複雑・ファジー小説

【短編集】移ろう花は、徒然に。
日時: 2019/03/09 22:15
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: Ufl5elTc)

*
――花。

 あるところに、荒れ果てた土地がありました。広大であるにもかかわらず、作物を育てるのに不向きだったその土地は、人々の悩みの種でした。
 土地が肥えていれば、食料に困ることもなかったのに。人々の声は風に乗り、小さな種が荒野に落ちました。

 そんなある日、一輪の花が咲きました。それは華やかな色で、それを見た人々は明るい気持ちになりました。
 次の日、別の花が咲きました。それは深い悲しみの色で、それを見た人々は悲しみの記憶を思い出しました。
 また次の日、別の花が咲きました。それは燃えるような色で、それを見た人々はやり場のない怒りを胸に抱きました。
 咲いた花は、どれを見ても同じ色、形、香りをしたものはありません。

――そう、物語のように。

 そして艶やかに咲いた花は、一つ、また一つと散ってゆきます。花が散ったあと、また土地には何も無くなりました。広大な土地があるだけです。しかし、荒れ果てた土地ではありません。養分をたっぷり含んだ、素晴らしい土地へと変わっていたのです。
 集まった人々はこう言いました。

 次はここに、どんな花を咲かせようか。
 また季節が変われば、色々な花が咲くだろうか。


*――目次――*

第一部

>>1 【 Sound 】
>>3-5 【 Viola farfalla 】(紫の蝶)
>>6 【 操り人形(マリオネット) 】
>>9 【 Sand Glass ―Crash― 】(砂時計)
>>10 【 Sand Glass ―Cheese― 】
>>11 【 Sand Glass ―Close― 】
>>14 【 紫陽花の陰 】
>>15 【 怖がりな彼女 】

幕間
>>17 【少女の憂いと魔女の庭】

第二部

>>18 【 生命(いのち)の花 】
>>19 【 想い出 】
>>20-21 【 Pre-Established Harmony 】(予定調和)
>>22 【 Transparent Apple 】(透明な林檎)
>>25 【 I 】
>>26 【 感情的なBlue 】
>>27 【スカーレット・レディ】
>>28 【 Eat Me , Drink Me 】
>>29-30 【 壊 】
>>31 【 生命の木 】

終幕
>>32 【 さよならと夢に綴る 】


*――更新履歴――*

更新開始 2014.01.06
小説大会2015冬 金賞
小説大会2017夏 銀賞
終幕  2019.03.07

参照67000

*
 ――花。それは、煌めく感情の物語。
 言の葉を色に乗せ、名もなき痛みを綴りましょう。


*
 こんにちは。黒崎加奈、あるいは黒雪と申します。名前でトリップが変わりますが『.KANA』『.SNOW』など文字列が揃っているのが特徴です。
 ここでは短編を投稿しています。それぞれが独立している第一部、短編同士を繋げて中編もどきを紡ぐ第二部、という構成になっております。
 実験的に書いているお話が多いので、作品の完成度にはバラつきがありますが、どうか見守ってくださいませ。目標は、物語が観えること、文章で魅せることです。

*
 長らくありがとうございました。

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移ろう花は、徒然に。【Eat Me,Drink Me】 ( No.28 )
日時: 2016/12/29 21:28
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

 目を閉じれば、暗闇が広がる。そんな当たり前の世界が、目を開けているときに訪れると、とてつもなく怖い。まるで、この場所から抜け出せなくなりそう。
 でも――このままじゃいけないの。そろそろ踏み出さなきゃ。

【Eat Me , Drink Me】

 ぐるぐると落ちてゆく。恐怖、憂鬱、孤独。負の感情が心を圧迫して、呼吸もままならない。苦しい、辛い……怖いよ。
 回りながら落ちてゆく。ウサギの後を追いかけて、穴に落ちたアリスもこんな感じだったのかしら。見えない底に向かって加速した。
『Eat Me』、『Drink Me』と書かれたケーキと飲み物はあるかしら。この暗闇から、私を引き上げてくれる人はいるのかしら。光が見えるのは気のせいよ。私のことを助けてくれる人なんて、いるわけない。
 いるわけないのに。
 来てほしいと、顔が浮かんでしまうのは惚れたから? 負の感情よりも、強く心を締め付ける。

「……はぁっ……んん」
「ようやく起きたか。大丈夫かい? ずいぶんとうなされていたからね」
「……ん……え?」

 荒い息を整えながら、自分が寝汗をすごく掻いていることに気が付いた。自分のものではない、白い綿の寝巻が肌に張り付いている。
 目覚めた場所は、知らない部屋の中だった。白い天井、茶色いレンガの壁。心配そうにのぞき込まれた顔に、徐々にピントが合っていく。
 綺麗な黒髪を、後ろで一つに束ねた人だった。黒のアイラインはくっきりと引かれているのに、肌には化粧下地すらつけていない。それよりも目を惹くのは、真っ赤なルージュだった。アンバランスな化粧が、彼女の美貌を際立たせ、同時に年齢を不詳にしている。

