ダーク・ファンタジー小説

Re: 2006年8月16日 ( No.40 )

日時: 2017/08/01 02:12
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 行こうとすぐに思った。あちらが僕と話したいと言ってくれるなら、そもそもこちらには断る理由がない。
 えんさんにLINEを返すと、Skype会議は十時開始だと告げられた。三十分近く後だ。ふと、僕はそれまで何をして時間を潰すのだろうと思う。ここ数週間、今まで暇さえあれば勉強をしてきたが、受験が終わった今、わざわざやる意味が僕には思いつかなかった。
 暇だ、と思った。同時に、そういえば暇だと思うのはいつぶりだろうと思う。そのときが待ち遠しいとか、時間が経つのが遅いだなんて思うことが久しぶりで、今まで何かの感情を忘れていた気さえする。

 えんさんとの個別トークページから戻ると、今まで話した人全員とのトーク履歴が最新順で表示される。といっても限られた人としか話さないので三人しか表示されない。
 早紀とのトーク履歴が気になったので、すぐにタップする。早紀がさっき送った「また会おうね、絶対」が最後だった。遡っていくとその他にも色々話していた。僕から話しかけるときは基本的に勉強関連で、早紀からのときはそれ以外の場合が多い。なかなかいい雰囲気で、ときには一時間話しっぱなしだったこともあった。他にも、珍しい早紀のおどけた発言に、このときの僕は反応に困ってしまい、結局意味不明な言葉で返していたこともあった。そういえば通話したこともあった。一度だけだったが、とても楽しかったことを思い出す。
 僕は、このLINEで、次、いつ、どちらが、どう話しかけるのだろうと思った。そもそも次があるのかどうかも分からないが。
 しばらく早紀とのトーク履歴を眺めていると、突然、ピコン、と音が鳴り、スマホが震える。そして今まで遡った分の画面が凄い勢いで戻され、一気に最新のメッセージが表示される。早紀からメッセージが届いたみたいだ。見ると写真だった。そういえばどこかで見たことのある河の写真だった。
 きっとこれは、去年のクリスマスイブのあのとき、早紀が撮った旭川だと強く思えた。河など日本中を探せばいくらでもあるし、どこも似たり寄ったりな風景だが、映されているのは旭川以外あり得ないときっと僕と早紀なら感じる。
 この写真を見て旭川だと即答できるのはきっと世界で僕ら二人だけだろう。

「あれ、すぐ既読ついちゃった」
 また、ピコン、と音が鳴る。そういえばさっき彼女から写真が送られてきたのはトーク履歴を眺めていたときだった。送った瞬間に既読が付くとは恐らく彼女も思っていなかっただろう。
「過去の会話でも見てたの?」
 彼女は訊いてきたが、僕は何て言おうか迷った。さっきあんな別れ方をしてしまったから普通に話しづらかった訳ではない。何というか、単純に、トーク履歴を見ていたと正直に言うのが、恥ずかしかったのだ。
「いや、ちょうど開いた瞬間に早紀から写真が送られてきた」
「あ、そうなんだ……」
 ちょうどこれで会話が終わりそうだったのが不思議だった。
 僕は彼女の行動が理解できなかった。何故クリスマスイブに撮った旭川の写真を今僕に送るのか不思議でしょうがなかった。しかし、その意図を訊くことは多分僕には不可能だろう。

 また同じ音が鳴る。しかし今度は早紀からのメッセージではなかった。それはえんさんからだった。すぐにメッセージを見ようと思った瞬間、パソコンからまた別の音がした。それがSkypeの着信音だと気づくのに少し時間がかかった。ヘッドセットを付け、端子をパソコンに挿した頃には、もう着信は止まっていた。
 少ししてもう一度かかってきたタイミングで僕は通話を開始した。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.41 )

日時: 2017/08/09 19:18
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「あ、やっと出た。久しぶりーコウセイくん」
 ゆーたさんの声だとすぐに気づく。「お、お久しぶりです」
 分かってはいたが、僕を歓迎するムードにやはり少しばかり緊張する。
「受験お疲れさま!」全員の声が被る。一瞬、さっきのカフェでの出来事を思い出した。
 ありがとうございます、と返す前に、えんさんであろう人が少し大きめの声で話す。「作業の進捗とかは普段、掲示板のほうで話してるから、今日のはただコウセイくんのことを色々と聞きたいってだけのSkype会議です!」

 絶句していると、いきなり質問が飛び出す。「はいはーい! コウセイっていうのは本名?」
 それは水音さんの声だった。やけにテンションが高い、この中で唯一の女性だ。「本名です。よく変わってると言われます」
 だいたい予想していた通りほとんどの人が驚きを示すが、水音さんだけは僕の返答に何も動じなかった。
「へー、好きな子とかいないの?」
 急に答えにくいことを言われたので少し言葉に詰まっていると、全員の反応が一斉に変わった。
「あ、これはいるな。可愛い? 同じクラス?」
「はぁ、まあ可愛いですけど。クラスは違います」
 正直に言うと、主に男性陣がかなり興味を示してきた。
「一緒にいられるのあとちょっとじゃない。大丈夫? 告白はまだ?」
「キモいぞオッサン」
「うるっせえ! 樹雨と違ってこっちはこういうのに飢えてんだよ!!」

 黙っていても会話が続きそうなので何も言わずにいると「で、告白はまだ?」とまた訊かれてしまった。
「告白はしてないです。というかしないつもりです」
「……なんでだよ」
 少し強めに言われたので、動揺した。その声はゆーたさんだった。
「彼女には好きな人がいて、その相手も彼女のことがきっと好きなんです。だから僕が告白しても……」
「それでも想いは伝えたほうがいいに決まってるだろ」
 僕は、何も返せなくなってしまった。どうしてか、彼は怒っている。さっきまでの明るい雰囲気はどこかに行ってしまったようだ。
「ゆーた、落ち着けって」
「ごめん、コウセイくんに当たっても仕方ないよな。気持ちの整理付くまでちょっと一旦抜けるわ」
 ゆーたさんは、彼らと何か話している。何か事情があるのは分かるが、聞ける雰囲気ではなかった。少しして、ゆーたさんはこの通話から姿を消した。

「ごめん」
 ゆーたさんが抜けてから、すぐにえんさんが謝る。
「えんは謝らなくていい。謝るとすればゆーただろ」
「ありがとう。これも言うタイミングがなかったからコウセイくんにはまだだったね」
 僕は今から何かを伝えられるのだと思った。
「……ゆーたさんは莉乃さんのことが好きだったんですね」
 勘だった。賭けるような気持ちで飛び込んだ。
「よく分かったね。もしかして何か聞いてた?」
「いや、何も聞いてないですけど……」
 彼らは一様に驚きの声をあげたが、僕からすれば自分のほうがずっと驚いていた。雰囲気でなんとなく予想はしていたが、まさか本当とは。
「片思いだったんですか?」
「うん。ゆーたは片思いだってずっと思ってるみたいだけど、俺達には分かる。二人は両思いだった」
「そうだ。莉乃から、ゆーたが好きなんだけどって相談されたことがある。確か亡くなる一ヶ月ほど前だな」
「それは初耳だったな……」
 いずれにしろ僕とは全く違うように思えた。きっとゆーたさんのほうが僕よりずっと幸せだと思った。
 何より僕は片思いで、いずれ別々の高校に行き、もう会うことはないのだから。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.42 )

日時: 2018/02/21 13:43
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「もしそうなら伝えないとダメですかね、ゆーたさんに」
 言った後、自分でも少しでしゃばりすぎかなと思った。えんさんは面倒くさそうに一息おいて話す。
「それは僕らもずっと思ってたことだけど、分かるかな。これは本当にデリケートな問題だ。コウセイくんも分かってる通り、おれたちが高校生だった頃のゲーム製作企画は最悪の終わり方をした。今でこそゲーム製作に取りかかれてるけど、最初は皆色々感じたんだ。おれだって正直最初のほうは辛かった。だからゆーたの気持ちは凄く分かる。そんなおれがゆーたの暗い過去をほじくり返すなんて、とてもできない……」
 えんさんの声が少しだけ震えているのに気づいた僕はやっと口をつぐんだ。とはいえ、それはなんだか少し悲しいことのような気がしてならなかった。僕は初めて自分が部外者なのが悔しかった。
「えん、それは言っちゃダメな約束だよ。コウセイくんの前では」
「そうだった。悪い。だけど言わなきゃダメなこともある……」

