複雑・ファジー小説

Re: 日韓の戦い 【自分勝手な文在寅さん】 ( No.5 )
日時: 2019/08/30 16:51
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第2章「元寇」 「日本への使節派遣と日本侵攻計画」

仲介を許したが、やはり心配だった元宗や宋君鹿ソン・グンハクはヒズルら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると対馬を望み、海の荒れ方を見せて航海が危険である事、貿易で知っている対馬の日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らない事などを理由に、日本への進出は利益とならないとして、高麗の官吏と共にクビライの元へ下朝した。しかし、報告を受けたクビライはあらかじめ「風浪の険阻を理由に引き返してはならぬ。必ず日本へ行け。」と。しかし元宗は「皇帝陛下の聖恩は天大にして、誓った功を立てて恩に報いたい。」と誓うが、決してその命令に従う事はなく、使節団を日本へ航海させなかった。それに対してご立腹したクビライは今度は高麗が自ら日本へ使節を派遣するようにとクビライは言う。命令に逆らうことの出来なかった元宗は高額の軍事費をその後払わされるようになった。この使節団の中には潘阜パン・プという後の朝鮮の氏族の巨済潘氏の始祖がいた。しかし、この派遣では日本の断りを受け、後日を期す事となった。そうして1268年の正月、高麗の使節団が太宰府に到来。鎮西奉行ら日本人らがクビライの国書と、高麗王の国書、それに加えて潘阜の添え書き。を受け取った。その頃日本の鎌倉幕府ではこの年の3月、北条時宗が執権に就任した。この時宗はモンゴルの暴虐な略奪や摂取を見てきた男だ。故に時宗はモンゴルに恨みを募っており、その国書を再び断る事を当時の天皇・亀山天皇もクビライらの国書を断固した。そしてその年の5月、この事を知ったクビライは怒り、高麗に厳命し、戦艦1000の造船を命じた。また同年10月にクビライは軍平10000を鍛え上げるよう命じ、戦艦1000の軍備を整えさせた。そしてクビライは日本への侵攻ルートを調査させた。1270年に南宋への侵攻を開始。実際は1273年まで激戦が続いた。こうして統一された中国と合併した。その後、4回ほど、使節を日本に派遣したが、失敗に終わった。その頃1271年、反乱を起こしていた三別抄に軍事的援助を乞うクビライはの使節が到来した。三別抄は反乱を中断し、クビライらに協力した。だいぶ省かせて頂いたが、1274年までに合計6回、日本に使節を派遣した。また、その間にものすごいほどの兵力をクビライは集め戦乱の準備をしていた。そうして第一次日本侵攻計画が始まった__

Re: 日韓の戦い 【自分勝手な文在寅さん】 ( No.6 )
日時: 2019/09/01 03:28
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第5話「2回の日本侵攻」

1274年 10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥンを総司令官に任命し、漢人の左副元帥の劉復亭りゅうふくていと高麗人のホン・ジャミョンを副将とする蒙古と漢軍25,000人の主力軍と都督使・キム・ジョンヨンらが率いる高麗軍(8,000人)と水夫を含んだ総計40,000人を乗せた900の軍船が、女真族の軍勢の到着を待ち、高麗の合浦を出発。日本側はその知らせを聞き、急ぎ軍事体勢を整えた。
そして10月、対馬や壱岐、平戸・鷹島・能古の松浦党の領地に元が襲来し、日本軍を打ち負かしたとの知らせが日本の太宰府に伝わり、京都や鎌倉へ急報を発する。その頃には既に九州の御家人が太宰府に集結していた。しかし九州の御家人のほとんどは郭秦川という荒流の流れる川を通らなければならず、太宰府への集結に遅れた。その間に元軍は博多湾に襲来。その後、百道原より約3km以上離れた赤板を占領し、陣を布いた。その頃には太宰府に鎌倉軍も集まり、鎌倉軍率いる九州の御家人と逃げてきた辺境の兵士たちが元軍に立ち向かう。そうして、元軍のいた赤板に5,000の兵士で進撃し、元軍を赤板から敗走させる。そのまま日本は元軍を倒そうと九州まで追い込む。この日、大雨が降った。雨により、進撃が遅れた。これは台風の前兆だった。次の日も雨が降り続いた。すると元軍は鹿児島まで渡り、一次休戦する事になるが、その元軍の後を追った日本軍は後からやってきた5000の兵士と合流し、水戦を交える事になる。水戦を予想しなかった元軍は水戦の準備をするため、日本と交渉する「これまでに捕えた日本の捕虜の半分を返すから2日後に水戦を行おう。」と。取引をした。そして元軍は蘇原山がある蘇原へ向かい、水戦を準備した。そして赤板にいた元軍本軍と合流しようとする。イム・チハンと2,000の兵士が赤板へ向かうと、それに察知した日本の竹崎季長ら日本軍が3,500の兵士を連れてそれを追撃し、元軍を打ち負かした。結果、兵士の損失は元軍が1,800、日本は500だ。途中、竹崎が転倒し、イムらを取り逃がすが、これは圧勝だったと言えよう。200人の兵士は元軍本軍の10,000を連れて陣営に戻る。その次の日の早朝、水戦が始まる。水戦では古代の大戦争・白村江の戦いのように、小さく、モロかった日本の水艦を改善して日本は水艦を潰され、焼き払われる事を予想し、速度が速く、頑丈な水艦を創作した。そうして元軍はまたもや大敗をした。元軍の損失は4,000だったのに対して日本は1,700に圧されられた。また、雨が再び降り始めた。その理由で元軍は退いた。
3週間後…元軍は鹿児島へ退いた。その後を追撃するが、暴風がやって来る。風向きが変わり一気に日本が窮地に陥る。1274年11月23日、日本は元軍への追撃をやめ、対策を練っていると、その3日後、ひどい暴風がやって来る。1274年11月26日、退いた日本への追撃を決心した元軍は暴風に襲われ、300人損失が出る。そうして元軍は元へ帰国した。