「ここは……どこ?」
「ここはあたしの家さ。庭の真ん中で倒れていたから、連れてきた」
「あなたは……?」
「イブ。この花畑の主さ」
「……ありがとうございます」

 会話がなくなった部屋からは、パチパチと暖炉の火が爆ぜる音がしている。ズキズキと痛む頭で、それをぼんやりと聞いていた。
 意識がはっきりとしていくにつれて流れ込んでくる、ごちゃ混ぜの記憶と感情。なんにも満たされない。喉の下のほうと胸の奥底に、何かが詰まっているような、何もないような感覚が、ずっとある。

「うぅっ……」

 悲しいわけでもない。どこかが痛いわけでもない。なのに、涙がどんどん零れてくる。ベッドに横たわったまま、静かに泣いていた。
 どうして自分が泣いているのかも分からない。どのくらい涙していたのかも分からない。でも泣いたことで、自分の中のモヤモヤした何かが晴れたのは感じていた。

「落ち着いたかい? 起き上がってこれ飲みな。もう少し落ちつくから」

 まるで、泣き止むのを見計らっていたかのように、差し出された白いマグカップ。『Drink Me』と書かれた、それの中の液体を口に含むと、ほんのりと甘い味がした。

「蜂蜜入りのホットミルクは、こういう時に飲むのが一番さ。感情が抑えられない時なんか、特にね」

 その言葉通りだった。温かい牛乳は飲み込むだけで、手足の先まで暖かなオーラで包み込んでくれる。

「ありがとうございます」

 そう言って軽く微笑むことができるくらいには、落ち着きを取り戻していた。

「あの、私どうすれば? あと、今日……何日ですか?」
「――だね。二日間眠ったままだったよ。すぐには動けるようにならないし、時間は気にせずゆっくりしていきな」
「二日間も!? おばあちゃん心配しちゃってるどうしよう……」

 急に現実感が襲ってきて、せっかく落ち着いていたのに、また焦りだす。

「家のことは心配いらないさ。ちゃんと連絡してあるから。なんなら電話でもするかい?」
「お、お願いしてもいいですかっ……?」

 渡されたのは、ボタンも何も無い真っ黒な子機だった。受話器のような形をしているが、コードも付いていない。

「電話をかけたい相手を思い浮かべながら耳に当ててごらん。繋がるから」

 私のことを一人でずっと育ててくれた、大好きなおばあちゃん。どんなに落ち込んでいる時も、優しく笑顔で待っていてくれた。

「もしもし? おばあちゃん?」
「サナ! 目が覚めたのね! お庭で倒れてたって聞いてからもう、おばあちゃん心配で心配で。でも元気そうな声で良かったわぁ」
「うん、心配かけてごめんね。もうちょっとしたら家に戻るから」
「そんなに急がなくていいわよ。サナ、あなたの感情が穏やかになるまで、そこにいていいのよ」
「……え? なんで?」
「あなたのいる場所はね、特別な人じゃないとたどり着けないの。大きすぎる感情をもて余した人しか。サナもきっと、何かの感情に溺れそうになっている。だから、ゆっくり時間をかけてごらんなさい。おばあちゃんも昔、そうだったから。あら、丁度クッキーが焼けたわ。じゃあイブさんによろしくね」
「えっちょっとおばあちゃん?」

 手の中に音のしなくなった電話が残った。

「切れちゃった……」
「終わったかい? あたしもあんたに聞きたいことがあるからさ。ま、ちょうどいいと思ってね」

 電話の間、家の外に出ていたらしい。彼女の周りに、乾燥した冷たい空気がまとわりついている。

「まず一つ目、あんたが倒れる直前、何があった? 二つ目、どうしてここに来ようと思ったか。とりあえずこの二つだね」

 まー、そっちも聞きたいことは山ほどあるだろうけどさー、こっちが聞いてからの方が答えやすいんだよ。電話を受け取りながら、そんな言葉が言い訳のように付け足された。

「わかりました。でも私も……あまり良く覚えていないんです。ここに来ようと思ったのは、すごく空の青と花畑の色が綺麗だったから、近くで見てみようかなって」

 あの日、家の二階から眺めた景色は、今でも目の前に浮かぶ。見上げれば見上げるほど青は深く塗り重ねられて、ガラスコップの底に入れられた蒼いガラスを見ているようだった。
 さあっと吹き抜けた風が髪を揺らし、甘い香りが微かにここへ残る。その香りを纏った風は、花畑の霧を一瞬晴れさせた。ほんの僅かな時だけ奥まで見渡せた花々は、キラキラと輝いていた。その輝きは、なんだかとても懐かしくて、とても切ない。

『おいで』

 そう呼ばれた気がした。霧の中、奥へ奥へと走っては歩き、また走る。まっすぐ進めているのだろうか。もしかしたら、とんでもない方向に行ってしまっているかもしれない。
 でも、この方向で合っているという自信がなぜかあった。時折、霧の中でキラリと光るものが見えた気がしたから。
 どこまで続いているのだろう。昼下がりに家を出たのに、辺りはもう黄昏時だった。真っ暗になるのも時間の問題かもしれない。
 ふと、後ろを振り返って愕然とした。濃霧のすぐ向こう側に、見覚えのある家が建っている。紛れもなく、それは自分の家。こんなに長い間走って、歩いて、なのに本当はちっとも進んでいなかった。暖かな灯りがともっているのが、何だか皮肉に見えた。
 ちょっと立ち止まって眺めていたら、玄関に人影が近づいてくる。少し足を引きずった、特徴的な歩き方をしていた。
――シノだ。
 そういえば、今日ハンカチを返しに来るとか言っていたっけ。いつもびっこをひくような歩き方をしているのは、脚についたたくさんの傷が痛むから。一回だけ見たことがある。すごく痛そうで、脚だけでなく手首からも血が垂れていて、彼はボロボロだった。
 あの時シノからは、すごく寂しそうな感じだった。なぜか私まで寂しくて、辛くなって、ベッドの中でその日は泣いていた。一人で寝るという行為に、こんなに孤独を感じた夜はない。

