ダーク・ファンタジー小説

青、きみを繋いで。
日時: 2018/01/09 14:02
名前: 厳島やよい

@sousaku_okiba_様より
お題『青春と呼べるほど、綺麗じゃない』

流血表現など入ります。物語の長さの割に矛盾点なども多いかもです。
苦手な方はご注意ください。


○おもな登場人物○
有明恒平(ありあけ こうへい)……父方の叔父とふたり暮らし
須藤美佳(すどう みか)……中1の春に母とふたりで越してきた
紫水雨音(しすい あまね)……コウヘイの家のお隣さんで昔からの友達
嶋川颯真(しまかわ ふうま)……いつのまにかコウヘイの友達だった。ミカのことが好き
天宮城麗華(うぶしろ れいか)……中学のときにミカをいじめていた

奥羽晃一(おうば こういち)……ミカの兄。いじめがきっかけで自殺した。享年16歳

*


 ただ、愛したかっただけなんです。

 青、きみを繋いで。
 
 

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*7* ( No.15 )
日時: 2017/11/06 07:36
名前: 厳島やよい

 溜まっていた課題を消化しきったのは、ちょうど正午を過ぎた頃だった。外は一段と風が強くなっている。
 耳を澄ますとリビングのほうから物音が聞こえるので、お母さんが昼食の準備でも始めたんだろう。
 椅子から立ち上がり、凝り固まった身体を強制的に引き伸ばしてほぐした。そこらじゅうの空気が押し寄せるように肺へ流れ込んでくるのがわかった。
 机の端に積まれた努力の痕跡と時間の進み具合は丁度良く釣り合っている。お兄ちゃんのことを思い出すと、無心に問題が解ける気がする。良くも悪くも。テスト期間には彼の音楽プレーヤーでも引っ張りだして使ってみようか。
 押し入れで眠っているあれの中身は完璧に彼の趣味だけで構成されているので、わたしの耳に合うかどうかはわからない。いきなりヘビーメタルとか流れてきたら、びっくりしてイヤホンを千切ってしまいそうだ。

「おっかーさま、今日のお昼ご飯はなんでしょかー?」

 一時的な休息を手に入れたわたしは、この暇を思う存分持て余すため、キッチンにいるお母さんにちょっかいでも出しにいくことにした。

「ミカが頑張っちゃってるみたいなのでー、夕食にする予定だったハンバーグを今作っちゃいまーす」
「うおーやったー!」

 素直に嬉しい。親子揃って昔からの好物なのだ。
 材料を広げ、昼の料理番組の真似なのか、微妙に音の外れた歌を口ずさみながら彼女が変な踊りをおどっている。なんだか機嫌が良いらしい。

「なんかご機嫌だね」
「そーお? まあ、お仕事が休みだからかなー」
「なるほど」

 わたしも学校が休みでちょっと嬉しいよ、なんて台詞は飲み込んだ。そんなことを言ったら、過剰に心配されてしまいそうだったから。………………本当はそれくらい、気にかけられたいくせに。
 サラダを取り分けつつ外を眺めると、おびただしい数の雨粒が空中で舞って波を作り出していた。朝から垂れ流しのままのテレビには、迷走しているようにも見える台風の進路がちびちびと白い線で描かれていて、まるでわたしのようだ。ちっちゃく笑いが込み上げてくる。自嘲。彼のひとり笑いにも、彼なりにちゃんと理由と意味があったのだろうなと、今さら知る。

「はーいお待たせ、特製ハンバーグランチセットの出来上がりでーす」
「わーい!」

 湯気といい匂いを立てる皿を両手にお母さんがやって来たので、スイッチを切り替えた。意識的にそうしたのだと理解できるあたり、わたしもそろそろ、危ういのかもしれない。
 数年振りに学校が台風で休みになったことと、夕食の予定だったハンバーグが昼食になったことと、夜に家の明かりが何度もちらついたこと以外、この日は特に変わったことは起こらなかった。
 お母さんの作る料理も、変わらず美味しいままだった。





*


 お母さんが家を出ていく扉の音で、目が覚めた。枕元の時計を見ると針が7時を指していて少し焦ったけれど、そういえば今日は火曜日で、部活の朝練習は休みなんだ。
 まだ鳴っていない目覚ましのスイッチを切る。妙な安心感に全身を支配されて、ベットから降りるなり、ぐうっ、と伸びをした。
 少し暑いなと感じてカーテンといっしょに窓を開けると、強い風が部屋に吹き込んできた。磨きあげられたような青が空いっぱいに広がっていて、とても清々しい。久し振りです、おてんとうさま。
 嵐は過ぎ去り、爽やかすぎる夜明けとともにいつも通りの日常は戻ってくる。きっと今週も麗華たちは嫌がらせをしてくるだろうし、塾の個別指導はあるし、コウヘイと登下校もするかもしれない。早く部活辞められないかなー、とも思い続けるんだろう。
 支度を始めるために回れ右をする。

「ん?」

 さっきまで何も聞こえなかったのに、勉強机の上で、ちいちゃな紙が風とともにぴらぴらと音を立てている。昨夜寝たときには無かったはずだ。
 何だろうと近づいて、ガラスの重石で押さえられているその紙の正体がわかったとき、一瞬息が詰まってしまった。
 退部届けだ。すべて記入済みの。

「…………お母さん」

 慌てて窓から身を乗り出した。真下の水溜まりだらけの歩道を、彼女はいつもと変わらない服装で、いつもと変わらない急ぎ足で通りすぎていた。
 変わらないはずの日常が、今、音を立てて変わっていくのがわかる。とうとう今日、自分はあの集団から離れるのだという事実も、これでやっとあの子の望みを叶えられるのだという歪な安堵も、なぜか湧き上がってくる罪悪感に似た感情も、わたしを揺さぶるには充分すぎた。

「ごめんなさい」

 瞼が熱くなる。

「でもわたし、頑張るから」

 喉の奥からせり上がってくるもっと高い温度は、空を見上げて飲み込んだ。
 思い出に浸りすぎて、大事なことを忘れていた。泣くなんて、馬鹿みたいなこと、しちゃいけない。わたしはお母さんから、お兄ちゃんを奪ってしまったんだから。殺してしまったも同然なんだから。わたしには泣く資格なんて、ないんだよ。
彼女自身がいくら違うと首を横に振ったところで、お兄ちゃんは帰ってこない。離婚したからって、元気になったお兄ちゃんが空から舞い降りてくるわけじゃない。
 この窓から身を投げ出したい衝動に駆られる。でもそれは、彼を、彼の心を裏切ることになるから。でもそれは、わたしが避けてきたもの、そのものに、自ら飛び込んでいくことに等しいから。
 もう、お母さんのあんな姿、見たくない。


 ──────お前は生きろよ。美佳


 最後に聞こえたあの言葉と、あの笑顔を思い出して、わたしは。天が教えるその時まで、生きつづけなければならない。たとえ死にたいと思ったとしても、それが嘘だろうが本当だろうが、絶対に。
 ふうう、と息を吐いて、震える手で、閉めた窓に鍵をかけた。
 学校、行かなきゃ。








「顧問の先生には、昼休みに提出してきました」

 コーヒーの香りが常時漂う涼しくて静かな職員室に、思ったよりも大きく自分の声が響いた。
 できるだけクラスメートやほかの部員には知られたくなかったので、担任の先生のところには5時間目の授業が終わってから向かい、担任提出用の退部届けを受け取ってもらった。黒ぶちの眼鏡がよく似合う、理科の先生でもある彼は、記入事項に目を通ししばらく考え込むようにうつむいた。随分低い椅子に座っているので、普段の長身のイメージが行方不明になる。4月よりも白髪が増えたな。
 ぐるりと視線を巡らせると、周りの机の上にはびっしりと書類が積まれ並べられ、壁にも鍵やら何やらがぶらさがっていて、圧迫感をおぼえる。教室にいないときはこんなに狭い空間で仕事に追われているのかと知って、入学したばかりの頃はぞっとしたっけ。小学校の職員室が大きすぎただけだろうか。

「そうか……最後の確認だけど、須藤は後悔してないか? 今辞めなくても、引退まであと1年とないだろ」
「今で良いんです。わたし、本気で兄の目指していた大学に行きたいんです」
「なら、いいんだけどな。ちなみに、その行きたい大学っていうのは?」

 日本人なら大体聞けばわかるであろうその名前を挙げると、彼は目を真ん丸にしてしばらく固まった。この人は、わたしに4つ歳の離れたお兄ちゃんがいたことも、お兄ちゃんが飛び降りたこともたぶん知っている。だからこんな顔をしているんだろう。望んでもいない同情の色が見えるもの。
 向かいの席でパソコンに何かを打ちこんでいる副担任の先生に、ちらりと見られたような気がする。

