複雑・ファジー小説

Re: 飛天舞~忠かれた王室~ ( No.9 )
日時: 2019/09/08 07:42
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第4話「チュンチュの即位」

【チュンチュの屋敷】
チュンチュに刀を向けるユシンの背後から真徳女王、キム・ジンジュ、キム・ボムミン 、キム・インムン 、キム・フムスン、ヤンドゥヒ、イェウォン、そしてチュンチュの妻・太子妃キム氏がやって来て、一斉にチュンチュに刀を向ける。

そして、チュンチュに襲いかかる__

そのような夢から目覚めるチュンチュ。そんなチュンチュの元へ太子妃キム氏がやって来る。
「どうしたのです?悪夢でもお見られに?」と心配そうな顔と声でチュンチュに尋ねる。
「あの…ユシンが私を斬り倒そうとしたのだ…一体…この夢は何だったのだろうか…」とチュンチュが不安そうに言う。
「ユシン兄上が?」

【ユシンの屋敷】
屋敷に集まる反唐派たち。
「今日より!我ら反唐派は摂政様たち親唐派に全面対抗する!」とユシンが刀を揚げて力強く言う。
「だが、兄上…摂政様が王位に就かれたらどうするのだ?その時になれば我らは殺されるだろう。」とフムスン
「そうだ。摂政様が王位に就かれたら新羅は唐の植民地となるだろう。その前に!摂政様を説得するのだ!」
とユシン。それを不安そうな顔で聞くイェウォンとヤンド。

【真徳女王の寝室】
咳き込み、横になる真徳女王の元に座るチュンチュ。
「大王陛下。早く病を治して政局にお戻り下さいませ。」とチュンチュ。
「摂政…そなたに…そなたに…太摂政を任ずる。」*太摂政…政治以外の全権を現の君主に任される事、崩御を近くした君主が臣下に任せる役職 朝鮮半島ではチュンチュが唯一無二の太摂政だった。
「大王陛下!何を仰られます。まだ大王陛下はお若いですのに。」

西暦652年に摂政だったキム・チュンチュが太摂政の座を任じられた。真骨だったチュンチュは最優先王位継承者になった事に多くの反感を抱かれ、命の危機を何度も感じされられたとキム・チュンチュは言ったらしい。その後、真徳女王は崩御する日まで床から出なかったと言う。

西暦654年3月 真徳女王が崩御した。真徳女王は前王・善徳女王の継夫の国飯・葛文王の娘。長身であり美女だった。善徳女王の娘ではなかったため、善徳女王が即位するまでは真骨だったが、善徳女王が即位して聖骨となった。647年1月に起こった古代朝鮮半島最大の反乱・ピダムの乱では名将キム・ユシンと力を合わせて見事な兵法によって648年の即位直後に乱鎮圧に成功した。即位存位中は甥のキム・チュンチュを太子に任命し羅唐同盟の大義を守った。その同盟は後に三韓統一を成し遂げる一歩となった__

【チュンチュの即位式】
「新 大王陛下 万歳!万歳!万歳!万歳!万歳!万歳!万歳!万歳!」とユシンが声を荒だげる。

西暦654年5月、摂政だったキム・チュンチュが王位を継承する事となる。キム・チュンチュは幼い頃から生涯の友キム・ユシンと''三韓一統''の大義を抱き続けてきた。羅唐同盟を結ぶ事が三韓一統に繋がると信じたチュンチュは649年に羅唐同盟を組む。そして650年には唐の元号を使う事を宣言したりとして羅唐同盟の大義を貫き続けた。ちなみにチュンチュは真骨だ。その理由としては祖父は廃位された真智王だったからであった。そして真骨になりながらもその聡明さによって世間から認められ、朝廷に再出仕する事が可能となり、王位に就いた。
存位中にチュンチュは倭国の律令制度を朝鮮に取り入れ、新羅を最盛期にした。

