面台と洗濯機のある広い脱衣所の床に、やっと荷物をおろした。

 今度から、もっと良典さんのこと、手伝ってあげよう。

*8* ( No.20 )
日時: 2018/01/30 01:07
名前: 厳島やよい
参照: 相変わらず寒いですね、ブルブル。



 片親にしろなんにしろ、母がいる家庭というのは僕にとってやはりどこか新鮮で、でも懐かしさを感じるところもある。そして、良典さんとの暮らしの違いをはっきりと認識してしまう。
 それは例えば、細やかで要領の良いところであるとか、異常に勘のいいところであるとか。それを彼女たちに伝えたところで、ナメているのかと思われるだけなのだろうけど。

「それじゃー、お邪魔しましたー」

 廊下に雨音の低い声が響いた。
 支度に手間取っている僕は、玄関で何か話しているミカたちを尻目に、リュックサックへだらだらと荷物を詰めこんでいる。
 なんだか、いつからかノロスケになってしまったような気がする。実を言うと早歩きも少し苦手なのだ。そのせいで人に迷惑をかけたことはないけれど、いつか大変なことをしてしまいそうで、不安なのが正直なところ。 

「ミカのこと、これからもよろしくね。でも、お互いに我慢するのだけはだめよ」

 不意に上から降ってきた彼女の小さな声に、びくりと肩が跳ねた。
 彼女は……ミカの母親は、優しい笑顔で僕を見ている。うおおお怖い怖いぞ。

「いつから気づいてたのって、顔に書いてある」
「そ、そんなこと」
「んー。中2の2月にはもう、確信してたかな」

 そこは意外と遅いのか。
 自分でも理由のわからない安堵の笑みが滲んできた。「…………ないしょにして」あのときの言葉、ずいぶん時間をかけて破れたね。
 まあ悪いのは僕だし、こういう関係をひとに見破られるのは当然のことなんだけど、開き直るしかないから堂々とすることにしよう。少なくとも今は、ミカの意思も尊重してあげたいし。

「母をナメてかかったらいかんよー」
「肝に銘じておきます」

 これは一時の衝動で襲ったりなんかしたら殺されるパターンだろうな。
 僕に向けられる銃口がどんどん増えていってないか。命がけの旅だー。これも自業自得。
 かばんを背負って、ゆっくり、立ち上がった。さっきよりもずいぶん軽くなったような気がする。

「ミカのほうから好きになったんでしょ」
「え、絶対僕のほうが先ですよ」
「いーやあ、たぶんコウヘイくんのほうが後じゃないかなあ」

 にやける彼女はきっと、昔からこういう話がかなり好きな人なんだろう。以前からそういう目で僕らを見ていたんだろうなと考えると、いやもう、すんげえ恥ずかしい。気の迷いが生んだ黒歴史。ミカに罪はこれっぽちもないけれど!
 ううーん。
 仮に、ミカのほうが先に惚れたのだというなら、僕と初めて話したあのときにはすでに、ということじゃないか。なんて題名の少女漫画?

「うおーーーいコウヘイ、先に帰っちまうぞーー」

 外の通路にも響く声で、颯真が呼んでいる。静かにしやがれ、と麗華に頭を叩かれているのを見て、思わず吹き出してしまった。
 こんなことで動じる僕じゃないはずなんだけどな。さっきからおかしい。主に頭と表情筋辺りが。

「じゃあ、僕も帰りますね。失礼しました」
「はーい、また来てね」

 さっきよりも楽に履けたスニーカーのかかとを直して、颯真たちに混ざった。
 僕の居場所。僕を、ミカを、みんなをみんなで認めあう居場所だ。
 この温もりが永遠に、いいや、せめてこの中から、だれかが消えてしまうまでだけでも、色濃く続けばいい。

「ミカ。月曜、いつもの時間に、いつもの場所で」
「……うん」

 玄関先まで出てきてくれていた彼女と、学期が明けてからは初めての、待ち合わせの約束をして。
 ばいばーい、と麗華が手を振ったのを合図に、8つの足は静かに家路をたどりはじめた。