こうして勝利した日本は2度目の進撃も恐れていた。そうして日本は防塁を作り、対策を練り、民へ義兵を請うた。そして、予備軍が30,000を超えた。だが、予想通り、日本へ再び出征をした。今度は16万の兵を連れてやって来た元軍。戦いは6月16日に始まる事となる。やはり、再び九州の暴風を受けるわけにもいかず、四国から攻める。そんな四国と広島の間の海で日本水軍20,000が待ち構えていた。それに対して本軍は10万のものの、水軍1万の割合だった元軍は、日本に打ち負かされる事となった。元軍は9,883の水軍損失を受けて、元軍は四国に留まり、高麗から4万近くの水軍援軍を待ち続けた。そうして7月下旬に水軍援軍が到着。更に1ヶ月待ち続けた飢え死にしそうだった兵士たちのための兵糧を数えきれないほど持って来た。これを運ぶために結構な時間をかけてやって来た。そうして8月上旬に日本との水戦を開始した。日本の提案として元軍の水艦に重りを投げつけ、沈めさせる作戦を講じ、その後、白村江の戦いのように元軍に火を放たせた。そして大勝利を勝ち取った日本。日本のこの勝利は大層大きいものだった。この敗戦に怒ったクビライは元軍に本軍までもを水軍にせよとの命令が下り、もろい船を何千艦も作り、8万の兵士らが水戦に移った。ちゃんとした船に乗っていた兵士は約900人ほどだ。この結果、クビライの無茶振りによって全14万の不帰還者を出した。この戦いで名将のアラテムルが重りの乗った船に沈められ、溺死し、元軍の指揮官のクドゥハス将軍も火矢によって射抜かれた。この戦いには鎌倉幕府の北条氏の力があったが、その数十年後、鎌倉幕府は滅ぼされる。また、1274年に崩御した元宗の後を継いだ高麗王の元への忠誠心によって高麗を危機に陥れた。1281年、高麗や元に日本の水軍の恐ろしさを知らせた。高麗は4万近くの軍を元に送り、赤字となった。

この元寇では日本、高麗について触れることがなかったため、元寇の説明の終わった今、話す事としよう。
この第2章では元と日本の戦争について話したが、高麗と日本でも激突があった。高麗は日本の朝廷に幾度も兵士を入れた。1274年に後宇多天皇が死んだ事に毒殺説が出ている。これも高麗刺客が高麗朝廷に忍んだ8日後だそうだ。故に、後宇多天皇の毒殺説は高麗の刺客によっての事かとも予想できる。また、同じ年に高麗の元宗が死んでいる。これも日本の復讐だとも言えよう。そして日本は北条氏らが元軍との戦いをしている際に、後宇多天皇が自ら出征をしたそうだ。日本の2万にも迫る大軍によって元軍に兵士を出し、軍がいなかった高麗は滅亡寸前だったが、女真族によって助けられる。

第3章「朝鮮建国」