「私、ちょっとショックだな」
 Skypeの画面では、水音さんのアイコンの、猫の写真が青く光る。少し遠くから男の人の声とともにクローゼットか何かを開け閉めする音がぱたぱたと聞こえる。きっと樹雨さんだ。
「色んなことに一喜一憂してたあのときはもう遠い昔で、今はもう皆大人だから何にも動じないのかなって思ってたけど、私たち、あの頃から何一つ変わってないんだね」
 やけに明瞭なその声は、不思議なほど耳の近くで聞こえた。気づけばヘッドセットを両手で押さえていた。
「正直、コウセイくんの呼びかけでまたみんなと同じことをするって聞いたとき、自信があったんだ。もう私は昔みたいに弱い人間じゃないって、大人になった自分をみんなの前で見せたくて仕方なかった。だけど、いざ会ってみると、あのときから何一つ成長してないって気づかされちゃった」
 彼女は笑い混じりにそう続けた。それは何故か僕にも少し分かる気がした。
「やっぱり水音もそうか。おれも正直全く同じだ」
 ね、とえんさんの言葉にとりあえず返事をした後、ちょっとごめん、と言って水音さんはマイクを切った。プチ、と音がして、この場には僕ら二人だけになる。何気に、二人になるのは初めてだった。
 会話が一度止まる。Skypeの画面には四つのアイコンが表示されているが半分は現在話せる状態にいない。

「……コウセイくんは、傷ついたり責任を背負い込まなくていいからね」
「えっ?」
 信じられないくらい会話が途切れていたが、その均衡はえんさんの言葉によって破られた。僕は無意識に間の抜けた返事をしてしまう。
「もっと早くに言ってればよかったね。ごめん。多分だけど、コウセイくんは僕らと関わりだしてからいくつものショックを受けてきたと思う。前回は水音が泣いてたし。まあそれは完全におれが悪いんだけどさ。君は恐らく他の色々な部分でそれなりに傷ついてきたと思うけど、それらは絶対コウセイくんは悪くないから、そんなに気にしないで欲しい」
 僕はまぶたの裏に水音さんの嗚咽を思い出していた。「ありがとうございます」
「通話する度にいつも誰かが感情的になったり大人げない姿を見せてる気がするからさ。コウセイくんは意外かもしれないけど大人ってこんなもんだよ。だから、あんまり失望しないであげてくれ。まだ見せてないけどおれだってその内ガキみたいな姿見せるかもしれないから……、えっと、水音?」
 画面には水音さんのアイコンが青く光っている。小さな物音に反応しているのだろうか。「あー、気づいてたか。えんが話してたからなかなか話に入れなくて」
「なんだよそれ。そんな高尚な話してないよ」えんさんは失笑を漏らす。
「ありがとうえん。さすがリーダーだね」
「どこから聞いてたんだよ。というかバカにしてないか?」
 ははは、とまるでアナウンサーのように綺麗な笑い声で水音さんは笑い、同調してえんさんも楽しそうに笑う。時刻は11時を廻っていた。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.43 )

日時: 2017/11/20 17:15
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「さっき、ゆーたさんが言ってた」
 ん? と二人は聞き返す。数分間、えんさんと水音さんは二人で会話していて、僕は、んーとかあーとか小さく相づちを繰り返すばかりでなんとなくその会話に入れずにいた。
 空気が自分の一言で静まるのを感じる。主観が固まっていない状態で話し始めたので、何を言うか少し考える。
「想いは絶対伝えたほうがいいって言葉、正直、僕には分からないです」
 僕は自分が早紀のことをどう思ってるのかははっきりと分からない。でも、多分好きなんだろうと思う。彼女と話してるときだけ心拍数が上がり、普段は目を合わせられないくせに彼女があちらを向いてるときだけ彼女に見とれてしまうのはきっとそのせいだ。
「あれはただのゆーたの意見であって、人に押しつけるのは違う」
「私もそう思う。しかもネットでちょっと関わったぐらいの人間があれこれ言うのもおかしいし、コウセイくんにはコウセイくんなりの意見があって想いを伝えてないならそれで充分だよ」
 二人の言うことはやけに説得力をもって聞こえ、自ずと納得してしまう。
 画面をずっと凝視していた僕は、その内Skypeの通話画面からゆーたさんのアイコンが消えたことを見逃さなかった。おそらくどういう条件で消えるのかは分からないがもう彼は戻ってこないような気がした。
 ゆーたさんは莉乃さんともう会うことはできないが、今の僕と早紀も似たような状況だと少し思う。しかしそれを言ったら流石の二人も怒りそうなのは容易に想像できたので言わないことにした。

「そうだ、受験お疲れさま」
「あ、ありがとうございます」
 いきなりそれを言われるとは思わなかったので、少し言葉に詰まる。
「ウチの県も今の時期ニュースでよく見るよ。公立入試が近々あるらしいね。コウセイくんの県ではもう終わったんだ?」
「はい、昨日試験があって、今日面接でした」
「懐かしいね」二人の声が被るが、えんさんは気にせず喋る。「高校受験なんてもうおれたちは十年以上前の話だからさ。どんなだったかもう全然覚えてないし、何しろ皆と出会ってゲームを作り始めたのも高校に入ってからだからそれよりも前だからなー」
「楽しかったなー。あの頃に戻れるなら戻りたい」まあそんなの無理だけどね、と水音さんは笑う。
 僕は高校が楽しい場所だと初めて聞かされた。今まで僕は、高校は冷たくて暗い場所だとばかり思っていた。
「高校って……、楽しいんですかね」
「あー今の歳じゃ不安だよね、無理もないわ。おれのときもそうだった。さっき高校受験のことをもう全然覚えてないって言ったけど、このとき将来に対して漠然とした不安をもってて、暗いイメージしかなかったのは何故かはっきりと覚えてる」
 えんさんもそういうことがあったんだと、少し驚く。
「高校ホント楽しいよー。そういう不安は最初のほうだけだから気にしないでいいよ」水音さんはそう笑ってくれるが、未だ疑惧の念は拭えなかった。
「で、さっき言ってた好きな子とは別々の高校に行くんだ?」
 僕は、好きな子がいる、とは一言も言っていないのだが、さっきはそれを前提に自分も話していたので認めているようなものだった。
 素直に、はい、と答えると二人は残念そうに相づちをうった。少しして今、自分が間違いを言ったことに気がついた僕は慌てて訂正した。
「あ、違います。私立は同じ学校で既に合格が決まってますけど、公立は別の高校でした」
「一番複雑なパターンだな……」
 パソコンのディスプレイは未だSkypeの画面を映している。他の人と普段通話するときは動画を見たりネットサーフィンをしながらのことが多いが、えんさん達とやると緊張からかいつも何もできない。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.44 )

日時: 2018/01/02 18:26
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 通話が終わってから、冷静に考えてみる。彼女は僕にとって恩人ともいえる存在だった。簡単なことのはずなのに、どうして今まで思考を巡らすことがなかったのだろうと不思議に感じつつ、思い出してみる。
 彼女が、ある日突然僕の家まで押しかけてきて、あたかもずっと大親友だったみたいな感じを醸し出されたときは、正直少し苛立ちを覚えたかもしれない。二年ぶりに会った彼女の「特になにもないよ。久しぶりに会ってみよっかなーって思っただけ」という言葉は、今でも鮮明に、怒りと共に思い出される。
 彼女の目的は未だによく分からない。今思い返しても意味不明だ。何のために二年以上も会っていなかった人間に、突然勉強を教えたり、急に距離を縮めてきたのか。
 間違いなく言えるのは、彼女がああやって僕の家に突然押しかけてくれなければ、僕は受験勉強を始めることもできなかったし、勉強そのものの楽しさに気づくこともきっとできなかったということだった。
 だから彼女に僕は感謝すべきだし、実際にも感謝しているのだが、自分の先程の行動は、そんな人間にとるべき態度ではなかったと思えて仕方なかった。そんなことは分かっていたのだが、考えれば考えるほど自分が酷い人間に思えてくる思考にいい加減嫌気がさした。

 いくら考えても無駄だと思った僕は、久しぶりに何かやろう、と思い椅子を立った。十年近く前に買った安物の椅子がギシギシ鳴る。クローゼットのほうまで歩く。開けると目の前に段ボールがぽつんと床に置かれていて、持ち上げようとすると非常に重かったのでほとんど引きずるようにして取り出した。クローゼットの中には、他にハンガーに掛けられた四、五着の洋服ほどしか入っていない。
 段ボールは非常に丁寧に梱包されていて、一瞬誰がやったのか忘れそうになる。こんなことをするのは自分しかいないと変に納得する。
 中身はゲーム機やソフトがほとんどで、これはかつて自分が勉強に集中するためにまとめて封印していた物たちだった。
 時間で言うと数ヶ月だが、自分では、まるで何十年も屋根裏部屋に放置していた古い書物を見つけたような感覚に近い。あの日早紀に勉強を教えてもらってから、自分は恐るべきスピードで今までを生きてきたのだと悟った。
 その中の一つ、3DSを手に取ってみる。少し冷たい。電源を付けてみる。なんだか新品のゲーム機を買って初めて起動するような新鮮味があった。ソフトは何も入っていない。場所は分かっているが取ってきて挿入する気になれなかった。次これらのゲームをやるのがいつになるのか分からないが、このまま売りに行ってもいいとさえ思えた。今更、数ヶ月前の生活に戻ることはできないらしい。
 自分でも、よくこれを断ち切ることができたな、と感心した。一番やったモンハンのプレイ時間は確か1000時間を軽く超えていたはずだ。酷いときは一日中やってたぐらいなのに、急にやめてしまった上に勉強漬けの毎日をよく送れたな、と率直に凄いと思えた。
 人間はいくらでも変われる。それは数時間前、早紀と最後にその前の道で話していたときに思ったことと同じである。