「シノ!」

 少し大きな声で呼びかけると、彼は驚いたようにこちらを見た。

「サナ? そんなところにいたんだ。あの家を知ってるの?」
「なんか行ってみたくて。あの家って? ここには花畑だけよ」
「霧の中の奥のほうに、小さな家があるんだ。不思議な花が咲いている、すごく幻想的な場所だよ。あ、これ借りてたハンカチ。ありがとう」
「へーそんなのあるんだ。でも、私ずっと奥のほうに歩いていたのに見つからなかったし、ちっとも進んでなかったのよ」
「でも、あれは幻だったのかなって。見つけた後、もう一度そこに行こうとしても行けなかったんだ。サナと同じで、ちっとも奥に進めなくてさ」
「はは、ほんとに噂の魔女が住んでるのかもね」
「かもね。そういえばさ、サナに言わなくちゃいけないことがあって。俺、引っ越すんだ。今度の復活祭が終わったら、この町を出て都会の方に行くことになったんだよね。なんか、サナには伝えておこうかなって」
「そう……なんだ」
「うん。親の仕事の都合でさ、ここだとどうしても交通とか不便だから引っ越すって。だから、学校もやめて転校するかな」

 どんな顔をしているように見えたんだろう。きっと暗かったから、思わず涙目になってしまったのは気づかれずにいる。そうであってほしい。

「あ、これみんなには言わないつもりだから、内緒にしておいて。じゃ、また学校でね! おやすみ」
「うん……おやすみなさい」

 思った以上に衝撃が強かった。寂しい、という言葉を、咄嗟に口に出すことがどうしてこんなに難しいんだろう。行かないで、一緒にいたい、と口にできないのはどうしてなんだろう。
 家に帰りたくなくて、月明かりも何もない、真っ暗な霧の中を歩いていた。どうせいくら歩いても家はすぐ後ろにある。

「いやぁあああああああっ!」

 全身を突如襲う、寒気と震え。誰かに素肌を舐められているような、不快感。恐怖が流れ込んでくる。両腕で震える身体を抱きしめながら、土に膝をつけた。

「おや、ここにもレディがいるなんて。こんばんは、純白のレディ」
「いやっ、来ないで!」

 深緑に輝く瞳と、整えられた銀髪。袖をまくった白いシャツの裾には赤い染み。音もなく、ゆっくりとこちらに歩いてきていた。

「ふふふ、取って食いはしないよ。でも、君にはこれをあげたくてさ。食べるか食べないかは自由だよ」

 どこからともなく赤い果実を取り出して、膝の上に置く。真っ赤に熟した林檎だった。林檎が置かれたのと同時に、目の前にいた人は消えている。その代わりに、林檎にナイフで切ったような文字が現れていた。『Eat Me』と。

「そのあとのことは覚えていません。気がついたら、この場所に寝ていました」
「そうか……林檎と言ったね。それは今どこにある?」

 少し考え込みながらイブが言った。

「ここに。透明なんです。あの時は確かに真っ赤だったのに、今は見えないんです。でも、それを探すとすぐ近くにあって、触ったりもできる。ほら、今、私持っているんですよ?」

 手のひらの上には、何もないように見えた。でも、イブには見えているらしい。ひょい、と何もないところに手を伸ばし、手に取ったらしい。

「なるほどね……。誘惑でもあるのか。面倒なこった。よし、あんたの話は分かった。次はあたしの番といこうじゃないか。何が聞きたい? あと、あんたの中で最近変わっていることがあるだろう。それにも答えられると思う」

 手の上に、重たい感触が戻ってきた。それを脇において、少し考えながら口を開く。

「ここには、どうやって来るんですか? あと……最近、話している人とか、近くにいる人とか、自分じゃない誰かの気持ち? がわかるんです。わかるじゃないな、なんというか、感じるというか。流れ込んでくるんです」
「ここにはね、強い感情を持っていないと来られないのさ。彼がここに来られたのは、強い孤独感と寂しさを持ちあわせていたからだね。あんたのお祖母さんだって、若い時にここに来たんだよ。まさか孫がここに来るとは思わなかっただろうけどねぇ」

 そう言ってカラカラと乾いた笑い声をあげた。なんで心配症のおばあちゃんが、あんなにすんなり受け入れたのか不思議だったけれど、一度経験したことがある場所なら頷ける。

「もう一つはねー、ピンとくるのは難しいと思うんだよ。ま、はっきり言えるのはあたしが悪いってことだね。今は落ち着いているだろうけど、時々、暗闇の中に落ちていくような、そんな感覚があるだろう? 言葉で説明するの面倒だから、見せようか。おいで」