「やっぱり、そう思いますよね、今の成績じゃ」
「いや、そういう意味ではなくてだな。それならむしろ大会で記録を残すとかすれば、高校の選択肢だって、少しでも広がるかもしれないだろう? 須藤は3年が辞めるかなり前からレギュラー取ってるみたいだし、もう少し頑張れば……って」
「それほど頑張りながら学習面でも良い線をキープする、というのが、わたしには難しいんです。高校生になっても続くのなら尚更」
「そうだよな。たくさん考えたんだもんな」

 たとえ表面上だけの薄っぺらいものでも、理解のある人でよかったと、心底思う。
 将来を見据えて勉強に集中したい、というのはまあ本当のことだし、実は体力の面でも薄々限界を感じとっていた。そんな状態でズルズル引きずって続けて部員たちに迷惑をかけるくらいなら、潔く身を引いたほうが彼らのためにも自分のためにもなる。考えるきっかけになった麗華には、ある意味感謝した方がいいかもしれない。そんなことを言おうものならまた「キモい」と睨まれるだろうけど。お互いに利害一致で万々歳じゃないか。
 顧問に、あまり大袈裟に部員へ知らせないでほしいという伝言を頼んだあと、わたしたちの組は次は英語だったっけとか、そんな会話をして職員室から出ていった。4時間目の国語のとき、集中できなくて先生に怒られたから、次からは気を引き締めないと。
 むわあっ、と全身を襲ってくる熱気に苦笑いを浮かべながら頭を下げ、ドアを閉める。

「よう、ミカ」

 ドアが閉まったのと同時に肩を優しくたたかれ、振り返ると、よく知った短髪の男子生徒が背後に立っていた。

「伊予先輩、お久しぶりです」
「もう引退したんだし、タメでいいって言ってるのに」
「それはちょっとできませんねー」

 伊予澄(いよ とおる)。***部の先輩で、前部長だ。頭3つ分くらい、わたしよりぐんと背が高い。
 そういえば、前に麗華が、彼はわたしのことが好きだとかなんとか、言っていたような。そんなことを知っても、わたしは何もできないのに。

「先輩も職員室に用なんですか?」
「あー、そうそう。今日、掃除のときの放送委員の担当でさ、次の授業は移動教室だから、すぐ放送室に行けるように鍵を借りにきてるんだ。ここんとこ毎週ね」
「大変ですね。体育館ならまだ放送室に近いですけど」

 確かに、さっきから3年の男子生徒がよく通っている。女子がまったくいないところを見るに、技術科の授業があるんだろうか。そうなると女子は家庭科で、彼女たちは2階の被服室か3階の調理室、もしくは教室にいるのかもしれない。
 こういうこともさらーっと訊いてしまえればいいんだけど、そこまで考えるのかと引かれるような気もして黙ってしまった。相手が伊予先輩だからというわけではなく、例えば雨音ちゃんだったとしても、そうするだろう。要するに、性格の問題。

「あみだくじで当番決めるなんて、どうかしてると思わない? 運も無さすぎかって感じだわー」
「運なら分けてあげられますよ、つぎの当番決めで良いところが当たるように」
「まじか、もらっとこ! ついでに仁陵高校受かりますように」
「それは貰いすぎですよ! 来年わたしが進学できなくなったらどーするんですか」
「ないない、それはない」

 思わずふたりで笑ってしまった。
 毎年とんでもない倍率を叩き出しているらしいあの名門校を志望しているなんて、さすが伊予先輩だ。嫌味とかじゃなく、ガチのほうで。

*7* ( No.16 )
日時: 2017/11/15 05:56
名前: 厳島やよい
参照: 氷菓でもアイスミルクでもとにかくアイスは美味しいです。

「そーいやー、部活のみんな、最近元気なの? 新人戦、1日どころか半日で終わったらしいとか、テッちゃんから聞いたけど」
「あー……元気もりもりではないですね、正直」
「やっぱ? 悪いこと訊いちゃったね」

 顔がひきつりそうになった。
 テッちゃん、というのは前副部長で伊予先輩の同級生なのだけど、そこは重要なポイントではない。わたしが恐れているのは

「じゃあ、今日辺りちょっと顔出してみようかな」

これだ。
 このまま黙って別れて、放課後になれば、彼は嫌でも部員たちの中にわたしがいないということに気がつくし、そうなれば色々と質問攻めをくらうだろうしかといって今「実はわたし数分前に正式に退部しちゃったんですよねー」なんて言えるか言えないでしょ。

「そ、そん〜な〜。受験生の貴重な勉強時間を奪うわけにはいきませんってぇ〜」

 語尾が不自然に揺れているのが自分でもわかる。勘づかれたりしてしまわないだろうか。
 しかし伊予澄は、そんなこと微塵も気がついていません、というように、あっはっは、と気持ちよく笑っている。

「べつに構わないよ。何だか僕、同級生より早くスランプが来ちゃったみたいなんだ」

 悟った。もう抗うのはやめよう。
 タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど後ろの職員室から出てきた女の先生に授業開始2分前だと知らされ、挨拶もそこそこに、ようやく本来の用事を思い出した彼から逃げるように、教室へ走って帰った。
 さあ、あのしっかり者の前部長になんて言い訳をしようか。
 無理矢理に笑顔をつくりながら自席に着いたので、冷房の設定をいじろうとわたしの近くへやって来たご機嫌斜めな麗華に、わかりやすく顔をしかめられてしまった。一部を除いて全室一律の温度設定だったらしく、彼女の機嫌はますます悪くなった。







 嘘をつく、という行為が昔からあまり得意じゃない。他人相手だと、なおさら下手くそになる。
 初めてお兄ちゃんの異変を知ったあの日も、夜に帰ってきたお父さんの「今日あいつ、普通だったか」という問いにうまく答えられていた気がしない。あの件は結局お母さんの口から嘘がばれて、わたしとまとめて酷い言われようで非難されたのだけど。
 苦い記憶がせり上がってきそうになって、お腹の奥に押し込んだ。ここでおえーとぶちまけてしまっては、わたしを異端の目で見る人間がまたひとり増えるだけで何も良いことなんてないだろう。いや、彼なら案外優しく介抱してくれるかもしれない。

「…………と、顧問からは聞いたんだけど」

 そんなわたしの今いるところは、麗華に半殺し、いや四半殺しにされかけた場所であり、目の前には伊予先輩が立っている。やっぱりこの場所は恐ろしいほど人通りがなくて、日当たりが悪くて、じめじめしている。
 どうやらついに知られてしまったらしい。わたしが、1時間半ほど前に、正式に退部したということを。
 周りの湿気が倍増していく感覚がした。息苦しい。

「ミカはそれでよかったの?」

 ああ、また同じ台詞。顧問からも担任の先生からも、何度もそう訊かれてきたというのに、また訊ねられなければいけないというのか。また同じ回答を繰り返さなければならないのか。
 そこに生々しい感情なんて、もうこれっぽちも含ませられないのに、この人はそれもわかって言っているのだろうか。

「すでに決まったことを、決めたことを覆す気はありません。入部してしまった以上、それが最大の償いだと思います。サボりなら1回だってしませんでしたし」
「うーん、そうかなあ……うーん」

 先輩はひかえめに頭を掻きながら、唸っている。
 わたしは誰になんと言われようと、退部を取り消すつもりはない。"彼女"が今すぐにでもやって来て、目の前で土下座しながら今までのことを詫び、引き留めてくれるというのなら話は別だけど、その代わりに今まで"彼女"がしてきたことは、伊予先輩はもちろんのこと、部員全員とクラスメート全員、そして関係のある先生全員にすべて白状させるだろう。そこまでさせたいほど、わたしは"彼女"に対して怒りを抱いているし、軽蔑している。呆れて無関心になることはまだできない。
 くだらないかな、そんな復讐。そんなことをしようものなら、今度はわたしが軽蔑されてしまうかな、みんなに。謝ったんだからもういいじゃんって。ありふれていて、他人事で、偽善の塊の言葉を投げつけられる未来が容易に想像できる。

「もし僕が、あの副部長だったら」

 密かにため息をついていると、彼が答えを思い付いたらしい。

「もし僕があの、ちょっと短気で熱血の"前"副部長だったら、僕はきっと、辞めること自体に対して怒ると思うんだ、ミカに」
「……でしょうね」

 彼──前副部長は1年生のとき、それこそテストの点数なんやかんやで両親に強制退部をさせられかけたことがあるらしい。迫る1年生大会では伊予先輩とペアを組む予定だというのにそんな無茶を言われ、結局冬休みをすべて勉強でぶっ潰して親に勝ったそうだ。そのときから、責任というものに関して、よく言えば真面目に、悪く言えば過敏になった。そんな彼のブレーキ役として、伊予先輩は部長になったんだそうだ。副部長ではないあたり、当時は今より相当尖っていたんじゃないだろうか。