 彼女と別れ、大きな交差点の歩道橋近くで"彼ら"とも解散したあと、どこからか夕食のにおいも漂うようになった帰り道を歩きながら、わたしはまた、飽きもせずにある出来事を思い返していた。
 とくに時間が気になっているわけでもないのに腕時計へ目をやってしまう癖みたいに。頭の中のどこかと、あの記憶が、鎖でつながれたようになってしまって、もう何度も何度も。
 はじめのうちは、その戒めと後悔とがきつく結び付いて、わたし自身、体をぼろぼろにしてしまったものだ。でも、そんなことはあの子の苦しみに比べれば屁でもない。
 …………あの子がきっと、いちばん苦しかった、辛かったあの日。あの日のことは、きっと一生忘れられない。あの日が、あの時が、あの人が、わたしを変えたから。
 中2の秋。9月。気のせいかもしれないけれど、残暑の長い年だった。
 わたしはいつものように、朝、学校へ行って、適当にさぼりながら授業を受けて、給食を食べて、掃除をするフリをして。帰りのホームルームが終わったあと、部活に出るために教室から飛び出し、西階段のほうへ向かっていた。そのほうが近道だからだ。
 繰り返す日常の中でいつもと少し違っていたのは、先週、ミカがとうとう部活をやめていなくなったことにやっと慣れたと自覚したことと、その彼女の姿が、最近教室の中でもずっと見当たらないことだ。自分の目がおかしくなったのかと、少しの間、ほんの少しの間本気で考え込んでしまったけれど、休み時間に盗み見た出席簿の中で何マスも"欠"の字を並べているのを見て、これは本当のことなんだなと、ぼんやーり、理解していた。していたけれど、ただ、それだけのこと。
 さっきまでトイレで髪型を直していたから、少し急がなくては。そう思って小走りのまま、階段のほうへ曲がろうと「んう、ぐえっ」突然、後ろからだれかに、背負っていた鞄ごとものすごい力で引っ張られた、のか?
 全身に襲ってきた衝撃で頭の芯がぐらぐらして、つんのめりながらも何とか体勢を持ち直そうとしたら、そんな間もなく引きずられ、視界が180度回転してなぜかビンタまでくらっていた。
 視界の端のほうで、ほこりで曇ったガラスの向こうに大きな地球儀が置いてあるのがみえる。しまった、人目につかない資料室の前に連れてこられるなんて。

「おいおまえ、麗華! 今すぐ病院に行け! 場所なら教えてやる、バス代でもタクシー代でもくれてやるから、今から行けよ!」
「はあ???」

 生理的な涙で滲む視界には、わたしよりも背の高い知らない女子の顔があって、なぜかとても怒っているような、焦っているような表情をしている。唾が飛んでくるんじゃないかと思うほど、近かったし、声もうるさかった。
 いきなり、病院に行け、だなんて失礼な。そんなことしか考えられない。
 でも、見覚えのある気がする顔だと気づいた。とても色白で、きれいに、バランスよく整った顔。なんというか、模範的な美人。だから、悪く言えば、個性の薄い顔。

「な、何をいきなり、つーかあんただれ?」

 答えは喉の奥、舌の根本くらいまで出かかっているのに、名前が出てこない。混乱しているわたしを、彼女は睨みつけて、怒鳴るような声で、ていうか怒鳴りながら名乗ってきた。

「同じ2年の紫水雨音! 臨海の中央委員会で散っ々顔合わせただろうが!!」
「…………あー、バド部の紫水さんか」

 中央委員会、というのは、各組の学級委員が3人ずつ集まって作る組織のことなのだけど、正直、周りから押し付けられていい加減にやっていただけだし、今はもう学級委員なんて面倒な仕事はしていないのであまり覚えていない。記憶の大半は今ごろ、ごみの収集施設で灰になっているんじゃないだろうか。

「それで、その紫水さんがあたしに何の用件で?」
「ミカ、須藤美佳が、先週の交通事故で巻き込まれた。あんたと同じクラスの男子から、聞いたんだ」
「……………………は?」