 部屋を出たら外だった。花畑の手前からは、想像もできないような景色がそこに広がっている。朝露が太陽の光を浴びて朝もやに変わり、ガラスのように色づいた、たくさんの花を幻想的に見せていた。

「生命の花、と言ってね。人の感情を吸って咲くのさ。あんたのもきっとどこかにあるよ。その人の感情が、なんかのタイミングで溢れ出す。その溢れた感情によって色も違うし、形も違う。本当は、こんな花畑みたいなのじゃなくて、木なんだ。生命の木というね。んで、あんたはその生まれ変わり」
「……は? 木の生まれ変わり?」
「そ、聖書の失楽園追放は聞いたことぐらいあるだろう? あたしは蛇にそそのかされて、あの時禁断の果実を口にした。そして楽園を追放されて、ずっとここに住んでるってわけ。まぁ、ヤハウェ様も意地が悪いのか寛大なのかは分からないけど、生命の木を復活させられたらアダムと死なせてやるってね。それで、ずっと生まれ変わりが現れるのを待っていたのさ」

 ここは昔、楽園への入り口だったんだよ。イブは笑いながらそう付け加えた。

「信じられない話だろうし、信じなくてもいい。今日はもう家にお帰り。でも、これだけははっきりしてるんだ。あんたは近いうちに、必ずここに来る。その時に、林檎を口にするかしないかは決めることになるよ。どうやら、あんたは誘惑される少女の役割も担っちゃったようだからねぇ」

「サナ、起きなさい。学校に遅刻するわよ」

 耳元で、おばあちゃんの声がする。あれから半月が経ち、花畑は今日も立ち入る人を拒んでいた。相変わらず透明な林檎もそばにある。食べようと思ったことはないけれど。
 よく晴れた、憂鬱な一日がまた始まる。


*
Image coller 鉄紺色(てつこんいろ)

Re: 移ろう花は、徒然に。【壊】 ( No.29 )
日時: 2017/02/04 19:00
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: rHtcSzQu)

 こんな感情――なければ良かった。

【壊】

 目を閉じると、顔が浮かぶ。声が聞こえる。笑っている姿も、少し落ち込んでいる姿も、ありありと思い出せる。
 ぐしゃぐしゃだった。なんで自分が泣いているのかも分からない。空っぽだと思ってた所に、いつの間にか中身が入っていて、いつの間にか溢れ出していて、いつの間にか制御出来なくなっていた。押し込めようとして、必死に抑えようとしても無理だった。自覚していないときは、心の片隅で埃をかぶって、その存在すら忘れていたのに。
 心は、気がつかないうちに決壊していたらしい。止めることを忘れたシャワーが、ひたすら流れ続けている。頬を伝うのが涙なのか、ただの水なのか区別がつかない。すべて洗い流せればいいのにと、頭から熱い湯を浴び続けた。渇いた身体に染みていく感覚が心地よい。でも、何も満たされない。

「なんでこんなに……どうしてこんなに……苦しいの?」

 はっきりと自覚させられた恋心は、想像以上に私の中に深く居座っていた。
 まさか恋愛沙汰で悩む日が来るなんて。恋バナとか、そういうので盛り上がる女子たちを軽蔑していたはずなのに、いざ自分がそうなると何も笑えない。死ねばいいのに。
 頭では軽蔑していても、心はそんなことお構いなしに私を揺さぶってくる。別のことを考えようとしても、いつの間にか登場人物は私と彼になっているし、急に彼が抱き着いてきて攻められたりとかTL(ティーンズ・ラブ)漫画の読みすぎな展開しか浮かばない。

「サナ? いつまでシャワー浴びているの。お湯がもったいないからあがりなさい」
「う、うん」

 そんな甘酸っぱいことを考えていたからか、ドアの外におばあちゃんが立っていたのに、まったく気が付かなかった。物語のヒロイン的思考回路を思い描くことはできるのに、私の心と体が噛みあわない。死ねばいいのに。何が楽しくて、自分が一番嫌いな役を演じなきゃいけないんだろう。
 そう、ここは物語の世界なんかじゃない。そんな強引な展開が発生するわけがないし、彼が私のことを同じように好いていてくれる確証もない。そもそも、彼とはもうすぐ会えなくなってしまうんだから。付き合ったところで、遠距離になって、すぐに別れてしまうんだろうな。だって私、寂しがり屋のウサギさんだから、会いたいときに会えないと悲しいの。なんなんだろうね。
 ほら、また私の頭の中で誰かが喧嘩してる。
 きっとこんなに涙があふれてくるのは、私の中のわたしが「この恋愛はうまくいきっこない」と否定するから。考えるほど頭の中が、暗闇に呑まれてく。心を抉り出してしまえたら、どんなに楽なのだろう。
 私は、この感情とどう向き合えばいいのだろうか。