 無造作に少し開いたカーテンから星空が見えたのに気づいた僕は、すぐ近くまで歩み寄る。カーテンを全開し、窓を開ける。3月中旬の夜はまだまだ寒い。僕はさっき二人で見た星空を思い出した。彼女に渡したチョコを思い出して、一人で少し照れくさくなる。
 あの光景はまだ空気や風の音と共に記憶している。まるで映画のワンシーンのようだと思った。きっと僕は今一人で、その光景を少し離れたフレームの外から眺めている。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.45 )

日時: 2018/03/11 22:13
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 朝、僕は母親の大声で起こされた。
 びっくりして飛び起きた僕は、急いで体を起こす。目の前で母親が何か言っているが、頭に入ってこない。
 とりあえず、ベッドから降りてパジャマを脱ぐ。カレンダーを見るとおそらく今日の日付のところに赤い丸で印がされていた。少しして、ぼんやりと「卒業式」と小さく書かれていたことに気づいた途端、まだ何か言い続けている彼女の言うことがだんだんと理解できるようになってきた。

「卒業式には間に合うんでしょうね?!」
 なんだか、怒っているのかただ質問をしているのか分からないトーンだったので、何て言えばいいのか一瞬迷った。きっと、こういうときは言い返してはダメだと本能的に感じ、押し黙る。
 すると、彼女はすぐに部屋を出ていった。案外簡単にどこかに行ってもらえたので、少し安堵する。
 一息つくが、しかし今は全く落ち着くべき状況ではないと気づいた。ここでやっと時計を見ると八時二十分近かったので僕は大至急制服を着て下に降りた。八時二十分というと、いつも自分が家を出ている時間だった。

 リビングでは母さんがソファに座ってテレビを見ていた。父さんはすでに家を出たみたいだった。大体いつも僕と父さんは同じタイミングで家を出るのでやはり自分は今、遅刻しているのだと再認識する。
「最後の最後に寝坊ってあんた……」
 母親は呆れたような声で言う、というより、確実に呆れている。正論すぎて言い返せないので僕は無言のまま顔を洗いに行った。
 戻ると「間に合う? 車で送ろうか」と不意打ちに言われてしまった。勝手ながらとてもいい案だと思えたし、なにぶん手段を選んでいる余裕はないので従うことにした。家から学校は歩いて十五分ほどの位置なので、今まで車で送ってもらったことはなかった。

 そうと決まってから話は早かった。
「じゃ、車出してくるから」と、母さんはそう言ってそそくさと家から出ていく。モコモコが暑苦しい部屋着のままだった。
 遅れて家を出るとちょうど家の前に車が停止していて、かまわず後部座席に乗り込む。なんだか初めてのことなので自然と優越感に浸ってしまう。
 しかし、車内にはイライラするほど嫌な匂いが充満していた。この匂いのせいで車はあまり好きではないし、ここまで車酔いしやすい体質なのが家族で僕だけなのも不快である。
 車はすぐさま走り出し、すぐに学校が見えてくる。

「早いわねえ。もう卒業か」
 反射的に母さんのほうを見るが、角度的に顔はほとんど見えなかった。確かに、今日はもうこれから卒業式なのだ。今まで、卒業だとか高校だとかを早いだなんて思ったことはなかったが、今ばかりはどうしても納得してしまう。
「まあ、もう私立のほうは受かってるし、とりあえずは一安心ってところね」
 冗談じゃないと一瞬思ったが、言う気にはなれなかった。

「一時間後に体育館で合ってるよね? 父さんと一緒に行くから」
「二人とも、見に来るんだ」
「当たり前じゃない。息子の卒業式なんだから……」
 父さんはさっき会社に行ったはずだが、また戻ってくるということらしい。
 車が停車する。着いたか、と思い窓外を見ると正門が目の前に見える。行くのが早すぎると思ったがすぐに車から降りたかった。
「じゃあ、また後でね」
 僕は素っ気なく返事をし、車を出る。
 後ろで母さんの運転する車が過ぎ去る音がする。正門前には生徒が大勢いたが、どうやら三年生しかいないようだった。
 学校に来るのは少し久しぶりだった。もう、この学校に来るのも今日が最後だと気づくと少し悲しい気持ちになる。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.46 )

日時: 2018/03/18 23:05
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「おっ、香征じゃん」
「……おはよう」
 下駄箱で、同じクラスの男子に話しかけられる。学校では少しだけ話すが、学校が終わった後二人で遊んだりはしないような人だった。
「私立は京成だっけ? 公立はどうだった?」
 周りには同学年の生徒が何人かいて、一斉に教室を目指している。彼らは一様に何か話しているが、やはり話題の中心は受験のことだった。
「京成は受かった。紅葉はどうだろう。多分受かってると思うんだけどな」
 三年生の教室は校舎の二階に固まっているので、会話でもしていればあっという間に着く。

「待って。そういえばF組の藤原さんも京成だったな。滑り止めか何か知らんけどな」
 藤原。ああ、早紀か。
「藤原さん本当可愛いよなー。最近坂本と別れたらしいからおれ狙っちゃおっかな」
 ぐへへ、と笑う様を見て、こいつこんなにガツガツしたタイプだったんだ、と素直に驚く。もちろん坂本とは雄輔の名字である。
「学年で一番可愛いかもね」
 特に何も考えず発した言葉だったが、思いがけず彼は一転して真面目な顔に戻ってしまう。どうしたのだろう。

「……あ、やっぱり。香征って」
 彼の、何かを疑うような眼差しが少し怖かった。「何?」
「とぼけるなよ。藤原さんと付き合ってるんだろ? クラスのグループLINEで噂してたぜ。いつか、香征と二人っきりで歩いてるところを見てたやつがいたんだよ」
「……」
 早紀と二人っきりで歩くなど最近では日常茶飯事だった。だから全然意識していなかったが、どうやら普通はそれを付き合ってると見做すらしい。しかし実態は全然違っていて少し笑える。
 とりあえず言いたいことは色々あるが、付き合っていないということだけは単純且つ確かだったので、それだけ主張することにした。
「付き合ってるわけないじゃん。ただ二人で勉強したり初詣に行ったぐらいだよ」
 同時に、初詣で早紀と買ったお守りを彼に見せびらかす。あのときは、早紀の提案で二人がそれぞれのお守りを買ったので、僕が持っているこれは早紀が選んだものである。
「そうだよな。やっぱり香征ってあんな美人と付き合ったりするタイプじゃないよな……、ってえ?! 二人でそんなことを!?」
 ちょうどB組の教室に入ったぐらいのタイミングで彼が驚きだすので、まばらにいたクラスメイトの視線を一斉に集めた。
 言いながら自分でも、確かに付き合ってるっぽいなとは多少思ったが……。
「やっぱり怪しいなぁーー」
 言い返せなかったので、僕は軽く会釈して自分の席へ向かう。

「ねえねえ。香征くんってスマホ持ってるんだって?」
「ん?」席に着いた途端、クラスの女子のグループに話しかけられる。初めてのことだったので少し動揺する。ほとんど誰からも話しかけられなかった今までが嘘のようだった。
「早紀から聞いたよー。LINEのID教えてくれる? 私ら今まで岩崎がスマホ持ってると思ってなくて色々と誘ってなかったんだけど、持ってるなら別ね!」
 ああ分かった、とスクールバッグからスマホを取り出そうとした手が止まった。それは校則でスマホの使用が禁止されているからではない。
 僕は初めてLINEの友達登録をしたのが早紀だった。あのときは全部彼女がやってくれていたので、僕にスマホを返されたときには既に友達登録が完了していた。二回目はえんさん達とだったが、あのときはQRコードをスクリーンショットしてSkypeのコメント欄にアップロードしてたのを彼らが読み取ってくれたから友達登録ができたのだ。他に色々な登録の方法があることは知っていたが、IDで登録する方法は聞いたことがない。

「……どした?」
 とりあえず、スマホを彼女たちに見せる。「あの、やり方分かんないからやってくれるかな……」
「あ、いいよ。まだスマホ買ってもらったばっかりだから仕方ないね」スマホを渡すと、彼女は意外と優しく対応してくれる。

「あ、これ、本当の年齢で登録しちゃってるからIDで登録できないや。QRコードでいっかー」
「あー、18歳未満はIDとかできないんだっけー?」
「このヤンキー達は年齢偽って登録してる人ばっかりなんだよね」後ろから、別の男子が話しに入ってくる。「ヤンキーじゃないし!」