「でも僕は、そうじゃなくて、ミカの気持ちについて話してるんだ。なんだか今のミカは、迷いなんてないように見えて、はっきりあるようにも見えるよ」

 真っ黒なアスファルトに目を落とす。
 ああ、そうか。
 突然何かが消えてしまって、身体のどこかにぽっかり穴が空いてしまったみたいなこの感覚。いつでも動くよ、今日はどうしたのって、足が、腕が、脳に呼び掛けてるような、問いかけてるようなこの感覚。それらに対して、どう接したらいいのか、わたしはわからなくなっている。
 わたしは、あの部活が、大好きだったのかもしれない。

「せんぱい」
「ん?」
「それは多分、迷いなんかじゃない。ただの、情けない後悔だ」
「ミカ」

 彼の顔を、目を、見ることができなくて、ずっと俯いたまま答えた。

「わたしは、あることと引き換えに、あの場から去ることを選びました。それは勉強でもなんでもなくて、痛みから逃れるための馬鹿な選択で。逃げても逃げてもわたしはあの子からも現実からも逃げられないって、こうやってぐるぐる同じところを回りつづけるってわかってるくせに、こうすることを選びました。やっぱりわたしはあの人の妹だから、同じ血をわけた子だから、しょうがないのかなあ」
「何を言ってるの、ちょっと、わからないんだけど。落ち着いてよ」
「だからわたしは、終わりのない悲しみに、苦しみに、むなしさに、ずっと向き合わなきゃいけない。今気づいたこの薄っぺらい後悔も、ずっとこれから抱えていかなくちゃいけない。ううん、抱え続けるべきなんです。尚更あの場所には戻れない。帰るべきではない。伊予先輩、ごめんなさい、わたしは「ミカっ」

 え、と声が漏れるよりも前に、わたしは彼に抱き寄せられていた。視界が真っ暗になって、暑苦しいはずなのに、不思議と心は落ち着いていった。
 いつの間にか不規則に乱れていた呼吸が、元に戻っていく。

「せん、ぱい、何を」
「僕にはよくわからないけど、ずっと、辛い思いをしてきたんだね、辛かったんだね」

 なんで。あなたの声が、震えているの。

「気づいてあげられなくてごめん。だいじょうぶ、なんて、無責任なことは言えないけど、」

 言いかけたところで、ゴトッ、と遠くから物音が聞こえて、互いに慌てて離れてしまった。ただの気のせいだったのか、辺りには再び、ぼやける掛け声混じりの静寂が訪れ、彼に気まずそうに苦笑されてしまった。

「あっ、ごめん、その」
「良いですよ、別に。やましいことなんて何もしてないじゃないですか。むしろありがとうございます」
「え?」
「取り乱してしまったので」
「……落ち着いたなら、よかった」

 また沈黙が流れていく。彼がなにか言いたそうにしていたので少し待ってみたけど、俯きがちに自らの首へ手を添えているままだ。
 申し訳ないけれど、わたしも今日はあまりゆっくりしていられない。

「あのー、先輩、塾の時間のことがあるので、そろそろ失礼してもいいでしょうか」
「ああうん、えっと、ご、ごめん」
「すみません、それじゃあ」

 スカートと長くなった髪を翻して、教室に鞄を取りに行こうとしたのだけど。

「あっ、のさぁ! ミカ!」
「え?」

 随分思い切ったみたいな呼び掛けに、走り出しそうになっていた足をとめて、振り返った。

「僕でよければ、いつでも話、聞くから。ミカのこと、好きだから、少しでも、力になりたいんだ!!」

*7* ( No.17 )
日時: 2017/12/05 06:44
名前: 厳島やよい

「えっ、と…………え?」

 それが彼の、突然の大告白だと気づくのに、きっかり10秒もかかってしまった。
 いや、知ってましたよ。だなんて、口が裂けても言えないけど。これはどこからどう答えれば良いのだろう。少なくとも颯真くんのときみたいにはしないほうがいいのかな、ほどにしか頭が回らない。
 頬どころか耳たぶの端まで真っ赤に染めている彼を前に、わたしはどうしたらいいのだろう。正解は?模範解答は?
 あの子のときもそうだったけど、こうして恋愛感情を剥き出しにされるのって、なんだか少し恐ろしいというか、気持ち悪いというか。相手が自分も好きな人だったら、たとえば……コウヘイだったら、こんなことは考えないのだろうか。

「あっえっ、その、ありがとうございます、すみませんでしたごめんなさいっ!」

 この熱のある空気に耐えきれず、わたしはそう言って、逃げるようにその場から走り去った。彼がどんな顔をしていたかなんて確かめる勇気はない。すぐに背を向けて、死ぬ気で、とりあえず荷物をおいてあるままの教室に帰る。

「どっ、どーしたのよミカ?」
「へへへ、なんでもないよお、ふううふふふ」

 さっきまで委員会の集まりに出ていたという、残っていた女の子にぎょっとした顔で訊ねられてしまった。本当にわたしって、誤魔化すのとか嘘をつくとかっていうのが下手っぴいだ。
 クーラーの効いた教室は、空気も気持ちよく乾いている。窓から見えるまだ入道雲ばかりが連なっている9月の空が、なぜだかとても穏やかなものに見えた。

「ねえ、もしかして、誰かにコクられでもした?」

 ぎくっ。
 そんな音が背中あたりから聞こえるようだった。
 振り返ると、彼女はわかりやすくにやついている。そういえばこの子、最近隣のクラスの彼氏との3ヶ月記念をサプライズで祝われたとかなんとか、誰かと話してたっけ。わたしがとやかく言えることではないけど、毎度そんなことをしていて互いに疲れないのだろうか。

「やだなあ、そういう冗談はエイプリルフールにとっておきなって」
「ん? エイプリルフールは嘘をついていい日じゃなかったっけ?」
「まあなんでもいいじゃん」

 もう、どいつもこいつも!
 ちょっと休憩してから帰ろうと思ったけど、それじゃあ余計に激痛の腹を探られるだけじゃないの。あー帰る、帰るぞ。
 じゃあ頑張ってね、ばいばーい。と互いに身勝手な挨拶を押し付け合って廊下に出る。足取りは史上最悪に重い。重たすぎて床を割りそうだ。どうしよう。もう伊予先輩の顔を見られないかもしれない。話せない、会いたくない、ぐちぐちぐち。
 そんなこんなでこの国の蒸し暑さへの不満とできたてほやほやの絶望にまみれながら、汗臭い、もう誰もいない靴箱にたどり着いた。このような状態でお勉強をしないといけないのかと思うと、憂鬱以外の何物でもない。

「あんたなんかいなければよかったのに」

 上履きを脱いで床にうずくまっていると、すぐそばからそんな声が降ってきた。
 ついに幻聴でも始まったか。自滅への道なら何も今歩き始めなくたっていいじゃない。むしろ遅すぎる。と、思ったのも束の間、軽く蹴られたらしい。身体の軸が折れたみたいに揺らいで、反射的に手のひらが床についた。
 さっき掃除されたばかりだというのにもう砂だらけの床へ、ぺたんと座り込んでしまう。

「あんたなんか、死んじゃえばいいのに」

 低くて小さな声の主を見上げる。
 垂らした前髪の影から覗いた顔は。

「れい、か?」

 さっき見た伊予先輩のそれとは違う意味で真っ赤に染まっていて、今もなお目から溢れつづけている涙でぐしゃぐしゃになっている。唇の色が端からうっすら滲んでいて、色つきのリップクリームを塗っているらしいことに気がついた。もちろん、そんなの先生や女の先輩に見つかったらスカート丈のことより酷く叱られるだろう。
 …………まさか、さっきの物音の正体って。

「ミカっていてもいなくてもどんどん周りを不幸にしていくよね。しかもあたしばっかり。すっげえ迷惑だね。生きてても死んでもごみだよきっとごみ、いやごみ以下だよ。あーーーーーーーーーあ、クソだわまじで」

 幸いにも、そんな稚拙な暴言を吐かれている間わたしの身には何も起こらなかったのだけど、精神的には相応の痛みを感じた。数年前のお母さんの心境と、今の彼女は表面上なんとなく似ている。
 こんなんじゃ、わたし、この子の前でしぶとく生き続けることも、この子の前で自殺することも出来ないじゃないか。いや、よほどのことがない限りは本当に死ぬつもりなんてないけど。……どっちにしても周囲には被害者面を向けるのだろう、彼女は。最悪「いじめなんて須藤美佳の虚言です」とか無理を通しかねない。お兄ちゃんも軽微な虚言癖があったみたいだから、警察や颯真くんなんかが下手に動く騒ぎになれば、わたしは勝手な病気扱いを受けるかもしれない。そんなのごめんだ。あーっ、お兄ちゃんを悪く言っているわけじゃないんだよ、許して。
 痛いな、心が痛いな。伊予先輩はわたしなんかじゃなくて、麗華を好きになってくれればよかったのに。そうすればすべてがまーるく収まって、みんな平和でハッピーになれたのに。
 更にひとことふたこと、彼女は飛んでくる唾とともになにかを言い捨ててどこかに消えていったけれど、その足音でさえただのノイズにしか聞こえなくなったから、何を言っていたかなんてまったく思い出せない。これから彼女の声だけ頭が認識できなくなりそう。きょひはんのうというやつだ。