「おはよ」
「おはよー。うわ、すごい隈だねー。寝不足?」
「うーん……最近眠りが浅いんだよね。寝ても寝ても疲れが取れないの」
「あらあら。そりゃ大変だねー」

 いつも通りの朝が来た。泣きたいときは、シャワーを浴びながらだと良いっていうのは本当のことらしい。目も鼻も、ちっとも赤くなっていなくて、昨日の夜に泣いていたなんて嘘じゃないかと思えるほどだった。
 シノが転校するまで、あと三日。私は、どうしたらいいんだろう。あぁ、また涙が出てきそう。彼に転校すると告げられてから、私は彼の前で今まで通り振舞えているのだろうか。こうして友達と会話している間も、視界のどこかで姿を探してしまう。そして見つけると、ドキリと心臓が跳ねるのだ。良かった、今日は学校に来ているんだって。
 二か月ぐらい前、シノは学校を休むことが多かった。いわゆる、不登校というやつだ。詳しいことはよく知らないが、部活の人間関係で少し揉めたらしい。元々、彼は輪の中心で何かするタイプの人間ではなく、少し離れたところから眺めているタイプだったから、なおさら堪えたのだろう。色んな所に増えていく傷を見つけていても、私には何もすることができなかった。あの日、町の中をボロボロになって彷徨う姿に、ハンカチを差し出して立ち去るのが精一杯だった。そんなことをしたくらいで、彼の支えになろうなんて、甘すぎる。
 でも、しばらくしたら毎日来るようになっていた。きっと、あの不思議な場所に行ってからだろう。私には、何もできない。
――お母さんに怒られちゃう。
――なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの?!
――僕がこんな賞を取れるなんて。
――俺のこと怒らせただろ。

「っ!」

 まただ。自分のものではない感情が、一気に流れ込んできた。いつもは一つか二つなのに、今日は訳がわからない。色んな感情が私の中で渦巻いている。
――大嫌い、大嫌い!
――死んじゃ嫌! お願い!
――助けて。
――ありがとう。
 言葉だけじゃない。赤、青、黄、白、桃、橙、紫――たくさんの色が目の前に見える。遠くから花畑を見ているような、ぼやけたコントラストで色が混ざっていく。混ざった色はどんどん濁って黒になった。あんなに綺麗だったのに。黒の中に、私が沈み込んでいく。
 私の感情は、どこにいったんだろう。このまま沈んでしまえば楽になるのかな。暗い闇の底まで沈んで、まるで井戸に落ちて出られなくなった人のように消えてしまえたら。
 眩暈がする。

「どした? 顔、真っ青だけど」
「だ、大丈夫。やっぱ私、今日学校休むわ……なんかダメぽい。ぐらぐらしてる……」
「よく休んでねー」

 そこまで心配していなさそうな声を背に、私はまた家まで戻る。家の近くに来た時、ふと思った。なんて言い訳すればいいんだろうって。通勤通学の人混みから離れたせいか、あの奇妙な感覚は無くなっていた。もう気持ち悪さとか、頭痛とか、よく分からない不調の数々はすっかり治まっている。きっとおばあちゃんは「そんなのしばらくすれば治まるんだから、また学校へ行きなさい」とか言うだろう。
 でも、休むと言ってしまった手前、また戻るのも面倒。制服を着ていると、こんな真昼間に独りでカフェに入っても気まずいだけだ。
 あの子、こんな時間にどうしたのかしら。
 派手な化粧をしたおばさんの集団に、じろじろ見られて話のネタにされるんだろうな。制服って、着ているだけで身分を証明しているから、厄介なんだよなぁ。脱ぎ捨ててしまいたいな。
 こういうのって、自意識過剰なことが多いと、何かの本で読んだ気がする。他人から見れば、制服を着て昼間に出歩いている女子高生なんて一瞬の出来事で、次の日になれば完全に忘れていることにすぎない。でも私はそれを理解している上で、気にしてしまう。あの人は、いま、私のことを見て笑っていないだろうか、と。
 結局、私が居場所と定めたのは花畑の入り口だった。柔らかい土の上に、ごろんと横になり、目を閉じる。制服の白いワイシャツが汚れるのは構わなかった。いや、むしろ汚れてくれれば良いとさえ思った。
 どれくらいの時間が経っただろう。何も感じない。暖かな日差しと心地良い感触。誰の声も、誰からの視線もない。久々に、心が安らぐような平穏を感じていた。
 私の周りには人が多い。きっと、それを羨む人間も多いのだろう。それが苦しい。みんなから嫌われないだろうか、私はどう思われているのだろうか、そう思いながらビクビク過ごしている。他人からの視線を気にしすぎているから、いろんな人の感情が流れ込んでくるんだと思っていた。
 もっと、自分らしく生きられたら良いのに。
 そう願って、ずっと生きてきた。でも、わたしなんて曖昧な存在は、何を以て私となるのか分からない。そんな葛藤を抱えてすごすのも限界だった。
 もっと、素直になれたらどんなに楽だろう。
 そうしたらこんな曖昧な問いにも、答えが出せるのだろうか。シノとも付き合ったりできるのだろうか。
 ごろん、と寝返りを打ち、霧のずっと奥の方を見つめた。頬を涙が伝うのがわかる。
――こんな感情、なければ良かった。
 そうしたらこんなに悩むこともない。振りまわされることもない。全部、壊れてしまえば――。

「感情を壊したいの?」
「きゃあっ」

 顔の真ん前に現れた深緑の瞳。それまで気配も形も見えなかったのに。闇夜に見たときと変わらない、妖しげな雰囲気と美しさをまとっていた。

「あ、あなたはあの時の……」
「おや、純白のレディ。覚えてくださっていたとは光栄だね。つらいなら僕があげた林檎を食べなよ。すぐに楽になるからさ。ほら、真っ赤に熟して食べ頃だ」