__西暦655年1月

【百済・高句麗国境会議所】
ヨン・ゲソムンとソンチュンが対面する_
「そなたがソンチュン公か?」とヨン・ゲソムン。
「はい。大莫離支。」とソンチュン。
ヨン・ゲソムンは衣から宝蔵王の国書を取り、ソンチュンに渡す。
「これを。百済の大王に渡しなさい。」とヨン・ゲソムン。
「はい。」と大事に国書を持ち帰るソンチュン。

【百済の王宮】
王宮中に響き渡る義慈王の笑い声。
「ハッハッハ。」と女と酒を囲んで遊びまくる義慈王。
そこに高句麗の国書を持ったソンチュンが。
「大王陛下。ヨン・ゲソムンより国書を受け取って参りました。」と言って国書を義慈王に渡すソンチュン
「大王陛下。こんなに酒を飲んでいては政治に支障が出るのでは?」とソンチュンが言うと…
義慈王は立ち上がってソンチュンの白髪を掴み、振り回していると、ソンチュンは義慈王を突き飛ばしてしまう。
義慈王は腰を抜かして笑い出す。
「ハッハッハ。余の事を…あのソンチュンが突き飛ばしたぞ!君主を…あやつが…突き飛ばしたぞ!」
「貴様…何が…君主だ。むしろ王宮の蔵を潰して奸臣の言葉に惑わされて!これが大百済の君主とは!国として恥だ!故にお前のような奴が君主であるこのような大百済にはもう住みたくない。故に殺せ!殺すんだ!早く殺せ!」とソンチュンが気が狂ったかのように義慈王を煽る。
「この者を投獄せよ!この者を生かしてやる代わりに絶対に食べ物を与えてはならない。」

成忠ソンチュン__百済時代末期において活躍した元学者である。この者は若き頃から聡明であり、知識が豊かだった。それ故、若き頃に海学問(百済の上級階級専門の学校)で入学1年で上学長(海学問の長、正7品)となった男だった。実は彼は倭国の母と百済の父を持っていた。そのため、倭国語(日本語)を喋れる彼が使臣として送られる事があった。百済には倭国との関係の派閥があり、蘇我入鹿派と中大兄皇子・中臣鎌足派がいたが、彼は中大兄皇子派であったため乙巳の変の後も倭国から優遇対象者として扱われた。また、年が離れていたとされるがケベクとも仲が良かったとの諸説がある。

655年に彼は義慈王の反感を買い、獄舎の中で餓死させられた。これにソンチュンの友人フンスも抗議し、流刑に処された。

Re: 飛天舞~忠かれた王室~ ( No.10 )
日時: 2019/09/12 22:15
名前: 渾身2 (ID: Xr//JkA7)

第5話「羅唐連合の出征」


【新羅の王宮】

キム・ユシンは大きな怒鳴り声でチュンチュに言い聞かせる。
「大王殿下!唐は新羅を植民地にしようとしています!そのような国と共に百済に出兵して、勝利を収めても唐はその手柄を横取りするでしょう。」とユシン。

「ユシン大将軍。三韓一統を遂げるまで一時的に唐と手を組むだけだ。」とキム・ジンジュ。

「ユシン。分かった。余が断言しよう。新羅は唐の植民地には決してなる事はない。」と力強く言う。

西暦656年__反唐派と親唐派は和解を遂げる。その和解の意味でキム・ユシン将軍は武烈王キム・チュンチュの娘・チソ夫人と婚姻し、キム・ユシンは王室と親戚となった。当時キム・ユシンは61歳だったとされる。

