複雑・ファジー小説

Re: 日韓の戦い 【領土巡り】 ( No.11 )
日時: 2019/09/07 21:59
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第5章「古代三国志」

三国時代後半

百済から贈られた七支刀のレプリカ。石上神宮蔵。国宝
6世紀には新羅が強大になり、高句麗の領土が削られたため、高句麗は百済や倭国と友好関係を結んだ。継体天皇は大伴金村による任那4県割譲など百済へ積極的な支援を行い、近江毛野に伽耶を防衛するため朝鮮半島方面への出兵を命じたが、九州の筑紫国造である筑紫磐井の謀反により磐井の乱が起きて断念した。当時の倭国は、朝鮮半島との外交権や貿易の利益をめぐってヤマト王権と豪族の対立が起きており、吉備氏の乱や、磐井の乱もこれに含まれる。磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧されたものの、出兵は取りやめとなり、新羅は加耶の全域を併合した。磐井の乱を鎮圧した朝廷は外交の統一を進めて、那津に外交施設を建設する。これがのちの鴻臚館の原型となった


百済・加耶・新羅が倭国の臣民であったことを記録する好太王碑。「倭寇」という文字が初めて確認できる記録でもある
ヤマト王権は高句麗を破り、朝鮮半島に一定の勢威を有する。新羅も伽耶の調を献ずるなど倭国を立てる外交が行われた。朝鮮の三国は仏教や大陸文化を伝えることで倭国との誼を強くしようとする外交政策が行われた。しかし、推古朝の頃に新羅は任那を攻撃したため、倭国は任那救援軍を派遣し、新羅の5城を打ち破った。来目皇子を将軍とする軍が編成されるが、九州で来目皇子が病になり派遣は中止された[22]。新羅との関係は悪化し、代わりとして百済や高句麗との関係は重視された[23]。皇極朝の頃に高句麗にて謀反があり、栄留王に対し宰相の淵蓋蘇文が王弟の子を擁立し宝蔵王が即位したことが報じられ、ヤマト王権でも東アジア外交に対する緊張感が高まった

百済・高句麗の滅亡と新羅の統一
編集
朝鮮半島は、中国の唐と新羅の同盟が成立したことで統一に向けて動き出す。唐・新羅軍は劉仁軌の唐軍と金法敏の新羅軍が百済を攻撃して扶余を陥落させ、義慈王と太子扶余隆が唐の洛陽に送られて百済が滅ぼされた。倭国は百済再興の名義で、安曇比羅夫、朴市秦田来津、阿倍比羅夫らの軍勢を朝鮮に派遣した。加えて百済の遺臣鬼室福信の要請により、倭国への質として送られていた百済の王子余豊璋を護送した。斉明天皇は余豊璋が旧百済の地に帰国する直前に百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。倭国は百済の軍勢と共に白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅軍と戦い、この白村江の戦いで倭国・百済軍は敗北した。百済の再興はならず、倭国は朝鮮半島から完全に撤退した。高句麗は百済の滅亡で軍事的に孤立し、唐の高句麗出兵で宝蔵王らが唐に投降して滅んだ。

唐は新羅の文武王を鶏林州都督府の大都督に任命して、朝鮮半島を羈縻州として支配しようとしたために唐・新羅戦争が起きた。新羅が唐を撤退させて朝鮮半島を統一すると、倭国は遣新羅使の派遣を始めて、新羅は日本に新羅使を派遣した。以後、遣新羅使と新羅使は中断をはさみつつ約150年間に渡って続くことになる。倭国からの遣唐使の航海では新羅の沿岸を通るため、新羅との関係は遣唐使にとって重要だった。倭国は遣唐使の第7次派遣後は新羅との関係悪化によって中断して、五島列島方面の南ルートを選んで第8次派遣を再開した

Re: 日韓の戦い 【領土巡り】 ( No.12 )
日時: 2019/09/07 21:59
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第5章「古代三国志」②

朝鮮半島は、中国の唐と新羅の同盟が成立したことで統一に向けて動き出す。唐・新羅軍は劉仁軌の唐軍と金法敏の新羅軍が百済を攻撃して扶余を陥落させ、義慈王と太子扶余隆が唐の洛陽に送られて百済が滅ぼされた。倭国は百済再興の名義で、安曇比羅夫、朴市秦田来津、阿倍比羅夫らの軍勢を朝鮮に派遣した。加えて百済の遺臣鬼室福信の要請により、倭国への質として送られていた百済の王子余豊璋を護送した。斉明天皇は余豊璋が旧百済の地に帰国する直前に百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。倭国は百済の軍勢と共に白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅軍と戦い、この白村江の戦いで倭国・百済軍は敗北した。百済の再興はならず、倭国は朝鮮半島から完全に撤退した。高句麗は百済の滅亡で軍事的に孤立し、唐の高句麗出兵で宝蔵王らが唐に投降して滅んだ。