 そう言って私の傍らを指さした。そこには、あの時よりも赤くなった林檎が置いてある。『Eat Me』と書かれた文字が鮮やかで。

「これを食べたら、本当に楽になれますか……? この感情を……なくせますか?」
「もちろん。君が他人の感情で悩むことも、自分の感情で悩むこともなくなるよ」

 深緑の眼が細められる。雪のように白い手が赤い林檎を取り、まるで白雪姫のようだと思うと同時に、口元に差しだされた。

「お食べ。それとも、僕が食べさせてあげましょうか」

 この果実を口にしてしまったら、たぶん、後悔するのだろう。ずっと後で。なんであの時食べてしまったのだろうと。

「迷っているぐらいなら食べた方が良いんじゃない?」

 そう言って彼は鋭い牙で果実をかじった。そのまま、私にくちづけて、食べさせる。甘い汁と冷たい実、熱い舌が混ざりあった。
 ゴクリ。と飲み込み、熱に浮かされた私の顔を見て、彼は満足げに笑う。

「ごちそうさま」

 そう言って、彼は霧の中へと消えていった。キスされたんだ、とか食べちゃった、とかを考える前に、私の意識もまた、霧の深くへと消えていった。

Re: 【第二部最終話】移ろう花は、徒然に。【壊】 ( No.30 )
日時: 2017/02/04 19:02
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: rHtcSzQu)

――遠くで、ガラスが破れる音がする。パリン、パリンと何かが砕けるような。
 その音がする度に、私は何も感じなくなっていく。きっとこれは、感情が壊れていく音なんだ。
 すぅっと冷たい風が吹き抜ける。木々を揺らし、霧を晴らし、白銀の月光を草花に浴びせた。照らされた花が、色とりどりに輝いている。触れようとして、そっと花びらをなぞったら消えてしまう。
 胸のどこかで何かが落ちた。あの林檎は、この花々を枯れさせるのだろう。私が、感情を壊したいと願ったから。また一つ、目の前で花の輝きが失せ、儚く砕け散った。
 いつの間にか、辺りはキラキラと退廃した輝きをみせるガラスのようなもので溢れている。月明かりは虚しくそれを照らし続けていた。
 ほわっとした頭で、私は考えている。なんでこんなに虚しいのだろう。感情がなくなれば、楽になると思っていた。
 でも、違う。
 つらさの種類が変わるだけだった。人間は、感情という糸に操られていないと動けないのだ。その糸を私は切った。動けなくなった私は、時が過ぎるのを永遠に待つことしかできない。夢の中にいるように、記憶が色あせていく。
 楽しい、嬉しい、悲しい、寂しい。どんな色をしていたっけ。それは、どんな感情だっけ。何も思い出せなくて、大切だったはずなのに、手が届かない。感情がないなら、生きている意味なんてあるのだろうか。
 生命の花はすべて枯れてしまった。それと同時に、私の中の何かも壊れたのだろう。あの底なしの闇へと落ちていく感覚が止まらない。私は、この場所に囚われてしまった。抜け出せない闇の中へと。
 アリスは、液体を飲んだあと小さくなって、ケーキを食べたあと大きくなった。そのあともう一度小さくなって、扉から外に出ることができたのに。でも私はアリスじゃない。だから、同じようにしてもここから出られない。
 こんなになるまで、私は何も気が付いていなかった。きっと、私が感情を壊したことで、他の人の感情も壊してしまっている。あの時、イブの話をもっとちゃんと聞いておけばよかった。

「おばあちゃん、ごめんなさい。私、取り返しのつかないことしちゃった」

 真っ先に口から出たのは、私のことをずっと育ててくれた、おばあちゃんのことだった。悲しいという感情は無くなったのに、熱い涙がこぼれる。
 どうして?
 嬉しくて、寂しくて、怒って泣いているわけじゃないのに。壊れた感情で、どうして涙が止まらないの?

「あんたの中の『好き』って感情がまだ残ってるのさ。果実を口にしたのが、ほんの一口分だったのも良かったんだろうねぇ。でも、一番はあんたの中に、誰かを好きだと思う感情が強くあったからだよ」

 自覚、あるんじゃないかい?
 後ろから聞こえた声に、そう問いかけられた時、シノの顔が浮かんだ。笑っている顔、悲しそうな顔、怒った顔、無くなったはずの感情が思い出せる。
――私、遠くから見て妄想しているだけで、なんもしてない。
 シノとの関係が壊れるのが怖くて、でも何もしなくても壊れてしまう関係に気付いていたのに、何もしていない。連絡先や転校先すら聞こうともしていない。流されて感情を壊す前に、逃げ出していた自分を壊さなきゃいけなかったのに。
 頬を伝った涙が、地面に落ちた。落ちたところから暗闇が晴れ、元の草原へと戻っていく。その様子を、イブが黙って見ていた。

「わたし、わたし……感情がなくなってしまえば、壊れてしまえばって……でも、ほんとはダメだった。一番無くしちゃいけないものなのにっ……壊れちゃダメなのに……」
「ほら、見てごらん。あんたの生命の花だよ。他は全部枯れたのにこれだけ残ってるのさ。綺麗なラズベリーの花の形だろ? 花言葉は愛情」