「ミカ、あんたもしかして、いつもあんなこと言われてんの?」

 そのせいか、直後にすぐそばからしたその声も半分くらい母音しか聞き取れず「だいじょーぶー、生きてるかー」と目の前で手をひらひらされた。

「ぁあ、雨音ちゃん」

 かすれた声が出てくる。

「よかった生きてて。つーか、ちゃん付けやめてよ、なんかキモい」
「雨音ちゃんはどうしてこんなところにー?」
「人の話を聞け! んん…………なんか練習に集中できなくってさ、部員に迷惑かけたくないし、ひとりで外周でも走ろうかと思って」
「そっかあ」

 何だかんだできちんと質問に答えてくれるので、雨音ちゃんはとても優しい。
 彼女が差しだしてきた手のひらに支えられて、立ち上がった。ほんの少しだけ、目の前がふうっと暗くなったけど、気のせいだろうか。

「ねえ、ミカ大丈夫? すっげー疲れてるみたいに見えるんだけど」
「錯覚でしょ、錯覚」
「……そう」

 そうだ、こんなところで、あんな人間のために落ち込んでいる暇はないのだ。
 のろのろと上靴を脱いで、ついさっきまで履いていた生ぬるいスニーカーへ再度足を突っ込む。そうだ、須藤美佳。そのまま走り出せば、あの冷房キンキンな塾にきっと一瞬でたどりつくぞ。

「じゃあ、わたし、ちょこっとだけ急いでるので」
「ああ、そりゃ悪かったね、気をつけて」
「うん」

 本来の目的も忘れたまま立ち尽くしている雨音ちゃんに見送られ、彼女の視界から消えるまではゆっくりゆっくり歩いていったけれど、最初の角を曲がり、頭がとけていきそうな暑さを実感した途端、自覚するよりも早く脚は動き始めた。

「うおおおおおお」

 そうだ、走っているのだ。熱風を巻き起こし、奇声を発しながら。
 やっていられない。好きとか死んじゃえとか大丈夫かとか、こんなに短い間に色々な言葉を浴びてしまって、やっていられない。
 何故かリコーダーをぴいひょろろと吹き鳴らしながら歩いている小学生には変質者に向けるような目で見られてしまったけれど、そんなことを気にしたところでわたしの人生は後ろ向きのまま何ら変わらないし、ていうか本当に変質者なんだからね。自分でも何を言ってるのかよくわからないけどもういい。まじでやってられない。
 このまま、この照りつける暑さで脳みそも骨も全部溶けちゃえばいいのにと本気で思う。でもそうしたらわたしは死んじゃう。そんなのはいやだなあ。

「はーはっ、はー………………はああ」

 気がついたら自販機に頭をぶつけ息を切らしていた。しかも笑いながら。倒れる前に水分補給をしよう。
 後々面倒なことになるので今まで誰にも言ったことはないけれど、塾のある日は鞄に小銭入れを忍ばせてある。以前から、部活帰りの同年代の人たちで賑わう時間帯をなるべく避けて予定を組んでいるため、帰りは大体彼らと入れ違いになる夕飯時。だから近くのコンビニで、飲み物やおにぎりなんかを軽く買ったりするのだ。もちろん、毎回ではないけれど。
 あそこはわたし以外、隣の中学や知らない高校に通っているような人たちばかりだから、先生に告げ口されることもないだろう、と見込んでいる。それこそ麗華たちに盗まれたりしたら、わたしはご臨終するかもしれない。いや死なないけど!!!
 取り出し口に落ちてきたスポーツドリンクを手にとって、頬に押しつける。なんとも心地よく冷たい。

「お?」

 そうして、右向け右の号令を掛けようとしたとき、てってれーん、といかにもな古くさい音が自販機から聞こえてきた。まさかと思って見てみれば、ルーレットの表示がオールラッキーセブンになっているではないか。お、おお?当たっちゃった?
 喜びにまかせて小躍りしたい気持ちを抑えこみながら、伸ばした人差し指をふらつかせる。この中で一番お値段が高いのはコーラだけど、苦手だしなあ。かといってコーヒーでも飲めないし、お茶だなんてつまらないしもったいないし。
 そうこうしていたら、カウントダウンらしい数字がとうとう1桁になってしまった。
 ええい、もうさっきと同じやつでいいや。







 と、いうわけで今現在に至る。色々と省略しすぎている気もするけど。

「ほんとにきみは突然わけのわからないことをするんだね」
「そんなにわたし、何度も変なことしてる?」

 わたしの運が当ててくれたもう1本のスポーツドリンクを手に、後ろを歩くコウヘイ(ついでに学校への金銭持ち込みという秘密もその手に握られている)はまさに汗びっしょりといった様子だ。きっと彼も早く涼しい我が家に帰りたいのだろうに、ふたつ返事でわたしなんかのおサボりに付き合ってくれるとは。やっぱり、ふたりはよく似ている。

「そういえば、そんなにしてないかも」
「でっしょー? ひとを簡単に変人扱いしなーいの」
「…………」
「こら、そこは元気よく返事をしなさい」

 物理的にも精神的にも後ろ向きに歩きながら、ビシッとご指導を入れる。
 すると、突然思い出したのか、脇見歩行をしながら彼が口を開いた。余計な力が入っていないその目元、きれいで好きだなあ。

「ミカ、最近元気ないねって、掃除のときに女子が言ってた」
「え?」

 思わず足が止まる。
 行方不明、脈絡14歳。捜索状況は依然困難となっています…………ではなくて。

「僕って、ひとの繊細な変化とか気持ちとかよくわからないんだけどさ、それでも今朝のミカは、少しいつもと違うような感じがしたよ」

 今朝。
 いまよりは幾分か空気が軽くて、たしか蝉が鳴いていて、足元には鏡みたいに綺麗に透きとおった水溜まりがたくさんできていた。
 家の窓から見た広い空。目にしみる強い風……机の上にあった退部届け。
 どうした?
 自分のものか、コウヘイのものかもわからない声が耳の奥に響く。

────……好きな人とかさ、いる?
────そう。わたしはね、わたしは、いる。好きな人

 閉じられた紫の傘、濡れていくあの子の長くてきれいな髪、初めて見た彼の私服姿。

「ねえ、ミカ」

 頭がぼうっとしてきて、足元が柔らかく感じかけた瞬間、コウヘイの顔がぐんと近づいてきて、目が覚めた。目が覚めた、だなんて、さっきまで夢を見ていたような言い方はおかしいけど、まさにそんな感覚がわたしの表面に降り立ったのだから、仕方ない。
 あれ、なんか、変だ。なにかが。わたしの頭がおかしいのかな?

「大丈夫?」
「え、すっごく元気だよわたし!」
「…………なら、いいんだけどね」

 暗い色の目をわずかに細めた彼に向かって薄っぺらい偽りの笑いを吐き出しながら、今度は前を向いて歩き始めた。幸いにも、コウヘイは目的地に到着するまで後ろで一定の距離を空けたままついてきてくれていたので、わたしはずっと黙っていた。彼も何も話さなかった。








 こんなところに公園があったなんて初めて知ったよ。そう言ってわたしを追い越し、入り口に向かって駆けていく彼の動きをじっと見詰めながら思う。さっきから喉に引っ掛かっているこの違和感はなんだろう。そもそもどうして違和感など抱いているのだろう。
 木陰が濃く落ちたベンチに倒れこむように腰掛けたコウヘイは、さっきまでの沈黙が嘘のように「あーあっつい」「やべえ」なんて言いながらシャツを緩めたり、ジュースを飲んだりしている。わたしが中に入ってこないことにも気がついていないらしい。
 変に心配されたくはないので、ここはひとつ、童心に返ったつもりで。

「うわーいっ」

 何度ここに来てもいちばん始めに目に留まる、わたしのお気に入りの遊具に飛び乗った。塗装が剥げ、錆びて真っ黒な部分を掴んでしまってこれまた熱い。
 わたしがここを見つけたのは、この町に引っ越してきた日だ。次の日とかじゃなく、その日だ。力仕事が苦手で、特にすることもなく邪魔者となってしまったわたしは食糧の調達という大切なお仕事をこなしていたのだけど、例のごとく体力は足りないし、ついさっきやって来たばかりの街を歩き回るなどという大変なことをして疲れたので、一休みできそうな場所にここを選んだ。袋の中には生卵なんかも入っているため、買い物用のメモを手渡された瞬間から自転車を使うのは諦めていたのだ。一足早く真っ白な桜が咲きはじめていたあの景色は、きれいだった。