4年後…酒色に染まった百済王・義慈王は次々と臣下らを粛清した。義慈王は''酒と女に溺れて遊ぶ暴君''と呼ばれるようになり、唐・新羅は出征の時期を早めた。

西暦660年3月

【唐・新羅の幕舎】

蘇定方はキム・ユシンに言う。
「そなた、手土産はないのか?私は詔を受けた大総管だ!」と怒鳴り声でユシンに。

「なんだ?そなたは新羅の大将軍に詔を口実に手土産を要求するのか?」

「貴様!こやつを直ちに斬るのだ!」と蘇定方がそういった時…

キム・インムンが止める。

キム・インムン…彼は後に実質 新羅の国王となる。彼は反唐派の実兄ボムミンと対立する武烈王チュンチュの次男だ。彼は幼い頃から唐に憧れており、父チュンチュと共に唐を目指し政治を行おうとしたらしい。彼は8世紀初期まで生きたらしい。660年、663年、668年に起こった新羅の戦争にはインムンが全て関わっていた__
当時7世紀中期の660年代は30代前半だった。漢字は金仁門と書く。

【百済の王宮】

酒を飲みながら、臣下の話を聞く義慈王。

「大王陛下。現在、羅唐軍が百済に侵攻しております。このままでは…」とボクシンが。

「それはボクシンに任せる。余は残りの治世は酒を楽しむのだ。戦乱など…人が死ぬのを見て何が楽しいのだ?」と義慈王が言うと…

ケベクが「戦乱は見るものではなく戦うものです。先代の武王大王陛下は決して部下たちだけに戦わせず、自ら戦場に向かわれたのです。これは常識でございます。また、現在18万の羅唐軍が都に迫っていると聞いた民は動揺しているため、自ら陛下が出兵し、民たちの心をお沈めになられてください。」と。

「何だと?大将軍ごときが一国の君主に命令するのか?」と怒った様子でケベクに言うと。

「今の陛下の様子ではとても君主の姿とは言えませんぞ?」とケベクが義慈王を睨みつける。

「よかろう。余が自ら出兵し、民の動揺を沈めてやろう。」と義慈王が言うと、そこにパク・スンがやって来る。

「大変です!大王陛下。羅唐軍が…莫山城を奪落させました…」とパク・スンが。

数十人いる臣下たちは驚いた顔をして、王宮から走って逃げていく。

「ど、どこへ行く!」と驚いた顔で言う。

西暦660年3月下旬、羅唐軍は百済の西部にあった莫山城を奪落させ、急速に百済へ侵入した。

【莫山城】

喜びの声を掲げる羅唐軍と深刻そうな顔をするユシン。そんなユシンの元へ蘇定方が。

「どうした?ユシン大将軍。何か心配事でも?」と蘇定方。

「いら、何でもない。侵攻を早くしよう。下手をすれば王宮から脱せられるやもしれない。」

「だがな、侵攻はゆっくりと進めればいいのだ。今日は宴会を開くゆえ宴会を楽しもう。」と蘇定方が言うと。

「誠にそなたは大総管だと言うのか?兵法を知らぬのか?それとも新羅と唐の兵法の習得の仕方が違うのか。このままここはまだ百済の端っこにしか過ぎぬ。百済の都はあと100里(40km)もあると言うに…今年中には都に入りたい。できるだけ早く行く。そう長くはしていられんからな。」とユシン。

蘇定方は拳を握る。「こんな出征は私が指揮をする側だと言うのに何と言う事だ。。。」


Re: 三國志 ( No.11 )
日時: 2019/09/13 17:20
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

第6話「友との最後の酒」

西暦660年4月初旬、羅唐軍の侵攻が進む中…百済王・義慈王は高句麗との国境(くにざかい/こっきょう)・雅伐路(がばつろ/ウィボルポ)に避難した。そして高句麗からの援軍3万が雅伐路に到着。そして、倭国の援軍1万も到着し、義慈王周辺には5万の兵士が集まった。その内にいたケベク率いるケベクの決死隊5千は黄伐浦に集結。早くも王宮前に待機していた。

【雅伐路と百済の王宮の帰り道】

義慈王は何かを思い出している。。。


6年前…654年

【百済・王の執務室】

「6の100と60の年に入ると(6の100と60とは660の事)に入ると、現在、対立している唐と新羅は和解して百済に攻め込む事になるでしょう。そうなった場合にはまず最初に倭国や高句麗に援軍要請してください。きっと羅唐軍合わせて15万は率いて来るでしょう。それ故に私の友人であるケベク将軍を王宮前の黄伐浦へ派遣してください。その後、大王陛下は雅伐路にご避難ください。その後、白江と炭岸の防衛、後はフンス公にお任せください。さすれば必ず勝利を掴めるでしょう。」
とソンチュン。