「それにしても、スマホ持ってたなら早く言ってよ岩崎……」
「最近買ってもらったんだ」段々と僕の周りに話したこともないような人たちが近づいてくるので少し緊張する。全員同じクラスとはいえ、比較的明るいグループの人たちと話すことは皆無だった。
「ホントだよね、早紀とかともLINEしてるみたいだし」
 え、マジ? と近づいてきた人に、ほら、と彼女は僕のスマホを見せる。「へー。意外」
 恐らく、友達一覧画面かトーク画面だろう。あまり見られたくないのだが。「あーごめん岩崎。登録できたから返すね」スマホを受け取る。香水のような香りがかすかにした。
「何繋がり? 明らかに関わってなさそうなのに」
「友達? みたいな……、あ、幼なじみ! 幼なじみだ」
 最初はいい表現が思い浮かばなかったが、ようやくそれっぽいのが出てきたので一安心する。
 同時にタイミングよくチャイムが鳴り、少し思い上がる。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.47 )

日時: 2018/04/03 13:21
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「いや、なにその取って付けたような表現」
 チャイムが鳴り終わったとき、どっと彼らは大笑いした。
「幼なじみってホントかよー。マジウケるな岩崎」
 自分としては、受けを狙ったつもりもないし何が面白いのか分からなかったが、とりあえずは盛り上がってくれたのでよしとする。
「じゃ、LINEグループ追加しとくから、よろしくね岩崎」
 先生が少し遅れて入ってきたので、じきに彼らも席に戻っていく。
「あ、うん!」と去り際の彼女に空元気の返事をする。今までヤンキーみたいな少し怖そうな人たちに見えたが、意外と話しやすくてびっくりする。……同時に、全く、自分で自分が嫌になる。気づくのがなんて遅いのだろうと腹が立つ。今日は卒業式だろう。

 僕たちが体育館に入場したときは、既に保護者や在校生が僕たちを待っていた。
 体育館に一歩足を踏み入れたときの感触が廊下と違いすぎて狼狽える。鳴り止まない拍手の中歩くのは流石に照れくさい。僕の一つ前を歩く、さっきまで友達と話していた人たちも緊張したのか黙り込んでしまう。どこを見ればいいのか分からないのでステージ上に視線を移すと、卒業証書授与式、と書かれた横断幕や国旗と校旗が見慣れた位置に吊されていた。
 ステージから一番近い位置に卒業生が固まって座っていて、その後ろが保護者席となっている。椅子に座ってからは、カメラのシャッター音がそれに置き換わった。

 ふと我に返ると、式次第は終わりに近づいていた。
 つまらないはずの卒業式がなぜか途轍もないスピードで流れていくことに自分でも怖くなる。
 僕たちは今、何か歌っている。これは予行練習でも練習したあの曲だった。小学校の卒業式と同じ曲だったのでメロディーだけやけに頭に残る。全国の学校で近年非常に良く歌われている曲らしく、この時期になるとテレビなどでもたまに紹介される。
 正直、理解ができなかった。なぜこんな曲がそこまで人々の心を打つのか分からなかった。なぜ人を鳥に喩えるのだろう。なぜ毎回大空に飛び立とうとするのだろう。
 大空とは何を指しているのだろう。高校? だとしたらなんて狭い大空なのだろうと思う。辺りではすすり泣く声がときどき聞こえたが、自分には到底感動できない。
 自分はこの場に於いて一体どういう存在なのだろうと切実に思った。

「なんかアッサリ終わっちゃったね、卒業式」
 教室での最後のホームルームが終わってから、僕は校庭に向かっていた。正直気が進まなかったが皆そうしているので仕方なく従った。どこにいればいいのか分からず校庭の隅のほうで座っている僕に、後ろから聞き慣れない声が届いたので振り向く。
「あ」
 そうだね、と続ける。さっき教室で僕とLINEを交換したあの女子だった。
「やっと髪染めれる。今から楽しみ」
 彼女はとても嬉しそうだった。辺りを見回すが彼女の友達らしき人は一人もいない。わざわざ僕に話しかけにきてくれたのだろうか。

「横座っていい?」
 なんとなく何を話せばいいのか分からなかったので黙っていると、そう言うより先に横に座ってこようとする。
「汚いよ」
 確かに僕の座っている場所は汚かった。運動部が練習するときに使っている防球ネットのキャスターの上に座っているのだから。
 彼女は本当に座ろうと思っていたのか、かがんだまま後ろから両手でスカートを押さえている。ギャルみたいな見かけによらず、意外と清楚なところもあるらしい。
「あ……ははは。結構土とか付いてるけど座るときちゃんとはらった?」
「はらってない……かも」
「それ大丈夫かな」
 そう笑う彼女はとても可愛い。でも好きとは思わない。

「友達は?」
「あー、後で話しかけにいく。今は岩崎が見えたからちょっと話しかけにいくかーってノリで……」
「ん?」何か続けて言いたそうだったので、促す。
「岩崎……、早紀となんかあった? なんか早紀と話してて明らかに元気ないんよね。岩崎と付き合ってるって噂も流れてるから、ひょっとしたら何か知ってるかなって思って」
 僕は思わず失笑する。すぐに彼女に気づかれないように笑いを押し殺す。
「いや、何も知らない。雄輔とか知ってそうじゃない?」
 というか、そもそもおれ付き合ってないから、と付け加える。
「そうなんだ……」
 ここで、彼女が言葉を続けようとしたであろう瞬間に、遠くから声がした。

「あー香征、ここにいたのか!」
 父さんの声だとすぐに気づく。
「探したぞ。なんでこんな端のほうにいるんだ」
 それは怒るというより、どちらかといえば呆れるような物言いに近い。見ると、母さんも後ろに付いてきていて、その後ろには、……早紀がいた。
「さっき早紀ちゃんとそこで会ったから、一緒に香征を探してたのよ」
 絶句していると、僕の思っていることを察したのか母さんが答える。早紀はこの中の誰よりも遠くにいて、目を伏せて一人だけばつが悪そうにしていた。その姿を見ると少しだけ笑ってしまう。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.48 )

日時: 2018/03/27 13:32
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「……で、そこの女の子は友達?」
 二人は、ようやくそこにふれてくる。なんとなくすぐには答えられずに黙っていると、横から「友達です! すみませんすぐに帰ります。お邪魔しました!」と息もつかせぬスピードで彼女は去っていった。あまりの速さに誰も何も答えられない。もしかしたら早紀以上に居心地の悪い思いをしていたのかもしれない。
「へー、綾ちゃんと二人でいたんだ。なんか珍しいね」
 早紀はこちらへ歩み寄る。今まで二年間、学校で見かけても声一つかけなかった早紀が今目の前にいる。制服がとても可愛い。「今日初めて話したんだけど、遅すぎるよね」
 早紀との再会は思っていたよりずっと早く、アッサリしていた。そのことについて僕は何も文句を言えない。この場には両親がいるので、あんまり変なことは話せなかった。

「まあいいや、じゃ、四人で写真撮ろう」
「いやいや! 私は流石に邪魔だと思うので申し訳ないです……」
「全然そんなことないよ。ね、香征?」
 気にくわない振りだったので無視していると、早紀が突然満面の笑みに変わった。
「じゃあ、二枚撮りませんか? 一枚は香征とご両親で、もう一枚は香征と私」
 それいいね! と手放しで二人は賛成する。「はい、多数決で早紀ちゃんの意見に決定! ということなので香征頑張ってね」
 僕が何を頑張るのか不明だったが、三人が気にせず校門へと向かうので自分も付いていく。歩くたび、校庭の砂がザッ、ザッ、と音を立てる。太陽が真上にあるので少し汗をかく。この学校の校庭は途方もなく広いから、百人以上はいるであろう人たちがまばらに見えてしまう。

 校門には意外と人が少なかった。
「あれ、意外と並ばず撮れそうだね」そう母さんは校名看板の横に僕を引き寄せる。近くには教頭先生がいて、父さんからカメラを渡される。
 第二十八回卒業証書授与式、と立派な字で書かれた看板の、向かって右側に立たされた。2メートルはあるそれの存在感は物凄い。二人は看板を隔てた左側でピースしている。自分も同じポーズをしてみると、なんだか少し照れくさくなる。
「じゃあ、はいチーズ!」
 パシャ、気持ちのいい音がする。早紀が少し揺れるのを僕は見逃さなかった。このシャッターを切る音は、旭川で早紀の一眼レフが放った音と同じだった。
「……早紀ちゃん?」
「あ、大丈夫です! じゃあ香征撮ろう」僕は何も言えぬまま立ち尽くしていた。早紀が今何を思ったのか、僕には全て分かった。

「えーっと……、私はこれから家に帰って、お父さんは仕事に戻るけど、二人ともどうする? 送ろうか?」
 どうやら、車で来たらしい。流石にこれ以上この四人でいるのは居心地が悪すぎる。「いや、いいよ。ゆっくり帰る」
「分かった。卒業おめでとう! 早紀ちゃんも」
「ありがとうございます! 卒業おめでとう、香征」
「あ……そちらこそおめでとう」
 いるかこの挨拶? と思いながら渋々返す。二人はそれを嬉しそうに見守りながら去っていく。
 早紀は二人の後ろ姿を真剣な面持ちで見つめながら、僕に言った。
「ね、これから少し時間ある? 学校見て回らない?」
 別に断る理由などなかった。時間などいくらでもあった。