「えへへっ、暑いのが気持ちいー」

 前に住んでたとこじゃ、これ、子どもたちには回旋塔って呼ばれていたっけ。お母さんには、回旋塔じゃあないと言われてしまったけど────あれ、何で違うんだっけ。帰ったらネットで調べよう。

「頭がおかしくなったのはミカのほうなんじゃない? 熱中症にでもなった?」
「なによっ失礼な。スポドリならここにあるもん。そんなことより、コウヘイもこれに乗りなさい」

 彼の表情はわたしが一周回る度に絶妙に変化していく、なんていうことはなく、真顔のまま鼻の頭に浮かぶ汗の粒を手の甲で拭うだけだ。

「やだよ、乗り物酔いする体質だから。…………あのねえ、僕は、か弱い女の子が点滴刺して痣だらけの腕になっちゃうような展開になったら、親御さんも君自身もいたたまれないと思って言ってるんだ。ちゃんと話を聞こうか」

 そんな台詞を聞きながらも、なんだかコウヘイの声が近くなったり遠くなったりする感覚にとりつかれる。彼の言うとおり暑さでおかしくなっているのかもしれない。
 ひょうんっと乾いた砂の上に着地してから、わたしは何か一言二言、自分自身に対してか彼に対して言っていた気がするけど、思い出せない。

「やっぱり塾行くよ。振り回しちゃってごめん」
「ああ、いや……ばいばい」
「バイバイ! また明日ね!」

 鞄をきちんと背負い直し手を振って、公園の出口に向かって走り出す。
 嘘をついて、隠して、罵られて、わがままやって他人をふりまわして、わたしって嫌な人間になったなと思う。いつからこうなってしまったのかな。ああ、でも、いつから、なんて馬鹿みたい。物心ついたときからじゃないの。

「あ、忘れ物してるよ、ミカ」

 水の中に潜ったときのようにくぐもって聞こえてきた声で、わたしは無意識にこの足を止めて振り返った。
 視界もぼやけて、彼に当たる太陽の光がやけに白く眩しい。

「言いたいことが、あってさ」

「美佳、ありがとう。僕と友達になってくれて。あのとき、声をかけてくれて、ありがとう」

 あれ、なんか、やっぱり違う。

「ふふふふふ、ふふっ」

 だれだろう。何もかもを忘れて笑ってなどいるのは。
 数瞬、音もなく辺りが真っ暗に陰ったかと思えば、それはすぐに消え去っていく。彼はまばゆい光の中に突然現れたおさない少年を突き飛ばすように駆け出した。そのかわりに、少年に向かっていたはずの陰の固まりをその身に一心に受けて。

「こう、へい」

 コウヘイの背中が、弾けていった。跡形もなく。

「だめだよそんなの」

 ひどい蒸し暑さも、緑色に濁った川から漂ういやな臭いも、ジュースの味も風の感触も全部本物なのに、ちがう。ちがう。ちがう、ちがうちがちがが、ち、が…………………血と、肉が、残っただけだ。また。

「ぎ    っ、               ぁああああああああああああ、う、っっっっ






*8* ( No.18 )
日時: 2017/12/29 23:29
名前: 厳島やよい

 いつのまにか、自分の部屋の一角で叫んでいた。豆電球の明かりもない闇の中で、ドアノブに、必死に震える手を伸ばしながら。
 そうか、夢だったんだ、あれは。だから時々事実と異なる部分が見えたり聞こえたり、自分と彼がすり変わってしまっていたんだ。
 でもコウヘイが助けたあの男の子は、わたしが怪我をした理由でもある子だったのは確かで。気を失う直前に間一髪で無傷だった彼を見たのが最後だけど、元気にしているだろうか。
 もうあれから3年も経とうとしているなんて、信じられない。

「こわいね、ミカ、こわいね、こわかったね」

 なぜか涙声のお母さんに抱き締められて、赤子でも宥めるように、熱い頭を撫でられていた。パジャマはぐっしょりと汗で濡れていて、布地がちらちら肌に触れる度にいいようのない寒気がした。
 ふと部屋の中の壁時計に目を凝らしてはみたけれど、ぼんやり緑色に光る針は22時前を指しているじゃないか。あんなに長い夢を見ていたのに、まだこんな時間だなんて。
 コウヘイとの海辺へのおでかけから帰ってきた途端に身体がだるくなって、夕飯も食べず、すぐ着替えてベッドに直行したことまではよく覚えている。この寝汗の量に、自覚できるほどの高い体温。明らかに風邪だろう。
 それにしても、どうしてお母さんはこんなところに。お風呂から上がったばかりなのか、頬に当たる髪は微妙に湿っているし、寝間着もズボンならちゃんと穿いているけれど、上は下着代わりのTシャツしか着ていない。

「大丈夫。お母さん、ここにいるからね」

 聞き覚えのある言葉で、答えは導き出された。
 あの人がいなくなってしまう少し前、こんなことがよくあったんだっけ。まあ、そうでなくとも、眠っていたはずの娘が何の前触れもなしに大声を上げれば、だれでも様子を見に来るだろう。

「ごめんね、泣かないでお母さん、わたしはどこにもいかないから」
「そんなこと…………」

 彼女は言いかけて、口をつぐんだ。混乱している記憶がまだ元通りに戻っていないことになっているからだ。
 情けない秘密がバレてしまったのかどうかはわからないけれど、その瞳によくないものがきらめいたのが見えて、わざとらしくも話題をそらすことにした。

「始業式の日、ちゃんと学校行けるかなあ。コウヘイが心配して、わたしよりも高熱出しちゃうかもしれないし、早く治さないとね」

 そう、彼のことだから。いくら4月だといっても海辺は寒くてわたしの身体を冷やしてしまったんじゃないかとか、人の多い駅を使ってしまったせいで菌をもらってきてしまったんじゃないかとか、どうしようもないことで悩んで本当に寝込んでしまうかもしれない。喜ぶべき2年生の春なのに台無しにしちゃうだろうな。
 高校に上がったくらいから、コウヘイは心配性になった気がする。良くも悪くも、あの人は変わったと思う。

「母親に気なんか遣うんじゃないわよ、ばか」

 やだなあ、当然のことをしているだけなのに。











 彼の時は止まったままだ。正確には、進むことを知らないだけなのかもしれない。
 長い間、色褪せた世界が彼の周りを、ただ、ただ、覆い尽くしている。
 どうしてこの世界はこんなにもさみしくて、騒がしいのだろうと、彼はよく考えていた。何度も思考を重ねたところで、答えなど出たりはしないのに。
 だから今日も、ほのかな月明かりだけをたよりに、彼は彼自身に傷を刻みつける。
 カッターの刃では冷たいから、きもちよくはないから、この手だけでいい。そうして滲み、真っ白な肌の上を、時間をかけて滑り落ちていく色が見えているだけで安心できた。
 まだ自分は生きているのだと。まだ世界には確かに、この色が残っているのだと。














 正式にはもう、何日も前からなっているけれど、僕らは晴れて今日から高校2年生に進級した。
 クラス替えの結果も運がよかったとしか言いようがないほど本当に素敵なものになった。ミカとはもちろんのこと、颯真や雨音も一緒で、ミカや自分自身のお願いも叶えてあげられそうなのだ。颯真とは去年離れてしまっていたので、余計に嬉しい。

「げ、有明もA組じゃん」

 クラス発表の模造紙の前に群がる生徒たちの最前列でそんな幸せを噛み締めていたら、すぐ隣からよく知った声が耳を貫いてきた。
 そう、その声の主はまさに、

「うぶしろれいかじゃん」
「謎の棒読みでフルネームの呼び捨てはやめろと何度言えばわかる! そこはもう驚くほど健在だね」
「あーはいはいレイカさま、よーくそんなこと覚えていらして」
「それはもっと嫌だ、せめてウブシロ!」
「じゃあレイカ」
「最初からそうしてよもー」

 僕も大人にならなければと思い昔のことは気にしないと決めたので、至って普通に接しているのだけど、彼女はさっきから僕の耳元で声をキンキン響かせてくる。それを近くで見ていたらしい1年のときのクラスメートに「おーいコウヘイ、浮気か? カノジョに言いつけるぞー」なんてからかわれてしまったけど、数年前の僕の口からは決して出てこなかったような大きい声と言葉がするすると出てきて、周囲の、彼を見知った人たちから大笑いが飛び出した。なぜか麗華は真っ赤な顔で僕を引きずりはじめたのだけど。