 文字通りに、言葉を失ってしまった。一応彼女の拘束から逃れようとばたつかせていた手足にも、力が入らなくなった。
 先週の交通事故って。駅の方面の大きい交差点で、トラックが暴走して起きたっていう、あれ?
 どうしてこいつがミカのことを知っているのかとか、そんなことをわたしが知らなかったのかとか、普通たずねるべきことが、どこかに吹き飛んでしまった。まともに思考が機能してくれない。この小さな社会をずる賢く渡っていくくらいしか能のないわたしの頭の神経回路は、ショートでも起こしてしまったらしい。

「まじでなんっにも知らねーのかよ。部活も組も同じくせに。そりゃあそうか、死んじまえだの消えろだの、息するように言う奴だもんな、あんたは」

 紫水雨音の薄くてきれいな唇から次々と飛び出してくる物騒な単語や言葉遣いに、背中がむずがゆくなってきた。本当なら、そういう暴言はわたしみたいな女が吐く役割なのだし。
 駄目元で伊予先輩に告白するつもりでいたら、逆に、ミカが好きだと、言っているのを聞いてしまったあの日。あの子に一方的に感情をぶつけてから、昇降口の近くで彼女とすれちがったんだっけ。わたし、そんなに大声で怒ってたのか。
 先輩のことをそういうつもりで呼び出して待っていたのに、彼にはやっぱり、そんな気が微塵もなかったということだ。頭ではわかっていたけれど、やっぱりすごくショック。

「おまえがあの子の死を望んだことで、あの子は……ミカは、死ぬかもしれなかったんだぞ! おまえ、もしミカがいなくなったら、どう責任とるんだよ、クソが! 土下座しに行け!!」

 喧騒と静寂にぴったりと挟み撃ちされているこの場所に、ごもっともな言葉が響き渡って、抵抗する気力が削がれていった。
 なんだかさっきから耳鳴りがひどくて、まわりの音がよく聞こえない。まだわたしの前で何か言っている彼女は、大きくて透き通った瞳に、同じくらいきれいな涙を浮かべ始めて、肩を揺さぶってくる。
 自分のためにこんなに泣いてくれるような人が、いつのまに、あの子にはできていた。それなら、こんな、人間のクズみたいなゴミみたいなぽいーって捨てられるべきなわたしなんかより、あなたが真っ先に駆けつけてあげるべきなんじゃないの?そう言おうとしても、口からは、ただの空気の塊しか出てこない。ぽんこつだ。
 どうして。
 どうしてわたしは、どうでもいいときばっかり、人を傷つけることしか言えないんだろう。
 耳鳴りと、彼女の泣き声が周囲の音をシャットアウトしてしまったみたいだ。それでもときどき「あのときあたしが、無理にでも家に帰してたら」「ついていけばよかった」「こーへーは何も悪くないのに」なんて言葉が、意味こそわからないけれど、頭の奥に浸透してくるように聞こえてくる。


 行かなくちゃ。


 この涙がこぼれてしまう前に、彼女の、きみのところに行かなくちゃ。
 そう心が定まった途端、世界の音はまた騒がしく、頭が痛くなるほど鮮やかに、この耳の奥へ流れ込んできた。
 こんな場所にパシられにでも来たらしい、遠巻きに眺めてくる3・4人の下級生は、大きな落とし穴のふちから覗いてくるみたいに距離をとっている。彼らの目の色にはよく見覚えがあったから、敵意を向けようなんて気にもならなかった。

「あの時、あんたが走っていってから、ミカが言ってたの。やり返せよって、あたしが言ったらさ、あいつ、」

 この場を去ろうとしたとき。
 手の甲で乱暴に涙をぬぐいながら、彼女はミカの言葉を吐き出しはじめた。

『憎いよ。死ぬほど、なんなら殺したいくらい、目の前で死んでやりたいくらい麗華のことは憎いよ。
 あの子のほうからいなくなってくれたらいいのにって、すごく思う。
 でも、麗華がいなくなっても、わたしはきっと同じようなことをだれかに言われたり、されたりするんだよ。もしわたしが死んだとしても麗華はころっと忘れるんだよ。それどころか、わたしのほうを絶対的な悪者にして、すぐ他の人に矛先を向ける。そんなことはわかってるし、だからこの現状を、堪えて、わたしなりに闘うしかないの』