 きっと今から校内を見て回るのなんて僕たちだけだろう。校門には僕ら以外に何人もいたが、帰路につく人たちばかりで、逆に校内に引き返す者など皆無だった。門を抜けた先に大きなケヤキの木がある。
「さっきはありがとう、香征」
「何が?」
「車で送ろうかって言われたとき、二人で帰るって言ってくれたじゃん。昨日の夜あんなことがあったから、もしかしたらすぐ帰っちゃうのかなって思っちゃって」
 ああ、と僕は昨日のことを思い出していた。「なんか、今更そんなことしても無駄だなって思った」
 そしてそれはその通りだった。今ぐらいは会っていたいと思い直したのかもしれない。高校に入るまでは、今だけは。

「この学校に来るのも今日で最後なのか」
 いかにも実感が沸かないといった物言いだった。それは恐らく僕にとっても同じだろう。
「香征が何を思ってるのか、私わかるよ」
 そのとき僕たちは下駄箱で靴を履き替えていた。さっき上履きをバッグの中にしまっていたので、そこから出して履き替える。
 僕は聞こえない振りをしてこの場を凌ごうと思った。廊下は暗く涼しい。この空間には僕ら二人しかいない。先導する彼女が階段を上る。彼女の膝丈ほどのスカートが揺れる。僕は慌てて付いていく。

「香征は……、何かを失うのが怖いんだよね」
 その瞬間、何かがフラッシュバックして気が遠くなる。何が起きたと疑問に思うより先に、倒れそうになる。階段を中ほどまで上がっているので倒れたらただでは済まないだろう。一瞬の判断で階段の手すりに掴まったと同時にやっと気が元に戻る。危なかった。
「香征?」早紀が、手すりに掴まったまま止まっている僕を不思議そうに見つめる。「ああ……いや、大丈夫」
 階段は短かった。すでに上り終えた彼女が伸びをする。「香征はB組だっけ?」
 うん、と答えたところでちょうど自分もたどり着く。B組、それは過去のことなのだが。

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Re: 2006年8月16日 ( No.49 )

日時: 2018/04/03 02:10
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 教室にもやはり誰もいなかった。意外と鍵が掛かっていなかったのでふと入ってみる。
 入るなり、癖で自分の席だったところまで歩いてしまう。それは窓際で、後ろから二番目の席だった。今まで、ここから何度外の校庭を見てきただろう。今見てみると十人ほどしか見えない。
「へー、席そこだったんだ。私は一番前の廊下側……、って私はクラス違うか」
 そう笑う彼女もちょうどその席まで歩いていた。声が少し遠い。
 窓の外に見える卒業生たちは、卒業証書を持ち歩いている者が何人かいた。あそこにいる人たちと自分は違うと、今ですらそう思いたかった。あの紙を僕は今、スクールバッグに入れている。残念ながら僕はあの紙を受け取ってしまった。できれば拒否してしまいたかった。
「……今から校内の窓でも割って回んない?」
 彼女はきょとんとした表情から、一転して笑顔に変わる。「それはいいね。だけど、それやっちゃったら高校じゃなくて別の施設に行くことになるかもね。少年院とか」
「高校よりマシかもな……」
「どんだけ思い詰めてるの」彼女はそう一笑し、机の上に腰を下ろす。

 ここで少し沈黙が流れたので、ふと窓の外を眺めてみた。さっき見たときより人が減っている。時計を見るともう昼だった。涼しそうだったので窓を開ける。
 すると後ろから何かが聞こえたので見ると、彼女が歌っていた。それはテレビか何かで聞いたことのあるメロディーで、ゆっくり始まる曲調が、サビになるとまるで桜が開花するような盛り上がりを見せる曲だった。
 歌詞の意味はよく分からない。一体自分は誰で、誰に向けての曲なのか。
 いや、そんなことはどうでもよかった。なんて美しい光景なのだろうと思うだけで精一杯だった。心地よく吹いてくる三月の風が、彼女の髪を揺らす。確かに歌が特別上手いわけではない。しかしその歌声を、魂を、世界で僕だけが享受できているという事実に、胸がいっぱいになる。
 彼女は初めこそ真面目に歌っていたが、僕があまりにも真剣な顔をしているからか、しだいに顔が少しほころぶ。少し照れくさそうにしている彼女を、僕もやはり照れくさそうに見つめる。そんな状況でも彼女は最後まで歌った。
 どうしてこんなに歌詞がストレートに胸に入ってくるのだろうと思った。さっき卒業式で歌った曲を僕は決して好きになれないが、その曲と、早紀の歌う曲の何が違うのか自分でも分からなかった。どうして体育館で卒業生全員で歌った曲より、教室でたった一人で歌う曲のほうが衝撃的なのだろうと思った。

「ごめん、なんか歌っちゃった」
 彼女はすぐに笑ってごまかす。歌い終わった後に沈黙が続き、いい加減恥ずかしさに耐えきれなくなったようだった。
「窓開けてたから、外まで聞こえてるかもね」
 そう言いながら僕はまた窓の外を眺める。もう無意識にしてしまう動作だった。校庭では残り二、三人ほどいた生徒たちがやっと引き上げようとしていたところだった。ついにか、と僕は事の顛末を見守ろうと思った。最後の一人が、角度的にこれ以上進むと見られなくなる場所まで来たとき、ちょうど二階にいる僕の存在に気づいた。彼女は迷うような素振りを見せた後、僕に向かって手を振る。今返さないと一生返せないと思い僕もすぐに手を振り返す。彼女は一転して弾けるような笑顔を作った後、その場を去った。もちろん、彼女のことはクラスも名前も何も知らない。しかし当然ながら僕も彼女も舞い上がっていた。卒業、という現実が僕ら二人をそうさせた。
「風、気持ちよさそーだね」
 彼女は、行儀悪くも今まで座っていた机から飛び降りて、すたすたと歩いてくる。そして僕の後ろの席のところに手を置く。気持ちのよい風が長い髪をなびかせる。
「え、校庭もう誰もいないじゃん。もうすぐ先生も鍵閉めに来そうだし」
 待って、そのとき出くわしたらめっちゃはずいじゃん、と彼女は少しオーバー気味に取り乱す。
 彼女はゆっくりと窓を閉める。気持ちよく風に当たっていたはずの僕はすぐに気づいて彼女を見る。「もう出なくちゃダメだね。皆帰ってるよ」
「知ってるさ」

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Re: 2006年8月16日 ( No.50 )

日時: 2018/04/07 05:57
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 彼女は一番前の廊下側の席まで歩き、立ち止まった。後ろ向きだったので何をしているのかは見えない。首の角度を変えてみるとどうやらスマホをいじっているようだと気づく。
 さっきまで窓の縁に置いていたが、閉められてしまい行き場を失った左手が寂しそうにそこにあった。その手で自分もスマホを付けてみる。しかし、やることがない。LINEも誰からも来ていないし、Twitterの通知も音沙汰なかった。
 すぐにスマホを切り、また窓の外を見る。三月の澄んだ空はさっき見たときと何一つ変わっていない。
 この、得体の知れない虚無感は何なのだろうと思った。僕は今何者なのだろうと思った。卒業した途端、どこで、何をしていても、漠然とした不安が僕を襲い、さっきまでのように風にでも当たっていないと気が狂いそうになる。今この教室から出て、家に帰って、それから僕は普通の人生が送れるのかと怖く感じた。
「そういえば、なんか私と香征が付き合ってるって噂が流れちゃってたみたいで、迷惑かけたね。なんかごめん」
「いやいや、全然大丈夫。確かに疑われるようなことしてたし仕方ないさ」
 僕は全力でフォローする。むしろ、間違われたとき少し嬉しかったまである。そんなこと彼女に言える訳ないが。

「少し寒くなった?」
 下駄箱の所で、先に靴を履き替えていた彼女が、僕のクラスの所まで来ていた。B組とF組は下駄箱が離れているから、相当急いで済ませたのだろう。
「確かに。でもこれが最後の抵抗、って感じするね」
 そう言って僕も靴を履き替えると、先に前を歩こうとしていた彼女が振り返り、にっこりと笑う。「はは、確かに。もう春が勝ちそうだね。すぐそこまでやってきてるし」
 季節が廻る。その事実にいい加減吐き気がする。僕たちが生きている間にあと何度変わっていくのだろう。
 僕はこちらを向いたままの彼女の横を通り抜け、校門まで向かう。その足取りは速かったり遅かったり、不安定である。すぐに彼女が小走りで追いついてくる。僕は東の空を見ていた。校舎が重々しい存在感でそこにいた。この学校で、僕は今まで色々なことを学んだ。大した親友なんて作れなかったが、僕はいつだって楽しかった。いつまででも通っていたかった。今まで愛着があったわけじゃないが、流石に今日ばかりは感傷に浸ってしまう。
「……香征?」
 見慣れた自転車置き場。徒歩通学なので一度も使ったことがないが。ここから少し見える中庭には名前も知らない木々が生い茂っている。
 僕は構わずそれらの横を素通りして校門まで着く。辺りには誰もいなかった。深呼吸して、校門を抜ける。振り返ると「第二十八回卒業証書授与式」の看板の存在感ばかりに目が行く。なんだ、意外と新しいのな、と笑う。