 真っ白な、見落としてしまいそうなくらい小さな花が、足元にあった。淡く白く輝く花びらは、確かに咲き誇っている。

「これから、この花を中心に他の生命の花を復活させる。そうすることであんたは、また感情に呑まれるかもしれないね。でも、前よりは遥かに影響を受けないはずだ。あたしの手を加えることで生命の木の力を抑え込むことができるから」
「私の中の……その生命の木の部分を取り除くことは……できないんですか……?」

 その問いかけに、イブは悲しそうな顔で頭を振った。

「あたしの力じゃ、そこまでできないんだ」
「俺ならできる。やってやろう」
「ヤハウェ様……?」

 野太い声が聞こえた。その途端、イブの表情が固くなる。白いローブを羽織った、背の高い短髪の男が立っていた。見た目は三十代前半ぐらいだろうか。だが、本来はそんな年齢でないことぐらい一瞬で分かる貫禄があった。

「お前が生まれ変わりか……まぁ誘惑に負けたのは問題だが、こいつを捕まえられたんでね。その件は不問にしてやろうじゃないか。狡猾に逃げ回ってるから捕まえづらくてな。これで蛇の野郎にも罰が与えられる」

 そう言って見せたのは、あの深緑の瞳をした男が入れられた小瓶だった。何らかの力を使って小さくしたらしい。人間の姿をしたり、蛇の姿をしたりと中で見た目がコロコロ変わっている。

「イブ、お前にも選ばせてやる。このままここで花の世話をするか、アダムと死ぬかだ。残念ながら会った上で生きるという選択肢は用意しとらん。死なないなら、いつか見た夢のように子孫に殺させるだけだな」

 突然現れた男――恐らくヤハウェという存在――とイブの間に何があったのかは分からないが、過酷な選択を迫られているのは分かった。

「まずはお前からだな。少し気分が悪くなるだろうが、すぐ治る」

 頭の上に、手が置かれる。そこから吸い取られるような感覚が全身を走った。その奇妙な感覚がなくなると、男の手に小さな種があった。

「これを後で植えておいてくれ……あぁ、これはお前に残しておこうか」

 何かを種からつまみ出したように見えた。それはまた私の中に戻されたようだ。手の中に種を強引に握らされ、私についての要件は終わったらしい。くるりとイブの方を向いた。

「さて、お前はどうする」

 こんな唐突に現れて、僅かな時間しか与えられていないのに、決断を迫られるのも酷な話だ。

「生命の木の完全な復活……とまではまだいっていないが、まぁ見込みはあるだろう。彼女が果実を口にすることを見越して解毒剤を飲ませたのも正解だったしな。ここの花を復元することで手を打とうじゃないか。さぁ、俺は時間がないんだよ」
「あたしが死ぬとしたら、ここの手入れは誰がするんだい? そりゃあさ、あたしが昔、禁断の果実を口にして生命の木を枯らしたからこんなことになっているのも分かるし、それを元通りにするために、気の遠くなりそうな年月を生きてきた。だが、木はまだ復活しきってはいない。あと五年はかかりそうだしねぇ」
「世話ぐらいこいつが出来るだろ。第一、花を本体に戻す作業は生まれ変わりたる者にしかできないからな」
「私?」

 唐突に話を振られた。話の流れに取り残されて、何が何だかよく分からないのに。

「んー、よし。あと五年だ。あと五年したらあたしは死ぬよ。それまでは花の世話するし、今まで通り過ごすさ。したら仕上げを彼女にやってもらって、御役御免と行こうじゃないか。それで良いだろ? 両方取る選択肢は否定してないんだからさ。そもそもあたしは生きるのにうんざりしてるんだ。長すぎたよ」
「ほう? ならいい。俺に条件を付けるのは気に食わないが、今は気分がいいから許してやろう。ほら、早く直せ」

 そう言って、男は光に包まれて消えた。淡い光が、辺り一面を包み込む。イブが立ち上がり、その光を身にまとっていた。次第に強くなった明かりは、目を開けていられないほどになり、そして、再び目を開いたときに、辺りは元の花畑へと姿と戻していた。

「さてと。これで元通りだね。いやー、どうなることかと思ったよ」
「あの……本当にすみません」
「あんたは何も悪くないさ。むしろ、上出来なぐらいだよ。あたしは、完全にこの木を枯らしてしまったからね。木の防衛本能が働いて、あんたの中に生まれ変わってなかったら、もっと大変だったよ」
「そう、なんですか」
「あぁ。あたしは、なんの考えもなしに果実を全部食べたからね。それをアダムにも食べさせた。したらもう、楽園は大混乱さ。そして、あたしは罰としてここで暮らし、アダムはもっと後の時代の災害を起こした張本人となるべく、海の底に捕らわれの身。ここの奥には、楽園への入り口があるんだけどね。まぁケルビムとかいう門番がいるから、中に入ることはできないさ。でも、あの頃の楽しそうな音楽が、時折聞こえてくるんだ。それが何よりもつらい。あそこは、本当に楽しかったからね。あたしは、全部逃げて、全部失った。でも、あんたはまだ何も失っちゃいない。ヤハウェ様が残しておいた力は、良い方向に作用してくれるよ」