「下品、下劣」
「はあ? どこが」

 確かに僕は変わったのかもしれないな、と思った。下ばかり見ていた顔を上げ、少しは周囲を見渡して背筋を伸ばすようになった。以前より身なりにも意識を向けるようになった。そうしたら自然と、素敵な仲間が歩み寄ってきてくれた。こういう生き方が、せめてもの罪滅ぼしなんじゃなかろうかと、考えている。誰に対するものなのかは…………きっと死んでも彼らには言えない。
 根本的な暗さはどうも染みついたままなのだけど、みんな、そんな僕を気遣ってくれて、時々ひとりにさせてもらえている。こんなに幸せでいいんだろうか、僕は。もう一生分の運を使い果たしてしまった気がしてならない。
 まだ発表の結果を見られていない人達に申し訳ないので、制服を引っ張ってくる彼女には抗わず、早速教室に向かうことにする。今日は登校途中に会わなかったミカも、もしかしたら先に待っているかもしれない。

「あれ、レイカ、もしかして髪染めた? それに化粧も」

 薄暗い廊下を歩いている途中、なんだかレイカの"色"が違うなと気づいた。

「しーーーっ、先生に聞こえる」
「あぁ、ごめん」

 ふたりで辺りを見回す。幸いにも生徒たちしかおらず、ほっと胸をなでおろして階段に足をかけた。2年生の教室は3階のフロアにある。去年より階段の段数が減ってくれたのがなんともありがたい。

「うるさい先輩が丁度卒業したから、試しにやってみてるんだよね」
「ふうん」

 彼女の髪は微妙に茶色でカールがかかっているし、肌は少しだけ白っぽくて唇の色もピンクをしていた。
 うちの学校は平凡な公立のくせに、制服だけはおしゃれだと評判だけれど、校則に関しては至って普通のどこにでもあるような決まりしかない。もちろん化粧も染髪も表向きは禁止なのである。若い先生や転任してきた先生だと生徒には特に何も言わないものの、昔からいるような人だとビシバシ指導を入れていくことが多い。それが定年間近の女体育教師なんかだとなおさらだ。そのため一部の女子生徒たちは、いかにその先生たちに気づかれぬように化粧できるか、研究に研究を重ねていて、どうやらSNSで互いに情報交換もしているらしい。そこまで情熱をかけられると、僕ら男子もついつい尊敬してしまうわけで。

「ミカは髪さえ染めないよな」
「あの子は素材も造形も全部きれいじゃん、まだ必要ないでしょ」
「お、褒めるねえ」
「だって本人が絶対に認めないんだもん。雨音が美人さんだから尚更」
「そんなにあいつって美人か? ていうか、なんでそこで雨音が」
「うっわあ、神経麻痺してやんの」

 そりゃあ確かに、周りの女子と相対的に比べれば、雨音の顔は整っている部類には入るとんだろうけど。言葉遣いがすべてを打ち砕いてしまっているところがあるし、そういう意味でも、きちんと血が通っているというか。本当の美人って、男性でも女性でも、とても冷たいものを持っていると思うのだ。表情とか、もう内面自体とか。
 踊り場の窓から外を見下ろすと、校門の接している大通りには呆れるくらいに、ぼけた色の桜たちが咲き誇っていた。さっきあそこを歩いてきたときも頭や制服に花びらがまとわりついてきて、めちゃくちゃむかついたんだよな。

「そういえば、有明は部活入ってるっけ?」
「いや。中学から帰宅部だし、もう今更っつーか。ミカも、最初は美術部が気になってたみたいだけど、結局僕と同じ結果に」
「うわーお」
「社交辞令できいてあげるけど、きみは何の部活に入ったのかな」
「ひとこと余計だけど教えてあげるよ。美術部」
「は?」
「だから、美術部」

 ううん、ちょっと自分の聴力が疑わしいなあ。
 他人に対する無関心さに拍車がかかっていたあの頃でさえ、彼女が美術の授業中に生み出していたあの禍々しい作品の強烈な印象が、頭の隅で焦げるレベルだったというのに。

「えええ? レイカ、絵、超下手くそだよね? 犬を描けば何故か鳥になり、逆に鳥を描けば」
「言いたいことはわかるけどあと5枚くらいオブラートに包んで」
「オブラートって歯ぐきにつくと気持ち悪いんだよね。薬を飲むときならまだしも、昔グミについてたやつ、あれ何の意味があったのかな」
「ごーめん、わたしが馬鹿だったねえ」

 そうこうしているうちに僕らの新しい教室に着いてしまった。まだ半分以上席が空いている。知らない顔の中を探してみたけれど、まだミカも雨音も颯真も来ていないようだ。
 前の黒板には、席順が小さな文字で書かれたプリントだけ、磁石で貼り付けられていた。灰色の壁に掲示物などはもちろん見当たらず、時間割さえまだ作成されていない。ここに入学してきたときは、教室どころか廊下や昇降口まで、紙の花飾りやら何やらでごてごてと賑やかな雰囲気を作り出されていたのに、在校生にはこんな扱いなのか。まあいいけど。

「そーいやあ、画鋲を刺せる壁のとこの色って、学年で色違いなんだっけー。今年は緑か、くだらない」

 濃度の低いため息をつきながら、自席に向かおうと1歩足を踏み出した瞬間に、麗華が呟いた。小さく開いた、画鋲の穴を下品にほじくりながら。

「え?」
「だからあ、ここの色、学年で色が違うんだよねって。去年は水色っぽい感じだったじゃん」

 つんつん、と、長く伸びた爪で壁を叩く、彼女のあきれたような顔。麗華は何も知らないし、たぶん、人の話を聞けよという意味を込めているんだろうけど、僕は焦ってしまった。
 だって、文字通り、この視界には灰色しか映っていないから。
 いつだったか、だれかが疲労度診断だとか心理テストだとか言って見せてきた、答えに個人差のあるような微妙な色合いのものではない。本当にただの灰色。ザ・グレーなのだ。

「え、えええ、あ、うん。そうだね」

 どうしよう、これ。今まで、認識できなかったのは青色だけみたいだから全然気にしていなかったけど、今の言葉で、途端にすさまじく心配になってきた。もしかしなくとも、知らないうちにひどくなってないか?色盲と呼ぶべきなのかもわからないこの症状は悪化するのか?
 雨音と、良典さんしか知らない秘密。もしもみんなに知れ渡ったりしたらどうなっちゃうんだろう。
 教室の中の景色も、窓の外のまぶしい世界も、廊下も何もかも全部偽物に見えてくる。その不安を、過去に聞いた同級生や先生たちの台詞が増幅させるからよけいに恐ろしい。美術の授業中の「個性的な色使いだね」ミカが言った「読みやすいノートだね」そう言った本人は深く考えていなかった可能性だって十分にあるのに。ていうか9割9分の人がそうだろうに。ああ、ミカや颯真にも言っておいたほうがいいのかなあ、こういうことって。

「まあ、いいけど。6月の文化祭で、さっきの発言、後悔しなよ」
「は?」

 脳みそを乱暴にかきまぜられてしまったみたいな混乱が襲ってきて、話にまったくついていけない。きっと僕の目はおかしいのだ。いつか ら?いつからなんだ。
 麗華はひらりと、わずかな香水の匂いとともに僕を追い越していき、窓際の席に着いてしまった。50音順の並びなので僕の4つ後ろの席らしい。
 鞄を机のわきに掛けるなり、もう、隣の席にいた顔見知りとともに新しい友達作りを始めている。人間関係に関してはまだまだ彼女を見習わなければならないようだけど、根本の出来がちがうのだからその辺は放っておいてほしい。僕は数が少なくとも、互いを大切に扱う友人とかわいいかわいい恋人がそばにいてくださればそれで十分なのですよ、はっはー。
 なんて、窓際のいちばん前の席に突っ伏しながら考えていたら、数分後突然誰かに叩き、いや殴り起こされた。学校では万年ロングポニーテールの雨音だ。なぜかはわからないが顔に「超機嫌が悪い」と書いてある。

「どうせまだ使いもしない新品の教科書の角で頭を殴って熟睡している人を起こすなんて性格が悪いね! 痛いな!」
「角を当てるつもりはなかったんだけどごめんね! なーんであいつまでA組なんだよ」
「え? あいつってだれ」
「嶋川。なんか昔からあんたにいっつもくっついてるヤツ」

 ああ、颯真のことか。いつのまにか賑やかになっている教室を見渡すと、2列分は離れた席についているこれまたなぜか性格の悪そうな笑みを浮かべている彼と目が合った。
 昔から、ねえ。なんだかあいつとは、ずっと前からつるんでいるような気がする。実際には……あれ、いつから一緒なんだっけ?やばいなあ、こんなことを本人に言ったら次の日には死んでいそうだ。どちらがとは言わないけど。

「しかもあいつ、あたしのすぐ後ろの席なの、最悪! 初めて自分の名字を呪ったわ」
「ちょっとちょっと、僕にキレられても困るんだけど。雨音はどうして颯真のことがそんなに嫌いなの? 大体、今まで同じクラスになったこともないじゃないか」