「俺、卒業しちゃった」
 目の前の早紀は驚いた表情でこちらを見ていた。「香征……」
「俺、ここにはもう二度と戻れない」
 内側から何かが溢れてくると思ったら、それは涙として出てきた。
「こんな学校に大した思い出なんか詰まってないけど、それでも通っていたかった。高校なんて行きたくない」
 それは全て本心だった。それでもなおこちらをまっすぐと見つめる彼女は、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「私もだよ。卒業なんて悲しいね。でも高校だってきっといい所だよ。何かを失ったなら、何かを手に入れればいいじゃん、香征」
 その言葉にはっとなったのか、彼女がブレザーの裾で涙を拭いてくれたからなのか分からないが、涙はふと止まった。
「ごめん、汚かったよね」
「ううん、全然」
 周りに人がいるかは知らない。もしかしたら僕の斜め後ろにある公園から誰かが見ているかもしれないが、どうでもいい。
 彼女の裾はまだ僕のまぶたの辺りを押さえ続ける。触ると少し濡れていた。
 嬉しいのは何故だろう。僕たちは、少しだけ近いような、遠いような、微妙な距離感でとどまっていた。心臓の位置を忘れてしまうほど、全身が心臓になったみたいに、激しく鼓動していた。
 あの人たちも、僕も、何かを失ったのなら違う何かを手に入れよう。

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Re: 2006年8月16日 ( No.51 )

日時: 2018/04/12 08:00
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 そのとき僕はパソコンの前にいた。
 画面の右下には九時五十分と出ていて、あと十分だ、と気がつく。
 部屋が締め切っていることに気づいたので、慌てて窓を開ける。ぬくい風が微妙に入ってくる。ベッドの上には充電中の3DSが置いてあるのだが、やる気にならない。
 ……十時になったら、このURLをクリックしよう。そう心に留めて、後ろの本棚にある漫画か何かを手に取ろうとしても、もう少しのところで手が止まる。あまりにも何事にも興味が出ないので、もう諦めてパソコンの前で十時まで待っていようかと思い始めた矢先、誰かが部屋のドアを開ける。
「香征? 早紀ちゃん来てるよ。合格発表を一緒に見に来たんじゃない?」
 そうだ、今日は公立高校の合格発表の日で、そのために僕はパソコンの前に張り付いている。前日から何も手に付かないほどそわそわしていて、おかげで昨晩ほとんど寝られなかった。
 僕は適当な返事をして、またパソコンに目を移す。

 すぐに早紀が入ってくる。何故か中学の制服を着ているように横目に見えた。僕のパソコンだけを見ていた目が完全に彼女に向けられる。
「おはよう。なんか緊張するね」
「……ええっと、なんで制服?」僕は薄笑いをしながら、またパソコンに視線を向ける。九時五十五分だ。
「なんか制服のほうが雰囲気出るかなって。それにほら、受かってたら今日中にその高校に行かないといけないみたいだし」
 それは初耳だった。それなら自分も着替えておいたほうがよかったと思い始めたが、もう遅い。流石に今するのはやめておこう。

「合格発表は、雄輔とじゃなくていいんだね」
「……あ、うん。雄輔とはちょっと」
 バッグを下ろしたままその場に立ちすくんでいる彼女に、座っていいよ、と促すと、彼女はゆっくりとその場に腰を下ろした。
「まだコタツあるんだ」
 彼女はからかうように笑いながらコタツに足を入れ、すぐに「暑っ」と足を出す。
「まだ夜は寒いんだよ」
「確かに」彼女はスマホをおもむろにいじりだす。合格発表を待っているのだろう。見ると五十八分だ。
 ……と、僕らの会話はここで途切れた。話すことがなくなったわけではない。話す空気じゃないというか、話す気になれないというのを、僕はもちろん、きっと彼女も感じていた。
 僕がパソコンの画面を見ている間、後ろにいる彼女の姿は見えない。だから、合否が分かった瞬間の彼女の表情を、僕は知れない。

 公立高校入試にて、僕は紅葉学園を受験し、早紀と雄輔は遠野高校を受験した。私立は全員受かっていて、早紀と僕が同じ京成高校だ。つまり、二次さえ受けなければ、二人とも落ちれば同じ高校に入学することになる。
 ついに十時になり、URLを踏む。アクセスが集中していて、読み込みに少し時間がかかる。その間、僕はどういう結末を望んでいるのだろうと少し考える。

「……あ」
 後ろで何かが聞こえる。声色からは受かったのか落ちたのかの判断がつかない。
 32579。僕は自分の受験番号をもう一度頭の中で確認する。ページは何度も読み込みし直してついに表示された。五桁の数字が、数が若い順に並んでいる。ここに自分の受験番号が表示されているかどうかで、各々の命運が決まっている、ように一瞬思える。
 ……32579。

「受かった」
 そう聞こえたとき、僕はすぐに後ろを向いた。彼女が立ち上がって喜んでいる。僕はしだいに頭の中が真っ白になり、彼女の喜ぶ様を見続けていた。
「……え、香征は?」
 彼女の表情が、しだいに強ばっていくのを感じる。ここまで申し訳なさそうな表情をされると、自分まで申し訳なくなるからやめてほしいと思う。
「受かったよ、俺も」
「え、本当? よかったじゃん! おめでとう」彼女は何よりも先に祝福してくれる。そして「なんで今そんなに元気なかったの」と笑われる。
 彼女の胸懐は僕と明らかに違い、ずれている。これは容易に予想できた。僕がたかが公立高校に受かっただけで何になるんだ。僕は怒りすら覚えているのかもしれない。僕が受かったところで、彼女が受かっていたら意味がないじゃないか。
 ……さっき、僕は自分がどういう結末を望んでいるのだろうと思ったが、逆にそれを今まで考えてこなかったのは、考えるまでもないことだったからだと自分で納得する。

「あ……、でも高校は別々になっちゃうね」
「いいさ。お互い受かったんだから喜ぶべきことだと思うよ」
「そっか、そうだよね」
 そうは言っても、彼女は未だ立ったまま複雑な表情を浮かべたままだった。
 僕はここでパソコンの画面に目を移す。変わることなく気味の悪い数字が羅列されている。こんなもの、もうどうだっていい。僕はウィンドウごと削除してシャットダウンする。
「っていうか、雄輔の結果は? あと合格したってことは雄輔には言ったの?」
「いや、まだ……」彼女が両手を横に振ってNOをアピールした瞬間、電話がかかってくる。「ちょっとごめん」とコタツの上の携帯を取った勢いで応答する。
「もしもし。あ、雄輔? ほんと!? おめでとう。……私も受かったよ。春から一緒だね。よかった」
 雄輔は合格していたらしく、目の前にはそれを本気で喜ぶ早紀の姿があった。僕はその電話をどういう顔で聞いていればいいのかと思うどころか、こうして彼女の会話を聞いていることすら悪いことのように思えてならなかった。彼女の一言一言がナイフのように僕に突き刺さり、その間、憎しみのような感情がこみ上げてくるのをふつふつと感じていた。しかし、その感情を誰にぶつけたらいいのか、何にぶつけたらいいのか、僕には分からなかった。
 彼女の電話が切れる頃には、僕は平静を装うのがやっとだった。

「雄輔は受かったみたい」
「……それはよかったね」
 彼女は、ふふ、と愛想笑いのような笑みを浮かべる。「なんか気持ちこもってないね。まあ仕方ないか」
 僕が何かを言おうとすると、彼女は何かに気がついたように手を叩く。間髪を容れずに彼女は続ける。
「あ、ってことは三人全員私立も公立も受かったってことか。すごーい!」
 彼女のそれが本当に心からの言葉であることは明白だった。彼女は明らかに、誰かを傷つけようとか貶めようなんて気持ちを一つも持っていない。藤原早紀という人間は、自分がこうやれば皆が幸せになるだろうと確信していつも行動し、勘違いして勝手に空回りする人間の気持ちなど考えない。気づかない。
 だから誰も責められず、僕みたいな人間はストレスばかり溜まってしまう。彼女は本当にいい人すぎる。だから低俗なものや枉惑なものや下品なものを無意識に頭の内から消してしまうのだろう。その事実に気づけば気づくほど、僕は自分が嫌いになる。

「じゃ、今から雄輔と遠野行ってくるね。合格おめでとう!」
 ああ、と返すと、彼女はゆっくりと部屋を出ていった。合格おめでとう、という言葉が宙に浮いたままこの部屋を彷徨っていた。僕は未だ、それが取って付けただけの言葉にしか聞こえない。
 僕たち三人は、私立、公立共に全て合格し、春から全員が志望校に進めることが決まった。さっき自分も言った通り、これは喜ぶべきことに決まっている。じゃあ、どうしてこんなに悲しいのだろう。どうしてこんなに落ちたほうがマシだとすら思えるのだろう。
 太陽が窓の外に顔を出したので、あわててカーテンを閉じる。

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Re: 2006年8月16日 ( No.52 )