 疲れきった顔で、すべてを諦めたような顔で、それでも笑いながら雨音にぶつけたという、その長い長い言葉たち。多少の間違いはあるだろうけど、彼女の言いたいことは正しく伝わってきたはずだ。
 あれ以来、ひとりでだれもいないあの昇降口にやってくると、彼女のを思い出すようになった。

『それとは別に、わたしを、ここ、に繋いでくれている要因のひとつが、思い出がどうしても消せなくて……』

『わたし、中学に上がる少し前に、色々あって少し遠いところから引っ越してきたの。突然のことで。
 あっちの学校でもわたし、いじめられちゃってたからさあ、すごく不安で、教室にいる人たち全員が怖くてたまらなかったんだよね』

『手がぷるぷる震えて、顔も上げられないの。情けないでしょう。
 でも、そんなわたしを麗華が助けてくれたの。今から体育館に行くぞーってとき、どこかからその女の子は現れて、わたしの手を握って、目を見て言ってくれた。「だいじょうぶだよ」って。それがきっかけで仲良くなれたの。
 わたし、そのときのことを、今でもたまに思いだし……ちゃ、あれ、なんで泣いてるのかな』

 ミカは、初めてプリクラを撮った相手はわたしだって言っていたっけ。
 いっしょに神社の縁日にいったり、プールに遊びにいったりもしたっけ。
 1年生大会のとき、初めてふたりでいっしょに戦うことになって、でもすぐに負けてしまって。それはわたしのしょうもないミスのせいなのに、ミカは、自分のせいだと泣いて謝ってくれていたよね。
 本当に、いつからこうなってしまったのか。
 後ろを振り返っても、どこがはじめの間違いだったのか、わからない。靄がかかって薄れて。どこがはじまりだったかさえ、今の今まで、わたしは忘れていたのだ。

『だからたぶん、麗華のことを完全に拒絶できないのも、完全に逃げてしまえないのも、その思い出が残り続けてるからなんじゃないかなって、思う。依存してるのはわたしのほうなのにねえ、ばかみたい。
 いつからか、考えや話が全然合わなくなって、次第にうざいだなんて感じるようになって、それでも離れられなかったのは、きっとどこかでまだ麗華のことが、大好きだから』

『今のあの子のことは憎くて憎くてしょうがないけど、優しい麗華のことなら、心の隅っこで信じて待ってたいな。
 それに、わたしがあの子にひどいことを言っちゃったりして、そのせいで今みたいになってるのかもしれないってこともあるし。
 雨音ちゃんやコウヘイがいてくれるから、少なくともふたりがわたしから離れていくまでは』

 頑張るよ。

*8* ( No.21 )
日時: 2018/03/12 20:15
名前: 厳島やよい

 は?
 は?
 は??
 大馬鹿野郎だ!!!!
 なによ、頑張るって。優しいわたしって、なによ、なんだよ。そんなこと言われたら、わたしは────
 当時はそれこそ、殺したくなるくらいミカのことが憎かったけど。でも、憎むべきは、あんなに素直で、優しくて正直で、かわいくて、そのくせに弱くて強いミカなんかじゃない。ほかでもない、わたし。わたしだけ。
 走った。
 走って走って走って、肺が破れるんじゃないかってくらい息を切らして家に帰ってすぐバスに飛び乗ってミカのいる病院に滑り込んで。
 ちょうど本を読んでいた彼女の部屋に入るなり、土下座して、頭を冷たい床に擦りつけて、みっともない謝罪の言葉を並び立てた。
 それなのに。
 まるでわたしが赤の他人みたいな、それこそ、部屋を間違えて突然やってきた知らない人を見るみたいな顔をするものだから、しばらく事態が飲み込めず、床に座り込んだまま彼女を凝視していた。
 もしかして、演技?
 今までのことの、仕返し?
 小さい顔をほとんど左半分、大きなガーゼらしき白い布でふさがれてしまっている表情では、真偽の見分けはつかなかった。