 ああ、そういえば話していなかったっけ、と彼女が怒りのモードを解除なさる。最初からその調子でいてくれれば僕も無意味な頭痛を訴える羽目にはならなかったのに。

「初めて会話……ていうか一方的に話されたのは中2の冬頃なんだけど。放課後に図書館で本を選んでたら、あいつが後ろに立ってて『きみと僕は似てるよね』とかいきなり言ってきやがったの。さすがにキモすぎっしょ」
「あー、なるほど」
「その後も、なんか知らないけど、じっと見てきたりニヤニヤ笑ったりしてきてさ」

 そういうところ、ある。あります。
 不思議ちゃんなところというか、彼の場合、他人のことをよく見過ぎているがゆえにそういうことが起きたりするんじゃないかなあ。という旨の言葉を、誤解がないようにうまくオブラートも駆使して伝えた。
 まあ、どうしてその観察眼や探究心好奇心を、当時面識もなかったであろう雨音に対して向けたのかは、見当もつかないんだけど。

「というわけだから雨音、彼は変態などではないんだ。断じて………………おそらくは、ねえ、うん」
「現在進行形でにやつきながら眺められているのに、その言葉を信じろと?」
「面白いことが起きるように念力を送っているんだと思うな」
「趣味悪っ」

 彼女は唾を吐きそうな勢いで顔をしかめ、そのまま自席へ戻るべく回れ右をした……と思ったらなぜかそのままくるんと振りかえって。

「あ、そういえば、ミカがまだ来てないんだけど」
「え?」
「あの子の席、嶋川のすぐ後ろじゃん? だから、ミカが来たら取っ捕まえて愚痴を聞いてもらおうってはりきって待ってるのに、全然来ねーんだよ」
「さあ……僕は何も知らないけど。もうすぐホームルーム、始まるのにね」

 言っているそばからいつもの古ぼけた予鈴が鳴る。
 遅刻なんて欠席なんて珍しい、と言えるほど、彼女も心身ともに元気いっぱいな人ではない。もしや不登校の前兆なのではあるまいかと、いつかの自宅養療時代を思い出して気分が沈んでしまう。あんなに暗い顔で笑うミカを、もう見たくはない。

「ミカのアドレスなら入ってるから、訊いておこうか?」
「ああ、うん。お願い」

 ブレザーの深いポケットから携帯電話を取り出してみせた雨音に、お願いすることにした。僕は未だに持っていないから。

*8* ( No.19 )
日時: 2018/01/18 18:04
名前: 厳島やよい

 この歳になっても自分の携帯電話を持っていないのは、良典おじさんが意外とそういうところに厳しいからだ、なんていうわけではない。単に僕が、携帯を持つことを拒否しているだけだ。「欲しくなったらいつでも言えよ」なんて言われても、困ってしまう。持ったところで、ミカに愛のこもった重いメッセージを朝から晩まで大量に送ってしまいそうな気がして…………それはさすがに冗談だけど。
 雨音がミカにメールを送ったすぐあと、返事がかえってくるよりも早く、新しい担任からミカは風邪で欠席だと知らされた。その瞬間は、もしかして僕のせいじゃなかろうかと冷や汗が噴き出したものだけど、心配したところでこちらまで寝込むような展開になってしまっては、だれにとっても良いことなんてない。いつもより早くそう気づいたので、思考を切り替え、きたる来週の入学式のために体育館や校舎内で労働に励み、彼女のいない、寂しくてさわがしい3日間を過ごしたのだ。

「なんか、それっぽい」

 土曜日。
 高校からは自転車を飛ばして約15分、中学からは徒歩で20分弱ほど、僕の家からなら、たぶん徒歩10分くらいのところ。
 雨音と、颯真と、麗華と僕と。合わせるほどでもない予定を合わせて4人でミカの住む場所にやって来たら、麗華がマンションを見上げながら唐突にそんなことを言い出した。

「は?」
「こんな人数で、友達のお見舞いに行くとか、なんかそれっぽい!」

 まあ、言いたいことはなんとなく、わかるのだが。喜ぶべきなのか、これは。
 ビュウビュウと吹き荒れる風をものともせず、はしゃぎながら中に入っていく彼女を3人で呆然と見つめる。

「あいつ、良くも悪くも変わったね」

 なんだかんだ颯真のことを嫌っているくせに一緒に来てくれた雨音はそう言って、何事もなかったかのようにゆっくり麗華のあとを追い始めた。相変わらず長い、高く束ねた髪をゆらゆらさせながら。
 僕もそんな彼女について、麗華を追うことにしようか。僕と雨音は何度もここに来たことがあるけれど、彼女は2度目だし、先に行って見当違いの部屋に駆け込まれては困るし。
 ……そうだなあ。僕たちほとんど、3年前とは変わったんじゃないか。麗華は薄汚い行為から足を洗ってくれたし、ミカはそんな彼女を本当の意味で許せたみたいだし。僕も時間はかかったけど、彼女たちの過去を忘れることに決められて。雨音は…………受験のとき、第1志望だった仁陵に合格できなくて長い間相当落ち込んでいたけど、ここに通えてよかったって、ついこの間笑って言ってくれた。
 あれ、颯真は?
 颯真は、何か、変わったっけ。
 軽く記憶を掘り起こしてみるけれど、なぜか思い当たることが全くと言っていいほど見つからない。

「何、コウヘイ。俺の顔じろじろ見て」

 それほど高さの変わらない、目を細めていた横顔がふと僕のほうを向いた。

「あ、いや、な……なんでもない」
「あー、そ」

 ほらいくぞ、と、いつものように首に腕をかけられて歩き出す。
 まあ、いいか。変化だけが成長じゃないよな。変化などなくとも、颯真は今までも、そしてこれからも、僕にはもったいないくらいの素敵な友人なのだ。
 僕は、確かに少しは成長できたけれど、現実から目を背けていることに変わりはないから。たとえ、ミカが許してくれているとしても。颯真や雨音がこのあやまちを知ったとき、離れたくなったのなら、離れられても一向にかまわない。僕には彼らを引き留める資格もないのだし。




*


「いらっしゃい! 雨音ちゃんとコウヘイくんと、麗華ちゃんと、颯真くん、よね。来てくれてありがとう。上がって上がって」
「休みの日なのに、押し掛けてしまってすみません」

 思わず頭が下がる。ヘッドダウン。
 須藤の表札がかかる部屋にたどり着くと、呼び鈴を鳴らすよりも早く、母親が出迎えてくれた。事前に電話を入れておいたので、僕らが全員ミカと同じ組になったことも、ほとんど面識のない颯真との交友関係についてもすでに伝えてある。理解が早いので助かった。

「へーきへーき。そんなことより、エレベーター、点検中で使えなかったでしょう。大変じゃなかった?」
「いや全っ然問題ないです!」

 答えながら颯真が盛大に息を切らしていて、僕と麗華は無意識に吹き出してしまった。おいおいそれでも元バスケットボール部か、たかが3階分の階段なのに。まあ今は、僕やミカと同じ帰宅部員だから仕方もないけど。
 早速お邪魔して、玄関を高校生の薄汚い靴で埋めさせていただいた。
 余計なものが何も置かれていない静かな廊下を歩きながら、先頭のミカの母親が嬉しそうに口を開く。

「ミカね、もう月曜から学校に行けそうなの。すっかり元気になったし、多分、みんなにうつしちゃうようなことはないと思うけど……」
「だいじょうぶですよぉ、少なくともわたしはこん中でいちばん馬鹿なんでえ!」

 麗華がけらけら笑った。ああ、これか、この前ミカが言ってた、たまにやってる喋り方って。
 正直僕は、ふたりがずっと前から普通に会話をして笑いあっていることが信じられない。あまり詳しいことは知らないけど、母親だって麗華がしたことは何らかの形でわかっているだろうし、その行為の重みを僕らの何十倍も何百倍もわかっているはずだから。

「なら俺もうつらねーわな、紫水とコウヘイは危ないだろうけど」
「それは僕に対する嫌味か?」
「なんでそうな、イテッ」

 ひっひっひー。隣を歩くあほ面を小突いてやった。残念ながら叩いても治るものじゃないけどねえ。
 いつもなら、僕らの前で麗華たちを見ながら歩いている雨音が彼を殴る役なのに、なんだか今日は大人しい。さっき颯真の家に寄った(雨音は外で待っていた)のがそんなに嫌だったのかなと少し気にはなったけれど、そういう気分の日もあるのかもしれないし、何も言わないでおいた。
 手洗いうがいをさせていただいてから、だだっ広いリビングにお邪魔すると、ずいぶんラフな格好で彼女はテレビを見ていた。何年か前に公開されて話題になっていたアニメ映画が、流れている。