日時: 2018/04/21 00:37
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 そのとき僕は、見たこともないような大群に揉まれていた。
 信号待ちの間、一息つくために空を見る。狭い空には雲が居心地悪そうに浮かんでいる。辺りには岡山なんかには存在しないほどの高層ビルが立ち並んでいて、雰囲気に圧倒される。
「……なんだこれ」
 小さく呟く。辺りにはいくらでも人がいたが、都会の喧噪にかき消されきっと誰にも聞こえていない。
 ……僕は今、東京にいる。現在は渋谷駅付近を歩いていて、あのスクランブル交差点が目の前にある。この異常なまでの人の多さは東京駅で新幹線を降りたときからそうだったが、未だに慣れない。
 しかも駅の一つ一つが馬鹿みたいに広く、線が意味不明なくらい多い。しかも駅の数も多いから乗り換えアプリが必須である。

 事の始まりは、今から一週間ほど前に遡る。
 あのとき、えんさんから来たLINEのメッセージを見て我が目を疑ったのを覚えている。一週間後に東京でオフ会します、というメッセージと共に、例の掲示板のURLが貼られていて、飛ぶと「2014年春、オフ会決定!」というタイトルのスレッドに、それの詳細がかなりの文字数で書かれていたのだった。
 本心では行きたかったが、流石に完全な部外者ということで断ろうとしたら、君に来てほしいのはメンバー全員の意向だ、と言って貰えたし、半ばダメ元で頼んだ親にも「行ってきなさいよ」とあっさり承諾を貰ったので、割と簡単に僕の東京行きが決まったのだった。
 ……どの方角を向いても、東京だ、と実感する。これは夢なのだろうかと一瞬疑ってしまうほど現実離れしていた。土曜日の昼すぎということで、いつもより人は多いのかもしれない。
 青信号になり、周りの人が一斉に歩き出す。ガゴン、と右手で引くキャリーバッグが段差で音を立てる。

 東京は暑かった。半袖の人がもう既に何人かいて、そうじゃなくとも僕みたいに薄着である人たちが大半だった。スーツを着たサラリーマンたちが浮いて見えるほどだ。
 今日、昼の一時に渋谷のスタバで待ち合わせな! とえんさんに言われたが、今調べてみると渋谷駅周辺にスタバは20件近くあるのでどこの店舗に行けばいいのか分からない。仕方なくLINEで聞くとTSUTAYAのスタバだと言われた。それは目の前にあるからすぐにたどり着く。
 そこは一面ガラス張りで、異様な存在感があった。窓際に見える座席は既に全席埋まっているみたいで、カップルやノートパソコンを広げている人の他に、外国の人が多く見えるのが印象的だ。
「どこにいるんだろ」と、ぽろっと口から出る。先程と同じようにそれは周りの音でかき消された。待ち合わせって言われても、これだけ人が多かったら流石にどれがえんさんで、向こうからしたらどれが僕なのか分かるわけがないのは明白である。
 とりあえず中に入ってみる。レジにかなりの人数が並んでいたが、なんとなく自分がいるべきポジションが分からず端の方へ歩み寄ってしまう。よく見てみると周りにも似たような人たちがそれなりにいた。きっと人を待っているのだろう。
 スマホを出し、えんさんにLINEでも送ろうかと思った瞬間、後ろから声をかけられる。
「あ、君、コウセイくん?」
 僕は驚いて振り返る。それは背の高い男の人で、見たところ、30代……ぐらいに見える。いや、そんなことはどうでもいい。なぜ僕の名前が分かったのだろう。この人は超能力者か何かなのだろうか。
「あ、俺えん。あの、掲示板の」
 言われた瞬間、え!? ぐらいしか言えず、ひどく取り乱してしまったが、少ししてやっと事態が飲み込めてくる。声がSkypeで聞いたことのある声だった。
「……あ、えんさん。あなたが」
 僕は、下から上になめ回すように、彼をまじまじと観察してみる。いかにも大人といった感じの落ち着いた服装で、身長は180センチほどだろうか。背が低めの僕の前に立たれてしまうと、見上げないと彼の顔が見えない。
「なんで分かったのって顔だね。周りを見回してごらん。中学生ぐらいの男の子で一人なのは君しかいないよ」
 周りを見てみる。何度見てもお洒落な店内である。確かに、これだけの人数がいるのにも関わらず自分と同じぐらいの歳であろう人が全然いない。中高生らしき人たちもいるにはいるが、それらは友達と一緒にいるような人たちばかりで、一人だけというのは確かに自分以外に一人もいなかった。

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Re: 2006年8月16日 ( No.53 )

日時: 2018/05/13 23:58
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「まあ、なんか頼むか」
 ちょうど列が空き始めたタイミングで彼がレジに並んだので、自分も後ろに付く。空いてるといっても十人以上並んでいるのでそれなりに待つことになるだろうが。
 それにしても、外国の人が本当に多い。ここは本当に日本なのだろうかと少し不安になる。
「こんなに外国人いたっけ、ここ。久しぶりに来たけど」
 前にいる彼もちょうど同じことを思っていたらしく、振り返り大きな声で僕に語りかける。店内にいる女子高生たちの喋る声がうるさい。
「あれ……、えんさんはあまりここには来られないんですね」
「前にも言わなかったっけ? おれ今は地元出てて栃木に住んでんだ」
 ここで、流石に嫌気が差したのか彼はその女子高生を睨みつけるように見つめる。それに気づいていない彼女たちは未だに大声で喋り続ける。皆一様に化粧が濃いのでコスプレか何かに見えてしまう。
「……五人は東京の高校に通ってたってことですか」
「ん? ああ、そうだよ。23区内じゃないけどね」
 少し意外だった。五人のゲーム制作企画を知ったときから、それをなぜか田舎の青春だとイメージしてしまっていた自分がいた。
「で、何にする? コーヒーとか飲めないならこれとかどう? フラペチーノっていうんだけど」
 彼は、並んでいる間に店員から手渡されたメニュー表を僕に見せながら、その、フラペ何とかというメニューを教えてくれる。バナナを使った商品が春の新作と銘打たれている。
「このバナナのやつ? 分かった。サイズは……、一種類しかないのか」
 何故かサイズはTallサイズの一種類しかなかった。名前からして大きいのだと分かるが、見るからにこんな甘そうな物を飲み干せるか心配になる。
 スタバに来るのは当然のように初めてだった。毎秒毎に変わる店内の様子や、窓から見える、瞬きする度に姿を変えるスクランブル交差点を眺めているだけですぐに最前列まで到達する。
 店員に注文を伝えているえんさんは、暫くして財布を取り出した。僕も慌ててショルダーバッグから財布を取り出してお金を出そうとするとえんさんに止められた。「いや、いいよ。流石に中学生には払わせられないって」
 えんさんはそう笑いながら一万円札を出した。飲み物二つで合計700円弱もするとは少し笑えてくる。えんさんが買ったのは安いコーヒーだったので、ほとんど僕の分の値段である。
 注文が終わると、横にずれて商品が渡されるのを待つ。
「人、多いよね」
 僕は反射的にえんさんのほうを向いたが、彼も向こうを見ていた。スクランブル交差点。何故だかずっと気になって暇さえあれば見つめてしまう僕がいる。
「ただ人が多いだけだよ、あんなの」
 何故か皮肉るような言い方だったのが気になったが、僕は何も言えないまま信号が青に変わる瞬間を見届けていた。
 お待たせしました、という店員の声に反応したえんさんは、今見ていたあの交差点など気にも留めていないようだった。

 一階は満席だったので、階段にて二階に移動した。さっき交差点から見えた人たちが半分ほどまだ残っている。一階よりは空いているが、それでも席の半分以上は埋まっている。見ると、さっき交差点で見えた窓際の人たちがまだ座っていた。僕たちは階段から一番遠い席に座った。
「なんか奇跡みたいだよね」
 彼はそう呟いてコーヒーを一口飲み、はあ、とため息をつく。
 聞き返すより先に、彼は口を開く。「思わない? あんなノリで作った掲示板に時間差で君が問い合わせてきてさ、昔使ってたけど今は全然使ってなかったメールを俺がたまたま開いて、一週間前のそのメールに気づいたんだよ。聞けば樹雨とかも俺と似たような感じだったらしいし」
 同じことは自分も前に思った気がする。僕はフラペチーノの上のホイップをストローで飲み、無言のまま頷く。甘い。

「俺、最近はずっと仕事仕事で、なんか夢も希望もないなーって感じで暮らしてたんだけど、俺たちみたいな人間でもこんな奇跡起こせるんだなって、なんか、嬉しかった」
 彼はまたここでコーヒーカップを口へと運ぶ。そのドリップコーヒーは砂糖もミルクも入れていないので、きっと土のように苦いだろう。
「まあ何が言いたいかっていうと、感謝してる、ありがとう。メールでの君は最初申し訳なさそうな感じだったけど、それでも君がとった行動が巡り巡ってこんな奇跡を起こせたのなら、その事実を君はもっと誇っていいと思う。他の人から見たら些細なことかもしれないけど、俺たちは今日十年ぶりぐらいに再会する。それも全てコウセイくんのおかげだよ」
 ありがとう、と最後にまた言われたので、少し畏まってしまう。「そう言ってもらえて嬉しいです」
 あんな行動、僕にとっては自己満足でしかなかった。実を言うと返事が返ってこなかったとしても別に構わなかった。何故なら、2006年8月16日の最終更新も、それはそれで美しい光景だと純粋に思えたからである。
 僕は自分が他人に理解されないようなことを考えていると分かっている。だから、それもそれでありですね、だとか、こんなこと自己満足です、だなんて無意味なことは言うべきじゃないと思った。