 いつの間にか顔を出した満月が、美しかった。黒いローブを着たイブの美貌は、息をのむほど官能的だった。きっと、彼女と会うのはこれが最後なのかもしれない。そんな予感がした。

「五年後に、また呼ぶよ。それまではゆっくりお休み」

 気がついたら自分の部屋にいた。私は、いつ戻ってきたのだろう。部屋の二階から、花畑を眺めた。
 相変わらず美しい場所だった。霧の合間に、キラキラと輝く花々が見えたような見えないような。私の中のわたしは、成長しようと頑張っているに違いない。
 私も、頑張らなくちゃ。


*
Image coller 白花色(しらはないろ)

【第二部最終話】移ろう花は、徒然に。【&エピローグ】 ( No.31 )
日時: 2017/02/04 22:50
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: rHtcSzQu)

 逃げていても、幸せは見つからない。あの日、そう気づかされた。

【生命の木】

 おばあちゃんはとても心配していた。遅くに帰ってきたと思ったら、私は二日間も寝込んでいたらしい。結局、シノが転校してしまう日も学校に行くことは出来なかった。
 会わなきゃいけない。そんな思いはずっとあった。会いたい。そんな願いがずっとあった。

「サナ、お客さんよ」
「へ?」

 部屋の入り口に立っていたのは、まぎれも無くシノだった。

「シノ……引越しはいいの?」
「明日の朝にここを出るから。まぁあんま時間は取れないんだけど。体調は大丈夫?」
「うん、明日は学校行けそう……でもいないのか。寂しくなるね」
「元気になったみたいで良かった。最後に会えないの悲しかったからさ」

 切なげに笑う姿に、改めて彼が好きなんだと自覚する。

「ねぇ、シノ――」

 青い薔薇の花言葉は、『不可能』『存在しないもの』だと言われてきた。しかし、今は『願いは叶う』と変わったそうだ。きっと、あの時私の中に残しておいてくれたものの一つなんだろう。
 足元の青い花と、立派に育った大木を見ながら、ふと思った。
 月日は流れ、いつの間にか五年がすぎた。この幻想的な空間を忘れたことはないけれど、この時までは来てはいけない。そんな感覚も合わせ持っていた。
 どうすればいいかは、自然と身体が動いていた。生命の花を摘みとり、木の枝に置いていく。置いたところから、木と同化していった。まるで、最初からそこに咲いていたかのように。
 数え切れないほどあった花々も、いつの間にかあと一輪を残すだけだ。澄んだ青空の下、本来の姿を取り戻しつつある生命の木は、花だけでなく幹も輝いているように見える。
 足元の白い花を手に取った。五年前はとても小さかったのに、すっかり大きく美しい花となっている。あの時、私のことを助けてくれた愛情の花。
 ゆっくりと、木の枝に置いた。輝きが強くなり、風が枝を揺らす。花畑の霧が晴れ、見たこともない幻想的な門がそこに立っていた。
 楽園へと続く門なのだと、本能が告げていた。

「ご苦労。生命の木は本来ここにあるべきものだ。戻さなければならないからな」

 白いローブを着た男性が、門の中から歩いてきた。傍らには、くせっ毛の男性も立っている。

「ここから先は、君が見ることはできない。僕達の領域だからね……ありがとう」

 なにか、大切なことを忘れているような気がした。後ろ髪を引かれたように、霧の奥を見つめる。相変わらず、花畑は隙間からしか見えない。

「サナ、どうしたの?」
「ううん、なんか気になったんだけど、気のせいだったみたい」

 行こうか、と差しだされたシノの手をしっかりと握って歩きだす。
 その後ろ姿を見ていた。

「いいのかい? 記憶を消しちまって」
「覚えていてもいなくても、変わらないだろうからさ。イブ、君も時間だろ?」
「まぁな。ケルビムも長い付き合いだったねぇ。これからもヤハウェ様にこき使われな」
「はいはい」

 踵を返し、門へと戻る。たどり着いた時には、もう、イブの姿はどこにも見えなかった。


【第二部、完】

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。 ( No.32 )
日時: 2019/03/07 23:36
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: Ufl5elTc)

 辺りには、夜明けの音色が満ちていた。ひとつ、また一つと、微睡みの中からすうっと抜け出すものが現れ始めた。

――彼らは、なにを夢に見たのだろう。一晩経てば忘れてしまうものを、一晩過ごす間に忘れてしまうものを、儚いというらしい。極彩色の世界は、人魚姫の吐いたあぶくのように、ぽわっと弾けて消えてしまった。

 夜明けが過ぎさり、朝が訪れるまでは数時間。ほんの僅かな時だけれども、私はまだ夢を見ようと足掻いて、もがいている。
 けれども、気がついてしまった。
 窓から射し込む柔らかな光、カチャカチャと控えめに話す食器の音、ふつふつと煮える食事の匂い。

 目覚めは、ほんのすぐ先にあると。

 夢は醒める。永遠に続けばいいのにと願うほど、冷酷に。そして残酷に。
 だから、私は夢に綴る。さようなら、という言の葉を、忘れるために。


「おはよう」



*
 消えた夢は、またいつの日か見ることができるでしょう。夢の続きは、夢の中で。
 随分と幕を閉じるのが遅くなり、今更となってしまいましたが、
 お付き合い頂き、ありがとうございました。

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