「わたしの知り合い? 前にお見舞いに来てくれた子達と、同じ制服を着ている気がする」

 ああ、本当なんだな。
 こんなことは、漫画やドラマの中だけで起こる、都合のいい物語のパーツにすぎないものだと思っていたけど、今目の前に立ちはだかっている事実、現実なのだ。
 そう。現実。
 ここでミカが今までどおりに普通にわたしの名前を呼んでくれて、怒ってくれるとか、ありえないけど許してくれるとか、そんな展開が待っていれば、どちらに転んでもわたしにとっては身勝手なハッピーエンドだった。

「…………よ」
「え?」
「そう、だよ、ミカがよーく知ってるはずの天宮城麗華だよ。あたしは全然覚えてなかったけど、入学式の日に声をかけて、それからめっちゃ仲良くなって……なのに、なのにさ、あんな、あんなことして」

 だから、これは相応の罰。わたしの罪にきちんと見合った罰なのだろう。

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、生きててくれて、よかった。あんたが死ぬことも、いなくなることも、ほんとは、望んでないから!」

 そこまでしっかりと言葉で伝えきったところで、ずっと堪えてきた涙が、まったく制御もきかないくらいあふれてきて、止まらなくなってしまった。自分がかわいくて仕方ない女みたい。くそったれ。

「ごめんね。わたし、自分でもよくわかってないんだけど、怪我といっしょに良くないものもついてきちゃったみたいで」
「うん」
「覚えていることはいくつかちゃんとあるの。どうでもいいことばかりだけど」
「うん」

 包帯でぐるぐる巻きになった脚をスリッパに引っかけて近寄ってくるミカは、迷いもせずにわたしの手を、とってくれて。

「あのさ、麗華、ちゃん。言いたいことは、何となくわかったよ。麗華ちゃんがそのことについて謝ってるのは、誰かにさせられているからじゃなくて、自分の意思で来たからだってことも、何となくわかる」
「うん、わかってくれて、嬉しい」
「前までのわたしなら、今のあなたにどう声をかけるか、見当もつかない」
「殴ってるよ。そのギプスで。今更ふざけんじゃねえって、痣ができるまで、気絶するまで、ボッッッコボコに殴ってるよ」
「かもね。でも、今のわたしは、そうしようという意思もないし、その行動に至るまでの記憶すら無いみたい。だから、少なくとも今だけはさ、もう謝るのはやめてよ」

 あまりお風呂に入れていないらしい。独特な体臭が、なにかの薬品みたいな包帯のにおいと混じって漂ってくる。それさえも彼女が生きていることの証明みたいで、わたしは、ミカが離れてしまわないように、どうかこの世界につなぎとめておけるように、病衣を掴む指先にぎゅっと力をこめて、彼女の胸で泣き続けていた。

「そりゃあ、はいそうですか元通り仲良しこよし、とは、なれないけど。今のわたしにとって存在しないことは、この世界に無かったことになると思うの」

 わたしにとってのこの罰は、ミカにとっては、神様がおまけをしてくれた長い夏休みになってくれればいい。そう、思う。高校生になった今でも。

「だからとりあえずは、休戦期間ね」

 少しずつ、過去がその手元に帰ってくるとき、もしかしたらとても苦しいのかもしれないけれど、そのときはわたしを盾にしてくれて、構わないから。むしろその為に、彼女の隣にいることを決めたのだから。
 そうは言っても、その日のうちはまだ軽く混乱していて、ミカと別れた後思わず中庭でしゃがみこんでしまっていた。室内との温度差も相まって、かなり気分が悪い。

「これから、どーしよう」

 紫水さんはこのことを知っているのかとか、知らなかったとしてどう伝えるべきなのかとか、まだ問題は高尾山積みになったままだ。
 顔をあげると、小さな噴水の細かい水の粒が光で虹色にきらめいていて、また涙が出てきてしまった。自分でもあきれる。泣いたところで何も解決しないのに。どんだけ自分がかわいいんだよ。と嘲笑が込み上げてきたそのとき、