「おおお、なんか久しぶりだね。わざわざ来てくれてありがとう」

 いつものように棒アイスもかじっていた。

「ああ、これはね、抹茶練乳あずき味。みんなも食べる?」
「わたし食べたーい!」
「雨音ちゃんは?」
「ああ、あたしも」
「コウヘイは?」
「うん」
「颯真くんはどうする?」
「遠慮しとくよ、たぶん腹が冷える」
「わかったー」

 彼女は母親が麦茶を用意している後ろに歩いていって、がさがさとアイス専用の冷凍室に手を突っ込んでいる。この音がストックの量を物語っているのだ。颯真もそれに気がついたらしく、ぎょっとした顔で「まじかよ」なんて呟いているので笑ってしまった。

「これさ、前、途中までしか見れなかったんだよねえ。親が風呂はいれってうるさくって」
「あたしも。これって録画?ブルーレイ?」

 麗華と雨音がテレビに食いついている。なんだか意外だ。

「ううん。リアルタイムだよ」
「まじか」
「みんなで観る?」
「え、いいの?」
「いーっていーって、あと1時間くらいだし」
「うおー、やったー!」

 ミカから差し出されたアイスの袋を放り投げそうな勢いで、麗華は両手を上げて喜んだ。そんな彼女の前に腰を下ろして僕はあまーいアイスをがじがじと、あ、おいしいわこれ。
 映画は、漫画が原作のストーリーで、記憶にわずかに残っている予告編の第一印象とは違い、薄暗いところが目立つものだった。雨音と颯真だけは僕の感想を聞いて即座に「そんなことない」と口を揃えたのだけど(またもなぜか、雨音は颯真との意見の一致について異議を申し立てず)。まあそんなことを言われたって、僕は初めてみたんだから。
 確かにそうかもねえ、と言ってくれたミカにはアイスのお礼を伝えて、すっかり渡すのを忘れていた、学校からの手紙をリュックサックの中から取り出した。ファイルに入れてきた紙たちをガラスのテーブルに広げていく。始業式の日からずっと思っていたけど、新学期だからか異様に量が多い。ふつうにバッサバサ言う。

「これ、保護者会の連絡のやつはあさっての月曜提出で、進路のは隅にメモってあるとおり、1週間後だから。あとは集金のお知らせと新しい封筒と、健康診断のときの記入表と」
「うわあ、絶対どれかなくしちゃいそう」
「大丈夫だよ、紛失魔の颯真だってちゃんと全部持ってる。心配だから確認してくれって言われて、さっき家に寄ってきたけど異常はなかったから」
「なーにそれぇ、コウヘイ、お母さんじゃあるまいし」

 へへへへっ、とミカは笑った。なんか変な笑い方だなあと思いつつ、颯真から飛んできた抗議の声をかわして僕も笑ってみせる。どうしたの、なんて言われたくはない。今はうまくごまかせない気がしたから。
 そんな心配をよそに、空気は悪くなるどころか良くなっていくし、ミカの笑顔からも違和感が遠退いていく。なんだ、うまくやれてるじゃん。
 レースカーテンの隙間から、黄昏色の光が覗いている。目的も達成できたところだし、そろそろ失礼しようか。そう思って口を開きかけたとき、呼び鈴らしき音が控えめに部屋に響いた。

「あ、お母さん、帰ってきたのかな」

 ミカが素早く立ち上がって、インターホンのほうへ駆けていく。

「え、いつのまに外に出てたの?」
「買い物に行くって、さっきわたしたちが映画観てたとき。やっぱりコウヘイ、気づいてなかったんだね。夢中だったもの…………はーい、どうぞぉ」

 ミカのお母さんは忍者か何かなのかとでも思ってしまった。

「じゃあわたし、ちょっと出てくる」
「えっ、いきなり、どこに?」

 そのまま僕たちのほうに戻ってくるのかと思ったら、近くに置いてあった上着を羽織り始めるじゃないか。何事かと驚く僕に対し、彼女はきょとんとした顔で、首をかしげて答える。

「今日たくさん買い込んだみたいだから、運ぶのを手伝いにいくの。ずっとエレベーター止まってるしさ」
「それなら、僕が行くよ! 仮にもミカは病み上がりなんだから」
「え、でも、そんな」
「だって、ミカや、ミカの母さんが大変な思いをしてるときに、お邪魔している側の僕らはテレビ見てだらだらしてるって、変でしょう。特に男が」

 ここまで言っているのに、彼女は、立ち上がった僕のTシャツのすそを掴んで話してくれない。

「俺も行きたいなあ。ふたりに少しでも楽させてあげましょうや」

 その様子をじっと見ていた颯真が、機転を利かせてくれた。

「じゃあ一緒に行こう」
「おうよ」

 さすがは我が友だ。

「ありがとね、コウヘイも……颯真くんも」
「病み上がりだからーとか言うなら、最初から見舞いになんか来ないでポストに突っ込んどけばいいだけの話だよな」

 新しくおろしたばかりのスニーカーにうまく足がはまらず、しゃがみこんで苦戦していたら不快なモスキート音が響いてきたではないか。

「んーんーなにか言ったかなー、雨音ちゃん」
「なんでもありましぇん」

 僕はうざったいおばあさん並に自分の悪口だけはよく聞こえる体質なのだ。気持ちわるい笑顔を意識的に作り出し、いってきますとドアを静かに閉じる。案の定、颯真からキモいとのご意見を頂戴した。うーむ、美形の顔になりたい。
 階段を降りていくと、1階と2階の間の踊り場で、荷物のつまった段ボール箱とビニール袋を抱えたミカの母さんと合流できた。あらまあ、もう帰っちゃうの?……なんて言葉がいちばんに出てきたあたり、やっぱり彼女はミカにとても似ているなあと思う。

「荷物置いたまんま帰りませんって! コウヘイとふたりで、手伝いに来たんですよー」
「やだわぁ、そんなに気を遣っちゃ」

 そう言いながら、ふらり、箱と共に倒れこみそうになっている。来て正解だった。

「やっぱり、お願いします……」
「はいはーい、段ボールいっちょー、お運びしまっ、いてえよコウヘイ」
「ごめんなんかムカついて」
「ひどいねえ!」

 いけないいけない、つい手が出てしまった。
 じゃあ代わりに重いほうを持つから、と提案したことにより、颯真から恨みのこもった視線を受けるはめにはならずにすんだ。

「歳かしらねえ。最近あちこち痛いわ力が入らないわで困ってるの」
「んもー、お若いのにそんなこと」
「そんなお世辞を言っても出るのはハーゲンくらいよ」
「えっ、やべえすげえ欲しいです」
「ふふふ」

 さっきから後ろでふたりが盛り上がっているのを耳だけで感じながら、だれともすれ違わない薄暗い通路をただひたすら歩いている。
 ここに来るまでの道中、雨音から、このマンションの部屋は比較的良いお値段がするほうだと教えられたのだけど、僕にはそこらのものとの違いがよくわからない。一軒家住みだからなおさら。中学の頃の同級生にも上の階のほうに住んでいるとかいう人がひとりだけいるくらいだし、その彼だか彼女だかが何組だったかさえ覚えていないから、参考にもできないのだ。
 そんなこんなで、311号室、思ったよりも早く須藤家の前に着いて、とりあえずは一安心した。それにしても、この箱は重い。まさか醤油と砂糖と塩とかを全部いっしょにギッチリ詰めこんでるんじゃないよな。中から音もまったくしないから、予想がつかない。
 冷蔵庫の前に置いてくれればいいわよと言われたので、先に部屋に上がった颯真にそのままついていこうとしたら。

「コウちゃーん、それは洗面所のとこにお願い」
「え? あ、はい」

 靴を脱ぎながら頼んだ彼女の顔は、垂れた髪が邪魔をして見えない。
 言葉にするまでもないけれど、違和感が段ボールの上から、ずん、とのしかかってきた。それはさっきのミカの笑い方におぼえたものよりも、ずっと重いものだ。
 今まさにリビングのほうへ、ドアを開けて入っていこうとしていた颯真も、わずかに眉をひそめてミカの母親と僕を交互に眺めている。僕はそんな彼に無言で「知らないよ」と念を送った。だって本当に知らないし。
 とりあえず信じてはくれたみたいだけど、その後ろ姿の周囲に浮かぶ疑問符たちは、消えてくれないみたいだった。
 コウちゃん。
 僕の名前は一応恒平だし、もうどこにもいない両親からそう呼ばれていたこともある。今思えば、男の子に向かってなんて恥ずかしい親だ、と少々恥ずかしいのだけど。
 そんなこと、話した覚えもないし、そう呼びたいなら呼びたいで、彼女なら一度くらい確認してくれるだろうに。それに、なんだか、呼んでいるのは僕のことじゃなかったみたいで。僕とは、まったくの別人。
 なんだったんだろう、さっきのは。
 無意識に漏れた細いため息とともに、洗面台と洗濯機のある広い脱衣所の床に、やっと荷物をおろした。

 今度から、もっと良典さんのこと、手伝ってあげよう。

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