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Re: 2006年8月16日 ( No.54 )

日時: 2018/08/03 14:14
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「しかし、暑いな、東京」
 彼は独り言のように呟く。もうお互いに飲み物はほとんど飲み干していた。向こうで窓際の席がいくつか空くと、周りの人が取り合うようにして座る。
「あ、で、今日14時にハチ公前で待ち合わせしてるから。そこから電車に乗って俺らの地元まで行くつもり」
 14時というとあともう少しだ。自然とテーブルの真横にあるキャリーバッグを自分の元へ寄せる。いよいよなのかと、少し緊張する。
「緊張する? 俺も緊張してるから気にしないでいいよ」
 それはきっと本当だろうと漠然と思う。「そういえば……、ゲーム製作って順調に進んでますか?」
「急だね」彼は少し笑う。「いや、もう終わってるよ。オフ会が決まったときには既に終わってたかな。俺は総監督だったからほとんど何もしてなかったようなものだけど」
 終わった。あの企画が。莉乃さんの意志を継いだあのゲームが。
「……今度やらせてください」
「もちろん! 自分で言うのも変だけど本当いい作品に仕上がったよ」

 僕は莉乃さんがどこの誰で、どういう容姿をしていて、どういう人となりなのか全く知らない。当たり前だ。会っていないから。
 そして、これから二度と会うことはできない。これだけ片方が一方的に知っていても、心動かされていても。
「……俺たちは高校の頃ゲーム製作をしてた訳だけど、そのときに担当してたものと、十年経った今仕事でやってるものが、それぞれ不思議と近いんだよね。信じられないことに」
 え、と僕はあからさまに驚くように彼を見るが、彼にとっては想定していた反応のようで眉一つ動かさなかった。
「俺はこのときCG色彩も担当してたんだけど、今グラフィックデザイナーみたいなことをやってて、樹雨は音楽担当から音響関係の職になってて、水音はスクリプト担当からプログラマになって、ゆーたは原画担当からイラストレーターになってる。皆それぞれこのゲーム製作企画で担当してた仕事を今も続けてて、そこがなんか、感慨深いというか」
 僕が息を呑んでいる間、腕時計を確認した彼は席を立ち、コーヒーカップのトレーを持つ。「さ、行こうか」
「あ、はい」彼は僕に何も言わせなかった。五人のゲーム製作企画。それは全員にとってなんて意味のある事件なのだろうと思う。
 彼は既に歩き始めている。大きな背中が見え、肩には小さなショルダーバッグを掛けていて、自分とは色々な意味での軽さが違うなと笑える。僕はキャリーバッグを押し、すぐに彼を追った。

 店外に出ると、外の暑さはさらに増していた。交差点で信号を待つ人々には、半袖を来た人が先程より増えた気がする。
 前を進むえんさんが眩しそうに目を覆う。一転して太陽が雲に隠れると、彼はほっとしたように手を下ろした。
「今って三月だよな……」
 信号が青に変わったので、人々が一斉に歩き出す。ははは、と僕は愛想笑いだけ作り、その集団に続いた。しだいに喧噪が激しくなっていく。あらゆる方向からあらゆる方向に大群が押し寄せていく様は、相変わらず壮観である。
 ハチ公前。それはここから見えていた。けれど周りにいくらでも人がいるのでどれが彼らなのか分からない。横断歩道を渡り終えたときは流石に目の前だったので、僕はえんさんのほうを見る。
「……あ!」
 彼は走り出していた。何事かと思い僕も続く。彼は迷うことなく走り寄った数メートル先で男女数名と輪を作っていた。
 僕も早歩きで近づくと、彼らは一斉に僕のほうを向く。これが、あの企画のメンバー達なのか。何回かSkypeで話したので声だけは知っているが、いかんせん、顔と声が合わない。まあオフ会なんて普通こんなものか、と勝手に納得する。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.55 )

日時: 2018/07/08 02:37
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「コウセイくん!」
「君がか!」
「マジで中学生だったの!?」
 いきなり三人にそれぞれ話しかけられたので、少し反応に困る。……とりあえず中学生というのを疑われていたのは心外だが。
「初めまして。香征っていいます」
 三人は、初めまして! とハイテンション気味にそれぞれ返してくる。なんというか、普通の大人という感じだ。えんさん、樹雨さん、ゆーたさん、水音さん。僕を見つめる四人は僕にとって間違いなく特別だが、本当にどこにでもいる大人にしか見えなかったのがどこまでも切なく感じた。
「コウセイくん。今日は遠い所からありがとう」
 いかにもバンドマンといった黒くもっさりとした髪の人は、きっと樹雨さんだろう。まず自分なら髪がここまで伸びたら切りにいっている。
「しかし東京久々だけどこんな暑かったっけー」
 関西弁。ゆーたさんに間違いない。整った顔立ちですらっとしたスタイルはこの渋谷の街によく似合っている。
「あー、ゆーたは大阪に戻ってるんだっけ?」
 紅一点の水音さんは華奢で可憐でとても可愛らしい。

「で、今日は俺たちの思い出の場所を案内するよ」
 彼らの視線が一斉に僕に向けられるのを、僕は一途に感じていた。彼らの真剣な眼差しを前にしては、含羞どころか、愛想笑いを浮かべることもままならない。案内、という言葉が少し引っかかった。
「じゃあ、行こう」
 先頭を歩くえんさんに続き彼らもゆっくりと歩き出す。僕もすぐ続こうとして一瞬ためらった。ふと振り返る。スクランブル交差点で信号を待つ人々は相変わらずいつも多い。先程僕と信号を待っていた人たちはもう全員渡りきったにも関わらず、一分もすればどこからこんなにやってきたのかと思う程度に人が集まる。渋谷。僕はこの街を後にする。次ここに来るのはいつになるのだろう。
 ……ここにいる僕と彼らは、この場所に於いて何者だったのだろう。

 僕たちは渋谷駅から山手線に乗って新宿駅で降り、そこから中央線に乗り換えた。
 車窓から見える景色からは高層ビルなどの大きな建物がだんだん減っていく。駅こそ初めは聞いたことのある駅ばかりだったが、立川を過ぎた辺りからは聞き慣れない名前の駅ばかりに停車する。拝島という駅で降り、そこから五日市線という電車に乗り換えたときは全く未知の領域だった。
 僕はこれからどこへ行くのだろうと、少し怖くなった。
「結構、乗りますね」
 気づけば僕たちは一時間近く電車に乗っていた。車内にいる乗客の数は岡山とそう大差ない。僕たちは岡山ではまずお目にかかれないであろうロングシートに座り、無言のまま向こう側の車窓ばかりを見続けていた。いや、僕が喋らないのはまだ分かるが、彼らが何も話そうとしないのは明らかに不思議だった。
 またここで、熊川、という駅に停車する。乗ってくる人はほとんどいなかった。
「ああ、大丈夫。もう少しで降りるよ」
 僕の真隣に座っている水音さんが答えた。ほとんど一時間ぶりに喋ったからか、声がか細い。それは踏切の音にかき消されそうだった。反射的に声のほうを向くと彼女はこちらを見てなどいなかった。彼女の瞳はまっすぐ前だけを見つめている。つられて僕も向くと、東京っぽくない景色だけを延々と続かせる車窓があった。彼女は未だ向こうを見つめたまま動かない。この車内で窓外の景色だけが動いていて、それ以外の物は全て静止画のように止まっていた。
 僕はその瞳を、目に焼き付けるように見入った。間違いなくこの瞳だと思った。あの夜、Skype越しに泣かせた女性の瞳は。

 ……電車はそれから二駅進み、秋川、という駅に停車した。
「いやー、やっと着いたね」
 プラットホームに降りてから、彼らはそれぞれ一様に伸びをしたり体をほぐしていた。
 僕はここで辺りを見回す。しつこいようだが東京感が一切見受けられない。むしろ、田舎の無人駅にすら見える。黄色い屋根の駅舎が印象的だった。
「ここが、俺たちの聖地」
「ここがですか……」
 広い空は、この世の何よりも澄んだ色をしていた。きっとここは僕の想像していた彼らの故郷に限りなく近かった。
 ついにここにたどり着いたのだと、一瞬感動する。そして次の瞬間、たまらなく恥ずかしくなった。僕は、東京が彼らの故郷だと、渋谷でえんさんから聞かされ愕然としたが、それらは完全に早計だったと感じざるを得なかった。
 この狭いプラットホームから見える、自分の浅はかさや世間知らずさを恥じる心すら許してくれそうな空がそこにあった。

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