「これ、飲みなよ」

 音もなく近づいてきた見知らぬ若い男が、何故かわたしに缶ジュースを差し出してきた。若いといっても、30代も目前に見えるし、大学生だと言われても違和感がないようにも見える。年齢不詳というやつか。

「大丈夫、毒なんて入ってないから」
「はあ、ありがとうございます」

 お言葉に甘えて受け取ったところで、顔がぐしゃぐしゃのままだということに気がついて、途端に恥ずかしくなった。もしかして、ものすごく子供扱いされてるんじゃ。

「きみ、朱鳥中学の生徒だよね?」
「あのこれ、いりません。帰ります」
「あはは、やっぱりそうか」

 近くのベンチに腰かけて、同じく缶のアイスコーヒーを飲み始めた彼にジュースを押し付けて帰ろうとしたものの、計算しつくしたようなきれいな笑顔でかわされてしまった。それどころか「隣、座りなよ」なんて言われる始末だ。あーくそ、ムカつくけどそこそこイケメンだから許してやる。

「まあまあまあ、遠慮しないでって。俺、須藤さんたちの知り合いでさ、さっきお見舞いに行ってきて、それからずっとここで待っていたんだよ。まだお母さんが来てないみたいだから。それにしても、大変じゃなかった? 美佳ちゃん、記憶がさあ……ほら、アレだからさあ」
「それを知ってるなら話は早いです」
「そうか、うん。何かあったなら、聞いてあげようか」

 サイダーを一気に飲み込むと、きつく喉の奥がしびれて、涙も気分の悪さも引っ込んでいく。その感覚が好きではなくて、普段は炭酸飲料を自分から選ばないのだけど、この時ばかりは苦手な痛みに感謝した。
 ぐずぐず泣いている自分が、普通に、気持ち悪いのだ。
 そうしてわたしは時々サイダーに頼りながら、彼に、簡単に事情を説明した。

「…………と、いうわけです」

 嘘をついたつもりはない。ついさっき知り合ったような他人に、深いところまで話す意味も理由も、わたしには無いのだ。……自分で思っていてなんだけど、クズっぽい。でもこれがわたしだから仕方ないよね、と勝手に自己完結してみる。そうでなければ学校という小さな社会でなんてやっていけないし、実際そういう考え方や、やり方を基礎に、あの世界を生きてきたのだから。
 いじめという言葉はケンカに置き換えた。学校でケンカをしたまま別れてしまい、知り合いから事故に遭ったと聞きました、と。そう話して。
 いくら割りきっているとはいえ、身体は重くなる一方で、もう口を動かしたくなくなってしまった。

「へーえ。それは大変だったね」

 彼は人の良さそうな目を柔和に細めて頷いた。その真っ黒な瞳に光が差し込んでいないように見えて、一瞬背中が冷たくなったけれど、きっと気のせいだろう。その辺の大人のように、偉そうなアドバイスなんかを押しつけてこないだけましだと考えた。
 サイダーは既にすっからかんだ。なのでさっきから缶をべこべこに押し潰して手の寂しさを埋めている。別に怪力なわけでは、べこべこっ、ばき、あ、痛い。
 そんなわたしを微笑んで見ながら、彼は質量のない言葉をかけてきた。

「これからはお友達を大事にしてあげてねえ、きみ」

 これが、わたしの昔話のひとかけらで、わたしにとっての"わたしたち"の物語の始まりのはじまりなのである。ややこしいけれど、ご理解いただけるとありがたい。
 優しくて怪しいあのおにいさんには、できればもう二度とお会いしたくないというのが、今確かに言える感想だ。


Page:1 2 3 4 5



小説をトップへ上げる
題名 *必須


名前 *必須


E-Mail


URL


パスワード *必須
(記事編集時に使用)

本文(最大7000文字まで)*必須

現在、0文字入力(半角/全角/スペースも1文字にカウントします)


名前とパスワードを記憶する
※記憶したものと異なるPCを使用した際には、名前とパスワードは呼び出しされません。