西暦660年3月28日

【百済の朝会】

「羅唐軍の侵攻が急速している。まず、倭国と高句麗に援軍要請を。その後ケベクを大太将軍を任命し、王宮前の黄伐浦を守れ。その後、余と王子、そして数人の臣下らは今、一番離れてる雅伐路へ避難する!」

660年4月下旬

【大きな桜の下】

ケベクとユシンが酒を交わす。
「これが我らの最後の酒になりそうですな。」とケベクが言うと…

「そなたが降伏さえすればいいのだ。降伏さえすれば…」とユシンが言うと。

「私はただ王命に従うだけです。」とケベクは言う。そんなケベクの元にプヨ・ユがやって来る。

「ケベク将軍、そなたは敵将と酒まで交わすのか?」とユが言う。

「王子様。誤解なさられるな。我らは幼馴染なのです。今日が最後の二人の酒なのです。お許しください。」とケベクが言う。

「そういえば大王陛下がフンス公を流刑から解かれた。何故だろうか。」

「誠ですか!王子様。」とケベク。

【流刑地の出口】

流刑地からフンスが出て来ると、その前にはケベクが立っていた。

「フンス公!ご無事ですか!」とケベクが言う。

「ケベク。。。大王陛下は国の滅亡を目の前にして私を放免したが、もう手遅れだ。こんなにも早く羅唐軍が…軸山城へ到着するとは…黄伐浦もそう遠くはないだろう。。。」とフンス。

「フンス公、まだ諦めてはなりません。必ず三韓を植民地にしようとする唐の行く手を阻まねば!」とケベク。

【倭国・飛鳥】

「天皇陛下。百済が滅亡寸前にあります。一刻も早く、百済にあと2万の援軍を送りましょう。」と中大兄皇子。

「その通りです!天皇陛下!」と中臣鎌足。

645年、中大兄皇子と中臣鎌足は強大な権力を持った蘇我入鹿を排除した。これは後に乙巳の変と呼ばれるクーデター事件。この中大兄皇子は後の天智天皇、661年に即位する。百済と200年間、血統関係を結んでいた倭国は663年に白村江の戦いを引き起こす。660年、当時は太子の座に座っていた。

【高句麗・王宮】

「大王陛下。現在、百済に18万の羅唐軍が迫る中、百済には5万の兵士と後に送られる倭国の2万しかいません。即急に高句麗からも3万の兵士をお出しください。」とヨン・ゲソムン。

「大莫離支。そなたも本当は分かっておろう?たとえ高句麗が3万の兵士を出そうとしても、百済の滅亡は避けられぬと。」と宝蔵王。

「何を仰います。大王陛下。まだ百済には希望があります!」とヨン・ゲソムン。

宝蔵王は不安そうな顔をしている。

西暦660年5月 百済軍は4万の損失を出す大敗を召した。残るはケベクの決死隊のみと言う結果になり、義慈王一行は王宮へ戻った。

西暦660年5月3日、倭国率いる2万の兵士が倭国と百済の境海にやって来るが、その海に羅唐軍が迫る。

【倭国と百済の境海】

中臣鎌足が羅唐軍に向かって火矢を放つ。

「放て!」

そんな鎌足の頭には羅唐軍の矢先が向かう__

羅唐軍のユシンが言う。「放て!」と。

鎌足はそれに気づき、避ける。



Re: 三國志 ( No.12 )
日時: 2019/09/13 23:13
名前: 渾身2 (ID: m16n.Ntt)