唐は新羅の文武王を鶏林州都督府の大都督に任命して、朝鮮半島を羈縻州として支配しようとしたために唐・新羅戦争が起きた。新羅が唐を撤退させて朝鮮半島を統一すると、倭国は遣新羅使の派遣を始めて、新羅は日本に新羅使を派遣した。以後、遣新羅使と新羅使は中断をはさみつつ約150年間に渡って続くことになる。倭国からの遣唐使の航海では新羅の沿岸を通るため、新羅との関係は遣唐使にとって重要だった。倭国は遣唐使の第7次派遣後は新羅との関係悪化によって中断して、五島列島方面の南ルートを選んで第8次派遣を再開した。

朝鮮半島統一と日本の対応


高麗郡のあった地に鎮座する高麗神社の拝殿
朝鮮半島の統一は、倭国に大きな影響を及ぼした。滅ぼされた百済や高句麗からは多数の亡命者が日本列島へ渡り、新羅からも仏教僧らが逃れて来て、倭国はこうした難民を受け入れた。高句麗からの亡命者には高麗郡を与えて、駿河、甲斐、相模、上総、下総、下野に住んでいた遺民を武蔵国に移住させた。同様に新羅人には新羅郡(のちの新座郡)を与えている。上野、下野でも移住は行われた。高麗郡大領となる高麗若光には王(こきし)の姓が贈られており、百済の亡命者は豊璋の弟・善光が百済王(くだらのこにきし)の姓が贈られ、百済王俊哲などの人物を輩出した。桓武天皇の生母である高野新笠は、百済系渡来人の家系にあたり、2001年の明仁天皇による「ゆかり発言」に関連している(後述)。

日朝関係史の位置(九州内)日朝関係史日朝関係史日朝関係史日朝関係史 大宰府 |大宰府

九州本土の古代山城の分布
白村江の戦いの敗北と、同盟国の百済の滅亡によって、唐や新羅から日本列島への攻撃が予想された。天智天皇は防衛のために最前線の対馬、壱岐、北九州に兵士として防人を配備して、連絡用の烽を用意した。そして西日本に山城の造営を始めて、これに百済の亡命者も協力した。大宰府の防衛は水城や大野城が担当しており、大野城と椽城は百済の専門家として憶礼福留らが作業を指導した。天智天皇が近江大津宮へ遷都した理由も、防衛のために交通の便がよい地を選んだとされている。唐が西方の吐蕃から攻撃を受けて東方への進出をやめるまで、日本と新羅は戦時体制が続いた。

ヤマト王権は防衛を整えるとともに、外交や貿易の施設として筑紫館(つくしのむろつみ)を設置した。大宰府が行政機能を有したのに対して、筑紫館は使節の宿泊や検問、貿易の取り引きをする施設となり、唐、新羅、渤海との交流に用いられた。

渤海・耽羅


渤海使が訪れた秋田城の復元
唐の高句麗出兵で高句麗が滅ぼされた後、その遺民によって渤海が建国された。渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結んで渤海使・遣渤海使を交換した。34回の渤海使が日本に対して朝貢を行い、出羽国の秋田城、越前国の松原客館、能登国の能登客院にも渤海使が訪れた。当初の渤海は日本との政治的な結びつきを重視していたが、渤海と唐の関係が改善すると貿易が重視された[29][30][31]。

日本は、済州島に成立した耽羅との間にも7世紀半ばから遣耽羅使・耽羅使を交換した。のちに耽羅は、莞島とともに海上貿易の拠点となる。

律令国家と新羅・高麗

律令国家の成立

日本列島では大宝律令が制定されて、それまで「倭国」を自称していたヤマト王権は「日本」を用いるようになった。外国に関する規定は中国の華夷思想をもとに定められて、天皇の統治の及ぶ地は化内、その外は化外となり、化外は隣国(唐)、蕃国(新羅、渤海)、夷狄(毛人、隼人)に分類された。これによって、奈良時代以降の日本は、朝鮮半島に朝貢を要求するという外交政策を進めた。一方で朝鮮半島を統一した新羅は対等の関係を望んで対立し、渤海も唐との関係が改善すると日本を冊封による宗主国ではなく貿易相手国と見なすようになった。

新羅と日本の緊張関係により、遣唐使が朝鮮沿岸を経由できなくなるなどの影響があったが、新羅の王子金泰廉らは天皇に拝謁して貢物を献上した。朝廷の命を帯びない日本側の兵船300隻が突如、新羅を攻撃し、大敗したとの報が朝廷にもたらされた。朝廷は日本海側の沿岸防衛のために東海道、東山道に節度使を置き臨戦態勢を整えた。その後、九州で天然痘が蔓延したため、朝廷は東国からの防人の徴兵を廃止し、壱岐、対馬の防人は筑紫国の人々とすることを決定した。新羅に敗北した唐は新羅攻撃を計画して、日本に支援を求める。しかし当時の日本は天智天皇が崩御した直後であり、唐の使者に武具などを献上して出兵を免除された。唐の新羅攻撃は、チベットの吐蕃が西部の領土を攻撃したために中止された。唐の脅威の後退により、日本と新羅は臨戦体制から平時へと移行して中央集権化を進めた。