第7話「百済滅亡」

西暦660年5月3日 鎌足と300の兵士を除く兵士の約2万が大敗を召し、羅唐軍の士気は相当上がった。

西暦660年6月9日

【羅唐軍の軍舎】

「王宮を鎮圧するにはケベクがいる黄伐浦を通らねばならない。それ故に困難であろう。」とユシン。

「兄上。それならば那月山から向かっては?」とフムスンが言うと。

その声に驚いた顔をするユシン。

「さすが我が弟。那月山から通れば良いのか。だが、那月山を越えるのは難しいだろう。那月山は斜面が急だからな。また、那月山を通過したとしても、黄伐浦の軍営に到着し、奇襲を仕掛けると言う方法しかないため、どちらにしてもケベクを倒さねばならない。」とユシン。

そこへ蘇定方がやって来る。

「ユシン公。王宮への進撃は7月10日に決定した。羅唐軍18万が一斉に王宮に攻める日だ。この進撃の日に万が一遅れた場合、太子のボムミンを斬るからな。」と蘇定方。

「何だと?7月中旬だ。中旬まで待ちなさい。」とユシン。

すると蘇定方はユシンに刀を向ける。

「これは皇命だ!」と怒鳴る。

西暦660年7月9日 【黄伐浦の戦い】

「ケベクを殺せ!」とユシンが言い、新羅軍が黄伐浦に攻め入る。

「抗戦せよ!」とケベク。

西暦660年7月9日、王宮前にある黄伐浦でユシン率いる新羅軍5万とケベクの決死隊5000が戦った。ケベクらは7月9日、7月10日に二回、7月11日に計4回勝利した。しかし、唐との約束の日を越えた事に恐怖を怯えたユシンはケベク軍への攻撃を早めた。

西暦660年7月12日 【黄伐浦の戦い・5回戦】

全ての兵士をユシンらに倒され。残り一人の状態となったケベク。

「はっはっは。見事だ。ユシン大将軍。とてつもなく嬉しいさ。ユシン将軍に殺される事がとても光栄だ。ユシン将軍!早く殺してくれ。私が兵の士気を上げるために殺した妻と息子たちに早く会いたいです。はっはっは。」とケベクが。

ユシンはそんなケベクに言う。「ケベクよ。誠に降伏する気は無いのか?」とユシン。

「もう死にたいです。大将軍に出会えて本当に良かった…」とケベクが最後の言葉を残す。

そんなケベクに刀を振り落とすユシン。ケベクは血を吐き、頭を地面に打つ。

ケベク__7世紀初期613年~660年まで生きた将軍だ。彼はキム・ユシン、イ・スンシンらと共に朝鮮三代将軍として知られる。最期は黄伐浦で新羅軍5万によって戦死させられた。彼は1274勝1敗の無敗の将軍だった。彼は幼い頃からキム・ユシンと友人として生きた。死ぬときまで彼は義慈王の臣下として生きた。享年は47歳だ。

西暦660年7月12日、唐軍は新羅軍が約束を破った事の責任としてボムミンを処刑しようとするが、武烈王チュンチュに止められ、処刑をやめた。7月13日、義慈王は熊津城に避難、すると太子プヨ・ヒョンが降伏、その後義慈王が降伏。しかし、義慈王は唐の地で崩御__

西暦661年 百済滅亡から1年…新羅では伝染病が流行する。

咳き込む武烈王チュンチュ。

キム・ユシンがチュンチュを心配する。

「陛下。大丈夫ですか。おやすみになられてはいかがでしょう。」とユシン。

「いいや、大丈夫だ。心配せんでもよい。」とチュンチュ。

すると、倒れるチュンチュ。

西暦661年に武烈王チュンチュが崩御した。この跡は太子ボムミンが王位を継いだ。ボムミンが即位した事によりボムミンら率いる反唐派のキム・ユシンらが力を持った。

西暦663年、倭国の人質となっていた義慈王の息子プヨ・プンらが百済復興運動を起こした。

そんなプヨ・プンに倭国が協力、済倭連合と羅唐軍の戦いを663年、白村江の戦いと呼ばれる__